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フィリピン・レイテで考えたこと(3)
慰霊碑巡り
「おわび」と「おことわり」
フェイスブックには、数年前の書き込みがでてくる機能があります。そこに昨年のフィリピン・レイテ島でのことがでてきました。ちょうど一年前、友人の家族達とレイテ島をまわっていたのです。これをみて中断しているレイテの紀行文をなんとかしたいと思いました。なぜなら、レイテ島のことを書くのが中心なのに、一番メインの記事がないですから。とはいえ、時間も経ってしまったし、さらに本当に書きたいと思っていたことの多くをすでに書いているという思いもあります。いまやりたいこともあります。
そこで、のこり2日の分は、旅行直後にフェイスブックに書いた文章を中心に、写真とともにまとめることにしました。手抜きで申し訳ありません。
ドラグの二つの慰霊碑
これまで書いてきた文章はレイテ島2日目の昼頃までを書きました。すこしかぶりますが、この辺りから書いていきます。
私たちは、朝タクロバンのアルハンドロホテルを出発、マッカーサーらが上陸した海岸にそって道路を南下、前日訪れたパロの三叉路を海岸に沿って南に向かいました。米軍の上陸に先立って徹底的な艦砲射撃と爆撃が行われた場所であり、西側のカトモン山には京都の第9連隊主力が堅陣を構築していました。そこをこえ、もう一つの上陸地点ドラグの手前にある慰霊碑にいきました。Facebookに以下のように書いています。
レイテ島2日目は東部の京都16師団関係の慰霊碑を巡りました。
まず、最初に行ったのは、2カ所の上陸地点、二つ目のドラグの手前にある慰霊碑。この奥の山地に京都第9連隊主力が堅固な陣地を築き、抵抗しようとしましたが、裏側に回り込まれたため、放棄することになります。この陣地から、何度も斬り込み隊が組織されたというので、母から聞いた話も合わせると、私の伯父もそうした一員ではなかったかと想像しています。
とはいえ、16師団自体は、最初の艦砲射撃で、パロ=オルモック間では約半分、ドラグ付近では2〜3割が「損耗」(何という酷い言葉でしょうか!)したといいますから、艦砲射撃から生き残っただけでも良かった(?)といえるのかもしれません。
ここの慰霊碑は主にアメリカ軍のモニュメントの性格が強く、その一角に日本側の慰霊碑があるといった形です。
その後、そこからドラグにいきました。なにか海水浴にいったときの海沿いの集落という感じの場所でした。ヨランダの高潮などの被害があったからかもしれません。
市内の海岸からすこし入った場所にあるモニュメント=パークの一角、やはり場違いな感じで立っている16師団の慰霊碑を訪れました。
米軍上陸地点のドラグ市内の海岸沿いの公園にある16師団慰霊碑。建立したのが16師団(垣兵団)の元兵士と京都の遺族会ということですから、祖父たちが建てたものと思われます。
ドラグ市民の犠牲者を弔うモニュメントをメインに、米軍各部隊のモニュメントが並ぶその片隅に建てられていました。
つづいて町中で「慰霊碑」を探そうとする様子を記します。
ドラグの附近でもう一つ別の慰霊碑を探し聞き込みなどを行ったのですが見つかりませんでした。
ちょうど日曜日の公園に珍しい日本人がカメラをもって現れたのですから、子どもたちは大はしゃぎ。「写真撮って!写真撮って!」という状態になりました。
なお、フィリピンではどこの町でもホセ=リサールという人物(19世紀末、スペイン支配に反対するような小説を書いて民族意識を盛り上げたが、スペインによって処刑された人物。ちなみに軍人ではない!)の像が設けられています。この公園にもしっかりその像が建てられていました。
別の慰霊碑があるというのは、わたしたちの資料の読み違えだったのでしょう、約一時間探し回ってもみつけることもできませんでした。
しかしけがの功名というのでしょう。ごらんのように、興味しんしんの子供達に囲まれました。とても生き生きしたたくさんの笑顔に出会えました。
気になる記念碑
ドラグからは米軍の主要な侵攻ルートである西に向かう道路にそってすすみます。そこには現地フィリピンの人に慕われた日本人将校を記念した有名な碑があるというので、見に行きました。
ドラクからブラウエンに向かう街道上にある山添勇夫大尉記念碑。碑文によると「公平で友好的」な態度をとったため住民から惜しまれて地元住民の手で記念碑が建てられたと記されます。丹後の岩滝出身で1943年戦死とのことです。
率直なところ、島の人、地域の人が尊敬して大切にしているのか疑問を持ちました。掃除がつねになされていて、というわけでもないし、英文ないし現地の言葉の碑文も説明文もみあたらない。碑には銅板と石版がはめ込まれているが、碑文は両方とも日本語で、しかも刻まれている内容の碑文はほぼ同一。どうみても、現状では日本人目当てとしかおもえないのです。
訪ねるまでは現地の人が尊敬している理由を知りたいと思っていましたが、実際に見て感じたのは強い違和感でした。そこでこの碑のことを考察しようとしたのが、一つ前の記事「米軍の上陸とハンサムな将校」の後半部です。ご覧いただけると光栄です。
ドラグ飛行場跡の記念碑
この記念碑をみていると、すこし「あやしい」人物が登場しました。この人物はあらたな情報を与えてくれました。そこで私たちは、予定のルートをそれて、別の場所に向かうことにしました。
山添大尉記念碑のところにいると、この記念碑を管理しているというトリンクル(バイクの横に四人乗りの座席をつけた小型タクシー)のドライバーが現れ、近くに別の記念碑があるといったので、半信半疑で教えられた場所に行くと、そこは日本軍が現地の人を強制的に動員して作ったドラグ飛行場のあとでした。
フィリピンの人たちがこうした被害の歴史を伝えるために作った記念碑がありました。最初はフィリピン空軍の戦闘機を飾った怪しい代物かとおもったのに、意外な発見でした。あまり知られていない記念碑です。
ちなみに、この飛行場とタクロバン二つの海岸沿いにある飛行場を守るため、16師団は、愚かな水際作戦をし、大量の兵士を艦砲射撃によって殺してしまいました。
沖縄でもそうですが、日本軍のやり方をみていると、敵軍のために飛行場をつくり、それを守ったり、取り戻すため、無用な戦いをしていたように思えます。
よく考えれば、日本人が知っているモニュメントといえば、日本人が期待するような中身の、そうした物語に組み込めるような慰霊碑でなければならないのですね。この碑はそうして点から失格です。だから「あまり知られていない記念碑」なのでしょう。
そういった意味からいえば、二日前に訪れたサマール島の碑もそう、日本人の加害を訴える碑などは見たくもない、できれば隠しておきたいものでしょう。だからこそ慰霊碑のリストの中には含まれないのでしょう。
この飛行場についても、さきの山添大尉との関わりで、この記念碑の記載にもふれながら記しています。
ユリタ、失われた「地蔵」像
その後、わたしたちはさらに西、ブラウエンの方面に向かいました。ちょうどドラグとブラウエンの中間あたりにユリタ(ホリタ、ジュリータなど地図や本によって読み方が違います)という町があります。この町は、米軍が上陸した日、福知山20連隊の連隊長が戦死した町です。このまちにあったはずの慰霊碑(地蔵)にかかわるかきこみです。
ブラウエン手前のJulita(ユリタ)の町の市役所横の公園に福知山20連隊慰霊の地蔵があるというので行ってみました。しかし、いくら探しても見つからず、人に聞いても知らないといわれました。役所のセキュリティの人に聞いてもなかなか埒が明かなかったのですが、年配のおじさんが出てきて、昔見たことがあるといい、おじさんが聞いた知り合いは「はっきりとここにあった」といってくれました。そこにあった地蔵はどこにいったか分からないとのことです。はるか昔に撤去されたとのこと、その跡地が写真の場所です。
考えて見ればそうですね、建立しても、そのいきさつを知っている人がいて、管理してくれるフィリピンの人がいて、はじめてこうした慰霊碑はまもられるのです。無縁となれば撤去されるのは当然ですよね。またお地蔵さんは像としてか、あるいは石材としてか、ともかくある種の価値があるので失われやすいようです。
もっといえば、自分たちの町を、人々を苦しめた人たちを慰霊する施設なのですから。
結局、このおじさんの話を信じることにして一時間近くの捜索を打ち切りました。友人はまだ未練があったみたいですが。
ブラウエン飛行場付近の三カ所の慰霊碑
もう昼をかなりすぎていたので食事をとろうということになり、ネット上の地図をみながら食堂をさがし、町外れの食堂で昼食をとりることができました。そして、今度は16師団の本部が置かれたダガミ方面に向けて北上します。慰霊碑の多くはこの街道沿いにあります。慰霊碑の多くは道路沿いにあるものが多く、ネット上で情報を提供していただいている方も丁寧に書いてくださっていたので、わりと簡単に見つけることができました。
ブラウエンでは一旦奪われた飛行場を取り戻すべく、落下傘部隊(高千穂隊)とともに奪回作戦が実行されました。そのため、かつてのブラウエン北飛行場の周辺にはいくつかの慰霊碑があります。一番南にあるのが静岡県知事の題字になる「平和之塔」です。右側の碑には保守系の団体らしき名前のプレートが貼ってありました。隣の家の方が丁寧に管理していただいているようです。
少し行った小学校の敷地内には「第114飛行場大隊終焉の地」と書かれている(らしい)木製の碑があります。敷地はきちんと整備されていますが、すでに傾いてしまっています。
さらにダガミ方面に少し進んだところには16師団関係者が建立した「平和の塔」がありました。きっと祖父はここまできていたのだろうと思います。
さて、この戦いで力を使い果たした16師団主力の生き残りは、これ以後この西側の山中でこれといった抵抗もできないまま食糧難などで苦しむことになります。
なお、最初の「平和之塔」の場所には、かつては別の碑が並んでいたのですが、撤去されたとのことです。「墓じまい」ならぬ「慰霊碑じまい」がすすんでいるようです。
心優しい若者~「第20聯隊軍旗捧焼之地」
島東部の平野、16師団がらみの慰霊碑の多くは道路沿いの分かりやすい場所が多いようです。団体がバスなどでやってきて慰霊行事をして次へいくため、当然交通の便の良い場所に設置し、そこからいわば「遙拝」をおこなうという感じなのでしょう。実際、多くの兵士が斃れたのはさらに西側の山岳地帯・ジャングルがおおかったとおもいます。しかたないことですが、慰霊碑は「きれい」で「便利」な場所にたてられがちです。
これにたいし、場所のきまったところに建てられる記念碑はこうしたわけにはいきません。こうした記念碑として友人が執着したのが第20連隊の連隊旗奉焼碑です。道路からそれほど離れていない場所でもあるので、ぜひみたいと考えたのです。
書物によると、民家の敷地にあり現地の中学校が管理していると、書かれているのですが、肝心の中学校が地図には書き込まれておらず、周辺の道路も同様だったため、捜索は難航しました。
つぎの書き込みは、そうした苦労が書き込まれています。
ダガミ郊外に、福知山20連隊が軍旗を焼いた(つまり連隊の歴史を終えた)ことを示す碑があります。ただ、場所が民家の敷地内にあり、緯度経度くらいしか分からないということで、友人のご夫人とドライバーさんの助けも借りて、その辺りを聞いて回りましたが、どうしても分かりません。諦めの良い私は仕方ないというのですが、友人は探し続けました。
窮地を救ってくれたのは、ギターをかついで鼻歌を歌っていた少年でした。(今回は年寄りの日本人がむっとしそうな若者に助けられることが非常に多かったです)ハイスクールの授業の一環としてその場所を聞いていたということで、私たちをどんどん案内してくれます。ハイスクールの敷地を超えたあたりで、敷地の持ち主、少年の友人たちも集まり、その場所に連れて行ってくれました。写真のような場所です。話を聞くと少し前にもきた人がいるとのことでした。1990年代に再建されたものですが、それでも木製の碑であるため、文字は判読できないところもありますが「垣兵団第20聯隊軍旗捧焼之地」とはっきりと読み取ることが出来ました。
フィリピンでも戦争を風化させない取り組みがされているなと、友人と話し合いました。あとで、一緒に写真を撮った時、少年はとてもいい表情をしていることに気づきました。
ダガミ、16師団本部跡の「英霊碑」
その後、タクロバンから第16師団の本部が移ってきたダガミに向かいました。といっても、町に司令部が置かれたのはわずかで、すぐ西部の山中に移動します。そこにカトマン山から撤退してきた第9連隊や22連隊の敗残兵達が結集しました。
そして、軍本部の命をうけ、ここからのこった弾薬などをかかえて、中央山地を越えてきた部隊や落下傘部隊(高千穂空挺団)とともにブラウエン飛行場奪回に出撃しました。この作戦はほんの一時、成功したもののすぐに反攻にあい、もてるだけの食料をもって撤退しました。弾薬なども使い尽くしてしまい、人数を維持できるだけの食料を得ることも困難、軍本部との連絡もなかなかつかないまま、ゲリラの襲撃にも怯えながらこの地にとどまります。中央の山岳部を越えて西へ進む決断をするのはかなり後のことになりました。そこにでアメリカ軍とその援助もゲリラが待ち受けています。逆にフィリピン人を襲撃したりもしながら。小説「野火」の世界が現出していました。
16師団の本部にかかわる慰霊碑(「英霊碑」)はダガミの市役所の中にありました。
16師団の師団司令部が置かれていたダガミの町役所の片隅に京都からの慰霊団が建てた英霊碑があります。車を乗り入れると同時に、消防士と思しき人が手招きをしてくれました。写真で見るように、片隅と言うべき場所です。
米軍の侵攻とともに司令部は西部の山中に移動して兵力を結集し、そこからブラウエン攻撃に行ったことになります。そしてそこで力を使い果たすことになります。
多くの碑が「慰霊碑」であるにもかかわらず、「英霊碑」となっており、さらにフィリピンの犠牲者についても”all countrys”と一括されているあたり、気になるところです。
リモン峠での戦い
この日の慰霊碑巡りはいったんここで終わりです。その後、この日の目的地オルモックに向かいました。少し北に向かって、朝通ってきたパロの三叉路を西にすすんだ道と合流、今度は西に向かいます。このあたりはカリガラ平原という広い平原で、マニラに置かれた軍本部はこのあたりへ上陸作戦を敢行、アメリカとの間の一大決戦を計画していました。ところがアメリカの侵攻のスピードは予想以上でした。というより希望的観測にもとづく実現性のうすい計画を立てつづけていたことが日本軍の敗因というべきなのかもしれませんが。
パロで激しく抵抗した津第33連隊を破った米軍は、特段の抵抗もなくこの地を通り抜けます。西に向かう、北は狭い海峡、南側からしだいに山が迫ってくる地形となり、道は南向きに曲がりながら山岳地帯へと入っていきます。そしてその最高点がリモン峠、レイテ島最大の激戦地となった場所です。この峠をこえて下っていくと眼下に中央平原が広がり、平野の道をまっすぐ南下し海岸部に達した場所にオルモックがあります。
戦争当時、日本軍からすれば、16師団がかくも早く崩壊するとは思わず、オルモックに上陸した第一師団などをリモン峠を越えて進出させ、上陸作戦によって投入される部隊とカリガラ平原付近で大会戦を行う計画でした。(アメリカからすればそちらの方が楽だったのかも知れませんが・・)よく考えると、第一師団がほぼ、無傷でオルモックに上陸できたこと自体が奇跡的な出来事だったのですが。
ところが、さきにみたようにアメリカ軍は会戦予定地を一気に通り越しリモン峠の麓まで進出していました。もしその勢いのままリモン峠に向かっていたら、レイテの戦いは早い段階で終わっていたでしょう。ところが米軍も作戦を誤ります。峠の下で進撃を停止したのです。この間に日本軍はリモン峠まで進出、米軍の進出を知って陣地をここに構築、東部から中部に向かう唯一と考えていた道路を封鎖する戦術に出ます。そして、次々と上陸してきた部隊をこの周囲の稜線沿いのジャングルに展開させました。ここにリモン峠を中心とする激戦が長期にわたって繰り広げられたのです。ここの戦闘の様子は大岡昇平の「レイテ戦記」に克明に記されています。
オルモックのコンクリートハウス
私たちは、このあたりの慰霊碑巡りは翌日まわしと考えていたので、車中から場所を確認するだけで、リモン峠を「快適」に通過しました。中央平原にはいり、オルモック郊外の戦争遺産、コンクリートハウスに向かいました。 リモン峠をなかなか抜くことができなかったアメリカ軍は他の方向からの進出を図ります。ひとつは島南部で日本軍が通行困難と見なしていた道をわずかな期間で改修していました。さらには日本軍リモン峠方面とブラウエン作戦にむかっている空隙を衝く形でオルモックの東側の海岸線に上陸作戦を敢行しました。この作戦は大成功に終わり、手薄となっていた日本軍の抵抗を排除してオルモックへと向かいました。
オルモックでは、わずかにのこった日本軍が激しい抵抗をしました。その戦争遺産ともいえる廃墟がのこっています。それがこの日の私たち最後の見学地でした。この廃墟は、オルモックの町の入口付近の工場のなかにあり、管理人の方の許可をいただき、見せてもらいました。
レイテ島西部の中心都市オルモック市内の工場の敷地内にコンクリートハウスと呼ばれる戦争遺跡があります。かつてはこの地の富豪=国会議員の邸宅でしたが、日本軍が接収し、陣地に構築しました。アメリカ軍は日夜を問わず砲弾をあびせ続けますが、日本軍は2日間に渡り、それに耐えて抵抗を続け、この地における最大の激戦地となりました。大岡昇平の「レイテ戦記」では五ページにわたり、ここでの戦いを描いています。
建物には大小さまざまな砲弾の跡が残っており、この地での戦闘の凄まじさを今に伝えています。
昨日のドライバー達の印象的な表情をみていた私と友人は、かれらがどのような反応をすすか、気にしていたのですが、昨日とは全く違う反応、それも印象的でした。
<フィリピン・レイテで考えたこと:メニューとリンク>
1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:慰霊碑巡り
6:ドライバーの問い
◎私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版