「現代史」の始期について考える


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「現代史」の始期について考える
~「現代」を解き明かすため「現代史」なのか。

「僕らのうまれるずっとずっと前」

かつてポルノグラフィティというバンドが「アポロ」という歌のなかで「ぼくらがうまれる、ずっとずっと前のこと、アポロ11号は月へと向かった」と歌っていた。1955年生まれの私にとって、1969年のアポロの月面到着は鮮明な記憶であるが、かれらにとっては「ずっと」という言葉を繰り返さねばならないほどの前のこと、いわば「神話中の出来事」であった。私にとって、生まれる10年前まで続いてきた戦争、さらにそれにつづく困窮の時代が過去の出来事であったように、1974年生まれのかれらにとって「月面着陸」は彼らの「現代」というには昔すぎる時代なのであろう。
現在の時代。その人が生きている、今の時代。(「大辞林」)というのが「現代」の第一義的な字義であろうし、「現代史」は「近代より以後の人間が、自分たちと同時代のものだと意識している歴史。(「精選版日本国語大辞典」)といえるであろう。

私たちの眼前に広がる「現代」

国語大辞典はつづけて、現代史を「現在では一般に第二次世界大戦((一九三九‐四五))以後の歴史。世界史ではソビエト同盟の成立((一九一七))以後の歴史をさすことがある。」と記す。しかし、アポロの月面着陸を「ずっと」を繰り返すほど前と考える世代に対しどれだけ説得力をもつであろうか。74年も前にはじまる歴史を「自分たちと同時代」と意識できるのだろうか。それはどういう根拠によるのであろうか。あるいは「それでも1945年が現代史の始期」というのならかれらを納得させるだけの根拠を示さねばならないであろう。それは私たちの「現代」認識にかかわる問題である。
一般に現代史の始まりとされる1945年からすでに74年がたつ。明治初年から敗戦までとほぼ同じ長さである。その「長さ」を私たちはどれだけ理解しているのか。この時間を「現代」としてとらえることで2019年の課題に答えることが出来るのか。
「右肩上がり」の時代を生きてきた60歳代であっても、占領期や60年安保以前、高度経済成長以前を「同時代」としてとらえることは難しい。40歳代までの「一度として好景気の恩恵を感じなかった」世代はどうか。「バブルの時代」を「神話」のように感じるという声を聞く。いわんや、バブル以前の「右肩上がり」の時代や五十五年体制の時代を「自分たちと同時代」と感じることができるだろうか。「ずっとずっと前のこと」でしかないのではないか。

「平成最後の年」2019年という「現代」

2019年という「その人が生きている時代」=「現代」について、思いつく事例を並べてみよう。

長期低迷と就職氷河期のなかで広がった不安定雇用は人々の間のストレスを増している。「自己責任」という新自由主義的イデオロギーが跳梁し、「弱いものが更に弱いものをたたく」風潮がひろがっている。「弱いもの」は自分の境遇は「自己責任」の報い、文句を言うことは「正しくない」と信じ込まされ、当然の権利である生活保護の受給すら「罪悪」視され、バッシングの対象となる。

その一方でかつての「占領国」に基地の自由使用を認め、おそるべき金額に上る「おもいやり」をみせる。強引な手段で日本に組み込み、大戦中には多大な犠牲を強い、戦後は見捨て、やっと復帰を果たしたという苦難の歴史を持つ沖縄の県知事をはじめとする全県的な反対に耳を傾けることもなく一方的に新基地を提供しようとする。世界遺産級のサンゴ礁の海を埋め立てて。同じ人物は「基地の他府県への移転」に「他府県の了解が得られない」という。沖縄では反対を無視して強行しているのに。
憲法に規定された国会開催要求を無視し、さらに開催された国会では議論もせずに冒頭解散をする。自分の不手際を追求される、それが恐ろしいために。「行政機関の長」が「国権の最高機関」である「立法府の長」を僭称する。内容のない無責任な駄弁を繰り返すことで国会の権威を骨抜きにする。
公務や企業の「官僚」も文書管理や統計調査といった最低限のルールすらおろそかにする。社会人が社会人として、官僚が官僚として、守るべきルールを守らないことが事実上容認される。

社会全体に排他主義的な言動が蔓延し、読むに堪えないような書籍が書店の店頭を飾り、隣国に対する聞くに堪えない発言が、ネット上にあふれ、街頭にまで流れ出す。深い学識と研究と事実に基づいた発言が「炎上」させられ、穏健な社会的発言にする「これからのタレント活動が困難になりますよ」とのソフトなバッシングのターゲットとされる。

これが「平成最後の年」の「現代」の一端である。なぜこんな「現代」になったのか、それにこたえうる「現代史」像を私たちはもっているのだろうか。

「現代」の出発点としての1945年

先の国語大辞典の引用からもわかるように、現代史の視点を1945(昭和20)年におくのが、常識として考えられてきた。ではなぜ1945年なのか、その確認からはじめたい。
まず、1945年は第二次世界大戦の終結の年であり、日本流にいえばアジア太平洋戦争、日中十五年戦争、日清戦争以来の五十年にわたる侵略戦争終結の年でもある。

世界史からみた「1945年」

まず第二次世界大戦とその終結のなかから、1945年を「現代」の出発点としてきた理由を世界史レベルで考えて見たい。

第二次世界大戦はファシズムと軍国主義に対し、平和と民主主義を求める世界の人々の勝利である。そうした戦争であった以上、戦争を主導したものは「平和と民主主義」という立場から、「平和に対する罪」を犯したとして裁かれた
第一次大戦以後、二度とあのような戦争を起こさぬようにと、いくつかの会議が開かれ、パリ不戦条約などの取り決めがなされ、「戦争自体が犯罪である」といった原理が確認されてきた。
この確認をもとに、日本やドイツなどの指導者は「平和に対する犯罪」を犯したとみなされた。他方、対戦国は、こうした「犯罪」をただす「正義の戦いをおこなう」と主張した。戦争に勝利した以上、「犯罪行為」をおかした国々を裁き、その国を作り替え、国民に「平和で民主主義」を定着させるのが義務であると考えたのである。
こうした考えは「平等で対等な主権国家の併存」という近代的な国際関係にかわり、集団的安全保障という方向性を打ち出すことになる。それを実現する機関が国際連合(United Nations 連合国と同じことば)であった。この基本点な考え方は1940年、米英の間の大西洋憲章で打ち出され、翌年の連合国共同宣言によって確立した。
したがって、1945年は
「犯罪を犯した」諸国を打ち破り、「平和と民主主義」をめざす世界がはじまった年であった、あるはずであった。
この流れの中で国際連合が結成され、こうした世界の圧力のもとに日本国憲法が制定された。

②他方、第二次世界大戦でドイツによって2000万人もの人が犠牲となりつつもそれを打倒する中心となった社会主義国ソ連は、ドイツの復活を恐れ占領地域を自らの勢力圏にくみこみ衛星国として東側陣営を形成した。そして反共を旗印とするアメリカを中心とする西側陣営と激しく対立する。
こうして米ソ二大超大国を覇権国家とする両陣営の対立=「冷戦」構造が生まれた。1945年にはじまる「現代」は「東西対立」「米ソ対立」であった。
当初はアジアの小国としての道を歩むことを求められていた「新生日本」は、東側陣営とたたかうための一員として組み込まれ、アメリカの覇権と軍事基地を受け入れることで「独立」(西側陣営との間の「片面講和」であったが)を実現し、奇跡の経済発展=高度経済成長を実現する。

第二次世界大戦は帝国主義支配に対する民族主義の勝利でもあった。
ファシズム諸国の台頭は旧来の帝国主義的秩序をゆるがし、植民地・半植民地の民族運動を活発化、英仏蘭米などの旧来の植民地主義をも拒否する戦後の流れを生み出した。
1945年の日本軍国主義の敗北はその画期であった。

しかし、敗戦によって朝鮮と台湾などの植民地を失った日本は、このことの意味を十分につかんだとはいえない。

「五十年戦争」と終焉と従属の開始

日本を中心に考えれば、1945年は
日清戦争にはじまるアジア侵略の歴史としての「五十年戦争」の終了の年である。さらにいえばペリー来航にはじまる「日本の近代化」が挫折した年である。
不名誉な形で開国したという「屈辱」をバネとした「追いつけ追い越せ」という「富国強兵」意識、近代天皇制、経済的土台としての財閥資本主義と寄生地主制、社会的基礎としての封建的「家」観念と国家神道など、前近代的要素を強くもった「近代日本」が崩壊する。
そして戦後民主主義が姿を現した。
1945年にはじまる「現代」はそれまでのゆがんだ「近代」を是正し、戦争放棄と民主主義、基本的人権をもとにした「まともな近代」を求める戦後日本の出発点であった
しかし
アジア太平洋戦争の敗北によって日本は覇権国家アメリカの占領下に置かれた。冷戦の進行の中、日本は「独立」後も多くの面で「被占領の継続」を求められた。その結果、米軍基地の自由使用、憲法の上位法としての「日米安保」の承認など政治や外交・軍事、法制などさまざまな面でアメリカ優越を認めた。これが日米安保体制であり、現在に続くアメリカ従属である。
とくに沖縄は日本「独立」後も返還されず、米軍占領下に置かれ、1972年の施政権返還後も巨大な基地が残される。
1945年以後の日本の「現代」はアメリカ従属の「現代」であり、沖縄に犠牲を強い続ける歴史である。

「人類絶滅の危機」の開始

⑥第二次世界大戦は過去の戦争とは比べものにならない巨大で凄惨な戦争であった。各地でさまざまな形での非戦闘員の虐殺が発生、戦闘員をはるかに凌駕する犠牲者が生じた。この「戦争犯罪」に関しては「正義の戦争」を唱えたアメリカなど連合国も「無罪」ではない。
こうした非戦闘員虐殺の頂点ともいえるものが1945年8月6日のヒロシマ、9日のナガサキへの原爆投下である。勝者の戦争犯罪は公的に裁かれることはなく、さらに東京裁判で「重慶空襲」の罪を問わなかったように敗者の戦争犯罪のなかからも免責事項を作り出した。核兵器による非戦闘の大量虐殺は戦争犯罪とみなさないこととされた。
核兵器は「人類滅亡の可能性」を人質に「核の均衡・核の恐怖のもとの平和」との冷戦の軍事的基礎となる。しかし「核の均衡」は「核先制攻撃」の衝動をも内包しており、際限ない「核軍拡競争」とさらなる兵器開発を構造として組み込んでいた。こうした戦争のコストは冷戦の一方の極であるソ連を破綻においこみ、他方を覇権国家アメリカを「財政破綻」の危機に追いやる。
1945年は「核の恐怖」の時代、人類絶滅という「選択肢」を人類が手にした時代であり、冷戦の軍事的基盤をつくった年でもあった。

総力戦体制のなかで生まれた「現代国家」

⑦近代戦争の遂行は国家のあり方を変えた。
近代戦争は国家のあり方の変革を求めた
戦時体制を維持するため国家は生産・流通過程や資本関係など経済構造への介入をすすめる。労働のあり方を統制する一方、社会保険制度の導入など福祉政策をすすめ、心や感情すら統制しようとしてイデオロギー支配を強化、国民統合をすすめる
戦争は、国家や社会のあり方を戦争遂行のために最適なものにしようとする。
この力は、支配階級のよる伝統的な支配システムすら容赦しない。戦争によるナショナリズムの高揚は、自由主義や民主主義とくに基本的人権といった近代社会が大切にしたものさえも第二義化しようとする。こうした全体主義化の「革命」は枢軸国にとどまらない。連合国にも広がり、「社会主義国家」と酷似した国家体制が世界に広がる。
こうしたシステムは大戦終了とともに終わるはずであった。ところがこのシステムの多くは戦後に引き継がれる。なぜならこのような「効率的」な国家のあり方は準戦時体制としての冷戦に最適であったし、戦争によって荒廃しインフレーションに苦しむ諸国が復興を進めるために有効であったからである。社会・経済の破綻状態を背景に高まりを見せた共産主義や労働運動などへの対策としても有効だったからである。
1945年以後の「現代」は、総力戦体制のなかで生み出された「国家」のあり方(「現代国家」)がさまざまな形で花開いた時代であった
戦後日本の高度経済成長は「現代国家」としての政府のヘゲモニーなしには実現せず、「唯一成功した社会主義」とさえいわれた。(この視点での始期は1930年代となり、日本では「1940年体制」論とも呼ばれる)

’45年全面化した「現代」、その始期は?

ここまで1945年を画期とする「現代」をみてきた。しかし、それは以前からはじまっていた「現代」が一挙に全面化したともいえる。
その「現代」の出発点は19世紀末の帝国主義時代ないし第一次大戦(ロシア革命)期におかれる。
19世紀末、独占資本が形成され、帝国主義諸国による世界分割が進んだ。レーニン「帝国主義論」の時代である。そして帝国主義国の対立はそれまでの戦争とは比較できないほど大規模な第一次大戦(およびその前哨戦としての1904~5年の日露戦争)へとつながる。近代戦争は総力戦体制を呼び寄せる。

他方、帝国主義戦争に反対する潮流も強まり、そのなかから世界初の「社会主義」政権ソ連が生まれ、世界に共産主義運動がひろがる。
ベルサイユ=ワシントン体制下では集団的安全保障の動きがうまれ国際連盟が結成された。
三・一独立運動や五四運動、ガンディー等の非暴力不服従運動などが民族運動も世界的な拡がりをみせる
大戦で弱体化したヨーロッパ諸国に代わりアメリカが軍事的経済的覇権に接近する
日本でも米騒動をきっかけに小作争議や労働争議、さまざまな民主主義的運動が拡がりを見せる
このように考えるならば、さきの国語大辞典の「世界史ではソビエト同盟の成立(一九一七)以後の歴史をさすことがある」にも妥当性があるといえよう。1945年以後の「現代」はこの時期の「現代」が全面展開した時代といえる。
こうした捉え方は、20世紀を、1870年代からの「長い20世紀」としてとらえる木畑洋一ら、あるいは第一次大戦ないしロシア革命を出発点とみなすホブズボームらの『短い20世紀』の議論にも対応する。

「新しい21世紀」がはじまったのは1990年前後

注目すべき事は、木畑にしてもホブズボームにしても、こうした「20世紀」は1989年から1995年という時期に終焉したとみなしていることである。それ以後は「あらたな21世紀」である。
19世紀末から20世紀の初頭にはじまり1945年以後に本格的に展開したひとまとまりの時代は1980年代後期から1990年代におわった。それ以降は、新たな時代、新たな「現代」に入ったとの含意がある。このように考えるならば私たちにとっての「現代」、「自分たちと同時代のものだと意識している歴史」はこの時期に開始するという方が妥当ではないかとも考えられる。

1945年の「現代」の変容

1945年に本格化した「現代」がどうなったかを考えて見る。

②ソ連が崩壊し「冷戦構造」が解消することで①の東西両陣営という形での集団的安全保障の「現代」の構図は組み替えられた。⑥二大勢力間の「核の均衡」で「平和」を維持するという図式は崩れるが、逆に北朝鮮やイスラエル・インド・パキスタンの核兵器保有に見られるように核兵器の分散が進み、テロリストによる核ジャックの危機もささやかれるなど、「人類滅亡の危機」も拡散していく。
旧植民地や半植民地の発展は多様性をみせ、「第三世界」という包括的な捉え方を許さなくなった。
韓国や台湾、中東諸国さらにはASEAN諸国の国々のなかから中進国さらには先進国へと歩をすすめる国があらわれ、中国にいたってはアメリカと覇権を争うようになった。
ただこうした国の経済発展は、かつての日本の「歪んだ近代」と同様に経済格差や非民主的な政治制度をも利用したものであった。経済成長の中で変革運動がおこり、自由主義化・民主主義化が進んだ国も多いが、それでも不安定さを残す国もあり世界の不安要素となっている。
こうした国々による経済発展の結果生み出された安価で大量の生産物が、民主主義・人権尊重といった「先進国」の非効率的な「近代」のコスト負担を困難にするという反作用も生み出してきた。安価な工業製品などの前に「先進国」の産業の多くが敗れ去り、経済基盤が揺らぐことで、これまでの経済モデルは変更を余儀なくされる。こうして「福祉国家」の維持は困難となり、新自由主義的効率化が促される
他方、旧植民地諸国などのなかには、貧困から脱却できず、それを背景に内戦が相次ぐなど「破綻国家」と分類される国々も存在する。
1990年代を超えた「現代」は1945年以後の「現代」とは様相を大いに異にするようになった。

「福祉国家」から「権威主義的国家主義」へ

⑦戦後の経済成長が1970年代に頭打ちとなったことは、総力戦体制に淵源を持つケインズ流の「現代国家」の継続を困難とした。新興国の台頭とあいまって新自由主義的風潮が世界を席巻、古典的な「近代」の経済的基盤を破壊し、人々は競争と自己責任のなかで孤立化し、それを基盤にプーランザスのいう「権威主義的国家主義」が全世界に広がっていく。
こうした事情は日本にも影響を与えた。
経済成長の「あだ花」ともいえるバブル崩壊と共に経済発展を支えた経済システムは瓦解、日本は長期経済低迷期にはいる。リストラと採用手控えが大量の不安定雇用者を生み出し、さらに正社員を非正規社員へと切り替えることは雇用を急速に不安定化させた。こうして社会全体に不安と沈滞感がただよい、「神経症」的な行動が多発するようになる。

こうした事態は、購買意識の低下、婚姻率の低下、出生率の低下、人口減少といった一連の動きをおしすすめ、自由主義的なイデオロギーが広がり、「自己責任」ということばで敗者や弱者を切り捨て、弱者が弱者を攻撃するようになる。こうして社会の不安定さは、さらに、急速に広がる。社会の活力が低下した。不安定さに起因するストレスは、ヘイトスピーチや反知性主義的言動が拡がりへとつながる。
政治面でも55年体制の崩壊と90年代中期の「政治改革」以降、日本でもポピュリズムが拡がりをみせ、「権威主義的国家主義」化が急速に進む。
こうして1945年に開始された戦後民主主義、戦争放棄と基本的人権の時代としての「現代」④は色あせる。

新たな「現代」の出現

こうした1990年代になって顕著な変化を促す背景が、冷戦構造の解体にもとずく世界市場の形成と、インターネット・IT技術の進歩を背景とした「グローバル」化である。
この流れは主権国家の枠組みを超えた資金と情報の流れ、国境・階級を越えた資本や人々の結びつきを生み出した。多国籍資本はこうした世界経済と流動化し膨張した資金、国民国家間の同盟と対立をも「インフラ」として利用することで、利益の最大化をめざす。
近年では、情報や金融・流通のプラットホームを制する企業に、膨大な利益が流れ来むのみならず、膨大な量の情報が集中する。こうして企業の多国籍化と情報の集中、それを制御しきれない国民国家の集合体という世界という問題が広がりをみせる。
金融工学の発展によってヴァーチャルに生み出された資金は利益を求めて世界を流動・浮遊する。それが集まると一挙に高度成長がすすむが、それが引き上げられれば一瞬にして会社は倒産し、国民経済も破壊され国民生活が破綻する。
世界はかつての二大陣営の対立という構造から、国民国家・多国籍企業が入り乱れて利益を求めて争うという「大競争(メガコンペティション)」に突入した。
急速に進む科学技術を背景とした生産力の発展は個別の生産様式を日々更新し、労働環境や経済構造といった生産関係にも影響を及ぼす。そしてこうした日々刻々と姿を変えていく「土台」にたいし、国民国家の併存という枠組みがある以上上部構造としての国家や法律などのあり方は制御不能の状態となる

「現代」の始まりとしての1970年代

世界システムの変容としての「1968年」

世界システム論の主導者ウォーラーステインは「現代」の始まりを1968年と考えていた。
フランス五月革命や若者の反乱を中心とした世界的な反乱を「世界システムへの反乱」とみなし、1848年と比較しうる画期であると考えたのである。また新たな運動のなかに、従来型の思想や運動の権威を否定した面も重視した。たしかに、この年に発生した「人間の顔をした社会主義」をめざした「プラハの春」を暴力で否定したことはソ連などの旧来の「社会主義」の権威を完全に失墜させ、それに希望を見いだしていた人々の心を引き離した。ここから「社会主義陣営」の崩壊とソ連の解体へのプログラムが動き出したといえるのかもしれない。

下降局面に突入した世界

さらにウォーラーステインが注目したのは、上昇傾向にあった長期的な経済波動(「コンドラチョフ循環」)が1970年代にはいって下降局面にはいることである。
日本の高度経済成長を典型とする世界的な景気上昇局面は1971年のニクソンショック(ドルショック)、73年のオイルショックで頭打ちとなり、下降局面へと移る。
ベトナム戦争の失敗で覇権国家の権威を失墜したアメリカにかわり、世界の軍事・経済のインフラを守るべく先進資本主義国間の利害調整が図られた。1975年の先進国首脳会議(サミット)開催はその画期である。
下降局面に入った景気は「福祉国家」モデルを支えるコストの支出を困難とした。高コストを前提とする「現代国家」は持続困難となり、1980年代のイギリス・アメリカを出発点に新自由主義の方向に足を踏み出す
景気の上昇局面では大量生産に基づく「重厚長大」のものづくりが経済の牽引車であったが、70年代になると電子技術や情報通信・交通手段の役割が急速に高まり、IT技術の進歩(「軽薄短小」)が経済発展の牽引車となる
グローバリズムの科学技術的基礎がつくられていく。

高度経済経済が一変させた日本

日本では高度経済成長による工業化が日本の姿を大きく変化させていた。
工業化の進行にしたがって人々は農村から都市に移り、日本社会や文化における農村的要素が低下し、都市中心の生き方へと変わっていった。多くの人々は、会社・役所といった官僚システムにくみこまれ、時間に支配されるようになる。
生活家電の普及は女性を過酷な家事労働から解放したが、都市化のなか、生産点から切り離され、家庭を省みず「二四時間戦う」男性労働者をバックアップする専業主婦の生き方を要求されるようになった。
テレビの普及は瞬時に情報を各家庭にまで伝え、知的社会の基盤をつくったが、人間を受動的で画一的な文化の受け手に変える側面ももっていた。このなかで伝統文化は活力を失い、均一化した文化をひろげ、日本中、さらには世界でも、同じような光景を創り出そうとしていく。マスコミ産業が国家・資本によってコントロールされている以上、テレビに代表されるマスメディアは国家・企業のためのイデオロギー装置の役割をも担った。
自動車や飛行機といった交通手段の革新は人々の行動範囲を、そして知識獲得の可能性を革命的に広げた。グローバル化の技術的基礎が次々と作られていく。
高度成長は、働き方も、家族や地域社会のあり方も、生き方も、考え方も、急速に変化させた。
たちが生きている「現代」の土台はこうしてつくられた。こうした時代に「現代」がはじまったという生活者的な皮膚感覚は大きいのではないだろうか
そして、こうした経済に、社会に、なによりも生活者にとっての革命的な変化ともいえる高度経済成長が一段落し、その変化が定着したのが1970年代の初頭であった。

「土台」の急激な変化に追いつかない世界

さきに1945年の巨大な変化の枠組みを準備したとして、19世紀後期~第一次世界大戦・ロシア革命ととらえることができると記した。そうした意味では、1970年代初頭は1989~95年の変化の枠組みを作った重要な画期ととらえられよう。
さらに生産力の上昇と生産様式の変化が社会変動の原動力という古典的なマルクス主義の立場(ただし世界経済の規模で考えねばならないが)に立つなら、1960年代にはじまり、1970年代初頭に定着した経済=生産様式→生産関係の変更のながれが、1980年代後半以降になって、本格的に上部構造たる法律的・政治的諸関係を作り替え、社会的意識諸関係を変化させていったといえる。
さらにいうなら、科学技術の急速で継続的な発達は、間断ない生産様式の変化を促し、階級・階層関係のありかた、国際分業体制といった生産関係をも変化させつづけている
70年代に本格化する「土台」の革命的な変化に、「上部構造」はついていけず、国民国家は新たな諸関係を凝集出来ないところに現代の問題点がある。世界各地で出現する独裁的指導者の出現にみられる「権威主義的国家主義」の拡がりなどはグローバル化された土台を国民国家が「凝集」できないところから生じる問題である。世界が国民国家の並立という近代の仕組みから抜け出せないなか、そうした矛盾を利用しながら一部のものに世界の富が集中する時代が「現代」である。

皮膚感覚の「現代史」を

現代史は1945年にはじまるという説の根拠がどのように変化したかと考えるなかで、1970年代初頭、ないし1989~95年にはじまる「現代」という視点を考えて見た。

たしかに1945年は大きな変革の年で、現在に至るまでの出発点であることはたしかだ。しかし45年に全面的に開花した「現代」が、70年以上たった「現代」にどこまで影響力をもっているのか、全体的に十分な吟味がどれだけなされたであろうか。「現代史」は単なる歴史学のジャンルの一つになってしまい、「自分たちと同時代」を理解し、解きほぐす歴史になっているのだろうか。
その点、戦後歴史学は大胆であった。戦争が終わってそれほどたたない時期に、1945年以後を「現代」史として打ち出し、歴史学の立場から分析し、叙述した。歴史学が混迷のなかにある「現代」を生きるための方向性を打ち出さねばならないと感じたからだ。
これにたいし2019年の現在はどうか。1945年以後を「現代史」だと当然のことのように説くとしても、それが「現代」を生きる人々に方向性をうちだすものとなっているのか。

歴史とくに現代史に携わるものとしては、つねに私たちが生きている「現代」を深く見つめ、そのあり方を問うていくことが出発点であろう。「現代」とはどんな時代なのか「現代史」が何を描くのか、いかに誠実に向き合うかが問われているように感じる。

付:井上清の「現代史」観

今回、「現代史」を考えるにあたって、1945年を「現代史の出発点」と主張した戦後歴史学の中心井上清の説にあたった。井上は45年以後を「現代」とみなす理由として三点上げている。微苦笑せざるを得ない点も多々あったが、第一の論点は興味深いものであった。以下、引用する。

 「現代史」の始まりを規定するならば、それは日本が第二次世界大戦に敗北・降伏した日となる。その理由は前記のように、被占領期があり、その後も民族が完全に独立しておらず、国土の一部分である沖縄県は全部が今なおアメリカの軍事独裁に支配され、被占領期に引き続き日本各地に米軍基地があり、強力な米軍が駐屯し、政治・経済・思想・文化、そのほか国民生活のあらゆる方面にアメリカ帝国主義の強力な影響が及んでいる。
  (「現代史概説」岩波講座「日本歴史」1962)

井上のこの文章は「民族主義」という視点を強く打ち出した時代のものである。にもかかわらず、その内容は2019年の現代、とくに強調したい内容を多く含んでいるように感じた。
実は本文でも1945年を「現代史」開始ととらえる論点を7つの面から指摘したが、唯一その変化の言及をしなかったのが⑤「45年以後の日本の「現代」はアメリカ従属の歴史」という論点であった。近年の白井聡の研究とも、あいつながる論点を持っている。こうした論点からいえば、やはり現代史の開始という論点においての「1945年」の「呪い」が生きているというべきかもしれない。

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