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村上藩・鳥居与一左衛門和達のこと ~幕末・維新を生きたひとりの武士のはなし~
はじめに
鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
大学でのレポート作成において、村上藩の戊辰戦争について調べるうちに、村上藩の実権を握った老中鳥居三十郎和祚とともにその義弟・鳥居与一左衛門和達についての資料があつまってきたこともあり、まとめてみることにした。
新潟の小藩の武士が、幕末から戊辰戦争にかけて、どのように生きたのか、多少なりとも伝われば光栄である。
村上鳥居家
「鳥居三十郎伝(新版)」(以下「三十郎伝」と記す)によると、鳥居家の家系は次のように記される。
鳥居家の先祖は、三河国に住んだ武家で、住地の名をとり、渡里伝内と言った。その子孫に、新田義貞に属した亘新左衛門忠景があり、慶長五年伏見城を守った鳥居元忠も、その一族である。 村上藩の鳥居家は、五代藩主弌信から六代七代に仕えた鳥居和篤からはじまって、明治に至るまで、累代内藤家の家老職をつとめた。別に鳥居杢左衛門、鳥居与一左衛門家があり、合わせて鳥居三家という。
このように、鳥居家は、本家(内蔵助家)、与一左衛門家(中鳥居)、杢左衛門家(末鳥居)の三家に分かれ、本家は代々家老職を世襲してきた。本家は、内藤家の門閥の中では、内藤家初代の流れを引く島田家(遠州・島田の出身)につぐ家柄であり、「村上郷土史」に記された禄高では、門閥家老脇田家850石につぎ、他の門閥家老家江坂衛守・久永惣右衛門・内藤鍠吉郎・島田直枝とともに700石である。
中鳥居・与一左衛門家
与一左衛門家は内藤家の家臣となった鳥居喜兵衛の子内蔵助和忠の次男与一左衛門和俊を祖とする分家であり、中鳥居とよばれた。寛文2年には150石、明暦2年には200石、その子与一左衛門和堅は宝永7年に番頭250石となる。その後、男系の後継者に恵まれず、和通、与市左衛門(諱・不詳)と娘に養子をとる形で家系をつないだが、その子和市のあとの友之助和道、その次の又男はいずれも鳥居杢兵衛家から養子を得ている。「村上市史資料編2」所収の系譜には時期が書いていなく、いつの頃のことかよく分からないが、又男は、文政年間の人物と考えられ、和達の父の世代と考えられる。
なお、「三十郎伝」によると、末鳥居・杢左衛門家は17世紀末の元禄(1688~1704)、あるいはその前の延宝・天和・貞享(1670~87)のころ、和俊の子どもの和衛が分家してできた家であり、幕末では家老に次ぐ重役である番頭をつとめ、明治初期には家老以外の家柄である給人のなかではもっとも多い350石を得ている。
与一左衛門家は、幕末期には町奉行を世襲している。村上城下、町人地区にわりこむ位置に中小藩士が多く住んでいた飯野町のなか、奉行所の役宅を兼ねた広い屋敷を持っていた。禄高は230石で給人のなかでは12位、全体では18位という上級家臣である。(「郡奉行をしていた」と伝えられているが「町奉行」のほうが正しいと思われる。)
しかし、この中鳥居家はよくよく跡継ぎに恵まれなかったと見えて、河野常吉編著『北海道史人名事彙』によると和達自体も「中根勘右夷(ママ) 門の三男」で、与一左衛門家の養子となり230石を知行したとある。ただこの事典については典拠がまったく示されていないため、信憑性には問題がある。ただし戸籍などこれまで調べてきたこととは矛盾がなく、ある程度の信憑性はあるようにも思われる。
鳥居喜代之助の地震体験
さきの『事彙』によると、和達の生まれは天保4年8月(1933年9~10月)いうことになり、以前の稿でこどもたちの生年から推測した年とほぼ一致する。
「村上市史」において和達の姿が最初に現れるのは、安政2(1855)年の江戸においてである。江戸屋敷には、おもに定府または定詰めとよばれる先祖以来の江戸在住の家臣たちがいたが、これに加え、国元から、藩の重職につく教育をかねて、若干の家臣が派遣されていた。当時、鳥居喜代之助と呼ばれたのちの町奉行与一左衛門和達もこうした江戸一回詰めとして上京しており、幕府老中職にある内藤信親の近習をしていた。
したがって、幕政の動きを藩主信親を通しても身近に感じる地位にいたことになる。
さて、安政2年10月2日、四つ時すぎ、大地震が発生、内藤家上屋敷で主君のそばで宿直をしていた喜代之助は、とっさに庭に飛び出して主君の寝所に向かおうとしたが、落ちてきた瓦にあたり気絶、その後、気がついてからは、主君と奥方を救出したとの手紙を父に送っている。
鳥居存九郎の蝦夷地・樺太探検
地震の際の機敏な対応が、信親の目にとまったのか、鳥居喜代之助改め鳥居存九郎は、2年後の安政4(1857)、大役を命じられる。この時期、ロシアとの間で日露和親条約が締結されていたが、同条約では、樺太(サハリン)はロシアと雑居地と定められており、幕府においても北蝦夷と呼ばれた樺太島ならびに未知の部分が多い南蝦夷島(北海道)の状況確認が重要課題となっていた。この探検に鳥居存九郎、つまり和達らが命じられたのである。このときの紀行文が『北溟紀行』(以下『紀行』)であり、函館県が作成したと思われる写本が北海道文書館などに保管されている。
この年、幕府は松浦武四郎を向山源太夫の配下と言う形でこの地に派遣、老中たちも自らの藩士を次々にこの方面に派遣、調査させた。さらに肥前・佐賀藩も、のちに開拓使で札幌の原型をつくったことで現在も慕われる・佐賀の乱で敗死した島義勇らを派遣した。越後出雲崎の名主で探検家の鳥井権之助などもこの地の探査に向かうなど、北海道・樺太探検ブームとさえいえるような状態となった。こうした中、老中をしていた藩主信親が派遣した藩士が、のちの三条奉行となる水谷栄之丞(孫平治)、医師の窪田潜龍と存九郎であった。
3人は安政4年3月22日蝦夷派遣の命を受け、4月13日村上を出発、5月6日には青森を出たものの津軽海峡で暴風に遭い「転顛して起坐不能、衆みな色を失い、嘔吐頻発す」といった苦難の後、5月8日に函館に到着し、9日箱館奉行村垣淡路守範正(万延元年遣米使節副使として渡米する)に面会した。『村垣淡路守日記』5月9日に「備前守(※長岡藩・牧野忠雅)殿家来森一馬、高井左藤太、紀伊守(※村上藩・内藤信親)殿家来鳥居存九郎、水谷栄之丞、窪田潜龍、昨日着ニ而来ル」との記事があり、5月11日には、「備前守殿紀伊守殿家来、明後日夷地江出立ニ付、先触相渡、何れも松前通り、西蝦夷地、宗谷より北蝦夷渡海、返り北海岸より東通り、時宜ニ寄、エトロフ、クナシリ渡海之積り」との記事がある。
なお『紀行』には旅行の途上でこのときの長岡藩士らと出会い、行動を共にしたことが記されている。
存九郎らは当初徒歩による探索をめざしたが、陸行をつよく主張した水谷が一行と離れて行動し遭難しかけたことから、それ以後の行動は舟行が中心となる。そして閏5月13日宗谷に到着。翌朝船便で樺太に向かう。「北行すること数里、四顧縹渺として波浪天を呑む。方に其の舟に升りて波上に在れば、海に有るを覚えず」と記すような荒波の宗谷海峡を渡り、樺太に到着する。その後、西海岸を北上、29日には北緯五十度を超え、ポロコタンについている。この地をほぼ目的地と考えていたか、彼らは引き返していく。帰路の船も荒れ、「船動揺欹側し、殆ど将に覆没せんとすること数次」という状態であったという。さらに酒・塩・梅干しなどの食料もなくなり、残ったものは味噌桶と米苞だけという。6月23日樺太最南端の白主に到着、風待ちをしたのか、ようやく7月3日船出、宗谷海峡はやはり時化で、宗谷入港寸前、強風にあおられ船は座礁、海に投げ出されたが、かろうじてアイヌの人々に助けられ、夜半に宗谷に着く。
彼らの旅はつづく。5日には宗谷からオホーツク海に沿って東に向かい、28日には南東部の厚岸に、今度は南海岸に沿ってすすみ、8月20日箱館に到着、箱館奉行に会って礼を述べたのち、9月13日に村上に帰着した。
この経験が、存九郎(和達)にどのような影響を与えたのか、興味のあるところである。なお、この探検に参加した存九郎・水谷栄之丞の両名とも、戊辰戦争期には抗戦派の中心となる。他方、戊辰戦争にさいし新政府軍への帰順を強く説いたなかに藩医・儒者の窪田玄仲がいる。この人物が潜龍である可能性は高い。同じ体験であってもちがう方向にすすんだようである。
和達と三十郎
その後、和達は家督を継ぐ。さらに本鳥居家で家老であった内蔵助和利の三女ちんと結婚する。内蔵助の跡を継ぐのが、村上武士の面目を守りつつ戦火から村上の町を守ったと伝えられ、小説にも描かれた鳥居三十郎和祚(天保12(1841)年生まれ)である。和達は三十郎の年上の義弟である。
万延元(1860)年には長男和邦が、元治元(1864)年には次男録三郎が、慶応3(1867)年には四男鍗次郎が生まれている。(三男については確認できなかった。夭折した可能性が高い)。なお、三十郎が天保12(1841)年生まれであるので、ちんはそれ以降の生まれである。
和達と三十郎は家柄には差があったものの、数歳年上の兄のような存在であり、恭順派の親・姻族に囲まれるなか、抗戦派の和達は頼りになる存在であったとも考えられる。のちに三十郎の妻子が与一左衛門家に住んでいた事からも三十郎と和達の関係は深く、三十郎の思想形成においても和達の影響を考えることができる。
町奉行・与一左衛門和達
家督を継いだ和達は正式に与一左衛門を襲名し、町奉行となる。しかし「年行事所日記」などでみると、実際の城下の町政全般は伊与部助次郎ら二名の大年寄(藩士格)が中心となって監督し、その下で各町の年寄一名と組頭が運営していたので、大岡越前や遠山の金さんに見られるような多忙でエキサイティングなものではなかったように思える。
村上市史編纂の中心であった大場喜代司氏がかかれたエッセイに和達にふれた面白い一文があったのでその一部を紹介したい。主人公は番頭・中嶋源太郎である。大場氏が市史編纂のなかで手に入れられた中嶋の日記などを脚色して書かれたものと考えられる。
戊辰戦争の2年前、京都では混乱が高まっていた慶応二年、村上ではのどかな正月を迎えていた。しかしここに出てくる登場人物は、二年後、さまざまな運命をたどることになる。なお、中嶋源太夫は家老に次ぐ役職である番頭をつとめていた人物である。
慶応2年の正月2日は晴天だった。今年の暦であれば2月4日立春にあたる。まさに新春と呼ぶにふさわしい天気といえる。(略)4日も晴天だった。(略)
午後からはあまり良い天気なので下男の斧次に投網を持たせ、瀬波から岩ヶ崎、大月へと散歩に出かける。土手にはまったく雪はなく、まさに春の陽気である。
瀬波の潟では家中の嶋田丹治らが、うぐい捕りに興じていた。岩ヶ崎へ行くと、船小屋あたりに柴田茂左衛門や鳥居存九郎、水谷孫平治、重野兵馬、中尾専之助、牧大助が莚を敷き日向ぼっこをしていた。 (略)これが、中嶋源太夫のまことにのどかな正月であった。武家社会が大音響をたてて崩壊する明治維新の2年前のことである。
「昔のことせ! ~村上むかし語り~ 村上の戦国・江戸・明治・昭和ものがたり」(村上市観光協会公式サイトhttp://www.sake3.com/contents6371.html)
和達は存九郎とよばれている。与一左衛門を襲名していなかったとも考えられるが、公的な文書でないため、一般には存九郎で呼ばれていたとおもわれる。
瀬波海岸で、のんびりと正月を楽しんでいた人々は、二年後敵対的な関係となる。うぐい捕りに興じていた嶋田丹治の弟、鐵弥は江坂與兵衞殺害事件の犯人の遺書を残し自害、丹治も別の事件で新発田藩預けとなる。しかし殺害事件にかかわった可能性が高い。日向ぼっこをしていた6人のうち、柴田茂左衛門や鳥居存九郎(和達)、水谷孫平治の3人はいずれも抗戦派の首謀者として指名された16人に含まれ、探検仲間の存九郎と水谷は東京に送られて取り調べを受ける。
他方、重野兵馬は、戦争後の明治二年の人事配置で参政(旧大目付)という藩の重役に就いている。中尾専之助は不明であるが明治二年の民政執事(旧奉行)に中尾守之助という人物が見える。
そして、非常に興味深いのが牧大助の存在である。牧は戊辰戦争において、羽越国境への新政府軍の先導をし、戦死した人物である。その際、陣地にいた抗戦派村上藩兵が「大助が来たぞ。撃て!撃て!」として射殺したとも伝えられる(中島欽也「武士道残照」)抗戦派にとっては、気に入らない帰順派の中心と思わせる人物である。ともあれ、他の5人が百石取り以上の給人という上級藩士なのに比べ、牧は四人扶持中小姓という下級武士であり、40歳前後と年齢も高い。牧がこの場にいたこと、それを中嶋が記録したこと自体、すでに重要な人物であったことをうかがわせる。
この六人が集っていた。グループだったのか、偶然だったのか、どのような話がされたのかなど、想像するだけでも興味深い。
緊張の高まり~東奔西走する和達
慶応4(1868)年正月に開始された戊辰戦争において、和達は、2月2日から、新潟で会津藩の呼びかけで開催された越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」「酒屋会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加する。藩の運命にもかかわる会議に和達らが参加していることをみると、かなりの藩政の中核に近いところにいたことがわかる。
しかし、村上藩も揺れていた。2月18日、新政府側から朝廷への帰順を求める使者が村上にやってくる。「安良町年行事所日記」のなかに、出迎えの列の中に麻の上下で重臣と共にかれらを出迎えている和達の姿を見ることができる。そして村上藩は家老脇田蔵人の名で「天朝を奉戴し違背あるようなことはゆめゆめいたさぬ」と返答する。
ところが、おなじ「安良町年行事所日記」の2月24日の項には、与一左衛門が書記役木村主殿とともに庄内藩鶴岡に出発するので、安良町に道路の整備などを命じらたとの記事がある。なお、同日、石井左右兵衛、平井伴右衞門も会津に向かう。新政府軍からの書状を受け、あわただしく会津藩・庄内藩と打ち合わせをしている。かれらが連絡調整にこの二藩に向かったと思われる。この点からも和達の藩内での位置が推測しうる。
なお2月5日、和達の義兄・三十郎は藩主親子の帰還を求めるために江戸に向かい、2月12日には家老脇田蔵人が京都へ、26日には久永惣右衛門が江戸に向かうなど、情報収集と藩主の意向確認のため、重役たちが東奔西走していたことが分かる。
そして三十郎の説得の甲斐あって、藩主内藤信民が村上に到着、大歓迎の行事が行われる。閏4月12日には父危篤の報を受けて三十郎も帰国、16日には江坂與兵衞も帰国する。江坂は信親(信思)の支持のもと、藩(軍)政の大改革を進めたため、保守的な藩士の強い反発を受け失脚した人物である。
戊辰戦争のなか、抗戦派として活動
藩主信民が帰国したにもかかわらず、抗戦・帰順の対立は収まらなかった。さらに奥羽諸藩と新政府との対立が強まり、閏4月22日には会津のみならず、仙台・庄内・米沢など大藩でも新政府と戦う方針がほぼ固まり、村上藩など越後諸国への圧力も増し、新政府に恭順すれば、攻撃を受けかねない事態も生じてきた。こうしたなか、閏四月下旬、村上藩も会津らと結び、奥羽越列藩同盟に参加することを藩内に表明したと思われる。
そして5月3日奥羽列藩同盟が正式に発足、6日には村上なども参加し奥羽越列藩同盟へと発展、5月8日には村上藩も出兵する。さらに6月8日、米沢藩の依頼をうけ、あらたな藩兵の派遣が決まると、与一左衛門も士官の一人として出兵する。(「鳥居三十郎自筆陣中日誌」)
しかし藩内の対立は続く。6月10日、帰順派の中心で三十郎の義父でもある家老久永惣右衛門が戦地・与板から帰着すると、三十郎はその登城の禁止し蟄居と隠居を命じる。そして25日には出頭を命じたが、惣右衛門が応じなかったため、厳しい謹慎を命じる。
7月、戦局が緊迫化し、場内でも緊張が高まる中、藩主信民が急死する。その死については、自殺(縊死)という説と病死という二つの説がある。村上市史は自殺、新潟県史は病死説を採っている。7月下旬、長岡藩の長岡城回復でいったん立ち直りかけた戦局も、新潟港奪取と長岡城再占領という二つの事態を経て一挙に新政府側に傾き、村上藩は越後内で取り残される。
7月26日、新政府軍は期限付きの降伏勧告を送るが、藩内の混乱が高まる中、藩としての正式な返書は返せない事態となる。さらに29日、庄内藩士らが援助と称して村上城に入城、演習をしたことで、恭順派はのみならず多くの藩士が協力を拒否したため、藩内の不統一はいっそうすすんだ。
8月11日、新政府軍の進攻に対し、恭順派の久永惣右衛門や鳥居杢兵衛らをはじめ多くの藩士が降伏した。それにたいし、城内で発生した火災とともに三十郎ら抗戦派は羽越国境へと去り、庄内藩との一体化して新政府軍との戦いを進めた。この中に和達もいたとも考えられるが、村上には戻れないまま会津・米沢を経由し、羽越国境の三十郎らと合流した可能性もある。
羽越国境で与一左衛門がどのような立場であったのかこれも記録に残っていない。三十郎の九月一日の記録に、部隊編成が記されており、鼠ヶ関隊長の中に「鳥居外守」という人物名がある。当初は和達の別名かと考えたが、六月九日、和達らが出陣した日に「番士鳥居外守が三条表より到着」という記事があり、九月十八日にも「物頭役鳥居外守」との記事があるので、別人と考えるべきであろう。しかし、幕末の藩士一覧には三家以外の鳥居家の記載はなく、隊長をしている以上、一定の家柄であること、杢左衛門家は帰順派、三十郎家の系図にも該当者は見当たらないため、与一左衛門家(中鳥居)の一族である可能性もある。
抗戦派の謹慎処分と鳥居三十郎の処刑
9月会津藩の降伏につづいて、9月末には庄内藩も降伏、三十郎ら抗戦派村上藩士らも新政府軍に降伏する。10月には抗戦派の藩士たちが続々と村上へ帰還、いくつかの寺に分かれて謹慎した。
10月22日には、与一左衛門は謹慎中の三十郎を訪問、「内藤鍠吉郎とともに新発田まで出頭せよ」との新政府の連絡を伝えている。与一左衛門は謹慎とはならずに帰順派中心の藩執行部との対応にあたっていたようにも見える。しかし内藤は病気を口実にこれを拒み、三十郎が水谷孫平治(与一左衛門と樺太へいった人物)とともに、23日新発田へ向う。そこに27日まで滞まり内藤家存続のための嘆願書を渡そうともしたが拒絶されている。
三十郎が村上へ帰還した直後の10月28日、新政府は三十郎ら抗戦派3家老と与一左衛門(和達)ら重臣13人計16名を取り調べの対象とすることを決定、11月3日に伝達、以後16人は最初は薩摩藩に、つづいて金革隊という新発田の民兵隊の監督下に置かれ、久永と島田直枝の指示を受けるように命じられた。
そして首謀者を差し出すようにとの政府の命令がでると、三十郎がその罪を引き受ける。三十郎は東京に喚問される。そして政府は三十郎を村上において「斬刑」に処すこと命じる。三十郎は6月3日村上に戻り、25日には切腹という形式で処刑された。
江坂與兵衞殺害と施餓鬼法要
この間、6月20日、帰順派の中心人物江坂與兵衞が島田鐵弥ら数名のものに殺害される事件が発生、謹慎中の15名のなかに與兵衞殺害を命じたものがいるとの疑惑も広がった。
さらに、盂蘭盆に、三十郎をはじめとする戊辰戦争死没者のための大施餓鬼供養がおこなわれ、藩士一同が麻の裃で参列した。
政府はこうした事態を重視し、藩政をになっていた江坂衛守と久永惣右衛門を東京に召喚、與兵衞殺害事件と施餓鬼法要についての調査・報告を厳しく命じた。さらに、施餓鬼供養を計画をした疑いで、11月和達や近藤幸次郎ら謹慎中の5人が東京に出頭させられ、和歌山藩邸に預け、取り調べることとなった。
翌明治3(1870)年1月19日、島田鐵弥が「與兵衞殺害事件は自分が単独で犯行に及んだ」との遺書を残して自殺する、藩当局は次のような報告を提出した。①施餓鬼供養は島田鐵弥の兄丹治と宝田五右エ門が勝手に行ったことである、②藩士が麻の裃で参詣したなどの証拠はない。③與兵衞殺害事件は島田鐵弥の単独犯行で近藤幸次郎ら謹慎中のものに扇動されたとの事実はない。(あえて名をあげていることから、とくに疑惑で見られていたのは近藤であると考えられる。)その他、新政府の側で戦死した牧大助らには「見舞金」を、戦闘中に新政府に斬られた浅井土左衛門家は家督断絶とする。
政府は、この報告を了承し、島田丹治と宝田五右エ門の2名を新発田藩預けとして責任者の処罰は行わない、村上で謹慎中の脇田蔵人ら10名の謹慎を解除した。
他方、東京に送られていた与一左衛門(和達)5人は謹慎中であるにもかかわらず外出し狩猟を行っていたことが判明、不行き届きとして加納藩に移送、さらに謹慎をつづけさせられる。
その後の和達
河野常吉編著『北海道史人名事彙』によると、与一左衛門(和達)が謹慎を解除され、村上に戻ったのは明治4年3月と記される。
その後の和達であるが、筆者が和達の孫にあたるテルヱから聞いた話によると、和達は秩禄処分などによって得た資金で「茶屋」を開いたが、知り合いのものたちに無償で飲み食いをさせるなど経営観念に乏しかったためあっさりと失敗、没落したとのことである。もしそうだとすれば、典型的な士族の商法である。
和達の戸籍上の名は淇松である。録三郎の戸籍には、亡父淇松と記されている。録三郎の父親の名前が、和達でも与一左衛門でもなく、淇松という見慣れない名前であるのか、あわせて、兄が和邦という諱であるのにたいし、なぜ曾祖父が録三郎、弟が鍗次郎という名前なのか、その名前の付け方にも疑問があった。
淇松と和達が同一人物か、疑問に思ったが、録三郎の前戸籍が兄和邦を戸主とするものであり、和邦の父が和達であるが明らかであることから、淇松と和達は同一人物と断定した。『事彙』も「名は和達、淇松と号す」と記されていた。
なぜ淇松という号を戸籍名として用いたのか。この戸籍の元となった戸籍は明治4(1971)に作成が命じられ、翌明治5(1972)年に編製された壬申戸籍である。新政府に逆らった首謀者の一人であり、施餓鬼事件で東京に喚問され、さらに謹慎中の問題行動をおこしさらに謹慎を命じられた和達が当主でありつづけたことは考えにくい。明治4年ごろ、村上帰還前後に隠居届けを出し、家督を和邦に譲り、戸主を和邦とし、自らは隠居・淇松と名乗ったと考えられる。
壬申戸籍編製時の当主は12歳の和邦である。戸主として名を届ける際、与一左衛門でとどけることも可能であったが、父の隠居のいきさつから諱の「和邦」を用いた。父は隠居名「淇松」を、弟たちはまだ元服前であったので、幼名の「録三郎」、「鍗次郎」を用いたと考えることができる。
この時期、まだ戸籍という考え方が定着しておらず、簡単に改名できると考えたかもしれない。しかし、あらたな戸籍法では戸籍名を変更することは容易でなく、さらにその必要も薄れていたため、それぞれの名前が戸籍名として固定化されていったと考えたい。
「鳥居三十郎伝(旧版)」のなかに、和達が三十郎を偲んで詠んだ歌がのこされている。
述懐 時鳥雲井はるかにのほる名もきく袖ぬらす夜半の五月雨 鳥居和達氏、通称与一左衛門分家にして先考(※三十郎)の妹婿、和邦の父なり |
『事彙』によると、鳥居淇松こと鳥居与一左衛門和達が死亡したのは明治10年5月と記されている。さきにみたように、この文献自体、信憑性には問題があるが否定すべき史料もない。
※この文章は2016年に書いた文章を、2019年大幅に改訂したものである。