「親日派」官僚における「植民地と近代」


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「親日派」官僚における「植民地と近代」
~任文恒「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」をよんで~

 

はじめに~「親日派」とはなにか

この自伝の作者任文恒は「親日派」である。「親日派」とは日本に対し親近感を持ちなにかと協力的な人物といった日本で用いられる意味でもあるが、それ以上に日本統治下(「日帝」支配下)で植民地支配に協力して韓(朝鮮)民族を裏切った人物という意味である。このレポートで「親日派」は後者の意味合いで用いる。21世紀初頭、盧武鉉(ノムヒョン)政権は歴史の見直しを進めるなかで「親日派」をあぶりだし、「親日派」と見なされたものの子孫への財産の没収なども検討した。韓国において「親日派」は「悪」とみなされることが多い。

「親日派」の中には日本統治下の特高警察で学んだ「手法」を解放後の独裁政権下で社会主義者や民族主義者に用いたものもいたという。「満州国」将校で高木正雄と名乗っていた朴正熙は、その地でゲリラ掃蕩に当たっており、彼の軍事独裁は「満州国」をモデルにしたといわれる。植民地支配に協力し、民族運動を否定・妨害・ときには弾圧もし、解放後もその行為を隠し、反省もせず、逆に植民地時代のやりかたをもちこんだり、植民地時代に得た財産や地位を利用し解放後も力を残す。こうした「親日派」が戦後の韓国の政治や社会をゆがめたというのである。

しかし「親日派」の問題は単純ではない。目立たないが積極的・消極的に植民地支配に協力したり、やむなく指示に従った膨大な人々がいた。アジア太平洋戦争では、特攻死した人々をはじめ多くの人々が動員された。強制された人もいたが皇民化教育の中ですすんで志願した人たちもいた。「二等国民」として捕虜虐待に手を染めBC級戦犯として刑死したものもいた。かれらも日本に協力したある意味で「親日派」である。しかし日本統治下の朝鮮において生きていくためには何らかの形で日本統治と折り合いを付けて生きなければならなかった。積極的な協力者も、「長いものにまかれたもの」も、面従腹背を心に誓いつつ「協力」したものもいる。積極的に協力したものも「同化教育」などによって形成されたものである。こうした人々をひとまとめに清算主義的に「親日派」ととらえるだけでいいのか。逆に考えれば「親日派」ではない「民族派」はおもに国外で活動を続けている民族主義者(社会主義者も含んで)か、植民地統治に反対して牢獄にいた人々しか該当しなくなってしまわないか。ちょうど、戦前を生きていたすべての日本人に「戦争を防げなかった罪」ので「戦争犯罪者」だということにならないか。

狭義の「親日派」とされる人々に、朝鮮総督府などの官僚として植民地支配を担った朝鮮人がいた。たしかに植民地支配に協力した明らかな「親日派」であろう。さらに日本に協力しているという自覚を持つものも多く自分の立場を理解していた。しかし、自分は、日本の統治機構に入り、その政策を朝鮮人に有利な方向に変化させるべく「曲芸」をくりかえしたと主張する人物もいる。この本の著者はそうした人物である。
この自伝の著者に対し、歴史家の目は厳しい。「植民地朝鮮と日本」を著した趙景達はいう。
「朝鮮人官僚の葛藤は深い。しかし、一般の朝鮮人の側から見れば、向こう側の人であった。」として、本書の一部を引用し「自己正当化にしか聞こえない。」と切って捨てる。そして「よき行政官ではあったかもしれないが、独立や民族のために任が行った仕事は何もない。任自身も、愛国者たちから見れば、自分は『許しがたい存在であった』というしかない」と記す。

自伝というものは、往々にして自己弁護と欺瞞に満ちうるものである。本書もそうした性格から免れないかもしれない。しかし、その本に描かれている日本や日本人にたいするアンビバレントな感情は植民地における「近代」「文明」の問題が示す。植民地統治機構の中から民族の発展を成し遂げるという手法の是非、植民地支配終了後の国家運営など、現代的な課題、歴史学が取り組むべき課題など多くの見るべきものがある。

幼年時代~「世捨て人」の父とあこぎだが勤勉な日本人

本書の著者・任文恒(「バクトク」という幼名で自らを描く)は韓国併合の三年前の1907年にその地方では名の知られた漢学者である小地主の家に生まれた。日本の影響下(のちには統治下)で進められる経済改革(とくに貨幣制度の整理)と儒教における葬祭の儀礼は家計を圧迫、土地は次々と人手に渡り、使用人たちも次々と去って行く。漢学者でもある父は収入の道を断ち「世を捨て、笑いを忘れ、世俗一切を寡黙のうちに消化し」魚釣りのみで日々を過ごす。そして儒教的戒律をやぶる著者を笞でうつ。その姿は魯迅の小説の知識人の姿にもオーバーラップする。

東京書籍「日本史A現代からの歴史」p110

他方、かれのまわりに登場する日本人たちはパワフルだ。たとえば、土工として渡ってきたらしい「平川ねんかみさん」は不衛生きわまりない目玉飴で子供たちから小銭をかき集め、それを元手に高利貸もはじめ、日本人「憲兵」の力も借り、ついには「大名の家老格」の収入を手にするようになる。朝鮮人を食い物にしたあこぎなやり方でもあるが、勤勉でもある。さらに、わずかな釘を売る、印刷機一つの仕事、日本人女性を連れてきて稼ぐ女郎屋など、この土地にやってくる日本人はぎらつくような欲望と生活力と、そして植民者の特権を生かし、次々と財をなし「成功者」となる。
かれらは植民地で一攫千金を狙う日本人の象徴であり、彼の父とは好対照である。

朝鮮農村の「近代」~「学校」「オートバイ」と田舎芝居

著者は「日本語を知らないと不利になる」という言葉もうけ、四年制の小学校に通う。他方、一つ上の兄は弟と同級生になるのは儒教的道徳から見て不適切と考え断念した。

日本語は朝鮮語と同一の文法をもち親近感を感じるものであった。

学校は、日本への同化を強いものであるが「文明」や「近代」を学べるという普遍的な側面も持っている。「日本」は、国を奪い自らのやり方を強要する傲慢な支配者であるが、同時に「近代」「文明」も教える。教育の機会を得ることは植民地生まれの少年に新しい人生へのパスポートを与え、また彼が育った民族社会への疑問を生じさせる。近代文明に触れることで自分が生きてきた生活・文化・秩序に違和感をもちはじめ摩擦を起こすというテーマは近代文学の主要なテーマでもある。植民地においては、「近代」「文明」が支配民族に、支配民族の言葉で、与えられるというテーマが結びつく。「近代」や「文明」は、統治政策と結びつき「同化」を強いる。しかし支配者たちは「近代」や「文明」が被支配者に受容され消化されるなかそれが支配の障害となると考えれば、支配者の「近代」や「文明」はむき出しの暴力と抑圧へと姿を変える。植民地における「近代」や「文明」は支配民族の暴力と抑圧を内包したものである。
「植民地における近代」はあくまでも支配民族が文明的優越性をもっているという前提を基礎に与えられるものであり、植民地の人々に対し、自分たちが「劣等」であり「未開」であることの承認を求める。「近代」や「文明」はそれ自身が独自に存在するものではない。多くは支配・抑圧するものが、あるいは恩恵的に、あるいは支配のための手段などとして与えるものなのだ。そんな「近代」は「うそっぱち」であるといいたくなるが、それこそが「近代」の正体なのだということも出来る。

そうであっても近代・文明という価値は犯しがたい魅力をもつ。生産力を高めることは人々の生活を画期的に向上させる。病気や生活上の苦難から解放し、さまざまな情報を通じて「世界へのアクセス」を可能とし、自分たちがおかれている無慘な立場を認識させ、それにたいするさまざまな「解放の武器」も与える。そもそも近代文明自体がこうした側面を持っている。植民者たちは、植民地から利益を得るという目的のために、植民地に文明と近代を持ち込むが、それ自体によって自らの支配を否定する役割を与えるのだ。
こうした「植民地における近代と文明」の問題が被支配民族の知識人たちに支配民族へのアンビバレントな感情をもたらす。「近代」「文明」というものを間に置いた日本と朝鮮、帝国主義国と植民地の間のアンビバレントな関係性が、バクトクを、朝鮮の知識人を、植民地の人々を苦しめ、現在を生きる後継者たちを悩ませる。
日本人は、学校教育だけでなく、鉄道を、道路を、電信網を、さまざまな「近代文明」をもちこんだ。それは、植民地支配を円滑にし、その利益を拡大化するものであり、朝鮮人の労働力を半強制的に収奪したものである。しかし、それが朝鮮の社会を大きく変えたことは間違いない。そして「オートバイ」に象徴される文明をもちこむ。「平川ねんかみさん」のような金銭的欲望を表にだした人間の登場は、その行為の結果とともに「儒教的道徳」に人々を縛り付けていた生き方を変化させ、朝鮮の農村のあり方も変える。

バクトクは、支配民族の権限を利用して朝鮮から利益をもぎとる日本人とその統治に反発をもつ。三一運動に際しては、小学生ながら山に登って太極旗を振って「韓国独立万歳」をさけびつづける。しかし他方で朝鮮社会にはない「日本」とそれが象徴する「近代」「文明」へのおさえきれない感情をも抱く。そのきっかけが町に初めてやってきた「オートバイ」であり、日本に渡り立身出世するという内容しかない単純な田舎芝居であった。学校教育や社会の変動、小学校卒業後のさまざまな経験は、「父」と「儒教」が象徴するそれまでの朝鮮社会での「生」を堪えがたくしていた。

ただ、かれは「父」を否定的に描いていないことを付け加えておきたい。かれの思考の原点を作ったのが父であり、それを通して学んだ「儒教」精神であったからかもしれない。

故郷の人たちは、かれに期待し、「金」をだしあい、その「金」を衣服のそこら中に縫い込んで日本へと旅立つ。

日本に学ぶ~「よい日本人」たちとの出会い

日本と日本人へのアンビバレントな感情、それは日本における「良い日本人」との出会いによって増幅される。帝国本国で彼が出会ったのは欲望にギラギラさせた日本人でも、虐待と粗暴行為を繰り返す日本人でも、偏見に満ちた態度で差別する日本人でもなかった。彼はいう。「彼が日本にいるかぎり、たまに体制の仕打ちによってより鮮人であることを思い知らされる以外に、日本人個人によって刺戟されることは絶えて稀であった」と。日本での生活は「良い日本人」との出会いに彩られている。
時々刻々に体験しながら生きてきた統治民族と被統治民族の対峙と違和がまったくなかった」初めて乗った列車の三等車。厳しい労働条件は強いつつも「彼に工場を持たす」と故郷に連絡していた工場主、人力車夫の彼に「一円札」を渡し温かい言葉をかける祇園の芸妓、学費を立て替えてくれる教師たち、ともに合宿で学びあい家にも招き入れる友人とその家族、朝鮮人であるからこそ援助を惜しまない岩波茂雄など文化人、彼の日本で逢った多くの日本人は、故郷で見た日本人とはまったく異なる日本人であった。
「良き出会い」の中でバイトクは中学校、旧制高校、さらには東京帝国大学法学部へとすすみ、高文試験に好成績で合格する。この過程ででてくる日本人で否定的に描かれたものはいない。他方、彼が出会った同胞は留学生が中心であり、都市の隅のスラムで過酷な現状を生きていたであろう厳しい差別の中に生きていた出稼ぎ朝鮮人の姿はあまり描かれず、被差別部落に住む日本人への目は冷淡に感じる。
かれは二〇才、中学校時代、共産党に入りソ連の力を借りて朝鮮の独立をめざしたいと話した友人のエピソードを記している。それにたいし、かれは「ソ連の力を借りて独立できたとしても、今の朝鮮民衆の現状では、誰が政治、行政、経済を組織運営できるのだ。(中略)与えられる限りの知識を吸収し、実力を充実させて独立の日に備えたい」と述べ、「反体制的素質が欠けている」「日本体制のいぬかひもになりさがりたいと自白するものだ」と批判された体験を記している。(p119)
オートバイと田舎芝居をきっかけに、朝鮮の「未開」を感じ、日本に「近代」「文明」を感じた筆者は、さらに日本での体験を通してその差を感じ始めていた。そして実力養成(=近代化・文明化)こそが朝鮮の独立につながると考えるようになる。二〇才(同志社中学在学中)当時の手記を引用する。

私は、大理想を掲げて、突進しよう。日本人に対抗できる実力養成のみが、わが義務である。先ずは、高等学校に入り、日本政府に対し、猫の皮をかぶり、大人しくしろ。それから帝大を卒業して、官吏となり、政治的に吾が民族を解放して見せよう。それまでは、如何なる衝動があっても、日本人に従うのだ。(p118)

こうした「主観信条」を「唯一の拠り所」とし彼は思考と行動を律したという。この「主観信条」にともなって、朝鮮総督府の官僚となる。
しかし、こうした「主観信条」にともなう行動が、彼の主観はともあれ、朝鮮の独立に、民族の発展につながる行為であったのであろうか。当時も現在も同様の批判を浴びそうである。

「良い日本人」に囲まれていた日本から戻った故郷・朝鮮、「主観信条」を実現する舞台となるはずであった朝鮮総督府はそのように甘くはなかった。朝鮮民族の独立運動を抑圧し、日本帝国の利害を確保・拡大すべき組織としての総督府は、いかな秀才であっても、自らの目的の障害となりかねない朝鮮人に大きな権限を与えるはずがなかった。いつのまにか、優秀であれば民族に関わりなくその「能力」で評価されるとの「近代」的価値観を信奉していたのである。みずからが面従腹背をしつつ「独立」を達成しようという「主観信条」をもっていたにもかかわらず。

戦時体制が強まる中、総督府は「皇民化政策」を強化した(帝国書院「図録日本史総覧」P231)

総督府はその目的に即してシステム的に朝鮮人を差別すべく運営されていたにすぎない。かれのような「主観信条」をも封じること自体がその存在理由でもあった。「主観信条」の中心部分は否定しつつ、朝鮮人官僚を尊重するかのようにみせその能力を利用し尊重しているように見せながら朝鮮民衆の統治への合意に結びつける。「同化」を進めるふりをしながら、けっして「同化」させない。それが総督府のやり方であるし、日本の朝鮮支配であった。

こうして、その「主観信条」は別として、バイトクは「親日派」の道を歩む。

「行政曲芸師」の仕事~朝鮮総督府での日々

高文試験に合格した彼は、養子話も日本人女性との結婚話も、岩波の「日本の役人になって、朝鮮独立に役立つかね」との声も振り切って、朝鮮に戻り、朝鮮総督府に勤務する。しかし、そこには、高文試験11位という最優秀な成績では通用しない厳然とした朝鮮人差別が存在した。そのなかで、彼は帝国の権力行使に荷担する一員となったのである。
こうして、少しでも朝鮮人のためになりたいという、彼のいう「行政曲芸師」の仕事がはじまる。自らの10年間を彼は次のように振り返る。

東京書籍「日本史A現代からの歴史」P98

「日本の植民地統治に参加しながら、心の中ではその植民地が日本から解放されることを念じ、植民地人の利益守護に没頭し続けた十年四カ月、(中略)彼は拍手してくれる一人の観客もおらず、救助網の代りに深淵が深々と静まりかえっている真上で、孤独な曲芸を繰り返さねばならなかった。」

「日本の体制は、日本人同僚と比較して甚だしい差別のぶらんこに彼を乗せておきながら、なおかつ彼を疑い続けた。(中略)と同時に、彼の属する民族側からは、いくら曲芸を演じても日本の走狗とみられるのが関の山であった。(中略)余沢に預かり、日本人と同じく地主として富裕であった少数の植民地人達の中には、すすんで日本の体制に順応する向きもあった。しかしこれらの人たちからもバクトクのごとき官吏は、気持ちのよい存在として受け入れられることはなかった。(中略)貧困にあえぐ大衆からは、己のみ立身出世して豊かな生活を楽しみ、同胞を忘れ去った徒輩として白眼と嫉視の的となった」

「バクトクがぶらんこの上で常時ねらったのは、この自由裁量が許される限りにおいて朝鮮人の利益をはかり、それによって自己の存在理由を主張し、良心の慰安を求めるにあった。」(P201~202)

しかし、その存在が「帝国」の統治を脅かすのではないかとの疑念も持たれ続ける。
日本人警察官僚のなかには「バクトクの曲芸を許すのは日本の体制に不利なりと判断し、彼を深淵の中に突き落とすにたる口実を見つけるために五〇余人の人間を、あるいは留置場に打ち込み、あるいはありもしない事実に対する白状を強いるために拷問にかけた」ものがいた。
他方、「植民地人の利益拡大と人権向上が、窮極においては日本の体制を強化するものだと信じて、バクトクの着想と起案を支持した日本人行政官もたくさんいた。」(P203)

著者は、総督府内で、その賃金のみならず役職においても「破天荒のひどい人事」の洗礼をうけつづける。高文試験でははるかに点数が低かったであろう友人たちが、高給を与えられ、高位につながる地位について行ったのと比べ、彼は3年間の「見習い」のあと、形式的な地位を与えられるにすぎない。のち「郡長」には付けたものの、実際にはより強い権限を持つ警察署長と「けんか」を続け「東京政府が強制するいくつかの収奪政策を農民が死なない程度に緩和して実行し、しかも農民と日本政府をともに納得させる」(P244)ことに尽力する。さらに「殖産局産金課」では赤字を垂れ流していた金鉱山開発を朝鮮人鉱山主ヘの保障とともに中止する仕事を行う。さらにそこで用いた資材をめぐる陸海軍の対立にも閉口する。アメリカ軍による海上封鎖で本土に移送できない朝鮮で採掘した鉱石を処理する工場を朝鮮でつくれという命令を受け取り、「夢のように大きな加工工場が、彼の故国に建てられ、加工賃が彼の同胞の手におち、と同時に彼の同胞が技術を学ぶ」ことにぬか喜びもする。(p269)
こうして見えてくる彼の姿は趙景達がのべたように「よき行政官ではあったかもしれないが、独立や民族のために任が行った仕事は何もない」という「良吏」である。彼自身、その事を認識する。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放であった。
東京書籍「日本史A」P152

日本の敗戦を知ったときのことを次のように述懐する。

かれは中学のときに、高文に通り日本の役人となって、猫をかぶり、政治的に故国を独立させようと決心し、それを彼なりに貫いて生きてきた。

しかし、日本の敗戦、朝鮮の「解放」、それは客観的には朝鮮民族の力とは到底いえない形での「解放」でしかなかった。

彼の努力が、日本の支配を退潮させるのに何の功があったのだ。朝鮮民族を日本の支配から解放したのは、大きな世界の流れ、即ち他力である。この他力に対してすら、バイトクは貢献したと証言できるのか。まったく何もない。(P282~283)

著者は公的活動から手を引くことを決意した。

植民地支配からの「独立」と、「親日派」

いったん公職から身を引いた著者であったが「解放」後の混乱が彼を行政の仕事に引き戻す。皮肉にもかれの「主観信条」を発揮すべき時期が来たのである。「親日派」のラベルをべったり貼られてはいたが。
朝鮮の地を離れて久しく、行政経験もなく、日本統治下での変化を理解していない民族運動の指導者たちが対立・抗争を繰り返し、アメリカ軍も確たる方針を持たないまま総督府を引き継ぐ形での統治をおこなう。日本で高等教育をうけ、総督府での行政経験を積んだ著者は必要な人材であった。
かれは、まず「憲法制定」の作業によばれ、現代の韓国憲法の基礎をつくる。しかしその作業は政治に左右され、自らを排除する内容をもつ「親日民族反逆者」を処断する条項が最後に加えられた。
つぎに、李承晩が彼の姪を商工長官に指名すると、一族から請われる形で商工次官に就任する。当初は拒んでいたかれであったがいったんその地位につくと職務に没頭する。朝鮮総督府時代に手がけた「仕事と書類を引き取り、適任者を適所に配置して新生国家の新世帯に組み立て」なければとの使命にかられ改革を進める。新聞は「親日反民族派」で違法と書き立てたが、5局長20余課長の約半数を「日本高文に合格した彼の日本時代の同僚と後輩の中から選」ぶ。「安心して仕事を任せられる行政技術者は、この人たち以外にはいなかった」。かれはこれを自らのすべき仕事と認識していた。
彼の行ったことは客観的には「親日派温存」であり、その言は自己弁護なのかもしれない。それで行政が円滑化したのも事実であり、植民地時代の遺産を見事に「活用」したとの評価もしうる。「総督府の『遺産』が戦後の発展に生かされた」との評価も可能であろう。

日本の統治は、植民地の「果実」を奪い取ろうとしたものであった。その「果実」をより質が良くより多く手に入れるため「農場」を整備し「肥料」をあたえ最適の「技術」を導入したのである。いまその統治が終わり「農場」が残された。その「農場」はかつての「農場主」のやり方にになじんだものが用い、しだいに改良を加えることで、かつては持ち去られていた「果実」を自分たちのものと出来るのだ。しかし、それまでのやりかたを運用できる技術者は旧「農場主」の一族であったり、旧「農場主」一族に尻尾を振っていた「裏切り者」=「親日派」であるのだ。ここに新しい「国づくり」の難しさがある。

解放直後の韓国では、アメリカの失政もあり、「農場」は人々の欲望の前に破壊されつつある、それが著者の認識であった。

最もやっかいなのは、三六年間日本人に食い荒らされた後始末であった。この人たちは食い残しの財産中の一部を、万やむを得ずして、この地に残していった。それはたくさんの土地、屋敷、金融機関、山林田畑、鉱山、工場、株式有価証券、陸海交通機関、並びに商業施設が含まれていた。これらの全部が、差別の鉄鎖に区切られ、韓国人には事実上持つことが禁じられていた宝ばかりであった。

(米軍政は)これらを敵産として没収すると宣言し、米軍政に帰属する財産として、所有権を自分のものとした。それからアメリカ式の水っぽい、不揃いの規定のもとに、管理人を任命し、賃貸借契約を結び、払い下げへと、その処分範囲を広げていった。その給付金額は時価よりは、はるかに安かったので、この仕事を担当する米軍政官庁は、門前市をなし、英語の達者な人たちが智能の限りを尽くしてこの方面に暗躍し、一般人もこれにおんぶして、全国を射倖の巷へと駆り立てた。(p299~300)

植民地支配のなかで、植民者が残した物的・人的遺産をいかに利・活用するかは、現在に至るまで旧植民地における大きな課題となっている。アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカ共和国では被支配民族であった黒人たちの政権獲得を認めたが、黒人たちは仇敵であった白人たちの財産を保護し、その能力と資産を新たな国づくりに利用した。そのことで政権交代後の危機を乗り越えることができた。こうした手法は白人政権のアパルトヘイト政策を免罪し、白人支配の構造を温存するとの批判も可能であろう。
 こうした批判を受け入れることで順調に見えた国家を破綻させたのが南アフリカの隣国ジンバブエ(ローデシア)である。世界の支援を受けて白人支配を覆したジンバブエのムガベ政権は当初南アフリカと同様な手法をとり順調な発展を遂げていた。しかしムガベは上記のような批判を受け入れる形で白人排除に踏み切る。白人たちはジンバブエを去り、彼らが残した農場などは掠奪の対象として荒らされ、経済も社会も破綻した。
 こうした例は似た状態となったのはアフリカを中心に枚挙のいとまもない。たしかにそれは植民者たちが経済や教育から現地の人々を疎外してきた結果である。しかし、そのことを言いつのっただけでは解決しない。とりあえずは当面の事態に対処せねばならない。

この本に戻って考えよう。「親日派」の一部は「日本が使っていたシステムの動かし方」を知っていた。その能力を借りなければ、植民地支配の中で日本のものと見えていたが、実は朝鮮人が作り上げてきたものを利用できなかった。かれらの能力を生かさねば、「システムの扱い方」を知らないものによって掠奪の対象となり、価値のないものとして破棄され破壊され、結果として国づくりの困難に結びついたであろう。「親日派」という「植民地近代の遺産が生かされた」との「苦い」結論もある面では妥当性を持つ。

朝鮮戦争の発生、大臣の日々、そして晩年

商工部次官を離れた後、著者は朝鮮鉱業振興株式会社という日本時代に設立された企業の社長に就任することで産業界に転身、金融通貨委員という公職にも就き韓国銀行設立にかかわる。一九四八年から五〇年、朝鮮現代史では南北対立が本格化し韓国内部でも強権と抵抗運動が高まり、済州島では虐殺が島中をおおっていた時期である。著者はこの時期を「活気に満ちた」「好ましい変化」の時期と考える。著者の立ち位置を示すものであろう。
こうした時期を一気に断ち切ったのが一九五〇年六月北朝鮮軍の南下、朝鮮戦争の発生であった。北朝鮮軍支配下のソウルに取り残された「親日派」の著者は生命の危機を感じ、親戚や知人(多くは社会主義者)の家を転々としながら映画さながらの逃避行をくりかえし命を長らえる。
その直後、戦争継続中の李承晩政権で彼は保健部次官、さらには農林部長官(大臣)に就任、李承晩やアメリカとやりあいながら自らの役割を果たしたと語る。

任文恒(イム・ムナン1907~93)

大臣を辞任したときが44才、かれは実業界に戻る。船舶会社や国営会社などを経営するが、その間も「親日派」としての指弾を受け、経理上の不正があったなどの攻撃もうける。李政権の崩壊とともにいったん公職を離れるが、その後も製紙会社の経営などにたずさわり、同時に経済団体の重鎮となる。
日本にもいき、多くの友人との旧交をあたためもした。「トルコ風呂」(ママ)にも足を向ける。
そして、この本を著した一九七五年ごろは釜山のホテルの管理人をしながら農場とゴルフと日本のテレビを楽しむ生活を過ごしていたと記す。そして一九九三年八六才で死亡した。

 おわりに~金玉均・金弘集らの系譜を引く「親日派」として

この本を選んだ理由は「親日派」官僚を通して「植民地における近代」を考えてみようと考えたからである。
気になる人物の一人が「父親」である。家がどうなろうと、子供たちが「乞食」をしようともけっして働かこうとせず釣りだけをしている存在。そして彼を縛る、葬儀と儀式で人々をもてなすため次々と土地を売り、没落させる。その姿はすがすがしいようであるが滑稽さもただよう。このような人格をつくりあげる儒教の枠組み、李朝の社会のあり方。建前やしきたりの中で身動きがとれない李朝末期以来の社会。父親と義兵運動や三一運動の関わりは記されていない。ただ著者は「父」を全面的に否定もしていないことにも注目しておきたい。
それにたいし、日本と日本人は多義的な存在としてバクトクの前にあらわれる。たとえばつばをなすりつけた飴を子供に売りつけつつ、しだいに町の有力者にのし上がる元土工の男。「日本」は朝鮮人をだだ働きさせて道路をつくり、道路をオートバイという「文明」の象徴で疾走する。田舎芝居で見た日本は「立身出世」が実現する世界でもあった。
日本は、生活を脅し、人々にただ働きを強いるが、「文明」「近代」「豊かさ」の象徴でもあり、「欲望」を実現できる場所でもある。「父」が象徴する「儒教」的世界から解き放つ存在である。「嫌いだけど、気になる」非常にアンビバレントなものとして「日本」は存在した。
この関係は日本に渡航することでいっそう際立つ。著者をとりまく日本人の多くが「良い日本人」なのだ。しかし、「良い日本人」であるが、岩波茂雄を例外として、朝鮮の支配を少なくとも否定はしていない。まわりの日本人(多くは知識人)にとって、著者は「日本の優位、朝鮮の劣等」という図式を受容し、独立のためには日本に学ばなければならないと考える話の分かる「よい朝鮮人」であったからであろう。
日本の「心地のよい生活」は朝鮮が日本の植民地であるという認識を曇らせたかもしれない。日本は朝鮮を植民地にしており、朝鮮総督府は支配の拠点である。かれらにとっては日本のために朝鮮はあるのであり、朝鮮人官僚は日本人官僚の下に置かれ、差別されなければならない。能力主義は内地人(狭義の「日本人」)の間でのみ、朝鮮人のなかでのみ通用するのであり、統治者と被統治者を同一基準で適用されることはありえない。それが植民地支配なのだ。かれの総督府での「曲芸」はしょせん曲芸でしかなく、仕事は「良吏」としてのそれにとどまっていた。朝鮮解放は彼に無力さを感じさせた。
「親日派」というレッテルを貼られてからの方が、日本で学んだことを朝鮮のために用いるという彼の「主観信条」を発揮できた。それは「敵」にまなび、奉仕・協力する中で得たことであり、「親日派」との非難をうけつづける内容であった。

金弘集(キム・ホンジプ 1842~1896)日清戦争後、屈辱に耐えて信念を持って開化政策(甲午改革)をすすめたが、民衆の反発を買い、殺害された。

「植民地における近代」は、「近代」や「文明」という価値観を、支配者から「劣等感」とともに与えられる。植民地において、近代文明の洗礼を浴びることは、二つの面で従来の文化を破壊する。自分たちが生きる旧弊固陋な社会にゆきづまりを感じる人間にとって、「近代」「文明」は魅惑である。それは19世紀後半以来、朝鮮の「近代化」をめざした人々に共通する矛盾である。自国を近代的な文明国にしたいという思いで、「近代化」のモデルに最適な日本に接近する。しかし日本は自国の主権と独立を奪おうとする存在でもある。実際、王宮を占拠して国王を幽閉し、皇后を殺害する存在であった。この二つの「日本」の間で朝鮮・韓国の知識人たちは揺れ動く。甲申事変における金玉均、日本の影響下で近代化改革を進めながらも民衆の怒りを買って虐殺された金弘集の悲劇はその象徴といえよう。彼らは問われていた。朝鮮の近代化か、日本とたたかうか、どちらが重要なのかと。

筆者は金玉均・金弘集らの系譜につながる人物であろう。
「近代」「文明」のモデルであり、自国を植民地とし過酷な統治を繰り返す日本とどのような間合いをとるか、先の課題はこのようなかたちで植民地・朝鮮にひきつがれた。筆者は日本の文明を学ぶことで朝鮮独立に寄与できるのではないかと考え総督府の官僚となり「曲芸」をくりかすがしょせん「良吏」でしかなかったことを悟らざるをえなかった。しかし、その思いはつづき、「親日派」との批判を受けながら韓国の発展に尽力しようとしつづけた。

本書は植民地における近代のあり方を一人の人間の生き方を通して示すものとなっている。「近代」「文明」を運んでくる帝国本国へのアンビバレントな信条、統治者とは異なる帝国本国の人々との人間的ふれあい、帝国支配という本質にはけっして触れさせない朝鮮総督府に見られる植民地統治の本質、そして植民地統治から解放された直後の「国づくり」のあり方、こうしたものがつぎつぎと展開されていき、日本の朝鮮支配がいったい何であったのかを考えさせる内容をもつものである。

<参考文献>

任文恒『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(草思社2011) ※初刊『愛と民族』同成社1975
趙景達『植民地朝鮮と日本』(岩波書店2013)

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