朝鮮近代史をまなぶ(4)
Contents
東学農民戦争と日清戦争の発生
清による朝鮮「保護国」化と高宗のロシア接近
天津条約によって、朝鮮から外国の軍隊~日本軍も清軍も朝鮮からいったん姿を消す。しかし、清による朝鮮を「保護国」としようという圧力はいっそう露骨となる。
こうした動きは国王高宗をいらだたせる。高宗は金玉均らと結んで自分たち家族を窮地に陥れた日本も許せなかったが、自分や朝鮮王国を言いなりにしようとする清国も腹立たしかった。「清国と日本という外国が国の政治に公然と干渉し、国王の権威はずたずたにされてしまった」という。(和田09)
そこで高宗は、清や日本に代わる新たな保護者をもとめる。ロシアである。
高宗はロシアに条約締結をもとめ、消極的なロシアとの間の条約を締結、さらにロシアとの関係強化をめざす。
この高宗を支えたのが、李鴻章が派遣した外交顧問ドイツ人・メレンドルフであった。
かれは旧知のロシア外交官ヴェーベル(ドイツ系ロシア人)と相談、清・日本・ロシアの共同保障による中立化案も検討したが、最終的に朝鮮はロシアの保護国となるべきであるとの結論にいたる。和田はこの結論は高宗との相談の結果であろうと推測する。こうした相談が彼と高宗とだけですすめられ、政府関係者には知らされない。メレンドルフはロシア側に朝鮮の不凍港とそこにいたる陸路を提供できると伝え、まずはロシアからの軍事教官の派遣を要請する。
あまりのリスクが大きい申し出に当初消極的であったロシアは、ある事件をきっかけに態度を一変する。1885年3月イギリス艦隊が朝鮮海峡に面する孤島・巨文島を占領したのである。これは、中央アジアでのロシアとの対立激化を反映したものとも、朝鮮半島でのロシアの動きを察知した牽制行動とも考えられる。
宿敵イギリスの動きはロシアを積極政策に転換させ、軍事教官派遣の密約をむすぶ。(露朝密約事件)
ところがイギリスの巨文島占拠によって高宗はロシア接近に消極的姿勢をとり始め、国王の対露工作を知った金允植ら政府関係者も強く反発、教官派遣を拒否する通知がロシアに伝えられる。ロシア側担当者は派遣はもはや決定事項であると反発したが、本国の意向もあって自重する。
高宗のロシア接近を知った日本の外相・井上馨は、朝鮮の君臣関係や政治のあり方は子ども程度であるとの酷評をする(「朝鮮国王君臣ノ間、政治ノ体、其所為殆ンド小児ニ類スル者アリ」)。こうして、日本政府の、高宗・朝鮮に対する態度はいっきょに硬化し、その姿勢は強硬となっていく。(和田09)
保護国化をすすめてきた清も強硬な対応に出る。メレンドルフを解任させるとともに、中国国内に幽閉していた大院君を帰国させ、高宗を牽制する。(大院君は閔氏政権に対する反発を持ち続けており、清と結ぶこともいとわなかった。)さらに甲申事変で手腕を発揮した強硬派の袁世凱を派遣する。
袁は「宗主国の代表」として他の諸国とは異なる「別格の地位・待遇と国王・政府を指導する強い権限」を持っていることを示すべく朝鮮に対しても、他国の外交団に対しても、傲慢な態度をとる。王宮に輿で乗りつけ、外国公使との社交にも尊大な態度で臨む。清は『上国』であり、朝鮮はその「属国」であることを印象づけようとしたのである。こうしたやり方は、朝鮮国内・外の反発を買うことになったが、李鴻章は袁を支持し続けた。(和田09)
このような清のやりかたが、高宗を再びロシアに近づける。工作の中心となったのが、高宗と親密な関係を結ぶようになったロシア代理公使ヴェーベルである。高宗は清国の影響力を排除すべくロシアに軍艦の派遣を依頼する。ロシア政府は拒絶するもののイギリスの巨文島占領に反対する朝鮮を支持する。(第二次露朝密約事件)。高宗は、ロシアを朝鮮に引き込むことで清国の影響力を牽制しようとした。こうした政策を「背清引俄政策」という。
高宗のこうした外交手法は、無責任で軽薄な対応にみえるが、大国に囲まれた「小国」の必死の生き残り策とも見えなくもない。
しかし、ロシアにとってはなんとも迷惑な話であった。
高宗はさらに踏み込む。皇后の従兄弟閔泳翊をヴェーベルのもとに派遣、清の圧迫を訴え、ロシアとの同盟を求めるともいえる書簡を渡そうとした。
ところが事の重大さを知った閔泳翊は袁に事態を通報、激怒した袁は李鴻章に軍隊の派遣を要請、高宗の廃位をも検討する。
高宗の「火遊び」は、ロシアと清との直接交渉で「鎮火」された。両国は朝鮮の現状維持と領土保全を清・露両国が保障するとの李鴻章の提案で合意する。さらに「ロシアは朝鮮のどの地点を占領しない」と約束する。
清はこれを材料にイギリスを説得、1887年2月イギリスは巨文島から撤退した。
イギリスは朝鮮政局が動揺しロシアの影響力が朝鮮半島に及ぶことを最も恐れていたのである。朝鮮情勢が安定するのなら、清でも、日本でもどちらでもよかった。この時点のイギリスにとっては清の方が信頼できた。
イギリスが撤退すると、ロシア政府も慎重論にたちもどる。
とはいえ、清と日本、どちらが進出しても好ましくないという立場はかわらず、極東への兵力増加もつづく。さらにヴェーベルは漢城に残り、高宗との個人的な友好関係を維持し高宗と共に策動を続ける。(和田09)
袁はさらなる圧力をかける。国王退位は断念するが、かわりに高宗の外交権を取り上げる。高宗が任命した公使派遣にクレームをつけ、ヨーロッパへの派遣は断念させ、いったんアメリカに派遣した公使も帰国を余儀なくさせられる。
こうして清と朝鮮との関係は悪化する。しかしロシアは消極的であった。
日本の軍備拡張~専守防衛型から対外進出型
1885年の天津条約で日本は動きがとれなくなっていた。
壬午・甲申事変は日本国内の様相を大きく変えた。
国内では国権主義の流れが高まる。
福沢諭吉は、弟子であり同志ともいえる急進改革派の敗北を「非文明による文明に対する勝利」ととらえた。有名な「脱亜論」では、朝鮮や中国を「悪友」とみなし欧米と同様の(帝国主義的!)態度で彼らに接するべきであると主張した。
民権運動は政府の外交失策を批判し、ナショナリズムをあおることによって勢力回復することをめざした。さらに自由党左派の大井憲太郎らは、朝鮮での革命運動によって国内の運動を活発化させることつなげようと考えた。亡命中の金玉均らとむすび武器弾薬を準備していたが、発覚し逮捕される。(大阪事件)
他方、壬午軍乱は日本軍を変えた。果敢な行動を取れなかったのは日本軍が非力であり、さらに日本軍は内乱鎮圧対応の組織であり、海外出兵には向いていないと考えた。こうした判断に立って山県有朋は、軍備大拡張(とくに軍艦の大増設)と鎮台制から対外派兵対応の師団制へ軍隊組織を改変することを提案、谷干城ら反対派の反対や伊藤や松方の消極論を押し切って実現、松方デフレ下の国民の窮乏をよそに軍事費を急増させていく。民権派も軍備拡張を支持する。
壬午軍乱・甲申事変は日本の転換点に位置した事件であった。
政府が甲申事変で積極論を説いた竹添公使に自重をもとめたのは軍備拡張途上であったからでもある。
甲申事変以後、比較的平和に見えた約十年間、日本軍は清国軍に遜色ない装備を達成、軍紀もただされ「国民軍」的性格を強化していく。ただ、正面装備の充実とうらはらに、補給などについてはおきざりにされた。こうした日本軍のあり方は「悪しき伝統」の原因につながった。
米の日本流出がもたらす経済の破壊
朝鮮における清の影響力拡大は経済面でも見られた。
壬午軍乱後、中国商人の優位を規定した「中朝商民水陸貿易章程」が締結され、中国商人は特権的な地位を利用して進出、1891年には対朝鮮輸出額では日本に拮抗するにいたる。
日本は江華島条約以後、朝鮮との貿易で圧倒的なシェアを誇っていた。日本はイギリスなどから仕入れた綿布(金巾カナキン)などを朝鮮に持ち込み、大量の米や大豆、金地金などを輸入していった。それにたいし、宗主国の特権と地理的に有利さ、独自のネットワークを持つ中国商人が金巾など欧米産の製品の中継貿易に乗り出してきたからである。
江華島条約では、朝鮮側の無知につけ込んで無関税や日本通貨の使用、米を買い占めることなどを可能にした。
こうした貿易のあり方の弊害の大きさを知った朝鮮側は「条約改正」交渉をすすめた。金弘集ら第二次修信使の来日もこうした交渉目的も担っていた。
その後、日本は最恵国条項獲得や、開港の実施、国内旅行の解禁などと引き換えに、列強と同様な不平等条約体制にうつる。
さて欧米産の製品とくに綿布の中継貿易のシェアを奪われた日本であったが、新たな輸出品として用いられるようになったのが、1882年の大阪紡績開業以降急速に生産を拡大した綿糸などの綿製品である。日本製の綿布はその価格の安さと朝鮮の生活にもなじむ品質から、売り上げを伸ばしていく。
日本製の綿糸の安さを可能にしたのも、朝鮮との貿易であった。1880年代になり、大阪を中心に大紡績工場が次々と開設されるでは国産米の1/3という価格で手に入る朝鮮米を用いることで賃金の引き下げを実現した。
日本での産業革命の進展が朝鮮米の大量輸出につながった。
朝鮮米への需要は、朝鮮在住の日本人を少しずつ増やしていく。
日本からの渡航者(初期は、伝統的なつながりのある対馬出身者が多い)も増えてくる。1880年に元山、1883年には漢城の外港である仁川も開港され、1885年清商人以外も朝鮮国内の旅行ができるようになり、日本商人は生産地での米の買い取りをすすめる。春に農村に出向いて資金を提供し、秋の収穫分を買い占めるという青田買いまでも始める。(趙12)
「進出日本商人の零細性は、資本としての優越性に基づいて既存の商業機構を買弁的に再編・支配するというよりも、末端のレベルまで在来の商人層と対抗・競合しつつこれにとってかわる途を志向させ、伝統的商業組織への打撃をいっそう強める結果をもたらした」(吉野88)。朝鮮の米流通を零細日本商人が奪い始めたのである。吉野は、このような日本資本主義の後進性が「被侵略社会の経済構造に及ぼす破壊作用」の大きさに注目する。日本商人たちは、現地の風俗習慣を無視したやり方で、ときには傲慢な態度を取るものもいたため、朝鮮の人々のひんしゅくを買い、反日意識を招く原因ともなっていった
さらに輸出拡大にともなって「ソウル(※漢城)を中心とした広域的な流通圏は各開港場を頂点とする新たな流通圏に分断され、円滑な穀物供給が恒常的に脅かされるようになった。」(吉野88)この結果、ソウルへの米穀の供給が脅かされ、米価高騰が深刻になる。(1883年の壬午軍乱の背景には米価高騰のため食糧不足に陥っていたソウル=漢城の下層市民らの窮状があった)
さらに、流通市場から商品としての穀物が奪い去られることで各地域での糧秣の不足という事態を引き起こした。(吉野88)
疲弊する農村、防穀令と民乱
この時期の農村のようすを趙景達の記述に沿って見ていく。
米不足、米価高騰に、閔氏政権の「尋常さを失っ」た売官売職が輪をかけていた。「道」の長官である観察使になるには2万~5万両、市町村の長官である守令になるのは1千~2千両がかかったといわれる。さらに地方官は短期間で頻繁に交替したため、「新規採用の地方官は赴任早々に、胥吏と結託して賄賂分の金銭を中間収奪するしかな」く、深刻な状態にある農民の生活をさらに破壊する結果となった。そのことが、貧困状態にある民衆をさらに苦しめる。
1888年の慶尚道慈仁県では、総戸数3617戸のうち凶作時賑恤(*公的機関による援助)の対象となる戸数が62%、毎年賑恤の対象となる戸数が27%であり、自立して行ける戸数は約1割に過ぎない状態となっていたとされる。とはいえ、こうした貧農民が満足な賑恤を受けられることはなく、「モスム(作男)や人足、仲仕、馬夫、牛曳き、輿丁(かごかき)、舸子(水夫)、鉱山労務者、製塩夫、織工などの農業以外の仕事に臨時に携わって、ようやく糊口をしのぐしかなかった。※」(趙12)
趙はこうした「農業以外の仕事」を特別なこと、この時期独自の状態のように記すが、日本の近世農村などの例から見れば、こうした「農業以外の仕事」を当然のように組み込むことで不安定な小農経営の再生産を可能にしていた。「臨時に携わった」「糊口をしのぐ」という記述が妥当であるのか、日本で「百姓=農民」という図式がフィクションであったように、朝鮮においても、専業農家を基本に考えるのではなく兼業農家(さらには農業が副業の場合もある)こそが本来のあり方と考えることができないかと考える。
この点について、吉野は「自己の零細な農民経営のみでは生計を維持しえず、何らかのかたちでの労働力販売を不可欠とし、賑恤など国家的諸機能によって再生産を補完されている農民層の実態および性格が、分解の所産というよりは、伝統社会における農民の本来的な存在形態を示すものとして把握・解明されるべきもののように思われる」とのべ、「無所有ないし零細な経営であっても生存を許されていた」「旧来の社会構造」の存在を推測している。そしてその構造が崩壊・喪失し「直接的に過剰人口化することを強いられ」たのが開港期の経済であると記す。納得できる議論である。
そして吉野は「世界市場への編入が日本との間の綿米交換貿易、とりわけ穀物輸出を主軸に進展した朝鮮の場合、穀物市場の破壊や賑恤政策の困難化がもたらされたことによって、零細農民層が受けた衝撃は甚大かつ急激なものとなったのである。開港期とは、そのようなかたちで、在来社会構造の解体=農民層の過剰人口化が進展した時期であった。」と記す。(吉野88)
こうしたなかで飢饉が相次ぐ。にもかかわらず賑恤機能が発揮されず、さらなる苛斂誅求がなされる場合もあったため、民乱が激化した。
「年代記に現れるだけで、1880~93年の14年間に52件もの民乱が発生し、そのうち約半分の25件が1890~93年の4年間に集中している。」とくに、全羅・忠清・慶尚の三南地方は農民戦争までの三年間飢饉が続いていたという。(趙12)
こうした事態は、地方官が飢民に対するの伝統的な役割である賑恤政策をも破綻させていく。吉野は日本による穀物輸出は「ソウルへの穀物供給の阻碍という事実と共に、とりわけ地域における糧秣の欠乏による穀物市場の動揺・破壊、賑恤政策の困難を生じていた」と結論づける。(吉野88)
地方官の苛斂誅求を厳しく指摘する趙も「苛斂誅求によって不正蓄財に走っていた(中略)地方官でさえ、救荒策(凶作時の救命対策)として対日輸出の禁止策を発しなければならないことがしばしばあった」。米を臨時的に輸出禁止にする防穀令が発令される。(趙12)
朝鮮の地方官は、米不足を解消し、賑恤をもとめる民衆に対応するため、日本との合意にともない防穀令をだす。防穀令は実施の1ヶ月前に通告すればよかったのであるが、日本商人はその規定が守られていないと称して差し止めを要求、日本公使館が朝鮮政府に圧力をかける事態も発生、朝鮮側は多額の賠償金の支払いを余儀なくされる。(趙12)
こうして朝鮮の対外輸出の9割以上を日本が占める状態はかわらなかった。
開国をきっかけとして、朝鮮国内の経済・社会混乱はますます深刻化していた。そこに、経済政策の失敗、開化政策にともなう経費増、宮中の浪費などからくる大衆への負担の転嫁もあいまっていた。その費用を捻出するための売官や賄賂の横行が、地方官の不当な収奪などへとつながった。
民衆の生活をまもるべき地方官は救恤機能を果たさないこと、果たせないこと、ときにはさらなる苛斂誅求を行うこと、こうしたなかで民乱が頻発する。
こうした民乱に始まり、その後、こうした政治のあり方をただそうとした反封建・反侵略の巨大な民衆運動となったものが、1894年に全羅道で東学教徒を中心に発生した民衆蜂起が、東学農民戦争(甲午農民戦争)である。
東学の広がりと教祖伸冤運動
東学についてここでは朴宗根の記述をもとにまとめておく。
東学は没落両班の子として生まれた崔済愚(チェジェウ)が、1860年民間信仰と儒・仏・仙をもとに、欧米列強の武力の基礎にある精神力の「西学=天主教」に対抗する「輔国ほこく安民」の宗教として創始した宗教である。「人すなわち天」とする人間の平等思想をもとに、修行によって、「済病長生」が可能になり、さらには世直しの「後天開闢かいびゃく」が実現し身分的差異のない地上天国が実現する、と説いた。
1864年、大院君率いる朝鮮政府はこれを邪教として弾圧し、崔済愚も処刑したが、第2代教主崔時亨さいじこうのもとで組織を体系化、開港に伴う経済混乱と王朝末の社会の乱れによって生活困難が深刻化してきた農民の間に信者を増やしていく。(『大日本百科全書』)
こうして力を伸ばしてきた東学とくにその異端派は1892年以降、民衆を苦しめる役人の苛斂誅求の停止と教祖の冤罪をはらす運動(教祖伸冤運動)を大々的に展開しはじめる。1893年にはそして国王にも訴えるべく続々と漢城に集まってくる(伏閣上疏)。
このなかで、異端派の一部は漢城の公使館の前などに期日を期して攘夷を決行し日本や西洋を排除する(「斥倭洋」)といった排外主義的な掛書を貼りだしたことは外国人を中心にパニックをひきおこした。こうした行動などから、東学は排外主義的集団と見なされることとなる。しかし趙景達は「掛書はあくまでも戦術であって、攘夷の決行を意図するものでは決してなかった。異端派は反日感情を強く持っていたものの、真意としては外国人一般に対して排外意識を抱いていたわけでは決してない」という。(趙12)
なお、岡本は、この時点で朝鮮政府が袁に出兵の打診を行っていたことに注目する。出兵に応じなかったものの、袁は「朝鮮政府がどうにもならない局面にたちいたったら、清朝に援軍を正式に依頼するように」との回答を閔泳駿に伝え「来たるべき布石を打っていた」。袁にとっては、朝鮮政府の依頼によって清が出兵することで「朝鮮が求める保護と清朝が与えたい保護が」一致できると考えたのである。
第一次東学農民戦争の発生と出兵要請
1894年、前年は凶作であったにもかかわらず全羅道古阜コブの地方官は免税措置をとらず、さらなる重税を課してきた。2月、東学異端派の全琫準を指導者に蜂起が発生した。悪徳地方官を追いだし、新たな地方官の説得に応じ解散する。この段階では祝祭的なものであったという。
これで終わりのはずであった。ところが、新たに派遣された役人は懐柔策を取り消し、ふたたび課税の強化を図ろうとしたことから、蜂起が再発、古阜をおわれた全は、東学の他のリーダーたちと相談、朝鮮王朝の悪政を改革すべく全面的な決起を決意、「除暴救民」(暴圧政治を取り除いて民を救済する)、「輔国安民」(国の悪政を改め、民を安らかにする)、「いま危機にある国を助け民を安んずることを生死の誓いとする」という決意を明らかにした倡義文(蜂起の布告文)を発表、農民たちに呼びかける。こうして自然発生的な農民暴動は組織性と持続性をもった農民軍による農民戦争へと姿を変える。農民たちは竹槍や火縄銃などで武装した。
かれらは「①人をむやみに殺さない、家畜を捕らえて食べない②忠孝を尽くして世間を助けて民を平安に③日本人を追い出し国の政治を正しく立て直す④兵士を集めてソウルに攻め込み権力者や貴族たちをすべてなくそう」という行動の4つの原則のもと、「降伏する者は温かく迎える、生活に困っている人は助ける貪欲でむごいことをしたものは追放する」など12条の規律をさだめた。
農民戦争は全羅道各地に拡大、政府軍を次々と破り、5月31日にはこの地方の中心都市全州が農民軍の手に落ちる。(東学農民戦争・甲午農民戦争)(中塚他13)
現地にむかった鎮圧軍の洪啓勲から農民軍の勢いが強いため、清の軍隊の力を借りて鎮圧することを求める要請をする。
この要請にたいする「朝鮮政府の慎重さを欠いた清国への支援依頼」(趙12)が日清戦争を引き起こし、ついには朝鮮が国を失うことへとつながっていく。
農民たちが求めたもの
農民たちが要求したのはどのようなことであったか。
中塚明は、東学農民軍が鎮圧に向かった政府軍との交渉に提出した27条を「①むやみやたらに税をとる強欲な悪い役人を辞めさせる、②三政(田の税、軍役の代わりに出す人頭税、貸し付け穀物の利子税)の改善と不当な徴税の撤廃、③外国商人の不当な活動の禁止」の三点に集約し、「いずれも当時の朝鮮社会が解決を迫られていた緊急の諸問題」とまとめている。(中塚13)
農民たちは日・清両軍が鎮圧に出動したことを聞くと、この27条をもととした「全州和約」を結んで撤退、鎮圧に向かった清との戦闘も避ける。全州を撤退した農民軍は全羅道を中心に、自治体制を確立した。「国法を尊重しつつも、改革政治を急進的に進め」る。(趙12)そこでは、「奴婢・賤民の解放や雑税の廃止、横暴な両班や富民などの懲罰、公私債の廃棄、小作料の納入停止、民衆側に立った各種の訴訟処理」といった平均主義実現をめざした政治がすすめられる。その背景には、農民軍内部の富民や小農民が農繁期で帰郷したため、「農民軍の中の貧農層や無産者層、賤民などの存在が目立つようになった」からとされる。
しかしこうした自治の統制が取らない状態となると、東学の指導者全琫準は全羅道の観察使となった金鶴鎮に協力し、秩序維持に動き始める。没落両班の一員でもあった指導者の全は国王に対する強い幻想を持っていた。さらに大院君の復権にも期待していた。大院君の密書も全の元に届いていたともいう。
だれが清の出兵を要請したのか
東アジアの近代史の大きな画期が日清戦争であり、それは東学農民戦争に対する日清両国の出兵がきっかけとして発生した。天津条約によって動きを封じられていた日本軍の朝鮮進出を引き起こしたのが、朝鮮政府の思慮不足から発生した清への出兵要請であった。それがどのようにして起こったのか、研究者の意見を聞くことにする。
糟谷は「閔泳駿は袁世凱と秘密裏に協議をかさねて、清兵の出兵を求める案を提議・推進した。ついに高宗もこれを受け入れ、6月3日左議政趙秉世の名により袁世凱に出兵を要請した」(糟谷17)と記し、趙も「それは、当初農民軍の鎮圧に自信がなかった洪啓勲が、5月22日に政府に要請したことを契機としている。兵曹判書閔泳駿は袁世凱と協議し、6月1日、国王はこれを認可した」(趙12)と記す。朝鮮側にウエートを置きつつ、袁世凱と閔泳駿の両者が準備していったとする。
岡本はすでにみたように袁世凱が主導したと考えている。鎮圧軍の清朝への援軍要請は「属国の保護を念願してきた袁世凱にとって、千載一遇の機会であった。かれは閔泳駿をして、清朝の援軍をつよく朝鮮政府に進言させる。5月31日に全州陥落の報がとどいて、事態をもはや座視できなくなった朝鮮政府は、6月3日、袁世凱に書面で正式に援軍を申し入れた」としるす。こうして袁は「清朝が援軍の朝鮮派遣を『属邦を保護する旧例』にしたがった」と公言できるようになったと記す。(岡本08)
これに対し、高宗の人間性にも注目しながら評伝をまとめた木村幹は、高宗の無責任さに注目する。
高宗は5月10日という早い時期に「他国から兵を借りればよいのだ。他国にもその例はあるのだから」と発言、他の閣僚の反対で撤回したものの、その後も側近を通して袁世凱に出兵を要請していた。そして全州の落城と清朝への援軍要請をうけて開かれた6月1日の議論で高宗は「本国兵少く恃むべからざる」と述べ、「反乱者たちも自国民であり、それを鎮圧するために他国の兵を借りるならば国民はどう思うのか」との指摘や「兵を借りることは止む得ないが、日本側がどう出るか心配である」という金弘集らをおしきり、自らの決断で援軍依頼をしたとする。木村は「朝鮮王朝の台閣の中で清国への軍隊派遣要請に最も積極的だったのが高宗その人であった」と結論づける。高宗の人間的な問題が朝鮮を窮地に陥れた面は、ロシアとの交渉経過もあり否定できないように思う。(木村08)
なお「出兵の要請は袁世凱が強制したものだということは今日の韓国の歴史家たち(※註では李泰鎮の名と論文が掲げられる)によって確認されている」(和田 09)という独断にもみえる記述には疑問を感じざるを得ない。
日本軍派兵の舞台裏
このように朝鮮側は5月中旬、すでに清への援軍依頼を検討し、高宗あるい閔泳駿が中心となって袁世凱と協議を繰り返していた。
日本政府、とくに陸奥宗光むつ・むねみつ外相は、こうした朝鮮政府と清の動きについて、公使館の杉村濬すぎむら・ふかしから詳細な報告をうけとっていた。
当時、帝国議会は崩壊寸前の危機にあった。第二次伊藤内閣がすすめる条約改正案を亡国的とみなす国権派が勢力を拡大、内閣は議会停止と解散を繰り返していた。選挙でも立憲改進党を中心とする国権派勢力が過半数を獲得、欧米との条約破棄をもとめるという過激な態度で政府に迫っていた。政府は窮地に立っていた。
議会はさらに、朝鮮での対応が軟弱であるとの非難を繰り返しており、解決の展望が見えない情勢であった。
こうした状況下、朝鮮で日清両国が緊張状態となることは、対立を外にそらす絶好の機会であった。
日本政府や軍部のなかでは、壬午・甲申両事件の結果、朝鮮が清の属国さらには保護国へと変わっていくという事態をなんとか打開したいと考えていた。この中心にいたのが外相の陸奥と陸軍参謀次長の川上操六である。かれらは清との戦争によって事態を打開しようと考えはじめていた。清に一撃を加えることで、情勢を変化させようと考えたのである。
壬午軍乱に始まる軍備拡張は清の軍備に対抗できるだけの充実度を示すようになっていた。
こうしたなか、杉村からの清の出兵が近いとの報告をうけると、政府はわずか10日前に開催したばかりの国会を再び解散、いち早く朝鮮への派兵を閣議決定した。
そして、しぶる睦仁天皇を説得、出兵の準備を完成させていた。
天津条約の規定に従う清からの出兵の通知がきたのは日本軍の出発とほぼ同時であった。済物浦条約にしたがい「現地の日本人を守る」という口実である。しかし派遣されたのは、その目的とは明らかに異なる大軍(最終的に一個旅団8000人となる)であった。
日清両軍はほぼ同時に派兵した。日本軍は、仁川に到着、10日帰任する大鳥公使と共に漢城に入城した。さらに後続の部隊が続々と漢城に到着する。朝鮮政府も、清の袁世凱も、日本軍の出兵となによりもその数に驚愕する。そしてその撤退を強く迫る。
他方、清の軍隊は8日に牙山アサンに上陸、農民軍鎮圧に向かおうとした。
ところが、両軍にとって肩透かしともいうべき事態が発生していた。全州に進出していた農民軍と朝鮮軍の間で全州和約と呼ばれる妥協が成立し、満足した農民軍が撤退したのである。農民軍と鎮圧軍双方が、日・清両軍が派兵してきたのを知り、衝突を回避しようという態度で一致したのである。非常に理性的な対応が為されたのである。
これをみた朝鮮政府は反乱は平定されたとして、両軍に撤退をもとめる。
七月二三日戦争と日清戦争の開始
勢い込んで、朝鮮にやってきた両軍、とくに日本軍は「あげた拳こぶしをおろす」場面がなくなる。
陸奥は現地に連絡する。「もし何事をも為さず又は何処へも行かずして終に同処より空しく帰国するに至らば、甚だ不体裁なるのみならず、又政策の得たるものにあらず」(原田07)つまり、すでに8000人という大軍を朝鮮に送り込んだ以上、なんの成果を上げず、どこにもいかずに帰国したらかっこ悪いし、何も得られない。したがって、それによって発生する国内の反発の影響は計り知れず、政党や国民の反発は必至である。政府は持たない。
どうするのか。
「何事か」、つまり戦争をするしかないのである。
これ以後、帰国しない、そして開戦のきっかけを求める日本側の理不尽な挑発がつづけられる。帰国を求める朝鮮や清にたいし、いろいろ理屈をつけて帰国を伸ばす。それどことか、軍を増強する。
最初のいいがかりは、「江華島条約で「自主の国」であると認められている朝鮮に対し、清が宗主権を主張しているのはおかしい」というのである。しかし列強さえも「清の属国」としてこれを承認しているのだから説得力をもたない。
次に持ち出したのが「朝鮮は内政改革を行うだけの力量がない。したがって、日清の共同行動によって内政改革を実施させよう」という案である。清からすれば、属国(保護国)である朝鮮について他人である日本から口出しされる理由はない。「内政改革は朝鮮が『自主』的におこなうべき」として拒否、日本は速やかに撤退すべしと主張する。6月21日のことである。二日後日本は清に「第一次絶交書」を提出する。
つぎに考えたのは日本が朝鮮政府に内政改革を要求するというやり方である。当然のことながら、朝鮮政府は「内政干渉である」として回答を拒否する。
こうした様子に、朝鮮の安定を第一義的に考えているイギリスが、日清両国への調停案を出してくるが、今度は清が拒否。これをうけ、日本は7月11日、清に対する「第二次絶交書」をだす。
たびかさなる日本の挑発に対し、清側も事態が緊迫したとして戦闘準備に入る。
7月21日には、朝鮮政府に対し「清軍の退去要求と朝清間の条約規則の廃棄要求」を求めるという無理難題をふっかける。その回答は7月22日にとどいた。
その回答をまっていたかのように日本軍は動き出す。
7月23日未明、まず電信線を切断した日本軍一個連隊が、国王の居住する景福宮を攻撃、朝鮮兵との銃撃戦ののちこれを軍事占領、高宗をとらえ幽閉状態におく。そこに日本軍が連れてきて政権の座につけたのが大院君であった。
この出来事を、檜山幸夫は「日朝戦争」、原田敬一が「7月23日戦争」、和田春樹は「朝鮮戦争」とよんでいる。
日清戦争は日本と朝鮮との戦争から始まった。
24日、大院君のもとに新内閣が組織され、いやがる高宗・大院君らから強引に「韓廷より牙山(あさん)にある清国軍隊を国外に駆逐するの委託を強取」した。(陸奥『蹇蹇録』)しかし実際の公文はみつかっていない。(大谷14)存在したかさえさだかでない。
とはいえ、日本は、景福宮を軍事占領し、支配下においた朝鮮政府からの要望を受けた形で清国との戦争をはじめる。日本軍は牙山にいる清軍への攻撃に向かい、7月29日成歓の戦いが発生した。
これより先、7月25日には清の海軍との間で豊島沖海戦が戦われており、結果的にはこの海戦が日清間の最初の戦闘となった。
正式に両国が宣戦布告を行ったのは8月1日のことである。
<朝鮮近代史を学ぶ~目次とリンク>
1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:開化派の苦悩と壬午軍乱と甲申事変
4:東学農民戦争と日清戦争の発生
5:甲午・乙未改革と開化派の敗北
6:
<参考文献>
木村幹『高宗・閔妃』ミネルヴァ書房2007
和田春樹『日露戦争 起源と開戦上・下』岩波書店2009
岡本隆司『世界の中の日清韓関係史』講談社2008
糟谷憲一『朝鮮の近代』岩波ブックレット1996
海野福寿『韓国併合』岩波新書1995
趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書2012
趙景達『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』有志舎2020
中塚明他『東学農民戦争と日本』高文研2013
山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館1997
檜山幸夫『日清戦争』講談社1997
大谷正『日清戦争』中公新書2014
原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書2007
『国史大辞典』『大日本百科全書』『朝鮮を知る事典』
吉野誠「開港後の社会変動」(中村哲他編『朝鮮近代の歴史像』日本評論社1988)
中島久人「日清戦争と朝鮮」(趙景達編『近代日朝関係史』有志舎2012)
糟谷憲一「朝鮮の開国と開化」(李・宮嶋・糟谷編『世界歴史大系 朝鮮史2』2017山川出版社)