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民衆の植民地体験
~岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史(五)植民地は天国だった』に学ぶ~
はじめに
「日本の民衆にとって植民地とは何であったか。更にいえば、植民地の工場における日本人労働者の意識、労働、生活、朝鮮人労働者との関係はどのようなものであったのか。(中略)私たちは、日本窒素肥料株式会社(日窒)が建設した朝鮮窒素肥料興南工場に生きる望みを託して朝鮮に渡った、水俣の民衆のその後を追うことにより、問題を解こうとする」
岡本達明・松崎次夫編『聞書・水俣民衆史(五)植民地は天国だった』(草風館1990)の第一章扉の解説において編者は、この本の意図をこのように記す。
そして問う。「日本人が今までに残した植民地の記録は引揚げに片寄り、トータルとしての問題を追及したものは少なく、まして植民地における民衆像を考察したものは皆無に近い。いったいなぜかと自問する必要があるだろう。日本人の怠慢のせいだろいうか。それとも故意のせいだろうか。」
本書は植民地朝鮮において、植民地という「政治的経済的人種的抑圧の体制」における「『支配』民族の一員である下層日本人労働者とその家族」の姿を「忠実に再現しよう」とする。
そこに描かれるものは、植民地支配のグロテスクな実態であり、それに加担する日本人民衆の姿である。編者はいう。「日本人を見る朝鮮人の目は敵意に満ち、朝鮮人を見る日本人の目は侮蔑に満ちていた」「万国の労働者などというものはなかった」と。
朝鮮による日窒の展開は1926年の朝鮮水電株式会社の設立に始まり、水力電気事業・硫安工業を出発点に、火薬生産など広範な化学工業、さらには金属工業、鉱山業へと分野を拡大、付帯事業として鉄道をも経営、1942年にはグループ全体が植民地工業に占める割合は日本から進出した産業設備資本の36.0%を占める。
進出の理由としては、主要製品・硫安で必要な大量の電力のための水力=電力資源の確保が得やすかったとされるが、産米増殖計画にともなう硫安市場の拡大と朝鮮の低廉な労働力の存在も指摘される。
日窒は、植民地工業の中心であり、1930年代の日本資本による朝鮮の工業化は日窒によって先導されたといえる。
(安秉直「1930年代における朝鮮人労働者階級の特質」をもとに記載)
以下、本書の章ごとに証言を紹介し、それについてコメントをつける形で記していくこととする。
本書について
本書の編者の一人岡本達明は、日本窒素の後継会社新日本窒素肥料(現チッソ)に勤務、第一組合の執行委員(1970~78委員長)として活動する一方、漁師集落に住み、従業員などの話を聞く活動を続けた。その後も「民衆の聞書で日本の近・現代の基底を明らかにする」という仕事に本格的に取り組む。その成果が1990年に完成した松崎次夫との共編著『聞書水俣民衆史』シリーズであり、本書はその最終巻に当たり、1990年に草風館から出版された。本書だけでも108名もの話し手の証言を得ている。なお、本書は同年の毎日出版文化賞特別賞を受賞した。
岡本は1968年「水俣病市民会議」に参加、「水俣病」とはいったい何かという抜本的な点を問い直すなかで「資本主義社会の基底である工場が、さらなる基底である自然を壊し、住民を殺傷している」ことを知り、水俣病を日本現代の基底そのものととらえ『水俣病の民衆史』(2015)を執筆した。(熊本大学文書館 岡本達夫資料MD02解題をもとに記述。
http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Minamata/MD02_guidance_20200331.pdf)
1,「植民地の巨大工事」 (1)巨大発電所の建設
第一章前半は日本窒素(以下、「日窒」)コンツェルンによる興南工場群建設と、そこに電力を供給する水力発電にかかわる聞書である。
赴戦江水力発電所は熊本出身の二人の若い技術者が「何かおもしろいことないか」と朝鮮の地図を見ていたことから始まる。そこに日窒の創業者・野口遵(したがう)がかかわることで実現する。
冬は零下35~40度の達するという北朝鮮の山岳部に巨大な水力発電所を建設、そこで得られた世界一安価な電力によって日本の肥料の半数を生産する巨大な化学工場を建設するという、かつて人気番組「プロジェクトX」そのものにもみえる。
しかしこの大プロジェクトは、日窒資本と西松組・間組などの建設業者が植民地当局などと結び、朝鮮人や中国人の命をなんとも思っていなかったとしか思えないやりかたで推進され、結果、多くの犠牲者を出す。
発電の水路建設の人夫は全体で5000人以上、約2/3が朝鮮人で1/3が中国人。(p42)堰堤工事では「土木工事をする朝鮮人が500人ぐらい。バラスを掘ったり貨車に積んだりする単純仕事をする支那人のクーリーが、2000人くらい」(p50)。
水路工事では、極寒期にも突貫作業がおこなわる。そこでは発破作業で用いるダイナマイトも凍結する。そして凍結して発火しなかったダイナマイトがばらまかれ、ドリルに触れ爆発するといった事故が多発した。さらに凍ったダイナマイトを溶かそうとして爆発する事件も起こる。第七竪坑では事務所のストーブで溶かしていたダイナマイトが爆発、そばのダイナマイトにも誘爆、「竪坑の櫓は吹っ飛ぶし、外でトロ押ししてた支那人が2,30人みんな吹っ飛」ぶ。「事務所とか付近の人夫小屋に居た者とか、地上で働いていたクーリーとか、即死ですよ」というような大惨事となる。
工事用貨物のインクラインのロープが切れる事故も多発、やはり犠牲が出た。このように多発する事故に対して会社側は「やってしまったものは仕方ないじゃないか」との姿勢をとり、あきれた警察署長がやめてしまったという。
佐藤時彦は水路工事で「死んだのは総計200なんぼです。うち日本人は10人以下です。負傷者はもう数知れずですよ」と証言する。犠牲者の慰霊塔をたてることを進言したが「そんなことをしたら、死者がいかに多かったかを宣伝するようなものだ」と却下されたという。(p43~46)
経営陣のプライドも犠牲をふやした。外国製の機械・部品に依存することを嫌った社長の野口遵は「多少質が悪くともと国産品を利用せよ」と指示、技術の蓄積のない国産品を使ったことでさらに事故が多発、相次ぎ犠牲者をだす。テストで不合格の部品さえも工期の都合で使用する。担当者は事故が起こるなら最初に起こってくれと願ったという。(p36~37)
人命軽視の姿勢は、民族差別も加わり、さらにグロテスクな様相を見せる。矛盾は労働者間の結びつきが弱い出稼ぎ中国人に集中する。
ダムの堰堤工事にかかわった平上嘉市は中国人労働者への信じがたい扱いを証言する。
「三月末から四月にかけて、いっぺんに500人、1000人で連れてきて、ここに居れって火の気も小屋もない野っ原に放っぽらかすんです。支那人の飯場なんて絶対あるもんですか。」「野っ原の支那人は、抱き合うて座って、少しでも人間の輪の中に入ろうとするけど、外側になったものは凍死していく。朝になると木頭(ぼくとう)が来て、(中略)死体を一キロか2キロメートル川下に運ばせて、どんどん捨ててしまう。そして生きている者だけ働かせる」「木頭というのは、支那人の人夫頭です。寒波が来るたびに、そうして死んだのがひとかたまり100人くらい居たでしょうね。私はこの目で見たのですから」「日本人・朝鮮人は数がはっきりわかるけど、支那人は数もはっきりわからん。記録してるわけじゃないんだから。そうやって工事中ずっと野っ原に寝取ったです」(p53)
こうした扱いであるにもかかわらず、食事は小さな饅頭(マントウ)2つにスープが茶碗いっぱい、こうした待遇なので労働意欲はなく、木頭が来たときだけしか働かず、かといって暴動を起こす気力すらなかったという。最後には賃金も支払われないまま「一週間分なら一週間分の饅頭を一食に二つ宛て紐に通して背負わせて貨車に乗せて、ハイさよならです。生き延びただけが幸せですよ。」(p54)
こうした取り扱いは、とりあえず労働力を確保したいという会社(具体的には建設を請け負った業者)と、中国人の引受業者(「木頭」が当面の責任者として現れる)との共犯関係ですすめられた。
赴戦江発電所などでみられた強引なやり方は、鴨緑江をせき止め琵琶湖の半分もの滞水面積をもつ水豊発電所の建設工事で頂点に達する。ダム建設のため、7万人もの人が住む地域が朝鮮総督府と軍隊の圧力下に水没させられた。工事は「使った人夫が毎日3万人、朝鮮人が半分、満人が半分」「雪解けになると、発電所の水路の溜まりに流れてくる水死体が毎年7、80体じゃきかん」という状態ですすめられた。(p37)
世界有数の発電所群は、人命無視の工事による大量の犠牲者のうえに建設された。水路建設に際しては、朝鮮人の少年と少女が人柱とされたとの噂がまことしやかに語られ、堰堤で写真を撮るとそこにいない人影がうつるとつぶやかれた。
働くひとよりも会社側の都合を優先する姿勢は工場稼働が本格化するとさらに鮮明となる。
発電所建築の過酷な労働を支えたのは会社や当局・官憲だけではない。協力する日本人労働者たちの姿があった。朝鮮人と中国人の対立も利用された。ここに植民地における重層構造をみることができる。
(2)日窒コンツェルンによる巨大工場群の建設
発電所の建設と並行して、咸鏡南道興南一帯に日本窒素コンツェルンの手で巨大な化学工場群が建設された。
工場一帯の土地は野口遵の鶴の一声で買収される。
野口は、一帯を見渡せるような小山に上り、「あそこからここまでを買収せい」と、約半径2キロの広大な土地を指示、朝鮮人が移住する場所も指示した。
これをうけ、咸鏡北道の道議員を顧問に、集落の長も使って買収工作をすすめた。植民地支配はつねに共犯関係にある現地側のエージェントがいる。
植民地当局の協力はいうまでもない。「総督府や警察の力は両方借りましたね。それがなけりゃできなかった。咸興の連隊とも連絡はずっとついてました。部落のほとんどが移転に反対でしたからね」。(興南工場建設時の建設主任尾家麟祉の証言)
立ち退きを拒む住民たちは周囲に囲いを設け測量を拒んだ。測量を進めようとする日本人とそれを拒もうと抵抗する住民との間で「喧嘩」が起こった。最後まで立ち退きに応じない家に周りには鉄条網を張り巡らし、亜硫酸ガスが残る硫酸の焼滓を積み上げるという嫌がらせがおこなわれた。(津下丹蔵)
こうして総督府・警察・軍、さらに地元の有力者が結託し、さまざまな暴力も行使して広大な工場用地が確保された。土地価格は一坪三銭というただ同然の価格であった。(p59~61)
こうして日窒傘下の工場群が立てられ、日本人の社員・雇員・準雇員のためには電気・上下水道完備の社宅が建てられる。社宅は社内の地位により、住む場所も異なり、住宅の広さ・設備にも大きな格差があった。最低レベルの住宅は「今から考えればよくあんなところで生活できたかというくらいのところ」であったが、水俣など全国から移り住んだ貧しい日本人にとっては「栄耀栄華というか、ほんと豪華」と感じられた。日本内地に住む民衆の貧しさが、かれらの朝鮮植民地のあり方を規定していた。
(3)工場建設はどのようにしてすすめられたのか
工場地区の工事は、西松・間・長門の三つ建設業者(組)が分担、各組は4つ程度の下請け業者に、下請けが10人くらいの日本人の小頭を雇い、小頭が5~6人の朝鮮人の人夫頭を用いた。この人夫頭が配下2~30人の人夫に仕事を割り振り、出来高払いで賃金を支払う。小頭は、人夫頭に直接指示をする必要があったので、朝鮮語をある程度用いることのできる憲兵上がりが多かった。
下請けには用心棒がおり仕込み杖をもって現場を回った。ちなみに「ドスは日本人はみな持っていましたよ」と、後年の尾池は刀を取り出したという。工場建設も暴力によってすすめられた。
なお、人夫は近郷の咸鏡北・南道や江原道から集められた。合計一万人程度という。赴戦江の工事現場から中国人人夫も回ってきたという。
1920年代末から1930年代前半、朝鮮では労働力が過剰気味で、労働者に転換できる労働力が農村に滞留していた。その背景には土地調査事業などによって土地を喪失したものが多く、ただちに賃労働者へと転換しうる安価な労働力が朝鮮中に大量の存在していた。「安定的な賃労働の機会さえ与えられればただちに脱農できる」労働力は1928年ごろには200余万人にのぼったと安は推計する。このような「豊富にして低廉な労働力の存在が、30年代植民地工業化の一つの条件であった」(安秉直「1930年代における朝鮮人労働者階級の特質」p131~132)
(4)日本人の移住開始
建設がすすむ工場に、水俣をはじめ各地から人々が次々とやってきた。しかし社宅は未完成であり、かれらは朝鮮人部落の劣悪・不十分な住宅で生活を始める。零下25度の寒さの中「日本人の子どもはゴロゴロ死んだ」という。(p67~70)
さらに土地を奪われた朝鮮人の敵意に晒され、中国人人夫らとのトラブルも発生した。津下キクは「はじめは恐ろしかったぁー。朝鮮人がおそろしかったですもん。向こうから朝鮮人が来れば、子供とももうチョロチョロやって、家の中に逃げ込んでな。わたい共朝鮮人ていえば、自分より上て思っとったもんなぁ。自分より下と思えば恐ろしくない。上て思えば恐ろしいもんなぁ」と話す。(p72~3)
当時小学五年生だった津下米蔵も「水俣からいった者はほとんど護身用に仕込み杖をもっとたとです」「夜外出できるようになったのは、もう建設が終わって日本人がどんどん、どんどん、多くなってから」と語る。(p69)
そして社宅が次々とできるようになると日本人と朝鮮人の力関係は大きく変わってくる。
(5)朝鮮人部落
朝鮮人たちは厳しい生活を余儀なくされていた。
「家と家との間は狭さも狭さ、横にならんと通れんところが多いですよ。そんなに立て込んでいる。狭い道。そして小さい低い泥家。汚いことが、いって腰掛けるのもいやじゃ。あの部落はあとでボチボチ満ってきた部落ですね。工場に抱きついてしもうとったんじゃな。子供たちは、裸、はだしで走り回とった。栄養失調で、腹のふくれているのも居るしな。鮮人ママたちの着物は、もう一生それで暮らすという着物たい。夏着、冬着て、持たんかったんですね。冬は、ボロなんか下げて。ネズミの肉を食べるていうとったですよ。」(松本透)
こうした工場周辺の朝鮮人の生活実態が、あるいは日本人とは異なる生活文化が、嘲りの対象となり、ときには恐怖の対象とし、差別を正当化する理由ともなっていった。
工場周辺には用地買収によって土地と生業(とくに漁業)を失った人々が移ったこと、新たな職を求めて貧困層が集住してきたと考えることもできること、さらには朝鮮人は一段下と見る偏見に満ちあふれた植民者の目から見た朝鮮人・集落像であり、一般化したり、そのまま事実として受け入れることは危険である。
なお朝鮮人従業員の社宅は日本人用とは、まったく別もので、居住区も造りも全く異なっていた。間取りは四畳半二間で暖房はなくオンドル式、壁は泥壁で紙が貼ってあり、窓もガラスでなく障子、水道はなく共同水道であり冬は氷が張って水をくめなかったという。便所も共同であった。
このように朝鮮人たちは日本人と別の生活圏に置かれた。主に社宅に住む日本人女性が朝鮮人と接触することはまれとなってくる。
Ⅱ、公害企業「チッソ」前史 ~「植民地の化学工場」
(1)「朝鮮人を見たら……と思え」
第二章では興南を中心に稼働した日窒傘下の工場の様子が記される。ここで中心となるのは工場労働における日本人と朝鮮人の関係である。編者のコメントを引用する。
興南工場の運転は、当初日本人のみで行うものとされた。人夫と雑役のみが朝鮮人の仕事で、工員になれたものは微々たるものであった。日中戦争を契機に、朝鮮人の工員は激増していき、敗戦時には実に全工員の8割に達した。しかし、工場の支配権は最後まで完全に日本人が握っており、朝鮮人が係員(職員)に登用されることはなく、せいぜい副組長止まりであった。一方日本人工員は出世が早く、副組長・組長はもちろんのこと係員になる者もいた。(中略)その賃金格差は年とともに増大していった。
興南工場では、日本人Aと朝鮮人Bとの個人的関係は生じなかった。あるのは民族と民族の関係だけであり、そして日本人であれば馬鹿でも支配民族の一員であった。それこそが植民地の制度であり工場だった。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はどこまでも劣る民族である必要があり、「朝鮮人を見たら……と思え」といわれた。(p82)
いくつか印象的な聞書だけを紹介する。
①日本人と朝鮮人では労働現場が異なるため、次のような事態が発生する。
「事故はどこの係でも起きとるですよ。日本人も朝鮮人もうんと死んどるです。ただ、どこで事故が起きたかで日本人が死ぬか、朝鮮人が死ぬか分かれる。メーンの装置でやれば日本人、側でやれば朝鮮人」(P87)
②植民地支配は日本人内部に上下関係をも生み出した。
水俣工場に居たときは、どのような仕事でも、どっちが上というような意識はなかったのだが、
「朝鮮人が入ることによって、どの部署につくかで上下意識がでてきた。”なんか、お前は日勤雑役か。フン、朝鮮人のような仕事して”てなる。日本人しかつけない仕事と、朝鮮人をつけてもよい仕事に分けることによって、日本人にも仕事による格付けができました。」(p86)
③強圧的支配のなか、朝鮮語の会話への恐怖も生んだ。
「朝鮮人に一番やかましくいったのは、朝鮮人同士で朝鮮語を使うなということたい。何を話しとるか、わからんからな。やっぱり、うっかりはなすもんな。”お前、今なんといったか”ってビンタ張ると”もう使いません”て謝りよった。朝鮮人と仕事をすれば、日本人はものをいわせんよ」(p93)
④「朝鮮人は人間としてみるな」との指示が。
「朝鮮人とどうやって仕事をするか上から指示があった。建設中のまだ役職ももらわんときにな。”朝鮮人はボロクソ使え。朝鮮人からなめられるな”といわれた。朝鮮人は人間としてみるな。人間のうちに入れちゃならんぞという指示じゃ、て私はすぐ思った。水俣の日雇の時、野口社長が”職工は牛か馬かと思って使え”といったという話をきかされとったもんな。それと同じで、そういう腹で朝鮮人を使え、朝鮮人に情けをかけちゃだめということをいわしたんだろうなと思った。今度は自分が野口遵じゃ、て自分で確認したもんな。それで朝鮮人にはビシビシやりよった。」(p94)
(2)死傷を前提とした技術と労災
第二章の一節には「死傷を前提とした技術」という題が与えられている。証言するのは東大応用化学科出身の横井三郎である。
日窒においては基礎研究・テストプラント、その間の試験やチェックをおこなわず、「装置にどういうトラブルが起きるかを究明しないで、次々と新しいものをいきなり大きくしてやった。」「総合的研究はいっさいない。あったのは単なる誰かの思いつきですよ。社長の思いつきであったり、技師長の思いつきだったりですね。」(p126)
はじめからわかりきった過ちを、チェックするスタッフがいないまま、工場は設計・建設され、稼働された。(p128)
こうした結果、「思わぬところに穴が開いて有毒ガスが噴出したり、爆発したりする」ことは必然であった。事故が頻発する。
横井はいう。「人が死ぬということは、関心がなかったですね。(中略)警察に呼ばれることもない。人が亡くなっていわゆる公傷といったんですよ。ガス吸って病気になって死ねば私傷です。まして、朝鮮人が死んだって風が吹いたほどにも感じない。」
「今だったら、あんな無茶な作業はさせられないでしょうね」「あの当時は、どんな乱暴したって従業員を強引に引っ張っていける、と技術者は思っていた。また現に苛烈な職場規律の中で従業員もついてきた。職制は上から下まで日本人で固めていたし、日本人の従業員は、なかばお国のためだという意識を、自分の出世とからめて持っていた。」(p125~132)
さらに横井はいう。
「基礎がないところに立派な建物が建ちはずはないんです。…担当者がいろいろ努力されたにもかかわらず、事故続出であまりよい製品はできなかった。」
「いまあんなことやったら、すぐ会社潰れちゃいますよ」。
発電所・工場建設で見られた日本窒素の非人間的な体質は、工場が稼働してからも変わらない。新改築・技術革新に際してだけでなく通常の稼働すらが従業員や技術者の「死傷を前提」として行われていた。
各工場では故障が続出する。有毒ガスの発生、火災、爆発、転落事故、やけどなどが多発、多くの命が奪われた。にもかかわらず従業員とくに朝鮮人の労働を保護のために改善をするという姿勢は皆無であり、逆に生命の危機を生じるような作業を命じることも一般的であった。
証言に共通するのは人間の命を大切にするという意識が欠落している実態である。そして命の軽視は日本人にも同様であった。このような企業・社会に民族差別の解消を望むなど最初から不可能であった。
(3)環境問題に対する無関心
さらに環境にたいする配慮も到底望み得ない。西川正人はいう。「廃液は最初のうちは全部垂れ流しました。」マンガン回収工場ができてからは、ポンプで回収工場に送るようにした。しかし「廃液タンクに沈澱物が溜まってくると、鍋に抜き出して上澄みだけを排水溝にながして、金属水銀を回収した。でも故障も多かったし、何やかやで廃液は相当たれ流しとるです」(p112~113)
編者の岡本は「あとがき」で記す。
「<水俣>工場は廃墟の中から再建されていく。工場の経営権を握ったのは、朝鮮引き上げ組の幹部たちであった。ということは、日本窒素の発展過程の中にその根を有し、朝鮮で完成された技術方式の下に、生産規模が拡大されていったということである。」「その水俣の生産社会が頂点に達した昭和32年1月、水俣工場付属病院長であった細川一医師は…ガリ版刷りの奇病調査報告書をまとめるのである」(p344)
日窒興南工場のありかたはそのまま水俣工場に引き継がれた。
Ⅲ、「植民地の民衆」 ~あらたな「梯子」が作られる中で
(1)支配民族の「目」
第三章では水俣などから興南工場とその社宅に移り住んだ人々について記す。前半は工場内の男たち(「鬼針金の鉄条網の中で」)、後半は社宅の女たち(「日本人社宅の奥さん」)である。
編者の興味は、「水俣から興南に渡った民衆は、転勤工員など一部の人を除いて、それまで最低の生活を強いられていた。」そのかれらが「カメレオン的に抑圧者に変身するのはなぜか」というところにある。
証言者の多くは「朝鮮は良かったですよ。朝鮮人のことは、付き合いもなかったし、よく知らんですよ」「私は別に朝鮮人にひどいことしたことないですよ」という回答が多く「意識的無意識的バリヤー」があったと記す。(P134)
しかし、個々の証言を見ると、そこには差別被差別のさまざまなメカニズムが存在したことがわかる。
証言者の多くは日本国内では貧困に苦しむ人々であった。ところが朝鮮に来ると朝鮮手当なども加えて国内とは比べものにならない賃金を手にし、水道や水洗トイレ、冬は暖房が使え、全戸に電気が供給され、電熱器で調理できる。社宅および商店街に住み、周囲の朝鮮人部落とは隔絶された生活を送っており、朝鮮人との接触は極めて限定的であった。
小学校の教師をしていた平尾義人は朝鮮人のことを意識したことがないという。(p181~2)
「朝鮮というところは、栄耀栄華というか、ほんと豪華に暮らせたんです」
女性たちは、着物を買い、贅沢な食事をし、あるいは朝から花札にあけくれた。色恋沙汰もおこった。呼び捨てにされていた彼女たちが「朝鮮ではどんなおかしな人でもおくさん」と呼ばれた。「朝鮮は、娑婆極楽じゃ。女極楽じゃ」と話す。
他方で、日本人たちは朝鮮人への差別意識を強める。
社宅の女性たちの間で流行したのが、無邪気で、卑劣でもある「遊び」である。日本語がわからず、計算能力も身についていない行商の朝鮮人女性に「いたずら」をするのである。小形キクはいう。「オモニは計算がよくできなかった。…卵でもリンゴでも一人が手に取ってみてる間に、他の一人が横からヒョッと取って後ろの転ばせば、気がつかずにいってしまう。それで”今日もやりましょうよ。二、三人よっといで”て毎日やりました。悪ふざけですよ」(p75)
こうして支配民族としての朝鮮人への目が定着する。それは朝鮮人たちの生活状態、衛生環境・衣食住の劣悪さといった生活環境の「現実」によって再確認される。
また朝鮮人工夫の作業の遅さ、能率の悪さ、怠惰さ、反抗的態度などが語られ、物品の持ち出しなど窃盗の頻発、粗暴さ、こうした「実態」が、朝鮮人への恐怖心とない交ぜになってかたられる。
それは朝鮮人の「実態」を利用しての日本人による傍若無人さ、乱暴を正当化する論理でもある。そして、暴力の行使、危険な職務のもかかわらない低賃金・賃金不払い、一方的な残業命令などが、こうした「現実」を理由に正当化される。しかしこうした「現実」や「実態」に追い込んでいる多くが、日本側にあることを理解しようとした証言はない。
(2)「植民地」という新たな梯子の出現
こうした「現実」や「実態」の背景にある、1930年代、工業化前夜における朝鮮人労働者の存在形態を安秉直は次のように論じる。
かれらは「機械制工場工業が必要とする規制的・集団的労働になれていないし、どんな熟練も身につけていない」「このような朝鮮人労働者階級の存在形態の落伍性は、目を見張るばかりの機械性大工業の突然の出現により、実際以上に強調されたために、そこに日本人労働者の機能的優越と優越意識(朝鮮人に対する差別意識)が加わって、技術者・熟練工の日本人労働者と非熟練工・自由労働者の朝鮮人労働者という植民地的雇用構造が定着したのではないか」というのである。(安前掲論文p133)
朝鮮人労働者の非熟練性、さらには規制的・集団的労働に対する未熟さは、両民族間の文化の違いとも相まって、差別を肯定する方向に動いたというのである。同様に近代化・工業化への不適応から被差別的な立場に追いやられていた下層の日本人労働者にとっては、自分たち以上に不適応を示す人々なのだから差別しても良いとみなし、自分を支配し差別する側に立たせることができたのである。
編者の岡本は「あとがき」で以下のように記す。
「植民地朝鮮が日本に持っていた意味は、生産社会の末端階層に居るかにみてた日本の民衆の下に、「支配」すべき異民族が突如として出現したという点にあった。民衆の階層内の地位は、梯子を登っていけば変わるが、梯子の下にもう一つ梯子を継ぎ足すことによっても変わるのだ。このことは、生産社会の民衆を論じるとき、階層における地位とその可変性あるいは固定性を考えることが重要であることを示す。生産社会の民衆は、多く支配、被支配の関係で論じられたきたが、それだけでは不十分である。支配される民衆、差別される民衆の論理とその世界は分かりやすい。支配する側の民衆、他者を差別する民衆の論理とその世界はわかりにくい。その全体を見なければ、民衆を論じたことにはならないであろう。」(p341)
日本人社会の末端で、支配され、抑圧され、差別され続けていた民衆は、その下に植民地という新たな梯子がつぎ足されたことで、支配し差別することができる「勝ち組」に姿を変えることができた。支配され、差別され続けていたからこそ、過酷な抑圧者となったものもいたようにおもわれる。
(3)上じゃて思わなければ、朝鮮人をつかわれん
福山兵市の証言は、植民地支配の本質を見事にいいあてる。
15歳の若さで興南に渡り、なんとか工場内に職を得ることができた福山は、年上でいうことを聞かない屈強な朝鮮人人夫を鉄棒で殴り、「朝鮮人に対しものすごく横着に」なることで「工場の中では朝鮮人は日本人にかなわない」ことを思い知らせることで、工場内の地位を確保する。
そしていう。「日本人は朝鮮人より一段上と思とったでしょう。こいつらはどんなことをしてもいい。お前らより上じゃて思わなければ、朝鮮人をつかわれんわけですもんね」「朝鮮はそういう制度になっていたと思うんですよ」「”朝鮮人の人夫を使って仕事をさせろ。仕事の内容はこれこれ”といわれれば、仕事させんといかんでしょう。…それが自分の仕事の責任となる。そいつを叩かんことには、自分が生活できないからですね。人夫の連中は昼仕事を残せば残業ができる。そういう計算までしとる。だから背中を見せねば仕事をさぼる。自分より下ができたと思わなければ、朝鮮人を使うことができない。そして朝鮮人を使わなければ、朝鮮じゃ生活していけなかったんです。」(p160~163)
この福山の証言を受け、編者はいう。
非抑圧者から抑圧者への変貌は瞬時に起こる。被抑圧者は抑圧が強ければ強いほど、自分も抑圧者になることを夢見ている。抑圧者への変身プログラムは、いわば被抑圧者の中で完成されている。植民地は、そのプログラムの実現を制度的に保障し、人種主義を正当化した。(中略)『朝鮮人と自分たちは同じ根で、どちらが上に乗るかだけだったかもしれない』という民衆の共食い、抑圧・被抑圧の民族的シーソーにこそ朝鮮植民地の特徴があったのではないか。(p134)
Ⅳ、植民地崩壊
(1)戦時体制の中で~高まる朝鮮人労働者の抵抗
植民地の日常は、日中戦争・アジア太平洋戦争のなかで次第に暗転していく。
安秉直によると、1935年から1944年の間に、朝鮮における日窒従業員数は0.8万人から5.5万人へ6.7倍増と急増する。民族別の比率を見ると、1934年段階での日本人と朝鮮人の比率3:1が、1944年には1:4と大きく逆転する。逆転した時期は1939~40年の時期と推測する。
この時期、総力戦体制が本格化し、従業員数が2.3万人から4.1万人と急増する一方、徴兵の強化による日本人労働者の減少が考えられるからである。こうした日本人労働者から朝鮮人労働者への置き替えは、朝鮮人をこれまでの非熟練労働者・雇員としての扱いから、熟練工普通工員として使役されるものの比率も高めていったと安は推測する。
そして日本人労働者=役付工員、朝鮮人労働者=普通工員ないし見習・試工員という構造は維持されてはいるものの、役付工員に上昇するものが生まれ、さらに普通工員の大部分を朝鮮人が占めるようになってくる。あれほど豊富だった朝鮮人労働者さえも不足し、朝鮮全土で、内地および半島内の労働力の強制的な徴用によって補わなければならない事態もすすんでくる。幼年工も送り込まれてくる。
こうしたなかで、工場の運営は次第に困難になりつつあったことが証言のなかでも見えてくる。
馬場隆雄はいう。「支那事変の頃までは、朝鮮人をバッチリ押さえていたし、また朝鮮人もいうことを聞きよった。日本は強いっていいよったですね。張鼓峰、ノモンハン事件の頃から態度が少しずつ変わり始めた。そして、大東亜戦争で日本人がどんどん召集され、朝鮮人の数が多くなっていくにつれて朝鮮人が強くなっていった。というのが、何々をやれと命令したとき、グズグズ文句言うわけです。やれどうとかでやれんという。」「朝鮮人は何のかんのと文句いうて、相手が自分よりつまらんと思えば、もうぐんぐん仕掛けてくるでしょう。もう力で対決するより方法はないですよ」(p207~8)
馬場は軍隊仕込みの制裁でかれらを押さえつけたが、多くの現場では次第に通用しなくなる。
山下秀夫は真面目に働く朝鮮人を責任者にしようとしたが、かれは朝鮮人の反感を買うことをおそれ断ってきた。反抗的な朝鮮人と酒を酌み交わし説得した経験なども話す。(p209~210)
力で押さえようとした組長に対し朝鮮人労働者が集団で抗議した事例や、暴動が発生し警察が出動した例などが多発、ついには憲兵が巡回しなければ治めきれない状態になった。(p216)
現場の暴力で沈静化することが困難となり、組織的な暴力にたよらねばならない事態が進行していた。
こうした間に、日本の劣勢を知った朝鮮人たちは来るべき日に向け準備を進めていた。
(2)敗戦とソ連軍侵攻、工場接収
「玉音」放送=日本の敗戦によって、日本人と朝鮮人の立場は逆転する。
朝鮮人たちは抵抗運動を開始する。「朝鮮人はもうマンセイ マンセイたい。日本が負けたのをこんなに喜ぶもんかて思ったよ」(p234)。その日の午後、糸田ヒサの家にボーイたちが「長い間お世話になりました。復讐に来ました」といって上がりこみ、夫は金を渡すしかなかった。(p232~3)
憲兵たちは飛行機で脱出、駐在所は襲撃される。
8月26日、ソ連軍が進駐、工場を接収した。兵士たちはシベリア送りとなる。
朝鮮人による報復が始まる。朝鮮人工員たちは「じぶんたちがやられたことをやるんだ」という態度をとり、保安隊は過去の組織的”犯罪”の追求を進めた。昔のやり方で仲裁しようとした日本人上司は薪で打ち据えられた。(p237~8)
ただ、打ち据えられた、暴力を振るわれたという証言は多いが、命を奪われたとの記載はみあたらない。
日本人たちは社宅を追い出され、かわって朝鮮人たちが住んでいた長屋に移り、朝鮮人たちが社宅に入居する。(p247~8)朝鮮人たちは日本人のもっていたものをほしがり、奪うとするものもいれば、交換しようとするものもいた。暴行する者もいればそうでないものもいた。
日本人と朝鮮人、立場が逆転、日本人たちは自分たちが朝鮮人をどのように扱っていたのか、その意味を身をもって知る。
遠野富三はいう。「平たくいえば、日本人さまが朝鮮やろうに、朝鮮人やろうが日本人さまになった。また、朝鮮人はまるで日本人になるのに一生懸命だった。いままで下にみとったものが、上になったのを見るとシャクに障って仕方なかった。でも腹の中に納めとかなければしょうがない。…ただ朝鮮人が憎かった。僕はもっとひどい朝鮮人の暴動が起きるかと思った。しかし、暴動といえるような暴動はなかった。」(p251~2)
敗戦時、困難には約25000人の日本人が住んでいたが、敗戦によって咸鏡北道から約1万1000人の避難民が流入した。
さらに戦争末期に送られてきた幼年工たちもいた。とくに厳しし状態に置かれたのはかれらであった。
「興南の冬はそれこそ草一本ないんです。寒くなったら、弱いものから栄養失調で死んでいく。幼年工、阿吾地などからきた避難民、主人を召集された家族、売り物がつきた人、金がなくなった人、年寄りと子供ですね。生きるか死ぬか、どうやって内地の土を踏めるか、みんなそれだけを考えていた。」(志水マツヨ)
「幼年工はほとんど正月までもたなかった。西本宮の朝鮮人社宅に行って、ヒョッと覗いてみたら、幼年工が4,5人せんべい布団1枚に足だけ突っ込んで寝ていた。顔も布団も白い。それが動く。ギョッとして見たらシラミたい。真っ白。それを取って除ける力もなかったんじゃな。」(成松末良)p265~266
ソ連軍の強圧と乱暴、飢餓と不衛生な環境、発疹チフスも蔓延、次々と死者が出る。高崎宗司によると、興南だけで死者は3042人、「北朝鮮」全土では約25000人に上ったという。(高崎『植民地朝鮮の日本人』p192)
今度は日本人が泥棒となり、工場では朝鮮人が日本人を働かせ始める。そこで、日本人はかつて自分たちが、朝鮮人に行ってきたことの意味を知ることになる。
斉所武安は証言する。
「労働仕事はしつけちゃおらんから、後夜勤に出れば、一日越しに行かんと、身体がもたんもんな。きつい仕事をサボッとれば”お前たちは何しとるか!裸になれ!”て兵隊の帯革で打ちよった。何か持って出れば、連帯責任でまた打ち寄るたい。それで立てて、朝鮮人が来ればすぐ合図するようにして、寝よったたい。朝鮮人は日本人のした通り、日本人は朝鮮人のしたとおり、やったとたい。」(p272)
避難民となって興南を逃れ、日本に向かうものが増えていく。
その途上、日本人の荷物を奪うものもいたが、それをとめようとしたり、喜んで日本人の持ち物と米や食料を交換してくれる朝鮮人もいた。「日本人に悪いことをどうしてするか。この連中は何の罪もないのに」といって。
坂下フジエはいう「もし、日本人を苛めようと思えば、衣服だけ取って食料やらなくても、どうしようもないのに、決してそんなことはしなかった。一ヶ月歩いて来れたのは、オモニたちのおかげです」(p292~3)。
敗戦をはさんでの日本人と朝鮮人の対応を見た場合、後者の方が人道的であったのはあきらかなようである。
(3)朝鮮人による興南工場の継承と日本人技師
興南工場では注目すべき動きが生まれていた。自分たちのためにこの工場という財産を生かすという朝鮮人リーダーたちの動きである。第四章の後半には、日本によって暴力的に建設されたこうした施設・設備を本来の持ち主である朝鮮民衆の手に取り戻そうとする朝鮮側の動きが、それに協力した日本人の側から描き出される。
一番恐れていたのは反日暴動が発生し、工場破壊がすすむことだった、そこで「反日暴動を起こさないように説得に全力を挙げ」さらに日本海軍による軍事部門破壊の動きを阻止するのに全力を挙げたというリンという共産党員の話を紹介するのは東大工学部卒の横井三郎である。
わずか一〇人前後のインテリがやってきて幹部となっても、なかなかうまくいかない。しかし、労働組合の結成では工場独特の強みがあったという。「人格とか性格とかみんな見てるから、あんまりでたらめな人は出てこないのですね。真面目な人が委員になりましたよ。…あの人出しとけば良くなるぞ、ということになりますね。」
日本人にこき使われていた工場内で、実は労働運動の芽が生まれていた。
リンたちは日本人を追い出すだけではうまく行かないことに気づく。
「いざ工場運転となると容易じゃない。ここの機械は回せても、全体のコントロールができない。朝鮮人は…工場を動かした経験がない。はじめは日本人を入れると、また勢力が復活するのではないかと恐れていたんですね。でも二ヶ月も止まってしまえば、これは大変だとなった。」
元日本共産党員と共産主義の知識を持つ日本人がパイプとなり、「帝国主義的支配民族たる観念を捨て、労働者たる観念で働く」という条件のもと人夫という形で数百人が働き始める。朝鮮側の選考により横井ら10人が技術顧問として迎え入れられる。
横井らが気づいたのは「朝鮮人の若いのがあちこちから集まって、意気軒昂としてやっている」朝鮮人は決して無気力でないことであった。工場が再稼働し始めたのが翌年2月、エンジンがかかりだしたのが一年半ごろ。横井も「えらいものですよ。最初は国造りのほんの初歩、それこそ政府がちょっとあるだけ」だから、しかもソ連軍の役割は治安維持程度で「実際はみな朝鮮人がやりました」と評価する。
そしていう。「いまだからいえるんだけど、ああいう時代は一面で本当に奇妙です。支配されていた側には、支配していた側への恐れが過剰に残る。それがオーバーアクションになる。日本人は戦争に負けちゃって気力も何もない。一刻も早く日本に帰りたいだけです。現実と観念の落差がひどい。朝鮮人は、日本人の時代にどうこうしたといってイロがつく。イロをつけられたらだめだと思うから、日本人の親切にするのは、隠れてせにゃいかんということになった。」
横井は、日本人がひそかに引き上げる中、「朝鮮に対して自分の責任もある」と思って残り、技術の授受が一応すんで、なんとか工場の運転もできるようになったのを見計らってから、胸をはって帰国したという。p274~9)
日本人の技術が必要ということで共産党のリーダーたちは「日本人を虐待してはいけない、日本人技術者から学ばなければならない」といった方針をうちだす。朝鮮の若者たちも「日本人はいつまでもいないのだから、今のうちに憶えるだけ憶えなければ憶えるときはないぞ」と熱心に学び、日本人技術者もそれにこたえて積極的に教える。
「みんな祖国再建の意気に燃えてていましたよ。いわゆる昔の人夫に至るまで、とにかく工場を運転せにゃいかん、て自分を犠牲にしてはたらいている」河村一男はいう。自分たちが見ていた朝鮮人像は「真っ赤な嘘でだった」「日本が搾取したと言われても仕方ないなあ」と感じたという。(p284~6)
技術者として協力した糸田ヒサの夫は帰国の際、波止場で盃を酌み交わし、蛍の光で送られたという。
(4)植民地工業総崩壊と「遺産」継承
北部朝鮮・興南工場での動きは「日本の植民地支配が終わったとき、日帝時代を通じて行われた驚くべき「開発」がまるで蜃気楼のように消えてしまい、解放後の韓国経済はまた日帝時代の初めの状態に戻ってしまった」(許粹烈『植民地朝鮮の開発と民衆』p10)という南部朝鮮の姿とは異なった道を歩んだことがわかる。
朝鮮北部で進んだ事態はアメリカ軍駐留下の朝鮮南部で進んでいた事態と好対照をなす。
日本帝国下で高級官僚であり、李承晩政権でも商工部次長などを歴任した任文恒は南部でおこったことを次のように記す。
「最もやっかいなのは、三六年間日本人に食い荒らされた後始末であった。この人たちは食い残しの財産中の一部を、万やむを得ずして、この地に残していった。それはたくさんの土地、屋敷、金融機関、山林田畑、鉱山、工場、株式有価証券、陸海交通機関、並びに商業施設が含まれていた。これらの全部が、差別の鉄鎖に区切られ、韓国人には事実上持つことが禁じられていた宝ばかりであった。」
(米軍政は)「これらを敵産として没収すると宣言し、米軍政に帰属する財産として、所有権を自分のものとした。それからアメリカ式の水っぽい、不揃いの規定のもとに、管理人を任命し、賃貸借契約を結び、払い下げへと、その処分範囲を広げていった。その給付金額は時価よりは、はるかに安かったので、この仕事を担当する米軍政官庁は、門前市をなし、英語の達者な人たちが智能の限りを尽くしてこの方面に暗躍し、一般人もこれにおんぶして、全国を射倖の巷へと駆り立てた。(「日本帝国と大韓民国に使えた官僚の回想」p299~300)
朝鮮南部に日本人がのこしていった財産は、アメリカ人の手ですっかりと売却されたのである。
この事情を木村光彦は次のように説明する。
米軍によって「『帰属財産』とよばれた旧日本人企業・工場の民間払い下げ、糧穀売買の自由化政策はその<市場経済の全面的復活の>一環である。帰属財産の払い下げは、買い手の選定や価格設定をめぐって大きな政治的問題を引き起こしたが、市場経済の発展をめざす米軍政はこの方針を変えなかった」(木村『日本統治下の朝鮮』p183)
「米軍は日本で行ったように、南朝鮮でも軍事工業の解体、民需中心の経済への転換を進めた。これを象徴するのが、三菱製鋼仁川製作所の兵器用鋼製造設備・製品の破棄命令である。(中略)日本人技術者は早期に帰国させた。かれらの引揚げは、南の産業復興を遅らせる一員となる。旧日本企業の無秩序な民間払い下げが、それを深刻化させた。」(木村p186~7)
こうした事態にたいし、論者はかつて以下のように書いた。
「日本の統治は、植民地の「果実」を奪い取ろうとしたものであった。その「果実」をより質が良くより多く手に入れるため「農場」を整備し「肥料」をあたえ最適の「技術」を導入したのである。いまその統治が終わり「農場」が残された。その「農場」はかつての「農場主」のやり方にになじんだものが用い、しだいに改良を加えることで、かつては持ち去られていた「果実」を自分たちのものと出来るのだ。しかし、それまでのやりかたを運用できる技術者は旧「農場主」の一族であったり、旧「農場主」一族に尻尾を振っていた「裏切り者」=「親日派」であるのだ。ここに新しい「国づくり」の難しさがある。」
「親日派」の一部は「日本が使っていたシステムの動かし方」を知っていた。その能力を借りなければ、植民地支配の中で日本のものと見えていたが、実は朝鮮人が作り上げてきたものを利用できなかった。かれらの能力を生かさねば、「システムの扱い方」を知らないものによって掠奪の対象となり、価値のないものとして破棄され破壊され、結果として国づくりの困難に結びついたであろう。「親日派」という「植民地近代の遺産が生かされた」との「苦い」結論もある面では妥当性を持つ。
(http://jugyo-jh.com/nihonsi/日本史aの自習室/「親日派」官僚における「植民地と近代」/)
南部では、植民地近代の遺産をアメリカが接収、多くはパフォーマンスを発揮させないまま、無計画にほぼスクラップとして処分した。それに対し北部はパフォーマンスを生かした「国造り」に利用した。
上の例えでいうならば、北部を支配した共産主義者たちは「農場」を解体するのでなく、「それまでのやりかたを運用できる旧「農場主」の一族」からその技術を引き継ごうとした。日本人に対する復讐という感情を組織的・理性的におさえ、帝国主義勢力の力を背景に日窒コンツェルンが、朝鮮の収奪の上に作り上げた巨大発電所(および豊富な電力資源)や興南の工場群という「果実」を高いパフォーマンスを維持したまま、手に入れたのである。
こうした南北の差が、1960年代までの工業力の「北高南低」という事態につながった。(朝鮮戦争における北朝鮮の当初の快進撃にもつながったと言えるのかもしれないが)。
ソ連という巨大な暴力の庇護のもととはいえ、国づくりに燃える「共産党」が国内を掌握し司令部として機能していた。共産主義的な統制がこの時期は効果を発揮したといえる。
これは朝鮮の内情を全く理解しないアメリカ軍が事実上占領軍として進駐、朝鮮民衆の主体的な国家建設を抑圧した南部とは異なっていた。その結果が、植民地近代の遺産継承と当面の工業化という面で大きな違いを生み出したといえる。
おわりに
日窒は、建材発展が遅れた朝鮮に、アジア最大規模の水力発電所を築き、世界最大規模の化学工場群を建設・操業した。NHKが放送した「プロジェクトX」にでもとりあげられるような快挙に見える。
高崎宗司は、水豊ダムの建設者で鴨緑江水力発電株式会社の社長でもあった久保田豊が、インタビューに訪れた趙甲済に語った次のようなことばを紹介する。
「少なくとも韓国では、私を恨む人は居ませんでしょう。」「わたくしの遺産は朝鮮に厳然と残っている。朝鮮民族のために、その遺産は大いに役立つだろう」
ただ、この証言に「強姦で生まれた子が遺児であるのは間違いないが、それが強姦を正当化させることはできないのである」という趙の批判もそえることを忘れない。(高崎p202)
水豊ダムなど世界最大規模の水力発電所群は朝鮮人や中国人を酷使し、大量の朝鮮人の生活を奪って建設された。最新鋭の興南工場には人命を軽視した実験すら不足している「最新鋭」の機械・設備が導入され、事故・労災が頻発する職場であり、技術者や労働者の生命と健康の破壊などはかえりみられない職場であった。その操業においては、朝鮮人工夫に対する暴力的支配や賃金未払いなどの契約不履行がまかり通り、環境問題への関心はみられなかった。そして元々の朝鮮人住民を排除してつくられた人工的な地域社会のなかで、内地で食いつめた日本人たちは「極楽」を満喫した。
これが植民地であり、帝国支配であったのだ。
本書で証言するのは、ほぼすべてが日窒にかかわった日本人であり、水俣などの貧しい家庭の出身者がおおい。かれらが植民地にわたることで、内地とは逆に、抑圧者・差別者の立場へと変身した。
帝国支配は、貧しい日本人をも支配民族の一員として「汚染」する。買い物と花札に興じる女性たちにとって、行商に来た朝鮮女性をいたぶり商品を奪うことは、豊かになった植民地生活における格好のレクリエーションであった。
しかし、植民地の日本人たちは、敗戦によって自分たちの行為の意味を知る。
立場が違うとはいえ、証言時、証言者の多くが豊かだった植民地時代を懐かしみ、久保田同様、その当時の行為を正当化し反省しているようには見えない。闇は深い。
従来の研究では、先に示したように「日帝時代を通じて行われた驚くべき「開発」がまるで蜃気楼のように消えてしまい、解放後の韓国経済はまた日帝時代の初めの状態に戻ってしまった」(許粹烈)といった説明が一般的であった。
しかし、すくなくとも日窒・興南工場では違った経過をたどる。朝鮮人の犠牲によって建設された日本人の工場をいかに朝鮮人のものとして生かすか、それにむかってすすむ朝鮮人と日本人の姿が描かれる。
とはいえ、この工場で作られた弾薬が朝鮮戦争で用いられ、工場を民族のものとして生かそうとしたはずの勢力の後継者が朝鮮人民衆に凶暴な権力を振るい、「祖国建設に来れ」との呼びかけに応え日本で生活をしていた朝鮮人に、日本以上の過酷な扱いを強いたのだが…。
近年は、日本による植民地期の工業化が、南北朝鮮の戦後の経済発展の基礎をつくったとの研究が主流になりつつある。
論者も過酷な植民地支配の中できわめてゆがんだ形であれ近代化・工業化がすすむ。しかしこのゆがみのゆえに、帝国の突然の瓦解、民族分断、朝鮮戦争、冷戦という事態もあって、「植民地後の近代」実現のため苦闘せざるをえなかったと理解している。(たとえば次の文章を参照)
統計のみを重視し、植民地支配の罪悪を軽視する傾向がみられることは許しがたいとかんがえる。
朝鮮半島の人々は、帝国支配下の惨めな「近代」を利用し、自らをきたえあげることで「帝国以後の近代」を築いていくという宿命をになわされる。植民地からの解放は出発点に過ぎず、新たな建設の道は、南北ともに過酷な道であり、民衆はともに独裁政権下で苦しみを強いられる。
日本人は、本書に示されたような事実を凝視して、未来を、「帝国以後の東アジア」のありかたを、模索する必要があった。しかし、こうした観点は看過され、久保田のように「いいことも悪いこともした」といって発電所や工場を例にあげる。
本書は、このような居直りを撃つものでもある。
<対象とした文献・参考文献>
岡本達明・松崎次夫編集『聞書水俣民衆史(5)植民地は天国だった』(草風館1990)
<参考文献>
任文恒『日本帝国と大韓民国に使えた官僚の回想』(草思社2011)
安秉直「1930年代における朝鮮人労働者階級の特質」
(中村哲・安秉直等編『朝鮮近代の歴史像』(日本評論社1988)
許粹烈『植民地朝鮮の開発と民衆』(保坂祐二訳・明石書店2008)
高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』(岩波新書2002)
木村光彦『日本統治下の朝鮮』(中公新書2018)
堀和生『東アジア資本主義史論Ⅰ』(ミネルヴァ書房2009)
李栄薫編著『反日種族主義』(文藝春秋2019)とくに金洛年論文