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フィリピン・レイテで考えたこと(4)
フィリピン人ドライバーの問いかけ
お詫びとお断り
今回の内容も前回と同様、以前フェイスブックの書き込んだ文章(青い文字で表記)をつなぎ合わせ、適当な写真を掲げただけのものです。そのため、これまで書いてきただけでなく、今回の中身だけでも重複する部分が多かったり、論旨がぶれていることも多いと思います。お許しいただければ光栄です。
オルモックのレストランにて
多くの慰霊碑をまわったのち、目的地オルモックに到着、ホテルに入ったのち、いつものように2人のドライバーも交えて食事をしました。いつもながら楽しく食事をしていたのですが、ドライバーの1人と話していた友人がふと真剣そうな表情をしました。そのことにかかわる書き込みです。
とても陽気なドライバーですが、そのうちの1人が不意に「なぜ日本人はフィリピンに来たのか?」と聞いてきたそうです。2人で少し話し、いろいろと解答例は浮かびましたが、どの答も納得させることのできない気がして、お互いに「これからの宿題だな」と話しました。
ちなみに、ひとりの父親はフィリピン国軍として、もう一人の祖父も日本軍と戦ったとのこと、祖父の方は殺されたとのことでした。
かれは、私たちと戦場を回る中で、こうした疑問がわいてきたのでしょう。誰一人として、幸福にしなかったフィリピンへの侵略という「日本」の選択、それはいったいなぜだったのか。
この問いかけへの回答とはいえませんが、こんな文章を書きました。
友人と相談して、回った慰霊碑にはろうそくと線香を供えました。
そのうち、何でこんなとこまで連れてこられて、現地の人に計り知れないほどの迷惑をかけ、敵意を向けられ、無惨に殺されることになったのか、少しずつ腹が立ってきました。
その死はほぼすべて惨めなものでした。さらにそこに至るまでの恐怖と苦しみも。
艦砲射撃によってバラバラに吹き飛ばされた死、銃座から手榴弾をなげこまれての死。日露戦争流の斬り込みの多用。爆弾を抱いての戦車への飛び込み、食糧不足による餓死や病死、自決の強要、そして輸送船が沈められたことによる溺死、満足な武器(日露戦争の頃の銃しか与えられない)さえ与えられない中での戦闘。
多くは軍隊のエリートたちの愚かな作戦、さらにいえば愚かな政治の犠牲にされた。
「死」のほぼ全てが、悲しいことに無駄死でしかなかった。
こうした無益、有害な戦いに動員され、憎まれ、無惨な死をさせられたことを実感として感じられただけでも、今回の旅は意味があるように感じます。
そして無駄死であったこと、そしてその死の無惨さにしっかりと向き合うことが大切だと感じました。
先に記したドライバーの「なぜ日本はフィリピンにやってきたのか?」という問いかけが重くのしかかることを感じます。
線香を備え、合掌しながらそんなことを考えてました。
抗日ゲリラ記念碑
答えになるとはとうてい思えませんが、友人はかれらをある場所に是非連れて行きたいと考えていました。翌朝の話です。
オルモックでは、朝食に行く「ついで」にホテルのすぐそばにある抗日ゲリラを記念するモニュメントを見に行きました。(友人はドライバーらフィリピン人に私たちがゲリラについて知りたいと考えていることを伝えたいと思いました。だから僕たちだけの散歩ではだめなのです。)
フィリピンでは、日本兵の死者が50万人を超える(うち、レイテが8万人)という言い方がされますが、フィリピン人の死者は100万人を超えています。私たちは無人の大地で戦争をしたのではありません。大量のフィリピン人が巻き込まれ、艦砲射撃で、戦いの流れ玉で、「調達」の邪魔だとして、命を奪われました。
それ以前に、フィリピンのことを全く知らない人々が「自分たちはトモダチ」「帝国主義者のアメリカ人から解放しにきた」なんていってもだれも信じませんよね。私たちの車のドライバーが聞いた同じことを当時のフィリピン人も思ったのでしょう。「なぜ日本はやってきた?」
フィリピンは長いあいだ欧米文化の中の影響を受け、口先だけであっても「民主主義」をとなえるアメリカの支配下にいました。アメリカは1946年には「独立させる」と約束していました。そこに「遅れたアジア」のにおいをプンプンさせて日本人がやってきたのです。とくに食糧を「現地調達」するという日本軍のルールはかれらの気持ちを決定的に日本から引き離したでしょう。「金を払う」といいながら実際には使い物にならない「軍票」という紙切れを渡し、支配者づらしてかれらを差別する。暴力が横行し、女性へのレイプも頻発、誘拐され慰安婦とされた女性たちもいた。
日本人は、「アメリカ人がデフォルメした『日本人』そのものだった」と現地の歴史家は書いていました。無表情で何を考えているか分からない不気味な存在・・・。
フィリピン人が「新たに来た支配者」と「今までの支配者」、どちらがマシと考えたか、答えは明白でした。さまざまなグループのゲリラが組織され、日本軍に抵抗をします。
各地でゲリラが蜂起します。日本軍は完全にアウェーです。中国戦線と同じ状態となり、中国と同様の事態が起こります。同様に軍事力で支配しようし、拷問にかけ、公開処刑します。
反発はいっそう高まり、ゲリラ活動はさらに活発化します。アメリカ軍は兵器や通信機などを提供し、特殊部隊も投入しました。中国同様、泥沼化が進みました。こうして上陸作戦で多くの犠牲者を出し、新たに補強された京都16師団は、フィリピン全土でゲリラ掃討に四苦八苦します。
こうしたゲリラとの連携のもと、1943年10月、アメリカ軍が上陸してきたのです。国外に逃れていたフィリピン軍とともに。
日本軍はアメリカに負けただけでなく、フィリピン人にも負けたのです。そのことを忘れてはならないと思います。このモニュメントはこうした歴史を示しています。(何の説明文もありませんが)
ドライバーたちがこうした碑をどのように見ていたのか、よくわかりません。しかし、私たちがフィリピン人ゲリラの方に正義があると考えているという事ぐらいは察してもらえたのではないかと思います。
オルモックのマリア像
朝食後、この日の行程にはいります。オルモックとその周辺の慰霊碑をまわったあと、日本軍の最終集結地点とされたカンギポット山の北麓をとおり、日本軍の一部が撤退していった西海岸のビリヤバに向かいます。その後、元来た道を戻り、昨日後回しにしたリモン峠付近の慰霊碑を回った後、タクロバンに戻るという行程です。
最初にいったのは、オルモックにおける中心的な慰霊碑「平和の碑」です。
オルモックの東部に岐阜県の遺族たちがたてた慰霊碑「平和之碑」です。ガードマンが警備するような高級住宅街のなかにあります。そのため、失敗すると、かなりの回り道を強いられるので気をつけて下さい。
碑のなかのマリア像(?)、いい表情をしています。線香とろうそくでいいのかなとすこし躊躇してしまいました。
オルモックの町にはいくつか日本軍の兵器も残っており、車からも見ることができました。さらに東南のかつての戦場に行けばさらにいくつかの遺物もあるようでした。
第16師団・第9連隊「鎮魂碑」
私たちは、その後、北に向かい、途中の三叉路を東にそれ、ドローレスという町にある第16師団第9連隊の慰霊碑に向かいました。慰霊碑の足下にはお地蔵さんも置かれています。下の文でしるしたように理由はわかったものの、「なぜここなのだろう、ここではないのではないか」との思いは残りました。戦死者すら、指揮官によって代表されます。
京都16師団(「垣兵団」)第9連隊の「鎮魂碑」です。オルモック郊外のドローレスという町の小学校の一角を借りて祀られています。なぜこんな所に?とおもったのですが、碑の横の説明を見て理解できました。
第9聯隊長も16師団長も、このまちの北部の「温泉地」に残存兵力を結集しようとし、拠点を設けたのがかれらの、師団・聯隊で記録にのこる最後の姿だからです。いわば、この碑は師団・聯隊の壊滅を記録するという性格をもっています。
かれらと行動を共にしたのは40人もいませんでした。その他の兵士たちはどうしたのでしょうか?水際陣地で艦砲射撃などにやられたり、生きて帰れない「斬り込み隊」を命じられたりして(私の伯父はそれだったと思います)命を失いました。
部隊がバラバラになるなか生き残ったものは、弾薬も尽き食糧も手に入らないにもかかわらず、降伏も許されず、飢えと熱病にくるしみつつ、自給自足をめざします。しかしフィリピン人ゲリラは容赦しませんでした。日本兵を捕虜にすれば、金がもらえたというのですが・・・。
カンギポット山
さて来た道をもどり、リモン峠に向かう道から今度は西に折れ、西海岸を目指します。
中央山地が深く険しいジャングルなのに対し、西部の山地はなだらかでところどころ畑も広がります。
この西部山中に魁偉な姿を見せるのがカンギポット山です。この山の名前は、思いのほか多くの場所で見ることができます。
それを書いたのが以下の文章です。
お彼岸などでお墓を訪れる機会があると、よく軍人墓に記された墓碑をみます。死んでまでも軍隊の階級に縛られ、いつまでも軍隊を解放してもらえないのかという思いにとらわれる一方、それ自身、戦争遺産であると考えるようにしています。
墓碑に記された戦死地として圧倒的に多いのが「支那(北支・中支)」と「比島」で、その数は圧倒的です。「比島」とはフィリピンのことです。
「比島」とだけ記されることも多いのですが、「ドラグ」「ブラウエン」「タクロバン」「オルモック」といったレイテ島の地名もあります。そのなかでもとくに多いのが「カンギポット附近にて」という記述です。
そのカンギポット山が上の写真の山です。その魁偉な山容を写真で目にされた方もおられるかもしれません。しかしよく考えると京都の戦死者の大部分を占める第16師団第9聯隊(京都伏見)や第20聯隊(京都福知山)の兵士は大部分が東部平原から中央山地で死んでおり、中央山地を越えてオルモック平原に進出したものはわずかで、さらに米軍が占領していたオルモック街道を越えて、カンギポット山のある西側の山地(実際は丘陵という性格が強いのですが)までたどりついた兵士はさらに少ないとおもわれます。にもかかわらず、なぜこうした記載が多いのか。なぜカンギポットなのか。
オルモックを米軍の上陸作戦で奪われ、リモン峠での激しい戦いにも敗れた司令部は、島の西(北)部の山地から西部の海岸方面への「転進」を命じます。そのさいの結集地点がカンギポット山の山腹でした。
しかしこのカンギポットにどれだけの兵士が集まったのかはよく分かりません。この地をめざすものもいたとは思いますが、しだいに部隊から離れ、敗残兵として、飢えに苦しみ、カンギポット山を中心とする西部山岳・丘陵の各地で生き地獄が展開されます。
大岡昇平の「野火」はこの時期、この山中での出来事がモデルとなったとおもわれます。険しく、さらに雨も多い中部山岳地帯でも同様の事態でした。
そして日本軍の組織的な抵抗は終結します。戦史では、これをもって事実上のレイテの戦いはおわったという認識なのでしょう。
こうした事実から、日本国内では戦死時の詳細なことがわからない戦死者はまとめてカンギポット附近で戦死したことにして戦死公報にて遺族に知らせたということです。
車はこのカンギポット山の北麓を西海岸にむかってすすみます。リモン峠やオルモックなどの戦闘で傷ついた兵士達、さらには東部平原でたたかった16師団の生き残りも三々五々、この山をめざしました。こうした事情もあってこの地には慰霊碑が多数存在しているのです。
ここにも第9連隊の慰霊碑がありました。しかしかれらの内でここまで生き延びてきた人が、いったい何人いたのか、疑問ですが。
そして、亡くなった人たちの亡くなった場所に行きたいと考えた人の多くもカンギポット山の麓に集まってきます。
オルモック(・リモン)街道から西に曲がり、西海岸のビリヤバにむかう山中の道路から少し離れた場所(道路からも注意していれば北側に見ることが出来ます)、カンギポット山を臨む場所に第16師団第9聯隊関係の慰霊碑がたっています。
写真のように四角に地面が固められた場所があるので、第一師団の慰霊碑のように小屋組みがあったのかもしれません。そして広場のはずれに3つの個人の墓標?慰霊碑?が残っていました。共同墓地であり、その内の3基だけが残ったのかもしれません。運びやすかったためでしょうか。旅行鞄の中にいれられるようなとても小さな石の墓標が遺族の思いを示すように思いました。
この慰霊碑からさらにビリヤバに近づいた場所に、広島・福山連隊の「平和と友好」と記された碑が道路沿い、南側のわかりやすい場所にあります。
なおカンギポット山の山腹には戦没者の共同霊園があるそうなのですが、車では入りにくい場所なので遠慮させて貰いました。
ビリヤバ「日比合同戦没者慰霊碑」
車は西海岸ビリヤバに着きました。追い詰められた日本兵のうちのほんの一部だけがここから脱出しました。しかし、多くはレイテに取り残され、命を失っていきます。
西海岸のビリヤバはカンギポット山から西に向かって海に面した場所にある小さな町です。きれいな海は別荘地に最適のようにも思えました。
この町から海岸に沿って南に進んだところに日比合同戦没者慰霊碑があります。日本軍とフィリピンゲリラ双方の慰霊をめざすことも目的とした施設です。
かなり長い階段があり、その上に石造の建造物があります。形状がおかしいし、碑の真ん中の部分の色が白く変だと思って聞きましたが、要領を得ません。帰ってから2006年に撮影した写真をみつけ、みてみるとここに塔らしいものが建っていたようでした。ひょっとしたら台風ヨランダにやられたのかもしれません。
さて、この施設は、ある意味で「生きている」施設です。しっかりとした参拝所が設けられ、焼香や供花もできます。備えられた卒塔婆や遺品、写真なども風化せずに残っています。供花(生花?造花?)も置かれています。
そしてお二人の方の遺骨がありました。この施設を管理しているNPO法人を立ち上げられた永田勝美さんのものと、坂木茂太郎さんというおふたりのものです。かれらは帰ることの出来なかった戦友の眠るこの島に骨を埋めたいと考えたとのことです。
大部分の戦友がレイテで命を落とし、遺骨も十分には収集されない中、生き残って日本に帰ったふたりが暮らした日々とはどんなものだったのだろうかと考えてしまいました。
実はこのおふたりのような思いを持ちながら生きてきた元兵士は多数に上ったと思います。けっして口に出せない記憶を持つ方も多かったでしょう。勇気を出して語った人、美化した表現でしか話せなかった人。口をつぐみ続けた人。そして、慰霊に多くを捧げた人。それぞれあふれ出しそうになる記憶を必死になって封印したりながら生きてきた人生があったのだと思います。
かれらの人生を破壊していった戦争というものの無慘さを考えざるを得ませんでした。
埋葬された「第26師団慰霊碑」
つい最近まであったはずの慰霊碑がなくなっていることもありました。
西海岸のビリヤバの町の北側に木造十字架の第26師団慰霊碑がありました。2016年に尋ねられた方の記録には残っており、グーグルのストリートビューでもその姿が見られます。私たちが世話になったオフラインでもつかえる地図にもその様に記されていました。当然あるものと思い、地図の場所にいきました。
すると、私たちをみるやいなや、おじさんが「満面の笑み」を浮かべ、庭に干していた洗濯物を横に避けて、家の庭に私たちを迎え入れてくれました。
ストリートビューでは、地蔵は横倒し気味で、乱暴に扱われているようでしたが(海沿いなので台風などの波にやられたためだったかもしれません)、いってみると整備され、写真のように新しい3体の石仏といくつかの石版が整然と並べられ、花も供えられ、休憩場のような小屋もできていました。しかし慰霊碑本体がないのです。
なぜ26師団慰霊碑がないのか、別の所にあるのかとおもい、おじさんに聞いてみても要領を得ません。何度か問答を重ねる内に、「たしかに十字架があった。しかしそれは埋めた。その場所はここだ」といって石仏の前の地面を指さしました。
私たちはそれを信じるしかありませんでした。
日本人の慰霊碑は、レイテの人には邪魔な存在です。最初の頃は見るのも腹立たしい存在だったかもしれません。碑文のなかの「日比友好」という文言、英文やタガログ語の碑文はフィリピン政府や人々への配慮だったのでしょう。
当初は多くの慰問団が訪れました。そして「お世話になります。これからも管理をお願いします」といって、途方もない金額をおいていくこともあったといいます。そのため、日本人が来ると掃除をするなど管理人のふりをしてそれを貰おうとする人もいたといいます。
しかし、ある時期から慰問団はめったに来なくなります。扱いが雑になってきたのはそうした背景があるでしょう。
またフィリピンには一つの都市伝説があります。「山下埋蔵金」です。山下奉文大将が大量の埋蔵金をどこかに隠したというのです。したがって、それを探し一攫千金を夢見るフィリピン人は今も多いといいます。慰霊碑や地蔵などはその場所を示すと考えたともいいます。
さらに碑文で使われた銅板はお金にもなります。はがされた例もあったでしょう。こうして撤去されたり、破棄されたりして慰霊碑は消えていったとおもいます。
つい最近になって、レイテ島を中心に慰霊碑巡りをすすめておられる方がこの慰霊碑は3月に撤去されたと書いておられました。
それに対し、私たちは2月に訪れたとコメントすると、その方は記述を訂正し、直前の1月に撤去したという資料を紹介してしただきました。
そのことをフィリピン在住の友人に伝えたところ、「それならあのおじさんの記憶はもっとはっきりしていただろうに」とやりとりをしました。
とはいえ、古いお墓などと同じで、慰霊碑という形もしだいに風化していくというのもあるべき姿かなとも思います。
戦友会や遺族会も解散されていくケースが増える中、慰霊碑についても「墓じまい」がなされているということも考えられます。私たちがレイテで探し回った慰霊碑や地蔵も、実は日本国内にあって、思いがけない出会いができるかも知れないとも思っています。
リモン峠
最後に、後回しにしてきたリモン峠周辺の慰霊碑をめぐりました。
レイテ島で日米が最も激しくたたかった場所がリモン峠でした。
レイテ島は中央部に険しい山岳地帯があり、それを境に気候までが異なるといわれます。日本列島を小型化したイメージで考えてもいいでしょう。
山岳地帯には南部に荒れた道路があるものの通行には不向き(アメリカ軍はこの道を修復し通行できるようにして、日本軍の「予定」を覆すのですが)なので、タクロバンの南のパロから広いカリガラ平原を経由しオルモックに抜けていくというのが唯一のルートとなっていました。とはいえ中央山地が屈曲して北西方向に向かう場所、ヘアピンカーブがつづく難所となっています。したがって、守りに有利な場所となっていました。
カリガラ平原に大軍を上陸させ、そこで奉天大会戦風の大会戦を夢想した陸軍は東京・第一師団などをこの地に派遣、アメリカ軍を防ぎつつ海岸線まで押し戻すべくこの峠を越えてオルモック平原に進出しようとする日本軍との間に激しい攻防戦が約一カ月にわたって繰り広げられます。
攻めあぐねたアメリカ軍は、定時に大量な爆弾を日本軍陣地に打ち込んで「消耗」させる一方で、つぎつぎと軍隊を投入、なかにはジャングルの中を迂回して日本軍の裏に回り圧力をかけるといった日本軍顔負けの泥臭い作戦も強いられます。こうしてレイテ島の戦いの中でもっとも過酷な戦いが繰り広げられ、日米双方に多大な犠牲者を出すことになりました。
こうした事情を背景に、リモン峠(リモン川を隔てて北峠と南峠があります)附近にも、いくつかの慰霊碑が建てられます。
もっとも中心になるのが第一師団戦没者英霊之碑です。峠道を上りきった場所のオルモックに向かって左側に青色の看板(オルモック側に面している)が立っており、その横の階段があります。上に上がると広場があり、粗末な小屋の中に木製か木製に似せたコンクリート製の第一師団の戦没者慰霊碑が2柱、1基の地蔵、数本の卒塔婆がありました。昔の写真などを見ているともっとたくさんあったと思われますが、撤去したのか、台風などの影響なのか、減っていました。小屋の外に千葉県関係の鎮魂碑や個人の慰霊碑などもありました。
リモン峠の慰霊碑
レイテ島最大の激戦地リモン峠は約一カ月にわたって日米両国が死力を尽くしてたたかった戦場です。そのため、慰霊碑の多くが実際の陣地など戦場に近いところに建てられています。
そのため、カーブがつづく道路から階段を上っていくという奥まった場所に慰霊碑があります。階段を見つけるのが、探し方の基本です。今回はダウンロード型の地図を持っていき、自分のいる場所を確認しながらさ、じっと道路沿いを見るというやり方でした。
一番オルモックよりが工兵碑(工兵第一聯隊と師団防疫給水部の慰霊碑)です。よりそうように一人の兵士の慰霊碑があります。防疫給水部と聞いて731部隊との関係を考えてしまいますが調べていません。
次にあるのが「鎮魂」と書かれた第一砲兵聯隊の碑です。木工家具店の横に写真のような英文の看板があり、その横の階段をかなり上った所に「鎮魂」と大きく書かれた石碑があります。それによると、ここは実際に第一砲兵聯隊の砲が据え付けられていたようです。友人は記帳を求められたみたいです。
※なお、墓地の管理や土地の持ち主へは、一定額のお礼をしました。額は友人と奥さんの相談で妥当な金額を考えて頂いたみたいです。ただ自称管理人も多く、ドライバーが、この人は本当みたいというアドバイスをしてくれました。
そして一番北側のタクロバンよりに位置するのが第一師団の慰霊碑です。ここがリモン北峠のすぐ上にあることから、陣地が置かれていたと想像できそうな場所です。
慰霊碑巡りを終えて
わたしたちの慰霊碑巡りはここで終了です。「実際、どこで戦争があったのかを知りたい」という私の思いからはじまったレイテ訪問でした。
慰霊碑の多くは道路沿いなど訪れやすい場所に建てられています。実際の戦場はもっと広範囲だっただろうし、車で走り回ったなんの変哲もない場所だっただろうし、また険しい中央山地やなかなか入りにくい西部丘陵の中にも「地獄」が広がっていたと思います。
平和そうに見える田園地帯のなかで(レイテには美しい水田が広がっていますし、一見ジャングルにみえるところも椰子畑だったりバナナ農園だったりします)繰り広げられた「地獄」をどれだけイメージできたか心苦しい次第です。
行った場所についての報告をフィリピン・レイテ・サマール等の慰霊碑・記念碑 ’20にまとめました。よければご覧ください。
その後、私たちは、車中、居眠りをしたり、カメラの中の写真を整理しながらタクロバンに戻り、友人と私は現地の図書館に、友人の夫人と姪御さんは買い物へいき、おちあって、最後の夕食をともにしました。
フィリピンでは、たべられないほどの料理を提供するのがマナーみたいですが、ジェフとボッグスはレストランに頼んで残った料理をつめてもらい、世話になったホテルの人たちにも分けたという話を聞きました。いい人たちです。
翌朝、私は友人家族や愉快なドライバー達と別れ、タクロバン空港からマニラを経て帰国しました。
友人達は、サマール島で魚を買い込んだ後、長駆、リガオの自宅まで帰られたそうです。
お世話になりました。ありがとうございました。
問いかけに答えられるのか
ここからは後日談です。(実際は上の文章も後日まとめたものですが)
レイテの旅行記をまとめていて、フィリピンの人にも評価されているひとりの日本兵のことを調べた。
小生は美談を聞くと眉に唾をつけたいひねくれ者なので、背景にあるフィリピンの「親日派」につながり、面白い視点になるかとも思う。(※この視点から「米軍の上陸とハンサムな将校」をかきました)
とりあえず、この日本兵は統治が安定していた短い時期に現地を統治、珍しく人間らしさを保った「いい人」ではある。とはいえ命を賭してフィリピンのために尽くしたというほどでもない。
もう少し調べようとネットを見ると、なんと、この人物、「日本すごい」教徒の「神」ではないか!
そしてフィリピンの人はみんな知ってる、尊敬しているという神話にさえなっている。
レイテやフィリピンで「いいこと」をした人があまり見当たらず、悪いことをした、させられてしまった人が多いという「人材不足」のため、相対的に「いい人」が浮かんできたとしか思えない。
とはいえ、いくら持ち上げても、一緒にまわったドライバーが発した「なぜ日本人はフィリピンにやってきたの?」という問いの前には、光を失ってしまう。
当時のフィリピン人にとって日本人は招かれざる侵略者以外の定義は存在しない。
日本がフィリピンを侵略し、多くの迷惑をかけたという事実の前に謙虚であるべきだ。
70年代、収骨と慰霊のためフィリピンを訪れた日本人はそうした自覚を持たなければ、来ることができなかった、この地はそうした地なのだということを再度確認しておく必要がある。
ここで記したことは、現在でも変わりません。
最後に、今回の連載でも何度か引用した中野聡氏の一節(これもかつてFacebookに書いた文章です)を引用して今回の連載の終わりとしたいとおもいます。
第二次世界大戦終結五〇周年の一九九五年、諸島全土が戦場であったフィリピンでは久しぶりに「戦争の記憶」が喚起された。そのクライマックスとも言うべきマニラ戦五〇周年では、非戦闘員十万人の犠牲者を追悼するため民間が組織した平和祈念行事「メモラーレ・マニラ一九四五」が記念碑を建立するとともに、マニラ大聖堂でハイメ・シン枢機卿によるミサが行なわれた。
主よ、私たちの祈りをお聴き下さい/犠牲の山羊たちのように屠殺された罪のない子どもたちのために/家族の安らぎから離れて家畜のように囚われの身となり死んでいった男たちのために/殺される前に虐待され、あらゆる苦しみと屈辱を舐めさせられた女たちのために/殺し、強姦し、屠殺した者たちがその罪を認め赦しを乞いますように/主に祈りましょう
最後の一節は、言うまでもなく日本人に向けられたメッセージである。しかし、阪神・淡路大震災とオウム真理教事件、経済の低迷に揺れる一九九五年の日本で、マニラ戦をはじめとするフィリピン戦の過去が顧みられることは、ほとんど皆無に等しかった。このことは、やはり、問題と言わなければならない。どんなに「歪んで」いようとも、過去が喚起され続けて国民意識がぶつかりあう方が、国際関係上の安全弁としては望ましい、という見方もあり得る。また、世代を超える継続性に限界のある慰霊の営みが終焉した後に、相互理解と対話の蓄積を欠いた過去の封印が解かれたとき、どのような国民意識のぶつかり合いが起こるかは、楽観を許さない。今後、日比双方の「ふるまい」として求められているのは、死者に敬意を払う寡黙な営みよりも、むしろ、饒舌に過去を喚起することであるようにも思われるのである。
このときの旅行にかかわるフェイスブックでの連載は基本的には以上でおわりです。
おわり
追記:各地の慰霊碑をまわり、そのようすを伝えていただき、私たちもお世話になった方が、再びレイテの慰霊碑をまわったところ、リモン峠にあった第一師団の慰霊碑の小屋が昨年12月の台風で崩壊した、しかし現地の役所と折衝、再建していただくことができたとのことです。
私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版
<フィリピン・レイテで考えたこと:メニューとリンク>
1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:慰霊碑巡り
6:ドライバーの問い