【史料紹介】
慶応三年十一月二日「寺島宗則建言」
原文は⇒「【史料】慶応三年十一月二日寺島宗則建言」
Contents
はじめに
ここで紹介する史料は、慶応3(1867)年11月2日、当時、薩摩島津家の開成所教授寺島宗則が藩主島津茂久(忠義)に建白した建言である。
前月、徳川家15代将軍徳川慶喜が大政奉還の建白を朝廷に提出、朝廷はいったん受理したものの、体制が整っていないとして慶喜に当分の間の庶政委任を依頼、さらに諸藩の藩主などの上洛を命じた。このような幕末でもっとも切迫した時期に提出された文書である。版籍奉還から廃藩置県の方向性を明確に示したものとして、古くより注目されてきた。
以下、読み下し文と現代語訳を示す。
《書き下し文》
寺島宗則建言
この節、将軍家より奏聞(そうもん)の儀、これあり候につき、 ご沙汰をもって、諸侯 召しなされ候に就きては、 太守様 御上京遊ばされるの筈と承知仕り候。右に付き微臣宗則(むねのり)両度(りょうど)西洋に罷り越し、聞見仕り候ごとに、 皇国に干渉仕り候事ども、漫録仕り置き候えども、時もがなと筐底(きょうてい)に蔵し置き申し候処(ところ)、この節 朝廷より諸侯衆議仰せ出され候に付きては、愚言狂説も、事により万一の御見合わせにも相成り申すべきやと存じ奉り、舞蹈(ぶとう)に耐えず、すなわち筐底(きょうてい)より稿取りいだし、書き抜き ご覧入れ奉り候。右の稿は一年前洋中にて記し置き候ものにて御座候ところ、その間変移また少なからず候に付き、この節、愚説書き添え申し上げ候。
当分 皇国振起(しんき)の為、政権 朝廷に帰し奉り候事において、 御議論 仰せ上げ候に就いては、天下の人みな存外に感服仕り候ようにこれなく候いては、恐れながら行われ申さず候。
畢竟(ひっきょう)政権武門に移り候ように成り来たり候は、封建の故にござ候につき、すべて封建の諸侯を廃され候はば、真に王道あいたて候義と存じ奉り候。
そもそも勤 王を唱え候に、この上もなき忠節を尽くさんに、その封地とその人とを朝廷に奉還候て、自ら庶人とあいなり、のちの撰挙(せんきょ)の有無を期し候に越したることは事はこれなく、かくのごとくにして始めて公明正大なる勤 王の分と謂うべしと、ひそかに愚説立ち置き申し候。
しかしながら世にもっぱら公明正大の事とりおこない申すは、あい叶いがたき訳にて、雑録抄にも申し候とおり、とかく人情の頑(かたく)なに索(もとめ)られ候う事にて、双方斟酌(しんしゃく)仕るべき事に御座候や。
幸い将軍家慚懼(ざんく)の罪を謝せられ候う時にあたり、我より先立ちて、たとえば 御領国何分の一を 天領として御返しにあいなり候上にて、幕府領そのほかの諸侯領、一統右の割合にて返され候うように、 ご尽力あそばされたく存じ奉り候。これ真の公明正大と申すほどには、いまだ至り申さず候えども、永く封建の ご恩を蒙りなされ時の御忠節には、この上なきことと存じ奉り候。
畿内並びに辺陲(へんすい)など警衛のため、軍船・兵卒その余武用の経費、従来幕府諸侯より出し候えども、以来は 朝廷より御弁に相成りたき義に御座候。もっとも朝廷より人数 召され候節は、平日申し上げ置かれ候人口の数に応じて差し出され、着京の上は朝廷より御扶持(ふち)賜り、動止(どうし)とも 朝命に帰せられ候よう、相成りたく存じ奉り候。その他辺陲(へんすい)の衛兵は、京師より御差し向けに相成り申すべく候。
すべて官たるものは、文武ともに決して封地を以て禄賜り候儀これなく、扶持にて賜り候義、宜しく御座候。
諸家より領地幾分を差し出され候義に付き、心得違いをもって吝(やぶさ)み嘆き候方もこれあるべく候えども、実は得失これなく、諸所の警衛の用度を 朝廷に差し上げ、それよりお払いに相成り候間、同様に御座候。
ただ指令の権 朝廷に移り候だけの相違に御座候。
そのほか諸侯述職(じゅっしょく)の事、外国互市御取締のこと、天領司農の事までも恐れながら私を棄てて奏聞遊ばされ候わば、則ち 御腹中を天下に拡充遊ばされ候訳にて、誰か服膺(ふくよう)仕らざる者これあり候や。
しかるを依然たる本(もと)の将軍家、本の諸侯にて、政権を 朝廷に帰し奉り候ようにと、差し当たりご奏議もこれあるべき筈に御座候えども、名異なるのみにて、実は以前同様にこれあり、間もなく名実に遮(さえぎ)られ申すべき事明らかに御座候。
微臣宗則かつて海外に出候いて、あるいは僣奪数代わり、あるいは痩地連旱の国を履み候時ごとに、我れ 故国を省み候えば 神明統を伝え、天険疆(きょう)を開きたまう。かたじけなくも覆載(ふうさい)の一土に生まれたることを得て、塵芥の微躯も、我 皇国を誇称仕り候ほどの面目に御座候。しかるに今日 王室の弛張(しちょう)切迫の時にあたり、愚といえども、狂といえども、黙過に耐えて申さず。敢えて死罪を顧みず申し上げ候。以上。
丁卯十一月二日 臣宗則寺島陶蔵謹具
《現代語訳》
寺島宗則建言
このたび、将軍家から朝廷に<大政奉還>の奏聞があり、その命によって諸侯の入京が命じられたことについて、<薩摩の>太守<島津茂久>様も上京される筈だと伺いました。このことにつき、取るに足らぬ家臣である私<寺島>宗則ではございますが、二回にわたって西洋へいき、見たり聞いたりするごとに「皇国」(日本)にかかわることを書き置いて(「漫録」)きましたが、まだ<その>時ではないと思い箱の奥にしまいこんでおりましたが、今回、朝廷から諸侯を集め話し合うとおっしゃられたことについて、<私の>愚かで常軌を逸した考えも、場合により万一にも比較検討の対象になるかもしれないと思い、感情の高ぶり(「舞踏」)に耐えかね、箱の底から<しまっておいた>原稿を取り出し、<必要な部分を>書き出して、ご覧にいれようと思いました。
右の文章(※「丙寅帰投雑録抄」)は一年前に外国で書き置いたものでありますが、その間の変化も少なくないので、今回、あらたな自分の説も書き添え申し上げました。
最近、「皇国」を奮い起こすために、政権を 朝廷にお返しになるということについて、論議をするようにもとまられていることについて、天下の国のひとはみんな意外なことだとひどく感心しているようです。しかし恐れ多いことですが、うまくいかないと思います。突き詰めて考えてみれば政権が武門に移ってきたのは、「封建」制のためでありましたので、すべて「封建」制の上に立つ諸侯を廃止なされましたら、本当の「王道」ができると思っております。
そもそも「勤王」を唱えて、これ以上ない忠節を尽くそうとされるならば、自分の「封地」(領地)とその「国人」(領民)とを、朝廷にお返し(「奉還」)して、自分は一般人(「庶人」)となり、そののちに選ばれることをめざす(「撰(せん)挙(きよ)の有無を期し」)にこしとたことはなく、このようにして始めて、公明で私心がない(「公明正大」)「勤王」であると考えるようになりました。
しかしながら、実際の世の中において「公明正大」のことというのは、なかなか実現しがたいことで、「雑録抄」にも申しましたとおり、とかく自分たちの気持ち(「人情」)に固執して考えておりますので、双方が相手の立場を推察するということはできないと思います。
幸いなことに将軍家が自分たちの誤りの罪(「慚懺(ざんげ)の罪」)をわびられている時であるので、我が国(薩摩)から、先手を打って、たとえば 御領国の何分の一を「天領」(天下の土地)として、(朝廷に)お返しするようにしたうえで、幕府領やそのほかの諸侯領も同じ割合でお返しされするようにご尽力していただきたいと思います。
これではあるべき「公明正大」というには、まだまだ不十分ではありますが、長い間封建制度のご恩を頂いてきたの忠節ということでは、この上ないことだと考えてます。
畿内や辺境の防衛のために、軍船や兵卒そのほかの費用は、従来幕府や大名が負担してきたのですが、今後は朝廷が支出していただきたいのでございます。実際には、朝廷が必要な人数を召されるときは、ふだんから申し上げている諸藩の人口の数に応じて差し出すようにされ、京都に到着した上は朝廷から費用(「御扶持」)を頂き、その行動(「動止」)においても朝廷の命令に従うようになるべきだと考えます。そのほかの辺境の警備の兵は、都から派遣されるべきです。
すべて役人(「官たるもの」)は、文官武官とも、決して土地(「封地」)を給与(「禄」)として頂くのでなく、給与(「扶持」)としてを頂くのがよいと思います。
各大名家が領地をある程度提出することについて心得違いをし、ケチくさく嘆き人もおられるかもしれませんが、実は損も得もなく、各所での警備で必要なものを朝廷に差し上げて、それからお支払いになるだけであり、同じ事です。ただ命令をする権限が朝廷に移るだけの違いでございます。
そのほかにも諸侯(大名)が天子に朝謁して職事の状況を上申(「諸侯述職」)すること、外国貿易の監督(「外国互市御取締」)のこと、直轄領における民政(「天領司農」)のことまでも、真に恐れ多いことではありますが、私を棄てて奏聞なされましたならば、お心うちを天下に広げることになり、受け入れて実行しないものがあるでしょうか。そのようなものはいないとおもいます。(「誰か服膺(ふくよう)仕らざるものこれあり候や」)
ところが、今まで通りのもとの将軍家、もとの大名家ということで、政権を朝廷にお返したいたすようにと、差し当たりのご意見も出されるはずだとは思いますが、それでは名目がかわっただけで、実際はこれまでと同様であり、すぐに現実(「名実」)に遮られてしまうことは申すまでもなく明らかでございます。
取るに足らない家臣である宗則は、以前外国に出向いて、あるときは分をわきまえない僭越な言動や力ずくでの強奪を多く見ましたし(「僣奪数代わり」)、あるいは土地が痩せ日照りがつづく国(痩せ地連旱の国」)に足も踏み入れるました。そのたびごとに、私は祖国のことを思いました。(我が国は)神が明らかな系統を現在に伝え、国土を切り開いてこられました。天地や君主の恩恵にあふれた土地にありがたく生まれることができ、塵芥のような自分であっても、「皇国」を誇らしく語るという面目がございます。
ところが今日、天皇家が切迫した危機の時(「王室の弛張切迫の時」)において、愚かであるといえども、狂っていると云われようとも、黙っていることができず、死罪に当たるかもしれないとの思いも顧みず、敢えて建言するものであります。以上。
丁卯(慶応三年)十一月二日(一八六七年十一月二八日)
臣宗則寺島陶蔵謹具
※あわせて提出された英国での体験や見聞を書き記したメモ「丙寅帰投雑録抄」を指すと考えられる。また、前年小松帯刀に提出したとされる「幕府・諸侯会盟シテ皇国ノ議律ヲ制ス」の意見書も含まれていたと推測される。(「人物叢書 寺島宗則」P127)
「建言」の内容について
この「建言」は提出の経過を記すことからはじまる。
二回目の訪欧の際、日本のあり方について考察した覚書を作成したが、その内容から発表を差し控えた。しかし、大政奉還という事態をむかえ、我慢ができず発表することにした。しかし、一年間で事態が大きく変わったため、現状に合わなくなった部分を改めたことが記される。
そうして本題に入る。
その冒頭で、寺島は、人々の大政奉還への期待に冷や水を浴びせかける。歓迎や期待、朝廷の下での日本という国が盛んになる(「皇国振起」)という希望的観測は「恐れながら行われ申さず候。」と。
なぜなら、幕府と大名が土地と人民を分有するという「封建制」=幕藩体制に立脚している武家の社会のあり方自体、朝廷中心の政治(「王道」)と両立しないものであり、「皇国振起」は封建制に立脚する「諸侯」を廃止しない限り実現しないから、というのである。
こうして朝廷の下で日本が栄えるためには「封建制」=幕藩体制の放棄が必然であるという公式にはまだだれも主張していなかった議論が展開される。
こうした認識のうえで、各大名が領主権(自分の土地と人民)を朝廷に「奉還」する、のちに「版籍奉還」とよばれる行動を提案する。そして、大名(藩主茂久)自身も一般人(「庶人」)として、選ばれることをめざすことが「公明正大」な「勤王」であると主張する。この部分がこの建言で最も注目される部分である。
この時期の政権構想は天皇を上に置いた雄藩大名の連合政権をめざす列藩同盟構想、さらに諸藩士もくわえた公議所開設など公議政体論などが主流で、いずれも諸侯分立という幕藩体制を前提としている。
幕府と薩摩藩を中心とする勢力の対立も、列藩同盟のリーダーシップを慶喜が握るか否かという争いである。
こうしたなか、「封建制」=幕藩体制を否定しないと朝廷中心の政治は実現しないとの主張は、確かに大胆な建議ではあった。
しかし、このような考えが、突拍子もない議論かと問われればそうともいえない。
佐々木克は、封建制=幕藩体制の破棄が早晩問題となることは明らかであったとしている。
具体的には、文久3(1863)年宇和島前藩主伊達宗城が「封建之今日にてハ難被行かと奉存候」と話し、
この「建言」とほぼ同時期の慶応3年11月には「日本終には郡県に可相成との上様の御見込」と徳川慶喜自らが永井尚志に語っている。
日本が強国となるためには郡県制=中央集権体制でなければならないというのである。
佐々木はいう。「王政復古によって、藩の存在形態が変容するであろうことは、諸侯が共通して予測するところであったに違いない。その方向の一つは、当時の一般的見解で示すと、封建制から郡県制への移行である」。そしてこうした認識は「意見に接したものが容易に理解することができる、日本の将来を語る人たちに共通の話題となっていた」(「幕末政治と薩摩藩」)。
これを敷衍していえば、すでに「共通して予測していたことこと」をはじめて明確に主張したのが寺島の「建言」であり、その内容は大久保らのリーダーたちにも「容易に理解」できるものであった。
大胆な方向性をだしつつ、「建言」は、封建制の維持が困難という方向を踏まえつつ、天皇を中心とする新政府にかかわる課題と薩摩藩がとるべき現実的な解決策を提案していく。
中心となるのは、新政府が幕府や諸藩から自立した権力をどのようにして身につけるかである。
寺島は、自立した財政と軍事的基盤の確立を重視する。
武力と財政的裏付けを持たない朝廷が、幕府と雄藩に翻弄された政局をみてきて考えたためであろう。したがって、朝廷=新政府の財政的軍事的基盤を、当面の幕藩体制・列藩同盟構想の枠組みのなかで、どのように作り上げるか、薩摩藩がどのような提案をすべきか、建言していく。
第一が、将軍家および大名家が、領地(と領民)の一部を朝廷に譲り渡す(「納地」)ことによる朝廷(中央政府)の財政基盤確立である。寺島は、島津家自体が先手を打って領国の一部を返還し、それを幕府や大名に広げるやり方を勧めている。
王政復古直後、小御所会議で、大久保や岩倉ら新政府首脳が慶喜に「辞官納地」を命じた背景には、財政問題もあった。こうした手法と考えのなかに「建言」との関係を感じさせるものがあるし、慶応3年末、越前・土佐などの工作で「辞官納地」が骨抜きとなるなか、検討されたのが、寺島が主張した幕府・諸藩が一定の割合で「納地」をおこなうという方法であった。
翌慶応四年二月には親兵創設の費用とするため封土のうち十万石を献上するとの「願」が薩摩藩から出されている。
さらに、藩内抗争に疲れた姫路藩の申し出をきっかけに、版籍奉還の議論が本格化すると、明治2年1月薩長土肥四藩主が他藩に先駆ける形で版籍奉還の上表を提出、他の藩も追随するという経緯をたどる。(松尾正人「維新政権」)
こうした一連の動きは結果的には寺島の構想が具体化されていったとみることができる。
第二は、朝廷の直属軍の設置である。
ここでも「納地」と同様に人口に応じて兵士を差し出させ、朝廷が指揮をする直属軍とする構想がだされる。
ここで重視するのが出身藩からの自立である。直轄軍にかかわる経費は朝廷が先に返還された土地からの収入で支払うとしている。
藩から兵を出させて直轄軍を設立する手法は明治四年、薩長土の藩兵から「御親兵」創設との類似点が指摘できよう。
さらに、費用については、封建制の復活につながる土地で与えるのではなく「扶持」=給料の形をとるべきであると論じる。このやり方は文武の役人にも適用すると書いており、文官においても、直属の官僚を置くことを想定している。
このように自立した経済的・軍事的基盤の確立がなければ、「指令之権」が幕府から朝廷に移ったに過ぎないと指摘、日本全体を掌握した中央政府となるうえでの藩や幕府からの自立を強く主張している。
第三には、それ以外に、諸侯と朝廷との関係(「諸侯述職のこと」)、外国貿易(外国互市御取締のこと)、直轄地における民政(天領司農のこと)などの課題があることを指摘し、藩主茂久が薩摩藩という立場を棄てた「公」の立場にたって積極的に提案することをすすめ、そうした態度を取る事で支持を得られると述べる。
逆に元将軍、元大名家といった幕藩体制にこだわる立場からのみ発言することは、今までのやり方を踏襲するだけであり、現実問題としてすぐに行き詰まると指摘し、より広い国家を見渡した役割を期待している。
そして、最後に外国を通して感じた日本への思いを語り、王室の危機において死刑をも覚悟してこのような建言をしたとナショナリストとしての思いを語り、文を終えている
このように、寺島は中央政府の自立性をいかに確保するかについて心を砕いている。
しかし、中央政府の政体については課題として「諸侯述職のこと」があると述べるにとどまっている。前年まで寺島の立場は「列藩同盟」論であり、この部分が前文部分における「その間変移また少なからず候に付き」にかかわる内容である考えると犬塚孝明は大久保らの主張に合わせ提言したものであって、本人は「列藩同盟」=「公議政体」論を維持しつづけたと考えている。「建言」の論理の流れだけからみると、そのようにいえるか疑問である。
「封建制」=幕藩体制の維持が不可能であると主張している以上、「列藩同盟」的な枠組みも不可能と云うべきではないか。
そのことが、藩主茂久に「自ら諸人とあいなり、のちの撰挙の有無を期し候に越したることは事はこれなく」とのべ、「恐れながら私を棄てて奏聞遊ばされ候わば」という言葉にあらわれていると考える。
このように、「建言」は二度にわたる渡航、イギリス首脳や外交官とのパイプを通してヨーロッパの主権国家のありかたを学んだ寺島が、大政奉還による天皇中心の政府樹立がスケジュールにのりうるという時点での国家像と、それをめざす当面の政策を示したものといえよう。
寺島宗則について ~幕末期における政治的立場を中心に
寺島宗則は、天保3年(1832)生まれの薩摩藩士、薩摩国出水郷の郷士の家の出身であったが、幼い時期に、シーボルトの弟子でもあった藩医松木宗保の養子となり、長崎で蘭学の英才教育をうけた。弘化2(1844)年14歳で養家を継ぎ、松木弘安と名乗り、江戸の遊学にでた。
江戸では伊東玄朴の塾の塾頭となり二十五歳で幕府が新設した蕃書調所の教授手伝いを命じられた。その後、いったん薩摩に戻り藩主島津斉彬のもとで「集成館」事業や外交交渉などで活躍した。
しかし斉彬が死亡すると、再び蕃書調所にもどり、横浜での外交文書の翻訳などに携わり、文久元年の遣欧使節に雇医師兼翻訳方として参加した。
こうした経歴を見ると、医学や自然科学を主なフィールドとしながらも、外交や政治・経済といった課題にも早くから取り組み、その見識を深めていたことが分かる。なお、この時の遣欧でオランダの現実をしり、英語に重点を置くようになった。
文久三年、藩命で帰藩、船奉行に任じられるが、同年の薩英戦争で五代友厚とともにイギリス側の捕虜となり、解放後も生命の危機を感じ約一年身を隠した。
その後、帰藩が許されると、薩摩藩の立場での行動が多くなったことから、幕府との関わりの深い松木の名をすて、故郷の地名にちなんだ寺島陶蔵という姓名を用いようになった。
慶応元年(元治2年)になると、イギリス政府との折衝の特命を受け、新納刑部を正使とする薩摩藩の遣欧使節随員として訪欧、イギリスで親日派の下院議員オリファントと親交を結び、外相への伝達を依頼、その内容が評価され、クラレンドン外相との直接の面談も実現した。
以後、外相に伝達した内容を、自叙伝の記述によって紹介する。
其略に云ふ、我朝外国と条約を結べるは幕府なれども、方今諸藩其権を剥ぎ之を京都なる帝室に復せんとす。故に諸藩士頻に外交を妨ケ外人をして幕威の及ばざる事を知らしめんが為に、魯人を殺し、英公使を襲ひ、其他穏当あらざる所為ある者は皆幕府に叛くが為なり。且日本国物産に生ずる所多くは藩地に在れども、各藩士をして自由に貿易せしめざるが為に外人広く貿易を為し難し。故に英国政府も亦日本政府の王室に帰する事に助力して、其条約批准の主を王室に移す時は、各藩の服従せざる幕府と条約を締結せる今日の如く異議あることなく、内外全美の処分なり。今日の如く幕府に対せる条約は日本真主の約する所にあらず。永く之を保続して両国の益となす可らざる者なり云々。
(「寺島宗則自叙伝」)
ここには、慶応元年における薩摩藩ならびに寺島の「日本」観がよく示されている。外国人襲撃の理由も含め自藩やいわゆる「尊王攘夷論」の考えを紹介し、幕府の中央政府としての正統性を否定する興味深いものである。
晩年に記されたものであるが、当時の覚え書きなどによって記されたことを推測される。(ただしその存在は確認されていない。)しかし、イギリス側の史料にも類似した記載があり、一方的に否定はできない。
この時期の寺島の考えは慶応元年12月7日付中原楢介宛て書簡(「忠義公史料」)に詳しい。書簡は、長文におよぶもので開国以後の日本やインド・清といったアジアの近代史、同時期に展開するイタリア統一などナショナリズム運動に学ぶ議論を展開の進展するヨーロッパの同時代史などを踏まえた論文である。
その一節を書き下し文で紹介する。
是に由り之を観るに、いよいよ将来の形成を同視し、我が国を永く万国と併立せしめんには、国家最上の主君大炬眼(きょがん)を開き、古頑を捨て、一新生児の如くなるべし。是則ち海外三四の大国に遣使を置くなり。此の説は生が一生の燕石(えんせき)策(※小才の自分が自慢する策)、その詳しくは寸紙に尽しがたしといえども、御賢量あるべし。たとえ京の縉紳(しんしん)(※官位が高く身分のある人)は盲なりとも、諸侯は割拠己を防ぐとも、つまり世間同様、教化にきわだたねばかなわず訳あり。分裂しては力足らぬ事、我が国をひと塊(かたまり)のもの(「一塊物」)の如くかたまり和して一主の指揮に従うものと見てさえ、未だ他と和好なければ独立難(かた)し、印度の約は分裂より成る。洋諺に一薪は折れ易く、束薪は折れ難しと云えり。
このように、世界と対応するためには「我が国をひと塊のものの如くかたまり和して一主の指揮に従う」と天皇と思われる「一主の指揮」のもとに塊となった統一日本の姿をめざした。
そして寺島は帰国直後、帰国途上の船において記した「幕府・諸侯会盟シテ皇国ノ議律ヲ制ス」との建議書を小松帯刀に提出したと「自叙伝」に記されている。
その大要を回顧録では以下のように記している。
「今吾国の諸藩戮力(りくりよく)以て政事を議し、相合して外国に對せざる可からず。例ば一片の材は折り易きも多く之を合すれば折り易からざる如し。故に諸藩の人物を集めて国會を聞き、其同論の多数に従ひ、之を以て我国行政の方向をなする興国第一の美事となす云々。」
この一文には先の書簡の引用部分と似た一節があることから、小松に提出した建議書もはこの書簡を踏まえたものであること考えられ、「建言」のなかで「筐底」にしまい込まれ、「建言」とともに提出された「漫録」(「丙寅帰投雑録抄」)も中原への書簡の内容に近かったものと推測される。
この建議書は石井孝によって次のような評価が与えられている。
この松木の意見は、かれみずから幕府という言葉を使っているのでも明らかな如く、「会院」=「総政府」の内部で幹事の役をつとめるのは幕府の閣老であり、「会院」内の最高委員会を構成して第一次的に議事を決定するのは、幕府の閣老を含めた三家・国主の代表=留守居である。これをもってすれば、松木の構想した「全国総政府」は、最大の藩である幕府を含めた雄藩連合政府の機構であると言ってよい。天皇は元首の地位に復するが、「会院」が三分の二の多数で議決したものに対しては、拒否権を行使できないから、その権威は名目的なものになる可能性が多い。
このようにこの時期の寺島は幕府中心の雄藩連合の方向をめざしていたとされる。しかし、この当時の薩摩の藩論自体が、寺島(松木)と「大同小異」であったとされ、王制復古一年前の薩摩の新政府構想の程度を示している。
寺島にとってもっとも重要だったのは、いかなる政体構想であるよりも、「我が国をひと塊のものの如くかたまり和して一主の指揮に従う」という点に重点があると考えるべきである。それは寺島のみならず、薩摩などのリーダーの共通認識であったと考えられる。(逆に言えば、ひとかたまりになることを妨げる幕府は排除されねばならないとの理屈ともなる。)
欧州からの帰国後は、寺島は五代とともにイギリスとの折衝の中心として活躍する。とくに外相クラレンドンの指示をうけ、公使パークスとの深い関係を築いた。ただ薩長よりの姿勢を強めていたイギリス書記官サトウはその前歴から寺島へ不審を抱いていたと回顧録に記している。
「建言」提出の背景 ~慶応三年十一月前後の薩摩藩と寺島宗則
慶応3(1867)年になって、京都における政治情勢は混迷を増す。とくに10月慶喜が大政奉還を建白したことは薩長側の計画を大きく狂わせ、政局は慶喜側に優位に展開する。
朝廷が慶喜への庶政委任を認めたことで、慶喜が「大名連合政府をつくり、徳川宗家が抜きん出た筆頭となり、国政の実権をあらためて確保する構想」(井上勝生「幕末・維新」)が現実味をおびてくる。慶喜の周辺では寺島の旧知、西周が国家構想を立てることを命じられる。
これに強く反発した薩摩藩は武力を用いてでも態勢挽回をはかろうとした。藩政を掌握していた大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀の三人はそろって鹿児島に戻る。藩主に藩兵の上京を求めるためである。
三人は10月26日鹿児島に到着、翌27日重臣一同の衆議を経て、28日茂久と久光に報告、29日に茂久の出馬上京が決定した。そして11月10日には病の小松に代わって大久保が土佐に向けて出発、13日には藩主茂久が藩兵三千人を率いて出発する。西郷や寺島も同行する。この藩兵が王政復古クーデタおよび翌年1月の鳥羽伏見の戦いの主力となる。
この「建言」が提出された11月2日はこの緊迫した時期のことである。こういった緊迫した情勢の中「建言」はどのような意味を持っていたのであろうか。
大久保らからすれば、慶喜に対抗するためには、慶喜の新政府構想に対抗すべき薩摩側の構想が必要である。かれらはその重要性をよく理解しており、病気のため鹿児島に残った小松帯刀は土佐の後藤象二郎に外国議事院について調査しているとの書簡を送っている。佐々木克によれば、議事院とは具体的な機関と云うより「政府の組織や機能のこと」であり、新政府構想そのものである。これをめぐり両者は対立し、そうした知識を切望していたのである。「こうした外国の諸制度について維新の情報を質量ともに持っていたのは薩摩」(「幕末史」)であり、その筆頭が寺島であった。
この「建言」はこうした切迫した情勢の中で著されたものである。
「寺島宗則回顧録」に「建言」についての記述は見当たらない。しかし王政復古のクーデタの直後に次のような記述がある。
「或夜大久保利通大息して云ふ、『将軍還政すと雖も実地之を取る事能わざるを以て、一応従前の如く政権を将軍に託するの外なしとの廟議あり、遺憾の至りならずや』と。余云ふ『実に然り、政権を帝室に復せんには、土地人民なかる可らず。幕府の土地人民は素より其他我藩も亦土地人民を奉還せざる可らず。然る時は他藩も此例に倣うべし。是に於いて始て全国の君主たるを得べし』と。次日余此事を書して大久保に示せり」
日程を無視するならば、「次日」大久保に示された「書」こそが「建議」書であるように見える。しかしこの記事は、王政復古以降におかれている。これをどう考えるべきか。寺島が、鹿児島におけるこの「建言」提出時のエピソードを寺島が京都で大久保と同居した時期のエピソードと混同していると考えるのがもっとも合理的と思われる。
「建言」が出された時期、大久保は鹿児島におり、引用での大久保が嘆いたのは大政奉還後の薩摩藩の立場であったと考えた方が適切でであり、違和感もすくない。のちにも見るように王政復古前後、寺島は大久保と同居しており、越土など公議政体論派のゆりもどしで悩んでいた時期の大久保の嘆息と大政奉還期における鹿児島での嘆息と混同したと考えるのが自然であろう。なお犬塚孝明は、この「書」が「建議」であると断定的に記している。(犬塚前掲書)
鹿児島に戻ってきた大久保たちが、朝廷を中心とした新しい統治のありかたを、豊かな知識と外国側の動向にもくわしい寺島にもとめた、その結果提出されたもの、大政奉還後の薩摩の劣勢に抗する理論的なよりどころを求める大久保に寺島が「建議」という形で示したものがこの文書であったと思われる。
「忠義公史料」には、寺島の「建言」につづき、薩摩藩の財政軍事顧問のフランス人モンブランが藩主茂久に提出した国政変革に就いての大綱四カ条および王政復古に関する対外布告文の雛形が納められている。これも、寺島の「建言」と同様に鹿児島に戻った大久保らが大政奉還後の薩摩の戦略の立て直しのためにの意見を求めた中で提出されたと考えられる。
寺島の意見を聞き、「提言」をうけとった大久保は、王政復古に向かう政局における寺島の力量を高く評価し、政策ブレインとして上京を求めたと思われる。寺島は藩主に同行して入京、しかし藩邸ではなく大久保の屋敷に住む。王政復古から鳥羽伏見の戦いにいたるもっとも緊迫した時期、寺島は大久保の直近にいたのである。こうしたこともあり、寺島宗則関係文書に大久保の書簡が残されたのである。
なお、この時期、寺島は慶喜を首班とする政権構想作成にあたっていた旧友西周らと接触している。西に宛てた寺島の書簡が残っており、幕府や諸藩の姿勢を「私」と批判し、幕府のフランス接近は内乱の危機を招く、大切なことは「封建ノ大ノ私ヲ不除して堂々公明正大ト云も誰カ従ハン、我邦一家之人也」と国家の統一であると、主権国家としてあるべき姿を語っている。(犬塚前掲書)
こうした行動を通じて、慶喜やフランスとの関係について情報を収集し大久保らに伝えるとともに、「建言」にみられる考えを西に伝える事で慶喜に影響を与えようとしたとも考えられる。西の記録によると、十二月九日榎本武揚も交えた会合を準備していたが寺島は現れなかったと記している。王政復古への寺島の動きを感じさせるエピソードである。
寺島「提言」の歴史的意義について
王政復古以後、寺島の活動の場は外交現場に移っていく。
徳川慶喜は12月16日六国の外国公使団とに引見、自らが従来通り外交権を掌握していると表明する。これに対抗し、新政府側の外交政策の樹立も急務となる。その担当者となったのが寺島である。慶喜が引見した翌日、寺島は先のモンブランの案をもとに新政府樹立を通告する「新政府樹立に関する対外布告詔書案」の草案を作成、天皇の裁可を得て、二十日イギリス公使パークスらと大坂で会見する。
以後、翌年一月の鳥羽伏見の戦いをはさむ時期、新政府と外国とのあいだでは神戸事件などの困難な事象がつづき、寺島もその対応に忙殺され、内政との関わりは薄れる。
この間、寺島と共に協力して、外国との折衝にあたったのが伊藤博文である。そして伊藤こそ、新政府内で最も早く廃藩置県を提議した人物である。寺島⇒伊藤という二人の「外交官」の間でこの点が話し合われたことは想像に難くない。
新政府は内政・外交の整備と並行しながら、戊辰戦争をすすめていた。多くの諸藩は新政府への屈服、拒むものは賊軍として討伐される。
諸藩においては「尊王派」が藩政を掌握し、新政府の意を受けた改革がすすめられる。さらに戦争は膨大な戦費の負担を諸藩に強いたにかかわらず、藩札の発行が差し止められたため、諸藩財政は次々と破たん、「封建制」=幕藩体制というシステム自体が崩壊を始める。
天皇を中心とした中央集権を指向する政府の成立が、幕藩体制の枠を破壊しはじめたのである。
寺島が指摘した事態、天皇中心の政府(「王道あいたて」た政府)の出現が「すべて封建の諸侯を廃」せざるを得ない状況が生じ始めた。
そして「封地とその人とを朝廷に奉還」する版籍奉還を経て、完全に「封建の諸侯」が「廃される」廃藩置県へとすすむ。
寺島の「建言」は、新政府が実施した政策・手法と類似したものが多い。だからといって、寺島の役割を過大評価することは妥当ではない。「万国対峙」という状況の中で、天皇を中心とした国家を打ち立てようとする以上、類似した手法をとらざるを得なかったという方が妥当であろう。
では寺島の提言をどのように位置づけるのか。寺島はとどめることのできない歴史の流れをその知識と経験によってすばやく認識し、理論化した。時宜にあった提案であった。したがって大久保をはじめとするリーダーたちによって歓迎され、漠然としていたリーダーたちの思いを確信へと導く一助とはなった。
大著「大久保利通伝」で寺島提言を全文紹介した勝田孫弥は、その直後、普段は寡黙な大久保が徳川氏に「納地」を求めることに関して「我国の土地は皆王土ならざるなく、徳川氏は只之を支配し来たるに過ぎず、領土は政権に伴うべきものにして、決して私すべきものにあらず」と滔々と弁じたと記している。明言していないものの「大久保の論旨中には、既に藩(ママ)籍奉還の事を包含したるものと確信したりき」と記している。
寺島が「建言」で示した論理と方向性を大久保が受け入れてきたことを示すと思われる。
寺島の「建言」は、時代の流れをあざやかにとらえていたからこそ、新政府のリーダーたちのいまだ漠然としていた構想を明瞭な形で示し、その内容を歴史上実現させていたのだと考えられる。
参考文献
『鹿児島県史料 忠義公史料3・4』(鹿児島県 1975・76)
『維新史料綱要』 (東京大学史料編纂所HP)
「寺島宗則自叙伝」(ゆまに書房2002 原本1934)
勝田孫弥『大久保利通伝』(臨川書店1965 原本1910)
犬塚孝明『人物叢書 寺島宗則』(吉川弘文館1990)
犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館1987)
石井 孝『増訂明治維新の国際的環境』(吉川弘文館1966)
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館2004)
佐々木克『幕末史』 (筑摩書房 2014)
松尾正人『維新政権』 (吉川弘文館1995)
井上勝生『幕末・維新』(岩波書店 2006)
注記:この文章は、2016年に作成し、PDFの形で公開していたものを見やすい形に改変したものです。(2022,6,25記)
元の史料は次のリンクから見ることができます。