植民地の「文明化」と「『日本』化」~参政権問題と自治議会請願運動とかかわって~


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植民地の「文明化」と「『日本』化」
~参政権問題と自治議会請願運動とかかわって~

 この文章は、大学の授業で出された「小熊英二『〈日本人〉の境界』11章・13章を参照して、「朝鮮の参政権問題と台湾の自治議会設置請願運動」に関してまとめよ」との課題レポートへの解答の文章の一節です。
 本来の回答部分は外しているため、レポート課題とはかなりずれた文章となっています。本論での三つの部分はそれぞれ別の設問への回答にかかわって記したため、重複したり、相互連関を欠いたりしています。また小熊氏の論の引き写しもありますが、氏の文章を読んで考えたノートとして見ていただければとおもいます。

「日本化」と「文明化」の距離 ~「自然的同化」と「人為的同化」~

朝鮮は、長い歴史と伝統を持ち、日本と対等な権利をもつ国家であった。江戸時代において、日本と朝鮮王国はメンツを大切にすることで対等平等の外交関係を築いていた。朝鮮内部でも自生的な近代化の動きがあり、国民国家の道もあゆみつつあった。その朝鮮(大韓帝国)を日本が植民地化する。
これにたいし、台湾は先住の諸民族の土地に大陸から漢民族が移住していく形で開発がすすんだ。台湾としての一体性は弱く、近代化もすすまず、「民族」意識は話題とならなかった。
台湾における日本の植民地支配は、軍事力と大量処刑という圧倒的な暴力を背景とした恐怖支配であったが、同時に欧米文明を背景とした「文明化」という抵抗しがたい「正当性」をも持っていた。

纏足解放祝賀会 日本の植民地支配の中で、台湾の女性たちは纏足という悪習から解放された。

そのため、台湾の人々の自意識(「民族」意識?!)は、欧米的な価値観・文明観を導入した日本人統治のなかで形成されざるを得なかった。
台湾の知識人、蔡培火などは、日本統治のなかに存在する世界史的な流れとしての「自然的同化」を承諾しつつ、「六三法」によって帝国憲法の認めた諸権利を認められない二級国民として扱われることに反発し「和服と刺身」といった日本の習俗・文化への「人為的同化」には同意しないといった考えを示した。「文明」国としての日本統治を承認しつつ、台湾に住むものとしての独自性や漢民族としての自意識をもつ広義の「日本人」として、「日本人」の多様性を主張する方向性をめざした。

参政権付与か、自治議会の設置か ~「日本人」の権利か、植民地統治の補強か~

植民地支配は様々な面で国民国家を腐敗させる。民族運動は、鎮圧するための軍事力・警察力の拡大を招き、それによって植民地経営のコストを上昇させ、国内的にも準戦時体制の恒常化や軍拡といった「帝国」全体の軍国主義化を促進する。石橋湛山風の言い方をするなら「植民地支配はコスト的に引き合わない」のである。

「日本軍に捕らえられた台湾の兵士たち」 (『写真記録,日中戦争1,15年戦争への道』ほるぷ出版より)

植民地統治や民族運動抑圧の必要は、国内法とは別の「植民地法」という法体系、別個の裁判制度などを必然とし、法的な統一性が失わせる。たとえば台湾総督府が明治31年に発した「匪徒刑罰令」は、軍人や役人に暴言を吐くといった「抗敵」行為も、「露積シタル柴草」を燃やしたり、鉄道標識を壊したり鉄道などの運行を妨害するなどの行為も死刑の対象とされ、匪徒とみなした人たちに場所を提供したり、かくまったり、食事などを与えても死刑や無期徒刑(懲役)の対象とした。このような法令とそれに基づいた裁判は、明治憲法下において通用するはずがない。植民地支配は、こうした「法令」に名を借りた「無法」、暴力のうえに成り立っていた。

法律第六三号(Wikipedia「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」)

もし、植民地に憲法体制と内地と同様の裁判制度を導入すれば、それは植民地支配の崩壊を招く。いかに粉飾しようとも、植民地支配とはそのようなものでしかなかったのだ。それを植民者の側からすれば、内地とは別の法体系、別の裁判システムが必要であるという表現になる。そのための基本法ともいうものが、台湾では法律六三号(台湾ニ施行スヘキ法令二関スル法律)朝鮮では法律第三十号(朝鮮ニ施行スヘキ法令二関スル法律)である。これによって台湾総督や朝鮮総督は、明治憲法に縛られることなく、限定のない立法権を与えられ、「緊急」の場合は内地での手続きなしで、事後承認で命令を出すことが認められていた。このように、植民地には内地の憲法を頂点とする法体系は導入されず(正式には選択的にしか導入されず)、そこに住む人たちは「日本人」という国籍を与えられながら、日本人として保障されるべき権利が与えられず立憲制の枠外に置かれていたのである。
植民地支配は、国民内部に、支配民族のゆがんだ優越感と被抑圧民族への差別・偏見を生み出す。植民地の「まつろわぬ人々」は簡単に死刑としてよい存在であり、憲法という「文明」に保護され、その権利を認められた大和民族としての「日本人」とは異なるものと見なされたのである。エンゲルスが言った「他の民族を支配する民族は自らも自由になり得ない」という警句を思いおこさせる。
植民地居住者に衆議院議員の参政権を与える事に対する内地や総督府などでの意見対立は「帝国」の植民地支配が本質的に持つ性格から生じている。「日本人」の定義を「帝国」全体に拡大し朝鮮民族や台湾の諸民族を包摂すれば「日本人」としての権利が拡張されるが、それは自民族を「日本人」=内地の日本人と比べて「とるにたらないもの」歴史・伝統・文化などをもつ「二等国民」とする「踏み絵」・「民族性の抹殺」の面をもつ。

台湾議会請願運動の記事

他方、台湾などでの「自治議会の設置」は、植民地の独自性・特殊性を考慮するという名目で検討される。民族運動の側からすれば、みずからの民族の独自性を保障し、自治意識を拡大し、独立の機運を高める可能性があるが、植民地当局の実際の意図からすれば、植民地を本国から切り離し、不十分ながらも明治憲法に示された諸「権利」を植民地に及ぼさず、これまで通りの無権利状態を保障する道具という意図から出され、朝鮮民族への自治拡大という視点は弱い。「内地人」が享受している諸権利を与えず、これまで通りの総督府による軍政を維持する目的が透けて見える。したがって、自治議会設立が台湾人の運動となると、台湾総督府は態度を一変、弾圧の側に回る。ここに見ることができるように、植民地議会の設立、しかもそれを民族的な運動として求めることは、民族的要求を公的な場にひきだす可能性をももっている。
「二級日本人」となるリスクをとりつつ「日本国民」としての権利を拡大するか、「他民族」として位置づけられ、植民地当局による他民族としての差別待遇を余儀なくされるが日本人とは異なる文化と伝統を持つ民族としての可能性を求めるのか、という差異がある。
植民地支配は、被支配民族を苦しめるだけでなく、支配民族(狭義の日本人)をも腐敗させ苦しめる。石橋湛山が喝破したように、日本にとって利益のないものとして、放棄することが最善の策であったことは言うまでもない。

植民地支配における「同化」と「文明」化

参政権付与問題と自治議会設置問題

朝鮮において、参政権要求は、自らを内地人と同様の「日本人」「国民」であるという「同化」を前提としていると考えられた。それは朝鮮民族の歴史・文化を日本よりも低いものと見なし、自らの民族性を否定したり、劣等民族であるという帝国主義者の論理を容認する。たしかに、この「踏み絵」を踏むことで、「日本人」としての権利を要求する根拠は手に入れることができるし、総督府の専制支配を公的な場で批判することも可能となる。政党間の対立などを利用すれば、現在のイギリスの民族政党のようにキャスティングボードを握り、要求を実現することもできる。屈辱的であっても、「イソップのことば」を用いても、政治参加への公的な道を切り開くことで民族解放への大きな一歩となった例は民族運動の発展のなかでも多く見られる。しかし、日本よりも長い歴史をもち、主権国家としての歩みをはじめていた歴史を持つ朝鮮民族にとってこのような屈辱は耐えられないものであった。

蔡培火 自治議会設立運動の中、日本統治のなかの世界史的な「自然的同化」を承諾しつつ、日本の習俗・文化への「人為的同化」には同意しない立場をとった。

他方、主権国家としての伝統をもたず、日本統治下で本格的な近代化をすすめた台湾においては、みずからのアイデンティティー確立の手段の多くを日本から学ばざるを得なかった。「一視同仁」の「日本人」という日本側の論理を利用する形で、総督府による専制支配を批判し帝国憲法を台湾に適用すること、そして同じ日本人の中の多様性として自らの独自性を見いだそうとした。こうしたなか、台湾では知識人や資産家を中心に、自治議会の設置を求める運動が活発化、数度にわたって帝国議会に請願される。

日本の近代化と、日本に近代化される朝鮮・台湾

非西洋諸国の近代化において、西洋の近代合理主義、科学主義は圧倒的な影響力を持つ。一九世紀、欧米諸国は、世界を「文明化」し、「無知蒙昧から解放」する啓蒙主義的十字軍的な旗印を掲げて世界に進出した。西洋化は文明化であり、自由と民主主義、科学技術により人類を病苦と貧困から解放するといった旗印である。その背景には資本主義市場の拡大という、冷徹な経済原理が隠れていたことはいうまでもないし、文明=キリスト教という意識もあった。

台湾の女学校における日本語教育

非西洋諸国ではそれぞれ独自に、自生的な近代化・文明化への道を模索していた。しかしそれは伝統的な支配体制、経済発展の遅れ、文化・伝統などのなか、未整理で混沌としたままの存在であった。そこに欧米諸国が「体系化された文明」を手に、本来の経済的・軍事的な要求を「文明化」という十字軍的使命感でコーティングして進出してきたのである。非西洋諸国はこれとの対抗するなかで民族意識を高め、国家を改編する。しかし、その改編は西洋的基準に準拠したものとならざるを得なかった。
欧米の文明化の手法に加え、前近代的伝統的なシンボルや理念・「道具」をも動員して近代国家を建設し「近代的国民」を創出する。日本が歩んだ道はこうした方向であった。朝鮮もこうした道を歩もうとしていた。

戦時中の皇民化政策のなか宮城遙拝なども行われた。
(朝日新聞社「朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民1940-1949 第2巻」)

ところが、朝鮮は植民地とされ、台湾にとともに、さらに難しい条件で近代化させられる。西洋的な「文明化」のモデルであり、強要したのが非西洋の日本だったからである。日本の近代化は、主権国家体制を前提とした西洋文明を基本としつつも、一方では東アジア法文化圏の枠組みや諸装置なども利用し、他方では独善的に作り上げつつある天皇制や伝統的な諸装置や「道具」も融合させながら、すすめられた。このような日本的な「近代国家」、乱反射された「文明」がもちこまれたのである。こうして両地域と日本との間で微妙な関係が生まれる。こうした日本的近代文明は、東アジア法文化圏のことばを用いているため容易に理解できる面もあるが、東アジアの辺境に存在する独特の「奇妙な風習」も含んでいた。こうして、この地の知識人たちは、近代「日本」との間の、「否定」と「肯定」、「同化」と「独立」というゆらぎのなかにおかれる。多くは日本に留学し、日本化された「文明」を学ぶという圧倒的な影響の中で、これを強いられたのである。

日本帝国主義の朝鮮支配 ~「近代化の過酷さ」と「植民地支配の過酷さ」の融合~

長い歴史をもち、主権国家・近代国家へ歩みつつ、それを絶たれた朝鮮では、日本統治に世界に準拠した「文明」をみることは屈辱であった。こうした文脈の中で、朝鮮人が帝国議会での参政権をめざすことは、日本を「文明」として認めることであり、日本統治下の自治議会も同様であった。「遅れた朝鮮」に「文明」の恩恵を与えてやるという日本側の優越的な意図はあきらかであった。したがって、「文明」=参政権要求は民族性の抹殺につながり、「対日協力=親日」と認識された。台湾の知識人のように「自然的同化」を「人為的同化」にわけ、日本との関係を評価するという手法は韓国・朝鮮では通用しなかった。
こうした感覚は、戦後の韓国社会にも持ち越される。日本政府が公的に植民地支配自体を認めず、その過酷さもみとめなかったこと、さらに関係が好転してもそのたびに政治家などの「妄言」が発生し破壊されるという繰り返しが、韓国内での冷静な歴史認識を困難にした。そのため、植民地支配のなかでの「文明化」、コリア民族の「国民」化を理性的・客観的に捉えようとする韓国内での取り組みは「親日」としての厳しいバッシングの対象となった。「日本」的なものへの評価は、ときとして過激なナショナリズムを引き起こす。
欧米主導の主権国家体制への包摂という中、世界中のあらゆる場所で、欧米化・文明化は不可避であった。したがって、もし朝鮮が独立を維持しつづけたとしても導入せざる得ない部分(資本主義化とくに資本の原蓄過程、近代法・所有権・租税制度の導入、結果としての村落社会解体、教育制度の導入など)が日本統治の中に存在していたし、それが日本帝国主義の問題点(土地収奪、朝鮮文化・言語の破壊、日本語教育、皇民化政策など)と渾然一体として、日本統治に有利なように進められた。近代化自体が持つ過酷さと植民地支配の過酷さの融合、それが日本帝国主義の朝鮮支配であった。

二つの「同化」と台湾人の「日本人」化

台湾先住民出身の元日本兵スニヨン(李光輝)    1942年志願兵として陸軍に従軍、戦後も1974年までモロタイ島に潜み発見された。そのとき、彼は中村輝夫と名乗り、日本に帰りたいと話した。

これにたいし、「民族」的アイデンティティー確立の手段の多くを日本から学ばざるを得なかった台湾は様相を異にする。ちょうど、明治十年代、西洋文明の論理によって専制的で非民主的な明治政府を批判した自由民権運動が行ったように、日本を通して学んだ「文明」の枠組みで「和服と刺身」を亜熱帯の台湾に持ち込もうとするかのような日本の政策、とくに台湾総督府の統治に対抗しようとしとした。ここに参政権獲得運動、とくに自治議会設立を「民族運動」として認識させる側面があったのである。
しかし、一九九〇年代に「国民国家否定論」を唱えた歴史研究者が、自由民権運動も「国民国家」形成の荷担者であったと指摘したように、こうした運動は台湾人を「日本人」化し、帝国の「国民」として組み込むという性格をももっていた。

「小『中華』帝国」日本と、「国民国家」日本

ハンナ=アーレントは、国民国家こそ「帝国」的秩序ともっとも対立する存在にあるとし、以下のように論じる。

 「国民国家の基礎となる政府に対する被治者の同意は、被征服民族からはほとんど得られないからである。そのため国民国家は異民族征服を企てた際には必ず、他の政治体には見られぬ後ろめたさを示している。「野蛮な」異民族によりすぐれた法律を与えるなどとは偽善なしには主張し得ないのだから。ネイションは自分自身の法律を他とは違う自分たちだけのナショナルな実態から生まれたものとして把握していた。したがってその法律は自国の人民以上の範囲を超えてまで適用力を持つとは主張できない。」(「全体主義の起源2帝国主義」P11~12)

にもかかわらず、日本は、朝鮮や台湾にたいし「同化」という「偽善」をなそうとした。
一八世紀後半以降、日本も、朝鮮も、自らを頂点とする「小『中華』帝国」幻想の中に生きていた。明治国家成立以後、日本では西洋文明から「屈辱」をうけつつも、「万世一系の天皇」イデオロギーにしがみつき、さらに東アジアでもっとも「西洋化」「工業化」した「文明」国家という劣等感を裏返しにした優越感によってこの幻想を強化した。こうしたあり方が、東アジアは「平等な主権国家が併存する」主権国家体制という見方ではなく、日本を中心とした中華帝国的秩序としてとらることを選ばせた。日本は、この枠組みのなかに朝鮮や台湾を位置づけ、垂直的な「同化」の対象として位置づけた。さらに、この枠組みのなかで中国をも位置づけようとする。
しかし、近代日本は創出されつつある「国民国家」でもあった。日本と朝鮮や台湾とのあいだにアーレントのいうような「他とは違う自分たちだけのナショナルな実態」は存在しないし、「『野蛮な』異民族によりすぐれた法律を与える」ことはできない。なぜなら「国民国家の基礎となる政府に対する被治者の同意は、被征服民族からはほとんど得られないから」。
日本国内においても、植民地においても、「同化」を主張する知識人は、中華文化圏の「同文同種」とのフィクションの中に「自分たちだけのナショナルな実態」が存在し「同意が得られる」と夢想し、一体性を主張する。しかし、実態として「被治者が同意せず」さらに「ナショナルな実態」存在しない以上、「その法律は自国の人民以上の範囲を超えてまで適用力を持つ」とは主張できない。「小『中華』」的枠組みで朝鮮人や台湾人に「日本人」としての一体感を持つことを求める一方、万世一系の天皇の子孫というイデオロギーで「国民化」をはかる日本人に朝鮮人や台湾人を加えることを拒む。「日本」国籍はみとめても、あくまでも「第二国民」としてである。法律や権利などでけっして内地の日本人と同様の「国民」としては認めようとしなかったのである。
こうした矛盾が日本の植民地支配の中に存在し、それが植民地の人々、とくに知識人の判断に大きな影響を与えていた。

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