ある新潟県士族の明治~鳥居和邦と明治期の村上

旧鳥居与一左衛門家、現在は別の方が住んでおられる。
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ある新潟県士族の明治~鳥居和邦のこと

幕末~戊辰戦争の動乱の中で

鳥居和邦は、町奉行鳥居与一左衛門和達を父に、鳥居本家(三十郎家)の三女ちんを母に、安政七/万延元(1860)年ごろ、長男として生まれた。しかし、その記事は残っていない。
この時期は、幕末の激動期であり村上藩主内藤信親は、和邦が生まれた時期は老中として幕政にかかわっており、外国船の接近に伴って、藩主信親は、父・和達(家督を相続する以前で存九郎と呼ばれていた)は、安政4年選ばれて、南蝦夷(北海道)から北蝦夷(樺太)へ探検に赴き、「北溟紀行」という文章を書いている。
その後、鳥居本家の三女ちんを妻として迎え、安政七/万延元(1860)年ごろには和邦、文久4/元治元(1864)年には録三郎、慶応3(1867)年には鍗次郎が生まれている。

かつての鳥居与一左衛門家(村上市飯野町)の現況

父・和達は飯野町の屋敷を役宅として、町奉行として業務に当たっており、そうした様子も見ながら育ったと思われる。
慶応4(1868)年になると、鳥羽伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が発生、奥羽地方に隣接する越後においては、長岡藩という独特の立場をとる藩の存在もあって、別に北越戦争とも言われる戦争となった。これをうけ、村上藩も抗戦派と帰順派に分裂、父和達は義兄で家老の三十郎和祚とともに抗戦派の中心として活動、庄内藩との連絡などにもあたり、士官として戦争に参加もした。この年8月11日村上城下が無血開城されると、三十郎とともに羽越国境での庄内藩との戦いにも参加したとおもわれる。

和邦の家族と三十郎一家

北へ去った家臣たちは妻子を同行した者もいたが、和達は妻子を同行せず、逆に、三十郎の妻子が与一左衛門の家に身を寄せている。三十郎からすれば、帰順派の妻の実家より抗戦派で、娘と同年代の子どもたちのいる与一左衛門家の方が過ごしやすいと考えたのかもしれない。
戦いは9月下旬、庄内藩の降伏によっておわり、三十郎や和達も10月になって続々と村上に引き上げ、多くは寺院に入って謹慎生活にはいった。三十郎は、夜間、妻子に会いに与一左衛門家を訪問したと記している。
しかし、新政府が、政府に背いた首謀者として三十郎や父・和達を含む十六名を指名、特別な監視下に置かれるようになった。そして三十郎が主たる首謀として死刑を宣告され、明治二年六月二十五日切腹という形式をとった「処刑」が執行された。
こうした厳しい日々、三十郎の妻子は与一左衛門家にいたのであり、和邦はこのとき八歳、録三郎四歳、鍗次郎二歳とであり、三十郎の娘光(てる)にとっては、兄や弟のような存在として、辛い日々をすごすうえで慰めとなったとかもしれない。他方、少年和邦にとっては、この親子を見て、政治の厳しさを皮膚感覚で感じたかもしれない。

父・和達の東京召喚と家督相続

村上の町は落ち着かない。三十郎切腹に先立つ六月二十日帰順派の中心で藩士たちの憎しみの的であった江坂與兵衞が何者かによって暗殺されるという事件が発生、その事件に謹慎中の十五人にも関係者がいるという噂も流れた。またこの年の盂蘭盆に、三十郎切腹の地である安泰寺で、三十郎をはじめとする戦争でなくなったものの施餓鬼法要が行われ、多くの藩士が白麻の裃で参列するというできごともあった。この法要を企画したのが和達らであったとして、和達ら関係者五名は東京へ喚問された。かれらは和歌山藩邸で謹慎をしていたのだが、その最中に狩りへ出ていたことが分かり、加納藩に移されさらに謹慎が命じられている。かれらがいつ村上に戻ったのかは明らかではない。
その間、村上では島田鐵弥が自ら與兵衞殺害事件の単独犯行という遺書を残し自殺、それを受けて、藩政府も與兵衞殺害事件は島田鐵弥の単独犯行、施餓鬼法要は島田鐵弥の兄島田丹治と宝田五右エ門の二人が行ったこととして政府に届けを出し、了承されている。
それをうけ、村上で謹慎中であった十名は謹慎を解かれるが、和達らはその後も東京で謹慎させられていたように思われる。
こうした行動をとった和達が、そのまま戸主であったとは思えない。いつかという日時は分からないが、東京からの帰還に前後して、和達の隠居と和邦への家督相続が行われたと思われる。和達の戸籍名は淇松である。これまでの何れの名前とも違うこの名前は和邦に家督相続をしたのちに名乗った隠居名と思われる。こうして、和邦は当時十代前半の若い当主となったと考えられる。

没落士族と「鮭の子」

その後の与一左衛門家の様子は、よくわからない。
その後、秩禄処分で幾ばくかの金を手にした和達は、その金を元手に「茶屋」を開いた。しかし、知り合いに次々と料理などを振る舞ったあげく没落したと伝えられる。「村上市史」などをみても、士族の商法で成功したものはいなかったとの記述があり、和達もその一人であったのだろう。その後の消息はわからない。
多くの地域で、没落士族は役人や警察官、教員と言った特定の仕事に就けなければ、そのままプロレタリアート化し、「士族授産」の対象となることが多かった。村上においても、尚武の風潮の強い(逆に言えば商才とは縁がなかった)ところであったため、同様の事態が進展していた。
しかしここから村上では違う動きがおこる。明治五年三面川の漁業権を落札した人物から、村上の士族が法外の値段で奪い取り、さらに明治七年には同川の水面管理権を刀で脅迫して無条件で奪い取り、こうした権利を株化して士族たちの共有財産化とし、収益を毎年、収穫した鮭を配布していた。季節になると「鮭でヤーンス」と声をかけながら、鮭が配布されていた。それは次々とお裾分けされ、「身」は焼き鮭として、「頭骨」は氷頭なますとして、正月の膳をにぎわすことになる。
村上藩は江戸後期より種川という産卵用の用水路を作ることで、鮭の増産に成功していたが、明治11年からは人工ふ化技術を用い、大成功を収めた。そして明治15年には士族共同経営の「村上鮭産育養所」を設立、その収益は警察や郡役所の建設とともに教育に振り向けられた。したがって士族の子弟は生活の困窮にもかかわらず教育を受ける機会を保障され、さらに上級学校をめざす者には奨学金が与えられた。
貧窮した士族たちは現金での配当を求めたが、それは却下され、鮭の現物支給にとどめている。堤防の修繕と称して何もしなくとも賃金を支払うという士族への失業対策事業もおこなったこともある。
こうして村上の士族たちは、ひとりひとりをみれば貧窮状態であったが、士族全体としては余裕があるという独特の状態となった。
鮭の収益の多くを教育に充てたことで、貧しい士族の子弟であっても勉学に励めば、家計に負担をかけず東京などへ進学でき、さらに立身出世のコースに乗れた。知識人や官僚の中に村上出身者が比較的多く見られるのはこういった事情がある。そして村上出身者が活躍することで、村上に恩恵を与えてくれると考えたのである。村上ではこれを「鮭の子」と呼んでいる。皇太子妃(現・皇后)一族も「鮭の子」とされるが、詳細は明らかでない。
与一左衛門家の子どもたちもこのような形で、次々と東京などへ留学していったとおもわれる。「留学」することが、出世への道であるし、家族にとっては口減らしともなったからである。はっきり分かっているのは鍗次郎である。かれは英吉利法律学校(現:中央大学)にすすみ、代言人、そして弁護士・官僚、さらには国会議員、教育者というエリートコースを歩んでいる。
和邦についてはなんともいえない。当主であるとはいえ、まだ若年であったし、和達もある時期まで健在であったはずである。和邦がこの奨学金を得て、東京など留学したと言うことは十分考えられる。

自由民権運動と士族代表

和邦の活動が急に活発になるのは、1882(明治15)年のことである。22歳になっていた和邦は自由民権運動の活動家としての姿を見せる。
この年9月和邦は自由青年大懇親会に参加、同じ村上地域の大地主・大庄屋一族出身の加藤勝弥らが結成した北辰自由党の遊説委員として選ばれるなど青年自由党の中心メンバーとなっていく。翌年には自由拡張運動で活躍、各地の演説会の弁士として県下をかけまわっている。その一方、村上市史には、自由拡張運動で拘禁され、明治18年出獄したとの記事もある。1883年(明治16)年3月20日には激化事件の一つとされる高田事件が発生、21日には和邦の同志加藤勝弥も連座して逮捕されるなど、無関係なものを多数含む多くの民権運動関係者が逮捕された。別件での逮捕という可能性も含め、和邦がそのなかにいた可能性もある。
しかし明治16~17年は和邦の記事が最も多い時期でありたとえ拘束されたとしても、長期にわたったとは考えられない。なお、加藤勝弥は明治16年に居を村上本町二之町に移している。この背景に、和邦との関係があったようにも見える。
この時期の和邦には、村上士族の若きリーダーという顔がある。藩政廃止とともに、村上は、士族が住む5つの町と、平民が多く住む地域に分かれ、それぞれに区長(町内会長といった役割か)が置かれることになった。しかし、実際には一人の人物がいくつかの町を束ねて責任を持つという形で連合していった。
新潟県は村上を中心とする地域を第33区として位置づけ、そのまとめ役を大年寄で伊与部助次郎ら町人(一応は武士の格はもっていたが)を選んだ。当初は士族で旧家老の島田直枝も入っていたはずが、名簿には載せられていない。これに対し、旧身分秩序に固執する士族たちは、旧士族の居住する五町(二之町・三之町・新町・飯野町・堀片町)を分離しようとする動きを強めていた。
士族町以外が一人の戸長にまとまっていく一方で、士族町は3人の戸長にわかれ、行政的にも不利が生じていた。
明治16(1883)年、こうした中で開かれた五カ町共同会で和邦は居住する飯野町の総代として参加、三人に分かれていた戸長を一人とすることで士族町の統一性を強めようとする提案を提出、その対策委員に選ばれた。こうして和邦は、地域の課題にも目を向ける士族町のリーダーになっていった。しかし、実際の議論の中では、こうした和邦らの考えが、それほどに支持されていなかったこともわかる。士族内でも、元上級士族であった人々と中・下級士族との間で温度差があったことが分かる。明治18(1885)年、飯野町総代として、五町を合併し士族町だけで村上本町という自治体を作ろうという合併願いを提出している。
このように、この時期は村上の士族たちが協力体制を作ろうとしていた時期である。こうした動きが進む明治16(1886)年、村上藩士のために犠牲になったと考えられて鳥居三十郎家が、江坂二郎を養子とし、和邦兄弟とは幼い頃からの関係が深い三十郎の遺児光と結婚することで、士族としての家督が認められた。これにひきつづき巻き起こった鳥居三十郎顕彰碑建立運動にも三十郎家と親しい与一左衛門家の当主で、三十郎の甥でもある和邦がなんらかの働きをしたことは想像に難くない。

新潟県の官僚に

明治21(1988)年、和邦の姿を、新潟県の官僚(新潟県庁・第一部・属・九等)として見つけることができる。(「職員録」)明治23(1890)年の第13回通常県会では県側で答弁している。
1885(明治16)年、新潟県は批判が多く廃止論もあった県立勧農場を新潟県農学校に改組、設立した。しかし、翌年、早くも県会で廃止論がおこり、明治20(1887)以降、維持論を主張する県と、「農学校より中学校を」と廃止を訴える一部議員の間で激論が繰り返され、翌21(1888)年、22(1889)年と県会では廃止が可決されるが、知事の判断で存続される。明治23(1890)年の第13回通常県会では、県の立場、理事者側の立場で和邦が答弁している。しかし、その甲斐もなく、農学校廃止は多数で可決され、知事もこれに従い、農学校は廃止される。(伊藤稔明「新潟農学校に関する一考察」愛知県立教育福祉学部論集第62号2013)
明治26年の「職員録」にも「内務部 属6」として県庁内にその姿を見いだすことができる。しかし、27年には新潟県の職員録からは姿を消す。
なお、この時期、東京で代言人をしていた四男の鍗次郎が新潟市に移り住み、さらに次男録三郎も数年後には村上に戻ってくることから、和邦は新潟から離れることが可能になったともいえる。

台中県苗栗辨務署署長

官員となった和邦のすがたは、次に思いもかけないところで見つけることができた。明治28(1895)年、下関条約で日本が清国から奪い取った台湾においてである。
現在、台湾が収集、インターネット上に公開している史料の数カ所に鳥居和邦の名を見いだすことができる。「台湾総督府職員録系統」の明治29(1896)年の台中県の記事に、知事・書記官・警部長につづく属の4番目 33人の属トップに和邦の名前がある。日清戦争にひきつづく台湾占領戦争のさなか、占領政策の担当者として送り込まれたか、志願していった文民官僚の一人であったとおもわれる。
翌明治30(1897)年には苗栗辨務署 署長七等三級 従七鳥居和邦」との記載され、井出季和太「台湾治績史」P322で「蕃人に対する宗教的感化については(中略)新竹県苗栗辨務署長鳥居昭邦は同県知事に対し仏教を布教せしむべき旨を提言し」との記載がある。和邦であると思われる。
しかし、明治31(1898)翌年の職員録には見いだすことができず、前職には別の人物がついている。
井出季和太「台湾治績史」によると、この年、台湾総督に着任した児玉源太郎は、民政局長として後藤新平を任命、このコンビのもとで官制改革をすすめるとともに日本に従わない勢力への征討をすすめる。こうして台湾の植民政策は一挙に進展する。このなかで、かれらは民政の中心となる辨務署長の任免について慎重を期すことや下級官吏に冗官が多いことを指摘、大幅な地方制度改革をすすめ、これに伴い1080人を罷免する。和邦もこうした流れのなかで罷免されたと思われる。
なお、この人物が我々がみてきた和邦と同一人物であるか、別人であるか、検討が必要であるが、この記事の前後、和邦が地方行政にかかわっていることが明らかになり、年齢的にも矛盾がないため、同一人物ではないかと推測した。

徳島県板野郡長

新潟市に鳥居医院というお医者さんがいる。この人物について人名辞典(帝国秘密探偵社が発行していた「大衆人事録」が明治人名辞典・大正人名辞典・昭和人名辞典などとして発行されている)で見ていたところ、以下のような記載を発見した。

《家庭》妻キク(明28)徳島県立高女卒 長男 俊夫(以後、略)

これにより、この鳥居医院の惠二氏が和邦の跡を継ぐ与一左衛門家の後継であるということが分かった。別の版ではキクは和邦の娘との記述があり、和邦の娘キクと逢坂惠二が結婚、惠二が養子となったことが分かった。しかし、なぜ徳島出身の逢坂惠二と和邦が結びつくのか、そこでふと目にとまったのが娘キクの出身校「徳島県立高女」である。それならばその父、和邦も徳島県に関係があるのではないか、と考えた。
そうしたなか、インターネットの検索の中で見逃していた東洋大学の史料「南船北馬集(7)」(国民道徳普及会 大正2)のなかに和邦の名を見つけることができた。
大正2年2月21日徳島県板野郡撫養町(現:鳴門市)の講演会で、板野郡長鳥居和邦と会ったという記事である。
『板野郡史』(原著は大正15年発行 板野郡教育会編纂)P349に板野郡町として「在官三年就任年月日大正元年十一月 氏名 鳥居和邦 原籍 新潟県」と記されており、この人物が我々がみてきた和邦と同一人物であるのはほぼ間違いがない。和邦は徳島の地方役人となっていたのである。そして娘キクを徳島の高等女学校に通わせ、徳島で将来有望な若者を見つけ、養子として娘キクと娶せたと考えられる。
こうして再び職員録を調べると、すでに明治33年版に「名西郡役所 郡長七級五等 従七鳥居和邦」、明治33年には「名東郡役所 郡長七級五等 従七鳥居和邦」と台湾を離れるとともに、徳島へ移り、徳島市周辺で郡長を歴任していたことが分かった。
そして大正4年の板野郡長を最後に徳島を去ったと思われる
なお、大正期の徳島・鳴門ということで第一次世界大戦のドイツ人捕虜を収容し、鳴門の人々との交流につとめたとされる板東俘虜収容所との関係を調べたが、時期的にやや早く無関係であった。

それ以後の和邦

板野郡長を辞した和邦は満53歳である。そのころ、養子惠二はまだ京都帝国大学在学中である。和邦が新潟に戻ったのではないかと思われるが、資料的に裏付けることはできなかった。

和邦は、その幼少期に、戊辰戦争とその敗北とそれにかかわる大きな体験をした。そして、責任を負わされた。
父は戦闘に参加し、敗れただけでなく責任者の一人となる。若い伯父、妹のような存在の娘の父が全責任を負って切腹する。父も東京に送られる。そうしたなか、幼い自分が支えなければいけないという重責、こうしたことが十歳前後の和邦の肩に覆い被さっていた。
父は帰っては来たが、家督を自分に譲る。父が抗戦派であったことから公的な面での不利は否めない。秩禄処分によって収入の途もたたれ、父の新しい事業も失敗する。
和邦の少年時代はこのような者であった。十代後半和邦はやはり奨学金を受けて国内留学をしたと考える方が妥当だろう。そして活発化する民権運動など東京などで新しい空気に触れて、15年村上に帰ってきた。
そして民権運動に参加、その背景には賊軍とされことへの思いもあったであろう。他方で、鳥居家の当主として士族の融和を図るという気負いもあったであろう。民権運動は高田事件への弾圧もあって沈静化され、士族の運動も思ったほどの支持を得られず、旧来の支配層のもとでの村上本町の成立などで一段落がつく。かれにとって村上はどのような町であったのだろうか。
和邦は、村上を離れ新潟県官僚となる。そして弟たちが新潟に帰ってくると、和邦は明治初年以来の家と村上への責任感を軽減され、新潟・村上を離れ外の世界へと飛び出していく。あらたに植民地となった台湾はそれにふさわしい地と考えたのかもしれない。その後もしがらみの多い新潟をさけ、自分の力を試せる地として、徳島に職を求めたようにも思われる。

和邦は若くして鳥居与一左衛門家、村上藩士族といった重責を負わせれつづけた。「家」や「郷里」「旧身分」は明治の若者にとって大きなカベであったのかもしれない。民権運動や士族のための運動も成果は得られないなか、村上ではないが、村上を捨てた訳ではない新潟という都会に移り官僚となる。そして、代わって重責の担ってくれる弟たちの登場で、かれはあたらしい世界へ移り、新中間層=知識人という立場を担ってくこととなる。

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