裕仁天皇~「天皇制」を守るたたかい

昭和天皇の全国巡幸(1949年(昭和24年)5月・久留米)(Wikipedia「昭和天皇」)

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裕仁天皇~「天皇制」を守るたたかい
   ~裕仁天皇と明仁天皇(1)~

<後編:明仁天皇~象徴天皇の実質化を目指して

「最後の誕生日」の会見

会見のようす(宮内庁のHPより)

2018年12月23日、明仁天皇は天皇としての最後の「天皇誕生日」の記者会見にのぞみ、一年間を振り返ると共に、自分の生涯を敷衍しつつ、皇族として・天皇としての思いなどを話した。(会見内容はここ
多くの人が注目したのは現内閣の諸政策に対する「いらだち」といってもいいフレーズである。いくつかを引用してみる。
ひとつめは沖縄に対する思いである。

昭和28年に奄美群島の復帰が,昭和43年に小笠原諸島の復帰が,そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。

沖縄は「先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。」と記している。「含め」ということばからは、沖縄戦にとどまらず、サンフランシスコ条約締結後も「主権回復がなされ」ず米軍統治下に歩んだ「苦難の歴史」をさし、「施政権返還」後も日本全体の7割もの基地が存在する耐え続けた犠牲」、さらに「実に長い」というフレーズは「琉球併合」以来の「ソテツ地獄」などの戦前の歴史、薩摩の侵攻すら脳裏に浮かんでいたようにみえる。
同時に多くの人は、この「言葉」を県知事選で見せた辺野古基地建設反対の民意を踏みにじり辺野古埋め立てを開始した日本政府のやり方への疑義として聞いた。それは、現首相が発した「(沖縄県民に)心を寄せていく」という空虚な言葉と同じ言葉を投げ返した所にも現れている。
次のような一節もある。

先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。

正しく伝えていく」という言葉からはさまざまな場面で繰り返される「歴史修正主義」への批判を読み取ることができる。
さらに、「将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たち」のエピソードにふれ、「各国から我が国に来て仕事をする人々を,社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。」との一節は、外国人労働者への人権保護の観点を欠落させたまま労働力不足解消のみを先行して成立させた入国管理法改正を意識したことは明らかであろう。
そして、明仁天皇は天皇としての歩みを以下のようにまとめた。

日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い,今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで,引き続きその在り方を求めながら,日々の務めを行っていきたいと思います。

この言葉は、2017年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(いわゆる「ビデオメッセージ」、リンクはここ)の趣旨を踏まえ、退位の日程が決定した中での発言であった。

明仁天皇をめぐる新たな「断裂線」

こうした「お言葉」は「憲法に定められた国事に関する行為」から逸脱し違憲であるとの批判されるべきという面と、現政権による憲法軽視に対し憲法を守るべき義務を求め苦言を呈する発言との両面で捉えうる内容である。
他方、憲法改正によって天皇を「主権者」とすることをのぞむ人々からは「天皇が自分の意思を明らかにすべきでなく、政治的発言はひかえるべき」といった趣旨の、攻守逆転したとも思えるようないらだちの声が聞こえる。
現在の天皇制をめぐっては、これまでの左・右対立とは異なる断裂線があるようにも思える。

第二次安倍政権成立以来意識的に繰り返される明仁天皇のこうした「護憲発言」の背景にあるものを敗戦前夜から戦後にかけての裕仁天皇とかかわらせて考えたい。

裕仁天皇が護持しようとした「国体」

1945(昭和20)年2月、公家華族最高位であり、もっと首相の近衛文麿は、裕仁天皇に対し、いわゆる「近衛上奏文(リンクはここを提出、「日本の敗戦は必至」として早期の戦争終結を促した。これにたいし裕仁天皇は「戦果を挙げてからでないと難しい」といったん退ける。しかし、6月、沖縄戦の敗色が濃厚になると条件を「国体護持」の一点のみに絞る方向で終戦工作を命じる。
歴史家原武史は、背景にあったのは東海地方への米軍上陸予測され、そうなれば熱田神宮・伊勢神宮のご神体としての三種の神器」が奪われるということを恐れたと指摘する。(「昭和天皇」)
これが正しいとすれば、裕仁天皇の関心の中心は国民の生命や生活でなかったのはもちろん、しかも「天皇統治の観念を中核とした国のあり方(日本国語大辞典)といった一般的な内容の「国体」ですらなく、「老舗」としての「天皇家」、「家業」としての天皇制ともいうべき国体、つまり狭義の天皇制にあったことになる。天照大神から続くとされる「万世一系」の家柄を自分の代で絶やしてはいけないという「本家の当主としての義務」が主たる関心であった。「三種の神器」はその最重要な「アイテム」であり、「三種の神器」が「国体護持」の基本であった
戦争末期から敗戦後にかけての天皇の努力は「狭義の天皇制」の維持に集中される。明治維新で成立し明治憲法によって確立した政治権力としての天皇制、いわゆる「絶対主義的天皇制」としての広義の「国体」第二義的なものでしかなかった

実は、こうした姿勢は天皇側近や皇族・華族らにも共有されている。しかし、天皇と異なるのは、関心の中心が個人としての「裕仁」ではなく「天皇制」というシステムであったことである。とくに近衛文麿にとっては「裕仁」天皇個人を犠牲とすることもいとわない面があり、必要となれば、天皇を戦闘に出撃させ、戦死させることで天皇制を守ろうというアイデアすら検討していたとされる。自らの責任については無頓着で、こうしたアイデアをもちだす近衛を天皇は嫌っていた。
「天皇の意思」を口実に政治や軍事を行ってきた指導者たちにとっては「万世一系の天皇が統治する」という名目で権力を独占できる天皇を中心とした明治憲法体制こそが守るべき「国体」であった。軍部を切り捨てればこうした「国体」を護持できるという楽観論もあった。このようにおなじ「国体護持」という言葉の間のも少なからぬずれがあった。
 このように異なる「国体」イメージをもちつつも、「国体護持」を最大の条件として戦争終結をめざすという点でしだいに協力体制が作られつつあった。

裕仁天皇の「聖断」

しかし問題なのは敗戦が明らかであるにもかかわらず自らの保身のために徹底抗戦・本土決戦を唱える軍部とくに陸軍の存在であった。彼らは圧倒的な暴力を維持し続け、二二六事件のようなクーデタをも予想させた。天皇自身、このことに強い危惧を持っていた。こうしたことから、天皇やその意を受けた鈴木貫太郎首相さらに木戸幸一ら側近も有効な手を打つことが出来ないまま、可能性が皆無であるソ連工作に時間を費やしていた。

その間も日本各地では空襲による犠牲者が急増、各戦線では兵士たちは無慘な死をとげていた。さらにそれに数倍するアジア・太平洋の、沖縄の、多くの住民の命が奪われていた。戦争における犠牲者の大半は一九四五年、敗戦までの半年間に集中している。
停滞状況を砕いたのは1945年8月のソ連の参戦と2発の原爆であった。こうした事態に立ち至る中で、天皇と側近らは天皇の「聖断」によって戦争終結するという宮中クーデターに踏み切る。
戦争終結へと舵を切った日本政府は、8月10日連合国へ「国体護持を条件とした終戦」の意向を打診、14日再度の「聖断」によってポツダム宣言受諾を決定し連合軍に通知、15日正午のいわゆる「玉音放送」で国民や軍隊へ戦争終結を通告した。
陸軍などでは小規模なクーデターともいうべき動きもあったが広がることはなかった。
天皇は「玉音放送」のなかで「国体を護持し得て」と語った。

「天皇・マッカーサー会談」

敗戦を迎えた多くのリーダーは、ポツダム宣言を受諾しての敗戦ということの意味を理解できていなかった。
戦争終結直後成立した東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は内務官僚が力を持つ政権であり、途中から外相として参加した吉田茂も軍部らに責任をおしつけることで政党内閣のころの体制に戻ることができると安易に考えていた。
これに対し天皇と側近たちは事態をより深刻にとらえており、GHQとくにマッカーサーが天皇をどのように扱うかを注視していた。
とくに副総理となった近衛は、帝国憲法の改正は必至と考え、GHQと接触し 、内大臣の木戸幸一も「天皇制」維持の条件を探っていた。
かれらにとって重要なのはどのタイミングで天皇・マッカーサー会談を実現するかであった。
「天皇制維持」を第一に考えるかれらは、天皇がいかにアメリカの占領政策に役立ち、コスト削減にもつながるかを見せつけ、「天皇」の価値をできる限り高く売りつける必要があった。
 敗戦をしたにもかかわらず国内が平穏であること、迅速な武装解除の実現が、天皇を売り込むための材料であった。東久邇宮内閣は皇族の権威で国内の平穏を維持するためであり、早期の武装解除のためには皇族が特使として戦線に派遣された。
そして9月末、アメリカ側が予想したよりもはるかに短期間で、コストも少なく国内外の武装解除が山を越した、天皇の利用価値が明らかになった段階で、しかも米軍の占領体制がほぼ確立したが占領政策が本格化していないという絶妙の時期、裕仁天皇とマッカーサー会談が行われた。
会談内容は多くのフィクションに彩られているが、天皇がアメリカの占領政策に全面協力することを申し出、マッカーサーも天皇の利用価値を再認識しその利用をはかるとともに天皇制の維持のために尽力するという方向であったことはほぼ間違いない。
これ以降、天皇はマッカーサーら占領軍、のちにはアメリカの冷戦政策に対する日本側の最大の協力者として行動する。1942年の論文でライシャワーが期待した「傀儡」の役割を天皇は見事に演じた。(ライシャワーの論文はここ

「裕仁天皇」のたたかい

世界では、天皇を戦争犯罪者、ヒトラーらと並ぶ軍国主義者の代表として法廷に引き出し処刑すべきだ、天皇制を廃止して共和制にすべきだという声が満ちあふれていた。そうした声のなか、自分を、天皇制を守る力を持っているのはマッカーサーしかいない。天皇はそのことをよく理解していた。

松本烝治 幣原内閣のもと、憲法担当大臣をつとめ、松本私案を提出した。
(Wikipedia「松本烝治」より)

天皇制の「盾」は、幣原首相でも、吉田外相でも、憲法調査会で明治憲法を守ろうと腐心する松本烝治(まつもとじょうじ)でもなかった。かれらが守ろうとしたのは天皇を中心とした国家体制としての「天皇制」であったから。
裕仁天皇らが守ろうとしたのは「三種の神器」を抱き連綿とした伝統を担う老舗「天皇家」としての「天皇制」であった。
幣原内閣とくに松本烝治が固執した政治体制としての広義の「天皇制」にはあまり執着がなかったようにさえみえる。明治以降につくられた政治体制としての広義の「天皇制」を切り捨てることで、狭義の「天皇制」を維持しようとした。GHQとたたかって明治憲法体制を守ろうと松本らの行為は、自分の地位と天皇制を脅かす危険な火遊びであった。
裕仁天皇は「天皇制」を守るためには手段を選ばなかった
天皇と側近たちは、内閣・政府というチャンネルとは別に、キリスト教とくにクエーカー教徒を中心とする人脈、学習院などの人脈、さらには任侠右翼などありとあらゆる人脈を通してGHQ側との接触をはかり、GHQ関係者への接待と供応に努めた。それによりGHQ側が求めているものを知り、協力を依頼するとともに、かららが要求することを実行した。
軍服を背広に着替え、皇族の大部分を臣籍降下させ華族を廃止し、国家神道を捨て、皇室財産を処分し、宮中改革を行ない、信頼する側近さえも戦犯として差し出した。皇太子をアメリカに留学させることができないと知ると、クエーカー教徒のアメリカ人女性を家庭教師に雇った。宮中の「欧化」もはかり、キリスト教関係者を重用した。カトリックへの改宗すら検討していたと言われる。
天皇は「天皇制」維持のため、アメリカ・マッカーサーの意を実現すべく涙ぐましい「たたかい」を繰り広げていた。松本たちが憲法改正にさいして旧来の体制を維持すべく、GHQとの調整をきらい、「たたかい」と称していたのとは好対照である。
裕仁天皇は非常に現実主義的であり、「政治」的であった。

いわゆる「人間宣言」は「人間宣言」であったのか

だからといって、天皇はアメリカの意向をそのまま受け入れたのかといえば、そうともいえない。狭義の「天皇制」に関わる場合には、アメリカの意を探りつつ、自らの「立場」を組み込ませる。
1946年正月にだされた「新日本建設ニ関スル詔書」(以下「詔書」)、いわゆる「人間宣言」を巡る経過はこうした例として最適である。
「詔書」の原案をGHQ側が作成したことはすでに明らかである。原案はまさに「天皇の人間宣言」であった。国家神道との関係を断ち、「神聖不可侵」としての天皇像を否定する内容であり、天照大神という祖神からの「万世一系」の血統ということを否定したといわれる。
これにたいし天皇は「詔書」の冒頭に「五箇条の誓文」を引用、日本には「日本的な民主主義」の伝統がありそれが復活したとのニュアンスを加えた。さらに天皇が神の末裔という「万世一系」の神話自体は否定せず、昭和前期の天皇の神格化、「現御神(現人神)であること」の否定にとどめた。

実は、天皇の存在を神聖化する根拠は、日本民族(さらには世界)を一家として見なし、その本家が天照大神からの「万世一系」の血統を継承する天皇家という神話にしか求められない。こうした神話は「家」制度に裏付けられる。「家」制度は日本の身分制社会の基本であり、明治憲法体制下に整備された。「万世一系」神話の否定は狭義の天皇制の根拠にかかわり、「国体護持」の根本に関わることであり、簡単に否定しきれないものであったった。

「詔書」において、「万世一系」神話のあつかいは曖昧となり、「人間宣言」という意味合いでは、「絶対主義」的ともいえる「天皇」像とくに昭和期の神格化された「天皇像」を明確に否定するという点にとどまった。
逆にポツダム宣言がいう「日本国国民における民主主義的傾向」は天皇制と親和的であり、その象徴が「五箇条の誓文」というように整理された。この論理でいけば、明治憲法で定義された「政治的主体としての天皇」は例外的な「天皇」像と位置づけられることになる。
発表された「詔書」にたいし、マッカーサーはゴーストライターがGHQであることを知りつつ、この「詔書」を天皇が神格化を否定した「人間宣言」であるとして高く評価、歓迎声明をだすという「猿芝居」を演じ、天皇の民主化、非軍国主義下の表れとして、アメリカ政府にも送った。
アメリカにとって「詔書」の意味はあくまでも「天皇の人間宣言」であった。したがって天皇が努力して書き入れた前半部分は注目されず、新聞も「天皇の人間宣言」として大々的に取り扱った。現在になってこの「詔書」を読みなおせば、「人間宣言」といえる部分はわずか数行のみであることに驚くことになる。(詔書全文はここ

マッカーサーの「脅迫」と、全国巡幸

世界では、日本軍による本土爆撃をうけ捕虜虐待などの体験をもつオーストラリアを筆頭に、天皇の戦争責任を問う声は強かった。アメリカ世論も天皇の訴追、絞首刑を望む声が圧倒的であり、東京裁判の最高検事として天皇訴追を拒否しつづけたキーナン検事も「天皇に戦争責任があるのは当然である」と語っていたという。
こうした声を背景にアメリカ政府は1945年11月、マッカーサーに天皇の戦争犯罪の調査を命じる。しかしマッカーサーは調査を一切行わないまま、翌年1月「天皇の犯罪行為の証拠なし」と回答、さらには「仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろう」といった趣旨の脅迫ともいえる電文(原文はここ)を送付、こうした動きを牽制した。
このようにマッカーサーは天皇がアメリカにとって有益であり、天皇制の廃止や裕仁天皇の訴追は大きなリスクがあることを本国政府にもアピールする必要があった。
この電文の直後の二月から天皇は全国巡幸を開始する。いかめしい軍服を着て白馬に乗った「大元帥」「現人神」ではなく、「背広」姿で、歩いて人々の中に入っていく演出がなされた。

昭和天皇は1946年以降、精力的に全国を回った。写真は1949年の福岡でのもの。帝国書院「図録日本史総覧」P288

それまでの価値観が揺らぎ崩壊する中、変わらずに存在する天皇の姿、しかも軍国主義的絶対主義的な印象を払拭し平和的な(ようにみせかかえた)姿は、人々の不安を沈静化させ、安心を与える効果があった。
最初の巡幸地が、不安と不満が山積している川崎の工業地帯であったことは、労働運動などの影響力が広がる前に、天皇の存在を印象づけようとしたとの指摘もある。当初は否定的な反応を恐れていた天皇とGHQであったが、大歓迎をうけたことでしだいに巡幸は全国化、大規模化されていく。
天皇の全国巡幸は、米国政府に天皇への支持の大きさを知らせ、排除する場合のリスクを示した。天皇も政治的な権限を持たない「象徴天皇」を演じ、「象徴天皇制」の既成事実化を図ろうとした。
「天皇制」は元来そうしたものと思わせようとしていた。

「象徴天皇制」の成立

新憲法の「象徴天皇制」規定はこうした流れでつくられた。
マッカーサーは、一方では天皇に政治的権限をもたない「象徴天皇制」とすることで天皇制はもはや危険ではないという形式をつくりつつ、戦争放棄・軍事力不保持を定めた条項などどの国も反対できないような、あるいは想定以上の内容を持つ非軍国主義的で民主主義的な「憲法案」を準備した。それを日本国民が「自主的」につくり出したという「猿芝居」をうつことで、日本の非軍国主義化・民主主義化がすすんだという形式を作り上げ、世界の、アメリカの、天皇制廃止論を封じ込めたのである。
「天皇制」をまもる代償が、日本国憲法であり、とくに「戦争放棄」の憲法第9条であった。
憲法九条の考えを、当時の幣原首相がマッカーサーに示したというエピソードはこうした文脈のなかでとらえることが出来る。
たしかに、マッカーサーは焦っていた。天皇制廃止論が大きな議論となることが予測される極東委員会の開催は1946年の2月末に迫っていた。

「冷戦」の進行と、左派勢力の拡大

裕仁天皇にとって、冷戦の進行が有利にはたらいた。
ヨーロッパにおいて東西間の緊張が高まりをみせたことは、日本やドイツといった旧ファシズム諸国での軍国主義の除去・民主主義化よりも、かつての同盟国ソ連をはじめとする東側・共産主義陣営との対決の方が重要であるとの考え方が影響力を強めていた。こうした情勢の変化は、国務省を中心とするアメリカ国内の勢力関係にも、日本を占領しているGHQ内部にも力関係の微妙な変化を強いる。
当初、日本の非軍国主義化・脱軍需産業をすすめるべく、アメリカ(およびイギリス)は、日本の「東洋のスイス」化をスローガンとしていた。そこにはスイスのような非軍国主義的な永世中立国をめざすという意味と共に、軍需産業となりうる重化学工業を持たない「小国」としようと考えていたのである。
当時、アメリカとイギリスは、西太平洋地域におけるパートナーとして中国国民政府を位置づけていた。それを援助すべく、日本の工場施設などを、「現物賠償」として移転しようと考えていた。しかし、中国で国共内戦が再開されると、国民政府は各地で敗れ、アメリカの東アジア戦略は見直しをはからざるを得なかった。

「米よこせデモ」と食糧メーデー

日本国内で、占領軍は日本国内の食糧難は「自業自得」であると考え、さしたる対策をとらずに、非軍国主義化・民主化の改革に力を入れた。これにより、食糧をもとめる人々の声を背景に労働運動をはじめとする社会運動が一挙に活発化し、合法化された共産党をはじめとする革新勢力が急速にその支持を広げた。それはアメリカの目論見をこえる広がりであった。日本共産党に代表される左派勢力からは天皇の戦争責任を問い、天皇制の廃止=共和制をもとめる声も強まりつつあった。

食糧メーデーでは天皇への風刺すら見られるようになってきた。
山川出版社「詳説日本史図説」P292

こうしたなか、皇居前広場で開かれた1946年5月12日の「米よこせデモ」において、天皇への請願を求めるデモ隊の一部が皇居内に入り、天皇家の食糧事情も知った。
1週間後の「食糧メーデー」には25万人もの人々が皇居前に集まり、天皇を揶揄するプラカードも見られ、大問題となった。
こうした社会運動の広がりのなかで、天皇制に仇をなす民衆にたいする天皇の危機意識をたかめた。さらに、こうした動きを鎮圧できない日本の警察への不信が生まれ、それはアメリカ軍への依存心を強めた
アメリカ・GHQも方針を変更しはじめる。マッカーサーは食糧メーデーに対して「暴民デモ許さず」声明をだし、左派主導の運動への抑圧を強めはじめる。天皇は食糧危機に対する国民の助け合いをもとめるラジオ放送を行い、それを受けてGHQは食料援助を本格化する。

GHQが左派勢力との対立を深めたなか、GHQは天皇を利用し民衆と左派勢力を分断するという役割を期待するようになっていった。天皇を戦争犯罪者として訴追すれば、天皇を通じることでアメリカに協力している民衆の反発・不服従をもたらすリスクを感じさせた。
マッカーサーは、天皇制を廃止すれば日本人をゲリラ活動に駆り立てる。天皇は百万人の米軍に匹敵し、アメリカ政府のコスト低下と米兵の帰還を早める効果があると伝えていた。
実際、天皇制に、マッカーサーが指摘したほどのメリットがあったのか、過大すぎるリスク想定は、マッカーサーが仕掛けたマジックであり、それが現在に至るまで効果を発揮しつづけているのかもしれない。

「東京裁判」

戦争犯罪人を裁く東京裁判(極東軍事法廷)において、オーストラリア出身のウエッブ裁判長をはじめとする他の連合国側の要請にもかかわらず、アメリカは天皇の訴追を拒否しつづける。
とはいえ、天皇が全国を巡幸し影響力を示すことは、戦前の天皇崇拝を思い起こさせ、逆効果になるとの判断で天皇の全国巡幸は一時停止される。

東京裁判の様子

天皇の側は自分に都合のよい証拠・証人を準備し、東京裁判に積極的に協力することで「天皇制」維持をはかった。「木戸幸一日記」や1990年に発見された「昭和天皇独白録」はこうした中で準備、提供された。裁判においては、戦争責任を数名のスケープゴートに集約し、天皇に責任が及ぶことを避けた。天皇に戦争責任が及びそうな証言が出ると、獄内外の側近たちがキーナン検事らと協力し「鎮火」に精力を使った。こうした「努力」の甲斐があって、東京裁判において天皇の戦争責任は問われることがなかった
とはいえ、木戸ら側近のなかにも、天皇には道義的責任はあったと考えるものが多く、機会を見て退位すべきと考えていた。
しかし、それはなされず、天皇の戦争責任は問われないままとなった。そのことは日本人にとって戦争責任を真剣に問う機会を失うことを意味した。さらに東京裁判自体、戦勝国による「勝者の裁き」の性格が強かったこともあり、裁判批判の声が日本の戦争責任を考えることをなおざりした。

釈放された岸信介(左) 釈放されて実弟・佐藤栄作(右・当時官房長官・後首相)の長官官邸に身を寄せた。(1948年12月)(Wikipedia「岸信介」)

東京裁判は1948年11月、死亡・免訴者の三名を除く第一次起訴者全員に対し7人への死刑を含む有罪判決がだされる。そして7人は12月23日明仁皇太子の誕生日に処刑される。この日を選んだことには天皇らに対するメッセージを秘めていたとされる
他方、この時期になると、東西対立は激化の一途をたどっており、アメリカは反共的な指導者を必要としていた。こうして処刑の翌日、岸信介をはじめとする戦犯容疑者は裁判にかけられることなく釈放された。
なお、裁判長のウェッブは判決についての個別意見で、天皇の戦争責任に言及している。

裕仁天皇が守ろうとしたもの

裕仁天皇は、全身全霊を傾けて、天皇制(狭義の「天皇制」)を継続しようとした。さまざまなルートを通じてアメリカ、とくにマッカーサーらGHQ側からの情報を得、その要望に応えた。こうした結果として生まれたのが「象徴天皇制」である。それは、アメリカの政策にそうことで「天皇制」の維持を図った「傀儡天皇制」(ライシャワーのことば)そのものともいえる。
 天皇は、その後もこうした路線を続ける。その象徴ともいえるのが、靖国神社参拝の中止である。天皇は、戦後も靖国神社参拝を続けた。ところが天皇はある時期以後、参拝を一切中止し、明仁天皇もこれを踏襲する。これは「死んだ人間を神として祀り、「天皇陛下」からもお祭りしていただく」という当初の靖国神社の機能が失われることでもある。
きっかけとなったのは靖国神社が1978年東京裁判で処刑されたA級戦犯7人が「昭和殉難者」として合祀されたことである。天皇は形式的であれ、戦争犯罪者である彼らを神として参ることは、東京裁判自体を否定し、日本の戦争犯罪「平和に対する犯罪」をなかったと否定することになる。
終戦でうまれた枠組みを否定することは象徴天皇制の基本にかかわると天皇は考えていたと思われる。
裕仁天皇は、そのことの意味をよくわかっていた。

<つづく>

<後編:明仁天皇~象徴天皇の実質化を目指して

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