史料の発信・受信・保管~警視総監の報告が陸軍に残ったわけ

「暴徒に関する内報綴」臨秘第一号末尾 発信者安立綱之と受信者山県有朋の名が見える。

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史料の発信・受信・保管にかかわって

~警視総監の報告が陸軍に残ったわけ~

この文章は、現在聴講を行っている「日本近現代史史料講読」の授業レポートとして提出したものです。詳細については別稿をご覧ください。

テーマ:報告先はなぜ山県で、文書はなぜ陸軍に残ったのか。

 

起:なぜ山県か、なぜ陸軍文書なのか

防衛省防衛研究所所蔵文書に明治38年自9月至12月暴徒に関する内報綴」という簿冊がある。いわゆる日比谷焼き打ち事件に関する記録を集めた文書綴りであり、文書の発信者は警視総監安立綱之受信者は元帥山県有朋である。ここで疑問が生じる。警視総監は内務大臣直轄下にあり、本来なら報告は内務大臣(形式的には東京府知事)にあげられるべきである。いくら国家の黒幕とはいえ、山県に送るのはおかしい。もし山県個人に送ったと仮定すれば、この文書が大本営陸軍部・陸軍を経て、防衛研究所に保管されることもおかしい。なぜ山県か、陸軍なのか。

承:二つのキーワード

疑問は2つのキーワードで解ける。まず山県の立場である。この時期、首相は桂太郎であるが、日露戦争中ということもあり、戦争指導部の地位が極めて高かった。陸軍の統帥権は参謀本部の責任下に置かれ、日露戦争には最高指導機関・大本営がおかれ、陸軍部の最高ポストが参謀総長であり、戦争の全期間を通して参謀総長の地位に就き、事件当時も其の地位にいたのが山県有朋であった。陸軍側の最高指導者は山県であった。
9月5日に発生した日比谷焼き打ち事件は東京全域に拡大し、内務省や国民新聞社、首相邸やその愛人宅が襲撃され、さらには警察署・分署・派出所・交番が次々に襲撃されるという事態となる。この段階で、暴動の鎮静と治安回復の責任者は警察である。しかし事態はそうした範疇を超える規模へと拡大、ついに軍隊も治安出動を行う。
こうした事態を背景に、翌9月6日戒厳令が施行された。戒厳令は旧憲法14条にしたがって、天皇が宣告し、その地域における立法・司法・行政事務は戒厳司令官の権限にゆだねられ、住民の憲法上の自由・権利は制限される。しかし軍人である戒厳司令官は陸軍の統帥下にあり、参謀総長の影響下に置かれる。こうして戒厳令下の東京市の最高実力者は山県となり、警視総監も山県に報告を上げたとかんがえられる。二つ目のキーワードは戒厳令である。

転:9月5日の記載がない理由

この簿冊の中には、事件の出発点である日比谷公園での衝突や新富座での混乱、内務省襲撃その他、日比谷焼き打ち事件で必ず取り上げられる事件の記載はない。さきにみたように、9月5日の責任者は内務省ー警視庁のラインに委ねられていたからであり、あくまでも軍隊はその手助けをするのみである。たとえ様々な事態についての報告があげられても、それは事務連絡にとどまったと考えられる。ところが戒厳令の発布によって事態収集の責任は、戒厳司令官(軍部とくに陸軍)に移ったのである。

転2:文字の濃さが違う理由

なお、写真でもわかるようにこの文書全体の文字は薄く、宛先の元帥山県有朋殿という文字だけが濃い。これは当時のコピーにあたるこんにゃく版という技術を使って数部(一般には最大20枚程度といわれる)印刷されたものと考えられ、それに墨で宛先を書いたからである。したがって、全く同様の文書が内務省などの役所や、最初の推測のように元老など「黒幕」の関係文書などで発掘される可能性がある。

結:公文書が示す権力の所在

公文書はその内容とともに、発信者・受信者・来歴を通じて、そのときの権力や権限の所在を示すことがある。今回もどの段階までの文書が存在せずどの段階から現れるのかを通して、東京の治安の責任が、内務省(東京府知事)→警視庁→警察から、大本営(参謀本部)=戒厳司令官→警察・陸軍治安部隊、へと移り変わっていく様子をみることができる。

 授業を受けて、一部訂正、加筆しました。(’18,6,1記)

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