朝鮮近代史を学ぶ(1)
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朝鮮王国のなかで
はじめに
日本史を考える上で、朝鮮の歴史、とくにその近代史を知ることは必須であるにもかかわらず、実際には不十分な理解のまま、語られることも多い。私自身もそうである。
そこで日本近代史を理解する前提として、おもに朝鮮史研究者の著作を参考にしながら、朝鮮近代史のアウトラインを整理しておきたい。あくまでも自分なりの整理なので、記述のバランスなどが乱れることはご容赦願いたい。
第一回で主に参照したのは岸本美緒・宮嶋博志『明清と李朝の時代』を中心に、姜在彦『朝鮮儒教の二千年』および趙景達『朝鮮民衆運動の展開』などである。参考文献は最後に掲げておく。
李朝朝鮮の建国と科挙
「朝鮮」というのは地名でもあり、1392年李成桂(イ・ソンゲ・りせいけい)が建国した国の名でもある。
はるか昔、箕子朝鮮や衛氏朝鮮という国があったので区別し、李朝・李氏朝鮮ということもある。
李成桂は日本人などからなる海賊・倭寇を撃退したことで名声を得、中国における明の建国、元の北方への移動という国際情勢のもとで混乱していた高麗を倒す。
そして、高麗の仮の国王(「権知高麗国事」)を名乗って、明に使者を送り、明の洪武帝(朱元璋)に朝鮮の名を勧めてもらったことで王朝の移行(「易姓革命」)が承認されたと理解、「朝鮮」という国名を用いる。
朝鮮という名には、「あざやかな朝の国」という意味合いがあり、「日本」という名と同様、東方の国というニュアンスがある。
この王朝で大きな影響をもったのが儒教、とくに朱子学である。高麗王朝で大きな力を持っていた仏教勢力にかわる地位を手にいれる。朝鮮王国において仏教の影響力は低下、僧侶は賤民身分とされる。
朱子学の影響拡大の背景には科挙制度(試験によって役人を登用する制度、中国の唐代にはじまる)の整備がある。その結果、科挙をクリアしなければ高位の役人には就くことが困難となる。
なお、朝鮮においても律令時代の蔭位おんいの制と同様に高位の役人の子弟が科挙なしに採用される制度もあったが、日本とはちがい高位に就くことは困難であった。
科挙の試験科目は朱子学であり、その知識がなければ役人になれず、受験をめざす人々がこれを学んだため、朱子学が役人や知識人の共通教養となった。こうして、朝鮮の官僚は、教養人、ときには朱子学者となり、その倫理観や行動は朱子学にしばられる。
第三代太宗のもとで制度上の整備が進み。15世紀には最大の名君といわれる第四代国王世宗が現れる。かれは、民衆のためにハングル文字(訓民正音)を作らせたことで有名である。
壬辰・丁酉倭乱と、日本との「善隣」関係
16世紀末、朝鮮は突如日本(豊臣政権)の侵略をうける。(壬辰倭乱・丁酉再乱、文禄・慶長の役、「朝鮮出兵」1592~1598年)
不意を突かれた朝鮮は敗勢となり、一時は中国国境までの侵入を許すが、両班や僧侶をリーダーとする義兵たちによるゲリラ戦で抵抗、さらに明からの援軍でまきかえし、李舜臣(イ・スンシン・ししゅんしん)率いる朝鮮海軍が制海権を獲得、危機を乗り切った。国土とくに南部は荒廃し、その回復には半世紀を要したという。
1607年、新たに征夷大将軍となった徳川政権が国交回復交渉を持ちかけると、これに朝鮮側に応じ、対馬の宗義智を仲介役として交渉がすすみ、使節が派遣される。
朝鮮が、交渉に応じた背景には、北方での女真族の動きが活発化したことから、日本との間の紛争を解決しておく必要もあった。
つまり使節の真のねらいは再度の日本が侵略をしないかを見極める偵察にあり、強制的に連行された人々を帰国させることであった。使節の名称も家康の「国書」に回答し捕虜返還をめざす回答兼刷還使とした。1634年の第4回以後「通信使」とよばれるようになり、将軍の代替わりごとに派遣されることとなる。
このように国交回復の実態は欺瞞に満ちたものであった。
1606年、家康の申し入れに対し朝鮮側が示した条件は、日本側の謝罪と家康からの国書提出、王陵盗掘の犯人引き渡しであり、幕府からしても受け入れにくいものであった。
これにたいし、対馬の宗義智は家康の「国書」を偽造し朝鮮に送るという大胆な行動を取る。盗掘犯として自藩の罪人を送る。「国書」を先に提出することは恭順を示すと考えられていたため、偽「国書」の回答として送られた朝鮮国王からの「国書」も偽造し、発覚を防いだ。
この偽装工作はのちに発覚する。宗家のお家騒動にさいし、その重臣が暴露したのである。にもかかわらず幕府はこの重臣を流罪とし、対馬・宗氏に朝鮮外交を担当させつづけさせた。
日朝の間の「善隣」関係はこうした「偽装」のうえに築かれた。
こうして「通信使」外交は、朝鮮王国と徳川幕府双方の利害一致をもとにすすめられ、上下関係もあいまいで、双方ともに「自分が上位」と言い張ることができた。
朝鮮側は、日本が再び侵略を行う気がないかを確認する国情偵察などが目的であり、「夷狄」である日本の使者を決して朝鮮本土に足を踏み込ませない。
他方、幕府は、使節を「朝貢団」とみなし、華々しく歓迎することを日本中に見せることで将軍の権威を示す。(趙編12)
対馬の宗氏はこうした危険な工作を経て、通交関係を回復させた。1609年の己酉きゆう約条である。
約条は朝鮮国王が対馬藩主に与えた形式をとり、交易も対馬島主からの朝鮮王国への朝貢という形式※で、日朝外交は宗氏が窓口となる。
※この事実などを根拠に「対馬は韓国領」と主張する韓国ナショナリストも存在する。
朝鮮は応接施設として、富(釜)山浦に草梁倭館を設けて日本人居住を許し、これに接する場所に朝鮮側の施設をおいて、外交や交易にあたらせ、日本人がここからでることは許されなかった。長崎の出島と似た役割であるが、その規模はかなり大きい。
江戸時代全体を通して、朝鮮王国は日本への警戒を持ち続けていた。
清への服属と「小中華思想」
秀吉の侵略の傷跡が癒えぬなか、朝鮮は新たな侵略をうける。
17世紀になると、朝鮮半島と隣接する中国東北部(いわゆる「満州」)にすむ狩猟・商業民族女真族(満洲人)が力を伸ばしつつあった。女真族は首長・ヌルハチに統一され、1616年国名を金(後金)と定めた。
女真族は人種的には朝鮮族にもっとも近く、朝鮮半島で農耕化が進んだものが朝鮮族であり、東北部で狩猟生活を維持し続けたのが女真族と考えられる。朝鮮族からすれば、女真族はかれらが教え導くべき存在であった。その女真族が急速に力を増してきたのである。
ヌルハチは、しだいにこの地を治める明と対立するようになる。そこで朝鮮に友好を求める使者を派遣、明も援軍を求める。朝鮮内部では、明に協力すべきとするグループと、慎重姿勢をとる国王(光海君)らが対立、いったんは明への協力を決め、兵を送る。
彼らは戦場にはいったものの戦闘には参加していない。そういった国王の命令があったともいわれる。
これに対し後金は1627年朝鮮に侵入、これを屈服させた。(丁卯胡乱)
その後、後金は国名を清と改め、今度は、朝鮮に臣従と出兵を命じてきた。それにたいし朝鮮が消極的な態度を取ったため、清は再び侵入、朝鮮は清の服属国となった。(丙子胡乱)
この敗北は、朝鮮に大きな衝撃を与えた。「夷狄」であり、支配と同化の対象であった女真族・清に敗れ、臣下の礼を余儀なくされたからである。さらなる衝撃がおそう。世界の中心(「中華」)で、自らの「上国」と考えてきた明が滅亡、清が「中華」を征服、つまり「夷狄」とみなしていた清が世界の支配者・中心となったのである。(「明清変態」)
こうした事態は、朱子学的な華夷秩序のなかで生きてきた朝鮮を困惑させた。そこで学者たちは「形式的には清に臣従するが、自分たちこそが明=「中華」の正統な後継者であり、正しい「中華」の担い手である」と考えることにした。こうした考えを「小中華」思想という
この世界観は暴走した。朱子学のみならず朝鮮自体を自己中心的で狭量なものとした。「夷狄」である「清」に学ぶものはなく中国大陸に蓄積された学問・文化、科学や技術さえも価値がないもの見なしたのである。自国以外から学ぼうという姿勢は失われ、自家中毒状態の偏狭さが社会にひろがる。
以後、朝鮮では儒教経典をもとに現実離れした議論や建前論を繰り広げ、偏狭な「正義」を語る。現実を正面から見ようとしたり、中国や世界からさまざまな知識などを受容しようとするものには「斯文乱賊」との厳しい非難が浴びせかけられる。教条主義と独善がはびこる。
民衆の反乱は、悪徳下級役人による不正、地方官など役人の失政=「徳」のなさ、場合によっては国王の力量のなさといった個人的な理由・責任によって説明され、その背景を深くは問わない。こうした論理で政治が運営された。
1876年第一次修信使として日本を訪れた金綺集が日本の外交官に語ったことばに朝鮮の思想の持つ悲喜劇が集約されている。
わが国の学問は、五百年来ただ朱子あることを知るのみ。朱子に背く者はただちに乱賊をもってこれを誅し、科挙に応ずる文字に至るまで仏氏や老子の語を用いる者は、遠地に追放して許さない。国法が極めて厳しいから、上下貴賤にとってただ朱子あるのみ。君が君たり、臣が臣たり、父が父たり、子が子たり、兄が兄たり、弟が弟たり、夫が夫たり、婦が婦たる所以は、いちずに孔孟の道理に遵うからで、他の道に迷い、他の術に惑わされることがない。(姜80)
朝鮮朱子学における「小中華」思想は、現状を肯定し、変化を拒否する守旧的な政治のあり方と適合的であった。(とくに老論派が顕著である)改革は拒否され、朱子学がその理由づけに利用された。その間にも事態は悪化、変革の芽も摘み取れれる。
「実学」思想
18世紀になると、朝鮮にも現実に即して真実を求めていこうとする「実学」思想が生まれてくる。
かれらは朱子学の枠組みをこえ、清さらには西洋の科学や技術などにも学ぼうとした。そして、土地私有の弊害をさけるための土地公有化を、海外通商を、そして軍の近代化を語る。科挙の弊害を指摘し、両班を「遊民」であると批判し生業(運送業や商業など)につくことなどの改革を主張する。
こうした動きは、朝鮮王国中興の祖とされる国王英祖・正祖に支えられた。かれらは、様々な学派を平等に扱う(蕩平とうへい策)ことで党派争い(党争)をさけ、王権の強化を図ろうとした。
とくに18世紀末期の正祖は、庶子として差別されてきた人材を積極的に登用するとともに、奴婢の身分決定の方法を改めや軍役制度も改革するなど現実的な改革を進める。首都の移転なども検討した。
しかし、正祖が死亡すると、有力家門の安東金氏が幼い国王の外戚として力を伸ばす勢道せど政治をはじめ、一門出身者が重要なポストを独占する。そして実学派のなかに天主教(カトリック)信者が広がっていることを利用し1801年に大規模な弾圧を行う。あるものは処刑され、あるものは遠島などの処分を受ける。(「辛酉しんゆう教難」)
東アジアへの西洋の影響力が急速に進み、隣国の清や日本が世界の事情を学び、対応を考えていた時期、朝鮮は知的な面でも国を鎖ざし、実学の影響力は失われていく。とはいえ実学の命脈の中から、開化派がうまれる。
科挙と「両班ヤンパン」身分
朝鮮における科挙は中国とは別の意味合いがある。
中国の場合は、巨大な人口を背景に、広大な地域、大量の人間の中から俊英を選び出し、政権を担せるので特定の家柄が固定化することは起こりにくく、郷紳=地主階級の階級的利害をトータルに受け入れることを可能にした。
国土が狭く人口で少ない朝鮮では受験する母数も少なく、合格する家柄も限られる。臨時的な科挙が不定期的に実施され、合格者も増え、人口比で中国の5倍にのぼる。こうして15世紀(1392~1494)合格者を出した同族集団上位30位の割合が36.8%家門も不明の合格者が229名だったのにたいし、19世紀には同族集団上位10位で全体の27.9%、30位までなら55.6%を占める。合格者をだす家門の寡占化が進む。
両班とは本来では科挙に合格したものを指す言葉である。しかし家門の中で合格、中央政界に進出するものが現れると、その権威を利用して、その一族も在地有力者として力を伸ばし両班と呼ばれる。彼らは地方政界の間で隠然たる力をもち、家門全体の権威や経済的地位も高まる。こうして合格者を出した家門も「両班」とよばれ、身分としての性格をつよめる。(岸本宮嶋98)
政府は両班の肥大化を限定しようとするが、地方在住の在地「両班」はその権威を維持し続けることが多かった。かれらに正式な定義はなく、非常に相対的・主観的なものであった。
宮嶋博志は「両班」身分の条件を以下のように整理する。
①科挙及第者であること、ないし高名な学者の子孫であることが明確なものであること。
②数代にわたって同一集落=班村(世居地)に居住していること。
③両班的な生活様式を保持していること
④代々の姻戚が①②③の条件を満たしていること(宮嶋95)
地域社会の担い手としての両班
朝鮮は、全土を八つの「道」に分け、その下には全国で350ほどの「邑ゆう」(「府」「郡」「県」などの名でよばれる)が、その下に「面めん」とよばれる行政村が、その下に「洞」「里」という複数の集落からなる自然村が存在していた。
「道」には観察使が派遣され「邑」の監督に当たる。「邑」にも守令とよばれる地方官が派遣され、現地の行政・司法・徴税などの職務をになう。
守令は地元への赴任することは許されず、短い期間で転勤していくため、邑における地方行政の実務は郷吏・邑吏とよばれる専門官(胥吏)が担った。胥吏たちには俸給は支払われず租税の徴収などに便乗した形で自身の給与を得ており、それが過酷なものでない場合は普通の報酬とみなされ不正と考えられなかった。なお、彼らは形式的には賤民身分に位置付けられる。
守令は、郷吏らを用いるに当たって、在地に強い影響力を持つ在地両班の助けを借りた。在地両班たちは郷庁(郷所)という自治組織をもっており、守令はその協力を得て、郷吏らを監督することで地方政治をすすめた。
郷庁のメンバーは、在地両班らの名簿である郷案にもとづき選ばれる。そのため郷案に記載されることが重要であった。邑には地方の儒教教化をになう郷校がもうけられる一方、両班の同族集団による祖先崇拝と教育機関である書院もおかれるようになり、地域に強い影響力を行使した。朝鮮王朝の地方行政は在地両班の力を借りることで成立していた。(趙12)
木村幹は朝鮮王朝は、在地両班の地域社会への支配に依拠した「有力者による一種の連合統治」という。(木村07)
朝鮮王朝では、両班が、専門職の官僚「中人」を従属させ、「良人」とよばれる平民や「奴婢」たちの上に君臨する「垂直的な身分構造」が成立していた。(岸本宮嶋98)
大農業経営者としての両班
17世紀ごろまでの両班は、祖先から相続した農地と家内奴隷(「奴婢」)を用いる大農業経営者の性格がつよかった。
さらには権威と財力・労働力を利用して干拓や山間部の開拓によって新たな耕地を拡大していった。
こうして拡大する経済力が、この時期の土地や奴婢など財産の男女均等相続を可能にしていた。この時期、同族意識はまだ弱かったともいわれる。
この時期、朝鮮でも日本と同様に耕地の面的拡大が進んでいた。日本が巨大な権力を持つ大名権力が商人資金をも利用しつつ大規模な農業開発を進めたのに対し、朝鮮では両班が担い手であった。
兵農分離が進んだ日本とは異なり、領主階級である両班の大部分が農村に居住していた朝鮮では漢城などを除き都市への人口集中もすすまず、分業体制の構築は緩慢であった。農村における自給率の高さは商品流通の発展を緩慢としていた。17世紀以降の貿易の退潮とくに対日本貿易の縮小もこうした傾向を進めた。経済発展の担い手である商人や手工業者も賤視されていた。
「党争」激化の背景
17世紀後半になると、科挙の及第者に比して主要なポストが不足し始める。これを背景として中央においては党争とよばれる権力闘争が繰り広げられる。朝鮮独特の性格は、党争が朱子学の学問上の対立と結びついて進んだことである。政治の評価が朱子学の立場から妥当かどうかとの争いとなり、党派が形成される。有力な家門も党派に分けられ、最終的には老論・小論・南人・北人の4つの党派に分かれ抗争する。党争にやぶれた党派に属する家門は主要官僚の地位を得ることが困難になり、没落両班となっていく。
ポスト不足は主要な官職を首都とその近辺の名門両班に独占させる。こうして在地両班が科挙に及第し、さらに中央で重要な地位を得ることは困難となる。こうして在京両班(京班)と在地両班(郷班)の二分化がすすんだ。
こうした時代背景のもとに、中興の祖とされる英祖・正祖が現れたのである。
「小農」経営の拡大と在地両班の地主化
18世紀、日本と同様、朝鮮の農業生産力の方向も、面的拡大から質的拡大の方に移り始めた。
在地両班の成長を支えてきた耕地開発は「基本的に終焉」し「耕地の外延的な拡大が限界に達」した。いきおい「農業生産力の発展は単位あたりの生産量の増大、すなわち集約化の方向に」向かう。
家内奴隷などを駆使して耕作と農地拡大をはかる大土地所有・大家族経営が解体されていき、かわって小家族単位の小農経営による労働集約型経営の方が一般化する。
17世紀半ばにはじまる田植が一般化し、水田二毛作もひろがり、水利施設も発達する。日本において「勤勉革命」と呼ばれる事態と似た流れが朝鮮でもはじまる。
こうして在地両班らは、かつての奴婢らに「一定の土地を貸し与え」て経営を任せ、生産物から地代を得る在村地主にかわっていく。農業経営者から在村地主へと変わり、両班の隷属下の人々も小農民へとかわり、地主小作関係が一般化していく。
伝統的宗族集団の成立
両班が地主経営をメインとしたことは、その経済成長が頭打ちになることでもあった。
その結果、相続の中から女子が、さらには庶子や次三男が外され、嫡長男による単独優先が一般的となっていった。このことは没落両班を生み出す恐れを強める。
こうした事態に対するセフティーネットが、両班の伝統とみなされている父系血縁集団(「門中」)の拡張である。地域支配力を維持するため、同族結合を示す族譜が重視され、祖先を祀ると共に教育機関でもある書院が重視される。書院は血縁集団の中心に位置づけられたが、同時に財産や奴隷を蓄積し、地域で隠然たる力を発揮するためのの隠れ蓑の役割をも果たすようになる。
商品経済の発展と流通の活発化
小農経営の発展と自立は、農村の姿を変えていく。
二毛作など連作がすすみ、綿花・麻・桑・苧麻(ちょま)といったの商品作物栽培がひろがり、それを材料とする農村や地方都市での生糸生産や綿織物・絹織物・麻布・苧布など手工業生産を促した。
定期市が開催され、常設市場も出現した。行商人である褓負商ほふしょうの活動が活発化し、倉庫・委託販売・運送業などを兼ねた旅閣・客主などの活動も活発化した。全国的な商業の発展の中で貨幣の流通も定着、1678年には銅貨の鋳造が始まる。
こうした貨幣経済の発展の中、「良民」のなかから急速に財力を拡大する饒じょう戸・富民といった有力農民が生まれてくる。(趙12)
小農経営のもう一つの特徴は、経営の不安定さである。貨幣経済の発展は、一方では有力農民を生み出すと共に、凶作や疫病、飢饉、さらには生老病死にかかわる事態から来る経営不振、あるいは新たな活動の場への欲求など多様な理由で農村から流出する人々の流れをつくりだした。
そうした流民たちの一部は首都・漢城に流入、おもに都市下層民として定着・集住し、零細商人・手工業者・各種土木業や運搬業、官庁の末端の職務などに従事、その周囲に浮浪民など半失業層を形成した。
こうした商品経済の発展を背景にして、各地の物品を貢納するやり方を米で代用させ、政府が必要な物資を購入するという「大同法」が17世紀初頭に始まり、18世紀初頭までに定着する。これは商品経済の発展と分業化が前提であり、この制度がさらにそれを促進した。漢城の膨張に伴う労働力の増加が、この制度を可能にし、さらなる都市人口増をもたらした。(趙編12)
さらに、軍役も布で代用できるという「均役法」もはじまる。しかし両班や富裕な農民は軍役を免除されたり、逃がれることが可能であり、負担が貧しい農民に集中するという弊害を生んだ。(糟谷96)なお、傭兵としての下級兵士の需要に応じたのも、漢城の膨張にともなって流入してきた人々であった。
「百姓成立」という日本的なセフティーネット
小農社会にともなう不安定経営の農家の増加にたいして、それを補完する仕組みが必要となる。日本では、村落共同体がその役割を果たし、幕藩政権力が補完的役割を果たすことで、全体としての小農経営の維持(「百姓成立ひゃくしょなりたち」)が実現されていた。
近世日本社会では、「村請むらうけ制」にもとづき村全体で年貢の一括納入の義務から、村のメンバーである農民の没落や逃亡はただちに他のメンバーの負担増につながった。こうして「百姓成立」のためのさまざまな手段が講じられた。
近世の農村において、領主権力が直接、村方に介入することは少なく、農村は比較的大きな自治権が得られていた。しかしそれは村が年貢を完璧におさめる(「年貢完済」)前提にたつものであった。そのことは、年貢の支払いが困難な個々の百姓への村やその下部組織の「五人組」、さらに親族集団による過剰な介入にもつながった。「年貢完済」の圧力のもと、家財を質入れし、農地を質入れし、出稼ぎをし、「口減らし」のため家族を養子や奉公に出し、不行跡な当主は隠居に、嫡男は廃嫡、賃取りの口もさがす。こうした介入はあくまでも「年貢皆済」が目的であるが、「百姓成立」のためのセフティーネットでもあった。この圧力下に、百姓たちの「努力」がもとめられた。
「百姓成立」の最前線にいたのが村役人層である。その経営手腕で領主権力は「何もしなくとも」年貢を手にすることができた。村は領主階級の目に見える介入をある程度排除したが、同時に「ムラ社会」の息苦しさを生み出した。
領主=武士・大名の権力は、村役人と村人に年貢皆済こそが職分であると思い込ませ、収奪を合理化した。そのかわり、領主=幕藩権力は民百姓の生活と安泰を実現し、天変地異や飢饉、戦乱などで民百姓の生活が脅かされた場合にはそれを守った。具体的には「民百姓」の再生産が危機に陥ったときの援助(「救恤きゅうじゅつ」)などが求められていた。したがって領主権力がこの職分に背き、民百姓を苦しめたり、しかるべき援助を行わないとき、「仁政」に背いた場合には、自分たちこそ「正義」の実現のため立ち上がった「御百姓」として直接行動が正当化された。その典型が百姓一揆であった。
しかし、江戸末期、領主=武士・大名の財政難が深刻化すると本来の役割である農民への援助(「救恤」)が行われにくくなり、村役人層を中心とする富農層ががそれにかわる枠組みを作り出す。こうした行為の連続は、領主=武士身分が農工商をまもるという「士」の職分を放棄し始めたことに他ならなかった。こうして日本では理念としての「近世」が、身分制が崩壊し始めていたのである。
朝鮮における「百姓成立」は?
では朝鮮の村落ではどうか。「百姓成立」の農業の再生産の仕組みはどのようになっていたかという問題である。
日本の農村が基本的には百姓身分のみを中心とする共同体であったのにたいし、朝鮮は村落の内部に両班がいた。かれらが、領主階級として小作農や隷属農民としての村民に対応し、良民には直接国家権力につながる郷吏が対応した。
たしかに自然村を中心に労働力の貸借や共同祭祀を目的とし、自裁権をもつ「村契」という共同体的規制があった。しかし小農経営という不安定な農業の再生産を保障するセフティーネットとしては不十分、村から離れる、離れざるを得ない農民たちがうまれざるえない構造であったようにみえる。
趙景達が「開放的」と評価する朝鮮の農村のあり方は、農民を守るべき日常的なセフティーネットが不十分さのように思われる。(趙20)
※本稿は非常に多くを趙景達の研究に学んでいる。ただ趙が日本における領主支配を強圧的と捉え、村請制の下での村による再生産機能の意味合いを軽視していることには異論がある。
領主が直接的な「暴力」に訴えなくとも年貢が皆済されるシステムが作り出されていたところにこそ江戸時代の収奪の巧妙さ、恐ろしさがある。たしかに「村請制」や「五人組」などは農民の連帯責任を利用して年貢を収奪する仕組みであるが、それ故に年貢皆済を実現するために村役人を中心とする村共同体がさまざまな手段を講じることで村全体としての再生産を実現できた。これが不可能と考えた場合は百姓一揆という非常手段にもでた。
いうまでもなくこうしたシステム成立の背景には戦国期から近世初期における領主権力の圧倒的な「暴力」の行使(=「兵農分離」)があり、武士による兵営国家ともいえる近世社会における潜在的な「暴力」の存在があったことはいうまでもない。
趙がいう「朝鮮農村の開放性」はセフティーネット面で多くの問題性をはらんでいたことの別の表現であるように感じる。
朝鮮農村における小農経営のためのセフティーネットはどこにあったのか。
ひとつには、在地両班があげられる。地主であり農業経営者であるかれらが小作農民とのあいだで再生産の維持をはかることになる。
在地両班はあわせて日本の村役人層と似た機能をもっていた。かれらは苛斂誅求に走りがちな郷吏たちを自治組織=郷庁をとおして牽制する一方、災害や飢饉といった再生産の危機に際しては、守令や観察使などに働きかけ国家権力による「救恤」機能を発揮させることも可能であった。
とはいえ、生活者としての農民には社会全体の災厄とは異なる日常的で個別的な生老病死にかかわる苦しみが存在し、それを原因とする経営不振も存在した。こうした事象にたいする「救恤」は難しく、没落は「自己責任」と見なされる。木下光生は日本近世の農村でこの点を強調する。年貢未納の百姓の出現が「村全体の迷惑」とされる日本にたいし、連帯責任の要素が希薄な朝鮮の農村ではこの傾向はさらに厳しかったと考えられる。(木下17)
小農民生産は農民たちに倹約・禁欲と勤勉による「家」の安泰をねがう通俗道徳を求めさせる。しかし、その行為は商品経済の網の目にさらに深く組み込まれることを意味しており、一部の成功者と多数の没落者を生み出す。成功者として饒戸・富民も現れてくる。しかし権力はかれらを新たな収奪源として位置付け、吸着する動きをみせる。その中から新たな動きも生まれる。
新たな両班層の出現
小農経営の拡大は儒教的イデオロギーの拡散につながっていく。家族経営を基本とする小農経営では「家」の継続という道徳が重視され、祖先崇拝などの儒教的儀礼がより低い身分・階層へ、社会全般へとひろがっていく。
経済的実力をたかめた饒戸・富民や、権力と結ぶことで蓄財を実現した郷吏なども、先祖=「家」の尊厳を示そうとしはじめ、両班への身分上昇もめざすようになる。かれらは穀物の献納などさまざまな手段で「郷案」への記載を実現、両班の一員(「新郷」層)となっていく。そして伝統的な両班=「旧郷」層と対立しつつ、郷庁へ進出していく。(趙02・12)
こうして両班を称するものは急速に増加、19世紀中期(1858)の慶尚道大邱地方においては、両班戸が全戸数の70%、全人口の49%を占め、良人戸は28%、良人20%という「身分制の崩壊」といえる状況となる。(岸本宮嶋98)
勢道政治と農村の疲弊
18世紀の終焉に時を同じくして国王権力の拡大をめざした正祖が死亡する。これにより、政治の流れは一変する。
かれのもとで活躍していた実学派は追いやられ、名門両班・安東金氏・老論派による守旧的な勢道政治がはじまる。売官売職といった風習や賄賂が横行し、それに要した費用が民衆へと転嫁され、各地で苛政がすすむ。飢饉など民衆の苦難にたいし救恤策がとられないばかりか、逆に収奪が強化される。
各地で「民乱」とよばれる農民反乱が多発、リーダーのなかには両班の姿がみられる。とくに1811北西部平安道で発生した洪景来の乱が有名である。
この時期の苛政は「三政の紊乱」という言葉で示される。
三政とは①土地に課せられる各種の税および付加税の搾取=「田政」②十六~六十歳までの男子に対し軍役の代わりに課せられる軍布の徴収=「軍政」③窮民に対する政府の倉庫米の貸付けによる高利的搾取=「還政」(還穀)をさす。
とくに軍政は「軍籍」という名簿に沿って課せられるが、有力者は買収などの手段で免除されるため、それにかわって適齢に達していない子供や既に死んだものの分まで徴収される。耐えきれず逃げ出した者の分は一族や同じ村の者に負担させる。有力者は両班に位置付けられることで負担を逃れ、その分がさらに貧しい農民に転嫁される。こうした不公平感は社会に満ちてくる。両班たちは軍役を免れるといった特権をもち、あらたな耕地を拡大するうえでの便宜も得ることができた。(姜77)
地方では饒戸・富民や郷吏たち新興勢力(「新郷」層)が「郷庁」を支配、守令に協力する。こうして中央から派遣される地方官=守令と郷吏らが、「新郷」層の協力の下、直接結びついて民衆を支配する「守令ー吏・郷支配構造」が形成された。これが守令→郷吏らの苛斂誅求を容易にしたといわれる。
しかし、このあり方は朱子学を基礎とする朝鮮身分社会の原理と矛盾する性格を持っていた。
「士」としての「正義」
思想家・柄谷行人が強調するように、前近代における「略取」の実現には国家の「再分配」機能=公共政策が結びついており、自らを「公共的な」権力とみせかけることでそれを安定させる。
日本近世に当てはめるならば、救恤策(年貢軽減や御救米など)が農業などの再生産維持を補完することで「略取」の実態を隠すばかりか「国家」が収奪をうけている人々の生存と再生産を保障する「仁政」の担い手であるかのような倒錯した理解を与えた。救恤策こそが、領主の「略取」に応じる条件、社会契約であり、「国家」がこの契約を「毀損」したときは「革命権」としての一揆を行うことが許されていた。百姓一揆の多くはこの論理にもとづいて発生、領主が要求を受け入れることで「仁政」が達成される。あわせて秩序を乱した「不正義」の故にリーダーたちは処刑され、「正義」が実現する。
朝鮮では、人民が苦しい立場に置かれた場合は「士」としての両班らが救恤策をになうとともに国王に働きかけることが期待されていた。この機能が毀損されれば「正義」は人民の側にあるとされる。しかし李朝後期の「守令ー吏・郷支配構造」のもと、救恤策がなされず、さらなる収奪が課されるとそれは「社会契約」=「仁政」の原則に反する行為と見なすことも可能となり、日本同様「仁政」を要求する民乱も正当化された。
この際、問題となるのが在地両班の存在である。両班が朱子学における四民のうちの「士」として把握される以上、「士」の倫理に基づき「正義」を実現するすることが求められる。だからこそ、地域社会のリーダーの顔も持っていた。民の苦しみを知って「救恤」を訴えかけるのも「士」の「職分」である。
この観点から、民乱に立ち上がり、胥吏などの不正を糺弾しようとする民衆は、弾劾文の執筆を地域の有徳な知識人=「士」(かれらは両班でもある)に依頼する。「士」である以上これに応じざるを得ず、守令や観察使(親しい関係にあることもある)などを弾劾する文章を書き、ときには国王にたいしても上訴する。
こうした行為は、民乱の首謀者と見られる危険な行為でもあった。こうして、主に旧来の在地両班とくに没落両班のなかから「守令ー吏・郷支配構造」に抵抗し、民乱にかかわり、リーダーと見なされる人物もあらわれた。(趙02)
儒教的イデオロギーの民衆への広がり
18世紀以来の小農社会のひろがりは、「家の永続」=祖先崇拝という観念を広げていった。こうして、これまでは上から押しつけられていた儒教的倫理観を、主体的に受け入れようという風潮が民衆の間に広がっていった。こうして儒教的な倫理観を身につけつつある民衆に、両班=知識人の間で長く培われてきた「士」としての「正義」感が結びついていく。
かれらにとっては身分としては「士」であるはずの人々が「正義」を行わず「仁政」に背を向け続けるなか、逆に「正義」を実行するものこそが「士」であると読み替えられる。「正義」をおこなう人間を「士」として、すべての身分に開放する。儒教イデオロギーは身分制からの解放をめざす思想となっていく。
とくに19世紀後期、開国・開港による混乱が社会全体を覆い、政府が開国したことが人々の暮らしが破壊しているとの実感を与えるなか、鎖国攘夷を唱える衛正斥邪思想が民衆の共感を得て広がっていく。
しかし、時代的・思想的制約のなか、解放をめざす思想は「一君万民」という国王幻想にむすびつきがちである。江戸後期以降、身分制の弛緩のなかで天皇を焦点とする「一君万民」が力を伸ばしたこと似た動きが朝鮮でもみられることは興味深い。民乱において賤民に位置づけられてもいる郷吏らは惨殺されるが、守令は暴力をふるわれ、服を脱がされるなど辱めを与えられるが命は奪われない。なぜなら彼らは国王の代理であったから。
ただ朱子学の影響の強い朝鮮には、日本と異なり易姓革命という王朝交代を容認する考えもある。この時代、人々の間で『鄭鑑録』という書物がひそかに流通していた。そこには 天変地異が続く中から「真人」という超人が出現し、混乱を収束させるという終末論が描かれていた。(趙02)
東学の成立と終末思想の広がり
没落両班と民衆が結びつき、朱子学の読み替えによって収奪からの解放と身分制度からの自由をめざす思想も生まれた。その代表ともいうべき宗教が、19世紀中期に没落両班の崔済愚が創始した東学である。
崔は「すべての人々は、だれでも自分のなかに『天主』が存在しており」「どんな人でも修養を通して天と一体化できる」と主張、『天主』は『真人』の読み替えでもある。
こうして身分・性別・長幼などにかかわらず人はみんな平等であり、そのなかに『真人』の要素をもっており、呪文を唱え、修養に励むことで病などの苦難から解放され、さらには『真人』になれると説く。こうして呪術性と通俗道徳が平等を求める思想と結びつく。
さらに第二代教主崔時享(貧農の出身といわれる)のもとでは「修養」が重視され、通俗道徳の強調へとつながり、秩序への従属をもとめる傾向が強まる。他方、経済的余力のある者が貧しい者を助けるという考えを現実化する中で農民たちが組織され、小農経営の不安定さを支えるコミュニティという役割を持ちつつ拡大していく。
東学においても、国王への忠誠という意識は強く、1894~5年の東学農民戦争(甲午農民戦争)の指導者全琫準(没落両班の出身)は「一君万民」思想にもとづく国王への崇拝を持ち続る。
民衆運動と近代前期朝鮮史への展望
朱子学イデオロギーを民衆の立場から読み替え、さらには『鄭鑑録』の易姓革命の論理や終末感の影響もうけつつ、身分制からの解放をめざすという「下からの民主主義」化の運動が生まれ始めていた。とはいえ、時代的条件の影響を受け、神秘主義的色彩を拭いさることができなかった。かれらによって、19世紀末の東学農民戦争が戦われ、要求の一部は、弾圧した側の開化派政府にうけいれられ、甲午改革のなかで実現する。
近代社会における「世界=経済」の圧倒的な力の前に投げ出され、生活と生産の再編を強いられる民衆の運動は排外的色彩を帯びざるを得ない。朝鮮朱子学に特徴的な排外主義・独善主義的な「小中華」思想がそれに結合する。朝鮮の近代化・文明化を口実とする日本をはじめとする諸国の進出は排外的ナショナリズムの傾向の強い衛正斥邪思想に正統性を与えた。かれらが、朝鮮を奪おうとする日本帝国主義に対する抗日義兵運動などの中心となった。
「世界=経済」の動きに対し、実学派の流れを引き継ぐ開化派の知識人たちは、それに対応しうる近代国家への変身をめざした。そのモデルは朝鮮への介入を進める日本であり、宗主国として保護国化をすすめる清国であった。そのためかれらは侵略をめざす国々の代弁者として、敵意にさらされた。実際、外国勢力の介入を呼び込む役割も行った。かれらは支配勢力内の改革派でありつづけた。民衆の中に影響をもちはじめるのは19世紀末の独立協会を待たねばならない。
こうした動きのなかに、家族内部の争いを優位に展開し、さらに王権の絶対化をすすめるために、外国勢力や軍隊を安易に引き込む国王や王妃、対立する王の実父といった王家のメンバーがからみあい、朝鮮近代は複雑な様相を呈する。
そして、朝鮮の人々の苦難を耐えがたいものにしたのが、日本、さらに清、東アジアを舞台に勢力争いを繰り広げるイギリスとロシアといった国々であった。
19世紀前半、朝鮮は世紀後半の激動を前にしていた。東アジア情勢は緊迫化を増し、朝鮮社会は大きく変化し始めていた。しかし、当時の政治を担っていた安東金氏一族を中心とする勢道政治はあまりに無力で無策であった。無策はさらなる苛政を招き、地方では荒廃がすすんであいた。中期になると民乱なども頻発、清さらには日本を開国させた列強が朝鮮近海に出没し始めていた。(つづく)
<朝鮮近代史を学ぶ~目次とリンク>
1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:開化派の苦悩と壬午軍乱と甲申事変
4:東学農民戦争と日清戦争の発生
5:甲午・乙未改革と改革派の敗北
<参考文献>
『朝鮮を知る事典』(平凡社1986)
宮嶋博志『両班』(中公文庫1995)
岸本美緒・宮嶋博志『明清と李朝の時代』(1998中央公論社)
糟谷憲一『朝鮮の近代』(岩波ブックレット1996)
趙景達『朝鮮民衆運動の展開』(岩波書店2002)『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』(有志舎2020)『近代日本と朝鮮』(岩波新書2012)
趙景達編『近代日朝関係史』(有志舎2012)
姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社1977)『朝鮮の開化思想』(岩波書店1980)『朝鮮儒教の二千年』(朝日新聞社2001)
木村幹『高宗・閔妃』(ミネルヴァ書房2007)
柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫2015)
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房1979年)『百姓成立』(塙書房1993)
木下光生『貧困と自己責任の近世日本史』(人文書院2017)