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日露戦争でも「軍夫」募集を請負いたい。~一枚の「軍夫供給願」から~
提出された軍夫供給「願」
日露戦争開戦が一週間後にせまった明治37年2月1日、陸軍省は東京在住の福井県士族・牧野逸馬から人夫供給「願」(③)をうけとった。同様な要望は法人・個人あわせて29件(①)におよぶ。
ここにいう人夫とは「軍夫」「軍役夫」とよばれる軍属のことである。
日清・日露戦争当時、日本軍は急速な軍備拡張により戦備は整いつつあったが、整備がおくれていたのが「輜重(しちょう)」つまり弾薬や物資の輸送手段の整備であった。こうした役割は西洋などでは馬などをもちいるのが一般的であるが「明治期の日本陸軍の最大の弱点は軍馬の不足と不良であった。」そのため「馬の代わりに兵士が徒歩車両を引いたり、背負子を背負って運ぶ」こともあった。ちなみに、荷物を駄馬または馬車で荷物を運ぶ兵士を輜重兵(しちょうへい)とよび、徒歩で運んだのが輜重輸卒(しちょうゆそつ)とよぶ。しかし日清戦争段階で、馬はもちろん「訓練済みの輜重輸卒もすくなかったので、戦争が始まると民間人を臨時の軍属である軍夫として一時雇用して、駄馬と輜重輸卒の不足に対応した。」このため、日清戦争では軍夫が大量に雇用された。(大谷14)
「過渡期の日本軍の補給業務を担当した臨時雇いの軍属」であり、本来なら軍馬が担うべき仕事を馬よりも安価で雇用できる軍夫に代替させたものであり、日清戦争には十数万人が従事し、7~8千人が死亡(おもに病死)したと思われる。多くの場面で雇用と管理は「軍出入りの請負業者が担当」し、「小頭など末端の実務者の多くは博徒(ばくと)」であったとされる。(大谷06)
牧野は日清戦争時、名古屋の第三師団に数千人の人夫を供給したという。日露開戦となれば、自分たちに軍夫の請負を任せてほしいというのが、牧野の要望であった。
軍夫募集を請け負った「代言人」
牧野逸馬は嘉永元(1848)年生まれ、衆議院議員を二期つとめ、目下三期目の選挙期間であり、実際にも当選したという福井のリーダーの一人である。
若くして戊辰戦争に従軍、戦功により20年間の賞典を受け取る。その後代言人(だいげんにん・弁護士)資格を得る。(明治26年には弁護士)となる。明治21年の北陸鉄道会社設立に対しては、発起人・株主にも名を連ねる。
牧野がどうした流れで「人夫供給業」にかかわったのか、どういうシステムで「人夫」たちを集めたのか、提出された「履歴書」(⑤)から軍夫請負とかかわりのある事項はみつけにくい。あえていえば、日清戦争勃発直前の明治二七年「六月福井消防組組頭拝命」である。
ちなみに「消防組」は江戸時代以来の町火消の制度をもとに、各府県が独自に設けていた公設・私設の雑多な消防組を1894年2月10日付勅令第15号で統一したもので、以後、消防組は市町村を単位として設置され,費用も市町村が負担するようになった。ちなみに組頭ー小頭ー消防夫からなっている。
牧野は、新しい制度発足とともにその組頭となったことになる。こうしたなかで火消人足の関係者と関係をもち、そうしたなかで人夫派遣のルートが生まれたことも考えられる。
「義勇兵」運動のリーダーとなった旧藩校教授
もう一つの提出書類「証明願」(⑥)には注目すべき人物名が現れる。田川乙作という人物である。田川は福井藩校明道館の教授を務め、維新後は交同社という活版印刷会社や牛乳の販売に携わり、貸金業も営んでいたようである。第一次福井新聞の発刊の発起人であり、印刷も交同社が請け負った。交同社の株主は118人で秩禄処分の資金を集め士族勢力の中心であったと考えられ、自由民権運動との関係もあったと思われ、(「市史」「県史」)牧野とも古くから関係を持っていたと考え得る。
日清戦争がはじまると、田川は、義勇兵としての従軍を許されなかった報国会員百六十余を足羽河原で集めて総会とし気勢を上げる。従軍再願署名者は七日には三百人を超え、自費で無報酬の人夫でもよい、と訴える者まで現れた。(「市史」)田川は義勇兵運動の中心にいた。
義勇兵運動とは「自発的な戦争参加・協力運動として、戦争直前の1894年6月下旬から全国各地で」発生した。これについて大谷正の説明を聞くことにする。
義勇兵とは、民間人による非正規の軍隊を組織して、民衆自らが対清戦争に参加させようとする動きである。(中略)
日清戦争時に、義勇兵を組織しようとしたのは、旧士族層が結集した集団、剣道場を中心とする国粋主義的な剣客集団、民権派、侠客(博徒)などであり、それらが重なり合った義勇兵組織もあった。(大谷14 P184)
田川のもとで足羽河原に集まり総会を開いた「報国会員」はこうした人々であったと考えられる。しかし「徴兵制による正規軍を整備してきた政府」の立場からするとこの動きは逆行である。8月7日、政府は「義勇兵に関する詔勅」をだしてこうした運動を禁止した。しかし「市史」にみられるように「自費で無報酬の人夫でもよい」との声もあがる。
他方、日本陸軍の構造上の問題からくる輜重輸卒の不足は軍夫を大量に必要としていた。したがって軍の各師団は何らかの形で軍夫募集の必要があった。そこで軍出入りの業者をつうじての募集と並行して郡市単位で役場を通じての募集も行った。こうした募集と先に見たような義勇兵運動が結びついた。
再び、大谷の説明を聞く。主に記されるのは東北地方の例である。
大都市のない東北地方では、短期間に多数の労働力を集める手段がなく、そのため、義勇兵運動を展開した団体や、それとは関係のない軍事支援団体(…)と行政側が協力関係を持ちつつ軍夫募集が行われた。そして、「千人長」「百人長」とよばれた軍夫集団のリーダーには、県庁職員や義勇兵運動・軍事支援団体の関係者が就任した。(中略)
義勇兵運動が軍夫送出に変化した事例は東北以外でも見られる。たとえば、全国でも最も強力な自由党の地域組織であった神奈川県青年会が義勇兵運動を展開し、義勇兵停止の詔勅が出た後は、軍夫送出に転換した(中略)各地で辞令を掘り起こせばこのような辞令はけっして稀ではないだろう。(大谷14 P183~184)
牧野と田川の日清戦争における「人夫供給業」もこうした一環と考えるのが妥当であろう。福井藩時代以来の「士族」のリーダーで民権運動とも関わりのあった人物と、おなじく士族出身で代言人をつとめる地域の有力者が組んで軍夫送出をすすめたと考えられる。
しかし牧野と田川がどのように軍夫を組織したのか確たる史料をみることはできなかった。田川の下にいた士族中心の「報国会」が中心とおもわれるが、「消防組」などを通して関係をもった可能性のある「組織」との関係はどうか、行政のダミー組織(下請け)なのか、残念ながら知ることはできなかった。活動の証明を福井市長に依頼したことから、県や市との関与も考えられる。しかし「県史」「市史」ともに軍夫については一切触れていない。
問題をおこす軍夫と「篤実温厚」な軍夫
かれらが軍夫の請負をおこなった第三師団の軍夫はとくに問題が多かった。
開戦直後に朝鮮に派遣された第三師団は、当初は郡市単位で軍夫募集をはじめたが、すぐに大倉組など軍指定の4組の請負業者にゆだねる(池山)。それをうけて博徒の親分が手下と人夫を引き連れて名古屋入りしたとの記事もある。風紀上も問題が多く、さらに請負業者による軍夫の給与のピンはね、それに怒った軍夫の暴動などがおこり、軍夫の一部も行くさきざきでの不祥事をおこす。戦場など外地での「掠奪強姦」などの事件も多く「請負人の手にて招集されたる破落漢(ならずもの)の集合体」(奥羽日日新聞)と揶揄されるにいたる。誇張された面もあるが、軍夫のなかにはこうした傾向があったとおもわれる。(大谷06)
こうした軍夫の「非行」は1900年の義和団出兵においても各国の眼前で繰り返される。(大谷04)
さらに軍夫への志願者には別の目的があるものがいた。池山は名古屋市の軍役夫志願者のなかに「徴兵検査忌避・徴集忌避・家制度維持等を意図した」ものがいたことも明らかにした。
しかし池山の論文の中に、同じ第三師団関係であっても、こうした「非行とは異なる姿をみせる石川・福井から来た軍夫のことを記している。
役夫千円の保険を申し込む。此程中石川福井両県下より募り、名古屋下茶屋町別院に止宿中なる軍用役夫は以前の下等人足とは事違ひ余程上流の人も交り居り仮令ば郡長の古手神官などもある様子なるが其一人此頃同町に生命保険申込処の看板を懸け居る伊勢屋と云ふへ行き千円の保険を申込みたるに是迄斯る大金の申込を取扱ひし事なきも兎に角御案内致さんとて(後略)
かれらが牧野等が「供給」した人夫なのか、別のルートで参加したものかは不明である。しかし牧野の「誠実ニ御用ヲ完了セン」という一節は、他の軍夫と一線を画したとの自負があるようにも見える。
日露戦争における軍役夫と輜重輸卒
日露戦争では輜重の問題が急速に改善したとはいえず、やはり軍夫は用いられる。しかしそれは牧野の期待に添う内容でなかった。総数は日清戦争の10%程度と激減、軍夫が担った仕事は大量に動員された補助輜重輸卒によって代替された。輜重兵と輜重輸卒の合計は26万4千人に達し、軍夫は1万人強となる。(原田)
須藤は切り替えの背景に日清戦争で表面化した軍夫制の問題点をあげている。そこでは、①補助輸卒の整備②兵役関係者のため(徴兵猶予目当て・他人名義人の混入など)③軍役夫利用のリスク④経費節減⑤軍役夫の多様性があげられ、日露戦争ではこうした問題点を徴兵の強化によって置き換えたといえる。
藤岡は、日露戦争時にとどいた軍夫募集願を「利益追求型」「愛国心型」「貧民救済型」に分類、軍夫が出稼ぎ労働の場、貧民層の雇用の場、移民事業を促進する場であり、日比谷焼打事件など都市騒擾との共通性を指摘した。
牧野がどうした「型」にあてはまるのか「願」からは読み取れない。しかし、日露戦争ではこうしたグループを切り離し、徴兵制度の枠内に軍夫の仕事も組み込もうとした。こうして徴兵の対象者も増加し、兵士としてかつて軍夫が担った仕事に従事する。軍夫のありようは兵卒として集められた輜重輸卒にもちこまれる。輜重輸卒は「現役は3ヶ月限定、地位は二等卒の下、一等卒や上等兵への進級もなし」という地位であり、「徴兵検査で甲種合格になるような立派な壮丁ではなく、乙種とか丙種の補充兵役から」召集され「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョウトンボも鳥のうち」という俗謡で知られるような状態でありつづける。
軍夫は国内募集だけではない!
しかし、日露戦争における軍夫採用の減少は、国内募集の軍夫にのみいえることである。実は大量の軍夫などの人夫を大量に確保する道を日本軍は手に入れていた。1904年2月、日本は中立を表明していた韓国政府に日韓議定書を強要、軍用地・鉄道用地とともに軍役夫を徴収する権利を獲得した。これにもとづき、「強制連行の原型」ともいえるような形で軍役夫が徴用され、強制労働が韓国各地で強要された(趙)。これが国内募集の軍夫を減らした背景とも考えられる。
議定書に基づき、役夫が大量に用いられたのが戦争と並行して行われた鉄道建設である。軍夫供給を希望した業者の中には「移民」の名を冠するものもある(①)。趙の著書には軍隊とともに入り込んできた小商人・人夫たちの傍若無人ぶりが紹介されており、日清戦争の軍夫との共通性も考え得る。「人夫供給願」をだした業者は軍夫請負としては採用されなくとも「鉄道建設」などにかかわり、軍夫希望者たちもそこで役夫の監督や食糧・物資供給を担ったように思われる。
こうした小商人や人夫出身者は、うだつの上がらない国内に戻らず、韓国各地にのこり在朝内地人として日本帝国の植民地支配をささえていくこととなった。
<参考文献>
「人夫供給願 東京牧野逸馬」防衛省防衛研究所「明治37・8年戦役に関する満受書類 補遺 陸軍省 四冊の内弐」JACAR Ref.C06040094800 テキストはこちらから
福井市『福井市史通史編3』2004年(「市史」と表記)福井県『福井県史通史編5』1994年(「県史」と表記)
大谷正『日清戦争』(岩波書店2014)
大谷正『兵士と軍夫の日清戦争』(有志舎2006)
大谷正「義和団出兵/日露戦争の地政学」(『日露戦争スタディーズ』紀伊國屋書店2004)
原田敬一『国民軍の神話』(吉川弘文館2001)
趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波書店2012)
藤岡佑紀「日露戦争の軍役夫」(「駿台史学」第161号2017 9月)
須藤遼「日露戦争期軍役夫制度の設計と運用」(三田史学会『史学』2017.3)
池山弘「愛知県に於ける日清戦争従軍の軍役夫」(「四日市大学論集」第18巻1号2005)
“消防組”, 世界大百科事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge-com.blib-ezproxy.bukkyo-u.ac.jp , (参照 2018-07-19)