<近衛上奏文>
出典 「木戸幸一関係文書」495~498頁
昭和20年二月十四日近衛公爵天機奉伺の際、時局に関し奏上の要旨
(藤田侍従長病気の為木戸内大臣侍立、要旨を手記す)
近衛公爵より天機奉伺言上。近衛は如何とのお尋ねあり。右に奉答の後、公爵は左の如き奏上をなせり。
戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。
最悪の事態に立ち至ることは我国の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測断し難し)。随って最悪の事態丈ならば国体上はさまで憂うる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪の事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。
つらつら思ふに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。蘇聯は欧洲に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。
ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現なり。波蘭に対しては予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切りたり。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつもヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要す。
イランに対しては石油権利の要求に応ぜざるの故を以て内閣総辞職を強要せり。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめたり。
英米占領下のフランス・ベルギー・オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり。
独逸に対しては波蘭に於けると同じく、巳に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図たるべく、之は英米に取り今は頭痛の種なりと思はる。
ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引摺らんとしつつあり。ソ聯の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先□隊等と連携し日本に呼びかけ居れり。斯くの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来れる危険十分ありと思はる(即共産党公認、共産主義者入閣ードゴール政府、バドリオ政府に要求せる如くー治安維持法及防共協定の廃止等)
翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり。
少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにあり。皇族方の中にも此主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。
職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引摺らんと引きずらんと思はる。
抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる。
満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。
支那事変当時「事変永引くが宜し。事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物なりき。
是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に躍らされたりと見て大過なしと存ず。此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此結論鏡にかけて過去十年間の動きを照ら見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり。
不肖は此間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為出来る丈是等革新者の主張も採り入れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を充分看取する能はざりしは全く不明の致す所にして、何とも申訳なく深く責任を感ずる次第で御座います。
昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり。
一方に於て徹底的に米英撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に思はる。軍部の一部はいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさえ論ずるものもあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり。
以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり。今後戦局益々不利ともならば此形勢は急速に進展致すべし。
戦局への前途につき何等か一縷でも打開の理ありと云ふならば格別なれど、最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るものと云ふべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す。戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態に迄時局を推進し来りし軍部内の彼の一味の存在なりと存ぜらる。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上あくまで抵抗を続くるものと思はる。若し此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志此一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成すること能わざるに至れる虞れあり。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として此の一味の一掃が肝要なり。此の一味さへせらるれば、便乗の官僚・右翼・左翼の民間分子も影を潜むるならん。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとする者に他ならざるが故なり。故に其本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと思ふ。
尚之は少々希望的観測かは知れざれども、もし是等一味が一掃さるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気は或は緩和するに非ざるか。元来英米及重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改まらば、彼等としても戦争の継続につき考慮する様になりはせずやと思はる。
それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る。
以上申上げたる点につき間違いたる点あらば何卒御りを願度し。
(御下問)「我国体については近衛の考えとは異り、軍部は、米国は我国体の変革迄も考へ居る様観測し居るが、其の点は如何」
(御答)「軍部は国民の戦意を昂揚せしむる為めにも強く云へるならんと考へらるる。グルーの本心は左にあらずと信ず。グルー大使離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度・言葉等より見ても、我皇室に対しては充分なる敬意と認識を有すと信ず。但し米国は輿論の国なれば、今後戦局の発展如何によりては、将来変化なしとは保証し得ず。之戦争終結の至急に講ずる要ありと考ふる重要な点なり。」
(御下問)「先程の話に粛軍を必要とするとのことであったが、何を目標として粛軍せよと云ふのか。」
(御答)「一つの思想あり。これを目標とす。」
(御下問)「人事の問題に結局なるが、近衛はどう考へて居るか。」
(御答)「それは陛下の御考へ…。」
(御下問)「近衛にも判らない様では中々難しいと思ふ。」
(御答)「従来軍は永く一つの思想の下に推進し来ったのでありますが、之に対しては又常に之に反対し来たりし者もありますので、此の方を起用して粛軍せしむるも一方策と考へらる。之には宇垣、香月、真崎、小畑、石原の此の三つの流れあり。之等を起用すれば当然摩擦を増大す。考へ様で何時かは摩擦を生ずるものとすれば、此際之を避けることなく断行することも一つなるが、若し敵前にて実行するの危険を考慮するとせば、阿南・山下両大将の中を起用するも一案ならん。先般平沼・岡田等と会合せし際にも此の話出たり。賀陽宮殿下は軍の建直には山下大将が適任と御考えの様なり。」
(御下問)「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。」
(御答)「そう云ふ戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云ふ時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。以上」