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江戸期の社会と経済2
<授業プリント・前回と同内容>
<生徒のノート(板書)より>
ノート一枚目の前半は、前の時間のもの。
二枚目に見るように、幕政改革については、主にテキストにもとづいて説明したので、板書は最小限とどめている。
「コメ」の経済と「ゼニ」の経済
江戸時代の経済の基本は、農村における「コメ」の経済と、日本全体での「ゼニ」の経済が並立していたところにある。
百姓の支払う「年貢」が基礎~コメの経済
まず各藩の農村では、百姓たちが米を生産し、収穫物(主に米)の半分前後を年貢として、藩または代官に納める。そしてその米が城下町などに集め、その一部を藩の武士に配る。
江戸時代以前は、武士たちが自身が、自分の「領地」である農村で集めていたが、江戸期になると黙っていても今の給料のようにもらえるようになる。これを俸禄という。
ここまでが「コメ」の経済。
米と貨幣(「お金」)の交換~「ゼニ」の経済
しかし、生活に必要なものは米では買えない。だから貨幣が必要となる。
<業務連絡 「金」と「お金」>
業務連絡。試験で貨幣のことを「金」とかいてくるものがいる。これは「キン(ゴールド)」か「カネ」が分からないので、バツ(不正解)とする。「貨幣」って書くのが面倒くさい、漢字を忘れた?!という場合はかならず前に「お」をつけて「お金」と書くように。以上、業務連絡終わり。
話を戻す。
大名たちは集めた年貢米を売ってお金(貨幣)に換える、「コメ」を「ゼニ」に換えるという作業が必要になってくる。
大坂「堂島米市場」と沿岸航路の整備
この仕事を中心的に担っていたのが、
大坂の堂島にあった米市場。
全国の大部分の大名が集めた年貢米の多くが、津軽海峡や北海道(蝦夷地)を出発点とする西回り航路によって運び込まれ、販売されていた。
販売して得られたお金(貨幣)の一部で、京都や大坂で必要なものを買い集め、貨幣とともに、江戸屋敷や国元に送るという仕組が成り立っていた。
ちなみに、江戸・大坂間は菱垣廻船・樽廻船と呼ばれる廻船が就航していた。
財政危機、年貢を増やそう!…ではうまくいかない
消費経済が発展すると財政状態が厳しくなってくる。
だから各藩はいっそうの貨幣が必要になる。
そこで、多くの藩はよりいっそう年貢を集めようとした。「米をたくさん集め、大坂に送ったから、たくさんの貨幣が得られるはず」と考えて。
しかし、同じ事を日本中が考えたらどうだろうか。
日本中の米がよりいっそう大坂・堂島に集まる。
かといって、米を大量に買い付けるという人は少ない・・・。
ということで米の供給が増えたにもかかわらず、米の需要はあまり伸びない。
こうして米価は・・下がっていく。ちなみにこうして下がった米価を背景に京都の伏見や兵庫の灘などで酒造が盛んになっていく。
悲しいのは、一生懸命、農民の反発も買いながら年貢を集めてきた各藩である。
たくさん集めたにもかかわらず、米価が下がって例年並み、あるいはそれを下回ってしまう。
年貢の取り立てを厳しくしなかった「やさしい」藩はいっそう窮地に陥る。
他の収入源を探す~商品作物栽培の広がり
ところが、大坂で非常に高い値段で売買されている商品があることに気づく。
生糸(絹糸)や絹織物、綿花と綿織物、染料の藍や紅花、黒砂糖などこういったものが高価で取引されている。こうした商品は、農民や地方の人々が、ときには田畑勝手作の禁にもかかわらず、育ててきた産業も多い。
専売制の導入
ところが、これが収入源になると考えると、各藩はこうした産品の生産を奨励する一方、これを自由に販売することを禁止し、藩(実際には藩と結びついた特定の大商人)に安い値段で売らせたり、年貢代わりに納めさせ、(これを専売制度という)集めたものを大坂に持って行って収入源とすることをめざすようになる。
このようにして、米以外の商品作物の生産が全国化する。
「ゼニ」の経済の広がり
他方、多くの百姓たちも「もっと収入のいい仕事はないか」と考えて、新しい農産物を導入したり、新しい農業のやり方を勉強したりする。
農業だけと違って、手工業など別の仕事にも精を出すことになる。「米を作らなくてもお金で米を買えばいい」、実際にこんなことを考えた人は少なかったかもしれないが。気持ちの上ではこんな感じだ。
農村にも貨幣経済が浸透し、「ゼニ」の経済が広がった。
こうしたなか、とくに売れる商品作物の最大の生産地が大坂の郊外であった。
分かる?今は、まず作っておらず、99.9%以上輸入やろうなあ。
この地方では、大量の綿花(ワタ)が作られていた。
ちなみに綿花は何の原料になるのかわかる?布団や座布団の中に入れるだけでなく・・え、服の中に、たしかに綿入れの服は、当時のダウンジャケットといえるかもしれないけど。
あ、そう、綿(綿花)を紡ぐことによって木綿の糸ができる。
え、木綿って綿からできてたんやて?なかなかイメージ沸かへんけど、一回木綿の糸をほぐしてみたらいいよ。綿になるし。
本来なら、インドとかエジプトとか、暑くて乾燥したところで作られてたんやけど、戦国時代日本に入ってきて、武士の服とかに最適やいうて、全国で作られたんや。
けれども、さっきいったような所が原産やし、しかも肥料分をごっそりもっていく。
南北戦争前のアメリカの南部では、栄養分がなくなってしまうので、肥えた土地を求めて、綿花農場は西へ西へとすすんだ。奴隷制度もいっしょに。これが南北戦争の背景だといわれる。
ともあれ、綿花栽培は、非常に儲かるけど、リスキーな農業だった。
大坂近郊では、大量の「肥料」が手に入った?!
大坂、京都でも、江戸でもそうやけど、近郊の農家は肥料を手に入れるのに非常に苦労していた。
しかし、同時にこういった大都市は肥料の大量生産地やったんやけど、わかる?
大都市には大量の人口がいて、…みんなも、毎日、肥料作っとるやろ…。トイレ!で。
この時代、都市近郊の農民は、都市にいってはトイレの糞尿をもらいに行っていた。同じとこに行かんように、それぞれ、割り当てを決めて。
今やったら、くみ取ってもらう方が(今はそんなところはめったにないが)お金を払うけど、当時はくみ取る方がお礼を渡した。何を渡したか…。米?米は年貢で払わないかんし、そもそも農民の手元にはあまりない。で、今でも出来過ぎたからお裾分けとかいって持って行く…そう、野菜。
野菜と引き替えに便所の汲み取りをさせてもらってた。
大坂は肥船いうの使ってたから楽やけど、京都の北の方は坂やから大変やったやろうなあとついつい思ってしまう。
あかんあかん、また脱線してしもた。
いうことで綿花はとくに肥料が必要や。
肥料を買うようになる!~「ゼニ」の農村浸透
そこで、しだいにお金で肥料を買うようになっていく、さあどんな肥料やろうか?これわかったらえらい。
正月のおせち三点セットがある。今は、そんな家あまりないかもしれんけど、三点セット。
一つ目は数の子。数の子いうのはたくさん子供できますようにという気持ちから出てきた「子孫繁栄」の象徴。
二つ目は黒豆。黒豆は「マメに一生が送れますように」ということやけど。「マメ」というのは「壮健」という時が当てられることもあって、「健康」でいられますようにという象徴。
そして三つ目。わかる?乾燥させた小魚(いわし)を砂糖と醤油で甘辛く煮たもの。なんというか知ってる。そう「ごまめ」。
ごまめの別名、なんというか知ってる?ちなみにごまめをパソコンで変換させたら、この字が出てきてびっくりしたんやけど…「田作り(たづくり)」ともいう。なんでいわしの干したのが「田作り」いうのかというと、わかったか?
この鰯の干した奴が、当時の最高級肥料だったわけや。そして、正月にこれを食べることで、田畑の豊作をねがったというわけ。この三点セットは、豊作・健康・子孫繁栄、これを願って食べられているということや。
知ってたらちょっといいかっこできるかもしれないな。
この鰯、当時は干鰯(ほしか)いうて、千葉県の九十九里浜あたりの地引き網でとれた鰯を乾燥させて、肥料として全国に売り出していた。さらに北海道の昆布なんかも、高値で取引されるなど、全国を船でつなぐ全国的流通網がしっかりと整備されていた。だから、ペリーさんがやってきて貿易が始まったとたんに、あっという間に全国に影響がでたんだ。
こういう風に社会は「コメ」の経済から「ゼニ」の経済へと移り変わっていき、農村にも「ゼニ」が浸透していった。
農村の力関係の変化
こうした変化に、ある程度豊かな農民は対応できるんやけど、貧しい農民は対応できない。米の値段なんかも下がっていく。
農村では、「ゼニ」の経済にうまく対応できたある程度豊かな農民と、うまくいかず、行き詰まっていく農民の二極分解が進んいったと言われる。そして豊かな農民は、貧しい農民の土地を借金の形に預かる(という形で実際は手に入れる)ようになってくる。さっきの話でいうと、年収400万円層が200万円層へと移っていき、逆に1000万円も稼ぐ人が2000万稼げるようになってきたという感じ。今のいい方でいうと格差が広がったいうこと。
格差が広がり、収入が少なくなると、不慮の事態に対応できなくなる。今でいえば、健康保険料を払っていなかった人が病気になったり、年金を積み立ててこなかった人が高齢となったときのダメージを考えてみれば良い。
このときの社会における病気にあたるのが、冷害や日照り、イナゴの害など、貧しい農民が多くなっていると、ダメージは非常に激しくなる。
大名は大名で財政が厳しいものだから「年貢をまけてやる」とはいいにくくなっている。かくして天変地異は飢饉へと発展し、餓死者が大量に発生するに至る。
村の姿の変化~村方騒動・一揆・打ちこわし
村の中でも力関係の変化が起こってくる。
いろいろな問題が山積するにもかかわらず、村人の立場に立って対応してくれない、あるいは自分たちの私腹を肥やすことに走る村役人への不満が高まってくる。
「ゼニ」の経済の広がりによって、文字が読め、数字の意味が分かる人間が増えて
くると村役人の不正もばれてしまう。
こうして、時代が下るにしたがって、これまでの村役人をやめさせようという、村の民主化とでもいえるような出来事が発生する。これを村方騒動という。
そして村役人を信頼しなくなった農民が、直接領主に掛け合うことも増えてくる。強訴(せまい意味の百姓一揆)である。こうした一揆は、時代を経るにしたがって、一つの藩の百姓全体が立ち上がる全藩一揆の形をとったり、藩の枠を超える一揆となるなど、大規模化がすすんでいく。
都市においても、物価の値上がりなどに反対して、都市の下層民が豊かな商人の所に押しかけて、安売りを要求する打ちこわしも頻発するようになる。
江戸期の政治~文治政治、幕政改革、田沼時代
武断政治から文治政治へ
秀忠・家光が将軍であった17世紀前半は、戦国時代以来の感覚を持つ「戦闘モード」の人も多く生きていたので、いきおい幕府も力で押さていた。これを・・武断政治とよぶ。
しかし、戦国時代以来の人が次々と亡くなり、「戦闘モード」が昔のものとなっていくとこのやり方は時代遅れになってきた。
「文治政治」への移行
「元禄時代」~江戸時代全盛期
元禄時代は、江戸時代で最も繁栄した時代で、貨幣経済(「ゼニ」の経済)が花開いた。このころから、幕府の財政基盤も揺らぎ、先に見たような米の値段の低迷で「コメ」の経済の行き詰まりも明らかになってきた。
享保の改革
田沼時代
「寛政の改革」と「化政時代」
定信は、政権の座につくと質素・倹約を強調し、悪い風習を広めるものとして庶民の間の娯楽なども制限した。政府の外交姿勢などを批判した林子平を弾圧するなど、自らの考えとは異なる意見を押さえ込もうとした。しかし、幕府内の勢力争いから、退陣に追い込まれる。
高校教師をしていた時期は勉強不足で、松平定信の改革を反動的なものとして、否定的な言い方をしていました。生徒のノートにも、そうした授業の様子が反映しているみたいです。しかし、現在の歴史研究では、定信政権=寛政の改革の時期に、近代の出発点をみるなど、大きく評価が変っていました。少し書き方を改めるべきかもしれないと思っています。
「百姓成立~その成立・展開、そして崩壊」(「日本史Aの自習室」)のレポートでも一部、触れています。ご覧いただければ光栄です。