世界民の愉悦と悲哀

恒藤恭(Wikipedia「恒藤恭」より)
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世界民の愉悦と悲哀

京大講師 恒 藤 恭

一 世界民たることの必然性

私は生まれ落ちると同時に『日本國民』とされた。

生まれ落ちた刹那に、私自身の意識の裡に意志のはたらきと名状し得るやうなものが微塵も無かつたことは、恐らく疑ひを容れない事實だ。だから、私は生まれ落ちると同時に日本國民となつたと言はないで、日本國民とされたと言ひ度いのだ。
私の母とても別に私を日本國民にする目的で私を生んで呉れたのでないことは確かだ。それでは、一體私は何者によつて日本國民とされたのだらう?斯う云ふ子供じみた疑問に向って解答をあたへて呉れるおせつかいな人間がある。その名を法律學者と謂ふ。~ 『汝は日本帝國の法律によつて日本國民とされたのだ』と。彼れ、法律學者は雑作もなく答へるであらう。
孰れにせよ、私が日本國民といふ名義を有つに至つたのは、私の自由な意志に基くのではなくて、私にとつては單なる偶然の事實に因るのである。何故と云ふに、私の意志の欲求した結果として發生したところの事實だけが、『私にとつての必然』の心證に參かり得るからである。その他の一切の事實はおしなべて偶然性の塵溜の中に掃き捨てられてしまふ外はない。その點から考へると、私が日本國民とされたといふことは、私の生まれた日に偶々つめたい小雨が降つてゐたと云ふやうなことと同様に、私にとつては何等の必然性をも意味するものではない。社會契約説に共鳴を感じてゐる國家哲學者が斯様な私の言を聞いたならば、『汝は現在日本國民の一人たることを自覺してゐるではないか、その自覺が嘗つて汝の意識のうちに現れたとき以來、汝が日本國民たることは、汝の論理から考へても、最早汝にとつて單なる偶然の事實ではなくて、否定す可からざる必然の事實となつたのだ』と私を詰るであらう。それに對して私は敢て異議を申し立てようとも思はないが、それかと云つて、私が生まれ落ちると共に日本國民とされたのは、私にとつては全く偶然の事實に過ぎないといふ私の主張を撤囘する必要があらうとは毛頭考へない。私が遮二無二日本國民とされて後、日本國民たる自己を承認するに至つたまでには、時間の上に於いて著しい間隔が介在してゐる。此の時間の距たりを、國家哲學者は單なる時間の経過量として論理的に無視さるべきものと看做すかも知れないが、現實の人間としての私にとつては、此の時間の距たりには、忘れることの能きない貴重な意味が結び付けられてゐるのだ。寧ろ私の論理においては、此の時間の距りこそは、幾多の結論を生み出す可き力を具へた儼然たる前提なのだ。『全體の自己を國家に向つて捧げよ、全き自由は其處から生まれる』と教へる社會契約論の論理と、『自己のその他のあらゆる部分は、國家のために譲渡することも敢て辭する所でない。だが自己を自己たらしめる自己の本質的部分は、自己自らのために、世界民たる自己のために、完全に留保して置かねばならぬ』と主張する私の論理との逕庭は、畢竟右の時間の距たりを非論理的な與件として簡單に無視してしまふ態度と、それを飽くまでも論理の過程において固執して己まない態度との相違に歸するのかも知れない。兎に角私を日本國民としたものは、私の意志以外の或るものだといふことは確實だ。

本論文が掲載された「改造」1921(大正10)年六月号目次

此の或るものは、法律學者の見解に從へば、日本帝國の法律である。~ ところが、如何なる法律學者に訊ねて見ても、人が生まれ落ちる瞬間に彼れを『世界民』とする法律が有るとは答へない。事実私は日本國民としてのいろいろの義務の履行を數へ切れないほど屢々請求されたことはあるけれど、世界民としての義務の履行を強要された覺えは唯の一度もない。だから、私を世界民にした法律は何處にも無いと斷言しても差支へないだらう。それだのに、私は世界民と爲つてゐる~少くとも自分ではさう思つて居る。そして世界民としての愉悦も經驗すれば、世界民としての悲哀も経験する。して見ると、私が世界民であることは、私にとつては何等の偶然の事實にも基くものではなく、最初から必然な事實に基くものと言はねばなるまい。なぜと言ふと、私に斯う云う名義をさづける力のあるものは、法律の外には私自身の意志があるばかりだから。そして私自身の意志は、私にとつての一切の必然性の源泉なのだから。勿論、生を此の世界に享けたことは、私にとつて偶然性の至大な事實であるかも知れない。それにも拘らず、私が世界民となつたことは、私にとつて必然過ぎるほど必然な事實であると私は斷定する。それは矛盾だと冷笑する人があるなら、私はその評言を無條件に甘受するであらう。斯かる體驗をしも矛盾として排し去るならば、私の生きてゐる事實を意味づける唯一の索縁は、永久に喪はれてしまふだらうから。
そこで私は獨りさけぶ。私にとつての必然は、私の意志にとつての眞實の自由である。だから世界民としての私は、自由民としての私だ、そして私は自由が好きだ、誰れが何と言つても好きだ。
世界民としての私の愉悦は、斯うして私が世界民となつた瞬間から約束されてゐるわけだ。

二 世界民はユトピアの民ではない

 世界民はユトピアの民ではない。
 ユトピアには時間は有るが歴史はない。そこでは初めが終りであり、終りが初めであつて、初めと終りとの中間はない。然るに世界民の生きてゐる世界は、歴史の世界だ。此處ではあらゆる瞬間が、變化であり、發展であつて、一度び失はれた瞬間は永久に囘り來る機會を有つてゐない。だから世界民は、此の今の瞬間を何時でも問題として居なければならぬのだ。

 ユトピアでは一切の現實がその儘理想であり、一切の理想が直ちに現實である。充されない願ひもなければ、酬いられない愛もない。それだからユトピアの民は悦樂は知つてゐるけれど、悲痛は知らない。恐らく彼れらはさうした悦樂に退屈してゐるだらうと思はれるけれど、彼れらにとつてはどんな退屈さも決しく不平の種にはならぬらしい。それとは違つて世界民の感情はつねに搖いてゐる。彼れらは何よりも與へられた現實に執着を有つてゐる。現實をいとほしむ心が深いだけに、現實をより良くしたいと云ふ希望が、彼れらの胸に一杯にあふれてゐる。そこで現實のかげに僅かでも理想が姿を見せると、世界民はぢきに抑へ切れぬよろこびに涙ぐんでしまふ位である。だがそんな場合はどちらかと言ふと例外なのであつて、此の世界は何處まで世界民の願うてゐる方向とは反對の方向へ進んで行くのかしらと疑はれるほど、世界民の理想なんかには頓着なく歩みを運ばせるが通常の有様だ。で陰慘たる顏色のうちに懷疑家めいた哀愁の表情を漂はせながら默り込んでゐるのが、屢々見受ける世界民のポーズなのである。
 世界民がユトピアの民でない證據には、彼れは何處かの國家に籍を置いてゐる、例へばイギリスの國籍に、スペインの國籍に、ドイツの國籍に<、ブラジル国籍に>。つまり世界民は同時に或はイギリスの國民でもあり、或はスペインの國民でもあり、或はドイツの<ブラジル>國民でもあるわけだ。尤も世界民はそれを單純な符牒と心得てゐる。マルクスは共産黨宣言の中で、『労働者には祖國が無い』と述べてゐるが、その心持はやがて世界民の心持なのだ。國民たると同時に世界民でないところの人間にとつては、彼れが若し日本國民であるならば、自ら以て日本國民と稱することが無限の誇りであり、誤つて暹羅國民とでも呼ばれやうものなら、大層な恥辱を受けたかのやうに憤慨したりする。アメリカ國民、ポーランド國民、支那<トルコ>國民、某國民、々々々が、それぞれ斯うした衿持をその國籍名に結び付けて有つてゐる。それは世界民が哂うて抛擲した衿持である。太陽は四六時中何處かしら世界の表面を照明してゐる。だから『自分の國の領土には太陽の没する時がない』と謂ふイギリス人の自負心の如きは、世界民の唾棄する所だ。世界民には國境がない。世界のあらゆる部分は、世界民のための共同の財産であるべき筈だ。同じやうに『すべての國の上にドイツ國を』打ち建てやうと願つたドイツ人の曾つての努力は、世界民にとつては全然無意味な努力であつた。近代においてフランスはすべての文化運動の先驅を爲した。そこでフランス人はほこらしく眼を輝かぜて語るであらう、『フランス人を除いた總ての他の國の國民たちは二つの祖國を有つてゐる。その一つは彼れら自身の祖國であり、今一つはわれらのフランスである』と。ところが世界民は謂はゆる『彼れら自身の祖國』を持ち合せてゐないから、フランス人と一しよにフランスの文化においてat homeに感ぜざるを得ないわけだ。むかしの支那人にとつては、彼れら自身の祖國は世界の『中華』であり、殘りの國々の人間はおしなべて夷狄であつたけれど、世界民の眼に映る人間は一人殘さず中華の民である。尤も世界民はユトピアの民のやうに歴史の無い時間の中に生活してゐるものでないから、歴史によつて形成された現實を無視してはならぬこと、否、十分それを利用せねばならぬことをよく合點してゐる。だから國家といふ歴史的産物も、世界民にとつては彼れらの理想を實現するための大切な便利な手段の一つなのだ。世界民が同時にいづれかの國家の籍を有つてゐるのも其のためである。或る會に籍を置いてゐないと、或る音樂者たちの手によつて行はれるコンサートを聽くことが能きないとしたら、そのコンサートに興味を有つ者は、兎も角もその會の會員になって置くだらう。世界民がいづれかの國家の籍を有つてゐるのも、同じ様な必要からである。從つてそれがどの國家の籍であるかと言ふことは、彼にとつては第<n>次の問題であつて、決して第一次、第二次の問題ではない。尤も世界民は彼れを取り巻く一切の現實に對して絶つ能はざる愛執のこころを抱いてゐるから、彼れが某國家に属してゐることが第<n>次の問題だからと云つて、その事實に全然價値をみとめぬわけではなく、寧ろ彼れ自身は、その事實に對して最も正當な價値判斷を加えてゐるとさへ信じてゐる。そして彼は彼れの屬してる國家を愛する。彼れは彼れの使つてゐるペン軸に對してすらも、それの有つてゐる『存在』をなつかしく思ふのだから。唯世界民は彼れの籍をおいてゐる國家と同じ國家に屬してゐる人々の大多數と一しよになつて、國家その者に對し、目的自體としての價値をみとめる心になることは到底能きないのだ。それは世界民のよろこびでもあれば、哀しみでもある。

三 人間性の自覺と世界民の立場

一切の人間は世界民の友だちであり、同胞であるけれど、彼れらは悉く世界民たるものではない。人間を國民とする法律はあるが、世界民とする法律はない。人間を世界民とするものは、人間自身があるのみだ。人間自身の自覺があるのみだ。
自覺とは、人間が自己自らのうちに自己の本質を見出す心のはたらきを指す。世界民の考へ方から言へば、人間が自己自らの内面に深く沈潜して、自己をして人間たらしめる至醇の本質を<し>つかり把握する刹那に、世界民としての彼れの生涯は始まるのだ。だから人間が眞實の自我にめざめるとき、彼れは自らを世界民として彼れの意識のうちの民籍に登録するのであると、世界民は自ら省みて確言するのである。
與へられた自己は人間の一人である。本質的な自己は、此の與へられた自己と同じものではないが、あたへられた自己と絶縁すると共に、それは最早如何なる自己でもなくなつてしまふ。だから一個の人間としての自己に、みづからの存立を託することは、本質的な自己の守らねばならぬ第一の約束である。この約束には更に必然に第二、第三の約束がつながってゐる。本<質>的な自己は、既に與えられた自己にみづからの存立を託してゐることを肯定する以上、他の本質的な自己がやはり他のあたへられだ自己にみづからの存立を託してゐる事實を承認しなければならぬ。そこで本質的な自己は、みづからの存立の支持者たる與へられた自己を愛護し尊重すると同様に、おなじ務めを盡すところの他の一切のあたへられた自己をも、ひとしく愛護し、ひとしく尊重すべき筈である。これが第二の約束である。各人の自我の本質は、各人の生存と努力との全意義の源泉なのであるから、能きるだけ保存され發展されなければならぬ。そのためには、一方には本質的な自己の保存發展を障害する一切の非本質的なものを征服することが能きるやう、あらゆる與えられた自己が互ひに協力することが必要であり、他方にはあたへられた自己が單獨では成就し得ない事柄を、他のあたへられた自己と協力して成就することにより、それぞれの自己の本賀が深められ、擴大され、豐かにされて行く機曾を獲得することが必要である。だから各個の本質的な自己は、みつからを支へてゐる所の與へられた自己を率ゐて、共同の使命を戴く統一ある目的の體系に参加しなけばならぬ。此れが本質的な自己のまもるべき第三の約束なのだ。現實にあたへられた一つ一つの自己が存在する限り、此の目的の體系は何處までもその範域を延長す可き筈であり、或いは人種性の共通とか、或いは民族性の共通とか、或は同一國家に對する共屬<通>關係とか、或は宗教的信仰の同一性とかを標準として、その範圍が局限さるべき何等の理由もない。斯かる局限された範域の上に立つ目的の體系内に嵌入されることを以て満足する者があるならば、それは自己の本質にめざめた人間の本領から遙かに遠ざかった態度だと言はねばならぬ。偶然的標準による目的の體系の範域の局限は、やがてその中に在る各個の自己の不當な拘束であつて、そこには人間の享くべき眞實の愉しい自由のやどりかが剰されてゐないのだから、自由の熱愛者たる世界民は、かの窮屈な體系の中に囚はれてゐる數知れない人間の運命のためにひそかに涙をそそいで巳まない。
あらゆる本質的な自己に課せられる、以上のやうな必然的約束の内容を撿べてみたら、此れらの約束が忠實に履行され得るためには、あたへられた各々の自己が、世界民としての立場にみづからを置く外はないと云ふことが會得されるであらう。人間がほんとうに自覺するとき、卽ち自己みづからの裡に自己の本質を見出すとき、世界民としての彼れの生涯が始まると世界民が信じてゐるのは、かうした事情に基くのだ。ささやかな自己の存在すらも、一切の自己を包容する力のある絶大な目的の體系の一成分を支へてゐるのだと云ふことの認證は、なんといふ限りない悦びの體驗だらう。とは言ふものの、あたへられた自己の微力さと不純さとをかへりみ、おなじやうな微力と不純さとを、數知れぬ他の自己に於てみとめ、そしてかの壮麗な體系の實現を阻礙するところの抵抗が如何に強大なものであるかに想ひ到るとき、世界民は絶望に似た嘆息のうめきを覺えず洩らすことである。

四 世界民の権利

世界民には法律がない。そして高い權力の座に立つて世界民に命令する立法者もなければ、法律の條文をかざして彼れらをさばく裁判官もない。尤も世界民は同時に何處かの國家に籍を置いてゐる筈だから、その國家の民たる資格においては、法律の要求するところの租税も納めれば、法律によつて定められた役人の仕事にも敬意をはらふ。世界民がユトピアの民に歸化しない限り、此れらの事柄は、已むを得ない事柄でもあれば、必要な事柄でもある。
世界民には法律がない。斯く言ふ場合に法律といふのは、人間がこさへた法律のことである。法律學者が丹精に研究するところの法律、辯護士が巧みに利得の資本につかふところの法律がそれである。さうした法律を世界民は一つも有つてゐない。けれども世界民には如何なる意味での法律もないと云ふわけではない。心の趨くままに行動していささかも則を超えないと云つたやうな境涯は、世界民と雖も心ひそかに惝怳してゐる所だけれど、もとより彼れらの中にさうした至人の典型にかなつた者を求あることは殆ど不可能だから、世界民にも何等かの意味での法律が必要だ。ところが世界民は立法者を有つてゐない。だから世界民にも法律があるとすれば、それは人間がこさへたのでない法律でなければならぬ。人間のこさへた法律を人定法と呼び、それに對して人間のこさへたのでない法律を自然法とよぶのがむかしの法律哲學者なり社會哲学者なりの慣はしであつた。それらの學者たちは、自然法といふ概念にいろいろの獨斷的な理論を結び付けた爲に<非>難を受けたのだがそれかと言つて、人間のこさへたのでない法律を自然法とよぶ慣はしを排斥する必要もあるまい。世界民の法律は人間がこさへたのでないとすれば、それを自然法と呼んでも差支へはなからう。それは一切のあたへられた自己を其れの支へてゐる本質的な自己と共に洩れなく包容せむとする所の目的の體系において、各個の自己に課せられる社會生活の普遍的規範である。世界民としての自覺に達するといふことの中には、だから必然に斯かる意味での自然法の認識をも含んでゐるわけだ。權力が個人に向つて命令するところでは、本質的な自己にとつての發展の自由は存在しない。自由の民たる世界民が權力の法律を有たないのは、當然至極の事柄だ。
自然法は世界民にさづけるに次のやうな根本的權利と根本的義務とを以つてする~一切の權<利>に對してすべての人類の自由と幸福とを確保せむことを要求し得る權利、一切の權力をしてすべての人類の自由と幸福とのために作用せしめるやう努力すべき義務。世界民の権利は大であるが、その負擔も洵に重いと言はねばならぬ。
あらゆる權力の中で最も強大なるもの、最も確固たる組織を具へてゐるものは國家である。だから世界民の權利は、何よりも先づ國家に向つてすべての人類の自由と幸福とを確保せむことを要求し得ることでなければならぬし、世界民の義務の主要なものは、國家をして斯かる要求に應じてすべての人類の利益のために活動せしめるやう、國家を指導することでなければならぬ。世界民がいづれかの國家に籍を置いてゐるのも、斯かる權利を維持するため、斯かる義務を實行するための方便と視らるべきだ。
客観的には各人の自由と利益、主觀的には各人の個性と幸福~此れらのものを現實の社會生活において確保し增進する目的のためにのみ、國家的權力は權力として存立することを許される。言を換へると、かやうな目的のためにのみ國家は個人の意志を拘束することを許される。自然法は、この限度を超えて國家が個人の意志を拘束することを肯んぜないし、國家の活動の効果がこの限度以下に停滞することを是認するものでもない。世界民は斯かる自然法の原則を把持しつつ、一切の國家の行動に對して、忌揮なき批判を加へむことを期する。
個人は、三重の關係において、自己の自由と幸福との尊重を國家に向って要求し得なければならぬ。個人がAなる國家に屬するとき、彼れは先づAなる國家その者により、自己の自由と幸福とを尊重されねばならぬ、次に彼れはAなる國家以外の國家、卽ちBなる國家、Cなる國家、Dなる國家、その他のすべての國家によつて、自己の目的と幸福とを直接に尊重されねばならぬ。第三に彼れはB、C、D、その他のすべての國家が、彼れの属するAなる國家の自由と幸福とを尊重することにより、自己の自由と幸福とを間接に尊重すべきことを要求し得なければならぬ。
たとへば、個人の自由と幸福とを維持增進するための最も重要な條件たるべき生存權について考へて見る。世界民は、各國家がその國民の全員に對し、平等の生存權を確保すべきこと、換言すれば、その國民の全員をして平等に人間らしき生活をいとなみ得させるやうな社会組織を構成することを、自然法の權限によつて要求し、ある國家がこの要求にかなつた社會組織を設定しない限り、その國家の秩序を攻撃して止まぬであらう。次に世界民は、各國家がその領土内に在る一切の他國民に對し自國民と平等なる生存權を確保すべきことを要求し、もしもある國家がその領土内に住んでゐる他國民の全部又は一部に向つて自國民と平等な生存權を認めることを拒む場合には、その國家の政策の非人道性を、鋭く攻撃することに努めるだらう。更に世界民はそれぞれの國家を構成してゐる國民の平均的生活程度が、能ふ限り同一の高さに近づき得るやう、各國家が相互に他の國家に對して必要な生活手段を補給し合ふべき義務を履行することを希望する。卽ち各國家に屬する國民の全員が總體として、換言すれば國家の名において、他の國家に對し生存權を主張し得ることを、各國家が承認すべきことを要請する。この義務の履行をよろこばぬ國家に向つて、正義の敵といふ汚名を世界民はさづけるだらう。

<※以後の文章は、日本叢書「世界民の立場から」(1946)では削除されている>
 現存の國家が殆んど悉く、以上の三重の關係において人類の生存權を無視してゐることは、世界民のかなしみ憤る所である。唯めづらしくもロシア國において其の例外を見むとすることは、世界民○○○○○○○○○○を點するものである。しかもそのロシアの國民たちが、正義人道の擁護者を以て任ずるイギリス、フランス、アメリカ、○○などの諸國家によつて、數年來右の第三の意味での○○○○○○○○○○て來たことは、世界民にとつてはいたましきアイロニイであると言ふの外はない。おなじやうな生存權蹂躙の残虐な事實は、老幼男女をこぞつて饑餓に苦しんでゐるドイツ國民の場合について、まざまざと見せ付けられる。戰爭にも、まさる大規摸の殺人事業が、謂はゆる正義人道を愛する國家によつて最も組織的に最も冷静に行はれつつある。世界民は一九二〇年時代において斯かる悲しい経験をしやうとは思ひもかけなかつた。
 更に民族自決權の例についてかんがへてみる。民族自決權は如何なる人間の法律によつても認められてゐない。國際法によつても、いづれの國家の國法によつても、それは世界民の法律、卽ち自然法のみがみとめる權利なのだ。自然法の要求によれば、國家は個人の自由と幸福の維持增進のために存立する。だから個人はいづれの國家によつて自己の自由と幸福とを確保さる可きであるかを自ら決すべき権利を有するものと言はねばならぬ。民族自決權は斯かる個人の自決權の歸結として當然生ずる權利である。個人が個人として所屬國家を決定する權利を有する以上、個人の集團たる民族も亦同じ權利を有たねばならぬ。併しながら現存の國家は、大して自家の痛痒を感じない例外的な場合を除けば、個人に向つても、個人の文化的集團たる民族に向つても、其の正當なる自決權を承認しやうとしない。アイルランドの民の獨立運動につき、印度の民の獨立運動につき、その他すべて不當の壓迫を被りつつある民族の獨立運動につき、いろいろ報道に接する毎に、世界民の顔の表情は或は晴れやかになつたり或は憂欝になつたりする。
 民族自決權の據て存する本來の基礎は個人自決權である。だから民族自決權を主張する者にして、個人自決權を否認せむとするならば、それは自家の立場を覆さむとするものだ。たとへば濠洲人が『濠洲人は濠洲人によつて建設された國家の下に生活する權利がある』と唱へると共に、『黄色人は濠洲人の建設した國家に屬して自由に活動する權利を有たない』と主張するとき、彼れらは後半の主張によつて前半の主張の論理的根據を否定し去るものである。黄色人に國家所屬性を決定する權利をみとめることなくして、白色人に同じ權利をみとめる論理は、世界民の斷じて許容せざる所である。もとより個人の團體は、その團體たる性質に基いて、ある事項については個人の有たない權利を有つこともゆるされるけれど、個人の權利を害するやうな權利、團體が團體だからと言つて有つことは、世界民の法律において認められる限りでない。

五 世界民の超国家的態度

世界民には、彼れが視て以て最もたうとい誇りとするところの特權がある。
世界民としての立場から一切の事物を判斷し一切の行動をいとなむといふ特權が、卽ち其れだ。
世界民の立場は、現實にも立脚して<つつ、>現實を超越しやうとする理想主義者の立場である。あらゆる偏見と我執とを抛擲し去り、同情にみちた洞察の眼を一切の事物の上に向けやうとする批判主義者の立場である。偏狹な國家主義、偏狭な民族主義を斥けつつ、人類全體の利益と幸福とを標準として、總ての社會的事象の價値を規定しやうとする世界主義者の立場である。曾つて第一階級、第二階級に反抗して立つたときに、第三階級が代表した民主主義者の立場である。現に第三階級に向つての反抗において、第四階級の據りつつある社會主義者の立場である。社會生活において女性を男性と平等の地位に置かうとする兩性平等主義者の立場である。あらゆる偏見者、空想家、偽善者、壓制者、絞<搾>取者、好戦者に向つて、極力反省を促すところの、自覺せる人間の立場である。

一高時代の恒藤恭と芥川龍之介(関口安義「恒藤恭とその時代」より)    恒藤は芥川龍之介の親友であり、芥川は次男(作曲家)に恒藤の名「恭(きょう)」を訓読みにした「やすし(也寸志)」という名をつけた。

世界民の立場は、因襲と偏見から解放され、人類の愉悦を愉悦とし、人類の悲哀を悲哀とするところの、純眞なたましひの所有者にあたへられた唯一の立場である。シルレル<ビスマルク*弘文堂版も同様>に對するゲーテの立場である。クレマンソーに對するウィルソンの立場である。マキアヴヱリに對するグロチウスの立場である。ブルジヨア學者に對するマルクスの立場である。パリサイ人に對するキリストの立場である。
個人が社會と交渉する所のあらゆる接觸面において、世界民は自由な人間性を保持しつつ、各自の性格、各自の境遇をとほして、此れに能ふ限り個性的な發展を與へやうと努力する。その爲めには、世界に現存する一切の文化は、世界民の共同の財産でなければならぬ。
『學問には國境が無い』と言はれてゐるが、世界民の見方からすれば、すべての種類の文化が國境を知らないのだ。もとより世界民は冷静な現實の観察者だから、さまざまの自然的原因並びに人爲的原因に基くところの<にもとづくところの>文化内容<を>差別を<し>閑却するものではないけれど、差別を發生させた原因に拘泥し<た>文化内容の價値に差別を付けることは、世界民の甚だ快しとせざる所である。世界民の価値判斷は、あらゆる民族の文化内容に對して全然公平であらねばならぬ。
例へば此處に日本國に籍を置く一人の世界民があるとする。一般に世界民は人生と歴史に無限の愛着を有つてゐる者だから。此の一人の世界民は彼れの祖先たちが産み出した一切の日本人に特有な文化に對し、言ふまでもなく深い興味を寄せてゐるに相違ない。彼れは日本人の創り出した文化の内容については比較的に大なる理解力を有つてゐるだらうから、日本の文化をなつかしむ彼れの自然の感情は、他のいづれの國の文化に對するよりも、一層濃やかだらうと推察されるわけだ。おそらく彼れは雪舟や大雅の筆意のうちに漂渺たる山水の風韻を掬したり、廣重や寫樂の色調からあふれ出る人生の情味に官能を<陶>させたり<と>することにおいて、日本人の一人として育つた幸福をしみじみとかんがへるだらう。彼れはまた人麿だの實朝だの良寛だのの歌の中に、太祇だの芭蕉だの一茶だのの句の中に、<水>晶のやうに透きとほつた生活經驗の核心をながめて、人類の文化の廣大な地盤の上に、さうした一隅をたがやして置いたところの、其れらの人々の努力を心から感謝したいと思ふだらう。能樂の鼓のひびきの冴えに、浄瑠璃の三味線のねいろの縺れに、彼れが結びつける聯想のかずかずは、どれも此れも彼れの心の大切な財産であり、緩やかな御詠歌のうたごゑに聞き恍れては、ひたすらに彌陀の慈悲にすがつて凡夫のあさましい惱みから解脱するみちを教へた聖僧を、祖先の中に見出すことをいともたふとしとするだらう。
日本國に籍を置く彼の世界民は、以上の推察を一々肯定した上、問はれるともなく次のやうに語るだらう ~ 『だが、私の心は私の國の文化を味解するだけで満足するものではない。勿論私の心が私の國以外の國々の文化を味解する能力は、私の國の文化を味解する能力に及ばぬだらう。然かし兩者の差違は、質の差違ではなくて程度の差違だと、私は信じてゐる。此の程度の差違は、必然的な普遍妥當的な知識の體系を築き上げて行く學問的文化については、極めて微小であり、宗教的文化、政治的文化、經濟的文化などについても左程大きくはなく、習俗的文化について稍大きく、藝術的文化、殊に言語を通じて表現される文藝的文化について最も大きからむとするだらう。けれども嚴密に考へたら、藝術的作品はその作家によつてのみ、少くともその作家とほぼ同じ深さの藝術的經驗を積んで來た人によつてのみ味解し得られると言はねばならぬ。われわれが文化の意味の理解について云爲する場合に、それほど嚴密な考へ方を採用しない限り、他の國民、他の民族の文化の意味に對する吾々の理解力を、本質的に否定することは無益だらう。それよりも吾々の念とせねばならぬ點は、それが自分の屬する國で生まれたものたると、他の國々で生まれたものたるとを問わず、一切の價値ある文化内容を正しく深く味解して、自己の生活經驗を豊かにしやうと努力することであるべき筈だ。私は私が味解し得る限りのさまざまの國々のさまざまの文化内容を通じて、その國々の數知れぬ人々の生活の内容に沒入したい、それらの人々の悦びによろこび、それらの人々の苦しみを苦しみたい。私の属してゐる國の全文化内容を殘らず撿べて見たところで、トルストイの小説の深刻さが求められやうか?レムブラントの繪畫の輝かしさが求められやうか?べートーヴエンの音樂のうつくしさが求められやうか?ミケロアンジエロの彫刻の偉大さが求められやうか?プラトー<プラトン>の哲學のけだかさが求められやうか?李太白の律詩の雄渾さが求められやうか?羅馬人の法律技術の巧みさが求められやうか?イギリス人の政治生活の闊達さが求められやうか?印度人の宗教的冥想の神秘さが求められやうか?・・・斯うした疑問を起せば起すほど、文化の世界に國境を劃して、その内側に安住しやうとする人間たちの心持が愈々不可解となつて來るだらう。私たちの國の領土の上にすぐれた文化を築き上げて行かうとする懸命の努力を妨けるものは、あの依怙地な頑冥な國粋主義者たちのうるさい蠢動だ!』
あらゆる優秀な文化産物は、世界民の誇りであり、富である。かぎりなく豐かな文化の構成層を歴史の斷面に於いて見渡しながら、其處に享樂の盡きざる可能性を想ふとき.世界民の愉悦は雙つの瞳に火とかがやく。

六 世界民の思想の自由

『外來思想』といふ語がある、世界民の大嫌ひな語の一つだ。
世界民は外國語といふ差別の範疇が無用となる日の到來することすらねがつてゐる。況んや、自分の属する國家の領域の外部で成長した思想に對して狐のやうな疑ひ深い眼を向け、『外來思想』といふ貼札をつけて、警戒と憎惡との對象としやうとする怯懦な偏狹な人間の態度を、世界民は憐れみ且ついやしむこと甚しい。世界民にとつては、あらゆる正しい思想、あらゆる眞實な思想は、恰も彼れの心奥から生まれた思想であるかのやうに感ぜられる。反對に假令彼れの屬する社會で生まれた思想であるにしても、それが世界民としての立場と相容れないものであるならば、反つて『外來思想』と銘を打つても可い位におもふだらう。
世界民の心の扉は、一切の價値ある思想に向つて開かれてゐる。扉の外には批判の階段がある。彼れの屬する國家の民の祖先が大切にして來た思想であつても、彼れの属する國家の現在の民の大多數が抱いてゐる思想であつても、その階段で<つまづく>くものは、決して世界民の心の扉をくぐることを許されない。かたくなる官僚や、干渉好きの教育家やが、妄りに危険視する思想であつても、其處ではやすやすと階段をのぼつて行く。世界民の心の扉の内部は、だから不當に壓迫され、不當に排斥されてゐるところのあらゆる正しい思想の避難所だ。扉の内部をのぞいて見ると、そこでは世界民の各自の個性に切實な思想が、部屋の中心に座をあたへられ、さうでない思想が部屋の周圍にうづくまつてゐるだらう。扉の外では多くの珍らし好きの人々から盛んな歡呼をあびせられてゐる思想が、そこでは部屋の片隅にかがんでゐるやうなことは、十分有りがちな光景である。月日の經過に伴うて、部屋の中でのいろいろ思想の居場所がかはる。其れは世界民の個性がそだつて行く證據だ。
世界民は彼れの生活してゐる社會の中へ、正しい思想、力ある思想、うつくしい思想が、他國の社會から潤澤にそそぎ入ることにカを竭すだらうし、彼れの生活してゐる社會の有つてゐる所のねうちある思想を他國の社會に移入することにも、ひとしぐ心を勞するだらう。それについて世界民の頭をなやますものは言語の相違の問題だ。すべての世界民は各々他の國の言語をなるべく廣くなるべく深く學ぶことに努めるだらう。飜譯の方法によつて他國の思想を自國の言語の中に表現する事業にたづさはるだらう。藝術家たる世界民、科學者たる世界民は、一層その責務を痛感するだらう。世界共通語の問題、卽ち各國の民が各々自國の言語を維持しつつ新しい世界共通語を相互の交通において使用すべきである<が>、又は<いず>れかの國の言語を世界共通語に採用すべきであるか、それとも一切の人類が從來の言語をすべて廢棄して新しいい世界共通語のみを使用すべきであるか、又は<いず>れかの國の言語のみを世界共通語として使用し、他のすべての國語を廢棄すべきであるか等の問題は、世界民が甚深<深甚>の興味を集中する問題である。世界共通語の問題自身の解決を待つまでもなく、現在あまりに多岐にわかれてゐる諸民族、諸國民の言語が、能ふ限り少數の種別にまで整理され、民族と民族、國民と國民の相互的理解の途が疏通されるに至ることは、世界民が希望して已まない所である。尚ほまた、完全に近い世界共通語は如何にして創り出し得られるかといふ間題の解決は、世界民のすべてに課せられた最も重大な任務の一つでなければなるまい。

七 世界主義と国家主義との関係

世界民が立脚しやうとする世界主義の見地は、政治上殊に外交上に於ける國家主義の見地と對照され、國際主義の見地と對照されることによつて、明確に諒解し得られるだらう。
國家主義には二様の意味がある。先づ一つの意味においては、國民主義といふ概念は、社會組織維持の條件又は方法としての國家の存在価値を肯定しやうとする思想を指すのであつて、其れと對立を成す概念は、斯かる國家の存在價値を否定しやうとする無政府主義の概念である。世界主義は此の意味での國家主義と相容れないものではなく、それかと云って此の意味での無政府主義と原理的に相容れないものでもない。但しこの意味での國家主義と無政府圭義との對立において問題とされるのは、如何にして社會組織を維持すべきであるかと云ふ點なのだから、現實の人間の大多數が、強制権力の支配を前提することなしに能く平和的社會生活をいとなみ得るやうな道徳性の水準に到達してゐないといふ判斷が、さまざまの客観的事實によつて正當とされる間は、世界主義者はみづからの主張の貫徹の便宜上及び必要上、無政府主義に與しないで、國家主義に加擔するだらう。世界民がいづれかの國家に屬しつつ、その國家に向つていろいろの要請を自然法の権威に據つて提起するのは、かうした見地を背景とするものである。國家といふやうな強制權力を有つ團體を構成することなしに、能く平和的社會生活をいとなみ得るやうな高度の道徳性にまで、大多數の人間が淘冶されることは、世界民が何人にもまして切望する所だけれど、それは人間の教育の理想の問題であつて、現實の社會組織の維持條件の問題とは、論點を異にするものである。若しも右のやうな道徳性の水準に近づいてゐる又は達してゐる人間だけを集めたならば、無政府主義的社會組織を實現することが能きる事は勿論だ。けれども假りにそう云う計畫が成立し得るとしても、世界民はさう云ふ計畫をもくろむ人々の心持に同情するだけで、その計畫自體にはあまり多くの價値をみとめないだらう。なぜかと言ふと、所要の道徳性の水準に到達してゐない又は近づいて居ない所の澤山の人間たちを除外して社会を組織するやうなことは、世界主義の精神に叶はないからだ。世界民は比較的容易に出來上る小さな理想的社會の中で清らかに暮すよりも、全人類を包含する不完全な醜惡な社會の中に生活して居たいとねがふだらう。
次に第二の意味においては、國家主義とは、社會生活において國家といふ團體その者に對し獨自の價値を認め、特定の國家の利害を標準として社會生活の全體を規定しやうとする思想を謂ふ。此の場合に國家その者に超越的實在性が認められるのが通常だけれど、必すしもさうでなければならぬと云ふわけではない。兎に角<とにかく>此の意味での國家主義の主張從へば、國家といふ社會的形象は一切の社會的價値の根源であり、すべての他の團體なり個人なりの存在は、特定の國家の存立發展に役立つや否やを標準として、その價値を秤<評>定されるべきだ。<と>言ひ換へると、すべての個人並びに特定の國家の以外のすべての團體は、それ自らの存在價値を有するものではなく、特定の國家の存立發展に仕へる手段として初めてその存在価値を有するのだ。此の場合に特定の國家以外のすべての國<團>體といふ中には、或る國家から見て外國と呼ばれる團體が悉く含包されてゐることを、特に注意しなければならぬ。
この第二の意味での國家主義の中で、更に絶對的國家主義とも云ふべき思想傾向と、相對的國家主義とも云ふべき思想傾向とを區別することが必要である。或る國家との關係に於いて、他のすべての國家が、前者の存立發展のための手段としては存在價値を認められると云ふことは、此れらの兩様の國家主義に共通な根本思想なのだが、絶對的國家主義は、特定の國家以外のすべての國家の存立なり發展なりに如何なる意味に於いても獨立の價値を認めないで、その全存在はかの特定の國家の存立發展のための手段としてのみ意義を有つと主張するに反し、相對的國家主義は、特定の國家以外のすべての國家の存在は、特定の國家の存立發展のために役立つところから價値を獲て來ることを主張すると共に、それ等の國家の存立發展その者に對しても亦、第二次的な價値ではあるが尚ほ獨立の價値たることを失はないところの目的價値を認めるものである。だから絶對的國家主義を採ってゐる國家の立場から見ると、すべての外國は、自己の存立發展のために全然任意に利用し處分さるべき單純なる材料であり、多くの場合において外國は自己の存立發展の障碍たるものだから、能ふ限りすべての外國を絶滅してしまふことが最良の國策であり、それが不能だとすれば、外國との交通を斷って孤立の地位を守ることが、望ましく考へられる。それとは違つて、相對的國家主義を採る國家は、自己の存立發展の目的を遂げるためには、他國の法理的人格を承認して相互の間に平和的交通をいとなむことが、否定す可からざる要件たることを認識し、そうした方針に基づいて外交政策を定めて行くのである。
第二の意味での國家主義の中で斯やうに相對的な傾向を有つたものを、特に國際主義的國家主義と呼ぶことが能きる。國際主義といふのは多數の國家が相互の聞に利益の連帯の關係を有つてゐる事實、卽ち或る國家の満足な存在發展は、他の國家との平和的交通を持績することによつてのみ可能であるといふ事實を根據として、多數の國家は相互に他の國家の法理的人格を承認すべきであると主張する思想である。かうした主張を立てる國際主義を中心として考<察>すると、多數の國家が相互に他の國家の人格を認めてゐる場合に、他の國家の存立發展には獨立の價値があるけれど、それは自國の存立發展のために間接に役立つからだと考へる傾向と、各個の國家の存立發展には、他の國家の存立發展のために役立つと否とに拘はらず一定の價値があると考へる傾向とが區別し得られるだらう。前者は國家主義的國際主義であり、後者は個人主義的國際主義である。
第二の意味での國家主義、卽ち社會生活に於て國家その者が獨立の價値を有することを認め、特定の國家の利害を標準として一切の社會生活を規定しやうとする思想に對立するものは、個人主義である。後者の見解に從ふと社會生活において獨立の價値を有つものは個人であつて、國家は個人の生存向上に役立つ限りにおいてのみ存在の價値を有する。だからあらゆる社會的價値の根源たるものは個人の人格であり、個人の人格の維持發展の目的に役立つための手段として初めて國家の存在が意味づけられる。國家の一切の活動は斯かる標準に基いて行はれるることを要し、國家と國家との關係においても、先づ顧慮さるべきは個人の人格の維持發展の目的である。個人主義にもいろいろのタイプがあり、無反省な淺薄な個人主義は、國家が他の國家との關係において、他の國家の存在を否定しやうとしたり、又は全然孤立をまもらうとするやうな態度を是認する場合もあり得るけれど、最も合理的な個人主義の見地からすれば、個人の人格といふ場合の個人の範圍は、一切の人間を包含すべきであるから、他の國家との關係における國家の態度については、必然に國際主義を支持せざるを得ない。個人主義的國際主義は、各個の國家の存立發展に對し、他の國家の存立發展のために役立つと否とを問はず一定の價値を、認めると言つたが、その一定の價値とは、個人の人格を維持し向上するための手段としての價値である。若しも個人主義的國際主義を外交方針として採用してゐる國家があると假定したら、その國家は例へ<假へば>自己の所有してゐる領土の一部分を他の國家に譲渡することが、その領土に居住してゐる個人の生存向上のために有利であり、且つその領土以外に生存してゐる一般の人間の生存向上のために惡い影響を及ぼさないと解つたならば、悦んでその領土を他の國家に割譲するだらう。又例へば自國の領域内に廣濶で人口稀薄な原野があり、誠實な人間たちが他國から來つてそこに居住することを願ふならば、彼れらの移住の結果、彼れらが從來居住してゐた國家の人民たちは新に生活の餘裕を見出し、反對に自國の人民の平均的教養程度が多少低下するやうな虞れがあつても、その國家は意とすることなく移住希望者を迎え入れるだらう。
世界主義が第一の意味での國家主義とは兩立し得るものであることは前に述べたが、第二の意味での國家主義とは相容れないことは明白だ。何となれば、此の意味での國家主義は、ある特定の國家を他の國家に對して一段と優越せる地位に置き、そのために他の國家に屬してゐる人間たちの自由と幸福とを害する結果を招くからである。世界主義は、それが第一の意味での國家主義を支持する必要があると判斷してゐる間は、國際主義を援助するだらう。しかも世界主義の援助する國際主義が個人主義的なものでなければならぬこと<は>瞭かだ。
現在の國家は殆んど悉く國際主義を採用してゐる。だが、其れは飽くまでも國家主義的國際主義の根本的性質を固執するものであり、加ふるに各國の人民の大多數によつて力強く後援されてゐるものなのだ。謂はゆる國民的外交があまねく國際關係において行はれるやうになつたところで、各國の人民の大多數が世界主義に共鳴するに至らない限り、各國の外交政策は、到底世界民の希求するやうな公正不偏の方針を探るものではない。しかも各國の人民の大多數が、彼れらの本質的な自我にめざめる日は、いつになつたら來るだらうか、絶望的懐疑こそは、彼れの執るべき態度ではなからうかと、世界民は時に心細い思ひをする。

八 世界主義と国家主義との関係(續き)

戰爭は人類の犯し得る最大の罪惡だ!
戰爭が國家と國家との間に開始されるとき、雙方の國民の感情は、獣のやうな憎惡の念に燃ゑあがる。その後のあらゆる戦闘行爲は、悉く野獣的兇猛性の止め度のない発露だ。人類を殺戮することが、國家を愛することと爲<な>るならば、愛國心とは最も恥づべき不徳ではあるまいか?

戦後、恒藤が書いた「書」(関口安義「恒藤恭とその時代」より)

正義のための戰爭なの<で>、人道のための戰爭なのだと、戰爭論者は殊勝らしく辯解するだらう。だが、正義は誰れのための正義だらう?人道は殺人者のための人道なのか?大規模の殺人事業によつて正義が製造され、人道が製造されると言ひ得るならば、同じ論理に基いて、姦通から貞操が生まれ、詐僞から友情が生まれると主張し得ぬ筈はない。正義の女神を引き合に出したり、人道の天使の名を騙つためりする國家道徳論者よりも、あからさまに上帝に楯突く惡魔は、いくら正直で、幾ら可愛いか知れはしない。
戰爭の暗雲が拂拭された後、新しい文化の太陽がさんらんと輝き出ることはあるにしても、戰爭によつて失はれた數知れぬ生命<人命>の値は、如何程莫大の文化の財を積んだところで購ひかへされるものではない。若しも強姦によって生まれた兒が聰明であるならば、強姦の行爲が正當とされるだらうか?
戰爭のいとふべく、悲しむべく、憎むべく、呪ふべきことを、世界民は何人にも劣らす深刻に感じてゐる。だから戰爭を防止し、戰爭の機會を減少することを目的とする制度なり努力なりに對し、彼れは満腔の賛意を表する。軍備制限運動はもとより彼れの賛同する所だ。軍備撤廃運動は一層熱心に賛同する所だ。國際仲裁裁判所の速かなる完成も、彼れの衷心から希望する所だ。
國家主義が好戰思想の仲よい道連れであることは言ふまでもない。國家主義は國家の利害を標準として社會生活の一切の事象を規定しやうとする思想なのだが、謂ふ所の國家の利害の内容として、資本階級の利害を擧げるものは、資本主義的國家主義であり、軍人階級の利害を以て是れに擬するものは、軍國主義的國家主義だ。前者にとつては、豊富な原料の産地を獲得したり、有望な商品の販路を開拓したりすることに役立つ外交政策が最も望ましく、後者にとつては武力によつて他國を威嚇し壓迫する外交政策が最も正しいと考へられる。此れから兩様の思想傾向の合對したものは、普通に帝國主義と呼ばれるものであつて、此度の世界大戰も終極においては、帝國主義と帝國主義との啀<咥>み合ひにその原因を歸すべきだと云う意見は、公平な歴史家の否まない所だらう。ドイツの軍閥の巣窟が一掃されたことは、世界民にとつて會心の事柄だが、戰争が殘して行った一切のいたましい不幸、一切の怖ろしい禍ひの○○<根源>は、戰爭に参加したすべての<主要な>國家が、○○○○○○○○○○○○○○<何等かの程度において帝國主義的動向によって支配されていることに存する>。無賠償主義、非領土割譲主義、民族自決主義の大旆を樹てて講和會議に向つた折りのウィルソンは、かうした意味での人類の共同の責任を自覺した偉大なる世界民の一人だつた。その後の彼れの譲歩について言議することは無益な仕業だらう。人種平等主義の承認を拒んだ講和會議に、多きを望むが如きは最初から愚かな過ちだつた。戰爭は終わったが、晴れやかな平和の光りは、世界的不安の密雲のために遮られてゐるではないか。それはさまざまの種類の固陋な傲慢な國家主義者たちの我慾が醺し出す惡氣ではないか。改造の叫びは至る處に聲高く聽かれるけれど、世界主義の大前提と、社會主義の小前提とを認めることなしにどうして正しい改造の結論がみちびき出されよう。

九 國際問題に對する世界民の見地

社會組織の維持者としての國家の存在價値を肯定する思想といふ意味での國家主義は、遠い未來の人類を問題としない限り、世界民の支持する所だが、現存の多數の國家の間の錯雑せる關係は如何にして整理さるべきかの問題に對して、彼れはいづれの見解に左袒するだらうか?

世界に現存する殆んどすべての國家が、兎も角も國際主義を採用してゐることは既に述べた。此の事實を形にあらはしてゐるものが、現在の國際團體<現存、國際社會>だ。イギリス人がFamily of Nations と呼び、フランス人がLa societe des natious と呼び、ドイツ人がdie Völker gemeiu schaftと呼ぶのが其れである。それは、社會組織として至つて不完全な體制を具へてゐるに過ぎないが、相當古い歴史を有つて居り、世界の文化の發展のためには、かなりの貢献を致したことは争はれない。此の國際團體<社會>の體制を支へてゐる精神は、前に説明した第二の意味での國家主義によつて制約された國際主義であつて、體制の不完全さは取りも直さず精神の幼稚さの證憑だ。
世界民には自然法があり、國民には國家法があるやうに、國際團體<社會>の成員は國際法の拘束を受ける。國際法の發達の出發點をあたへたものは自然法の思想であつたが、それは十七世紀の欧羅巴人にふさはしい獨斷的な自然法の思想であつて、今日世界民の正義感情をみちびく所の自然法の思想とは同じものでない。それにしてもかの古い自然法の目指した理想の高遠さは、何人も否定し得ない所だが、それに比べると、現在の國際法を支へている國際意識の幼稚さはあはれむべきものである。
國際主義の發達は、國家と國家との利益の連帯関係その者の發達、並びに此の事實を認識する意識の發達と並行して來た。団際的社會連帯の事實の發達は、先づ國際的經濟關係の巧妙複雑な構成として現れ、次いで科學、藝術、宗教、衛生、習俗などのさまざまな文化領域に於ける諸國民の相互倚<存>性の旺盛な成長となつて人生のあらゆる方面を蔽ふに至つた。此の目醒<めざま>しい事實に照應して、各種の生活利益の維持增進のための國際的協力を目的とする萬國聯合の制度が、十九世紀の半頃から簇々と生れ出た。それ等の聯合はそれぞれ相當の成果を収めて、大抵は現在にまでその活動を績げて來てゐる。此れらの多數の機關を通じて次第に濃厚に表現され初めた國際意識に對し、統一的焦點をあたへやうとしたものは、第一囘、第二囘の萬國平和會議の試みであつた。皮肉にもそれは主として戦争法規の制定機關となつた形があつたものの、しかもなる可く戰爭の機曾を減少しやうとする希望、なる可く交戰行爲から生じる慘禍の程度を緩和しやうと云ふ希望を、列國の委員たちが眞面目に抱いてゐたことは争えない。
かうした國際意識の順調な發達は、やがては世界主義の精神にまで向上して行きかも知れないと、世界民をして心ひそかに期待せしめた程であつたが、其處に至るまでに人類がささげねばならぬ犠性はまだまだ數多く要求し残されてあることが解つた。世界戰争の勃發は、さうした意味での偉大なる幻滅であつた。ドイツの愛國者たちが先づ國際戰争法規を蹂躙した。イギリス、フランスの愛國者たちも、暴に酬ゆるに暴を以てす可く、國際戰争法規を無視して争つた。すべてが交明的野蠻人の争闘であつた。強盗がカントの道徳論を講義したら随分滑稽だらう。しかし自分たちがこさへた國際法規を無視して數知れず殺人、掠奪、強姦をやつたドイツ人、イギリス人、フランス人<交戰諸國の國民>たちが、お互ひに敵國人を正義人道違反者呼ばわりをしたことは、もつと悲慘な滑稽ではなかつたか。さうした皮肉な事實に對して人間の判斷力を鈍らせるところの愛國心とは、なんといふ怖ろしい目つぶしだらう!

ヨーロッパ留学中の恒藤(関口安義「恒藤恭とその時代」より)

世界戰争の激搖によつて國際秩序は無慘に破壊されたが、その反動として國際意識が新しい生命力を體得して成長し始めた。囘復せる國際秩序の基礎の上に建設された國際聯盟のすばらしい組織は、此の新しい生命力の象徴だ。國際團體<社會>の成員たる國家の大多數は此の聯盟に競うて参加し、『戦争に訴へざるの義務を受諾し、各國間に於ける公明正大なる關係を規律し、各國政府間の行爲を律する現實の規準として國際法の原則を確立し、且つ、嚴に一切の條約上の義務を尊重し、以て國際協力を促進し、且つ各國間の平和安寧を完成せむ』とする聯盟の根本目的の履行に忠實なるべきことを誓うた。
國際聯盟その者は、從來列國が國際關係に於いて把持し來つた精神と趣を異にする所の全く新たな精神によつて建設されたものではなく、依然として國家主義的國際主義の立場を根抵とするものである。國際組織の改造は、直接に國際意識の根本性質を變改する力を有つものではない。國際團體<社會>の内部に國際聯盟といふ明確な組織が生まれたことは、國際意識の重厚度が增加した事實を裏書するものであるが、現實の國家を支配してゐる人々が、その奉じ來つた國家主義の信條を頓かに抛ち去って、世界主義に共鳴するに至つたのだと云ふ推定を、正<確>ならしめるものではない。けれども他方において、吾々は組織が精神に及ぼす影響を看過することも能きない。たとへ唯物史観を是認しないまでも、環境が人間の心理を規定する事實を否定することは正しくない。國際聯盟の組織がその機能を着實にはたらかせて行くならば、資本主義的經濟組織の胎内から社會主義的思想が生み出されたやうに、現在では人類の使命にまで自覺した小部分の人々の胸から胸へとながれてゐるに過ぎない世界的精神が、國際秩序の裡に滔滔とみなぎり亙る日が到來せぬとも限るまい.
國際聯盟に加入しないで、その傍らに佇んでゐる二つの大國家がある。右の方のはアメリカ合衆國で、左の方のはロシア社會<主義>ソビエット共和國だ。國際聯盟の標牌を國際聯合と謂ふのに書き替へやうと力んでゐる。ハーヂングの考へと、聯盟諸國の國民に共産主義の洗禮をさづけてやらうと心構へてゐるレ二ンの考へと、どちらが世界主義の精神に、より近く立つてゐるだらうか?どちらが國際聯盟の將來を、否人類全軆の將來を規定する力を、より多く有つてゐるだらうか? ~ 世界民は斯う云ふ疑問を起こして見て、しづかな微笑を唇邊にたたへる。それはひとり世界民にとつてのみの問題ではあるまいけれど・・・。

十 國際社會の改造の問題

われわれ人類の大部分は、幾十の集團に分れて其の數だけの國家を構成し、更にそれらの國家を通じて一個の國際社會又は國際團體<法社會>を構成してゐる。此の人類的社會の改造は、如何なる方向を執つて行はれるだらうか?いかなる方向を執つて行はれるべきであるか? ~ それは人類にとつて最も普遍的な最も根本的な問題の一つであり、日夜世界民の念頭を去らない宿題である。それを明確に規定することは勿論不可能だけれど、問題の解決について大體の見當をつけることは、敢て至難の業といふわけではない。
現存の國際社會を改造して行く方法には、現存の國際社會の組織を先づ改造しやうとする途と現在の國際社會の組織其者には手を觸れずに、國際社會の構成單位たる國家を改造することによつて、國際社會の實質を改造しやうとする途との二つがあり得る。
國際社會の構成單位としての國家の改造の問題については、玆では單に國家の存在個數、卽ち國際社會の構成單位の個數の問題だけを考へて見る。右に舉げた第二の途においては、國際社會の組織其者の改造は問題とならぬのだが、國際社會の現在の組織は、國家の相互的平等の原則を前提としてゐるものであり、國際社會に關係する問題の解決に當つては、各個の國家が平等の發言権を有してゐるのだから、國際社會を構成する國家の存在個數の如何は、國際社會の發達に對して重大な影響を及ぼすべき問題たるわけだ。若しも國際社會の構成單位はなるべく少數であるのが、國際社會の合理的發展のために都合が好いとすれば、現在の多數の國家を整理して、少數の大規模な國家<を>改造すべきだといふ要求が生まれて來る。例えば欧羅巴の諸國が解體して一つの欧羅巴國をつくり、亜細亜國、亜米利加國、阿弗利加國などが其れに並行してつくられるとかーラテン民族を以て人口の大部分とする所の國々は悉く佛國に併合され、スラブ民族の國々は露國に、チユートン民族の國々は米國に併合されるといふやうな方法で、民族的大國家が建設されるとかー人種の如何を標準として、黒色人の國、黄色人の國、白色人の國が形成されるとか、いろいろの仕方が幾らでも考へられるけれど、その實行には多大の困難が伴ふのみならず、假令その計畫が現實にされたところで、世界民が望むやうな世界主義の貫徹にまで、出來上つた少數の大國家が熱心に協力するかは頗る疑はしい。それによつて國家と國家との利害の衝突の機會なり原因なりは減少されるだらうが、國家と國家との利害の相反性はその深刻さを著しく加へるだらうし、國家の活動と個人の行爲とを距てる懸絶が非常に增大することも考へられねばならぬ。そこで國家の規模をなる可く小さくして、國家と國家との接觸面を增加する代りに利害の相反性を減殺し、國家作用に對する個人の参加範圍を擴大しやうといふ欲求がおこるだらう。この欲求に從へば國際社會構成單位の個數は、現在の其れの幾倍に、又幾十倍に增されることとなり、それらの諸國家の國際的利益連帯關係はおのづから密接となるだらうが、國際的紛争は著しく滋くなるだらう。それを緩和し調整するために、さまぎまの標準の執れか一つ又は數個に基いて若干の聯邦國の中に澤山の小國家を包容するならば、前の主義と後の主義との綜合が成り立つわけだ。それと共に、他方に於いては各小國家の權力なり權限なりに種々の制限を加へることに因り、國際的社會生活の面目を改めやうとの主張も提起し得られる筈だ。
次には現在の國際社會を改造して行くための第二の途、卽ち國際社會の組織を改造する途について考へて見ると、現在の國際的社會組織を支へてゐる法律秩序をして其儘國際性を維持せしめつつ、國際的社會組織の個々の部分に改造を加へて行かうとする態度と、現在の國際的社會組織に本質的な改造を加へ、その組織原理を變更しやうとする態度との兩者の差違が思ひ浮べられる。前の態度を執るとき、最も便利であり最も手近な方法は、現在既に成立してゐる國際聯盟をして現在のすべての國家を包容させた上、聯盟の本質たる國際的集團性を保持させながら、聯盟の機關なりに改革をあたへる方法だ。その際國際聯盟といふ名稱を如何様に變更しやうとも、それは關する所でないし、個々の組織部分に何等かの變改が施されたところで、聯盟の本質に變化を生じないことは言を俟たない。その外國際聯盟を利用しないで、それを廢止するか、又はそれと並行して、英國だの、露國だの、米國だのといふ極めて有力な少數の大國家だけが聯合をつくり、それが國際社會の中央機關としての機能<機關>をいとなみ、他のすべての國家は、重要な國際問題についてその指定に從ふと云ふやうな制度が、近い將來に於て實現されはしないかといふ蓋然性がないでもないが、さうした國際的アリストクラシイの出現は、世界民の斷じて許す能はざる所である。
現在の國際社會の組織原理を改造しやうとする態度の中でも、無政府主義的なものと、國家<安>定主義的なものとの間には、著しい懸隔があるが、姑く<しばらく>後者だけについて考察すると、それは現在の國際的法律秩序から國際性を奪ひ、その代りに國家性を賦與しやうといふ態度を意味する。そしてあたへらるべき國家性が單邦的たるか、聯邦的たるかに由つて、新たなる社會組織は或は、單邦的世界國として成立し、或は聯邦的世界國として成立することとなる。便宜のために前者を世界國、後者を世界聯邦國と呼ぶことにしやう。
現實の國際關係を離れて、論理的に世界聯邦國の内面的構造を思惟することとなると、前に考察した國家存在個數の決定の問題と關聯を求めねばならぬのだが、なる可く近い將來においての實現可能性の大きさうな狀態に目標を置かうとするときは、誰れでも既成の國際聯盟に着眼するだらう。卽ち國際聯盟をして現存のすべての國家を包含せしめた後、それらの國家の上に最高中央政府を設定し、各國人民はそれぞれ從來の所屬國の國民たると同時に、此の最高中央政府の統治権にも或る範圍において服從する義務を負はされる。最高中央政府には立法機關があつて、最高中央政府と各國の中央政府との關係、各國の中央政府相互間の關係、最高中央政府と各國人民との關係を規律する法規を制定し、最高中央裁判所がそれらの法規に據て司法作用を行ふ。最高中央政府の事務を處理する行政機關、殊に各國の恣意を抑壓するに足る武力を有つところの陸海軍が構戒されるだらう。斯うして出來上つた世界聯邦國と現在の國際聯盟とを比較するとき、最も眼につく前者の特色は、後者の最高機闘たる聯盟総會が列國の政府の派遣する政府の代表者を以て構成されてゐるに反し、前者の最高機關は恐らく各國政府の代表者の會議と、各國人<列国の人民の總數>を一體として、其の中から何等かの標準に基いて選舉された代表者の會議との、二つの合議體によつて構成される點にある。
やはり現實の國際的社會を左迄<さまで>超越することなしに、世界國の理想を實現しやうとする途は、現在の列國をして、その各種の政治機關の大部分を備へた儘、地方的自治團體に化せしめ、その上に統一的普遍的政務を行ふ國家を樹立する方法である。勿論各自治團體の權限には重大な制限が加へられ、各自治團體が全然國家としての權力なり機能なりを保有し得ないやうにされねばならぬ。改造の可能性を多少擴大して考へるならば、現在の各國は新しい世界の内部において全然その痕跡を殘すことを得ず、地方的自治濶<團>體としても存績し得ないやうな狀態も思惟し得られる。此の場合には、現在の州だとか、府縣だとか、市町村だとかの孰れかが、最高級の自治體として世界國に直屬するといふやうな關係となり、自治團體の構成員たちの政治的限界は極めて濶大たることを得るであらう。世界國の最高機關は、全國民卽ち全人類の間から一定の標準によつて選出された代表者を以て構成されるだらう。此の代表機關その者の組織なり機能なりは、さまざまの見地からその決定方法を考察されねばならぬことはいふまでもない。

十一 世界民の使命

若しも世界聯邦國が實現されたと假定するならば、國際法はその存在を失ふであらうが、國際關係における國家主義は必ずしもその生命を終了することはなからう。勿論世界聯邦國の法律は、各支分國政府が反世界主義的政策を實行するのを抑制するやうな制度を設けねばならぬが、さうした法律を制定し、さうした制度を運用するためには、聯邦國の中央政府を組織するところの人々が、傳統的國家主義に囚はれることなく、人類全體の利害を標準として聯邦國の政策を決定するのでなければならぬ。更に進んで世界國が成立した場合を假定して見るに、そこでは最早國際關係に於ける國家主義、卽ち國家主義の排他的方面も亦存在の餘地を失ふわけであるが、世界國の統治機關を構成する人々が、人種主義とか、民族主義とか、地方主義とか、階級主義とか謂つたやうな、あらゆる排他的政治思想から解放されない限り、公明正大な政治の實現を見るごとは覺束ない。

「改造」1921年6月号

世界聯邦國の國民や世界國の國民は、今日の各國の國民とひとしく、或は世界聯邦國の法律により、或は世界國の法律により、自己の意志如何を問はず、國民としての資格を背負はされるだらう。だから彼れらが人間の本質にめざめない間は、彼れらは單なる世界聯邦國民たり、世界國民たるものであつて、未だ以て世界民として認められることは能きない。反面から觀ると、世界民は必す世界聯邦國民たり、又は世界國民たるではあらうけれど、彼れは自己の自由の全部を、世界聯邦國のために、又は世界國のために捧げるものではない。かへつて世界民は一切の法律の權威を超越するところの自然法の原則を把持しつつ、世界聯邦國や世界國やの法律に對し、政策に對し、嚴正な批判を忌憚なく加へるだらう。世界聯邦國なり世界國なりが、如何ほど雄大な使命を有し、如何ほど宏壯な規模を有するにしても、世界民の眼に映じた其れらの國家の存在價値は、畢寛個人の純眞な人格を維持發展するための手段としての價値を意味するに過ぎぬ。如何なる社會組織の動揺變動に際曾しても、自我の核心たる自由を保持し得ることは、世界民のたのしみとする至大の特權である。
世界聯邦國にせよ、世界國にせよ、それが實現された曉においては、その法律なり政策なりの公正なる批制者として、世界民を要するだらう。その權力の行使者、その制度の運用者として、世界民を要するだらう。それに世界聯邦國だの世界國だのを實現する事業それ自身が、多數の世界民の努力を俟たずしては企及し得られぬだらう。だから世界聯邦國や世界國やの教育が、世界民たる國民の養成を最高の目的とすべきことは無論だけれど、それよりも第一に今日の現實の社會において、あらゆる教育の根本方針が、世界民としての自覺にま<つ>個人をみちびくことに在らねばならぬと、世界民は確信にみちた斷定を下す。
けれども世界民としての教育が可能たり得るためには、先づ教育者自身が世界民たることが肝要だ。だから世界民は世界民としての自覺を體験した人々を自分の周圍の教育者たちの間に求め、求める人を見出したときは、幼な馴染の友だちに逢つたかのやうに無邪氣によろこぶか、<。けれども>さう云ふ機會は現在のところ至つて稀れであり、多くの教育者たちのかたくなら偏狹な精神が、世界民をして失望せしめ悲しましめる場合が、通常である。

十二 世界苦の重み

深い青藍色にかぎりなく晴れひろがつた大空、そこにかがやく太陽の、萬人の心の隅の隅の暗さまで射とほすかと思はれる強い明るさ…さうした物象をながめる毎に、その下で絶え間もない残虐な争鬪に從事してゐる人間たちの世界のあることが、世界民にはつくづくと不思議に思はれる。

関口安義「恒藤恭とその時代」より

そのとき皮肉なリアリストが傍らに來て『私はユトビアの民ではないと、おまへは繰り返しことはつたけれど、おまへのしやべることは、ユトピアの民の言ひ草と、あんまりかはりは無いぢやないか!』と罵るならば、世界民は微笑して首をかしげるだらう。そこでリアリストが心持ち焦れ氣味になつて、『おまへは人間としての自覺といふことを口癖のやうに言ふけれど、おまへ自身がその人間としての自覺といふやつをほんとうにもつて居るのかい?』とあざけると、世界民は顔を赤らめてうなだれるだらう。
リアリストが鼻唄をうたひながら歩み去つたあとで、世界民は俄かに周圍の空間のあかるさが堪らなく寂しくなり、急いで自分の家へ歸つて行くだらう。ーそのとき彼れに、『世界民は愉悦と悲哀とどちらが多いかい?』とたづねて見たら、『私の心は世界苦の重さに壓されてゐる!』と吐き出すやうに彼れは答へるだらう。

***** 「世界民の立場から」(生活社版)のあとがき

 本書所載の論考は、「世界民の愉悦と悲哀」という題目を附して、雑誌「改造」の大正十年六月號に發表したものである。それ以來二十五年の歳月が經過したのであるが、生活社からの依頼に應じて、「世界民の立場から」という新しい題目を選び、随所に些細の修正を施した上で、「日本叢書」の中に加えてもらふことにしたのは、その事が、現在における日本の状勢から見て何程かの意義があるだらう、と考へたからに他ならない。
 右に述べたやうに、初めて執筆した頃と現在との間には恰も四分の一世紀の時間の距たりがある。そこで私のたどたどしい足取りを以てしても、その間におのづと學問的思索の途においてかなり長い路程を進む事が出來たのであつた。それ故、現在における私の見地から見ると、相當重大な批判的修正を加へたいと思ふ點が若干存するのであるけれど、しかも、さうすることをわざと差しひかへて、素朴な、幼稚な考へかたなりに一定の世界観に徹しつつひたむきに主張と見解とを展開することを試みたところの當初の所論を、その儘に本書に載せることとした。
 昭和二十年十二月二十五日

※テキスト化に際して

テキスト作成においては、「改造」版を基礎に作成し、適宜「日本叢書」(生活社1946)版、「國際法及び國際問題」(弘文堂書房 1922)収録版を参照した。また、各節の題名は「國際法及び國際問題」の目次による。同書は国立国会図書館デジタルコレクションから見ることができる。
 また、句読点などは「日本叢書」版によった。目立つ異同については「日本叢書」版を< >で記し、それにかかる部分を青色で示した。しかし見落とした部分や漢字をかなに直した部分などはそのままとなっているところも多い。なお、できるかぎり当時の書体を用いようとしたが、フォントの関係で現代の書体を用いた部分もある。
 伏せ字の部分について、後半部分は「日本叢書」版で補正したが、前半部分は、その部分自体が削除されていたため、そのままとなっている。
(二〇一八年二月記)

 

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