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日本が勝利してたら、植民地はどうなった? ~仮定にもとづく未来像の検討~
東洋近現代史の授業の中でおもしろいテーマが出ました。ある論文※をよんで設問に答えるのですが、その一つが次のようなものでした。
「まったく無意味な仮定ではあるが、太平洋戦争がもっと長く続き、日本の勝利で終った場合、朝鮮・台湾はどのようになったであろうか。その可能性と限界について、想像力を発揮して、その未来図を自由に書きなさい。」
ということでそのテーマに挑戦してみました。
キーワードとして「兵役と参政権」「勝利の分け前」「朝鮮系日本軍人」の3つをおいてみました。
みなさんも考えてください。
※T.フジタニ「殺す権利、生かす権利:アジア・太平洋戦争下の日本人としての朝鮮人とアメリカ人としての日本人」『(岩波講座)アジア・太平洋戦争3:動員・抵抗・翼賛』(岩波書店、2006年)。
朝鮮・台湾への参政権付与が与える衝撃
徴兵制度と参政権
古代ギリシア・ローマ時代以来、「民主主義」は構成員の戦争への参加と貢献によって裾野を広げてきた。戦争で流した「血」は政治参加を主張する権利を弱者に与える。このことは、二つの世界大戦をきっかけに女性参政権などが拡大したことなどからも確認できる。
この原理は戦時体制下の日本でも貫徹する。アジア太平洋戦争の終盤の1945年、植民地出身者への兵役とくに徴兵制度(43年朝鮮で、44年台湾で実施)に対応する形で、植民地における参政権を認めた。貴族院では4月勅撰議員(実際は総督府の推薦)の枠で10名(朝鮮7名台湾3名)が選出された。1946(昭和21)年、植民地でも衆議院議員の選挙がおこなわれたはずであった※。内地の男子普通選挙とは違い、納税額十五円以上(これにより投票権を持つ者にしめる内地人の割合は朝鮮で23%、台湾で14%と一挙に高くなる)という制限があり、与えられる議席数も朝鮮23人、台湾5人少数であり、兵役や勤労動員などの義務に対応するものとは到底いえなかった。
しかし植民地への参政権は大きな波紋を呼ぶ可能性を持っていた。内地と異なる選挙制度はおかしいとの声が当然聞かれるはずだし、植民地の代表が参加した帝国議会の立法権は植民地に及ぶべきだし、帝国憲法など内地で実施されている法律の効力も植民地に拡大すべきだ。この法律制定に多くの疑義が出た。それを陸軍と政府が押し切った。
ひとたび成立した制度とバランスを取ろうとして変革をもとめる体制内的・合法的な運動が動き始めるのは必然である。「戦争が勝利に終わる」と仮定しているのであるから、これに「勝利の分け前」を求める声が加わり、植民地側の権利をより実質化しようとする運動が活性化されることは明らかである。
※なお、内地に居住する朝鮮人には選挙権が与えられており、朝鮮人の議員も存在している。以下引用
「1925年の内地における普通選挙法の施行により、25歳以上の内地居住朝鮮人男子にも選挙権が与えられ、1932年2月投票の第18回衆議院議員総選挙において東京第4区から無所属で出馬した朴春琴は、当選して1932年から1937年まで2期帝国議会衆議院議員を務めている。また貴族院については、1932年に朴泳孝(朝鮮中枢院副議長)、朴没後の1939年に後任として尹徳栄(同左)が議員に勅撰された。」(平山洋「日本支配下朝鮮人の参政権について」(電子書籍版)
参政権付与がもたらす諸問題
植民地への参政権付与がどのような矛盾が生じるか、どのような解決策が考えられるのか、そこから考えてみたい。
まず考えられるのが、選挙権を内地と同様にとの声である。おなじ帝国の「臣民」であるのに扱いが違いというのは「一視同仁」という建前に反するのではないかという声である。ただ、全く同じ権利・基準で選挙法を改正すれば衆議院議員の議員の1/3が植民地の議員になる…。
二つ目は帝国憲法とそれに規定された法秩序の植民地への適用であり、国内法の植民地での実施である。天皇大権の下、植民地総督の統治下のもと「制令」「律令」という形で実施されている植民地法制や裁判体系と、帝国憲法の立法権下の整備された内地の法制の間には大きな違い(「法域」)が存在していた。その差異をどう埋めるかという難問が存在した。この点は、参政権についての検討のなかでも論議され、総督政治は性質に応じ内地行政と一元化し内地の府県と大差ないようにするとの答弁がなされ、さらに制令・律令制定権の根本的改革および法域の撤廃も必然との見解も示された。
参政権問題を検討した岡本真希子は「単なる法改正ではなく法域撤廃・総督の委任立法権制限という植民地統治の根本的変革の契機となる問題であり、大日本帝国憲法体制を内地から外地へ敷衍するという意味を持つものであった」とし、このことを司法官僚は的確に認識していたと記す。
このように、参政権の付与によって総督府による専制的な統治は改められざるを得ない必然性をもっていたし、為政者の側でもそのことは理解していた。
しかし問題は、どのように、どのような手順で進められたかである。
植民地の特殊性~自治政府・自治議会へ
植民地法制の中には、日本統治の都合つまり住民弾圧や収奪のために置かれたものがある一方、当該地域の伝統や文化風習に規定されたものが併存・融合している。統治の側からも、住民の側からも、国内法を単純に拡大すればよいというものではない。
したがって、仮に帝国憲法とそれに規定された法制を植民地への適用するとしても、内地法の普遍的な部分と内地固有のものを切り分けていく必要がある。そして普遍的な部分を植民地へ適用するという事にならざるを得ない。
そこで、こうした作業をどのように行うかにかかわって三つめの解決策が必要となる。植民地の意見を集約する機関の設置である。具体的には、日本人植民者を含めて、植民地に居住する人々によって諮問機関を設立し意見を集約する作業である。そして植民地法制と帝国憲法下での法制のすりあわせ作業が必要となる。憲法や内地法のどの部分を共有化とし、どの部分を別立てにするか、双方の事情を判断し、合理的に切り分けする必要が生じる。憲法の普遍的な部分は植民地においても導入されるが、もし別立ての部分があるなら、その部分をフォローするための自治議会・自治政府の設立が求められることとなる。
さきにみたように議員の1/3を植民地議員が占めるということを避けるためには自治議会を設置し、そこから帝国議会へ代表を送る方が合理的である。こうした検討は植民地に住む人々の合意が必要であり、諮問機関は自治議会の性格を帯びざるを得ない。
「帝国」のありかたが変わる?
こうした手続きは最終的には憲法改正に結びつく。植民地への参政権付与は植民地のみならず「本国」たる内地のあり方も変更を余儀なくされた。法理論的には「国民法」から「帝国法」という法理念の変更ということになる。
ここまでの部分は、ある意味、参政権を認めた以上、必然的に提起されるべき課題である。だからといって、それをたやすく実現するとは思えない。そのことによるさらなる事態の紛糾はあきらかである。弥縫策がとられ、それが法的な欠陥をより拡大する。参政権を認めることで帝国支配の矛盾が表面化させる。それは「一視同仁」というイデオロギーの虚妄さを暴露し、帝国支配の矛盾を明示する…はずであった。自らの欺瞞性を暴露し、自らの統治に正義のないことを内外に明らかにし、対植民地にとどまらず、国内的な矛盾を高め、植民地における自治運動→独立運動といった民族運動を激化する、こうしたシナリオが想定しうると考える。
参政権にかかわる記述については岡本真希子「アジア・太平洋戦争末期における朝鮮人・台湾人参政権問題」(日本史研究401、1996.1)から多くを学んだ。
もちろん、I先生の講義から学んだことはいうまでもない。
具体的な展開の大胆予想
以下は課題のなかの想像力を発揮して自由に書いた部分であり、これまで以上に無責任な内容となっていることを了承しつつ読んでいただきたい。
自治拡大運動と「台湾」
具体的な展開を考えてみる。台湾においては一定の基盤を持つ自治議会獲得運動という下地があり、日本支配下で「民族」形成がなされたという事情もあり、親日的民族主義者=台湾人ブルジョワジー主導のもと、日本人地主などとも是々非々で結びながら、自治拡大運動をすこしずつ進めるというのがもっともありうるシナリオであろう。急速な独立運動の進行ないし中国大陸との合体という方向は想定しにくい。なぜなら、武装独立運動はほぼ壊滅したし、中国大陸への一体感は50年にわたる日本統治下で弱まっていたと考えられるから。(とはいえ、この時期、本国への憧れを持つ人も多かった。それが絶望に変わるのは国民政府の移転と不正の横行、さらに差別と弾圧のためだから)
参考となるのは、琉球処分以後の沖縄県である。しかし、台湾は沖縄とちがい、あきらかに人種・民族が異なる「外地」である。民俗・風習はさらに異なる。したがって、沖縄のように都道府県の一つとして位置づけることは困難であり、結局は自治議会をもち自治政府という方向にすすんだと思われる。参政権容認は自治権拡張という方向へ向かうと考えられる。
その後の展開については、見当がつかない。イギリスをモデルに考えるならば、スコットランドのような連合王国の一部となる形式か、旧南アフリカ連邦のような連邦内の自治領か、それとも海外領土にとどまるか。それともインド・アイルランドのような完全な独立か、ともあれ、台湾が現在のような「親日」国でないことだけは予想に難くない。
キーパーソンとしての「朴正熙」
朝鮮半島は明らかに違う展開が考えられる。アジア太平洋戦争の遂行と「勝利」、参政権承認の結果、新たな展開が生じるのは明らかである。そうした場合、キーを握る人物として考えられるのが日本軍における朝鮮人将校である。その典型が朴正熙である。以下、朴を例に考える。
没落両班の貧しい農家に生まれた朴は、師範学校に入学、その日本的な教育に強く反発する一方、そこで行われた軍事教練に心を奪われる。いったんは教師になったが、日本人視学官と対立して退職、師範学校の配属将校の紹介で「満州国」奉天軍官学校に入学、さらに優秀な生徒として日本の士官学校に移り、卒業後「日本人」高木正雄として満州国軍の陸軍中尉としてたたかう。朴は「革新派」将校の唱える「昭和維新」に心酔したとも言われる。朴と「日本」の関係は複雑であった。
ちなみに、大韓民国陸軍は朴のような日本の陸軍士官学校や満州国軍関係者、さらに志願兵や学徒出陣をへて日本軍としてたたかった軍人たちが中心となって創設されている。
日中戦争にはじまる総力戦の中、日本軍の中で朝鮮系の軍人が増加していき、その存在感も増しつつあった。想定は「戦争が続く」とあるので、志願兵のみならず徴兵された朝鮮人兵士が戦場で戦闘に従事する事態も発生する。そのなかでは、朝鮮人将校が日本軍のもとで朝鮮人部隊を率いてたたかうといった場面も想定される。※
※歴史的事実として、戦争が終わるまで、日本軍は外地人だけで編成された部隊はつくらなかった。外地人兵士は内地人部隊の中にばらばらに分散して組み込まれた。外地出身兵だけで部隊をつくれば、部隊まるごとが敵側に寝返るリスクが大きいとの警戒感があった。
しかし、こうした手法は、外地出身兵が特別志願兵だからこそ実現したのである。それは外地出身兵の人数が少なく、日本語リテラシーの高い兵士が比較的多数との条件下で実現していた。
ところが戦争末期になるとこうした方法はゆきづまる。内地兵の枯渇、体力さらには知的能力などに問題のあるものが増えた。朝鮮や台湾での徴兵制実施は、まだ元気な兵士されることで一挙に人数バランスがくずれ、逆転することもありうる。さらに徴兵で集められた外地兵は日本語リテラシーの不足も心配され、部隊内のコミュニケーションは困難となり、内地兵が圧倒される場面も想定される。
こうした中で、大量の外地兵を軍事組織に適合させ、日本軍の命令に従わせるためには、日本軍に従順で、外地のことばに熟達し、その気質や意識、文化風習に熟達した士官・下士官の存在が不可欠である。そう考えるなら、集められた外地兵はしだいにそれだけで部隊を編成する方向に進み、外地出身将校や下士官を間に入れた部隊編成とならざるをえないと考える。そして軍事行動を通じての私的な上下関係も形成されていく
今回の問題が想定するように、戦争に「勝利」するというのだから、それは外地出身兵の活躍なしには考えられない。こうした理由から、戦後には、かれらを影響下におく朝鮮人将校・下士官の影響力が増すと想定した。
こうした「戦争中の実績」を背景に朴らが台頭していくことが考えられる。戦争後も植民地支配をつづけるには、独立運動や左右の民族運動にたいする懐柔と抑圧・「暴力の行使」などの手段が必要となる。そうした際に、大きな力を発揮するのが、「高木正雄」=朴正熙のような人物である。彼らは「二つの名前」を使い分けるようにして日本の植民地支配を支える。一方で日本人地主や日本資本、さらに親日派地主・官僚・ブルジョワジーなど旧支配層の利権をまもり、他方で民族主義者のポーズもとる。日本側と交渉し、先に見たような選挙権拡大、憲法の朝鮮への選択的適用、自治議会の設置という「わけまえ」を要求し、さらなる自治権の拡大も求める。
左右の民族主義と対峙し自らの権力と権力基盤を維持し、親日派地主ら権力基盤も維持するため、日本との正面きっての対決はさけられる。
こうした政治は次第に強権政治とならざるをえず、どこかの段階で独立への舵をきる可能性も持つ。
1961年のクーデタで政権を獲得した朴正熙が実際にすすめた政治は、彼が学び、たたかった「満州国」がモデルであったとの指摘がある。日本の植民地統治がつづき、そこで彼が権力に近づいたとすれば、朝鮮植民地は、日本人と朝鮮人からなる強力な軍の統治下に、五族協和ならぬ日朝協和の植民地「朝鮮国」となる。そこで「開発主義」の手法に基づく近代化政策が本格化するという未来像が見えてきそうである。しかし「満州国」がそうであり、朴がつくりあげた軍事政権がそうであったように、強権的な政治と日本の収奪のもとで長続きするものとは考えられない。実際の歴史が示したような民主化運動の高まりの前に完全独立が実現せざるを得ない。そのように考えてみた。
朴正熙についての記述は、池東旭「韓国大統領列伝」「韓国の族閥・軍閥・財閥」木村幹「韓国現代史」(いずれも中公新書)文京洙「韓国現代史」(岩波新書)などを参照した。
国民国家「日本」の多民族国家化
最後に、「日本」への影響を考えたい。
戦争への参加と「勝利」、また参政権の付与は「植民地」に住む人々とそこの出身者の「内部化」=日本人化を促進する。それは、日本側が与えおしつけた「皇民化」ではなく、植民地の人々が権利として勝ち取った「日本人」化である。そのなかで「粗暴な人種主義」は潜在化し、それまでの「帝国」の建前は実質的な権利の性格を帯びる。そして「国民共同体」の一員として位置づけざるを得ない状態を産み出す。
現在、EU諸国などでは、旧植民地出身の国民が増加し、多民族化がすすんでいる。かれらは旧宗主国において、「権利」としてその国民となっている。
ひるがえって、実際の日本はどうであったか。戦前から多くの植民地出身者が日本にやって来た。戦時下にはさまざまな手法での「強制」連行も行われた。日本政府は植民地の人々に「日本国籍」を与え、「一視同仁」といいつつも、あきらかな分断支配のもとにおいた。渡航は「超法規的」に制限され、植民地は帝国憲法とそれにもとづく法秩序とは別の「法域」として位置づけられ、総督府による専制支配下におかれた。本土に渡航してきたものも、きびしい差別と貧困の中に置かれ続けた。
こうした状況を背景として、敗戦後の日本政府は朝鮮系住民から「日本国籍」をあっさりと剥奪した。このようなものだったからこそ、朝鮮系住民の多くもこうした「日本国籍」を放棄し、朝鮮人・韓国人として自己認識したのである。日本が彼らを切り捨てたと同様に、かれらもあっさりと「日本を捨てた」。そして、その自己認識は現在にも引き継がれる。
もし仮定のように「勝利の分け前」を受け取り、帝国議会の参政権を獲得し、内地と同様の法律下に暮らし政治的・社会的権利を拡大させていけばどうであろうか。渡航の制限が、いっそう緩和されればどうだったであろうか。国家に、社会に、能動的なかかわりを増すことが「国民」としての自覚を拡大させる。国民国家の中に帝国を吸収せざるを得なくなり、国民国家の多民族化を促進する。そうした場合に、敗戦後、日本政府が行ったかのような一方的な「日本国籍剥奪」という手法は通用したであろうか。
どこかの段階で両「植民地」はなんらかの形の独立を達成するであろうが、内地に住む植民地系の人々は多様な選択を選んだであろうことが考えられる。こうして国民国家日本ではEU諸国などに見られるような多民族化が進んでいたと考えられる。
注:この文章は、「まったく無意味な仮定ではあるが、太平洋戦争がもっと長く続き、日本の勝利で終った場合、朝鮮・台湾はどのようになったであろうか。その可能性と限界について、想像力を発揮して、その未来図を自由に書きなさい。」とのテーマにもとづいて記した文章で、「無意味な仮定」です。しかし、これを考えることで、日本の植民地支配や韓国の軍事独裁の意味などについて考える参考になるとかんがえる事が出来たと思います。そのことをご理解くださるようお願いします。