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アメリカの占領政策と国内諸勢力
~戦前・戦中・戦後の一体的理解のために(2)
※第一部「終戦工作における『国体』をめぐる攻防」はここから
戦後改革のなかで
前稿においては、雨宮昭一に学びながら、以下のようなグループの存在の合従連衡のもとに終戦工作がなされたことを見てきた。
(1)降伏にさいし「国体護持」のみを求めたグループ
①裕仁天皇(昭和天皇)、
②近衛・木戸ら宮廷・華族グループ
③自由主義派(親米英派グループ)+財閥
④反動派(従来型右翼・皇道派など)+寄生地主、
(2)降伏に際し「国体護持」以外の条件も掲げたグループ
⑤陸軍・軍部グループ
(3)降伏に直接かかわらなかったり、集団としては表だった動きをみせなかったグループ
⑥戦時官僚グループ+新興財閥
⑦社会主義・社会ファシズム派(社会国民主義派)
上に示したそれぞれのグループは、それぞれにとって都合のよい「国体」をイメージし、それに従って「国体護持」を求めて、それが実現できたもの判断、天皇の命令を打ち出す事で、戦争終結を実現した。そして、多くはアメリカも自分たちに都合のよい「国体護持」を認めてくれると考えていた。
しかし、実際の占領下において、そのように都合よく話が進むものではなかった。
こうしたグループの前に、一方での軍国主義・ファシズムの廃絶を実現する目的と、他方でのアメリカ(イギリス)の帝国主義的利害を代表する目的という二つの目的をあわせもった占領軍が登場する。こうして、国内のそれぞれの勢力が占領軍の二つの「顏」と複雑に結びつくなかで、戦後改革が進行し、戦後の日本政治の流れがつくり出されていく。
「国体護持」をめぐるアメリカ国内の対立
では、アメリカや連合国が「国体護持」を認めたのか、この間のアメリカ国内の動きを見ていくことにする。
ポツダム宣言の原案は米国務省での議論も反映させつつスチムソン陸軍長官が起草したと言われる。そのさい「国体護持」にかかわって国務省内部で対立があった。元駐日大使で国務次官となっていたグルーら保守派・知日派と、安易な妥協に反対するアチソン国務長官らのグループの対立である。日本の非軍国主義化・民主化という基本理念は共有されていたものの、グルーらは天皇制存続=「国体護持」を意味する「立憲君主制をみとめる」との文言を書き込もうとし、徹底的な改革をめざすグループと対立した。結局、グルーらの意見は容れられず、宣言文は「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。」との文言にとどまった。
長く大使をつづけたグルーは数少ない日本の専門家としての権威を持ち、日本の旧支配層とくに宮中グループや自由主義派と強いつながりをもち、吉田茂とは開戦後も連絡をとりあっていた。その人脈は旧支配層に偏り、かれらに同情的であり、国体護持・天皇制維持を認めることで早期の日本降伏をめざしていた。しかしそうした発言は強い反発を買い、いったんは沈黙を余儀なくされていた。
それに対し、開戦時の国務長官ハルにつながるグループは日本の非軍国主義化・民主化を実現するためには安易な妥協は禁物であり、日本を無条件降伏においこみ、米軍占領下での根本的な改革を行うことが必要と考えていた。
グルーらが裕仁天皇を自由主義者とみなしそれを利用しながら(ライシャワーは「傀儡(かいらい)」と表現)、軍部を除いた旧支配層を中心とした勢力(1920年代からの政党政治・国際協調外交を主導した勢力)による間接統治を容認する姿勢をとったのにたいし、後者は国家神道に飾りあげられ華族らに守られた天皇制のあり方を問題視し、講座派マルクス主義の影響もうけ財閥・寄生地主といった諸階級の存在、明治憲法と教育勅語、治安維持法と特高警察などのシステム自体が軍国主義の温床であったと考え、徹底的な変革が必要と考えた。そのためにはアメリカ側の強い介入が必要であると考えていた。
グルーらが「日本の軍国主義は1930年代にはじまる逸脱」と考えたのに対し、反対派は「戦前の日本の社会・政治・経済といった構造の中に軍国主義の原因がある」と考えた。
こうしたアメリカ内部の日本軍国主義に対する理解の違いが、占領政策のずれを生じさせる。さらに、第二次世界大戦のもつ二つの性格、すなわちファシズム・軍国主義に対する五〇カ国に及ぶ連合国による民主主義の戦いという側面と、帝国主義戦争の側面からくるアメリカの国益を最優先するという側面が、大戦終了後の「冷たい戦争」の激化という国際情勢の緊迫化のなかで占領政策を複雑なものとする。
東久邇「反動派」内閣
ポツダム宣言受諾と同時に退陣した鈴木貫太郎内閣にかわって成立したのが東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)内閣である。天皇と側近は、皇族首相という権威で軍部などの反発を押さえつつ、その自由主義的な姿勢に期待したのである。しかし閣僚の顔ぶれは東久邇すら「無難で老練な保守的な人々」と嘆くようなメンバーで、検閲と警察力で混乱を最小限にとどめ、国民に対しては「一億総懺悔」を唱えることで戦争責任を曖昧にし、て東久邇が目ざす「自由主義的な改革」すら認められなかった。先の分類でいえば、華族・側近勢力と反動派に自由主義派を交えた内閣であり、内務省主導で国民抑圧の体制を維持しようとする戦前・戦中の遺物でしかなかった。
8月末に占領を開始したアメリカ軍は混乱を回避するため日本軍の武装解除まではこの内閣を認めるが、武装解除のめどがつき支配が安定すると、この内閣を切り捨てる。それは宮廷・華族グループおよび反動派の退潮を示すことになる。
アメリカ占領の開始と「初期対日方針」
アメリカは、日本側の降伏受諾を11月以降とみており、予測外に早い降伏は占領が準備不足のまま始まったことを意味していた。
9月2日の降伏文書調印の直後、占領軍総司令官のマッカーサーは、突如日本の直接占領(東久邇内閣と官僚機構の停止につながる)、英語の公用語化、円の使用停止・アメリカ軍票の使用の三布告を命じる。予想外の事態に日本側、とくに外務省は大騒動となる。
根拠となったのは、交戦中、日本の戦争継続・本土上陸を前提として立案され、マッカーサーに伝えられた「ブラックリスト作戦」にあったとされる。予想外の展開にアメリカ政府は大忙しでポツダム宣言の趣旨にそった「初期対日方針」を作成する。それが完成したのは8月11日であり、マッカーサーに「写」が渡されたのは8月29日であった。その時点では国内での正式な承認も得ておらず、大統領が承認したのは9月6日である。そこには間接統治が明記されていた。しかし、マッカーサーは日本上陸作戦を定めた以前のマニュアルに従って三布告を出そうとしたのである。連絡不足の出来事なのか、マッカーサーの故意であったのかは不明である。
「直接統治」などマッカーサーの三布告は、外務省による必死の折衝で撤回されたが、一連のドタバタは占領軍の統治が降伏文書調印に見られたような「寛容」なものではないことを感じさせた。日本占領はこのようにワシントン政府と東京のマッカーサーの間の打ち合わせが不十分のままはじまる。
さて「初期対日方針」は、占領によって「日本が再びアメリカおよび世界の平和と安全の脅威とならないように非軍事化し民主化すること」を目的とし、そのための方策として、軍の解体、戦争犯罪人の処罰、民主主義の奨励、軍事力の基礎となる物資の生産禁止・施設除去など非軍事化、農業を含む産業や労働にかかわる民主主義的な組織の発展の奨励などが記されていた。基本的には「非軍国主義化、民主主義化の実現」とのポツダム宣言を現実化した内容であるが、「世界の平和」よりも先に「アメリカの脅威とならない」ことが記され、「アメリカの目的を指示すべき」と明記されていたようにアメリカの国益を最優先するものでもあった。
マッカーサーは「初期対日方針」は評価し尊重するとしたが、その後の本国からの指示は軽視したとされる。日本占領は、このような権威主義的で自己顕示欲の強いマッカーサーの下で進められた。さらに、スタッフの中にはアメリカの対日政策の「分裂」を背景とした意見の対立や手法の不統一などがあり、そのこと自体がマッカーサーの独裁をより印象づけた。
ともあれ、体制が整わず、日本側の状況がつかみきれなかった九月中、アメリカ軍は「非軍事化」=軍隊の武装解除に全力を投入した。あわせて戦争犯罪人の逮捕も始まった。
「五大改革指令」~アメリカによる「改革」の本格化
本格的な改革の過程がはじまるのは九月末からである。九月二七日マッカーサーと裕仁天皇の会見が行われ、その写真公表への対応と三木清の獄死に対する内閣の対応を嫌ったGHQは十月四日人権指令をだす。五日東久邇内閣は総辞職、六日幣原喜重郎が首相を受諾、アメリカの承認を得て九日に幣原内閣が成立する。そして十一日マッカーサーを訪問した幣原に五大改革指令が示される。
この段階で、日本側は東久邇内閣のような態度ではすまない事を理解しはじめる。しかし、ショックを受けたのは、内務省主導の治安体制が維持できると考えていた「お人よし」の反動派であり、新たに幣原ら自由主義派にとって五大改革の内容は想定内であった。ただし、前文に当たる部分で話された憲法改正を除いては。
こうして改革が本格化する。メインとなるのは、①非軍国主義化と民主主義化②天皇制の維持、をめぐる内容である。
アメリカ占領と軍部・反動派
この時点での国内の諸勢力の動きを確認しておこう。
戦争責任を正面から問われることになった陸海軍は、天皇の命令を受けて武装解除され、陸軍省・海軍省は第一・第二復員省と名を変える。なお海軍の処理を担う第二復員省は水面下でアメリカ側との折衝をつづけ、生き残りを図っていた。こうして戦前・戦中に圧倒的な力を持っていた軍部は無力化される。
また東久邇内閣の崩壊によって、天皇の側近・華族グループや、権威主義的支配の継続をめざす反動派も力を失う。GHQは天皇制にかかわる多くの組織を解体、華族制度も廃止の方向を示す。こうしていわゆる絶対主義的天皇制は解体される。人権指令をきっかけに治安維持法を中心とする治安法制などが廃止され、内務省も解体される。さらに翌年1月にはじまる公職追放によって反動派は逼塞を余儀なくされる。
当時、帝国議会には、1942年の東条内閣のもと、翼賛選挙に推薦・当選した議員が戦後も議席を占めつづけていた。かれらは、農地改革などの改革を「骨抜き」にしようとするなどの動きを示す。さらに十二月に議会解散する。準備の整わない間に自らに有利な選挙戦を展開し、議席を維持しようとしたのである。これにたいし、GHQは選挙によって彼らが正統化されることは改革の障害となると考え、総選挙の実施の延期を命令し、さらに翼賛政治会推薦議員らを一斉に公職追放とした。公職追放から免れたのは、鳩山一郎ら翼賛政治会の推薦をうけなかったわずかな人々のみとなる。こうして反動派の動きはいったん断たれることとなる。
天皇・マッカーサー会談
こうした情勢の中で、事態をかなり正確に把握し、対応を考えていた一人は近衛であった。近衛は東久邇内閣に副首相格として入閣したが、「天皇制」維持のためにはアメリカの要求を大幅に受け入れその意をいれた憲法改正が必要だと考え、天皇の了承を得て、アメリカとも折衝、作業を開始しつつあった。
同様に事態を深刻に捉えていたのは裕仁天皇その人であった。天皇は天皇制廃止=共和政という最悪の事態にならないことに努力を集中する。そのためにはアメリカとの妥協が必要だと理解していた。したがって近衛の工作に期待したのである。それが天皇制存続の必要条件だと理解していた。他方、自らの退位や弟・「母(皇太后)」を摂政とする案は却下する。
陸海軍の武装解除が自分の命令によってわずか一カ月で大きなトラブルもなく進んだという実績のもと、占領軍が改革の第二弾にとりかかろうというその時期を見透かしたかのように天皇・マッカーサー会談がもたれる。
この会見によって裕仁天皇はマッカーサーとの信頼関係をとりむすぶことに成功する。こうして天皇は「天皇制の存続」、マッカーサーはアメリカの占領政策にたいする天皇の全面協力という成果を互いに獲得する。これ以後、裕仁天皇はアメリカの望む最良の「傀儡」(ライシャワーの表現)としての役割を果たす。両者の共謀のもと、象徴天皇制という形での「国体護持」が実現する。さらに天皇は近衛をマッカーサーの下に送り憲法改正に着手させる。これ以後、天皇は一貫してアメリカ協力の姿勢をとりつづける。その姿勢は一九八九年の死に至るまで変わらない。
幣原「自由主義派」内閣の成立と「憲法」問題
東久邇内閣の崩壊を受け、組閣した内閣の首相・幣原は一九二〇年代の政党内閣期の「国際協調」政策の象徴ともいえる外交官である。軍部などから自由主義者と見なされ逼塞を余儀なくされていた幣原を首班に、同様な状態にいた吉田茂や外交官出身の政治家芦田均ら自由主義派=米英派を中心に組閣されたのが幣原内閣であった。
吉田茂が、敗戦直後、軍部などのがん細胞を除去すれば再び日本は復活できるといった楽観論を示していたように、かれらはアメリカの要求を受けて、一九三〇年代以降急速に進んだ軍国主義的な偏向、軍部やそれと結んだ官僚らを排除すれば、ポツダム宣言のいう「民主主義的傾向の復活・強化」「これを妨げるあらゆる障碍」の排除は実現できると考えていた。復活すべき「民主主義的傾向」とは大正期の原内閣から浜口内閣にいたる政党政治と理解していた。五大改革指令に対してもその多くは政党内閣時代に手がけていた政策につながるもので自由主義的改革の再開によって実現できるとこたえる。
しかし、マッカーサーが指摘したにもかかわらず幣原がコメントしなかった内容がある。それは五大改革指令の五つの指令の前文に当たる部分で語られた「憲法の自由主義化」である。幣原は五つの「指令」を間違えなく取り組むと答えるが「憲法の自由主義化」は聞き流し、「民主主義」や「自由主義」の内容は各国によって異なると間接的に答えるにとどまる。この時点で、幣原には憲法改正の意志はなかったと思われる。
幣原ら自由主義派にとっての「国体」は明治憲法のもと、天皇機関説を前提とした政党政治期のあり方である。したがって憲法改正は不要であり、五箇条の御誓文→明治憲法のなかに日本型の「民主主義」が存在しており、五大改革指令もその枠組みで可能であるというのがその見解であった。この点では、近衛およびその背後にいた天皇の方が占領軍の意図を正確につかんでいた。
幣原らは、大臣解任後も天皇の権威で憲法改正作業をすすめる近衛を妨害しつつ、憲法改正を前提にしないとの前提で松本烝治国務相を主幹とする憲法問題調査委員会を立ち上げた。松本らは美濃部達吉ら自由主義的な法学者をあつめ、占領軍との意見交換もなしに明治憲法・天皇機関説を前提とした独自の憲法改正案を作成する。しかし、占領政策へのソ連など極東委員会の介入を嫌うマッカーサーは、松本らの案を拒絶、より踏み込んだ内容でソ連などより急進的な民主化・非軍国主義化をもとめる国々も納得させるような内容をもつGHQ草案を提示されることにする。
幣原・吉田・松本といった自由主義派は、日本の非軍国主義化と民主主義化をもとめる世界の潮流がアメリカの占領政策に大きな影響を与えていることを理解できず、アメリカ当局者との外交交渉・協議によって自らの政策を主張・実現しえるというような戦前の感覚でいた。劇的とも思える改革を行わなければ、世界も、アメリカ本国も、許さない、とくに天皇制を維持できないという厳しい世界情勢が見えていなかった。無条件降伏は国家主権を奪われたことだということの意味を理解できなかった。さらに敗戦とともに急速に変わってきた国民の意識も理解できなかった。日本を戦争に導いた「根拠のない楽観論・希望的観測」からいまだに脱却できていなかった。かれらが、敗戦ということの意味を骨身に染みて理解したのは、憲法をめぐるやりとりであり、「GHQ草案を国民に提示し国民投票に付そうか」というGHQ側の発言であった。
以後、幣原内閣、更にそれを継いだ吉田内閣は様々な手練手管を用いて、その内容を明治憲法に近づけようとして姑息な手段をとる。
敗戦と戦時官僚グループ
五大改革指令を受け取ることで一挙に動きを活性化させたのが、敗戦や人権指令で解体されたり弱体化した内務省や軍をのぞく(戦時)官僚グループである。
間接占領という占領軍の政策は、解体された軍と分割される内務省(内務官僚自体は各部署に分かれてやはり被占領行政のなかで活躍する)を除き、それまでの官僚機構・メンバーを維持させた。とくに経済官庁では、戦犯指定されものは上層部に限定され、敗戦による組織変革やメンバー交代も小規模であった。こうしてそれまでの戦時体制の推進者が一夜にして「平和国家建設」の司令部へと「変身」したのである。野口悠紀雄が体験的に述べているように、大蔵省では戦時の昭和20年採用者と終戦後の21年採用者が矛盾なく連続的に職務を果たしていた。敗戦による変革という姿は見られない。戦時中、戦時体制を中心的に担うべく設立された軍需省は米軍の進駐直前に商工省(のち通商産業省)と名前だけを変え、戦時期統制経済の司令部の企画院は経済安定本部として復活、戦後経済復興の司令部となる。
官僚と官僚システムは、戦時体制下の「聖戦遂行」「大東亜共栄圏樹立」「戦時体制の樹立」という目的が、「非軍事化と民主化」「平和国家建設」「敗戦にともなう混乱からの復興」におきかわったが、変化は小規模で、ときには一八〇度異なるはずの政策を、これまでと変わらない官僚機構が、これまでとかわらず担う。
しかし、これまでの「暴君」=軍隊が、新たな「主権者」である占領軍にかわる。彼らは新たな「暴君」の顔色をうかがいながら行動する。そして、「暴君」の横には隙をねらってこそこそとサボタージュを繰り返し旧体制を維持しようとする政府・政治家がいた。官僚たちは、敗戦と経済破綻という混乱を背景に、占領軍、政府、さらには活発な行動を開始しはじめた民衆の間をうまく「遊泳」することで職務遂行にあたる。
かれらは単なるイエスマンでも、ロボットでもなかった。官僚たちは、こうした状況の中、主に組織的に、時にはグループや個人でさまざまな動きをする。一方では官僚の通例ともいえる保守主義(「前例踏襲」主義)、他方で新たな分野への権限の拡大と政策実現を図ろうとする「革新主義」を発揮する。さらには自分たちが進めてきた政策へのこだわり、体質としての上意下達と下克上意識、派閥(それは理念や手法・入省年次や郷党・出身地・出身校などさまざまな要素によって生じる)、組織や権限を守ろうとするセクショナリズム(「身内意識」)とそこへの凝集性、維新以来植え付けられてきた「天皇のしもべ」という意識、国民にたいする「保護者的感覚」(それは国民蔑視の裏返しでもあるのだが)、みずからこそが日本を背負っているという「国士」的感覚、抜きがたいエリート意識。ときにはデモにも参加もする。こうしたものをないまぜに官僚たちは行動した。
ただ、多くの場合は、官僚の多くは、自分たちや組織のなかに軍国主義と侵略戦争の原因を見いだすことはしなかった。たとえば外務省は戦後早い時期に在外日本人資産返却を要求するための資料作成を進められている。そこに侵略戦争への反省の姿は見られない。
官僚たちにとって、五大改革指令などの占領軍の指令は、新たなテーマ、あるいは戦時体制下でのやりかけの仕事を、新たな「暴力」組織の庇護の下に、戦時体制下で得ていたような権限とともに与えられた事をも意味していた。官僚たちは、今度は軍部や「聖戦遂行」に気兼ねせず、ときには政府や議会の妨害もはねのけて、戦時下では困難であったテーマさえも着手できるようになった。占領軍という「威」を借り、さらには自由と民主主義という価値に目覚めた民衆も利用しながら。
五大改革指令と日本政府
ここで五大改革指令を確認しておくことにする。指令された内容と、それによって獲得されたものの間には解離があることを確認したい。
一、参政権ノ賦与ニ依リ日本ノ婦人ヲ解放スルコト
婦人モ国家ノ一員トシテ各家庭ノ福祉ニ役立ツヘキ新シキ政治ノ概念ヲ齎スヘシ
ニ、労働組合ノ組織奨励
以テ労働ニ威厳ヲ賦与シ労働者階級カ搾取ト濫用ヨリ己レヲ擁護シ生活程度ヲ向上セシムル為大ナル発言権ヲ与へラルヘシ、之ト共ニ現存スル幼年労働ノ悪弊ヲ是正スル為必 要ナル措置ヲ採ルコト
三、学校ヲヨリ自由主義的ナル教育ノ為開校スルコト
以テ国民カ事実ニ基礎付ケラレタル知識ニ依リ自身ノ将来ノ発展ヲ形成スルコトヲ得、政府カ国民ノ主人ニアラスシテ使用人タルノ制度ヲ理解スルコトニ依リ解答スルヲ得ヘシ
四、国民ヲ秘密ノ審問ノ濫用ニ依リ絶エス恐怖ヲ与フル組織ヲ撤廃スルコト
故ニ専制的恣意的且不正ナル手段ヨリ国民ヲ守ル正義ノ制度ヲ以テ之ニ代フ
五、日本ノ経済制度ヲ民主主義化シ以テ所得並ニ生産及商業手段ノ所有権ヲ広ク分配スルコトヲ保障スル方法ヲ発達セシムルコトニ依リ独占的産業支配ヲ是正スルコト
刻下ノ行政部面ニ就テハ国民ノ住宅、食糧、衣料ノ問題ニ関シ政府カ力強ク且迅速ナル 行動ニ出テ疫病、疾病、飢餓其他重大ナル社会的政局ヲ防止スルコトヲ希望ス、今冬ハ 危機タルヘク来ルヘキ困難克服ノ道ハ総テノ人々ヲ有効ナル仕事ニ就業セシムルノ他ナ シ
一般に、 (一)婦人参政権、(二)労働組合の奨励、(三)教育の自由主義化、(四)圧制的機関の撤廃、(五)経済制度の民主主義化、とまとめられる。そして(四)は治安維持法の廃止や特高警察などの廃止、(五)は財閥解体や農地改革と併せ論じられる。しかし財閥解体については、ある程度、史料から予測できるものの農地改革をこの文面から読み取ることは困難である。
当時の記録を見ると、幣原は、前置きで話された「憲法改正」を除き、「とりくんでいる」ないし「直ちに取り組む」と承諾する。唯一抵抗をしたのが(五)の部分である。幣原は「日本ノ産業ニ付現行ノ独占的支配ノ行ハルル事態ヲ改ムルヲ要ストノ御趣旨ニ付テハ如何ナルコトヲ実際問題トシテ考へ居ラルルヤ不明ノ節アリ」として、財閥解体に難色を示している。政党政治への回帰をこえる内容を持ち出されたことへのとまどいと見ることができる。なお、ここにも農地改革につながる言及はない。
なお、(四)圧制的諸制度の廃止は10月のGHQの人権指令で大きな方向性が打ち出され、その後その意を受けた政策化が進んでいたし、(五)のなかの財閥解体はすでにアメリカ経済科学局が政府の方針を待たず動いていた。後追いの形での政策化が課題となる。
戦後改革と官僚
戦後改革において、占領軍と日本政府、その下にある官僚たち、三者のかかわりは多様である。
一つ目は、大正デモクラシーからの流れのなかで戦前の政党政府などによって途中まですすめられた改革を再開させたものである。
婦人参政権は浜口内閣のもとで条件付きながらも衆議院を通過していた。
労働者の権利拡大についても一九二六年、一九三一年の二度にわたって国会に上程されたが、資本家団体や官僚などの反対で難航していたものである。しかし、修正ののち衆議院を通過したが貴族院で廃案となったものである。なお、その後の総力戦体制下での労働力不足と労働構成の強制的な変更は、労働者ヘの配慮を必要とし、「結果」として労働者の地位を向上させていた。幣原内閣は、こうした条件を踏まえるかたちで、浜口内閣の内務省社会局案を修正し、わずか二ヶ月で労働組合法を制定することに成功する。ただ、さまざまなタイプの労働者を「すべて労組法上の労働者としてとらえ、工・職・官公吏に等しく団結権、争議権を保障した点で戦前の案とは決定的に異なると評価されているが。
こうした諸改革は、政党内閣への復帰をめざす幣原にとっては浜口内閣からの懸案の実現であり、戦時官僚たちにとっては総力戦体制下における変化を定着させるものと理解しうるものであり、それほど大きな抵抗感はなかった。ただ、この法律がもっている画期的意味をどこまで理解していたかは別問題であるが。
農地改革をめぐる政府と官僚、占領軍
二つ目は戦時体制下で官僚らによって進められていた改革を占領軍が支持・援助し、その権威で実現したものである。こうした内容は、戦時官僚にとっては戦時期からの流れの踏襲であり、支持するものも多かったが、政党政治期への復帰を目指し、戦時改革を「共産主義化」とすら感じていた自由主義派主導の政府からすれば、戦前の枠組みを破壊する危険なものであった。
こうした典型が、「農地改革」である。「農地改革」自体は五大指令のなかでは明示されていないし、「初期対日方針」にも記されていない。にもかかわらず、松村謙三農相ひきいる農林省が「先手を打って」(吉田茂)法案化を進めた。その内容は、戦時改革において農林省がすでに準備していた。しかし政府内に難色を示すものが多く、内容は薄められて国会に提案される。地主出身者を多く含む帝国議会はさらなる「骨抜き」をもとめたため、実効性の乏しいものになろうとしていた。
「慎重に構えていた」GHQが厳しい姿勢で介入したのはこの時点であった。さらにGHQはいったん成立した法案をも不十分として本格的に介入し、極東委員会の議を経て第二次農地改革を命じる。農地改革は日本側の官僚が進めた改革を、GHQが権力を行使し、政府や議会のサボタージュを排して実施したといえる。
ただ、農地改革への反対が予想以上に弱かったのは、吉田茂が「大正年代から、自作農創設維持などのことばで、農地問題が取り上げられ」、更に戦時中の食糧確保のなかで「”規制的な農地所有”といったものは甚だしく制約を蒙っていた」さらに終戦後も「食糧確保の必要は勝るとも劣らない」と記したように、すでに戦前段階で寄生地主制が日本経済・社会の重荷となっていたこと、戦時経済の中で地主制の基盤が解体されていたこと、戦後の食糧不足への対応上やむを得ないと考えられたからである。
戦時体制下の変革をめぐる自由主義派内閣の評価
戦時改革の中でGHQが積極的に進めたものであっても、強い抵抗をうけたのが「財閥解体」として一括される諸政策である。
戦時下、総力戦体制の中で日本経済は画期的な変化を遂げていた。野口悠紀雄が「一九四〇年体制」と評する諸政策である。
戦時下、戦前日本経済を支えた軽工業の多くが不要不急として破壊され、戦争を支える軍事産業を初めとする重化学工業化が急速に進んだ。「講座派」が描き出した日本経済は1930年代以後の経済変動の中で時代遅れのものとなり、戦時下の軍事優先の風潮の中で破壊された。こうして、昭和恐慌さらに戦時体制のもとで日本の経済・産業構造は大きく改編されていた。株取得によって系列各社を支配するという直接金融のシステムにかわって銀行からの融資によって大規模な事業を進めるという間接金融への移行がすすみ、財閥家族の影響力は低下していた。また政府の命令によって系列を無視した横断的な企業統合がなされ巨大企業が出現していた。
不要不急とされた、戦前の日本経済を支えた諸産業は廃業を迫られ、その工場設備は破壊され銃弾や兵器に姿を変え、その労働者は軍事産業での労働を強いられるようになった。企業経営においても私的な利益よりも国家政策への従属が求められる。経営と所有の分離の進行し、旧来型財閥の経済支配力は低下していた。かわって戦時官僚や軍部と結びつく新興財閥が力を伸ばした。
幣原や吉田、さらには鳩山一郎といった財閥との関係の深い自由主義派の政治家にとって見れば、こうした戦時下にすすんだ経済システムは、あるべき自由主義的な原理にもとづく経済秩序の破壊であり、ソ連経済に類似した社会主義的統制経済をめざすものであった。近衛上奏文の中で吉田らが「共産化の危機」と危機感と敵意をむき出しにしていたものこそ、戦時体制下で進んだ統制経済であった。幣原や吉田らからすればこうした動きをとめ、戦前の経済秩序に回帰することが日本の本来の姿に戻る前提であった。また財閥こそが政党政治最大のスポンサーでもあった。
財閥解体をめぐる政府とアメリカの対立
しかしアメリカ政府とGHQは戦前の日本の社会・経済に対し別の見方をしていた。「初期対日方針」には次の一節がある。
日本国国民ノ平和的傾向ヲ強化シ且経済活動ヲ軍事的目的ノ為ニ支配シ又ハ指導スルコトヲ困難ナラシムルト認メラルル経済活動,経済組織及指導者ノ各形態ハ之ヲ支持スベシ
右目的ノ為最高司令官ハ左ノ政策ヲ執ルベシ
(イ)将来ノ日本国ノ経済活動ヲ専ラ平和的目的ニ向テ指導セザル者ハ之ヲ経済界ノ重要ナル地位ニ留メ又ハ斯ル地位ニ選任スルコトヲ禁止スルコト
(ロ)日本国ノ商工業ノ大部分ヲ支配シ来リタル産業上及金融上ノ大「コンビネーション」ノ解体計画ヲ支持スベキコト
財閥(「日本国ノ商工業ノ大部分ヲ支配シ来リタル産業上及金融上ノ大「コンビネーション」)が日本経済の平和的傾向の強化、非軍国主義化にとって障害であるとの見解を示していた。アメリカは日本軍国主義の根底に、寄生地主制と並んで財閥支配があるとの「講座派」的な理解の上に立っていた。日本軍国主義は吉田らがいうような1930~40年代にかけての「歴史的つまづき」ではなく、戦前の日本の社会経済構造の中にこそ隠れていると考えたのである。ここに占領軍と政府側の対立が存在した。
GHQは日本政府の思いを無視し、五大改革指令に先立って財閥解体にのりだす。経済科学局は直接財閥家族に接触した。三菱・岩崎家のように激しく抵抗した財閥家族もあったが、その圧力の前に屈服、財閥側からの自主的解体案をGHQが承認し、「持株会社の解体、財閥家族の企業支配力の排除、株式所有の分散化」の三つの柱で財閥家族を企業経営から撤退させた。ここまでを狭義の「財閥解体」ということができる。
幣原や吉田らを中心とする日本政府は強く反発した。しかし、実際には戦時改革の中ですすめてきた経済体制の変化、戦後の経済のあり方を占領軍が推進、定着したともとらえることができる。このことは「将来ノ日本国ノ経済活動ヲ専ラ平和的目的ニ向テ指導セザル者ハ之ヲ経済界ノ重要ナル地位ニ留メ又ハ斯ル地位ニ選任スルコトヲ禁止スルコト」との趣旨で大企業の首脳部が公職追放されたこととあわせ、戦前型の企業経営を大きく変化させた。
その後、旧財閥を彷彿させるような五大企業グループが形成されていくが、その姿はかつての財閥とは大きく姿を変えたものとなっていった。その結果、戦時下で進んだ経済や産業の官僚依存はいっそうすすむ。これは、戦時体制における改革の結果であり、財閥解体の結果でもあるが、世界経済の流れに即した方向でもあった。
このように、官僚の一部は、占領軍の力を借りて政府や議会の抵抗を排除し、自分たちの政策を実現し、占領軍も官僚と官僚組織の力を借りることで非軍国主義化・民主主義化といった占領政策を実現したといえる。
ともすれば改革を嫌い現状維持を図りがちな自由主義派主導の幣原政府とは異なり、官僚たちはかつての軍部を利用したのと同様に、米軍の圧倒的な暴力と「非軍国主義化・民主主義化」という世界の要求を背景に、さらには急速に台頭しつつある民衆運動も背景に、戦時体制下の権力の多くを維持し、自らの政策意図を実現しようとする面を持っていた。これが三つめの関わりといえる。
「東洋のスイス」をめぐる攻防
しかし、占領軍の政策がみずからの方向とずれる場合、官僚は抵抗の姿勢をみせる。「財閥解体」が巨大企業グループや大企業の解体、「独占禁止法」制定といった広義の「財閥解体」がテーマとなると様相は一変する。
さきに、財閥解体における米英の思惑をもうすこし見ておくことにする。ポツダム宣言の第11条は次のように記す。
十一 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ、且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ。但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ
ここには、戦争に対する実物賠償の実施、日本経済を支え賠償を可能とするような産業の維持、将来的な世界貿易の参加と並び、「日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ」として軍備と結びつくような産業を禁止する旨の記載がある。さらに、第七条にも「日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ」とあり、この項も軍事産業の解体を示すとも、理解しうる。
占領軍による日本の非軍事化は、単に軍隊の非武装化のみならず、軍需産業の解体とそれに結びつく工業とくに重化学工業の制限をも意味していた。そして占領軍には、「実物賠償」をこうした軍需工場や重化学工場の設備移転で実現しようとの意図があり、占領軍は占領と同時にこうした施設の現状維持を命じていた。
「初期対日方針」において、アメリカは「日本国ノ政策ハ、日本国国民ニ経済上ノ大破滅ヲ齎シ、且日本国国民ヲ経済上ノ困難ト苦悩ノ見透シニ直面セシムルニ至レリ日本ノ苦境ハ、日本国自ラノ行為ノ直接ノ結果ニシテ聨合国ハ其ノ蒙リタル損害復旧ノ負担ヲ引受ケザルベシ。」とのべ、日本の経済困難は自業自得であり、それによって起こる「苦境」について援助することを拒否していた。(ただし食糧不足による饑餓の広がりや社会不安の増大を恐れたアメリカは食糧の緊急援助を実施する)さらに、当時の日本の国家予算の1/3弱にあたる占領経費(沖縄での駐留費をも含む)を日本側に負担させ、貿易にも制約を設けた。軍事産業を初めとする重化学工業は実物賠償の対象とされるとともに、操業も停止させた。こうした政策に追い打ちをかける形で財閥解体政策を打ち出してきたのである。
こうした背景には、日本の非軍事化にとどまらず、戦時体制下に急激に発展した重化学工業を除去することで日本経済の国際競争力を奪うことにも目標が置かれていた。とくにイギリスはアジア市場回復のため日本経済の弱体化を期待していた。マッカーサーは、日本を「東洋のスイス」にすると言明していたが、「東洋のスイス」とは永世中立国としての平和国家にとどまらず、経済的影響力の小さな国をも意味していた。アジアの経済の中心には、日本から工場設備などを移転した蒋介石率いる中国が座るべきと考えた。
狭義の「財閥解体」は農地改革とともに古い日本の経済構造を変革することで、日本経済の発展に資する内容をもっていた。しかし、「東洋のスイス」をめざす占領軍の政策は、官僚にとっても許しがたい政策であり、官僚は政府とともに、GHQの方針に対するサボタージュの度合いを増していく。
ここに四つめのかかわりがみられる。政府にも官僚にも不本意な政策は、占領軍の命令としてやむなく受け入れたふりをしつつ両者が協力して骨抜きをはかるケースである。広義の「財閥解体」=日本の経済小国化策に典型的である。
憲法制定をめぐる「抵抗」
この四つめのケースは日本国憲法の「確定」過程にも見られる。幣原内閣にとっての「国体」のあるべき姿は、明治憲法のもと天皇機関説を前提とした政党政治であり、憲法改正も不要で、やむをえない場合もマイナーチェンジでよいと考えていた。ところが、GHQ草案はこうした意図に全く反する中身であった。
「天皇制維持(=象徴天皇制の導入)」という人質の取られた形になった政府は、やむなくGHQ草案の受け入れ決めるが、政府・官僚は草案の翻訳・さらには国会での審議の過程で「骨抜き」をはかる。原文の「人民」の語を「国民」と限定して翻訳、「国民主権」との文言もちがう用語に書き換えようとした。「主権」の文言はGHQに拒否されるが、その他の部分で政府・官僚の提案の多くが憲法内に組み入れられた。この結果、たとえば、日本国内に多く住んでいた「外地出身の日本人」はたとえ日本に残ったとしても、憲法による保護を受けにくくされる結果となる。
官僚と占領軍
官僚が占領軍に協力的であったのにはひとつには自己保存の法則ともいうべき本能がある。無条件降伏による占領は外国人による支配をうけることであり、国家主権を譲り渡すことである。官僚個人も戦争犯罪者との指摘を受け地位を奪われ、場合によっては逮捕されるという事態も予測される。組織自体も侵略戦争に関与したとして軍部や内務省系の諸組織と同様、解体を命じられうる状態にあった。こうして、官僚は個人としても組織としても占領軍への服従と忖度という独特の対応を余儀なくされた。
また官僚は「天皇にのみ責任を負う」立場に立っていた。したがって、天皇が占領軍への服従を命じ、みずからもマッカーサーとの親密ぶりをアピールした以上、天皇と占領軍は一体化して、命を受けるべき上司となったともいえる。
さらに、官僚は天皇への忠誠とはいうものの、国家・民族に忠誠を尽くすべきとの性格も併せ持つ。かれらが戦時体制の構築・維持に尽力したのは、単に軍を恐れただけでも、天皇への忠誠心だけでもなかった。かれらは、国家・国民を勝利に導くべくその職務を果たそうとしていた。そのため「聖戦遂行」のためにより効率的な総力戦システムをつくろうとし、軍部や政府、議会との対立も辞さなかった。
その戦争に敗れた。敗れたとはいえ、あるいは敗れたからこそ、より自らの職務に忠実になろうとした面も大きかった。「聖戦遂行」は、「民族復興」「平和国家建設」といったスローガンへかわった。目の前の社会・経済混乱を収め、安定的な生活を取り戻すという職務もあった。こうした点からすれば、官僚は、自らの責任をとらずみずからの利害に汲々とする地主・財閥や帝国議会よりも、戦争は「大いなる誤り」と切り捨てて政党政治期への回帰をめざす政府よりも、「非軍国主義化・民主主義化」を掲げる占領軍の方がかれらの考えに近いともいえたし、その合理的な思考パターンはかれらとの親和性もあった。
他方、官僚は、敗戦と同時に「お荷物」となった「外地出身の日本人」朝鮮人や台湾人を切り捨てる一方、外務省が旧植民地の財産を調査し返還を求めようとしたように「帝国」をそのまま維持している面もあった。そして、自ら利害に反すると考えたものについては、政府とともにサボタージュをはかった。
占領期初期における国内グループと占領軍
戦後政治は、日本国内における終戦工作にかかわった諸勢力(さらにその背景にいた官僚や社会運動家たち)と、二つの路線をもつアメリカ占領軍とのせめぎ合いの中ですすめられていく。
まずアメリカ占領軍を見ていこう。占領期初期、彼らの動きの中には、大西洋憲章以来の「非軍事化・民主化」をもとめる世界の流れに合致するように日本を改革しようとする指向~絶対主義天皇制を「傀儡天皇制」に組み替え、「経済小国」をめざす方向性が大きな要素として存在した。
しかしアメリカ占領軍が本来持っている元々の方向性は「アメリカの国益」の拡大である。この二つのせめぎ合いの中でその政策はブレをみせる。そして冷戦がはじまり、それが本格化するとともに、その重点は、前者から後者へと移っていく。
これによって、日本の諸勢力の力や行動、考え方も大きく影響させられる。する。強く支持・協力したり、自己の政策実現に利用しようとしたり、面従腹背の態度を取って消極的にその政策実現を拒否・ないし骨抜きを図ったり、正面から対立しパージされたりする。とくに旧権力層は間接統治という仕組みを利用し、巧みに、権力維持に努めた。決して、アメリカの単なるエージェントではなかった。
注目すべき一つ目は、占領軍の間接統治の下、親米派として傀儡としての役割を期待された幣原・吉田へとつづく自由主義派内閣の動きある。しかしかれらは傀儡であることよりも旧権力の維持を第一に行動した。彼らにとって、戦争(おもに対米英戦争)は「大いなる誤り」であり、その原因である軍部(とくに陸軍)という「がん細胞」を切除し、戦時下で進んだ戦時統制経済を戦前の状態に戻す事で万事うまくいくと考えていた。かれらはアメリカ占領軍をグルーら戦前の親日保守派の影響下にあると見誤まり、さらには無条件降伏とは国家主権を委譲したことであり「国体改編」をともなうという事実を理解しようとしなかったしできなかった。したがって「明治憲法」の改正を事実上拒否して戦前の天皇制をそのまま維持しようとしたり、財閥解体にも反発する。しかし、憲法をめぐるやりとりのなかで天皇制維持(それは「象徴天皇制」という不本意な形に変えられてしまうが)のためには、こうした事実を受け入れなければならないと痛感させられ、「負けっぷりをよくする」(吉田茂)という方針に変える。GHQの命令はうけつつ、内容の「骨抜き」と天皇主権の維持(「国体護持」)に注力する。
かれらは、戦前の国家体制とくに戦前の天皇制の維持などについて、日本の軍国主義化を促進していったような反動派~国粋主義的勢力との違いは少ない。政府を担っているのは親英米派・自由主義派、他方は追放され戦犯指定されるのは国家主義派などとなっているが、実際には両者が対立と協力をしながら天皇制国家の下で軍国主義的・帝国主義的政策を担ってきたものであり、両者に境界線を引くのは困難である。同じ政策を進めたあるものは政府首脳として活躍し、他のあるものは公職追放の憂き目に遭い、最悪の場合は処刑される。GHQから「反動派」とレッテルを貼られたものは逼塞を余儀なくされた。
公職追放の基準は形式的・機械的であり、しだいに占領軍ときには政府の都合で決められた。自由主義派と反動派の境界はあいまいであり、自由主義派・英米派の中心吉田茂が「臣・吉田茂」と署名するような熱烈な皇室主義者であったことはよく知られている。逆に幣原内閣で消極的な政府を動かして第一次農地改革を促進した松村謙三は戦中の役職を問われて公職追放の憂き目に遭う。さらに戦前から反植民地主義・戦争への批判的立場を守った戦闘的自由主義者・石橋湛山は吉田内閣での大蔵大臣としての政策を嫌ったGHQからのちに公職追放の憂き目に遭う。
このように両者の間に大きな差異がなかったため、逆コース進行の中で公職追放などが解かれると、反動派と見なされていた人々が一挙に政界に復帰できたのである。ただ、彼らはアメリカ占領軍の傀儡となっていると考えた吉田とその一派に対して強い怨みと批判を持っていたが。
二つ目として注目すべきは官僚たちの対応である。
戦後の変革を中心となっておしすすめたのは戦時体制下と同様に官僚グループであった。その手法は、戦中・戦後を問わず、権力とむすびその暴力にも依存しながら統制経済をおしすすめる手法に変わりはなかった。しかし、戦時期の目標は「聖戦遂行」であり、その暴力基盤は陸海軍や思想・経済警察などであった。国家主権は天皇にあり、天皇の信任をもとにシステムが構築されていた。戦時体制下での変革はこうした条件下ですすめられた。
ところが無条件降伏によって国家主権は占領軍の手にうつり、占領軍が暴力を独占し言論も支配する。占領軍はポツダム宣言で示した「軍国主義体制の解体」と「民主主義化」という新たな目標を示す。かつての戦時官僚たちは戦時体制で整備された制度・人材をあらたな状勢に合うようにチューンナップしながら、戦時の総力戦的な手法で戦後改革を進める。実際、戦時下で用いた手法は新たな事態においても有効であり、戦後の混乱を沈静化させるという官僚たちのナショナリスティックな思いにも合致していた。
他方、新たな事態にそぐわないものは容赦なく切り捨てられた。陸海軍は言うまでもなく、巨大な権限を誇った内務省も解体され、思想警察などもとりあえず廃止され、公職追放とされる。
あらたなアクターとしての「民衆」
軍部・官僚に協力し、戦時体制を支えた社会運動、雨宮が「社会国民主義派」として抽出した社会主義・社会ファシズム派などにも注目しておく必要があるだろう。かれらは戦時体制でも唱えていた「福祉国家実現」「社会の平準化」といった社会民主主義的な目標を中心的な目標とすることで、新体制にあうように姿を変えた。雨宮が示したように、かれらは戦争終結前後から活動を再開し、戦時色を拂拭しつつ戦時体制で獲得した「福祉国家」的な成果の定着をはかる。こうした彼らにとっては、反軍国主義・民主主義的傾向の復活をかかげる占領軍は強い追い風となる。「五大改革指令」などの諸政策は戦時体制での「福祉国家」的制度の定着につながるものであり、基本的には支持しうるもので、占領軍は「解放軍」であった。他方、戦争中の「戦争協力」「戦争責任」への反省はおざなりにしか扱われなかった。
こうして戦前の社会運動は、新たな状勢の下で次々と復活し、無産政党も再出発の道を探り、四五年十一月に日本社会党が結成される。
さらに四五年十月の人権指令で釈放された非転向の指導者を中心に厳しい弾圧下におかれていた日本共産党も活動を再開、海外で反戦運動をすすめた指導者も帰国、戦争に抵抗し続けたという「正統性」を付与され一挙に勢力を拡大し大きな影響力を獲得する。
戦後の極端な経済不振と食糧難はひとびとに「建前」ではなく「本音」で生きてもいいのだ、「欲望」に正直なことはけっして恥ずべき事ではないという思いを抱かせた。さらに戦争・軍国主義の呪縛からときはなされた人々は、自分たちが生きてきた世界・時代を問い直しはじめ、これまで押しつけられてものは異なる生き方を探求させた。そうした人々の前に、これまで抑圧されてきたさまざまな思想・学問、政治・社会運動、風俗・習慣、生き方が抑圧を解かれてぶちまけられる。(実際にはGHQによる巧妙なプレスコードも存在していたが)人々は、戦時体制下で見せてはいかなかった思いや感情を解放し、問いかける。「なぜ○○は死なねばならなかったのか(殺されたのか)」「なぜこんな辛い目にあわされ、あわされつづけているのか」「なぜあのような愚かな戦争を行ったのか」。
こうして、国家、軍国主義の下、目隠しをされた羊のように「一億玉砕」につきすすまざるを得なかった大人かった人々が動きだす。こうして高揚する民衆運動(労働・農民運動、生活擁護運動、民主化運動、学習。文化運動・・・・)という流れが生まれる。
そして、当初、占領軍がすすめた「非軍国主義化」「民主主義的傾向の復活」との目標で進められる諸政策はこうした民衆運動に歓迎され、運動を後押ししていたし、逆に民衆の動きがこうした占領軍の諸政策をすすめる力となっていた。
<つづく>
第一部「終戦工作における『国体』をめぐる攻防」はここから
<参考文献>
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