【本文】
「丁卯六月 大久保」
方今、皇国の務、国体制度を糺正し、万国に臨て不恥、是第一義とす、其要王政復古、宇内の形勢を参酌し、天下後世に至て猶其遺憾なきの大条理を以て処せん。
国に二王なし、家に二主なし。政権一君に帰す、是其、大条理、我
皇家綿々一系、万古不易、然に古郡県の政変して今封建の体と成る、大政遂に幕府に帰す、上
皇帝在を不知、是を地球上に考するに、其国体制度如茲者あらん歟、然則制度一新政権
朝に帰し、諸侯会議人民共和、然後庶幾以て万国に臨て不恥、是を以て初て我
皇国の国体特立する者と云へし、若、二三の事件を執り、喋々曲直を抗論し、
朝・幕・諸侯倶に相弁難、枝葉に馳せ小条理に止る、却て
皇国の大基本を失す、豈本志ならんや、爾後執心公平所見、万国に存す、此大基本を立つ、今日堂々諸侯の責のみ、成否顧る所にあらす。斃而後已ん。
今般更始一新我
皇国之興復を謀り、奸邪を除き、明良を挙げ、治平を求め、天下万民の為に寛仁明恕の政を為んとて、此法則を定こと左の如し
一天下の大政を議定する全権は
朝廷に在り。我
皇国之制度法則・一切之万機、
京師の議事堂より出を要す、
一議事院を建立するは、宜く諸藩より其入費を貢献すへし、
一議事院上下分ち、議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまて、正義純粋の者を撰挙し、尚且諸侯も自ら其職掌に因て上院に任に充つ、
一将軍職を以て天下の万機を掌握するの理なし。自今宜く其職を辞して、諸侯の列に帰順し、政権を
朝廷に帰すべきは勿論なり、
一各港外国の条約は兵庫港に於て新に
朝廷の大臣・諸侯の士夫と衆合し、道理明白に新約定を立て、誠実の商法を行ふべし、
一朝廷の制度・法則は往昔より之律例ありと雖も、当今の時制に参し、或は当らさる者あり。宜く其弊風を一新改革して、地球上に愧さるの国本を建ん
一皇国興複の議事に関係する士大夫は、私意を去り公平に基き、術策を設けす正実を貴ひ、既往是非曲直を不問、人心一和を主として此の議論を定むへし
右に議定せる盟約は方今の急務、天下の大事之に如く者なし、故に一旦盟約決議の上は、何そ其事の成敗利鈍を視んや、唯一心協力、永く貫徹せんことを要す。
慶応丁卯六月
旨主
一国体を恊正し、万世万国に亘て不恥、是第一義
一王政復古は論なし、宜く宇内形勢を察し、参酌恊正すへし
一国に二
帝なし、家に二主なし。政刑惟一君に帰すへし、
一将職に居て政柄を執る、是天地間有るへからさるの理也、宜し
く侯列に帰し、翼載を主とすべし
右方今の急務にして、天地間常有の大条理也、心から恊一にし、斃て後已ん。何そ成敗利鈍を顧に暇有らんや、
皇慶応丁卯六月
出典:『鹿児島県史料 玉里島津家史料五』(鹿児島県1996年)
p216~218
ただし、カタカナをひらがな表記とした。
【解題】
◎通説的な評価(芝原拓自による解説)
薩土盟約(さつどめいやく)
「幕末維新期に、薩摩藩と土佐藩との間に締結された大政奉還・公議政体を目ざした盟約。1867年(慶応3)6月22日、土佐藩の後藤象二郎 ・福岡孝弟 ・坂本龍馬 と、薩摩藩の小松帯刀 ・西郷隆盛 ・大久保利通らとの間で京都で成約された。内容は、将軍の政権奉還と朝廷のもとに諸侯会議を基軸として政治を運営するというもの。薩長連合による倒幕の動きを察知した後藤らは、坂本のいわゆる「船中八策 」の構想をも一部取り入れ、平和的な政権移行を図るこの路線で藩論をまとめて薩摩側に働きかけた。薩摩側もまた、倒幕準備のための時間かせぎ、予想される幕府の大政奉還拒否による倒幕の名分獲得などの思惑で、この構想をいれたと考えられる。」(”薩土盟約”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge-com.blib-ezproxy.bukkyo-u.ac.jp , (参照 2022-06-02))
◎青山忠正による説明
「薩摩・土佐両藩間の盟約というよりも……芸州藩(浅野家)などをも巻き込んで実現がめざされた『王政復古』を主眼とする政体構想そのものである。」として、前年刊行された福沢諭吉『西洋事情』、前月の赤松小三郎の建白などをきっかけとした「京都政界では、最先端の議論」に基づいたものであり、「文久三年頃から具体化しはじめた『王政復古』を名とする政体変革構想の集約点というべきものであった。」と高く評価し、以後、この「約定書」は芸州藩の同意を得、さらに芸州藩はこの構想と経過を「岡山・鳥取・阿波徳島の三藩にも通報し、彼らの賛同も得ている」と記す。<『明治維新』(吉川弘文館2012) p155~159>
なお、青山は坂本の「船中八策」の存在については否定的な見解を示している。
【追記】木戸孝允が筆録したものの写真版をここから見ることができます。(京都大学所蔵)