植民地からみた日本、そして東アジアの近代

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植民地からみた日本、そして東アジアの近代

~橋谷弘『帝国日本と植民地都市』を手がかりに~

帝国日本が支配したアジアの都市

本書は「植民地帝国日本が支配したアジア都市の具体的姿を描」くことを通して、日本の植民地支配の特徴と問題点を浮き彫りにして、「今日の日本とアジアの人々の歴史認識のギャップを埋め」さらに「日本も含めたアジア諸国が近代になって直面した共通する困難な問題、つまり伝統と近代の葛藤、東洋と西洋の軋轢などの問題を考えていく手がかり」を得ようとした意欲作である
植民地都市の地図の図版や植民地期の写真、代表的な建築物など図版も多く示され、本書を片手にかつての植民都市を探索できるガイドブックとしても用いることが出来るだろう。
本書は
プロローグでかつての植民地都市の現状とアジアにおける近代化の意味を問う。
つづけて
第一部「植民地都市の形成」では、日本の植民地と特徴とその下で発展した植民地都市を三つの類型に分類し分析し、いずれの類型も日本人は現地住民とは離れた居住地をもつ二重構造を示していたことをしめす。
第二部「支配の構図」では日本帝国主義下の植民地都市の特徴を
 ①都市化のプロセス
 ②住民構成
 ③シンボルとしての「神社と遊郭」
という観点から論じる。
第三部「植民地都市と『近代』」で、建築物や都市計画を通して東アジアの近代を問い、「植民地都市」と現在との断絶を示す。
「無国籍的都市空間の誕生」と題したエピローグで
アジアにとっての近代化とは西洋化と同義であり、そこに伝統との継承性や融和を持ち込むことは至難の業だった」としるす。

「過剰都市化」の背景説明は?

本書第一部では、日本の植民地は
 ①本国との距離が近い
 ②稲作農業や工業など本国に似た経済構造がつくられる
 ③多数の日本人が移住した
という特徴を持つ。
その結果、植民地都市は
 ①規模の大きさは際立っており、
 ②急速な人口増加をみ、
 ③その人口増加は多数の移民による、
とまとめられる。
他国の植民地との比較によるこうした特徴付けは非常に有益である。
そして帝国日本の植民地は「首位都市への集中」「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」という第二次大戦後の途上国の都市と同様の特徴がみられるという。しかし途上国では首位都市が圧倒的な規模を誇るのに対し、日本の植民地は「首位都市への集中」も見られるものの、「地方都市の発展」も見られたと指摘する。
その理由として、日本による植民地化が日本国内の工業化と同様にすすんだため、本国よりも有利な条件がある場合には、日本資本は植民地での工業化を選んだことを指摘する。
それは原材料の供給を主要な役割とする欧米植民地とは対称的である。とくに、本国で重化学工業化が進む一九三〇年代の紡織業、戦時統制経済の進行にかかわる「兵站基地」化でこうした動きが進んだという指摘は興味ある指摘である。
「過剰都市化」の背景には「産米増殖計画」(朝鮮のみならず台湾でも同様の動きがあった)などによって土地を喪失した農民の流出という農村におけるプッシュ要因の強さが指摘され、「受け入れる都市側で、工業部門などの労働力需要が不十分なため、流出した膨大な農村人口は都市非公式部門の雑業層として滞留せざるを得なかった」として「都市非公式部門の存在」をも説明する。
著者はこのように植民地都市の受け入れ側の弱さを指摘するが、こうした指摘は疑問である。こうした事態は資本主義形成期に一般的な出来事であるとおもわれる。
この点は後ほど検討したい。

内地の都市の構造が持ち込まれた

第二部の「植民地都市の住民」では、日本からの大量の移民の存在がその植民地の特徴を生み出したことを記している。
以下、引用する。

 日本の植民地は本国と距離的に近く、自然条件・文化・社会構造など本国との同質性が強かった。
したがって植民地に大量の日本人が移住し、都市人口の中で日本人が高い比重を占めただけでなく、農村にもかなりの日本(ママ)が居住していた。そして都市在住者には植民地支配人(官吏・軍人)だけでなく商工業や無職のものも多く、女子の比率も高かった。その意味では、本国の都市と同じような日本人社会を形成していた点が日本の植民地の特徴だといえる。(P69) 

 示唆に満ちた指摘である。「本国との同質性」のゆえに、日本社会はそのまま持ち込まれやすく、現地の人々が作り出す空間とは異質の断絶された空間が形成された。(「同質性」という表現には検討の余地がある。この点も再度検討する)
公務員や軍人などが植民社会の上層を占める欧米植民地とは異なり、植民者のなかには下層階級も多く、そのありさまは在朝の日本人のみならず朝鮮人からも「卑しみ」「忌避」され「侮蔑」されるような状態であった。
植民者は、その距離の近さからくる移住の気楽さ、「同質性」のため、さまざまな職業・階層の人間が植民地に流れ込み、日本国内の社会構造がもちこまれた。そこには、娼妓といった性奴隷も含まれていた。(さらには植民地では、植民者としての優越的地位を得られる、低い地位に置かれている自分たちのさらに低い人々がいるとの思いが彼らを引き寄せたとも考えられる。)
「神社と遊郭」の節では、日本人が植民地に遊郭を持ち込んだことも記される。植民地支配のシンボルとして描かれがちな神社も「第一の役割は日本人社会の精神的な統合の核となること」だった。
こうして日本社会は一つのパッケージとして植民地都市に導入され、現地住民とは関わりなしに生きていくことも可能な異質の断絶された空間をつくりだした。

評者は、欧米の植民地都市の植民者が支配層に偏在していたことと異なり、日本の植民地都市においては内地の都市構造が下層社会をもふくみこんだ形で持ち込まれたと理解したい。
こうした日本人社会のあり方が第一部で示された植民地都市の二重構造の正体であった。植民地体験者のなかに、現地の人々との交流の記憶を持たないという人が多いのもこうした構造のためであろう。
しかし、ここが植民地であり、植民者が「一旗あげる」ことをめざしていた以上、とくに下層階級の日本人は支配者=日本人であることの特権を利用しようするものも多かったと考えられる。こうしたことは総督府の意図を超えて朝鮮民衆との摩擦を強めることになったと思われる。

なお、下層民が植民の中心となるという構図はフィリピンなどへの南方移民などにも似た傾向が見られる。

1909年から1919年までの移住者は、「娼婦『からゆきさん』、道路工夫、農夫、大工、木挽・杣職、漁民、商人」であり、マニラの日本人外交官からみても「日本の移民としてふさわしい存在ではなかった」とされる、そのようすは「なかには賭博酒におぼれるものもおり」「半裸体であった」など「フィリピン人の尊敬の対象とはならなかった」(早瀬晋三「南方『移民』と『南進』」『近代日本と植民地5』1993)

こうした記述は本書の記述と共通する点を持ち、「南方移民」と朝鮮への植民者の階層的同一性を示唆している。

なぜ純粋に欧米風の建築をつくったのか?

第三部は建築物・建築家の考え方、都市計画を通して、東アジアにおける近代化を考える内容となっている。象徴的な文章を引用する。
植民地期朝鮮の代表的な建築家が総督府とも関係をもちつつ、日本風の洋風建築ではなく、「純粋な洋風建築」をめざしたことにかかわっての記述である。

この時期の朝鮮人の思想や行動は、単純に親日・反日という軸だけではとらえられない多面性を持っていた。それをいっそう複雑にしたのが、近代化への対応の姿勢だった。近代という時代の産物として現れた科学技術や政治制度などのなかには、人類にとって普遍的にプラスの価値を持つものが少なくない。したがって、植民地という状況の下でも、こうした近代化のプラス面への志向を否定することは難しい(中略) 
 しかし同時に、アジア社会にとって、近代化は西洋化を意味していた。その結果、当然ながら伝統文化と近代文化の対立と葛藤が生まれ、それに悩まされることとなった。さらにその西洋化=近代化が、侵略者日本を経由して導入されたという、二重の意味で否定的な側面を持っていた。(P140~141)

 朝鮮において西洋文明は日本を通してもちこまれる。
そのため、植民地において近代化=文明化を図ろうとすれば、支配者である「日本」から学ばざるを得ない側面を持つ。しかし、それは日本の優越性を認めるかの如き「屈辱」の側面を持つ。「日本」の支配を否定し、ともすれば前近代的・非合理主義的で身分制的文化を民族的として「抵抗の手段」とする側からすれば「親日」「売国」とみなされうる。
もし近代=欧米化も必要であり民族の未来もその方向に見いだすならばどうすべきなのか。
そこでこの建築家たちが出した回答が日本化された西洋建築でなく、完全な西洋建築にシフトするというものであった。「植民地知識人と近代」という問いへの一つの回答にもみえ、植民地における近代=文明の受容について非常に興味深いエピソードである。

「東アジアの近代」と日本

評者にとって、ここ数年来、頭にあるのは、東アジアの「近代化」そして「植民地の近代」ということについてトータルにとらえたい、日本の近代化を中心におきながら植民地における近代の多義性について考えていきたいということである。
以下、こうした評者の興味を中心に本書の内容にふれながら記していきたい。

東アジアにおける近代は、19世紀以降、華夷秩序のなかにあった東アジアの中華帝国という秩序が、欧米列強がおしすすめる「世界=経済」の枠内に組み込まれ、変容を余儀なくされた過程としてとらえることができる。
「世界=経済」への包摂は東アジアの諸民族の間に強い屈辱感とストレスを生み出す一方、未解決のままになっている前近代的で抑圧的なシステムや古い価値観などの矛盾を自覚させる。そのなかから「近代化」をすすめることが社会の矛盾の解決につながるとの考えも生じた。 

こうしたなか日本はいちはやく欧米列強による近代化=文明化を受容する。「屈辱感」をバネに欧米近代文明を導入し、欧米的な近代国家を志向、「富国強兵」政策をすすめる。
しかしそれは「万世一系の天皇」という前近代的で絶対的な権威をつくり出しつつ、前面に押し出すことで可能となった。グローバルスタンダードとしての主権国家体制への参入ではあったが、同時に華夷秩序を日本的にアレンジした「小中華」思想をも混じえた独特の近代化の性格を持たざるを得なかった。

 こうしたものではあったが、「近代化」が進むなかで「遅れたアジア、進んだ日本」という自己認識が芽生え、日本版「小中華」思想が真実であるかのように見え始める。日本こそが「欧米化」「文明化」をすすめる近代国家のモデルであるとして、他の東アジア諸民族への優越感が生まれ、アジアのリーダーとして欧米勢力と対抗してアジアの文明化を領導することで遅れたアジア諸民族を救うのだという意識もうみだす。

「近代化=日本接近」と「民族主義=前近代的価値の温存」の二者択一に

他方、日本のようなドラスティックな改革がなされなかった民族、とくに朝鮮では厳しい対立が生じた。
旧来の体制の問題性を自覚し「世界=経済」に対応した変革を求める知識人らと、旧来の権力・秩序の維持を第一とし近代化=欧米化に否定的であったり表面的な「近代化」にとどめようとの勢力との間の対立である。

金弘集(キム・ホンジプ、1842~1896)日清戦争後、屈辱に耐えて信念を持って開化政策をすすめたが、民衆の反発を買い、殺害された。

前者が近代化のモデル・日本に接近すると、後者は警戒感をもち反発する。日本の接近も近代化もいずれも自らの権力基盤を危うくする可能性を持つからである。
対立が激化し、両者の衝突がおこるなかで、近代的改革を進めることは日本の影響力を強め民族を危機に落としいれる、旧秩序や体制を温存することが「民族的」と見え始める
近代化は日本(・ロシア)への接近、民族の維持は前近代的制度や慣習の温存、という不幸な二者択一へと追い込まれていく。朝鮮の近代化こそ朝鮮のあるべき道であると考え、日本への協力も甘受して断髪などの前近代的風習の改革を図ったが、反対する民衆に殺害された金弘集の悲劇はこうしたなかで生じた。

「植民地化政策」のなかの「近代化」

 こうした事態は、日本による朝鮮植民地化によってあらたな段階を迎える。
最も大きな変化は、近代化の担い手が日本人=朝鮮総督府に変わったことである。これにより総督府が推し進める諸政策はすべて日本帝国主義の狡知とみなされ、先の二者択一はさらにはっきりしてくる。しかし日本がすすめる近代化=欧米・文明化の中には、たしかに朝鮮の「遅れ」を克服するという性格も含んでいた。
朝鮮総督府は、日本の植民地経営を円滑に進める目的(あわせて朝鮮に「文明」をもたらすという主観的な「善意」)から、旧来の土地所有関係を近代的土地所有権に改める「土地調査事業」など「近代」的「合理」的諸改革に着手する。

 日本の歴史学界では朝鮮植民地への謝罪意識と日本帝国主義批判から、韓国では日本の植民地支配への怒りから、「土地調査事業」などの改革は植民地統治の負の側面として見なしてきた。たしかに政策実施の各段階では日本と植民者に有利な運用がなされたし、実施に際しては軍隊の暴力にも依存していた。そもそも現地の事情を無視した強要であったのであるから、こうした評価も妥当である。
しかし近代的土地所有の確立という方向性は歴史の流れに沿ったものであり、朝鮮の近代化を結果的に促進するものであったことも確かである。日本帝国主義の苛政として断罪して終わってよいものではない。

資本主義形成期の諸矛盾と日本の「近代」

日本統治下、朝鮮半島においても資本主義化が進行する。
 教科書的な叙述をすれば、先進国・途上国をとわず、資本主義形成期には封建的農民身分の解体がすすめられ、農民の多くは土地を失い、流動化し、大量の無産階級(プロレタリアート)が生み出される。
資本主義形成期という未成熟な発展段階においてこうした人口を吸収することは不可能であり、流動化された人口は一方では農村に滞留して半失業状態となり、他方では都市などの下層身分・雑業層を形成する。こうした安価な労働力の存在が産業革命の動力となる。

 これを日本の「近代化」にあてはめてみる。明治初年の「地租改正」は村内にセーフティーネットを張り巡らした「百姓成立」を第一と考える前近代的な農村秩序を解体し、土地私有が法的に確定された。そして明治10年代の松方デフレ期にその矛盾が爆発し農民層の解体が一挙に進む。
これにたいする農民側の反抗が、明治0年代の地租改正反対一揆などの農民蜂起であり、10年代の秩父事件を頂点とする困民党事件(激化事件)である。
「文明開化」にかかわる欧米化の強要も社会の緊張を高め、士族反乱や民衆暴動を引き起こす。

 このように日本においても、「近代化」や「文明化」は旧来の秩序や体制のなかで生きていた多くの人々の生活と生き方を直撃し、厳しい摩擦や対立を引き起こしていた。そして多くの犠牲者も生み出した。あるものは農村に過剰人口として滞留して寄生地主制のもとにおかれ、製糸・紡績産業での女工、さらには海外にまで進出することになる娼婦「からゆきさん」の供給源ともなった。
都市にでたものは下層社会の中に組み込まれ、人力車夫などの雑業に従事する。こうした都市の下層社会にすむ人々が、日露戦争以後の日比谷焼打事件にはじまり米騒動に到る時期の都市騒擾の中心勢力となる。さらにタコ部屋労働や炭鉱労働という過酷な仕事に従事したり、日清日露戦争での軍夫にも応募したりもする。そのまま朝鮮に残って日本人であることを利用して成り上がろうとするものもいる。日本ではうだつの上がらない状態からの脱出口を海外に求めたのである。朝鮮や台湾に移住したり、さらは南方にも進出、大使が苦々しい顔をする「見苦しい姿」をみせるのもかれらである。
資本主義形成期に大量に発生する反失業状態の人々のなかからハワイや南北アメリカ、東南アジアなどの移民が生まれた。「からゆきさん」たちも「輸出」される。京城や釜山、台北などの植民地都市の日本人地区、さらにはハワイやフィリピン「バギオ国」の日本人社会はこうした人々によって形成されていった。

なおうだつの上がらない現実からの脱却を「日本」の外に求めたのは「貧民」にとどまらない階層の広がりをもっていた。資本主義形成期、近代化の急速な進展は不適応を起こしたり敗れた人々を大量に生み出す一方で、かつての身分秩序にこだわらない「成り上がり」のチャンスを与えるものであった。朝鮮や台湾、さらにはフィリピンなどの南洋はこうした人々にとって、「日本」から逃れ「一旗あげる」ための絶好のフロンティアでもあった。

近代化にともなう諸矛盾の展開~朝鮮では

 朝鮮や台湾における「土地調査事業」などの諸改革は、資本主義形成期の矛盾の高まりという共通の視点で、さらには近代化にかかわる摩擦としてとらえる視点が必要ではないか

著者が途上国との相似性と指摘した「過剰都市化」「都市非公式部門の存在」もこうした歴史的文脈でとらえるべき出来事である。朝鮮半島では農村の過剰人口としておしだされた人々は、あるものは火田民(山岳部で焼き畑農業に従事した)として奥地に向かい、またあるものは中国東北部間島地方やシベリア沿海州、日本列島へ向かい、さらに巨大化しつつあった都市へと流入していった。日本列島と朝鮮半島、若干のタイムラグをもちつつ同様の過程が進行していたととらえることができる。
1930年代になると、かつて農村出身の女工で担われていた過酷な労働で知られた日本の紡績産業は、朝鮮半島と沖縄県出身の女工に担われるようになる。

 土地調査事業に代表される植民地朝鮮での総督府などによってひきおこされた農村や都市における諸問題のなかには近代形成期特有の矛盾が含まれていたととらえることが必要であろうと考える。
植民地主義批判とナショナリズム過剰の歴史観は、近代化=文明化のもつ矛盾という側面を軽視させたまま、植民地当局の横暴という形のみを強調した面はないだろうか。総督府主導の近代化ではあるが、それが朝鮮半島の経済発展のためのインフラを整備した面もあわせて見ておく必要がある。

「日本化=近代化・文明化」という「権威」

 日本帝国主義が、植民地政策と結びつけて日本風にアレンジした近代化=文明化・欧米化をすすめるという構図は、近代化をもとめる植民地の人々とくに知識人を厳しい立場に追い込んだ。異民族である統治者側が「近代=文明化」という価値観を恩恵的に与えるという形式を一定の説得力があるとして支持・協力することは民族主義的な批判の対象となりかねない。こうして「近代=文明化」と民族主義の両立は非常に困難となる。
民族主義者が前近代的制度や旧来の慣習をあるべき姿として理想化し植民地当局がすすめる「近代化=文明化」を帝国主義的と批判するなか、「近代化」を支持することは難しい。知識人のなかではこうした矛盾に苦しんだものも多いと考えられる。こうしたなかで本書第三部の建築家たちがだした結論が、文明化の中から欧米化のみを純化し、日本的価値観で解釈された近代化=文明化からの自立をはかる方向であった。近代科学の手法で朝鮮語や文化の研究をすすめ、「文明」の立場から合法的に日本統治に疑問を呈する動きもでてくる。しかしそれはつねに植民地当局の手中にいれられる危険性をもつものでもあった。
十五年戦争が激化すると、知識人の多くの部分が、日本との同化を主張し、日本人になりきることで、朝鮮の近代化=文明化をはかろうという動きが活発化する。

 このように日本が近代・文明化という価値を独占し、「遅れた東アジア」の近代化をすすめるというモデル、それが一定の説得力を持つなかですすめられた東アジアの近代化のあり方が存在した。このモデルとの対決のなかでいかに民族的な近代化を実現するか、そのさい植民地当局といかなる位置関係に立つかがつねに課題となった。
なお、民族主義という大義名分は、民族の過去のなかに誇りを見いだそうという傾向が強いため、身分的・階級的諸矛盾などを軽視し、ときには抑圧する場合もある。こうした問題を、朝鮮や台湾さらには沖縄、さらに日本の近代化との対比のなかでとらえ直すことも必要である。ナショナリズムと排外主義が東アジアで拡がりをみせる現代においても重要な課題である。

「植民地における近代化」とはなにか

植民地における近代の特徴とは何か。
それは植民地支配の問題性と近代化のもつ苦悩(とくに資本主義形成期=資本の本源的蓄積期)の問題性が相乗効果をとって出現することである。
われわれはともすれば「近代」のポジティブ面のみを見て幻想を抱く。それは「近代」になれば生産力が高まり、実力や資質よりも家柄や身分によって人間の価値が決まるという不条理が解消され、自由や民主主義が花開き、旧体制の諸問題が一挙に解決すると考える近代主義の立場である。
しかしリアルな「近代」は「互酬」関係に立つ共同体や支配者との間での「略取と再分配」というある種の社会契約によって生存・生活保障を維持していた前近代の「安穏」な生活を破壊し、すべてを貨幣におきかえようという衝動によって動かされる時代へ移行することである。人々は、これまで使用できた土地を失い、助け合って生きてきた人間関係も破壊されていく。そして「労働力しか売るもののない」プロレタリアートが形成される過程である。
身分からの自由は没落の自由でもあるし、土地(生産手段)からの自由は自分の土地や家屋を失うことである。常に失業→生活・生命の危機に瀕する状態に置かれることでもある。だからこそ、マルクスは資本論でこうした資本の本源的蓄積の過程をキリスト教の「原罪」になぞらえ、「資本はあらゆる毛穴から血と汚物をにじみ出させながら生まれてきた」と記す。
 宗主国は利益を拡大し支配を効率化するために植民地に近代資本主義のシステムを使いやすく改変しつつ、軍隊という暴力装置の手もかりながら導入する。こうして植民地の持つ害悪と近代化の害悪が相乗効果を持って、前近代的秩序のなかいる人たちのうえに押し寄せる。
これにより、あるものは利益を得るが、多くのものは生産と生活の危機に陥る。さらに、近代的な諸制度・文化が前近代を価値のない遅れたものとして駆逐していく。
近代化へのストレスは、政策を自分たちの意見を聞かないまま強行に推し進める異民族への憎しみともあいまって強まっていく。こうして民族運動は反近代運動の要素も組み込んでいく。

 しかしこうした過程こそが資本主義を定着させる条件をつくり、近代社会形成のインフラ整備となっていった。こうした動きが定着していくと、部分的ではあれ、近代の恩恵を受ける人々も現れる。日本から工場進出は朝鮮人を労働者にかえていく。生産力の向上は生活向上につながり、教育制度の整備は識字率を着実に上昇させる。そこで学んだ知識はさまざまな部分に応用され、自由主義や民主主義といった抵抗の「武器」をうみだす手段ともなる。著者の言う「近代のもつ普遍的価値をもつ」という側面である。

こうして帝国主義は自らの利益拡大のために植民地に「近代」を強要するが、その「近代」がより困難な対抗者を創り出していく。
こうした近代の持つ多義性のなかで「植民地の近代」を考える必要がある。

日本と東アジア諸国と「同質性」と「異質性」

なお、本書のなかで気になる点がある。第二部の引用部の日本と植民地の間の「同質性」という用語である。著者は十分な説明もないまま、P・ドゥスの「地理的に隣接し、基本的な文化的特徴を日本と共通するところが多くある地域に帝国主義的支配を及ぼした」という結論を肯定的に紹介する。別のところでも「日本の支配政策は基本的に同化主義で進められた」と記し「その理由は、すでに述べたように、日本の植民地が本国と同じ東アジア世界にあり、文化や経済構造が日本と同質であったことが一因である」と述べる。
しかし別の部分では「創氏改名」や天皇崇拝について「このように民族固有の文化を無視して日本文化を押しつけた」とも記述する。
ならば、日本と植民地の「同質性」はどこにあり、「異質」の部分はどこにあるのか、より丁寧に説明すべきであろう
日本と朝鮮の間の「同質性」といういいかたが、文化面では「日鮮同祖論」、経済面では「アジア的停滞論」「自生的発展論」など、朝鮮史研究における重要な論点にかかわってくるからである。にもかかわらず、この記述はあまりに安易である。
「同質性」としては、漢字・儒教といった東アジア法文明圏や華夷秩序の枠組み、水田中心の稲作農業、資本主義形成期において前近代社会が「世界=経済」への強制的包括という運命などが候補となるだろう。しかしそれが「同質」の実態なのか、十分な吟味が必要であろう。
身分社会の構造に差異があったことは明らかであるし、「武威の国」でありつつ易姓革命を否定し天皇制を維持しつづけた日本と、中国への朝貢関係を維持しつつ易姓革命の経験を持ち朱子学的秩序を最優先し「小中華」の誇りを隠し持つ朝鮮、両者の政治・思想・文化の違いは大きい。
「同種同文の国」という安易な同一視から「同質性」を説くことは危険である。同質性と異質性の問題を放置して論を進めることは「虚像としての社会的コンセンサス」に依拠した日本人植民者に似てくるように思う。「東アジアでは同質性であるがゆえの無理解と反発が生まれ」という分析も説得性を失う。
評者は、日本と植民地の「同質性」を承諾したいがゆえに、残念に思う。こうした同質性と異質性の丁寧な分析、こうしたものも本書をより深めていく内容となると思われる。

「東南アジアの近代化」と日本

日本の侵略拡大のなかで、日本=近代化=西洋化の担い手という図式が通用しない場面が出現した。

1900年代のマニラ(http://www.philippine-history.org/picture-old-manila30.htm)

日本は1940年の北部仏印進駐を手始めに、1941年12月にはじまるアジア太平洋戦争のなか東南アジアの欧米植民地へ次々と侵攻、進駐する。
そこで日本兵が見たものは植民地における欧米の都市である。そこには明治以来日本人の多くが憧れてきた「欧米」があった。
本書第二部「東南アジア占領地の植民地都市」の節では、日本軍が東南アジアの植民地都市でどのような行動をしたか、多くのエピソードによって「予期せぬ西洋にぶつかって狼狽せざるをえなかった」日本人の様子を描き出す。
とくに引用されたフィリピンの歴史家コンスタンティーノの文章が興味深い。

 多くのフィリピン人が出会った日本人は、笑みも浮かべず、謎のようで不吉な『東洋人』であった。それはアメリカ文化で大衆化していた日本人のステレオタイプとそっくりであって、フィリピン人にとっては、とても一体化を感じられる相手ではなかった。西洋化したフィリピン人には、西洋の影響を追放せよという日本人の訴えは馬鹿げたことに聞えた。フィリピン人は、日本人抑圧者に見つけられながらも、なおひそかにこの『東洋人』を見下していたのである。なぜならフィリピン人にとって進歩は西洋化を意味したのだから。(p108~9) 

この引用などをもとに著者はこの節を次のようにまとめる。

もともと東南アジアは東アジアに比べて日本との関係が薄かったうえに、長年の欧米人による支配を受けて東南アジアの人々自身も「半欧米化」してしまっていた。ここを支配するということは、それまでの日本人の植民地体験にない異質な要素を含んでいた。(中略) こうして東アジアでは同質性があるがゆえの無理解と反発が生まれ、東南アジアでは同質性が薄いがゆえの無理解と反発が生まれた。(P109)

このまとめはコンスタンティーノの文章の含蓄の深さに比べるとものたりない。
東南アジアの欧米植民地と日本など東アジアとの共通点と相違点をみてみよう。
まずおかれていた状況は共通している。
東南アジアも欧米列強の圧倒的な力の前に屈服し、その影響下に近代化=欧米化を進めた。ただ接触の時期は大きく異なる。
しかし
決定的な違いは日本が独立を維持し主体性をもって欧米化を進められたのにたいし、タイを除く東南アジアは欧米の植民地とされたことであり、近代化の主導権が宗主国としての欧米諸国に委ねられたことであり、住民は客体にすぎなかった。文明化に用いられた言語は宗主国の言語であり、宗主国の風習は「文明」として批判を許さない形で持ち込まれた。それを住民たちが受け入れていく。著者が言う「半欧米化」である。
こうしたことが植民地都市の性格を決定する。そこでは統治者の空間としての植民地都市がつくられ、そこは欧米風の洗練された町並みとなる。進駐してきた日本軍は、そこに欧米を見た。
これにたいし、日本の近代化=欧米化は、日本が独立を維持したまま、日本の事情ですすめられた。象徴的にいうなら日本の近代化=欧米化は「日本語」ですすめられた。欧米の文化は自分たちの論理に置き換えて理解し(一部は曲解もあるが)、日本語(実は漢語であるが)に翻訳された。理解と翻訳は天皇制国家の論理とかかわって、あるときは政府の「反欧米的振る舞い」に対抗すべく、いずれにせよ選択・吟味され、導入された。
「理解」「翻訳」に際しては、日本さらに東アジア文明圏の伝統文化と照合がなされる。こうして東アジアの「欧米文明」は日本的・東アジア的な変容をとげつつ選択的に受容された。
日本語に翻訳された「欧米文明」は「漢文」という共通の文字文化を通じて、近代化のペースに違いがある朝鮮や台湾、中国にもちこまれた。こうして東アジアにおいて日本は文明の担い手としての権威を得た。朝鮮や台湾などの知識人の悩みはこの権威に対抗しうるものをいかに手に入れるかであった。
しかし、こうした「権威」は漢文文化圏とはいえない多くの東南アジアでは通用しない。
日本は欧米文明を「先進の欧米、それをめざす日本、遅れたアジア」という上下関係の枠組みで受け入れたが、東南アジアとくにフィリピンでは「先進の欧米(アメリカ)、先進国の植民地フィリピン、そして欧米文明が十分に伝わっていない他のアジア」という序列で受け入れた。
フィリピンはカトリックという欧米の宗教を信じ、「民主主義国」アメリカの統治政策によって欧米化=アメリカ化がすすみ、独立運動の歴史を持つ。「文明」「進歩」との自負をもつ。
フィリピンの人々は、こうしたアメリカ化された目で「侵略者」を見た。それはアメリカ人が戯画化した「日本人」そのものであった。日本人は劣等な「東洋人」であり、自分たちの方が「進歩」にあると考えた。日本人の主張を受け入れる余地はなかった。その統治がアメリカとは比べものにならないほど乱暴で傲慢であったことはこうした印象を確信へと導いた。

激しいゲリラ戦が展開され、日本軍は完全にアウェーとなる。勢い残虐行為もエスカレートし、フィリピン人のさらなる怒りを買う。

おわりに

本書は、植民地都市の姿をもとに帝国日本の姿を考えようとした。その結果、さまざまな面から帝国日本の姿が描き出され、植民地における「近代」のあり方に示唆を与えた。とくに植民地都市にすむ日本人植民者の実態、建築において日本的要素を排除して純粋な欧米風建築を建てることのなかに植民地知識人の日本に主導される近代との葛藤を見ようとしたこと、日本によって征服された東南アジアの被征服者が日本をどのようにとらえたということなど、新しい知見を付け加えるものであり、東アジアの近代化、日本の近代化を考えるうえで興味深いものであった、
評者としては、本書での成果に学びながら日本の近代と朝鮮や台湾さらには琉球の近代を比較しつつ全体として把握する方向を考えて見たいと思い、その一端を記した。さらに、本書で十分な説明のないまま記された日本と東アジアの「同質性」と「異質」について検討をしていきたいと考える。

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