朝鮮近代史を学ぶ(2)
Contents
大院君・高宗と朝鮮の開国
高宗の即位と大院君
1863年12月、哲宗の死亡に伴って、はるか七代160年も前の国王・粛宗の六代目の子孫・高宗が即位した。本名李載晃りたいしょう(イ・ジェグワン)、幼名命福(ミョンボク)。12歳。睦仁(明治)天皇と同じ年の生まれである。父は王族の興宣君こうせんくん(フンソングン)李昰応りかおう(イ・ハウン)、その嫡系の次男である。朝鮮においては嫡系の長男が宗家をつぐことが基本であり、庶子でなく、長男でもない王族の子どもが少なかったこと(李昰応の嫡長男よりも聡明であったからともいわれる)で白羽の矢が立ったという。しかし、実際は次期国王の決定権をもつ大王大妃・趙氏にたいする父親の働きかけと、「愚劣なごろつき」でたいした人物ではないとみせかけた「演技力」が功を奏したともいわれる。
高宗は憲宗の父(翼宗 王位に就いていない)の養子という形で宗家にはいり、それを「翼宗」の后・大王大妃趙氏が義理の母・最高実力者として後見する垂簾聴政すいれんちょうせいの形をとる。清の西太后のスタイルである。
しかしそれまでの哲宗の時代は有力な外戚・安東金氏一族が権力を独占する「勢道政治」であったため、趙氏には政権中枢に有力な支持者がいなかった。そこで頼ったのが高宗の実父・李昰応(大院君)である。かれを廟議(政権)に参与させることで金氏に対抗しようとした。
李昰応は儒教の「孝」という倫理を利用し、王の実父・大院君(国王の座に就いていない直系親族の尊称)という「もっとも地位の高い臣下」として政治に臨み、事実上の最高実力者となった。
権力の座に就くやいなや、大院君は「愚劣なごろつき」ではなく朝鮮政治に旋風を巻き起こす「虎」としての姿を現し、その子高宗・閔妃夫妻と共に朝鮮近代史を動かすことになる。
高宗と閔妃、大院君の事績は主に木村幹『高宗・閔妃』を参照する。
大院君の内政
大院君の政治は革命的なものであった。
政治変革に抵抗するものを弾圧、「四色平等」(四色とは老論派など4つの党派をさす)をかかげて圧倒的な優位にあった党派・老論の勢力を削き、南人派など少数派や軍事官僚・武班など非主流派を優遇、安東金氏の力を失わせていく。
さらに地方政治を停滞させる守旧派である在地両班の力を削ごうとした。もっとも重要な政策がかれらの拠点で、租税逃れなどにも利用された地方教育機関「書院」の規制・撤廃である。大院君は両班や儒生たちの強い抗議を排除し、47カ所を残し、1000カ所あまりの書院を廃止させた。さらに税制改革で在地両班の隠し財産である「隠し田」を摘発、軍布(戸布)を両班たちにも平等に負担させた。
他方、大院君に近いと言われる地方官僚(胥吏)らにも厳しい態度で臨み、強制的に穀物を貸し付けて多額の利米を取ろうとする還穀制度などを調査、不正があれば厳罰を与えた。
こうした厳格な態度を見せることで王権強化をすすめた。議政官という伝統的な最高行政機関を復活、法典整備などもすすめた。
朝鮮王国前期の権威を取り戻すべく、秀吉の侵略の際に焼失した景福宮キョンボックンを再建しようとした。
しかしこれには大きな資金が必要となり、財産に応じて寄付を強要したり、多額な寄付をしたものいに官爵を与えるといったやり方も取った。さらに特別土地税や都城門通行税などの税も導入、実際の価値の20倍の額面の銅銭(「当百銭」)を発行、さらに輸入した「清銭」(清国貨幣)の使用も認めた。大量の貨幣が市場に供給されインフレが発生、経済混乱をまねいた。
衛正斥邪論
大院君の政治のいま一つの特徴は「衛正斥邪」論にもとづく強硬策とくに攘夷論の実施である。
「衛正斥邪」論とは、儒教の正学=「朱子学」を擁護し、それにつながらない異端(陽明学や仏教など)とくに天主教(カトリック)を「邪学」として斥ける朱子学原理主義ともいえる考え方である。
実学を圧殺し、清や日本が開国していく事態をうけて、逆に強化されてきた議論でもある。
この立場から「邪教」として弾圧されたのが、1860年に創始され、急速に広がった民衆宗教・東学である。大院君政府は1864年、教祖崔済愚を処刑した。
しかし、東学は2代目崔時亨によって組織化され、民衆の間にさらに浸透、1894年東学農民戦争(甲午農民戦争)を引き起こすことになる。
このころ、東アジアの国際情勢は急速に変化していた。1842年清がアヘン戦争の敗北によって、1854年ペリー来航によって日本が、それぞれ開国を余儀なくされ、「世界=経済」の枠組みに組み込まれていた。1860年には清が第二次アヘン戦争(アロー戦争)に敗れ、天津条約・北京条約でさらなる譲歩を強要されていた。
ロシアはこれに乗じて、アムール川北岸(アイグン条約1858年)、さらにはウスリー川東岸の「沿海州」(北京条約1860)を清から割譲させる。これは、朝鮮王国が北東部においてロシアと直接国境を接することを意味していた。ロシアは1863年元山に軍艦を派遣し通商条約締結を要求する。
ただし、和田春樹によると、沿海州開発のため朝鮮人の労働力が重要な役割を持っていたため、ロシア側はそれほど積極的でなかったという。(和田09)
こうしたなか、大院君率いる朝鮮王国は他の東アジア諸国とは異なる道を選択した。「衛正斥邪」の立場、「小中華」の純潔を守る立場から列強と戦ったのである。そしていったん勝利した。
「洋夷」とのたたかい~丙寅洋擾と辛未洋擾
1866年、大院君は国境を越えて布教をすすめていた天主教(カトリック)に対する大弾圧に踏み切る。フランス宣教師が大院君に対し、ロシアの進出に対抗するためにフランスとの連携を勧めたことが逆効果になった。フランス人宣教師9人が処刑されたのをはじめ「2万人余の信者が弾圧後には1万人余しか残らなかった」という最大級の弾圧であった。(丙寅教獄)
これに怒ったフランスは7隻の軍艦を率いて江華島に上陸、いったんこれを占領するが大院君は各地から砲手をあつめてこれを撃退する。この攻撃は、ベトナム進出を優先するフランス本国の了承を得ておこなわれたものでなかった。
さらに朝鮮北部にアメリカ船シャーマン号が現れた。この船は交易を求めるといいつつ略奪を繰り返しつつ大同江を遡上したが、開化派の祖・朴珪寿率いる平壌の軍民の焼き打ちをうけ、乗員はみな殺しにされた。(丙寅洋擾)
さらに通商を求めるはずのドイツ商人とフランス人宣教師が大院君の父の遺骨を奪取しようため大院君の強硬姿勢はいっそう強まった。
外国勢力の侵略はさらにつづく。1871年、シャーマン号事件の責任を問うべく江華島に来襲した5隻のアメリカ船にたいして、朝鮮側は徹底抗戦、激しい戦闘ののちこれを撃退した。(辛未洋擾)
大院君外交のポピュリズム的手法
こうした外国勢力との戦闘で、空洞化していた朝鮮軍にかわってたたかったのが、大院君の呼びかけに応えて集まった猟師団や褓負商(行商)団など民衆であった。こうした人々の力を背景に外国勢力の排除に成功したのである。大院君らの「衛正斥邪」思想が民衆の中の素朴なナショナリズムを引き出した面がある。
その直後、大院君は「外国勢力と戦わないものは売国である」という「斥和碑」を全国に建てて、人々に攘夷の立場での結集を求めた。大院君は民衆のナショナリズムに訴えかけるポピュリズム的手法をとった。
ただ、大院君を単なる排外主義とみなすのは妥当ではない。漂着した欧米人に対しては友好的な態度で接し、平和裏に帰国させている。これが彼の儒教的倫理観であった。
北原スマ子は大院君の外交姿勢を以下のように記す。
大院君は西洋列強の武力行使をも辞さない強引な開港要求に直面して、その背後に侵攻の可能性をみて「鎖国」攘夷政策の維持強化を基本方針とすることを掲げた。そのために国防・軍事の強化、キリスト教徒の処罰、西洋製品の排除に努め、国防を経済的に支えるために税改革、中央集権体制の強化政策を精力的に施行していった。そして一方、清との宗属関係を推進していくことになる。(趙編12)
大院君の外交姿勢は、清との関係を除けば、幕末の攘夷派、例えば徳川斉昭ら水戸派とかなり近いようにも見える。
ただし、大きな違いは西洋列強の実力を客観的に理解するものがどれだけいたか、強硬路線に異論を捉える人々がどれだけ存在したかという点にある。軍事力の不足という現実にかれがどれだけ向き合っていたのか、すでに弱体であることが明らかになっていた清との宗属関係に依存しようした点に弱点を見ることができる。
日本との対立
強硬姿勢を貫く大院君にとって、日本は東洋の秩序を捨てて「欧米の走狗」となったふがいない存在であり、危険な存在であった。
北原によると、朝鮮では、開化派の朴珪寿を含め「明治維新をキリスト教徒となった天皇が西洋の助力を得てなしとげた」と見る立場が一般的で、「日本の制度全般が洋化して既に西洋と一体として、日本と修好すればキリスト教、西洋勢力の侵入の危険性がある」と考えていたという。(趙編12)
日本との対立は、まず文書形式をめぐって表面化する。
大院君政府は、1870年に明治政府が派遣した使節の外交文書(「書契」)の形式が一方的に変更されたことと、さらに「皇」「勅」という中国皇帝しか使用できない「不適切な文字」を使用したことなどが問題されて受け取りは拒否され、72年には使者との面会も拒否される。
これにたいし、1873年日本政府は廃藩置県に伴ない、朝鮮が対馬藩に貸し与えていた草梁倭館を朝鮮側にはかることなく接収、日本公館とした。これに反発した朝鮮当局者は「倭館」前に日本側の行為の不当さとその西洋化政策を誹謗した文書を掲示した。
これをきっかけに日本国内では「征韓論」がいっきょにひろがる。
外敵を撃退したことで、大院君は自らの軍事的能力に自信を持ち、攘夷政策を強めていた。
大院君の政治をどう評価するか。
大院君の政治をどのように評価するか、研究者の議論をきくことにする。
姜在彦はその政治を高く評価する。
大院君の執政10年間は、フランスおよびアメリカ艦隊の撃退、「四色平等」、書院の整理、景福宮の再建のどれ一つをあげても、凡庸の政治家のできることではない。そして「抑強扶弱」の改革は、民衆に強烈な印象を与えた。なかんずく最も顕著な業績は、(中略)朝鮮政治の癌であった朋党政治が、安東金氏=老論派の専制政治を打破することによって終息したことである。(姜01)
北原スマ子は以下のようにまとめる。
大院君は空前の国難の時代にあって、国家のリーダーとしては、決断力、実行力などの点ですぐれていた。(中略)しかし、諸々の改革は、一部は権力闘争の産物の感も否めず、究極の目的が建国当初をモデルとした王権強化にある限り、保守的、復古的なものにしかなりえず、近代社会への大きな歩みを進めることにはなりえなかったといえよう。(趙編12)
趙景達は「我国従来より為し来りたる両班常人の制を廃したる」との甲午農民戦争の指導者全琫準のことばを引用して「その民衆掌握術はポピュリズム的性格を帯びていたが、一面で儒教的民本主義ならではの性格を併せ持っていた」と述べつつ、景福宮再建工事は「大院君政権最大の支持基盤である民衆の生活をも逼迫させた。」という。
宮嶋博志は大院君政権の政策を「危険な賭け」と表現する。
書院の撤廃、軍役制の改革は、いずれも在地両班層の利害と真っ向から対立するものであった。大院君はこうした改革を推進することで、王権の強化や国家財政の拡大を図ったわけである。しかし李朝政権の支え手であった在地両班層との対立は、大院君にとって危険な賭けであった。在地両班に代わる新たな権力基盤を築くことなしに、こうした政策が強行されるならば、国家の基盤自体が危機に瀕する恐れがあったからである。(中略)新しい権力基盤を作るためには、儒教立国という国政の根本にまで触れるような改革がおそらく必要であったのであろう。(岸本宮嶋98)
大院君の外交はさらに「危険な賭け」であった。大院君=「衛正斥邪」思想について、趙景達は日本における「国体」思想と比較してつぎのように述べる。
日本では『国体』思想の台頭によって『国』が絶対化されたがために、『道』は第二義的なものとなり、西欧化への展開が容易にできた。西欧への徹底抗戦は『国』を滅ぼすことにしかならない。西欧にかなわないと認識されるやいなや、尊攘論が開国論に急展開した秘密はここにある。それに対して朝鮮では『国』を滅ぼしてでも『道』に殉ずることが、人倫の正しい行為とされた。これが儒教原理国家ともいえる朝鮮の現実であり、仏米への徹底抗戦を可能にさせた理由であった。(趙12)
儒教原理主義にたつ政策が早晩行き詰まることは明らかであった。大院君に排除された勢道政治が在地両班層の反発と結びついた形で破綻する。
大院君政権の崩壊~癸酉政変
大院君退陣の引き金を引いたのは、大院君に近いはずの衛正斥邪論者の儒教原理主義的な批判であった。
1873年12月、衛正斥邪派の崔益鉉さいえきげん(チェイッキョン)が景徳宮建設や書院整理を批判し、その退陣を求める上奏を提出した。
これに反発した政府は崔を罰せようする。それを遮ったのが国王・高宗であった。高宗は崔の上奏を強く支持し、逆に崔の処罰を求めた高官たちを罰した。これは国王が公然と実父・大院君や当時の政権に対し不信任を表明したことに他ならない。
大院君の権力は、若年の国王を補佐する「もっとも地位の高い臣下」であることに正統性の源があった。しかし、高宗が成人して自らの意志を表明することで、大院君の権力の前提が崩れた。
こうして国王・高宗による「上からの宮廷クーデタ」が成功、大院君とその一派は政権から排斥された。(癸酉政変)
この背後には、王妃である閔妃(びんひ)とその一族である驪興閔氏(れいこう・びんし)の存在がささやかれる。
高宗の親政~驪興閔氏による勢道政治へ
高宗の親政が始まると、まず反大院君派の長老たちが復帰、さらに閔氏一族が抜擢された。閔氏による勢道政治が開始されたともいえる。
高宗は、大院君の政策をつぎつぎと停止する。とくに重要なのは大混乱を起こしたものの定着し始めていた清銭の流通を停止したことである。これによって激しいデフレが発生、大量に所有していた清銭がつかえなくなったため財政も破綻、以後、財政問題が王国をくるしめつづける。
日本との交渉においてはこれまでの責任者を処罰し、実質的な交渉を開始する。軍事力の強化はつづけられるが、国境警備よりも王宮護衛が重視されるなど大院君とは大きく異なってくる。
清銭の使用停止に見られたように、高宗の政策は議論も配慮もなく進められたため、朴珪寿ら有力な政治家の離反をまねく。失政として大院君の復帰を求める声も高まると、高宗はこれを処罰するなど強圧的な態度で臨み、閔氏一族への依存をいっそう強めた。
こうしたなか、75年1月、閔氏の有力者で王妃閔氏の義兄・閔升鎬が閔妃の実母李氏とともに爆殺されるという事件が発生、大院君の関与などが取り沙汰された。
こうして大院君と、息子夫妻の関係は険悪化していく。
江華島事件
こうした時期、1875年9月に発生したのが江華島事件である。
1874年、親政を開始した高宗は、大院君の攘夷政策を改め、「従来の東アジアの国際秩序内での対等な関係(交接関係)の継続」をめざし、日本との交渉を開始させた。(趙編12)
他方、日本は欧米流の「万国公法」(=主権国家体制)にもとづく新たな関係の構築をめざす日本との間の交渉は難航する。
こうした意識の違いは、使用する文字や服装(日本側は洋式大礼服の着用に固執する)などをめぐって表面化、交渉は停滞する。
こうした局面の打開のため、日本側がとった手段が軍艦による示威活動である。開化派の朴珪寿は危険を察知し「砲声が発せられてから[書契を]受け取ることになれば国辱的なものとなる」として自主的開国論を主張していた。(趙編12)
そして1874年9月、朴が恐れていた事態が発生する。
9月20日日本の軍艦雲揚(艦長:井上良馨)は測量・視察のためのボートを漢城への入り口、江華島東側の塩河に乗り入れようとして江華島の草芝鎮砲台からの砲撃を受けた。これにたいし井上艦長は、21日河口の島に軍を上陸して一時的に占領、22日には仁川対岸の永宗島に上陸、砲台を破壊、武器などを奪った。(江華島事件)事件の詳細はながらく不明であったが、2002年鈴木淳が発見した史料によって明らかになった。
北原は「無断で国交のない他国に船を進めればどのような事態になるかは予測できることであり、日本側が国交交渉打開をはかり挑発的な行動をとって事件を引き起こしたことは明らかである」と記す。
こうした謀略行動が大久保ら政府中枢の了解のもとで行われたのか、了解していなかったかは論者により、議論の分かれている。(趙編12)
こうした事態に対応し、日本側はさらに軍艦を派遣して示威行動を展開、翌年1月には黒田清隆と井上馨を全権とした使節が6隻の軍艦と兵を伴って朝鮮・江華島に乗り込む。紀元節を祝う砲声が響くなか交渉が開始された。
日朝修好条規の締結
黒田らは事件やこれまでのいきさつを非難、朝鮮側が国際情勢や国際法に不慣れなことに乗じて、過酷な条約案をつきつける。
予想を超えた展開に、朝鮮政府内の議論は紛糾したが、しかし高宗は「新たな条約を結ぶことはこれまでの日朝関係の延長線上にある、西洋との新たな条約にはつながらない」と判断、清からのアドバイスもあって、日本側の要求の多くを受け入れた日朝修好条規が、つづいてさらに過酷な付属条約などもを締結した。
こうして形成された日朝修好条規体制の内容は以下のようなものである(『朝鮮史2』のまとめによる)
(1)「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」
(2)外交使節の首都派遣の規定
(3)釜山ほか2港の開港と自由貿易
(4)開港場における居留地の設定
(5)領事による居留民の管理
(6)領事裁判権
(7)釜山の波止場から四キロ以内および東萊府への内陸旅行・通商権
(8)開港場における日本貨幣の流通
(9)米穀輸出の承認
(10)輸出入税の免除(無関税)
とくに重要なのが(1)の条項である。海野福寿は次のように解説する。
「日本側が、朝鮮国は国際法上の主体としての外交権を持つ独立国であるとして、清朝宗属関係の否定的表明としたのにたいし、朝鮮側は、逆に宗属関係~アジア朝貢体制の原理である『自主』と『平等』を表したものと解した。このズレが日清戦争にいたる日朝清関係のすきまをひろげることになるのだが」
これまでの日朝関係の延長線上とする朝鮮に対し、日本側は世界基準の平等な主権国家同士の条約であるとして、その基準に準拠した形式を求めた。そのため、最恵国待遇条項など個々の内容では譲歩したが条約の批准書の形式などでは強硬な姿勢を貫く。
第一条は「自主」「平等」を掲げたが、具体的な内容は、とうてい平等な内容とはいえず、海野福寿が「朝鮮政府の無知につけ込んで」と述べるように、日本が列強と締結したものと比べても、朝鮮にとって圧倒的に不利なものであった。(海野95)
上記の(4)~(6)は日本が欧米と締結したものとほぼ同様であるが、(7)~(10)はそれより過酷で、関税自主権どころか関税をかける権利さえ奪っている。米穀貿易については「開港場に住留する日本人」に限定していたはずが、その一節が意図的に脱落されることで大量の米穀が日本に輸出される結果となった。(趙編12)
条約締結は「これまでの日朝関係の延長」とはとうていいえない混乱を引き起こした。日本商人は大量に欧米の綿織物などを持ち込む。日本の紙幣で米穀を買い占め、朝鮮銅貨を持ち出す。朝鮮経済は開国によっていっきに疲弊した。(海野95)
外交問題の無知につけ込まれあまりに不利な内容を押しつけられたことに気づいた朝鮮側は、これ以後、改正交渉をつづけていく。これが「小中華」のもたらしたものでもあった。
深まる混迷
開国自体に反対してきた「衛正斥邪派」にとってこのような事態はとうてい受け入れがたいものであった。崔益鉉は斧をかついで上疏、開国通商は亡国をもたらすと訴えた。「これを受け入れねば首をはねよ」という決意を示したのである。高宗親政実現の立役者は再び流刑となる。
高宗の政治、とくに開国政策はさまざまな反対派を生み出した。その中心となったのが実父・大院君であった。大院君も開国を非難するが、高宗はこれに対抗し、閣内の大院君派を流刑にするといった態度で応じる。
高宗は対外防衛にかえて王宮防衛のための軍備を近代化・拡大する一方、王妃の閔妃とその一族閔氏への依存を強め、勢道政治の傾向を強める。王世子の結婚相手にも閔氏の娘が選ばれる。
王宮内の対立は、開国と鎖国攘夷という対立、宗主国・清国と隣国日本との距離感、開国によっていっそう深刻化した社会矛盾などとむすんで、いっそう激化していく。どのような国のあり方、どのような「近代」をめざすのか、方向性が示されないまま、政局は混迷を深めていく。
日本に危機感を抱いた清
こうした朝鮮のありかたに不安を持ったのが清であり、その実力者李鴻章りこうしょうであった。
清は急速に台頭する日本に大きな軍事的脅威を感じ、警戒を強めていた。
岡本隆司は李の警戒心の背景に、①倭寇という歴史的記憶、②「急速な近代化、とりわけ兵器の近代化」、③日本列島の地理的位置、の三つの要素をみる。そしてその脅威が「とりわけ朝鮮に対する侵攻に焦点を結んで、重大となる」と見ていたと記す。
李は日本の動向を注視しつつ、朝鮮政策を進めていく。
その第一歩が1871年の「日清修好条規」締結であった。この条約は清からの提案で締結される。そして、清の提案で第一条に「両国所属の邦土、稍ややも侵越有るべからず」との文言を加える。そこには属国・朝鮮を含むという含意があり、「日本を『籠絡』して敵対させないところに主眼があった」と岡本はいう。
しかし日本はわずか三年後、李の期待を裏切る。清にとっては「化外の民」である台湾先住民が琉球人(清からすれば属国の民であるはずなのだが)を殺害したとして清国「所属の邦土」であるはずの台湾に軍隊を派遣したのである(台湾出兵)。日清間に全面戦争の危機が生じた。
こうした日本の動きは清の危機感をいっそう深めた。台湾は省へ昇格し、改革を急がせた。台湾を主権国家の原理にもとずく領土として位置づけようとしたのである。また日本と対抗すべく海軍建設も本格化する。
台湾出兵の事実は、属国である朝鮮にもただちに伝えられ、注意を喚起した。清は日本と対抗すべく欧米列強に対する開国を促したのであるが、朝鮮がとった対応が、日本との「交接関係」の回復、日朝修好条規の締結であった。
この段階での清・朝両国の宗属関係はこれまでの関係に基づくもの、外交権つまり条約締結の権限についても朝鮮の自主に任せていた。
朝鮮王国にとって日朝修好条規の第一条はこのことを文字化したに過ぎないものであった。
ところが、清の危機感をさらにつよめたのが、1879年のいわゆる琉球処分(廃琉置県)である。琉球王国との宗属関係が日本によって一方的に破棄され、日本に併合されたのである。宗属関係の一方的な破棄は、「次は朝鮮」という危機感を清に与えた。
岡本隆司は清にとって「琉球」は「極端に言えばどうでもよい地であった」という。にもかかわらず「琉球処分」にこだわったのは、「属国」の併合、滅亡という先例が、朝鮮半島に及ぶとみたからである。
清にとっての朝鮮の意味について、岡本は以下のように記す。
朝鮮半島は地政学的に、安全保障の観点から見て、琉球と比べものにならないほど、重大な要地であった。清朝発祥の地に近いのみならず、首都の北京とも隔たらない。なればこそ、明・清いずれも、朝鮮に出兵せねばならなかった。中国から見て、朝鮮は単なる「事大」という儀礼が維持されればよいところでなかったからである。むしろそうした儀礼手続は、緊密な結びつきを維持する手段だった。したがって「属国」が失われれば、関係も絶えてしまう。ならばこそ、19世紀のこの時期、「属国」の地位を同じくする琉球をめぐって、日本と対立を深めたのである。
抗議争論むなしく「琉球処分」という事態に直面した清朝は、朝鮮でその二の舞とならないような手を打たねばならなかった。(岡本15)
宗属関係とは
ここで「宗属関係」について、岡本の説明を見ておくことにする。
「宗」は宗主国のことで、中国王朝をさす。規模の大小でいえば「大国」、関係の上下でいえば「上国」とも称する。「属」は藩属、朝鮮などの周辺国をさす。「小国」「属国」などとも称する。上下を明示する儀礼的な手続きさえ履めば、原則として「上国」が「属国」の国内政治・対外関係に干渉することはなかった。その手続きを周辺国の側からは「事大(大国に事つかえる)」という。当時の朝鮮と慎重の関係はその典型、琉球と清朝もほぼ同じだった。(岡本15)
琉球処分に、朝鮮の危機を感じた清は朝鮮にあらたな提案をする。それが朝鮮と西洋諸国との条約を締結させることである。そこに「朝鮮は清の属国である」ことを明記させることで、「朝鮮が西洋列強と条約を結んだならば、日本はその列強をはばかって、軽々に手出しできなくなるだろう」との企画があったという。
しかし、朝鮮側の危機感はまだ弱かった。
(つづく)
<朝鮮近代史を学ぶ・目次とリンク>
1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:開化派の苦悩と壬午軍乱と甲申事変
4:東学農民戦争と日清戦争の発生
5:甲午・乙未改革と開化派の敗北
<参考文献>
『朝鮮を知る事典』(平凡社1986)
木村幹『高宗・閔妃』ミネルヴァ書房2007
趙景達編『近代日朝関係史』(有志舎2012)
趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書2012
岡本隆司『世界の中の日清韓関係史』講談社2008
海野福寿『韓国併合』岩波新書1995
糟谷憲一『朝鮮の近代』岩波ブックレット1996
糟谷憲一「朝鮮の開国と開化」(李・宮嶋・糟谷編『世界歴史大系 朝鮮史2』2017山川出版社)
和田春樹『日露戦争 起源と開戦(上)』(岩波書店2009)