稲作に関わる数字と仕事


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農業史にかかわる基礎知識のまとめ(1) ~稲作に関わる数字と仕事など

 

農業史を理解するための前提条件についてまとめておきたい。
その際、単位の違い、数字の動きとその意味、それがどのように実現されたか。近世と現代の数字をつきあわすことで、いろいろな歴史上の出来事の意味と課題に迫ることができるのではないかと考えた。

量を計る単位「石」「斗」「升」「合」

まず、米にかかわる単位である。これは、現在の電気釜などでも、三合炊きとか、一升炊きとかいって日常的に用いられるし、日本酒などでも一升瓶などということばもあり、まだ身近な方だ。

かつて用いられた単位 浜島書店「新詳日本史」P21

ちなみに

1合は180ミリリットル、一升は1.8リットル

ここで見られるように量の単位は十進法である。升の上は斗、斗の上は石となる。ある程度、親しみがある単位ばかりかも知れない。
整理すると、次のようになる。

1石=10斗、1斗=10升、1升=10合、1合=10勺
  (1石=10斗=100升=1000合=10000勺)

ちなみに最近使う1CUPは200ミリリットル

しかし、現在、米は、量の単位ではなく重さの単位で扱われる。
標準の袋は五キログラム入りで、少人数の家では2キログラム入りがよく買われる。
米の量と重さについては、次のような式が使われる。

  1合(180㎖)=150g
  1升(1.8リットル)=1.5kg 
体積×0.83・・  重量×1.2)の式で換算できる

今までの内容を整理すると次のようになる。

1石(こく) =180ℓ  =0.18㎥=150Kg
 1斗(と)  = 18ℓ  =15Kg
 1升(しょう)=1800㎖ =1.8ℓ
        = 1.5Kg   =1500g

 1合(ごう)     =180㎖  =0.15Kg=150g

その下の単位は1勺(しゃく)で1合の1/10

玄米と白米

これで、話がついたかと思うと、そう簡単ではない。スーパーなどで売っているのは白米で、農家が出荷するのは玄米。
玄米から 米糠(こめぬか)と胚芽(はいが)を取り除く作業(精米)を経たものが白米である。

台唐(だいから)、足踏み式の精米機(神谷小学校HP「米づくりの様子」より)

戦前のテレビなどで、昔の人が瓶の中に米を入れて、棒でついているシーンがある。あれは精米をしていることを示すもので、あの瓶が一升瓶である。このやり方であとの籾摺りも可能だが、実際やってみると、効率が悪いようだ。さらに質の悪い瓶の場合は底が抜けるといった悲劇も起こる。
玄米と白米を数量的に見てみる。

玄米100gには米糠が5~6g 胚芽2~3gが含まれる

玄米の白米部分は93~91%なので、精米によって約92%に、重量比8%目減りする。

だから

 玄米1石は150㎏は白米で150×0.92=138㎏
 一般消費者が買う1升1.5㎏の白米は、
 玄米ベースで1.5÷0.92=1.63㎏

ちなみに、酒造の際は不純物を取り除くためさらに精米をする。最高級の場合、50%程度まで削る。CMなどで「精米歩合50%」というのは玄米の50%にまで削り、純度の高いデンプンのみを使用するということである。

「1俵」にはどれだけの米が入る?

話を進めよう。現在は米は茶色い丈夫な紙袋(米袋)に入れて運ぶ。一袋に30kg(2斗)の米がはいる。

俵に詰める作業・後ろには「千石とおし」がみえる。(神谷小学校HP「米づくりの様子」より)

かつては藁(わら)で編んだ米俵に入れて運んでいた。あれにはどのくらいの米が入るのか。
平安時代は5斗(75kg)とされていたが、江戸時代になると減っていく。地域や時期のよってかなりまちまちであった。
少ないところで2斗から多いところで4斗が多く、幕領での基準は3.5斗。江戸時代は米俵に入れて年貢として納め、米俵に入れ、保存した。なお明治末以降、1俵=4斗(60kg)と定義される。現在でも一俵は60Kgだ。
ということで、以下のようになる。

1俵=2斗(30Kg)~4斗(60Kg)

 江戸の標準は3.5斗(52.5Kg)現在は4斗(60Kg)

  なお、年貢米は役人が、とがった竹を俵の間に差し込んで、サンプルを取り出す品質検査をおこなったので、その分量が目減りする。その分だけ多く米を入れておく必要もあった。(この抜き取り分が検査担当の武士などの収入となる)

籾摺り~籾と玄米の割合は

米は籾殻(もみがら)に玄米が包まれた形で収穫される。

籾殻と玄米を分離する作業が籾摺り(もみすり)と呼ばれる作業。
 昭和のはじめごろ。籾摺り機という機械が導入されたが、それまでは土臼(どうす・つちうす)という機械を使っておこなうことが多かった。ぎざぎざの板に籾を押しつけ、その摩擦で籾殻と玄米に分離する原理。数人がかりで少しずつ籾摺りをした。土臼は桶のような形状で、見た目が地味なのであまりメジャーでなく、あまり教科書にはでてこない。

銅鐸に描かれた籾摺り

江戸時代、唐箕など同時期に中国から伝わった。それ以前は、臼(うす・くぼみが作られた)に籾をいれて突き棒でつくという方法などがあったが、効率は悪かったようだ。弥生時代の銅鐸にもその様子が描かれる。

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唐箕「ますます日記」さんのブログより)

こうして籾摺りされ、混ざり合った籾殻と玄米を分ける道具が唐箕(とうみ)。中国から導入され、教科書には必ず載っている。人力の扇風機を使って籾殻などを吹き飛ばすという原理。比重の重いものはすぐ下に落ち、軽いものは飛ばされる。玄米、籾摺りに失敗した籾や割れ米・未成熟の米などと、籾殻・藁くずなどを分けることができる。
おなじような用途に用いられたのが千石とおし(万石とおし)。やはり中国由来の道具。未分離の玄米など傾斜したふるいの上から流しこみ、玄米と籾、玄米とくず米を分別する。そのさい、どのくらいの傾斜角にするかが熟練の技だった。
こうして籾の中から玄米が取り出される。籾に占める籾殻と玄米の割合はざっと以下のとおり。

 体積比で両者は50%、籾殻:玄米=1:1 
   20石の籾から10石の玄米がとれる計算
 重量比では80% 籾殻:玄米=1:4 
   150kg(1石)の玄米を穫るには187.5キロの籾が必要

  1石の玄米のためためには2石の籾が必要となり、1石の玄米が9斗強の白米となる。

稲刈りと検見法・定免法

稲刈りから籾摺りに至る過程も整理する。
愛知県の春日井市立神谷小学校のHPに「米づくりの様子」という記事を書いておられる。(http://www.kasugai.ed.jp/kamiya-e/mukasinokurasi/komedukuri/komedukuri.htm)かつての農具、写真や図版、イラストなどをもちい、かゆいところに手が届くようなすばらしい内容であり、屋上屋を重ねる内容になるが、同ページの画像も利用させて戴きながら、すこし説明をすすめたい。
稲刈りは現在コンバインで行われ、乾燥機も用いられる。ここでは伝統的なやり方を記す。

刈り春日井市立神谷小学校HPより

 稲刈りは、実った稲を株の根元から鎌で刈り取り、数株ごとにまとめて根元で藁で束ねる。これを切り目を上にして、稲木(いなき)・稲架(はさ)といった棒でつくったものにかけて、約一週間くらい天日で乾燥する。(稲木用の木が植えられているところもある)

一定の広さの田から、何束の稲がとれるか、その一束の稲に何粒の籾がついているか、その籾が十分に熟し好評価を得られるか質はどうかなど、農民にとって興味の中心だ。これを作柄という。

十分乾燥させた籾を茎(藁)から取り外す作業脱穀である。

こき箸(神谷小学校HPより)

江戸初期まではこき箸という箸状の器具で穂の先から一本一本、籾を取り外していたが、一挙にたくさんの穂から籾を外す千歯扱き(せんばこき)が元禄期に導入され、一気に効率化が進んだ。かつて、この作業は収入の得にくい未亡人(「後家」)たちのバイトであり、その仕事を奪ったということで「後家倒し」といわれた。

千歯扱き(神谷小学校HP)より)

脱穀によって籾を取り除いたものが稲わらであり、わら縄や俵の原料となったり、畳や建築材料となったり、牛馬のえさや肥料となったりと、あらゆる場面で人々の暮らしに欠くことのできないものであった。
籾は、すでに見たように籾摺りで籾殻を外して玄米とし、精米で白米とする。
ちなみに、蕎麦やアワといった雑穀の場合はむしろの上でたたくことで脱穀させる。表紙画参照)

畝引検見と有毛検見

江戸時代の話に戻る。作柄が悪い(不作)のもかかわらず、平年並みの年貢がかかれば、農民の生活は成り立たない。苛斂誅求はそのときはうまくいっても、農民を疲弊させ、様々な反発を招き、結局は支配を揺るがせる。これを避ける手段が検見だ。

検見における坪刈りの様子「徳川幕府県治要略」から(コトバンク「坪刈り」より

毎年役人がやってきて、「百姓」たちの要望を聞き、村人立ち会いの下で調査し、年貢減免率を決める。具体的には、全体の稲の生え方や災害などでの被害状況を確認し、全体の生育状況を確認する。さらに作物が実ると、石盛(上田・中田・下田など)ごとにそれぞれ数カ所を選び、サンプルとして一坪分の稲を刈り、その籾数を調べ、さらに脱穀・籾摺りをおこなって籾の生育状態を調べる。こうした調査にしたがって年貢を減免する。こうした作業が毎年行う。かつての石盛にしたがって減免するやり方を畝引検見(せびきけみ)という。ちなみに、豊作の場合の年貢増徴はない。だから豊作は農民にとっては財産形成のチャンスでもあった。実際には、無理な目標を示しておきながら「お上のお慈悲で減免する」という姿勢をとったとの性格を持つ。
秀吉政権や江戸初期に定められた石盛は長く維持された。しかし、生産力の発展によって「下田」は「上田」に、かつての「上田」の収量は伸びないといった事態が続く。しだいに石盛は実態に合わなくなった。そこで、個々の田の石盛を無視して全体としての村高を示し、それにしたがって検見を行うやり方が導入された。これを有毛検見(ありげけみ)という。これに移行する際、年貢額を増やそうという傾向があったため、農民との緊張状態となることもあった。

定免法は農民いじめだったのか

検見法と定免法(帝国書院「図録日本史総覧」P180)

検見はなかなか面倒である。というのは検見の役人が来ると接待攻勢に多額の費用が必要となること。また検見が終わるまで農作業はストップするという問題もあった。したがって、数年間の平均をだすことで、毎年の検見を実施しないというやり方が導入された。これが定免法(じょうめんほう)である。実態として、年貢額が上がることも多く、領主に都合のよい制度であったという説が多いが、農民からすれば、接待にかかる費用が減り、農繁期の作業日程に余裕ができること、そして年貢額が固定化し生産力増加分がそのまま自分の手に入るといったことから農民に歓迎されたとの指摘もある。

田畑の単位は「町」「反」「歩」「坪」

次には広さの単位を見ていく。

1町(歩)=10反 1反=300歩*(1歩=1坪=京間2畳)

*太閤検地以前は1反=360歩

直感的に理解するためには、次のように考える。
100メートル四方が1町、
   1町の1/10(100m×10m)が1反
   3.3m四方が1歩(1坪)

1町≒1ヘクタール(㏊)==100a(アール)=10000㎡
(=10反=100畝=3000歩)
1反=10a(アール)=0.1町=10畝=300歩
1畝≒0.1反=1アール=100㎡=10m×10m(=0.01町=0.1反=30歩)
1歩=1坪=3.3㎡

農業生産力の発展は二方向で発展する

   山川出版社「詳説日本史図録」P161

一般に江戸時代は農業生産力が向上したといわれる。しかし、前半と後半では、その内容が大きく異なっている
右のグラフをみてほしい。左側のグラフは全国の田畑面積の変化を示し、右側は石高、つまり米に換算した農業生産高の変化を示している。石高のグラフを見ると傾きは違うものの右肩上がりで上昇しており、江戸期全体を通しての農業生産力の上昇を示している。
ところが田畑面積のグラフを見ると、かなり違った様相を示す。江戸前期の約100年強で田畑の面積は2倍に増えているのに、江戸中~後期をしめす約150年の増加はきわめて少ない。

このことから、農業生産力というのは田畑の面積の拡大による増加と、一枚ごとの田畑でより多くの作物が穫れるようになる単位面積あたりの収穫の増加という二つの生産力の拡大が存在する。
後者は、生産高を田畑面積で割ることで得られる。よく用いられるのが一反(≒10a)当りの収量(「反当収量」である。
上の数字をもとに各時期の反当収量を計算してみる。すると江戸初期1町(≒1ha)あたりの収穫高は11.3石、1反(≒10a)あたりでは1.13石、江戸時代が終わった1873~74年は1町あたり10.5石、反当収量は1.05石、このように減少している。
中間点について、20~50年のズレがあるが2本目のグラフで計算する。すると、1町あたり8.7石、反当収量は0.87石と大幅に減少していることを示す。
こうした数字を整理して並べ、傾向を矢印でしるす。

時期田畑面積(万町歩)反当収量
(石)
全体の収量
(万石)
江戸初期17c初163.51.131851
江戸中期18c前297 ↑0.87↓2588↑
江戸末期19c中305 →1.05↑3201↑

 江戸時代前半、反当収量は減少したものの田畑面積が倍増に近い伸びをしましたため全体の収量が大幅に増加し、後半になると田畑面積の拡大はストップするが、反当収量が増えた分で、全体の収量は増加する。

新田開発と石高の増加(帝国書院「図録日本史総覧」P162)

前半の生産力の上昇は新田開発が進んだためであり、後半の生産力の上昇は一枚一枚の田畑へ手間をかけ収量を増やしたためであり、前半は領主などが主導する大規模開発で、後半は一人一人の農民の努力のたまものともいえる。一般的には、前半の増加を粗放化、後半の増加を集約化として捉えことができる。

関ヶ原のころの生産性が、明治初年より高い?

 こうした傾向はいいとしても、関ヶ原の戦いのころの反当収量が、二七〇年後の明治初年より本当に高いのか。こうした数字が江戸時代は停滞した時代であり、百姓の生活は窮乏していたという根拠となっている。前に記した田中圭一氏などが厳しい批判をしているのは、こうした数字のマジックに対してである。いくつかの論点については、別稿で示した。次の稿では、さらにこのグラフで示されたような数字の妥当性を問うてみようと考えている。
そのための手法として、今回用いたマクロな手法とは逆にミクロの方法から推計をする方法について学びたいと思っている。いくつかの地域に、検見法で記した「坪刈り」の結果についての記録が残っている。その研究に学びながら、実態に応じた生産力にせまりたいと考えている。

 

 

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