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「理蕃」政策と「高山族」のたたかい
~「霧社事件」にいたる経過、そして高砂義勇隊へ~
霧社事件とは
今日は霧社事件を中心に見ていきます。
霧社事件とは、1930年に日本の植民地であった台湾で原住民族(「高山族」)たちが起こした武装蜂起と、それに対する日本側と高山族の一部に鎮圧作戦の総称です。
といっても、聞いたことがないという人が大部分でしょう。霧社というのは、台湾のほぼ中央、山岳部にある川沿いの地域の名前であり、またエスニックグループにひとつタックダヤ族群の日本名でもあります。
もともと台湾緋桜が咲く美しい場所でしたが、日本統治後は吉野桜なども植えられ、事件のころにはすでに桜の名所として有名でした。
この地は、もともと高山族(当時は差別的なニュアンスをこめて「蕃族」とよばれていましたが、事件後は「高砂族」とよばれ、戦後の「民国」時代になると「高山族」ともよばれるようになりました。かれらは自分たちを「原住民」と自称します。ちなみに彼らの言葉で「先住民」はすでに滅亡した民をさすので用いられません。)が狩猟や焼畑などの農業で生活を営んできた土地でした。
しかし、1895年以降日本人が侵入、長いたたかいをへて統治下におかれ、日本化=「文明化」のモデルとして扱われました。それはかれらの伝統や文化を破壊するものでもあり、過酷な日本の統治と差別はかれらの「民族意識」をよびおこしました。
1930年10月27日、霧社のタイヤル族(現在はセデック族という独立したグループとして扱っている)のなかの6部族が蜂起、現地の日本人を襲撃、郡長をはじめ、女性・子どもを含むほぼ全員、計134人を殺害しました。これが霧社蜂起です。
日本側は数千の軍隊と警察部隊を動員、徹底的な掃討作戦をすすめます。しかし地理を知り尽くしたかれらの抵抗は頑強でした。日本側は、飛行機・大砲など最新の武器、ついには毒ガスを使用、そして蜂起しなかった霧社群や周辺の部族を鎮圧のため動員しました。
こうして蜂起した戦士や家族の多くが戦死または自殺し、のこりの人々が投降しました。抵抗は約50日間つづきました。この一連の出来事全体を霧社事件と総称します。
先住民タイヤル族(セデック族)の一派による抗日戦争ととらえることができます。
しかし、事件はそれでは終わりませんでした。投降した人々や家族を日本軍に協力した部族が襲撃、約半数を殺害しました。これを「第二霧社事件」とよびます。生き残った人は「川中島」(現在は「清流」)とよばれた地域におしこめられました。
概略は以上です。
事件は「セデック・バレ」(2011)という台湾映画に描かれ、台湾で大ヒットしました。この映画では、セデック人はセデック語(死語になりつつあった言語です)を、安藤政信や木村祐一など日本人キャストは日本語を、そして日本のテレビでも人気者だったビビアン=スーは両方のことばを用いるという独特の手法を用いています。ちなみにビビアン=スーの母親はタイヤル族であり、彼女も多額の資金援助をしました。この映画はAmazonプライムビデオなどで見ることができます。
漢人の大量移民と原住民族
まず台湾における原住民族と大多数を占める漢人との関係について見ていきましょう。
台湾の人口の大部分をしめる漢人は、おもに清の時代に福建省や広東省から渡ってきた移民の子孫です。移住してきた漢人は、平地で米や甘蔗を中心に家畜飼育を組み合わせた農業に従事、人口の増加と共に耕作地を西海岸から中央台地へと広げました。
しかし、台湾には以前からマレー系諸族が原住民族として住んでおり、狩猟や焼畑など移動農業をしていました。
しかし漢人が大陸から大量に移住、かれらの狩猟地を農地に変えていきました。契約などの風習もないことなどもからんで、平地に住んでいた原住民族(のちの「平埔族」)は土地をうしないます。さらに清が漢人の移住制限をしていたため、漢人男性と「平埔族」女性との婚姻が行われ、その結果、土地が漢人に移ることもありました。漢化する者がいる一方で、東への移動した原住民族のひとたちもいました。
漢人の移住と農地の拡大、平埔族の東方への移動によって、山岳部で狩猟生活をし、狩り場をめぐる部族間の抗争をくりかえしている山岳民族(高山族)の生活圏にも影響を与え始めます。
19世紀中期、欧米資本主義の東アジアへの進出が本格化、台湾も世界市場のなかに組み込まれます。そこで有力な輸出品として注目されたのが茶や樟脳でした。
茶の栽培地である丘陵部、樟脳の原料の樟が繁茂する山岳部は高山族が生きている「宇宙」でした、そこへも漢人が進出、高山族との衝突が本格化し始めました。
こうした漢人と原住民族の関係は、アメリカ大陸での白人とネイティブ=アメリカン(「インディアン」)、北海道での和人とアイヌの関係と似ているともいえるでしょう。
ところが台湾では、そこに日本人という新たな侵入者がやってきたことで、三層構造となり、台湾を植民地化した日本人が清国人にかわって山岳部に侵入、高山族との激しい争いを繰り広げるのです。
「台湾征服戦争」と漢人たちの抵抗
1895年、日清戦争と下関条約で、清国は台湾及び澎湖諸島を日本に割譲しました。
これに対し台湾では官民挙げての抵抗運動が発生、台湾民主国の独立が宣言されました。
このたたかいの中心は農民を中心とした漢人義兵たちです。かれらは猟銃や竹槍で武装し、激しいゲリラ戦が繰り返しました。台南占領までの5ヶ月間でかれらの犠牲者は14000人にのぼり、北部での蜂起にたいする報復でさらに犠牲者は増加、この1年で約17000人の漢人が命を失いました。
他方、日本側の被害も甚大でした。戦死者は少なかったものの熱病(マラリアなど)が猖獗をきわめ、近衛師団長・北白川宮をはじめ数千人に上る戦病死者がでました。
いったん台湾の平定を宣言しますが、激しい抵抗運動はつづきました。日本陸軍の乱暴な鎮圧のやり方自体が、あらたな抵抗の原因をつくった面が大きかったといえます。
大江志乃夫は、台湾征服戦争を三期に分けています。
1896年3月までの全島の軍事的制圧までが第一期、漢族系平地住民のゲリラ戦戦闘が続いた1902年までが第二期です。この時期、激しい抵抗にてこずった日本側は「匪徒刑罰令」を制定、少しでも抵抗のそぶりを見せたものをすべて死刑に処することができるようにします。
1896年の軍政廃止以後、多くの要職を兼ねる台湾総督児玉源太郎のもとで約10年間台湾統治のトップの地位にいた後藤新平は、のちに1898年から1902年までの五年間に「叛徒」1万1950人を処刑もしくは殺害したと語りました。
高山族との抵抗と「理蕃」政策
平地部の農民を主体とする漢人ゲリラ的の抵抗が下火になってきた1906年頃からが第三期です。日本に対する抵抗の主力は山岳部にすむ高山族にかわっていきます。大江は『理蕃事業5カ年計画』のもとで「山地に住む先住民族である高山族(高砂族)を軍事的に制圧する時期」と位置づけています。
後藤の上司、台湾総督児玉源太郎にとって高山族は邪魔な存在でしかありませんでした。児玉は高山族を「野生禽獣ニ斉シ」とみなし、「前途ノ障碍ヲ絶滅センコトヲ期スヘキナリ」と高山族の絶滅すら構想しました。
しかし児玉の知恵袋でリアリストの参事官・持地六三郎は「兵ヲ損シ資ヲ糜ス策ノ得タルモノニアラズ」、多くの兵を損じ、費用がかかるという理由で反対、「威シテ而ル後撫スル」方針、武「威」つまり軍事力で屈服させ、そのあと「撫」民政策をとることを主張、このやり方が採用されました。
そのやり方は「野生動物」を捕獲するやり方に似ています。隘勇(あいゆう)線という「囲い」を設置、その「囲い」を狭めていくことよって原住民族が動きにくくし、経済封鎖によって弱体化させ「帰順」させるやり方です。
具体的にいうと、まず官庁の命令への絶対遵守・隘勇線内への進入禁止などの「帰順」勧告をだします。それに従わないものに対し隘勇線から奥地への塩や銃の流入を禁止、最後に近代的兵器を装備した軍隊や警察隊を投入し攻撃、抗しきれず帰順したものから銃器を取り上げます。銃器は狩猟に欠かせないものであるため、その押収は狩猟中心の生活から農業中心の生活へと変化させる意味も持ちました。
隘勇線は道路と塹壕で形成され、電流を流した鉄条網や地雷で出入りを困難とし、重要な場所には堡塁をもうけて大砲などを設置します。日本人(沖縄出身者が多く採用されます)の警察官や、日本人(やはり沖縄出身者が中心です)・漢族・平埔族などからなる隘勇がその地におかれました。
当初、隘勇線設置の作業は漢人たちに割り振られたため、反乱を引き起こすきっかけにもなりました。その後、この作業は屈服し「和解」した部族にゆだねられます。かれらを動員し、生活圏をとり込む形で隘勇線は奥地へとすすみました。
隘勇線はアメリカ史の「文明」と「野蛮」の間の「フロンティア」と似ています。
外側にいるものは「政府の撫化によって基準した多少文化に染んだ蕃人」=「熟蕃」であり、内側に残っているものは「我に帰順しない蒙昧で凶暴な」「生蕃」というふうに。
ただアメリカのフロンティアは想像上の線であったのに対し、隘勇線は実際の軍事施設を備えたものでした。
日本側は、なぜこのように無理をして山地に進出したのでしょうか。そこには化学工業の原料であった「樟脳」の存在がありました。総督府は、不足しがちな財政を自主財源としての樟脳の専売化でまかなおうと考え、協力する商人たちの要求を受け容れ、山岳部への進出を図ったからです。
軍隊による「威」が一段落すると、次は「撫」を担う警察の出番です。台湾、とくに高山族に対する警察の役割は非常に大きなものでした。
鄧相揚は、霧社事件当時の警察の霧社分室の仕事をつぎのようにまとめています。
「霧社分室は二四の駐在所を管轄し、警部1人、警部補3人、巡査部長11人、巡査112人、警丁127人をかかえていた。警察の組織であるだけでなく、政治、経済、文化、教育、保健、司法、特務など、様々な機能が集中しており、名実ともに権力の中枢であった。業務は、警備、情報収集、懲罰裁判、養蚕指導、水田指導、教育、医療、交易、建設作業、道路工事など」。
治安にとどまらず、農業指導や教育、医療、土木工事など植民地行政の大部分が警察組織を通じてすすめられたことがわかります。植民地支配は警察機構・網によって維持されていたのです。
隘勇線の進出に伴い道路が開かれ、道路沿いに駐在所などができ、その一部として診療所や学校(「蕃童教育所」など)が設置されます。こうしたものの担当も警察でした。
そして治安が安定したのを見て商店などが進出、日本人や漢人が入り込み「日本化」がすすみました。
「霧社」とその周辺の変化
「理蕃」政策の多くは、霧社周辺の経験に基づいてすすめられたようにみえます。
1896年、総督府と関係が深く現地のことばも理解した埔里(ほり)社支庁長の桧山鉄三郎と仲間たちがはやくもこの地にあらわれます。かれらは頭目ら支配層との結びつきを強め、桧山は霧社群の頭目バッサオの娘を妾にしました。高山族の頭目などの娘と警察官などとの結婚をすすめることで関係を強化する「蕃婦妻帯」政策の出発点となりました。しかし桧山が強盗などの容疑でこの地を追われるとバッサオの娘は置き去りにされます。このように日本人と結婚した女性たちの扱いはあくまでも「現地妻」あるいは「妾」であり、「夫」の帰任とともに多くが置き去りにされる運命をたどりました。
1897年には霧社山域に入った日本人調査隊14人全員が殺害される深堀事件が発生します。これにたいし日本側は報復としてこの地域に塩や鉄器など必需品の持ち込みを禁止する「生計大封鎖」を実施、交易所も閉鎖させます。兵糧攻めですね。こうしたやりかたが「隘勇線」という政策の出発点にもなりました。(この政策自体は「清」時代からつづいていたものです)
その後、日本軍は何度も霧社方面への進出を図りますが、霧社群の人々の激しい抵抗の前に失敗をつづけます。こうしたなかで発生したのが1903年の姉妹ケ原事件です。「生計大封鎖」とくに塩の不足は霧社群の人々を苦しめていました。それを見計らうように他の部族が交易を持ちかけます。交易の成功を祝い、酒盛りが行われました。しかしこれは罠でした。霧社の人々が酩酊し寝静まった隙をねらって敵対する部族がかれらを襲撃、百人近くいた霧社の人で生きて帰り着いたのはわずか数人という惨劇でした。その裏で日本側が動いたことはいうまでもありません。
日本はさらに圧力を強めます。1905年の七部族をきっかけに、「生産物資の交易再開」を条件につぎつぎと部族が「和解」し、隘勇線は延長されました。
桧山の後を継ぐかたちで浸透をはかった近藤勝三郎らは、各部族の指導者の女性(そのなかには霧社蜂起の指導者モーナ・ルーダオの妹もいました)らを次々と妻や妾として迎え、高山族との関係を深めました。高山族のリーダーにとっても近藤らとの結びつきは霧社群のなかでの力関係を変える力も持っていました。霧社事件のリーダー、モーナ・ルーダオも近藤との結びつきを利用して力を伸ばしたといわれます。近藤の働きもあって隘勇線は奥地へと伸び、高山族への監視も強化されます。他方、高山族の諸部族はますます活動の場を狭められます。日本支配への不満が高まりました。
1919~20年サラマオ・スカヨウ両群が日本に対して抵抗すると、近藤らは霧社群の他の部族を脅迫し「出草」という高山族の中にあった首狩りの風習をも刺激して「味方蕃」として組織、鎮定に向かわせました。すでにこの時点で霧社事件の構図がみえています。この時点で霧社事件のリーダー、モーナ・ルーダオは対日協力者=「味方蕃」でした。
「蕃婦妻帯」政策はたしかに日本人と高山族を接近させました。しかし同時に高山族の「ガヤ(掟)」に反する一夫多妻を認める面を持ち、妻子の置き去りは日本人への反発の原因となりました。
また市場経済は高山族の持ち込む物資の価格を乱高下させます。しかしその仕組みを理解できないかれらは日本側の着服とみなしました。道路建築や材木の伐採・製材・運搬など労役にたいする賃金はあまりにも少なく、これも警察官などが着服したとみなしました。事実でもそうした例もあったでしょうし、警察官の事務能力の低さのせいでもありました。しかし、もっとも彼らの怒りを募らせたのが、警官官などの日本人が、かれらを「野蛮な『生蕃』」とみなした侮蔑的態度であり、差別的待遇であり、殴打などの暴力でした。単に反発を引き起こす以上に、部族の尊厳をおかす行為でした。
こうして霧社周辺の高山族は日本側への怒りを蓄積していました。にもかかわらず、霧社はモデル地区として表面的な安定がつづいていました。
「事件」直前の霧社と花岡一郎・二郎一家
霧社一帯は「撫育」においても先進地でした。1910年には霧社療養所が設置され、それをきっかけに次々と医療施設が作られ、そこでは警官が高山族のひとびとに薬を与えていました。産業指導所などが作られ、焼畑による粟栽培を水稲耕作に改め、家畜栽培なども奨励されました。貨幣経済が導入され、交易所も作られます。
警察官が各部落の有力者を集めた「頭目・勢力者会議」を開催しました。さらに指導者の一部を「文明」化された台湾各地や日本内地への旅行に連れ出しました。近代化された軍隊を見せることで、抵抗しても無駄であることを認識させようとしたともいわます。モーナ=ルーダオも日本を訪れました。かれらは、一方では日本軍の強さを認識し抵抗の困難さを自覚しましたが、他方で内地の日本人と比べて現地の警察官などのあまりの行状の悪さも再確認したといわれます。
霧社では1910年布教をかねて僧侶が子どもたちへの授業をはじめ、1914年以来「蕃童教育所」が各地に設立されました。1916年には霧社公学校がおかれる一方、他の部落には「蕃童教育所」がもうけられます。他方、増加する日本人子弟のための「霧社尋常小学校」が設置されます。
霧社は桜の名所として台湾中部の観光でさかえ、郵便局、旅館、酒屋、雑貨店、樟脳製造会社が開かれました。漢人も商店を開きます。道路の一部には軽便鉄道も設置されました。
このように霧社の「日本」化がすすみました。
こうした日本化のモデルともいうべき人間が「花岡一郎」「花岡二郎」ら数人の高山族出身の若者でした。有力者の子弟で「公学校」でも優秀な成績であったかれらは公学校から日本人の子弟が通う尋常小学校への入学が認められ、さらに台中師範学校講習科への進学も認められました。日本風の「花岡」姓をあたえられ(二人は兄弟ではありません)、一郎は「巡査」に、二郎は警察官の下役である「警手」へと任命されました。そして、同じく「蕃童特別教育」をうけていた「高山初子」「川野花子」と結婚させられます。かれらは、学者に高山族のことばや風習を説明するなど高山族とくにタイヤル族のエリートであり、「理蕃」政策のモデルでした。
このように霧社一帯は、総督府と高山族との間の抗争が最も早くから起こった場所であり「理蕃」政策の出発点であり、かつその成功例とみなされた場所でした。こうした場所で霧社事件が発生したのです。
「文明化した『野蛮』」に強要された「文明」
「理蕃」政策は高山族を力で屈服させ、資源を奪い、生活を破壊するものでした。結果としての森林破壊と銃器の取り上げは狩猟生活を困難にします。水稲耕作や家畜飼育、土木工事などの労役と現金収入はかれらの経済・生活基盤を大きく変えました。
「名誉の証」である「出草」(首狩り)は野蛮な習慣として否定されます。入れ墨も同様です。「日本化」・「文明化」の名のもとに、社会改造があらゆる分野にひろがりました。しかし「文明化」は軍と警察による圧倒的な暴力と、自らを「文明」の立場におき高山族を「野蛮」とする差別を前提としていました。「日本ー総督府ー台湾警察組織」が「文明」を大量殺戮など暴力によって押しつけ、高山族の生活・伝統・文化を破壊する「文明化された『野蛮』」そのものでした。
日本人がもたらした「文明」と「文明化された『野蛮』」は高山族を根本から変えつつありました。花岡一郎・二郎とその家族は和服を着て日本語で生活する「帝国臣民となった『生蕃』」のシンボルであり、「大和民族の価値観を規範」とする「帝国支配」が野蛮な「生蕃」を「文明」化した成功を内外に示す「宣伝塔」でした。
「日本化」=「文明化」がすすむと日本人の支配や価値観を受容する人々もあらわれます。それは同時に、自分たちを「野蛮で落伍したもの」として見るネガティブな感情をも付随しており、伝統的な生き方を否定する傾向をもっていました。これはかれらを律してきた「ガヤ(掟)」にもとずく生き方、伝統と文化を揺るがす、アイデンティティの危機そのものでした。これは霧社一帯が、「理蕃」政策の出発点であり、かつ成功例であったことからこそ深刻化した問題でした。とくにモーナ=ルーダオたち高山族のリーダーにとっては部族の存立基盤を揺るがす問題であり、自らの誇りと名誉というアイデンティティの危機でした。
この時期、この地を「文明」のモデルとすべく近代化をすすめていた日本側は、見た目も「文明化」すべく、日本風の建造物を次々と建てています。しかしその資材は霧社近辺の山岳部から切り出し、運び出されました。それは「狩り場」としての森林の破壊であり、搬出などの強制労役が頻繁に行わることでした。こうして住民たちの苦痛は耐えがたくなっていきます。しかもその賃金は極端に安く、作業に際し警察官たちは「驕り高ぶった横暴な態度」をとりました。不満は爆発寸前にまで高まっていきます。
この地の「文明」化は、日本軍の暴力と差別という「文明化された『野蛮』」を背景にすすめられていました。しかし日本側はその意味についてあまりに無自覚でした。
「霧社事件」の発生
1930年10月、霧社群のひとつマヘオ社で婚礼がありました。モーナ=ルーダオの息子タダオ=モーナは通りかかった巡査へ敬意をはらうべく祝賀の酒をいっしょに飲もうと誘います。しかし巡査はそれを拒み、さらにステッキで彼を打擲しました。巡査は激怒した村人たちに反撃され、暴行されます。
マヘオ社の頭目モーナ=ルーダオの謝罪は受け入れられず、事件は日本への反逆として扱われました。こうして、蓄積された怒りは、蜂起をもとめる声にかわり、モーナ=ルーダオは決起をもとめられます。日本での体験から蜂起に慎重な姿勢もついに決意、他の部族にも参加を求めました。
ただかれは情勢を読み間違ってもいました。多くの部族はたしかに日本への反発を持っていました。したがって自らが蜂起すればセデックの全部族だけでなく、周辺の諸部族も参加すると考えていたといいます。しかし実際に蜂起に参加したのは12あるセデックの部族のうちの6部族にとどまります。他の6部族は参加を拒み、周辺の部族で蜂起に参加したものはありませんでした。
10月27日、電信線などの切断によって周囲との連絡を絶った上で、かれらは周辺部の駐在所の襲撃から蜂起を開始します。そしてその日、霧社公学校で行われていた運動会に乱入、そこにいた老若男女をとわず日本人すべてを襲いみつけしだい殺害しました。かれらにとっては、禁止されていた「出草」(首狩り)という名誉ある行為を復活させたものでした。他方、和装して間違えられたものを除き、漢人は一切襲われませんでした。「出草」を果たした若者は入れ墨をいれる栄誉を得ました。
こうした一連の行為は、自らの誇りと名誉というアイデンティティを回復する「儀式」であり、「ガヤ」に従った行為として認識していました。
蜂起に参加した部族、「味方蕃」を選んだ部族
ここでは事件の具体的な内容をさけ、いくつかの点のみ見ていきます。
ひとつは蜂起への参加をめぐる問題です。ホーゴー社の頭目タダオ=ノーカンは呼びかけに対し、参加を躊躇、部族の人々の参加を極力抑えようとしました。実際に日本を訪問した彼は日本軍の力をよく知っていました。しかし、多くの若者が蜂起をもとめるなか、頭目であるかれは抗日の先頭に立つことが「ガヤ」であると考え、蜂起に参加します。
他方、霧社群のなかの最大部族群であるパーラン社の総頭目ワリス=ブニは蜂起参加を拒否します。その背景には「姉妹が原」事件がありました。事件で殺害された人々の大半がパーラン社であり、そのあまりに大きな被害が部族に与えたダメージを熟知していたからです。勝ち目のない戦いに参加し部族自体を消滅させることは「ガヤ」に反すると考えたのです。
彼は日本人に積極的に協力します。事件直後、日本人救出に向かい、生き残ったものを保護します。さらに日本側の拠点・埔里へ使者を派遣し、自分たちは蜂起に参加していないことをアピールします。
しかしパーラン社のように不参加を決めた部族のなかにも蜂起にかかわったものがおり、蜂起した部族には親族や知人がいます。それは日本側の不審の念を与えます。そのためかれらは日本への協力を形にしてしめす必要がありました。
蜂起した部族は、予定外のスピードで進攻してきた日本軍との直接の戦いをさけ、森に逃れ、地の利を生かしたゲリラ戦を展開します。日本軍は苦戦に陥り、その被害は拡大していきます。
日本軍がそれまでの飛行機・大砲・機関銃といった近代兵器に加えて採用したのが毒ガスでした。毒ガスは国際法で禁止されており、そのことは日本軍もよくわかっていました。にもかかわらず、森に潜む「敵」に対抗する適当な兵器が見当たらなかったのです。これはゲリラや家族にとっても非常な脅威でした。この時期のゲリラ側の自殺の急増は毒ガスの影響ではないかとの説もあります。日本軍は効果を確かめるため医師が派遣され、現地で解剖を行っている写真が残っています。日本軍が毒ガスを使用したのではないかという記事はただちに台湾の新聞に掲載され、帝国議会でも取り上げられ、当時の陸軍大臣は苦しい答弁を強いられました。
今ひとつが、蜂起しなかった他の部族を戦闘に参加させる「夷をもって夷を制す」やりかたです。日本側は、協力を約した部族に「味方蕃襲撃隊」を組織させ、蜂起側の「首」に懸賞金をかけ、銃と弾薬をあたえて討伐に向かわせました。廃れていた「出草」(首狩り)という風習を認めることで、かれらのアイデンティティをもよびおこさせたのです。「敵首祭」なども復活しました。双方が「出草」という風習にもとづき戦うことになりました。
飛行機や大砲の砲撃、毒ガス、さらに地形を熟知する同族による「出草」、蜂起した人々はしだいに追い詰められました。タダオ=ノーカンも、モーナ=ルーダオの子どもたちも戦死、モーナ=ルーダオは山中に姿を消しました。(のちに死体が発見されます)。
その後、あるものは日本側の呼びかけを受け容れて投降、あるものは「自殺」を選びました。投降したものは「保護蕃」とよばれました。
しかし「保護蕃」も安全ではありませんでした。
裁判にかけるとして連れ去られたものは何らかの形で「処理」され、誰も帰ってきませんでした。
そして「保護蕃」を「味方蕃」が襲撃、「出草」の対象としました。第二霧社事件です。日本軍がかれらから武器を回収することを遅らせたこと、「保護蕃」警備の日本兵が何ら行動をおこしていないことなどからみて日本側が凶行の背後にいたことは明らかです。日本政府・総督府が霧社事件の特殊性を考慮して法的措置を問わなかったことの対する現場の超法規的処置であったとの推測もあります。
わずかに生き残った人たちは埔里から約20キロの所にある川中島(現、清流)という地域に移住させられ、厳重な管理下におかれます。事実上、強制収容所です。蜂起した部族の土地は「味方蕃」の部族に分け与えられました。
花岡一郎、二郎一家の自死
蜂起は、個々の人間をも引き裂きました。
花岡一郎、花岡二郎とその一家は厳しい決断を迫られました。二人は以下のような遺書を残し、妊娠中の二郎の妻初子ひとりを残し全員が自殺(無理心中)を行ったことです。
花岡兩
我等は此の世を去らねばならぬ
蕃人のこうふんは出役が多い為にこんな事件になりました
我等も蕃人達に捕らはれどふする事も出来ません。
昭和五年拾月弐拾七日午前九時
蕃人は各方面に守つて居ますから 郡守以下職員全部公学校方面に死せり
— 花岡二郎
花岡、責任上考フレバ考フル程コンナ事ヲセネバナラナイ全部此処二居ルノハ家族デス
— 花岡一郎
この遺書がどこまで真実か、ほんとうにとらわれどうすることもできなかったのか、それともより能動的にこうどうしたのか、実際のかれらの行動はよくわかりません。(映画「セデック・バレ」は蜂起に反対しつつ、最終的には蜂起したものたちに銃や砲弾を供与するという形で描いていました。)
二人のおもいについて、鄧相揚はこのよう考えています。
高山族にとっての最も重要なルール(掟)が「ガヤ」です。これにしたがい、一郎・二郎らの一族も蜂起し、日本人とたたかいました。しかしかれらとともに蜂起に参加すれば自分たちを育て「文明」化させてくれた日本に対し「不忠」「不義」となります。逆に日本側に立って自分たちの親族や部族とたたかうことが「不忠」「不孝」となることはいうまでもありません。いずれの道をとっても、ガヤに違反することになり、ガヤに背いたものは、「ガヤ」によれば自殺して罪を謝すべきことでした。
日本人によって「日本精神」をたたき込まれたエリート高山族のかれらは、自らの生まれ部族が自分たちを育てた「日本」にたいし激烈な蜂起をおこすなかで、いき場所を失いました。自分たちを律する「ガヤ」によってかれらは引き裂かれました。ガヤは、かれらに自ら死を選ぶ道しか残っていなかった。
日本側は、当初はこの二人が事件の首謀者であると考えました。これだけの計画的な行動は日本の教育をうけたかれらでなければ不可能であると推測したからです。高山族への無理解がうかがえる見解です。しかし、このような評価をすることは高山族に教育を与え大和精神を植え付け「帝国臣民」化するという「撫育」方針の失敗を認めることでもあります。日本側も難問を抱えました。
こうした状況を一変させたのはかれらが自殺したこと、そのときの状況でした。花岡一郎夫妻は和服を着て日本式の切腹自殺でした。また壁には上記の遺書がのこされていました。
これによって評価は激変します。かれらは蜂起を食い止められなかった責任をとって日本風の切腹をもって謝罪するという大和精神をもった人間だという評価がなされます。
日本式の教育が「生蕃」に武士道の精神を植え付けたと肯定され、「台湾臣民」(「皇民化の目標とされる高山族」)をつくる皇民化教育のモデルとなります。
霧社蜂起が引き起こした変化
霧社蜂起は、「日本人」にとっては蕃族の「野蛮さ」を示す凄惨な出来事であり残虐性は目をおおわしめるものでした。他方、近代兵器で武装された日本軍と50日間にわたって互角に戦った勇敢さ・不屈さは賞賛に値すると考えた人もいました。また花岡一郎・二郎の死は、日本で失われた「武士道」がこの地に引き継がれたとの「感動」を生みました。
熱帯のジャングルなど悪条件での耐性と戦闘能力に注目したのは、ほかならぬ日本軍でした。日中間の対立を背景とする漢族の向背への不安から、かれらを親日派として育てるという考えも生まれました。
霧社事件は、高山族にたいする見方を変え、「理蕃」政策に変化をもたらすきっかけとなりました。蜂起の原因を調査することで高山族への過酷な扱いも明らかになりました。1935年には「野蛮」ということばを連想させた「生蕃人」にかえて「高砂族」との呼び方が用いられ、霧社近郊のひとつの山が「花岡山」と名づけられました。なお「熟蕃」と呼ばれた人々は「平埔族」とよばれるようになります。
藤野陽平は「霧社事件のあと、日本の政策はよくなった。むやみに人を殴らなくなったし、むやみに人をこき使うこともなくなった」という証言を紹介し、この政策変化を「威圧的政策から洗脳的政策へ」と評しました。
暴力と「生蕃」への侮蔑を前提とする「理蕃」政策は、「天皇の赤子」「帝国臣民」として「高砂族」を位置づける「皇民化」政策へと変わります。それが戦争に「帝国住民」を動員する総力戦の必要性から生じていたことはいうまでもありません。
藤野は、皇民化政策を、漢人が「声には出さないが…嫌悪するという『反日』的状況」とみていたのに対し、「原住民社会」は「『反日』から『親日』という動きを見せ」たと考えます。
「日本を肯定的にとらえている証言を探し出すのに苦労はしないが、否定的にとらえていたという証言はひとつもみられない」
とも。
「日本語教育の定着」と高山族の「臣民」化
藤野はさらに「国語常用運動」のなかで「日本語ばかりを使ううちに、自然と日本人になりきったような気分にな」ったことを指摘します。「軍隊に志願することで、霧社事件に際しての国賊というか、心の中で名誉挽回しようという気持ちもあった。忠実なる国民になりきるというかこれで日本人と平等になったという喜ぶがあった」という霧社事件で父親を殺された清流社(旧:川中島)の人物の証言も紹介します。
20世紀初頭に始まった日本語教育は急速に広がりを見せ、日本語は「青年会」「夜学会(国語普及会)」を設置することで成人さらには老人たちにも広がり、村人全体を巻き込んだ日本語教育がすすみます。
取り扱われた内容は、一方では熱狂的な「日本精神」でしたが、他方で「文明」であり、それを通しての「日本」への憧れでもありました。しかし、もう一つのかれらを青年会や夜学会へ向かわせたのが「霧社事件」を力で鎮圧した日本の暴力でした。日本人に敵対することは不可能であるという「味方蕃」のなかに見られた感情がありました。日本語を学ぶことは「味方蕃」としてたたかうことと同様の「踏み絵」でした。
とはいえ、先の史料のように「日本語」をムラ全体で学ぶことはかれらの意識を変える上で大きな意味を持っていました。高山族は、単一のグループではなく、言語も風俗・習慣も異なるエスニックグループが分立・割拠しているだけであり、互いを「出草」の対象とするバラバラの存在でした。ところが日本語は日本人にたいしてだけでなく、漢人や他の部族集団にも開かれた「共通語」でした。「日本語」は閉鎖された部族のなかで「ガヤ」に支配されて生きていた人々を「文明」や「台湾」「世界」へ解き放す「魔法のことば」でした「青年会」「夜学会」での日本語教育は、それがムラやイエの「共通語」としても用いうることを示しました。
皇民化運動は、住民に家族内で日本語を用いる「国語の家」や簡易版である「国語常用家庭」となることをすすめます。様々な優遇措置が動機であったことも事実でしょう。しかし高山族にとって「国語の家」をめざすことは「帝国臣民」としてのアイデンティティを再確認するとともに、「文明」と「世界」にアクセスする大学習運動の面をもちました。現在、高山族の高齢層が衛星放送で日本の大相撲中継を見るという風景は、日本語が世界にアクセスという手段であるという機能を現在ももっていることを示します。
こうした点は、中国語という、より広大な世界や文明にアクセスできる「共通語」をもっていた「漢人」が日本支配に「さめた目」を持っていたのと対照的です。
「大和魂」と高砂義勇隊
皇民化教育が浸透した理由の一つとして藤野があげるのは、高山族のもつ「勇ましさ」「強さ」「男らしさ」を美徳とし、戦いを好み、それをムラ中で名誉なことと考える「好戦的」な価値観です。それがファシズム期の日本で強調される「大和魂」と酷似していたというのです。それは、日本軍が、霧社事件で見せた高山族の敢闘精神に驚愕し共感したことと響き合います。
「洗脳的政策」、つまり皇民化政策はこうして着実に高山族に定着していきました。
菊池一隆は「同族、先人の罪状を恥づると共に・・・『吾も日本人なり』」(警務課理蕃課「時局下の高砂族」*菊池論文より所引)との行政文書を紹介、高山族における日本人意識の高まりを指摘します。
1941年以降、高山族の志願者をもとに結成されたのが「高砂義勇隊」です。すでに1938年日中戦争従軍を希望する500人余の高山族が各郡役所に殺到したとの記事が見られます。菊池もいうように、実際の志願においては警官による強要があったこと、「破格の賃金」に惹かれたなど、さまざまな要因もありました。タイヤル族(霧社事件にかかわったグループ)では頭目の決断で部族として団結して志願することにしたことを菊池は聞き取っています。
「高砂義勇隊」は戦場における労役などを担う非戦闘員・軍夫としての採用ですが、実際には戦闘にも参加、多くの犠牲者を出しました。1943年にはレイテ島へのグライダーによる強行着陸という特攻作戦にもかりだされました。
藤野はこうした「勇敢」な働きの背景に
「日本兵が「台湾軍」と尊敬して呼び、「日本人」として認められること」があった、さらに「清朝期には『化外の民』として無視され、日本の占領下では後に『蕃族』『高砂族』と呼ばれ差別を受けてきたかれら台湾原住民たちが、『日本人より勇敢だ』と呼ばれ認められることで、『皇民化』を進んで受け入れようとしたことはたやすい事であると思われる」と記しています。
おわりに
霧社事件は、「文明」からは「首刈り」という風習を持つ「野生禽獣ニ斉シ」い野蛮人であり、台湾総督には「絶滅」すべき人間とみなされ、「文明」と称する人々の軍事力による「蛮行」と差別に傷つけられた高山族が蜂起した事件でした。自らたちの誇りと名誉を打ち砕き、劣等な人種であると認めさせようとする人々にたいし、「ガヤ」という自らの伝統にもとづいた誇り高い自己主張の「儀式」でもありました。かれらはその誇りに従い、敗北は明らかであるにもかかわらず蜂起し、日本側と50日以上に戦い、多くが死を迎えました。
日本軍に対し蜂起した部族がある一方で、蜂起を拒み鎮圧に回った部族もいました。日本帝国主義の圧倒的な力と文明の前の無力を認識しつつ、蜂起した部族と部族の存続のため屈服せざるを得ないという苦渋の選択をしたのです。
このなかに、「帝国」支配下にさいし諸民族がせまられた選択と同一の姿を見ることができます。「帝国」は被支配民族に「自分に抵抗して滅亡の道を選ぶのか、それとも屈服して自分の仲間に銃を向けるのか」という残酷な選択を強いるものです。
後世の歴史家は、ともすれば自分が生きている時代のナショナリズムにもとづき、前者の道を民族の英雄と讃え、後者の道を民族的裏切り者と罵る傲慢さを発揮します。しかしパーラン社ワリス=ブニに見られるようにみえる屈服・追従は、抵抗を続けさらに蜂起することによって部族の崩壊を避け、ひいては部族の血脈を残すという決断でもありました。
霧社事件で勇敢に戦った人たちの子弟が、日本側に立って戦争に参加しました。
正邪の判断をすることは避けるべきかもしれません。逆に非情であっても正邪を判断すべきかもしれません。こうした判断は現代を生きる歴史家に問われる課題です。しかし大切なことは双方に十分に目配りをしたうえでの叙述です。ナショナリズムの尻馬に乗って、一方的に他方を断罪するという叙述は歴史をプロパガンダに堕するものです。
霧社蜂起は皮肉にも、高山族を「野生禽獣ニ斉シ」い野蛮人とみていた日本人に、かれらは武士道にも通じる道徳をもった勇敢な人々として印象づけます。また事件の経緯は「理蕃」政策の問題点も明らかにしました。(しかし、「霧社事件」への反省は、その後の日本軍占領地での軍政には一切生かされず、様々なタイプの「霧社事件」を引き起こすことになります)。
こうした認識と「総力戦体制」への移行は、「皇民化政策」の強化という形に「理蕃」政策を大きく変えました。日本語は「共通語」という意味を持って高山族の間に定着、好戦的な精神文化のとともに、自らを「日本臣民」との自己認識を高めました。そして臣民として「高砂義勇隊」に志願、その活躍へる評価は臣民である「高砂族」としてのアイデンティティを満足させました。ある意味、霧社蜂起が高山族を皇民化政策の側に引き寄せた面があるのかもしれません。
日本軍は「高砂義勇隊」を利用し、戦時下の「日本人」はその活躍をほめそやしました。しかし戦後が終わると手のひらを返します。その責任をとりません。
1968年インドネシア・モロタイ島での元「日本兵」中村輝夫の発見は日本中を熱狂させました。ところが彼が「高砂族」出身のスニヨン(史尼育唔=中国名「李光輝」)とわかった途端に熱狂は冷め、「逃亡兵」説などもとびだしました。
ところが現在、帝国史を自己弁護する文脈で、「親日」で「勇敢」な「高砂義勇兵」像が描き出されます。
こうした日本側の都合で、差別・迫害・虐待を加えつつ、都合のよいときのみ利用・礼賛する、ここに「理蕃」政策の正体があったし、それを清算しないまま現代にひきつぐ日本の姿を見ることができます。
<参考文献>
鄧相揚『抗日霧社事件をめぐる人々』(日本機関紙出版センター2001)
同上 『抗日霧社事件の歴史』(日本機関紙出版センター2000)
戴國煇編著『台湾霧社蜂起事件』(社会思想社1981)
戴國煇 『台湾』(岩波新書1988)
周婉窈著 濱島敦俊、石川豪、中西美貴訳『図説台湾の歴史』(平凡社、2007年)
海野福寿『日清・日露戦争』(集英社1992)
春山明哲『近代日本と台湾―霧社事件・植民地統治政策の研究』(藤原書店2008)
日本台湾学会報 第12号所収の諸論文
大江志乃夫「植民地戦争と総督府の成立」(『近代日本と植民地』第2巻岩波書店 1992年)
近藤正己「台湾総督府の「理蕃」体制と霧社事件」(同上)
山田昭次「植民地」(岩波書店『日本通史』第18巻 1994)
藤野陽平「日本統治下台湾における対日感情の整理と分析」(http://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/zemi/thesis/soturon-fujino.pdf)
菊池一隆「台湾原住民から見るアジア・太平洋戦争」 (「現代中国研究」第33号)
春山明哲「霧社事件」(吉川弘文館「国史大事典」)
岡部牧夫「霧社事件」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
WIKIPEDIA「中村輝夫」https://ja.wikipedia.org/wiki/中村輝夫_(軍人) など
映画『セデック・バレ』(ウェイ・ダーシェン製作・監督2011・台湾映画)及び、公式ホームページhttp://www.u-picc.com/seediqbale/index.html