テキスト 近世史

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戦国時代と安土桃山時代

戦国大名たち

戦国時代は、実力のあるものが、身分が上の者に打ち勝つ下剋上(げこくじよう)の時代でした。武田信玄や上杉謙信、毛利元就など、戦国大名たちは自国の領土を広げようと、互いに争いあいました。また国内の武士を取り締まるために分国法という独自のきまりをつくったり、より多くの財産を得るために、堤防を作って田んぼを広げたり、金や銀の鉱山を開発したりしました。

織田信長登場

戦国大名は、だれもが全国を統一することを夢見ました。まず最初に、天下統一に向かって動いたのが駿河(するが・現在の静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)でした。義元は京都をめざして進軍をはじめましたが、尾張(おわり・現在の愛知県西部)の小さな大名だった織田信長(おだのぶなが)に、桶狭間(おけはざま)というところで敗れました。その後、信長は力をのばし、室町幕府(むろまちばくふ)の足利義昭(あしかがよしあき)を助けて京都に進出、義昭を将軍の地位につけました。
しかし、しだいに義昭と対立、1573年義昭を追い出し、室町幕府は滅びました。

南蛮貿易

1543年、ポルトガル人が鹿児島(かごしま)県の種子島(たねがしま)にたどりつき、鉄砲(てっぽう)を伝えました。またキリスト教を伝えるために、スペイン人のフランシスコ=ザビエルもやってきました。こうした国との貿易を、南蛮(なんばん)貿易とよびます。

信長の戦い、政策、死

信長は、こうして伝えられた鉄砲をたくさん使い、ライバルたちを次々と倒していきました。とくに甲斐(かい・現在の山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)と戦った長篠(ながしの)の戦いは鉄砲を効果的に用いたことで有名です。
また、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりやくじ)を焼き討ちにするなど、宗教勢力に対しても、厳しい態度をとりました。
とくに強敵だったのは、大坂にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心とする一向宗(いっこうしゅう・浄土真宗本願寺派)の人たちとのたたかいでした。
信長は京都に近い安土(あづち)に城を築き、城下町に家来や商人を集めて楽市楽座(らくいちらくざ)の政策を行い、商工業の発展を図りました。しかし天下統一(てんかとういつ)の途上で、家来だった明智光秀(あけちみつひで)に倒されました。これを本能寺(ほんのうじ)の変といいます。

豊臣秀吉の天下統一

ところが明智光秀も、すぐに織田信長の家来である豊臣秀吉(とよとみひでよし)に倒されてしまいました。秀吉は、信長のあとを継ぎ、次々と勝利を収め、勢力を広げ、ついには全国を統一しました。
みずからは幕府(ばくふ)を開かず、朝廷(ちょうてい)から関白(かんぱく)や太政大臣(だじようだいじん)という役職をもらい、その立場を利用し、太閤(たいこう)と呼ばれながら政治を行いました。

太閤検地と刀狩り 、兵農分離

同時に秀吉は、年貢(ねんぐ)の取り立てを確実にするために、全国の田を統一されたものさしやますを使って調べる検地(けんち)を行い、田畑からの予想される取れ高を米の量(石高)で示しました。また農民や寺が反乱を起こせないように、農民や寺の持っている刀などを取り上げる刀狩(かたながり)をして、天下統一を確かなものにしていきました。また、武士と農民、町人の身分をはっきりさせる兵農(へいのう)分離をすすめました。

朝鮮侵略と秀吉の死

秀吉は晩年、国内の統一だけではあき足らず、中国の明(みん)を攻撃しようと、その道筋にあった朝鮮(ちょうせん)を、二度にわたって攻めました。しかし朝鮮では李舜臣(りしゅんしん)という武将の率いる水軍の活躍などもあって失敗、豊臣氏の信頼は失われ、秀吉は失意のうちになくなりました。この時代を、安土(あづち)桃山(ももやま)時代と呼びます。

桃山文化

この時代、豪華(ごうか)で活気あふれる桃山文化が花開きました。大坂城など巨大な城が築かれ、内部の屏風(びょうぶ)やふすまには、狩野(かのう)派(は)と呼ばれるグループの絵かきたちが、金地(きんじ)にあざやかな色彩の絵を描きました。千利休(せんのりきゆう)は茶の湯を茶道(さどう)として大成、出雲(いずも)の阿国(おくに)がはじめた踊(おど)りは、現在の歌舞伎(かぶき)のもととなっています。

江戸時代

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉のあと、天下を収めたのが、三河(みかわ・愛知県東部)の小大名出身の徳川家康(とくがわいえやす)です。
家康は、1600年関ヶ原(せきがはら)の戦いで、豊臣氏を守ろうとした石田三成(いしだみつなり)らを破り、1603年に江戸幕府(えどばくふ)を開きました。そして大坂の陣で豊臣氏を完全に滅ぼしました。

幕藩体制

将軍の下に、400万石という広い領地(天領)と旗本・御家人という直属の武士団の上に立つ幕府と、将軍の家来となった大名たちが土地と人々を支配する藩(はん)によって、日本は支配されることになります。このような体制を幕藩(ばくはん)体制と呼びます。

武家諸法度と参勤交代

大坂の陣終了の直後、幕府は、武家諸法度(ぶけしょはっと)というきまりをつくりました。これ以降、幕府は、違反した大名たちをつぎつぎと取りつぶすなど厳しい態度をとりました。
3代将軍徳川家光(いえみつ)の時代には、大名を1年おきに江戸の住まわせる参勤交代(さんきんこうたい)の制度も正式に始まりました。参勤交代のために、それぞれの藩は多くのお金をかけて大名行列を行い、江戸と藩を行き来することとなりました。

親藩・譜代・外様

将軍は、水戸・紀州・尾張の御三家からも出せるようにして、後継者がなくならないようにしました。また、徳川の親戚である親藩(しんぱん)や、関ヶ原の戦いの前から徳川の家来であった譜代(ふだい)の大名を、江戸や御三家の近くに置きました。一方、関ヶ原の戦いのあとに家来になった外様(とざま)の大名を江戸から遠いところに置くなど、幕府がほかの大名からおびやかされないようにしました。

鎖国(さこく)と禁教

幕府は、キリスト教禁止を徹底し、貿易の利益をひとりじめするため、日本人が海外に出かけることやオランダ人以外のヨーロッパ人が日本に来ることを禁止しました。これを鎖国(さこく)といい、江戸時代の終わりごろまでつづきました。

対外関係と仏教

こののち、オランダ・中国2カ国とは長崎(ながさき)で、朝鮮(ちょうせん)とは対馬(つしま)で、貿易を行いました。特にオランダとの貿易を行った場所を出島(でじま)といいます。また独立国であった琉球(りゅうきゅう)王国は薩摩(さつま)の支配の下に置かれました。朝鮮とは国交を回復し、朝鮮通信使という使者がやってくるようになりました。
なお、キリスト教の禁止を徹底するために、絵踏(えふみ)を行い、寺院に仏教の信者であることを証明させました。寺院がつくる宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)は戸籍の役割をし、移転や結婚は、寺院の証明を必要としました。こういった制度を寺請制(てらうけせい)とよびます。

武士

江戸時代の人々は、身分(みぶん)制のもとで生活をしていました。武士と町人はおもに城下町(じょうかまち)に住み、百姓(ひゃくしょう)とよばれる農民は農村に住んでいました。
武士は、刀を差し、苗字をもつなどの特権がありましたが、家柄や役職などによって細かく分けられ、武士道(ぶしどう)という道徳を守ることがもとめられました。

町人

町人は、営業税を払い、町ごとに運営されました。しかし、運営に参加できたのは家や土地をもつ人だけで、多くの人は、借家(しゃくや)に住み日雇(ひやと)いや行商(ぎょうしょう)などで生活したり、商家の奉公(ほうこう)人や職人の徒弟(とてい)として住み込みで働きました。

百姓

農業が社会の基礎だと考える幕府は、それまでの村のもっていた仕組みを利用し、村の責任で年貢(ねんぐ)をおさめさせました。これを村請制(むらうけせい)といいます。
庄屋(しょうや)または(しょうや・なぬし)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)からなる村方三役(むらかたさんやく)とよばれる村役人を中心に、自分の土地をもつ本百姓(ほんびゃくしよう)が参加して、村は運営されていました。これに対し、土地をもたない水呑(みずのみ)百姓は村の運営にはかかわることができませんでした。
また五人組という制度がつくられ、農民間の連帯責任が問われました。幕府は、農民の生活を守るため、土地の売り買いを禁止し、米以外の作物をつくることも制限しました。

江戸・大坂の繁栄

江戸時代は長い間、大きな戦いがなかったので、いろいろな産業が発達しました。
江戸は、「将軍のおひざ元」とよばれ、将軍家の城下町として、また諸藩の江戸屋敷(やしき)も置かれ、約100万人の人口をかかえる当時の世界最大の都市となりました。
一方、大坂は「天下の台所」とよばれ、各藩があつめた年貢米(ねんぐまい)や全国からあつめられた特産品が売り買いされました。江戸・大坂間には菱垣(ひがき)廻船(かいせん)、樽(たる)廻船という定期船が往復、全国を船で結ぶ西(にし)回(まわ)り航路、東(ひがし)回り航路も整備されました。

農村の変化

農民の中には、お金を出して農具や肥料を買い、綿や油菜(あぶらな)など売る目的の作物をつくる人が増えてきました。蚕(かいこ)から生糸(きいと)をつくる養蚕(ようさん)もさかんになりました。それにつれて、綿(めん)織物(おりもの)業や絹(きぬ)織物業などの手工業もさかんになりました。こうして、農村にもお金の使用が広がっていきました。このことは、農村においても貧富(ひんぷ)の差が拡大する原因ともなりました。

元禄時代

幕府は、17世紀の末から、5代将軍徳川綱吉(つなよし)のもとで元禄(げんろく)時代とよばれる江戸時代の全盛期をむかえました。
上方(かみがた)とよばれる京都・大坂を中心に、庶民の文化が発展しました。
井原西鶴(いはらさいかく)は浮世草子(うきよぞうし)とよばれる小説で、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)などの演劇で、人々の生活を生き生きとえがきました。『奥の細道(おくのほそみち)』をかいた松尾芭蕉(まつおばしょう)によって俳句(はいく)が確立されました。
主君の仇(あだ)を討った赤穂浪士(ああこうろうし)が武士の鑑(かがみ)としてもてはやされたのもこの時代です。この事件は後に忠臣蔵(ちゆうしんぐら)として、歌舞伎などで大人気となりました。
綱吉(つなよし)は、幕府の財政を立て直すためお金の質を下げたことや、生類憐みの令(しょうるいるいあわれみのれい)という必要以上の動物保護政策をとったことなどによって、人気を失いました。

新井白石

綱吉の死後、学者の新井白石(あらいはくせき)が貿易を制限し、お金の質をもどすなどの政策をすすめましたが、成果をあげることはできませんでした。

享保の改革

増えつづけ幕府の出費をおさえるため、8代将軍吉宗(よしむね)は享保(きょうほう)の改革すすめました。吉宗は、武芸や学問をすすめ、ぜいたくをいましめ、大岡忠相(おおおかただすけ)を町奉行(まちぶぎょう)にして法律を整えたり、目安箱(めやすばこ)という投書箱を置き、人々の意見に耳を傾けました。また、米をはじめとするの値段が安定するように努力しました。

田沼意次の政治

これにつづき政権の座についた田沼意次(たぬいまおきつぐ)は、長崎(ながさき)貿易を活発化をはかるなど商人の力を利用した経済の立て直しをはかりました。こうして、経済活動が活発化し、学問や芸術も栄えました。

寛政改革

田沼の政治に反対し、農業中心の経済をめざしたのが、松平定信(さだのぶ)の寛政の改革(かんせいのかいかく)です。定信は、ききんに対するそなえをすすめる一方、旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)の借金を帳消しとしました。さらに倹約(けんやく)をもとめるとともに、上下関係を重視する朱子(しゅし)学を重視し、政治批判を禁止しました。この改革を寛政(かんせい)の改革といいます。

外国船の接近

この時期、ロシアのラクスマンが漂流民の大黒屋光大夫をつれて根室に来航しました。
19世紀初めになると、イギリス軍艦のフェートン号が長崎に突然入港したり、交易を拒否されたロシアのレザノフが樺太などの日本人を襲撃するなどの出来事もおこりました。外国船が次々と日本近海にあらわれたため、1825年には異国船打払(いこくせんうちはらい)令もだされました。

化政時代

19世紀初め、江戸を中心とした町人文化が発達しました。この時代を化政(かせい)時代とよびます。しかしこの時代の終わりごろには社会がみだれ、外国船が日本近海にあらわれ、ききんが相次ぎ、農村では百姓一揆(ひゃくしょういっき)、都市では打ちこわしが増え、大坂では、幕府の役人であった大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が反乱をおこしました。

天保の改革

幕府では、19世紀中期に、老中水野忠邦(みずのただくに)が、きびしい倹約令や領地の大がかりな変更などをふくむ天保(てんぽう)の改革を行いましたが、失敗に終わりました。
なおこの時期、改革に成功した薩摩藩(さつまはん)(鹿児島県)や長州藩(ちょうしゅうはん)(山口県)は江戸時代末期の政治で大きな役割をはたすことになりました。
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