幕末の政局(1)~「オールジャパン」か「幕府独裁」か

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<前回の授業 貿易の開始
<14時間目>

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幕末の政局(1)~「オールジャパン」か「幕府独裁」か

<生徒のノート(板書事項)>

うまく内容をまとめているノート。ちょっと勘違いもあるが…。 幕末の政局(1)

幕末の政局2

開国と貿易開始をめぐる幕府の動き

それでは授業を始めます。
前々回では、ペリーの来航と日本の開国。二つの条約の内容について見ました。つづいて前回は、貿易の開始が日本の経済、さらには社会に与えた影響を見てきました。現在、審議中のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)は関税を撤廃し自由貿易を促進するといった中身も持っており、幕末に貿易をはじめたときと似たような現象をおこす可能性をもっています。
今回から数回は、幕末の政局を見ていきます。幕府も、各藩も、それぞれ複雑な動きをするので、すこしわかりにくいかもしれませんが、しっかりとついてきてください。

ペリーの来航と阿部正弘

少し時計の針を戻し、ペリーが来航した時点に戻ります。
ペリーが来航したときの、幕府のリーダーは筆頭老中阿部正弘です。

阿部正弘 福山藩主。筆頭老中でペリー来航時の難局にあたった。

 阿部は温 厚で誠実な人柄、イケメンで大奥(将軍家の生活スペー スで将軍とお母さんや奥さんたちが女中たちと住んでいた場所)の女性たちの人気者でした。
阿部は、ペリー来航の意味をしっかりと理解しました。つまり「これまでの 幕府のやり方では解決できず、日本全体で対応しなければならない問題である」ということを。
そのため、すべての大名に意見書をださせ、一般からも身分をこえて意見を求めました。さらに開国反対論の中心である水戸藩の徳川斉昭を幕府参与に任命、外国事情に詳しい島津斉彬や松平慶永といった雄藩の大名とも連携をとり、有能な役人も多数登用しました。貧乏旗本であった勝海舟も、そのすぐれた意見書により登用されました。
お台場(大砲を設置する埋立地)を設けて江戸湾防衛体制をつくり、大きな船の建造も認めました。
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嘉永の改革 阿部正弘はオールジャパン体制を目指そうとした。 山川出版社「詳説日本史図説」P195

そして慣例をやぶって天皇=朝廷にも事情を報告、幕府のやり方への合意を得るということさえ行いました。阿部によるこうした一連の改革を嘉永の改革とよびます。
阿部は、こうした丁寧な根回しの上に、日米和親条約を結んだのです
阿部の考えは、日本が一つにならねばこうした危機に対応できない、オールジャパンで幕政を運営しようとしたのです。当然反対も多く、1857年過労死のような形で死亡します。

通商条約締結をめぐる混乱

阿部のやり方は、幕府がすべてにおいて責任を負 うという慣例に反するものでした。とくに、国政から排除されていた天皇=朝廷や親藩・外様の雄藩に発言を認めたため、政治から排除されてつづけてきた 勢力の力を急速に伸ばしました
このため、幕府の政治運営はいっそう困難になりました。オールジャパンをめざすことは、支配層の意見統一にいっそう困難をもたらすことでもありました。
こうした困難は通商条約をめぐるやりとりのなかで表面化します。
幕府が、ハリスの話を聞いて「通商条約締結やむなし」と判断したことは、すでに話したとおりです。
これをうけ、阿部の政治を引き継いだ筆頭老中堀田正睦も天皇の許可(勅許)を得て、オールジャパンでいこうと考えました。
ところがすでにみたように孝明天皇は頑として勅許を拒否したのです。水戸藩のように反対している藩があるのに、先に勅許をもとめるのは幕府の責任逃れではないか、再度、意見を統一して持ってこい。これが天皇の言い分です。こうして天皇の権威を借りてオールジャパンを実現しようとした堀田の作戦は裏目に出ます

なぜ孝明天皇は勅許を拒んだのか

ではなぜ孝明天皇が条約を調印を許可をしなかったのでしょうか。天皇が世間知らずで無知だったからではないでしょう。
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孝明天皇 この人物の天皇としての責任感の強さが混乱を招いたともいえる。

当時、朝廷のまわりには、いろいろな人が接近、天皇へも影響力をもっていました。冷遇されてきた公家たちはこの機会は朝廷の権威を高める絶好の機会だと感じました。天皇こそが日本の中心だと考える人たちも急速に増えていました。開国を支持する人の中でも、外国におどされて、開国することには反発が強かったのです。
孝明天皇自身の思いもありました。「日本に外国人(「夷狄」)を入れることは先祖の道や日本の伝統に反するのではないか」という。鎖国から200年以上たっています。かつて、日本人が海外に出たり、外国人が日本各地を歩き回っていたことなど、とっくに忘れ去られています…。
さらにいうならば、政治は将軍に任せている(これを大政委任論といいます)ので、幕府が責任を持って判断すべきなのに、異論があるまま自分のところにもってきて判断を任せるのは無責任ではないかという思いもあったのでしょう。だからこそ、再度、諸藩の一致した意見を求めたといえます。
こうしたさまざまな思いや事情から、天皇に通商条約への許可(勅許)を与えさせなかったのです。
朝廷のまわりに、開国反対派しかいなかったわけではあり ません。松平慶永の命を受けて開国賛成派の越前藩の橋本左内が活動し、島津斉彬の側近西郷隆盛も 開国支持の立場から公家を説得しています
彼らは、重要な特命をおびて京都に来ていたのです。

将軍継嗣問題の表面化~国家像の対立

当時は13代将軍家定の時代でした。家定は体に障害があり、かつ虚弱体質で跡継ぎを残すことは難しいといわれていました。
家定はいつどうなってもおかしくないといわれ、幕府内外で公然と 将軍の跡継ぎ問題が語られていました。
跡継ぎ問題は、幕府と日本の 未来にかかわる考えの違いにもつながっていました。
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帝国書院「図録日本史総覧」P198

南紀派~これまでどおり、すべてを幕府に任せるべきだ
跡継ぎ候補は2名。
ひとりは家斉の孫に当たる紀州藩主徳川慶福(よしとみ)、家柄からみても血統からみても文句はありません。ペリー以前なら文句なしに決まっていたでしょう。
ところが問題はその若さ。当時の年齢は、12歳。小学校の高学年から中学1年生
ペリー以前の感覚の人はいいます。「将軍を血統で選ぶことは当然だ。家臣が補佐すればなんということはない。これまでもっと若い将軍もいたのだから
かれを支持するグループを南紀派といい、これまでの幕府のルールを大切にして、これまで通り、幕府が日本を動かしていこうという譜代大名中心のグループです。
 
一橋派~オールジャパンをめざし、改革をすすめる
今は血統とかなんとかいっている場合か!」という立場の人が推していたの が、一橋(徳川)慶喜です。
慶喜は幼い頃から利口で家康以来の天才とさえもてはやされていました。
それを見込まれて、先代の将軍家慶の命で、将軍のスペア保管場所のひとつ一橋家の当主となります。
母方を通して天皇との血縁があるものの、現将軍との血縁はきわめて薄く、強硬な尊王攘夷派でしられる父水戸藩徳川斉昭は多くの敵をもっていました。とくに大奥の女性たちの人気は最悪でした。
慶喜は幕政改革という難事業を行うための知性と決断力をもち、朝廷との良好な関係がのぞめため、危機における将軍には最適だと思われたのです。
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松平慶永(春嶽)幕末以来、改革派のリーダーとしてつねに政局の中心にいた。

彼のグループ(一橋派と言われます)は、大規模な幕政改革によってオールジャパンにふさわしい幕府=日本の統治体制を作ることを望むメンバーが集まっていました

一橋派のリーダー越前藩主松平慶永とそのブレーンたちは、「天皇を頂点にして将軍が中心となって雄藩も参加した政治体制、連邦国家のような国の樹立を検討していた」といわれます
なお、外国との交渉の矢面に立っていた開国派の岩瀬忠震(いわせただなり)ら有能な官僚たちもこのグループでした。
 したがって、一橋派は、開国賛成・反対を有無を問わず幕府の大幅な改革によるオールジャパン体制をめざすべきだと考える人たちがあつまり、大幅な改革を嫌いこれまで通りの幕府独裁をめざす勢力が推す徳川慶福が将軍を引き継ぐことに反対していたのです

一橋派の朝廷工作と南紀派の反発

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島津斉彬 開明派として名高い。日本で最初に写真を撮った人物としても有名。彼の死によって、明治維新が遅れたという人さえいる。

新しい日本というビジョンをもっとも明確にもっていたのが薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)越前藩の松平慶永(よしなが)でした。
斉彬は大奥に対する工作のために養女である篤姫を将軍家定の正室に送り込むととともに、腹心の部下西郷隆盛に命じ慶永の側近橋本左内とともに朝廷の推薦をえて、慶喜を跡継ぎさせようと工作させました。
しかし、こうしたやり方は、南紀派のいっそうの反発を招きます。
薩摩は幕府の仮想敵のトップともいえる外様大名、朝廷は家康がとくに恐れていた存在、かれらへの危機感は抜きがたいものでした。父斉昭の 過激な言動も、大奥の女性たちの慶喜への反発の原因になっていました。

大老井伊直弼による独裁と挫折

井伊直弼の大老就任

1858年、通商条約における老中堀田正睦の朝廷工作の失敗をきっかけに事態が 大きく動きます。

 南紀派の中心人物で、譜代大名のトップの井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老に任命されます。家定自身が命じたというのが実際のようです。裏で大奥の力が大きかったともいわれます。家定は、次の将軍を慶福とするという含みを持って、譜代大名のトップ井伊直弼を強力な権限をもつ大老に指名しました。これをきっかけに、幕府の混乱は一挙に加速していきます。

勅許なしで修好通商条約を調印

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岩瀬忠震 すぐれた国際感覚を持った外交官で、通商条約締結に尽力した。のち失脚、失意のうちに死亡する

この混乱のさなか、アメリカのハリスがやってきます。「中国で続いていたアロー戦争が休戦となった。イギリスが日本に向かっているという情報が入った。イギリスは強硬な態度をとるだろう。座して待っていていいのか」
 これを聞いた交渉担当者の岩瀬らは井伊に迫ります。「本当によいのですか」と。井伊はいいます。「朝廷の許可なしで条約を結びたくない。できるだけ長引かせよ」といいながら、ついに「やむを得ないときはしかたない。自分が責任をとる」と答えました。
井伊の許可が得られたと考えた岩瀬たちは、ついに日米修好通商条約に調印しました。勅許をえることなしに!
このことが、ボタンの掛け違いのように、幕府と反対勢力の間の混乱の原因となります。

幕末の対立軸は、本当に開国をめぐる是非なのか

この時期の対立を開国か、開国反対(これを「攘夷」とよびます。夷狄= 外国勢力を日本から追いだせ。鎖国に戻せという意味です)か、という対立軸でとらえることがあります
しかし、西郷が開国派の立場で朝廷工作をしたように、ある程度の知性を持っていた人は、吉田松陰が海外貿易による海外進出を主張していたように、攘夷派と区分されていても、開国=貿易開始は、やむをえないと考えていました
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井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

にもかかわらず、なぜ尊王攘夷(「天皇を尊び、異国を打ち払う」という意味)を強硬に主張したのか。
それは、日本全体 がオールジャパンとして合意した開港ではなかったこと。幕府だけが、日本全体 (とくに天皇)の意見も聞かずに外国の圧力の前に「かっこわるい」形で条約を結んだことを問題にしていたのです。だから、いったん条約をリセットして、新たに対等な形で条約を結びなおすべきだというのが、かれらの主張でした。攘夷論の多くはこうした考え方でした。
ここに、幕末の混乱の対立軸があります。
家定の跡継ぎをめぐる対立は、「幕府が粛々と自分の職権に基づいて条約を調印した。何が悪い」という立場と、「日本が一丸とならなければ外国に思いのままにされる。オールジャパンの体制を作り、日本が主体性を持って条約を結び直す。オールジャパンの要は天皇しかない」という二つの立場の争いだったのです。のちに倒幕の中心となる薩摩も 長州も、幕府が改革を進めればオールジャパンが実現できると考えていました
しかし、井伊のようなやり方をみるにつけ、「幕府に任しておけない」と考える勢力が力を伸ばしていきました。
自藩を優位に」という思いもあったと思いますが…。

それぞれの「正義」

井伊自身もある程度のオールジャパンの条約締結(とりあえずは条約勅許)を望んでいました。しかし「イギリスの攻撃をうければどうしようもない」という岩瀬らの判断を信じて、独断で調印したのです。
岩瀬ら出先の担当者の責任ともいえないでしょう。
岩瀬らも彼らなりに判断し「日本のためにはしかたがない」と判断し、井伊を説得したのでしょう。幕府のためではなく、日本のため!その誠実さが井伊を動かしたのでしょう。岩瀬は一橋派であり、この直後、役職を外され謹慎を命じられ、失意のまま死亡します。
それぞれが、それぞれの立場で、命を賭けて「正義」を選び取ろうとしました。歴史はそうした行動の上に、複雑な動きをとりながらすすんでいくような気がします。

将軍継嗣の決定と一橋派、朝廷

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徳川家茂像(徳川記念財団蔵)

勅許なしの条約締結を果たした井伊は、返す刀で家定の跡継ぎを紀州の慶福に決定します。その直後、家定は死亡、慶福が家茂(いえもち)と改名して14代将軍となります。
井伊の強硬なやり方に一橋派は激怒しました。水戸の斉昭や越前の慶永たちは決められた日でないのに、江戸城に登城して井伊を詰問しました。
他方、勅許のない条約を締結したことに激怒した孝明天皇は「天皇の地位を降りる」といいだし、幕府のやり方を批判し、「幕政改革を要求する、その気持ちを諸藩に伝えてほしい」との内容の手紙(戊午(ぼご)の密勅)を水戸藩!に与えました。

安政の大獄の発生

天皇が頭ごしに水戸藩に勅書を与えたことを知った井伊は激怒、「幕府の権威を守るためにはこれしかない」と一橋派および密勅にかかわった人々に対する弾圧をはじめました。これを安政の大獄といいます。
YZ197一橋派の諸大名や密勅にかかわった公家は引退と謹慎を余儀なくされまし た。朝廷のやり方に影響を与えたとされる知識人など関係者や、越前の橋本左内や水 戸家の家臣などが捕らえられました。長州藩で小さな私塾を開いていた吉田 松陰もとらえられました。そして、あるものは処刑され、あるものは拷問などが原因となって獄中で死亡、残りも流刑などの重い罪に問われました。
越前の橋本左内や長州藩の吉田松陰らはさしたる罪もないにかかわらず斬首となります。

島津斉彬と西郷隆盛

これを聞いた薩摩藩の島津斉彬は、日本最新鋭の薩摩兵を率いて京都に進出、朝廷を保護したうえで幕政改革を要求しようと考えましたが、出発直前に急死してしまいました。
主君の死によっておいつめられた西郷隆盛は尊王派の僧侶月照とともに入水自殺を図りました。月照は死亡しましたが西郷は命を取り留めます。
薩摩藩は、幕府の追及を避けるため、西郷は死んだことにして、奄美大島に送りました。

大老井伊の「正義」~幕府独裁をつらぬく

井伊直弼も、彦根藩も、天皇を尊重する(「尊王」)の思いは強かったと言われます。国際情勢もよく理解している開国派でした。ただ、「外交においても内政においても幕府(譜代大名と旗本)が全責任を持って政治を進める、それが天皇から与えられた征夷大将軍の権限」だと考えていたのでしょう。

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山川出版社「詳説日本史図説」P197

だから、本来は聞くべきでない親藩や外様大名、朝廷の意向をきいてオールジャパンで難局に対応するという阿部正弘以来の路線は家康以来の方針に反すると考えていました。さらに、阿部の路線をいっそうすすめようとする一橋派は「幕府の権限を侵し、親藩、薩摩藩に代表される潜在的な敵である外様大名を利する」と思ったのでしょう。
そしてこうした勢力と朝廷が結びつくことは、幕府の危機だと考えていました。戊午の密勅は彼の疑いを証明するものと感じさせました。このような考えは南紀派に結集した多くの譜代大名の思いとある程度、一致していたのでしょう。でも井伊は誠実すぎました。自分が防波堤となって幕府を守るのだ」と考えていたように感じます。ただ、守るべきものの第一は「幕府」であって「日本」ではなかったのです。
そしてペリー来航以前のように幕府が他にまどわされずに政治と外交を担い、ペリー以前の幕府と朝廷の「正常な」関係を取り戻そうしたのだと思います。

桜田門外の変~幕府独裁論の崩壊

権力が暴力で権力を維持しようとすると、反権力側はテロをはじめとする他の暴力で対抗します。洋の東西を問わず、歴史の作用反作用の法則ともいえるものがあります。
安政の大獄は、多くの人々の心の中に怒りと復讐の気持ちを生み出しました。たとえば、子どものような美しい魂をもつ吉田松陰を奪われた長州藩、とくに私塾・松下村塾の関係者の心に。主君らを辱められ、自分たちの仲間の多くを殺された水戸藩士たちの心に。
水戸藩士らは弾圧の張本人である井伊直弼の暗殺を計画、1860年3月、登城しようとしていた井伊直弼を桜田門外で襲い、殺しました。季節外れの雪が成功?の背景だったともいわれています。テロリストのなかには薩摩藩士も一人いました。この事件を…桜田門外の変といいます。
桜田門外の変

桜田門外の変 (Wikipedia「桜田門外の変」より)

幕府の最高責任者が江戸城の入り口で公然と暗殺されました。しかも、その首がテロリストらによって持ち去られ、彦根藩はなかなか取り返せず、多くの人のもの笑いのたねにされたのです。
主君を殺された彦根藩からは藩士が続々と集まり、水戸藩も迎え撃つ体制をとります。江戸は市街戦の前夜のような雰囲気となりました。幕府内部では、彦根藩、水戸藩両藩の取りつぶしも検討されます。元気が良い時代の幕府ならそうしたでしょうし、そうしなければいけないところでした。
しかし新たな幕府のリーダー安藤信正は、両藩を必死で説得、「両藩に対する処罰は一切おこなわない」というやり方で収拾しました。これしかない解決策でしたが、これほどの事件になんらかの処罰も下せないのは事実であり、幕府の権威はさらに低下します
井伊の死は、ペリーの来航以前の幕府独裁体制への復帰が不可能となったことを示す出来事でした
以後、幕府のリーダーたちは、一方で朝廷を尊重するといいながら、これまでのスタイルも捨てられない、という中途半端な態度をとることで反発を買い、混迷が深まります
 
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