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フィリピンの戦跡をめぐりかんがえたこと(2)
フィリピン・幸せの島 サマール
素敵なドライバーたち
3日目の朝4時半すぎ、友人を家から出発しました。9時のフェリーに乗りたいからです。いっしょにいったのは合計6名。ドライバーが二人、友人夫妻と私、それに数日前から友人宅に遊びに来ていた夫人の従姉妹のマテットさんです。彼女は「荷物と同居」という条件でいっしょにいくことになりました。
こうして、レイテ旅行がはじます。まだ真っ暗な中を車はルソン島最南端のマトノグに向かってすすみます。ドライバーの一人は会う人ごとに「ハッピーバレンタイン!」と話しかける快活なジェフ。(ちょうどバレンタインデーでした)何度もレイテにいったこともあるそうです。かつては海外航路の船員をしていました。携帯を二台持ち、いろいろなところに電話をし、かかってきます。もう一人はその学校時代の友人でやや大人しいが誠実なボッグス。二人ともナイスガイです。
かれらはいろいろと話をしてくれました。大部分は馬鹿話で、数分おきに車中に笑い声が響きました。私も友人もタガログ語はもとより、英語も苦手という人間です。話の大半は分かりません。しかし、友人も負けていません。「港ごとに彼女がいるのだろう」「第○夫人からの電話か?」などと冷やかします。
とはいえ、友人が聞き取れたのは、ジェフの父親はフィリピン軍(米比軍)ゲリラとして日本軍とたたかい、ボッグスも祖父がゲリラ(フィリピンの抗日ゲリラはいくつかのグループがあり、彼の祖父はフィリピン軍ではなかったのでしょう)として日本軍とたたかい殺されたということでした。二人とも近親者がゲリラに属していたということは、日本軍への抵抗の拡がりを示しています。
戦艦大和が越えた海峡
約三時間半のドライブを経て、フェリーの出航するマトノグに到着しました。分かったような分からないような手続きでしたが、ドライバーのジェフはテキパキと仕事を片付け、ローカル色満載の店で朝食をとりました。
このマトノグからサマール島のアレンまでがフェリーで一時間。渡ったのがサン・ベルナルディノ海峡。
一部の人はご存じかもしれませんね。レイテ沖海戦に際し、戦艦大和などを擁した連合艦隊がレイテ湾をめざして越えていった海峡です。(ちなみにこの時点で武蔵は沈んでいます。)
地図を見ると島などもあってさらに狭い部分があり、よくこんな所を通れたなと思えるような海峡です。そしてこの海峡を越え、サマール島の東側の沖でサマール沖海戦を戦いました。ところが、司令官の栗田健男は命じられたレイテ湾突入を避け、謎の反転回頭を命じ、再びこの海峡を通ってブルネイ泊地に戻ります。なぜ反転回頭したのか?もし艦隊がレイテ湾に突入していれば?昔から議論の的です。
この海峡はこのような因縁の場所です。
友人は「この海峡を一度渡ってみたかった」といっていました。意外と軍国少年だったのかな?
室内にいたのですが、やはり甲板から見てみようと思い、上に上がると立っていられない位の風でした。
フィリピンでもっとも貧しい島・サマール
ちょうど一時間でサマール島のアレンに到着、さっそく車は西海岸を南下していきます。サマール島はフィリピンで3番目の大きさの島です。ワライワライ語という独自の言葉をもち、他の地域と違う独特な文化をもっており、スペインにも、アメリカにも、そして日本に対しても抵抗し続けた歴史をもちます。戦後になっても新人民軍によるゲリラ活動もつづきました。
島の多くが密林で、産業も未発達なため、「フィリピンで最も貧しい島」とみられ、「危険な島」という印象をもたれることもあるといいます。
戦争中もゲリラとの戦いが続き、米軍のレイテ上陸のころには第9聯隊(16師団)の一大隊(第二大隊)が駐留していました。アメリカはレイテの戦いと連動させながらいくつかの部隊を上陸させ、ゲリラと協力してかれらを追い詰めていきました。
日本軍はルソン島の部隊との合流を命じられると、米軍やゲリラをさけながら密林のなかの北上を図ります。アメリカからするとこの部隊を完全に鎮圧しようとせず放置、日本軍は密林の中で長期間の持久戦を強いられました。そして食料などをもとめて住民を襲撃するといった事例も多く発生しました。
「最も貧しい島」の「最も美しい海岸線」
サマール島の道路からはきれいな海や漁師町の風景が見え隠れします。世界的な権威ある旅行書には「フィリピンで最も美しい海岸線の一つ」とも記されているようです。ちなみに道路は基本的にどこも整備されており、ガタガタ道というのはあまりありませんでした。ただアスファルトでなくコンクリート舗装のところが大部分でした。アスファルトなら暑さで溶けてしまうかな、などと考えて見ましたが・・。なお、ルソンでは日本と同様、選挙目当ての道路工事もあったみたいです。
「謝罪と友好の碑」
昼過ぎ、サマール島の中心都市カルバヨグに着きました。めざしていた碑は国道沿い、市役所の敷地の一部という非常にわかりやすい場所にありました。碑は現地の言葉で書かれた銅板を貼り付けた円形の石を、二本の石材が支えるような形となっており、その石材の根元に陶板で焼き付けた日本語の碑文が埋め込まれています。
まず碑文を掲げます。
サマールの人々に この碑を第二次世界大戦における日本の侵略戦争の犠牲者に捧げます。ここサマール島においては、日本の天皇の軍隊、特に京都からの軍隊によって残虐・非道で人権侵害の行為が行われました。私たち京都市民はそのことを心から謝罪します。そして今後カルバヨク市やサマールの人々と、京都市民のより強い、より長い友好を求めたいと思います。 1995年12月(戦後50年にあたって) サマールとの友好を求める京都市民より |
この碑は「謝罪と友好の碑」といわれ、サマール島カルバヨグ市長の招請で、京都市から技術顧問として一年半派遣された北上田毅さんが中心になってたてたものです。サマールとの関係やこの碑建設の経緯を北上田さんは「フィリピン・幸せの島 サマール」(明石書店・1999)という本を書いて記しています。
北上田さんがサマールで学んだこと
北上田さんはサマールの人たちと仲良くなるにつれて「ほとんどの人が親や親戚の誰かを日本軍に殺されたつらい過去をもっている」ことを知ります。
聞いた話はあまりにも凄惨すぎる話でした。日の丸の前で最敬礼せずに殴り倒されたこと、叔母が裸にされて市内をひきづり回された光景、身体中縛られて四つんばいにされ、火のついたタバコを耳や鼻の穴にねじ込まれ、最後には焼き殺された父、そして九歳のとき日本兵に捕まって強姦されたという自身の体験、などなど
日本人はすぐ殺さず、まるで楽しむようにしてなぶり殺した。 日本人はまるで動物のようでした。殺したかったら殺す。女性の身体がほしくなったら、年寄りでも子どもでも乱暴する。なんて酷いんですか。 日本人は鬼でした。日本人はどうしてそんな酷いんですか。 |
話を聞いて、北上田さんたちは絶句し、うちのめされたといいます。いっしょに歌ったり踊ったりしていた人たちがこんな辛い過去を背負っていたことを聞いて。しかし、かれらは最後にこう話してくれたといいます。
日本の人たちとこんな話が出来るなんて・・。九歳のときのあの辛かった体験を忘れることができそうです。あなたたちが頭を下げてくれたので、ああ、やっと戦争が終わった気がします。あなたたちと会えて良かった。 |
元日本兵の話
このことを地元の京都新聞が報道すると、サマールにいた元日本兵がかれに連絡を取ってきました。そしてサマールでの体験を語った。北上田さんは次のように記しています。
ゲリラとの交戦を続けながら、部隊は原生林の中を一路東に向かった。まさに飢餓の行進だったという。ゲリラに追われ、どしゃぶりの雨の中、木にもたれながら眠る毎日が続いた。食糧はすでに底をつき、野草や木の根を煮たり、ヤモリ、ヘビ、サワガニなどを見つけてはむしゃぶりついた。悪性のアメーバ赤痢やマラリアなどで仲間たちはどんどん脱落していった。 |
そして元兵士はいいます。「仲間の肉も食べたことがあります」「食べてあげることが彼の供養になると思いました」「今も罪悪感はありません」と。
京都新聞社が編集した『防人の歌(ルソン編)』は一人の下士官の話を紹介しています。食糧が手に入らない日々がつづくなか、かれらは丸腰の現地人を待ち伏せするようになったといいます。
うすうす想像がつくと思うが、そう・・彼らを撃ち殺し、その肉にありつくためであった。(中略) この自分の直感通り石の上に置かれた肉塊は、まさしく山麓の畑地を見回りに来ていた現地人をとらえ、その体を切り裂いて持ち帰り、太陽の直射に当てて自然の燻製にしていたのだった。(中略) このようにして隊内には、いつとはなく人肉を常食する空気がつくり出された。相手はいずれも現地人で、山の中へ入り込んで捕らえられたら、それで終わりだった。(中略)自分が覚えているだけでも、こうして食肉にされた現地人は三十五人・・・いや、四十人は超えていた」(P543~544) |
フィリピン人が心を痛めていることは
北上田さんたちは、直接サマールの人たちに対する謝罪の言葉を示したいと思いました。それは、多くの慰霊碑が示す日本人の「無神経さ」への不満からでした。
北上田さんはフィリピンの歴史家レナト・コンスタンティーノの言葉を引用しています。
長い間くすぶっている不満の原因は、過去に植民地とされた人々に対する日本人の無神経さに由来している。フィリピンのレジスタンスの英雄たちの碑がないのに、フィリピン各地に日本が金を出して、日本人戦没者の慰霊碑が建立されたことに対して、フィリピン人は心を痛めてきた |
こうして建てられたのが「謝罪と友好の碑」です。
友人はこの本を読み、ぜひここを訪れたいと考えたのでしょう。「直接、レイテに行ってもいいのではないか」という私に、サマール経由を提案してきたのは、ぜひこの碑を見たいという思いがあったのでしょう。
友人は、この地で出会った人たちに私が京都出身であることをことさらに伝えようとし、この地の人は「そうか」という表情で、微笑みで応えてくれました。
私は、この地で残虐な行為をおこなった16師団、第9聯隊の所在地であった京都出身者としてではなく、こうした心からの謝罪をした人のいる京都の人間として認識してもらえたみたいです。
その後、この地のカレッジが所有する考古博物館にいき、さらに出来る限りレイテに近づこうと考え、サマール島の州都があるカトバロガンへ急ぎました。
ホテルを予約しなかったため、少し心配でしたが、親切な方に案内して貰ったりしながらホテルを確保することが出来ました。
ライトの戦闘
翌日は少し散歩をした後、レイテに向かって出発しました。レイテに入る前にもう一つ、サマール島の20聯隊に関する二つの慰霊碑をめざします。
慰霊碑はカトバロガンからさらに南下したパラナスという町にあります。聞かない名前だと思っていたところ、あとで訪れた小学校の名前が「WrightⅡElem.School」ということに気づきました。つまりパラナスは戦記などで「ライト」という名ででてくる場所だったのです。
『防人の歌(レイテ編)』によると、元々この地はパラナスという名だったのですが、アメリカ人がライトと改名したとのことです。独立後、再びパラナスに戻したのでした。
本の中では、守備隊長があえてこの地を「パラナス」とよぶことで地元の支持を得ようとした記事が載っています。同書ではこの地での出来事を牧歌的に、地元住民とのふれあいなども記し、北上田さんの記述とは好対称をなす記述となっています。
この付近は、レイテ島とサマール島の間の狭いサンフェニコ水道を挟んでレイテ島との結びつきの強く、レイテでの戦闘を側面から支えるべく、米軍が狭い水道を渡って上陸してきます。その北上によって東部との連絡を絶たれることを恐れた第九聯隊第二大隊に集めうる兵力をかき集め、決戦場として選んだのがこの地でした。そして12月12日にはじまったのが「ライトの戦闘」といわれる激戦でした。
マリア像の台座となった慰霊碑
この場所には第九聯隊にかかわる二つの慰霊碑があります。
正式にいうとあるはずでした。一つ目は場所だけははっきりしています。パラナスの小学校の敷地の中にあるとのことです。ただ資料には破壊され、台座のみがのこっている旨の記載があり、台座だけでも見られたらというつもりで訪問しました。校門を入り、どこにあるかな、だれに挨拶をしようかなどと考えているうちに、何人かの元気の良さそうな女性たちが出てきました。
この学校の先生たちです。普通なら子どもたちに取り囲まれそうなものなのですが、ここでは先生たちです。彼女らからすれば、こんな片田舎の小学校に日本人がやってきたことが珍しいみたいで、ややハイテンション気味です。
その話を総合すると慰霊碑は私たちが敷地の隅にあるマリア像の場所だったそうです。かつて学校の敷地をお借りして慰霊碑が建てられました。台座の上には石の地蔵が建っていたのですが、いつのまにが像はなくなり、戦死者の名前らしきものが書いてある台座のみが残りました。
それが、我々が見た資料の段階です。その後、台座は半分ぐらいが埋められ、のこった部分もセメントで上塗りされ、その上にマリア像とそれを覆う洞窟状のお堂が作られたようです。「この台座の下の方に何かかいたあったよ」と言われましたが、どうしようもありません。マリア像の前で日本から持参した灯明と線香を供え、お祈りすることにしました。
先生たちは不思議なものを見るようにみていました。そしてもう一つの慰霊碑の場所を聞き、いっしょに記念写真をとりました。
なくなっていた慰霊碑
次に、もう一つの慰霊碑(「垣6554部隊」の慰霊碑)の場所に向かいました。東部に抜ける道路とレイテに向かう道路の分岐の三叉路、「ライトの戦闘」でもとくに激しい戦いが繰り広げられたあたりです。
教えてもらった場所にいた、暇そうにしていたおじさんに聞くと、二つの建物の間の物置のような場所に案内されました。そこには何もありません。
おじさんは、数年前までは慰霊碑があり、毎年日本人がやってきていたが、新しい建物を建てるのに邪魔なので撤去したとのこと、撤去された慰霊碑はどこに持って行ったかと聞いてみましたが、知らないかと聞きましたが、要領は得ません。
こうして、パラナス(ライト)にあった二つの慰霊碑は、両方ともなくなっていました。
日本からの賠償金で作られた橋
その後、私たちはさらにサマール島の西岸を更に南下、しだいに辺りは山地から平地に、密林はヤシ畑へとかわってきたようにおもえました。
とはいえ、ヤシが増えてきたかな、程度の印象ですが。
そして、道路はサンフェニコ橋へとさしかかります。この橋はサマール島とレイテ島の間にある狭いサンフェニコ水道に架けられた橋であり、日本が戦後賠償の一環として架けた橋です。
橋は水道を斜めに少しS字状にくねりながら不思議な形で架けられています。両脇は高速道路の高架橋のような構造になっており、中央部だけが急な上り坂の鉄橋となっています。
この水道は浅瀬や岩礁が多く、船が通ることは困難なのですが、高架橋部分はある程度大きな船も通れるように考えたと、勝手に推測しました。
退屈そうにしていた女性陣も、ドライバーも大喜び、橋の上に車を止め写真を撮りまくっています。ジェフは、例によって「奥さんに対するアリバイ工作だろう」と冷やかされていました。
フィリピンが受けた被害と賠償金
日本は戦争でフィリピンに多大な損害を与えました。フィリピン戦での戦死者は米軍が約16,000人(陸軍のみ)、日本軍が陸軍で約336,000人海軍などをあわせると約46.5万人、それに対しフィリピン人の死者は約111万人といいます。
美しかったマニラの町を完全に破壊し、フィリピン全土が荒廃させられました。その後、マニラは復興されないまま無秩序な発展を遂げました。その姿は戦後のフィリピンの姿と重なって見えてきます。
大岡昇平の「レイテ戦記」はこうした人的被害だけではなく、日本軍の徴発によってレイテの家畜の半分から2/3が失われたこと、米軍の艦砲射撃や爆撃によってフィリピン全体の公共施設の80%、個人財産の60%が破壊されたことを記し、フィリピン政府が戦争被害額としてアメリカに請求した額が約800億ドルだったのに対し、支払われたのが6.2億ドル、その支払い方法はアメリカに都合のいいやり方でした。フィリピンではその後も戦争からの復興が大きな課題となります。
1951年のサンフランシスコ講和条約において独立を達成した日本は、条約で先送りとされた賠償について、フィリピンとの二国間協議に応じます。こうして日本はフィリピンに対し5.5億ドル(1980億円)にのぼる賠償に応じました。しかし日本による役務提供という形をとるなど、やはり日本資本に有利な方法がとられ、フィリピンのためというより日本復興のためという性格があったと言います。
賠償の一環として架橋されたのがこのサンフェニコ橋です。フィリピン最長の橋であり、非常に歓迎され感謝されました。「日本とフィリピンの友好の印」という人もいます。
この橋を渡って、サマール島からレイテ島へと入っていきました。
(つづく)
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1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:慰霊碑巡り
6:ドライバーの問い
◎私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版