寺島宗則建言
※慶応3年、大政奉還によって新たな対応を迫られる薩摩藩に対し、開成所教授の寺島宗則が藩主に提出した建言。
天皇中心の政治は封建制と両立せず、諸侯(大名)を廃絶せざるを得ないため大政奉還はそれだけにはとどまらないと論じ、その前提での薩摩藩の具体的な対応を論じており、いくつかは王政復古以後、大久保らによって維新政府に提案された。
結果として、のちの版籍奉還から廃藩置県という流れを捉えていたものとして注目されている。
※この史料についての考察や寺島のそれまでの歩みなどを
⇒「【史料紹介】慶応3年11月2日寺島宗則建議」として
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此節将軍家ヨリ奏聞そうもん之儀有之候二付、御沙汰ヲ以、諸侯被為 召候二就テハ、 太守様被遊御上京之筈奉承知候、
右二付微臣宗則両度西洋二罷越まかりこし、聞見仕候毎二、皇国二干渉仕候事共、漫録仕置候得共、時モカナト筐底きょうてい二蔵シ置申候処、此節 朝廷ヨリ諸侯衆議被 仰出候二付テハ、愚言狂説モ、事二依リ万一之御見合二モ相成可申哉卜奉存、不堪舞蹈ぶとう、乃筺底ヨリ稿取出シ、書抜奉入 御覧候、
右之稿ハ一年前洋中二テ記置候モノニ御座候処、其間変移亦不少候二付、此節愚説書添申上候、
当分 皇国振起しんき之為、政権奉帰 朝廷候事二於テ、 御議論被 仰上候二就テハ、天下之人皆存外二感服仕候様二無之候テハ、乍恐おそれながら行ハレ不申候、畢竟ひっきょう政権武門二移候様二成来候ハ、封建之故二御座候二付、総テ封建之諸侯ヲ被廃候ハヽ、真二王道相立候義卜奉存候、
抑そもそも勤 王ヲ唱へ候二、此上モナキ忠節ヲ尽サン二、其封地卜其国人トヲ朝廷二奉還候テ、自ラ庶人卜相成、後之撰挙之有無ヲ期シ候二越シタル事ハ無之、如是ニシテ始メテ公明正大ナル勤 王ノ分卜謂フへシト、私ひそカニ愚説立置申候、
併しかしナカラ世ニ純もっハラ公明正大ノ事ヲ取行ヒ申ハ、難相叶訳ニテ、雑録抄*二モ申候通リ、兎角人情ノ頑かたくな二被索もとめられ候事ニテ、双方斟酌しんしゃく仕へキ事二御座候哉、
幸将軍家慚懼ざんく之罪ヲ謝セラレ候時二当リ、我ヨリ先立テ、仮令たとへハ 御領国何分一ヲ 天領トシテ御返シ二相成候上二テ、幕府領其外之諸侯領、一統右之割合ニテ被返候様二、被遊 御尽力度奉存候、是真ノ公明正大卜申程二ハ、未タ至リ不申候得共、永ク封建之 御恩ヲ被為蒙こうむり時之御忠節ニハ、無此上事ト奉存候、
畿内並辺陲へんすい等警衛之爲、軍船・兵卒其余武用之経費、従来幕府諸侯ヨリ出シ候得共、以来ハ朝廷ヨリ御弁二相成度義二御座候、尤朝廷ヨリ人数被 召候節ハ、平日被申上置候人口之数二応シテ被差出、着京之上ハ、朝廷ヨリ御扶持ふち賜ハリ、動止どうしトモ朝命二被帰候様、相成度奉存候、其他辺陲之衛兵ハ、京師ヨリ御差向二相成可申候、
総テ官タル者ハ、文武共二決シテ封地ヲ以テ禄ろく賜ハリ候儀無之、扶持ニテ賜ハリ候義宜敷よろしく御座候、諸家ヨリ領地幾分ヲ被差出候義二付、心得違ヲ以テ吝やぶさミ嘆キ候方モ可有之候得共、実ハ得失無之、諸所之警衛之用度ヲ朝廷二差上、夫それヨリ御払二相成候間、同様二御座候、唯指令之権 朝廷二移リ候丈だけ之相違二御座候、其外諸侯述職じゅっしょく之事、外国互市御取締之事、天領司農等之事迄モ、乍恐私ヲ棄テヽ被遊奏聞候ハヽ、則 御腹中ヲ天下二被遊拡充候訳ニテ、誰カ服膺ふくよう不仕者有之候哉、
然ルヲ依然タル本之将軍家、本之諸侯ニテ、政権奉帰 朝廷候様ニト、差当リ御奏議モ有之ヘキ筈ニ御座候得共、名異ナルノミニテ、実ハ以前同様二有之、間モ無ク名実ニ被遮可申事明二御座候、
微臣宗則曽テ海外二出候テ、或ハ僭奪数代リ、或ハ瘦地やせち連旱ノ国ヲ履ミ候時毎二、我故国ヲ省ミ候得ハ、 神明統ヲ伝へ、天険彊きょうヲ開キ玉フ、忝かたじけなクモ覆載ふうさいノ土二生レタル事ヲ得テ、塵芥じんかい之微躯モ、我皇国ヲ誇称仕候程之面目二御座候、然ル二今日王室之弛張しちょう切迫之時二当リ、愚トイヘトモ、狂トイへトモ、黙過二堪テ不申、敢死罪ヲ不顧申上候、以上
丁卯十一月二日 臣宗則寺島陶蔵謹具
(『鹿児島県史料・忠義公史料4』p512~513)
*あわせて提出された英国での体験や見聞を書き記したメモ「丙寅帰投雑録抄」を指すと考えられる。また、前年小松帯刀に提出したとされる「幕府・諸侯会盟シテ皇国ノ議律ヲ制ス」の意見書も含まれていたと推測される。(犬塚孝明「人物叢書 寺島宗則」)
※この史料について、別途「【史料紹介】慶応3年11月2日寺島宗則建言」としてまとめてみました。よろしければご覧ください。