1_近世「百姓」の成立と「百姓成立」

Pocket

Contents

近世「百姓」の成立と「百姓成立」
  ~「百姓成立」その成立と展開、崩壊(1)~

「百姓成立」その成立と展開、崩壊
1.近世百姓の成立と「百姓成立」(本稿)
2.「村」と「稼ぎ」=村人をささえたもの
3.幕末・維新期における「百姓成立」

はじめに

思想家柄谷行人(からたに・こうじん)は、国家の成立を「一つの共同体が他の共同体を『略取(りゃくしゅ)』する」システムとしてとらえ、略取を継続的に行うために『再分配』がなされ」、公共政策をとることで、「公共的な」権力であるかのようにふるまうと、記している。
このような指摘は、近世において「武士」を中心とする領主階級(=「公儀(こうぎ)」システム)が「村」同士の争いを鎮め、灌漑(かんがい)や新田開発などの耕地の開発につとめ、不作や自然災害には、「救い米」などの社会福祉をとって「百姓成立(ひゃくしょうなりたち」を維持することで、自らを「公共的」権力といった装いをもって被支配階級に臨んだ姿とだぶってくる。そして「公共性」を擬することで「生かさぬよう、殺さぬよう」「略取」を「継続的」におこなうシステム、これが「百姓成立(ひゃくしょうなりたち」政策である。
しかし、このように考えるならば、この政策は、領主階級が高持百姓が形成する「村」と「百姓」経営を保護するという「公共的」役割を引き受け、被治者「百姓」・農民側もこうした政策を「仁政」として認め、「村役人」層を中心に主体的に自らの生活・生産の場を維持しようとしたことになる。こうした「社会契約」のなかで「百姓成立」が生まれたといえる。

「袋」を積み重ねた近世身分社会

松沢裕作は近世の身分制は、士農工商というピラミッド型ではなく、「人間が、幾つかの『袋』にまとめられ、その『袋』の積み重ねによって一つの社会ができているというイメージ」でとらえる視点を示している。その『袋』は社会集団である。その部分をまとめてみる。

百姓身分は「『村』という集団に所属し、幕藩領主から『村』単位で把握される。そのあらわれが村請(むらうけ)制である。百姓から領主に納められる年貢は村を単位として賦課され、村が責任を負って年貢納入を請け負う」としるし、江戸時代は「『村』という『袋』が全国でおよそ七万存在していた」。町人身分や職人身分は道路を挟んだ両側の町並みからなる『町』という『袋』に、武士も「仕える主君」ごとにそれぞれの集団=『袋』をつくっていた。
 そして、「一人一人の人間が身分的な集団という『袋』にまとめられ、支配者から集団を通じて賦課される『役』を果たす。これが近世身分社会の基本的構造である。」(松沢裕作「自由民権運動」)

 さらに、身分集団という「袋」は、さらに家名・家業・家職からなる『家』という「小『袋』」からなっていたと考えられる。

支配層が支配を貫徹し、それぞれの身分に即した『役』を賦課するためには、それぞれの人間が『家』という『袋』に、『家』が『村』や『町(ちよう)』などの『袋』に安定して入っていることが重要である。農村において家』を安定的に『村』に包摂、その破たんを防ごうとする取り組みが「百姓成立」である。

「村」の「自力救済」と疑似「主権国家」としての大名領国制

「百姓成立」は、中世の様々なレベルの紛争を終結させ、封建領主による階級的統一支配=「公儀」権力を打ち立てた「天下統一」を前提として成立する。
中世後期、「村」は用水や入会、境界などをめぐって隣接した村との抗争を繰り返していた。各村は、暴力による「争論(そうろん)」の解決(「自力救済(じりききゅうさい)」)を余儀なくされ「万人が万人の狼」ともいえる状態におかれていた。各「村」は「争論」に勝利するため、同盟・協力関係を構築する。「敵の村」との対立関係にある「村むら」、地域や周辺を統治する「武家」、「荘園領主」、こうした諸勢力をまきこみ、ときには武力で、ときには権威にすがって、有利な立場を得ようとして。こうした争論と複雑に結びつく協力・同盟関係が、戦国期=中世後期の混乱の背景となっていた。
戦国大名はこうした状態から生まれた「リバイアサン」である。戦国大名は、自らの実力によって、領内の領主たちを屈服させ、領内に一元的な支配を及ぼすことができる強力な権力をうちたてることで「万人が万人の狼」という状態を、自らの軍事力と権威によって調停しうる力を得たのである。
応仁の乱以降の将軍・天皇を中心とした日本という「帝国」中枢部の弱体化を背景に、戦国大名は領域内において絶対的権力を保持する近代「主権国家」と見がまう大名領国を形成したのである。しかしこの「国家」は、近代主権国家が個人又は「家」を直接掌握するのと異なり、「村」=共同体を単位として掌握するミニ「帝国」として疑似「主権国家」である。
「主権国家」は「伝染する」。
いったん形成された疑似「主権国家」=戦国大名は周囲の領主権力の疑似「主権国家」化=戦国大名化を強要、疑似「主権国家」同士が同盟と抗争を繰り返す。「ウェストファリア体制」的秩序が形成され、勢力均衡システムが発動される。突出した武力と経済力をもつ「戦国大名」織田信長に対し将軍足利義昭が構築した反信長包囲網などは、ルイ十四世あるいはナポレオンに対するヨーロッパ諸国の反仏同盟を髣髴(ほうふつ)させるものである。ルイ十四世は「帝国」復活に失敗するが、織田信長とその後継者豊臣秀吉は「帝国」復活に成功する。
主権国家形成期のヨーロッパにおける軍事的基盤は傭兵(ようへい)隊であったが、戦国大名の軍事的基盤は、在地領主(「武士」)であり、その支配下におかれた「村」であった。戦争の恒常化のなか、「村」の住民たちは、武士(「土豪」)や足軽といった戦闘員、あるいは人足として、従軍を迫られた。
もし「村」が戦場となれば、村も田畑も百姓たちも、戦闘及び付随する「刈田(かりた)狼藉(ろうぜき)」「乱取り」(人狩り)によって、財産や生命、人格の自由などを脅かされ、「村」は破壊・荒廃させられる。
しかし、戦争に参加した百姓たちも戦場においてはこうした略奪に参加したし、地元では「落武者狩り」などで利益も得ていた。

「天下統一」と小「帝国」としての豊臣・徳川政権

ヨーロッパにおける「主権国家」間の対峙は、ウェストファリア条約によって主権国家体制として固定化されたが、戦国時代の日本では、秀吉の「天下統一」により、新たな「帝国」として、再編成された。秀吉は、圧倒的な軍事力と財力、さらに古代「帝国」の伝統をひきつぐ天皇の権威を背景に、「惣無事(そうぶじ)令」にはじまる一連の法令を発し、戦国大名同士の抗争を「私戦」として禁止、秀吉の裁定を受諾するか、「成敗」されるかを迫り、大名たちを屈服させた。大名間の争いは「惣無事令」という私戦禁止令によって「非合法」化される。

「豊臣政権の天下一統の政策は、中世をつらぬく自力原則とそれに根ざす戦国大名の交戦権を否定し、戦争の原因たる領土紛争は豊臣の裁判権によって平和的に解決することを基調(惣無事令)としてすすめられた」(藤木久志「豊臣平和令と戦国社会」)

 このことは秀吉に屈服すれば、戦国大名の個別大名権が安堵(あんど)され、豊臣政権を頂点とする「帝国」秩序のもとでの属国としての地位が保障されることでもあった。
こうして「惣無事令の体制」(「豊臣平和令の体制」)のもとに構築された「帝国」秩序において、上位権力としての天下人=秀吉は、疑似「主権国家」であった大名の領域支配を「属国」として承認、さらに荘園制的な残存物たる寺社勢力や貴族など権門もこの秩序の中に組み込まれた。そして、この秩序の下、私的な武力行使が禁止される。
大名など「属国」や寺社、さらには朝廷・公家すらが「石高」制という唯物論的(唯「米」物?)な原理の下に統一的・階層的に編成され、階級的統一支配=「公儀(こうぎ)」権力として整備される。
「帝国」的な枠組みのなかに、かつての疑似「主権国家」を「属国」(「藩」)として組み込んだ「帝国」は、後継政権である徳川政権のもとで「幕藩体制」として完成する。この「帝国」的な性格こそが、封建国家という地方分権の原理に立ちながらも、中央集権的であるという幕藩制国家=徳川封建制国家の独自性を形作ったものである。
幕藩体制の中でかつての疑似「主権国家」の伝統を引き継ぎ「属国」を支配したといえる大名は、幕末期で約三十家(国持ち大名=「国主」とそれに準じる大名=準国主二十三家、これに御三家や有力譜代大名を加える)であり、東北、中国、四国、九州などに多く置かれた。こうした地域は「領国地域」として半独立国的な支配下に置かれ、最も有力な大名島津氏の領国は鎖国状態に近い状態にあった。
しかし、こうした領国以外の土地は様相を異にする。こうした「非領国地域」は最先進地域であった畿内・近国と幕府のお膝元である関東地方などが中心であり、そこには小規模な大名領や幕領・旗本領、さらには朝廷や公家領、寺社領、有力大名の飛び地など各種の領主の所領がモザイク状に組み合わされ、複雑な領有関係の元に置かれていた。一村が複数の領主に分割支配された相級地も多く、村内には各領主に対応した複数の村役人がおかれていた。
こうした支配が可能であったのは、中世の錯綜(さくそう)した各レベルの領主たちが、
天皇=幕府→大名・旗本・寺社・貴族→一般武士
といった統一的な支配体制、「公儀」体制のもとに再編成され、領主が階級的に
百姓に対峙し、年貢の「略取」を実現していた。
さらに、「村」に所属する「百姓」、とくに村役人層が、「村」の生産・生活の平和と安定、「百姓成立」のための「仁政」を条件に、こうした支配に合意・協力していたからである。

「自力救済」の放棄と近世「百姓」の成立

支配階級の再編成は、中世的な村のあり方も大きく変えた。
天正二十(1592)年、摂津国鳴尾(なるお)村と河原林(かわらばやし)村の間で、用水をめぐる水論が周囲の村も巻き込んだ争いへと発展、双方に死傷者が発生した。これにたいし、豊臣政権は用水についての訴訟を切り離し、喧嘩として「喧嘩両成敗」の原則に基づき、それぞれの村から一人ずつを磔(はりつけ)にして処刑した。それまでは一般的であった「村」の間での暴力の行使(「自力救済」)は「私闘」「喧嘩」であるとして厳刑に処したのである。藤木久志は、村落の抗争にたいして私闘禁止にかかわる命令(「豊臣喧嘩停止令」)の存在を推測している。
このように「村」同士の「自力救済」原理による「解決」が厳禁され、紛争の解決は公儀システムによる訴訟に委譲された。天下統一によってこうした問題「解決」の方法を整備したことで、村々の「自力救済」が違法として禁じられたのである。
こうして、豊臣政権のもとに、領主同士、領主と百姓、村同士の抗争という中世的な「自力救済」という「私」的な解決は非合法化される。かわって紛争は、「公儀」権力を分有する各レベルの権力によって平和的に解決されるようになった。
「自力救済」という原則を捨てた「村」から「武士」の要素が排除され「兵農分離」、「武器の使用は封印」され(「刀狩り」、公的支配と平和・秩序の維持は「町」に住む「武士」に委託される。
百姓たちは、武士の要素を失い、「農具さえもち、耕作を専らにし仕(つかまつ)りそうらえば、子々孫々まで長久に候」という刀狩(かたながり)令の論理を受け入れ、農耕専一」を原則とし、年貢をはじめとする様々な「役」を負担する近世「百姓」の身分を受容する。
「村」同士、村内の「家」同士など様々な在地における紛争は、より上位の「公儀」と結びついた「村役人」(→「大庄屋」等)→代官・勘定奉行等→大名等→幕府へと上向くする「公儀」システムのなかで、合法的・平和的に処理され、解決される建前が生まれる。
「公儀」システムにつらなる総体としての領主階級が、百姓身分をはじめとする被支配階級を保護し安寧(あんねい)と「家」や「村」の永続を保障することを自らの役割として引き受けることで、年貢や諸「役」を受け取るという「社会契約」構造となる。これが幕藩体制をささえる原理であった。

「百姓成立」政策の展開

 こうして領主の側からの「百姓成立」にかかわる諸政策が展開される。豊臣政権の兵農分離政策は、農村から「武士」を引き離し、さらには商人や職人たちも移住させることで、農村は「農耕専一の民」として定義し直された「百姓」が住む場所として再定義された。さらに全国規模で実施された太閤(たいこう)検地では、中間的な収奪者を排除し、耕作者である「小農民」を年貢負担者(「百姓」)として定置、保有権を与えることで、「村」は単婚小家族を基礎とする「小百姓」を基盤とする「近世村」となった
しかし「小百姓」の多くは、自立した農業経営者としては未熟であり、領主としても様々なサポートが必要であった。
こうして江戸前期には、大規模な土木工事が全国で実施され、用水路の整備や積極的な新田開発によって田畑は量的に拡大した。また「村切り」による「村」の適正規模への再編もすすめられた。田畑の売買や狭小化が問題になると「田畑永代売買の禁令」や「分地制限令」などをだして農民の没落を防ごうとした。
石高制という「米至上主義」をとる領主層は、百姓に過重とも思える米納年貢を強いる一方、裏作の麦など雑穀は生活維持の作として課税せず、「稼ぎ」への課税も軽くして百姓の生活を保障した。また「畝引(せびき)検見(けみ)」を用いて、天災等にさいしての年貢負担の軽減制度を整備、「救米」の供与や「夫食貸し」という特別貸し出しなど非常時の対応も準備、百姓の経営破たんを減らすための政策をすすめた。よくいわれる「生かさぬよう、殺さぬよう」ということばは百姓経営維持を重視する言葉ととらえるべきである。
さらに田畑勝手作りの禁にみられる商品作物栽培への規制や、寛政期を中心に次々と出された「触書」などによる農民の生活への事細かい介入なども、商品経済の流入や奢侈(しゃし)によって「百姓成立」に支障が出ないためである。(こうした「触書(ふれがき)」の集大成として「慶安(けいあん)の触書」があげられる。
こうした領主側の「百姓成立」にかかわる政策は、年貢徴収(「略取」)を確実とするとともに、百姓身分を保護しその永続を保障するという「社会契約」の一部としての「仁政」ととらえることができる。

※ただし「慶安の触書」については実際に出されたものではないという説が現在は有力になっている。しかし、その内容は寛永期を中心に出された「触書」を総括するような内容ではあり、寛政年間の「百姓成立」の再構築をめざす中で出されたものと考えられている。
 また「田畑勝手作りの禁」は飢饉に際して発せられた非常時の触書であり、「田畑永代売買の禁令」や「分地制限令」も独立した法令として出されたものではなく、実際にこの禁令によって処罰された例を見ることが出来ず、その有効性は疑問視されている。

「百姓成立」政策を支えた「村」と「百姓」

しかし領主側が「百姓成立」は、あくまでもその構造=外枠をつくるものにとどまり、現実の「百姓成立」は百姓らの共同体である「村」と個々の「百姓」の「努力」に委ねられる。
「村」は、一方において、中世の「惣」の伝統を受け継ぐ百姓の自治組織=共同体として、村に居住するさまざまな「家」とその構成員を保護する扶助構造を内包していた。他方において、領主階級の代理となって、年貢の徴収・納入や様々な「役」の負担に応じ、領主の指示をも受けて「村」内や地域の治安維持活動を請け負い、最終的に「百姓成立」を実現するという「公儀」システムの末端に位置づけられ、支配階級の「略取」をささえていた。
また、実際の「百姓」にとっては、領主に認められた石高で自らの家族の生活を維持することは不可能であった。そこでそれぞれの「百姓」は、一方では「村」の扶養構造に依拠しつつ、自らも「稼ぎ」によって家族の生活の維持を図る。
近世における「百姓成立」は、こうした領主側の政策と「百姓」側の努力、そしてそれを結びつける「村」の存在によって保障される。

(つづく)

2「村人」たちはどのようにして生活を維持していたのか。~「「百姓成立(なりたち)」その成立と展開、崩壊(2)」はここから

参考文献

深谷克己 「江戸時代」岩波書店2000
     「士農工商の世」小学館1988
     「百姓成立」塙書房1993
     「深谷克己近世史論集」(1)(3)校倉書房2009
黒田基樹 「百姓から見た戦国大名」筑摩書房2006
藤木久志 「豊臣平和令と戦国社会」東京大学出版会1985
     「刀狩り」岩波書店2005
渡邊忠司 「近世社会と百姓成立」思文閣出版2007

水林彪  「封建制の再編と日本的社会の確立」山川出版社1987

松沢裕作 「自由民権運動」岩波書店2016
柄谷行人 「世界共和国へ」岩波書店2006
     「世界史の構造」岩波書店2010
    「帝国の構造」青土社2014

「百姓成立」その成立と展開、崩壊
1.近世百姓の成立と「百姓成立」(本稿)
2.「村」と「稼ぎ」=村人をささえたもの
3.幕末・維新期における「百姓成立」

次のページもご覧ください。

江戸時代の百姓像をみなおす
1:江戸時代の年貢は重かったのか?
2:「百姓」は百姓であったのか?
3:稲作にかかわる数字と仕事
その他
4:江戸期の社会~身分制度と農民
5:近世末期の自生的「近代」を考える
6:幕藩体制と「国民」の萌芽的形成

 

 

タイトルとURLをコピーしました