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<史料紹介 「沖縄 – 忘れられた島」>
「沖縄~忘れられた島」が描いた1949年沖縄
戦後の沖縄史でよく引用される雑誌記事があります。タイム誌(1949年11月28日号)に掲載されたフランク・ギブニー記者の「沖縄 – 忘れられた島」です。掲載された直後、早くも「うるま新報」(現:琉球新報)に大要が翻訳、転載されます。
そこには占領後四年目の沖縄の姿が、とくに米軍・軍政の問題点が厳しく糾弾されます。
沖縄の人々が言いたくても口に出せない内容を、アメリカ人記者が代弁したように見える内容です。
曰く
「司令官たちの中のある者は怠慢で仕事に非能率的」
「軍紀は、世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪」い
「沖縄は米陸軍の才能のない者や除者(のけもの?)の態(てい)のよいはきだめ」
「米軍は占領中時に日本がしたのよりも厳しく沖縄人を取扱つた」
「米国のブルドーザーは沖縄人が一世紀以上も骨身をしまずにつくつた丘陵の畑をわずか数分間でふみつぶした」
「沖縄人は軍政府を通じてしか外部と貿易が出来ない(中略)その結果は台湾との活潑な密貿易となつてあらわれている」
このように沖縄における「米軍」と「軍政」を「ぼろくそ」に批判します。このような内容が掲載され、沖縄の新聞にも転載されたことは沖縄住民にとって驚きであっただろうし、多くの人が快哉を叫んだことでしょう。
「シーツ善政」とのかかわり
このような記事が沖縄の新聞に公然と掲載されたこと自体、これ以後の軍政を考えると不思議なことのようにみえます。
ただ注意深く見ていくと、この記事は、
それまでの軍政=「悪」、新たなシーツ(+キンカイド)軍政=「善」という図式で書かれています。これまでの軍政をネガティブに描くことで、新たにはじまるシーツ軍政に期待させる意図が透けて見えそうです。
実際に、沖縄戦後史では、シーツ少将のもとにすすめられた軍政を「シーツ善政」とよびます。
「沖縄県の100年」(山川出版社2005)の一節を引用します。
軍工事ブームと並行して、民心の安定をはかるために、昭和24年10月に就任したシーツ軍政長官のもとで戦災復興計画が実施に移された。不要な軍用地が開放され、土地所有権が認定され、知事公選を約束し、ガリオア資金を増額して民生向上にふりむけた。沖縄住民がようやく飢餓地獄から脱したのはこのころである。これらの社会政策を沖縄住民はこぞって”シーツ善政”とたたえたが、全島要塞化の軍工事が進むにつれてやがて深刻な軍用地問題に気がつくのである。(p245 大城将保執筆)
「シーツ善政」は、沖縄の恒久基地化をはかり、建設資金をばらまき、沖縄県民の雇用を拡大し、経済発展を進める政策でもありました。それによって敗戦の苦境からある程度脱却できました。しかしそれは沖縄を本格的な「基地の島」に変え、経済を「基地依存」とする政策でもありました。
この観点で見ると、この記事の中には
「沖縄人は60年以上の長い間沖縄人を田舎者と蔑視した日本軍や日本商人によって搾取されていた、米軍が上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時彼等は驚き且つ喜んだ」
「彼等は米国人がすきで、沖縄が米国の属領となることをはつきりと望んでいる」
といった記載があり、沖縄を本土から分離することの正当性を主張しているように見えます。また
「多くの軍人家族は渡り芸人のキャンプの如きコンセツトで生活しているが1人の若い将校は「台風にトタンを吹きとばされては打ちまたふきとばされては打つというあんばいでは嫌になりますよ」とこぼした。沖縄の全駐屯部隊が十分な兵舎をもつに至るまでは三年の日子と7,500万弗の金を要する〔議会は既に5,800弗を支出した)」
という記載からは基地の恒久化というアメリカの意図が見えてきそうです。
フランクーギブニーについて
筆者のフランク・ギブニーは、のちに知日派知識人の代表として有名になります。「20世紀西洋人名事典」はこのように記します。
1924.9.21 – (~2006.4.10)
米国のジャーナリスト,実業家。TBSブリタニカ社副会長。ペンシルベニア州生まれ。
大学卒業後、海軍に入隊。第二次世界大戦中、海軍大尉としてサイパン、沖縄などに配属、日本軍捕虜の尋問などに従事。戦後佐世保に進駐後、国際的ジャーナリストとして、「ニューズウィーク」誌編集局次長、「ショー・マガジン」誌編集局長などを歴任。エンサイクロペディア・ブリタニカ日本支社長などを経て、’64年TBSブリタニカ社代表取締役社長に就任、’76年以降副会長。また、エンサイクロペディア・ブリタニカ副会長、パシフィック・ディストリビュート社長も兼任。妻は日本人で、主な著書に「人は城、人は石垣」(’75年)などがある。
記事を書いた当時は25歳、海軍将校の経験を持つ青年記者です。海軍は46年夏まで沖縄の軍政を担当し、そこでは住民の自治意識の育成などにも配慮していました。この記事の裏には海軍側のいらだちが隠れているようにもみえます。
史料について
引用は「那覇市史資料編3巻3」に収録された「うるま新報」1949年12月3日版によりました。
実際の作業においては、この史料をテキスト化しておられた「俺が調子に乗って琉球・沖縄の歴史を語るぶろぐ」を「那覇市史資料編3巻3」(P215~216)で校正する形をとりました。もとのブログは、新聞紙面の写真も掲載しておられるので、元のテキストのほうが正しいかもしれません。
表現上の問題ですが、記事中では「軍」と「兵」という用語がすべてひらがなで「ぐん」「へい」と表記され、「沖縄」ということばは前半は漢字表記ですが後半では「沖なわ」という表記になっています。何らかの事情があるとおもわれます。
ここでは読みやすさを考えて、()内に漢字表記、簡単な注などを追加しています。
<史料>
タイム記者の見た占領下四年後の沖縄
– うるま新報 1949年12月3日
米国が莫大な物量と死傷8万という高価な犠牲で沖縄を占領してから四年、マ(ッカーサー)司令官は外部から何等の注意をひくことなく沖縄の占領をつゞけて来たが最近シーツ少将が米国新聞記者に対し最初の自由な沖縄視察を許した際 沖縄の諸所を視察したタイム誌のフランク、キブニイ記者はタイム誌11月28日号に「沖縄 – 忘れられた島」と題して大要次のように報道している。
沖縄の水田といも畑は2つの巨大な陸ぐん(軍)部隊が11週間に亘って戦ったたこ壺や血のしみた壕をおお(っ)ている。曾ての端正な石造家屋の黒ずんだ礎は雑草に埋れ、そこいらにはテントやまた捨てられた米国製のトタンで出来た揖(掛?)小屋が散在している。
過去4ヵ年、貧しい上に台風におそわれた沖縄は、陸ぐん(軍)の人たちからは戦線の最後の宿営地点と云われ、司令官たちの中の或(る)者は怠慢で仕事に非能率的であつた。そのぐん(軍)紀は、世界中の他の米駐留ぐん(軍)のどれよりも悪く、1万5000人の沖縄駐屯ぐん(軍)が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治して来た。この夏のグロリア台風が沖縄を襲つて甚大な被害を与えた時陸ぐん(軍)では遂にその情況を調査した、琉球司令部は改組され、朝鮮のぐん(軍)政で立派な仕事をした明朗で精力家のジョセフ、アール、シーツ少将がイーグルス準将に代つた。更に空ぐん(軍)司令官も細心で物静かなキンカイド少将に代つたが、司令官が変ってから沖縄の駐屯米ぐん(軍)の士気は大に是正された
占領軍の悩み
多くのぐん(軍)人家族は渡り芸人のキャンプの如きコンセツトで生活しているが1人の若い将校は「台風にトタンを吹きとばされては打ちまたふきとばされては打つというあんばいでは嫌になりますよ」とこぼした、沖縄の全駐屯部隊が十分なへい(兵)舎をもつに至るまでは三年の日子と7,500万弗の金を要する〔議会は既に5,800弗を支出した〕
沖縄は米陸ぐん(軍)の才能のない者や除者の態のよい掃き溜になつていた。
去る9月(1949年)に終る過去6か月間に、米ぐんへい(軍兵)士は殺人29、強姦18、強盗16、殺傷33という驚くべき数の犯罪を犯した。シーツ少将は直ちに士気昂揚の講座を設置して「諸君は米国政府の無任所外こう(交)使節である」と、将士に厳しく訓諭した。
沖縄人の苦悩
沖縄人はその苦しい生活を闘牛の如き簡単な娯楽でまぎらわす暢気な国民である、彼等は米国人がすきで、沖縄が米国の属領となることをはつきりと望んでいる、沖縄人は60年以上の長い間沖縄人を田舎者とべつ(蔑)視した日本ぐん(軍)や日本商人によって搾取されていた、米ぐん(軍)が上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時彼等は驚き且つ喜んだ米国は沖縄人を被解放民族と言つてはいるが米ぐん(軍)は占領中時に日本がしたのよりも厳しく沖縄人を取扱つた、沖縄の戦闘は沖縄の農業及び水産業等の小規模な経済を完全に破壊した。即ち米国のブルドーザーは沖縄人が一世紀以上も骨身をしまずにつくつた丘陵の畑をわずか数分間でふみつぶした、終戦後沖縄人は米国の施し物で生活して来た多くの島民は払下げの米ぐん(軍)シヤツやズボン以外の衣服をもつていない、沖縄人はぐん(軍)政府を通じてしか外部と貿易が出来ないがこれは実際には貿易が全くないことを意味している、その結果は台湾との活潑な密貿易となつてあらわれている、しかし沖縄人は密貿易でも得をしていない、なぜなら沖縄人は米ぐん(軍)施設より盗んだ若干の物品より外にバーターすべきものをほとんどもたないからである、野嵩(のだけ)高校(現:普天間高校)の窓のない職員室で髪のぼうぼうとした老年の島ぶくろ(袋)松五郎校長は「ここの生徒達はしっかりした希望をもちえないほど迷っていますもしあなたにしても米航空隊の作業場ではたらくこと以外に就職口がないとすれば何を努力してハイスクールを卒業する必要がありましょう」と溜息をついた。
復興決意
沖なわ(縄)の諸問題を処理しようとして過去4年間に初めて組織的な努力をつゞけているシーツ少将及びその幕僚は沖なわ(縄)の小マ(ッカーサー)司令部とでもいうべきものを組織するため60乃至80名の企画者を集めている。
那覇では米国技師達が破壊された港の修復の計画で忙しく、また太平洋最大の汽船の入港出来る新しい港について話し合つている。シーツ少将は米国は沖なわ(縄)に対して作戦上の関心よりもなお一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といつた。シーツ及びキンカイド両少将及び幕僚はその責任に直面している、彼らは沖なわ(縄)を復興すべく決意を固めている。