古琉球と琉球王国


 

特講:琉球・沖縄の歴史 第一回

Contents

古琉球と琉球王国~琉球の前近代史~

<特講:琉球・沖縄の歴史>
第一講 古琉球と琉球王国(本稿)
第二講 「琉球処分」と琉球・沖縄の近代
第三講 「方言」論争と沖縄戦
第四講 (準備中)

おはようございます。久しぶりなので、ちょっと緊張してます。
数回シリーズで琉球・沖縄の歴史をやって行こうと思っています。
最初に、今回のネタ本であり、沖縄のことを勉強しようと思うときに役立つ本を紹介しておきます。ひとつは新城俊昭著「高等学校琉球・沖縄史」です。沖縄では高校の副読本として用いられています。実に丁寧に細かい内容まで書かれていて、非常に役立ちます。これを少しコンパクトにして、カラーのきれいな図版を加えたものが「琉球・沖縄の歴史と文化」(沖縄歴史教育研究会編)です。ここでもいくつか図版を利用させて頂きました。さらに山川出版社の「沖縄県の歴史」、高良倉吉「琉球王国」(岩波新書)

が役立ちました。いずれもアマゾンで入手しました。

「港川人」と貝塚時代

さて現在の日本史Bのどの教科書を開いても、本文編の最初に出てくる最初の都道府県は沖縄です。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

沖縄の「港川」という地名・・・知ってます?日本最古の段階の、ほぼ完全の化石人類が出土した場所です。「港川人」といわれます。約24000年前の人類だろうと考えられています。沖縄は石灰岩質なので骨が化石化しやすいのです。かつては中国南部との関係が関わりがいわれていたのですが、近年はオーストラリア先住民などの方に近いと考えられており、現在の沖縄や日本列島の人たちとつながるかどうかは不明です。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

その後沖縄は貝塚時代と呼ばれる時代に入ります。貝塚ということですから、当初は縄文時代の琉球版と考えて良さそうですね。沖縄では約9000年前(紀元前7000年)ぐらいからはじまります。縄文人が九州から島づたいに渡ってきたと考えられています。大陸から日本列島を経由してやってきた人が用いたことばが沖縄の言葉の出発点です。しかし本土の縄文人、さらにはアイヌ人とも形質的には異なることも多く、さきの港川人などとの関係も考えられています。ともあれ漁労や狩猟を主とする縄文文化が琉球・沖縄の風土になじんでいくなかで貝塚時代となっていきます。その後、日本本土では再び大陸から渡ってきた人を中心に稲作農耕・金属器などで特徴づけられる弥生文化がはじまりますが、沖縄など南西諸島にはこうした動きはとどかず貝塚時代が続きました
ただ、同じ琉球でも宮古・八重山諸島は沖縄本島などとの間の行き来が難しかったため、フィリピンやインドネシアとの関係の深い別個の文化圏となっていました。しかし遺骨でみるかぎり本島などとの形質的な違いは小さいとされています。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

日本本土の弥生人たちはきれいな貝で身を飾ったり、神様に供える道具をつくっていました。そのためとくに琉球でとれる美しい貝が好まれました。そのため、琉球で加工された貝製品が九州から日本海・瀬戸内海へとつながる「貝の道」が形成されました。奈良時代になると、正倉院など螺鈿(らでん)も琉球のヤコウガイなどで作られました。こうした「貝」と交換する形で鉄器・青銅器など金属器が琉球にもたらされます。
琉球の貝は中国でも珍重されました。それとの交換で得られたと思われる唐の貨幣「開元通宝」などが沖縄全土で発見されています。
こうした交易路をもとに遣唐使の南島路に琉球が組み込まれたと考えられます。鑑真が最初に着いた「阿児奈波(あこなわ)島」は沖縄ではないかと考えられます。奈良時代の歴史書「続日本紀」には「奄美・信覚・球美」の使者が「入朝」したとの記述があり、「信覚」は石垣島、「球美」は久米島ではないかと考え、琉球が大和政権に服属したと言われてきましたが、名前が似ているというだけで使者の立場なども不明で、実態はわかりません。

農耕の開始と琉球・沖縄人の成立

貝塚時代は海へ依存することで長く続きました。そして10世紀ごろに農耕が始まったと考えられます。これ以後を原グスク時代と表現することもできます。ただ水田耕作に不向きな土地も多く、水稲耕作と粟や麦などの畑作さらに家畜飼育を融合させた農業が中心でした。住居も海岸沿いから農耕や集落に適した台地上へと移っていきます。農耕は生活を安定させ、人口を増加させます。食糧の備蓄のための陶磁器(多くは徳之島で作られました亀焼カムィヤキ)への需要が高まり、南西諸島内での交易も活発化します。
現在の長崎県で作られた石鍋の使用もひろがります。

平安時代から鎌倉時代への移行期ということも影響して、本土との人々の行き来も活発化、集落の数を元に考えると人口は十倍近くに急増したと考えられます。急増の原因が貝塚時代以来の人々の人口増か、本土からの渡来が中心かよく分かりません。人骨の形質でみれば貝塚時代の特徴を受け継ぎつつも大きく変化したこと、貝塚時代の集落や遺物がグスク時代にうけつがれている所も多いことがわかっています。縄文文化から弥生文化への移行に似た変化がグスク時代開始の前後に発生したと考えられそうです。この変化の中で違った文化圏に属していた宮古・八重山の両先島地域も琉球文化圏の中に組み込まれました。
考古学者の安里進は、グスク時代を含む古琉球という時代が日本との文化的距離が最も縮まった時代だとのべ、大型商船による商人や職人の渡来・定着と、アジア諸国との間での小さな船を用いておこなわれた小さな島づたいの行き来が並行して進み、こうした人々の二世三世がしだいに在来の貝塚人たちを圧倒していったのではないかとの展望を示しています。
(この項、安里進・土肥直美『沖縄人はどこからきたのか』ボーダーリンク1999参照)
源氏の英雄源為朝が八丈島からやって来て琉球王朝の基礎を作ったという伝説はこうした記憶を反映しているようにも思えます。とはいえ黒潮を逆行して八丈島から来るというのは、いくら英雄・鎮西八郎為朝でも無理だと思いますが。

グスク時代と三山時代

こうして12世紀頃にはじまるのがグスク時代です。グスクというのは「城」という漢字をあて、中グスク城や勝連城のような本格的が城郭もあるので、「お城」のイメージが強いのですが、その起源は「聖域」(御嶽・ウタキ)「集落」といわれ、それに防衛的機能が付加され城郭の性格を強めたと考えられます。たしかにどの「グスク(城)」も必ず聖域があります。こうしたグスクを中心に争いが繰り返された時代が「グスク時代」です。それぞれの集落が対立したり結びついたりするなかで地方毎のまとまりができ、按司(あじ)とよばれる有力者が生まれました。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

かれらは防衛施設の性格を強めたグスクを拠点に小国家を形成、争いを続けました。こうした抗争のなか、沖縄本島は山北(北山)・中山・山南(南山)3つの勢力にまとめられていきます。三山時代)。特に有力であったのは那覇市の北隣・浦添(うらぞえ)を拠点とした中山王国でした。中山王はいち早く明との冊封関係をむすぶことで政治的・経済的にも優位に立ちました。つづいて山北・山南の王たちも明との朝貢関係に入ります。

琉球王国の成立

三山を従え、沖縄本島全体を統一したのが尚巴志(しょう・はし)です。山南の地方豪族(佐敷按司)尚巴志は中山王を倒してその領土を奪い、1416年に山北を、1429年には山南をも併合、琉球王国(第一尚氏王朝)を樹立しました。首都は浦添から首里(しゅり)に移され、首里城の建設がはじまります。

中グスク城(出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」)

なお首里城とともに世界遺産に指定された中城(ナカグスク)城や勝連城などの巨大城郭(グスク)の多くもこの時期に作られたり整備されたものです。王国の統一後も対立が絶えなかったことが背景にありました。
15世紀後半、奄美地方への派兵などをめぐって第一尚氏王朝への不満が高まるなか、重臣金丸(尚円)が1470年国王の地位を奪います。こうして成立したのが第二尚氏王朝です。1879年の琉球処分まで続きます。

ハチマチ この色で位階を示した。(出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」)

この王朝は第三代尚真王のもとで整備され、中央集権体制を確立しました。地方に割拠していた有力按司は首里に移され、国王より位階を与え、ハチマチ(ターバン式の冠)や簪(かんざし)の色で上下関係を示しました。その手法は戦国大名の城下町への集住というやり方に似ているようであるし、聖徳太子(厩戸王)時代の冠位十二階なんかも連想させますね。国王の姉妹を聞得大君(きこえおおきみ)という王国の最高神官とすることで全土の神女(ノロ)たちを統制させるという祭政一致国家の性格も持ちました。地方の行政区画を「間切」(現在の市町村)とシマ(現在の「字(あざ)」のちに「村」)に整備して地方役人に管理させる一方、按司たちのそれまでの収入も保障しました。さらに八重山でおこった反乱を鎮圧、奄美諸島から八重山に至る地域を支配地域としました。こうして15世紀後期から16世紀の初めの尚真王のもとで琉球王国は最盛期を迎えます

「万国津梁の鐘」と冊封・朝貢

しかし経済面での最盛期はもう少し前となります。琉球王朝初期の15~16世紀、琉球は「大交易」時代とよばれる全盛期を迎えていました。1457年第一尚氏王朝の尚泰久王は、のちに「万国津梁の鐘」とよばれる梵鐘を首里城正殿前にかけました。

万国津梁の鐘(Wikipedia「万国津梁の鐘」)

この鐘に刻まれた銘文は、記者会見をする沖縄県知事の背後の屏風に記され、琉球王国の後継者たちの思いを示します。沖縄県HPへ
その内容の大意を現代文で示します。
琉球国は南海の恵まれた地域に立地し、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、中国とは上あごと下あごのように密接な関係にあり、日本とは唇と歯のように親しい関係を持っている。この二つの国の中間にある琉球はまさに理想郷といえよう。よって、琉球は諸外国に橋を架けるように船を通わせて交易をしている(現代語訳は「高等学校琉球沖縄史」による)
銘文は琉球はアジア諸国の「橋」と誇らしげに記します。なぜこのような繁栄がもたらされたのでしょうか。その背景には当時の中国・明王朝の外交政策がありました。
1372年、三山時代・中山王察度(さっと)のもとに、明から使者がにやって来ます。貢ぎ物をもってあいさつ(「朝貢」)にくれば「家来」として認め、貢物の数倍にもなる返礼品を与える、さらに見たこともないような最新鋭の巨大な船もくれるというのです。こんなおいしい話はありません。察度は自分の弟を派遣、皇帝から「琉球中山王」という官職をもらい、皇帝の家臣となりました。
琉球」という言葉が沖縄を指す言葉となったのもこのときです。それまで中国の史書にでてきた「琉球」「流求」「瑠求」という名は東方の海にある島につけられ、沖縄か台湾か、定まってなかったようです。それを、中山王の使者が「琉球は自分たちのことだ」と主張したことで、現在の沖縄県の場所が「琉球」と認められたのです。

用語を整理します。
中国の周辺諸国が中国の王朝に朝貢の使者を送り臣下になることを冊封さくほう)といいます。これにより中国の皇帝から「国王」など役人に任命され、中国の暦を用いることも許されます。また正式な使節として中国に入港する権利も与えられます。貢ぎ物を贈るとそれの数倍の価値がある返礼品が与えられたため、貿易と同様の性格があったので朝貢貿易という性格を持ちました。
「朝貢」というと、皇帝の前にさまざまな宝物を積み上げて「お納めください」というイメージです。そういうシーンも部分的にはあるでしょうが、実際はもっとビジネスライクです。到着した港(福州、初期は泉州)の商人たちが貢ぎ物の大部分を受け取り、希望リストにしたがって返礼を渡す形で、中国側が必要とするものと琉球側が欲しいものを交換していました。ただ等価交換でないことはすでに見たとおりです。

進貢使の使節は五百人前後から六百人を超えることもあり、公的な交換だけでなく乗組員や随員が個人的に品物を持ち込み現地の品と交換することも認められていました。給料代わり、出張旅費+危険手当といえるのかもしれません。中国からの使節も同じでした。こうして朝貢「貿易」は私的な貿易も組み込む大規模なものとなりましたそして明の全期間を通じて、もっとも多くの進貢船(朝貢にいくための船)の受け入れを認められていたのが琉球王国でした

明の海禁政策と「大交易」時代

1368年に建国した明には特別な事情がありました。北京などの華北と本拠地・江南とのあいだの分裂状態です。国内の一体化が求められました。そのため中国大陸での完結した商品流通網を整備することをめざすため、国外との交易を嫌いました。そこで明は朝貢という形以外の交易を認めない政策をとります。このような一種の鎖国制度を「海禁政策」といいます
しかしこの政策は大きな問題を引き起こします。どんな問題がでてきそうでしょうか?・・・
まず貿易にかかわっていた商人たちの多くが排除されます。こうした商人の中から非合法の私貿易商人も出現、日本人などと結ぶと倭寇という形になります。明は倭寇に悩まされ続けます。
次にアジア諸民族は中国市場との自由な貿易できなくなり、何らかの手段で中国との交易を維持しようとしました。
さらに中国自体の問題です。国内流通をメインするといっても、やはり国外で生産された品物が必要ですし、中国製品の輸出が減少すると国内経済が沈滞化します。このため、海禁政策をとりつつ、中国の外からの物資を手に入れたいという虫のよいことを考えます。そのために各地に朝貢を求める使者を派遣、さらにインドやアラビア、アフリカに及ぶ冊封関係のネットワークづくりをめざします。鄭和の大遠征にはこうしたねらいがありました。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

海禁政策をとりつつ、必要な品物を調達する上で最も都合がよかったのが琉球です。琉球にアジア諸地域の物資を集めさせ、朝貢(進貢)の形で中国にもってこさせ、中国の産物も琉球を経てアジア各地に送り出す。航路は短く、かかる日数も短い。こうして琉球・那覇港は中国と他の国々の間の最大の貿易港となりました。海禁体制(「鎖国」)下の長崎・出島のような意味を持っていたのです。こうして琉球(王国)の進貢の回数は圧倒的となります。年に数回実施という年も少なくありませんでした。

琉球オリジナルの進貢品は馬と硫黄くらいしかないにもかかわらず、アジア各地から集まってきた、集めてきた物品を進貢することで、朝貢貿易を維持したのです。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

琉球船の交易範囲は現在のタイを中心にフィリピン・ベトナム・マレーシア・インドネシアなど東南アジア各地に及び、交易には中国が提供した進貢船が用いられました。
交易網は日本や朝鮮にもつながります。こうして那覇港をハブ(軸)とした東南アジアや日本・朝鮮との交易ルートが成立しました。那覇港にはアジア各地の船と人と品物が集まりました。これこそが銘文の背景でした。
交易を主に担ったのは中国の商人たちでした。15世紀の初め以来、那覇郊外に中国人町~久米村が形成されます。中国人たちは通訳や乗組員として進貢をになう一方、中国人同士のネットワークを生かした交易を行っていたと考えられます。久米村は王国内でも特別な地位を占め、重要な政治家をも輩出しました。シャム(タイ)の日本人町出身でアユタヤ朝の高官となった山田長政をイメージすればいいのかもしれませんね。

「ヤマト旅」と日本文化の流入

交易の中でとくに重要なのがやはり日本との関係です。さきにみたようにグスク時代開始前後から、日本と琉球の関係が密になってきたと考えられています。13世紀頃に僧侶(禅僧)が来訪し仏教や文字を伝えたとの言い伝えが日本と琉球の関係が深まりを示唆しているのでしょう。
15世紀になるとこうした関係に明の海禁政策という要素が加わります。当時の日本では中国産の生糸や陶磁器や東南アジア産の香料や薬種などが求められていました。明も日本産の刀剣・漆器・屏風などを求めています。こうした品物が琉球に集まり、各地に拡散されていました。琉球では、日本への渡航・交易をヤマト旅」とよびました。琉球にいけばアジア各地の品物が手に入ると考え、堺や坊津(鹿児島県)・博多などの商人も琉球を訪れました。日本の事情や文化などを伝え、日本語・文を用いて外交などに携わる役割を果たしたのが僧侶(禅僧)たちでした。琉球王国で用いられた文章・文字は日本風の漢字カナ交じり文です。日本語と共通の言語から分岐したものであり、文法などが共通であることが多く漢文よりも受け入れやすかったのでしょう。

「大交易時代」の黄昏

海上交易は15世紀前半第一尚氏時代が最盛期でした。しかし16世紀になると急速に衰えます。その理由、わかりますか?・・・たとえば「1492年、○○はイシノクニについた」「イヨクニ探せ」とか・・○○はコロンブスですね。つまり大航海時代の到来ですね。
16世紀の中期になるとポルトガル船、続いてスペイン船が東アジアにやってきて、この地の中継貿易に携わります。強力なライバルの出現です。明の海禁政策も緩みだしました。そうなればいちいち琉球を経由しなくとも中国と各地が直接つながりますね。また航海技術の進歩によって日本商人(倭寇との関係の深いものもいたかもしれませんが)もこの海域に進出、倭寇などの活動が再び活発化、この海域は「にぎやかな」海域へと変わり、琉球王国の特権的地位は急速に失われました。明とのトラブルで進貢が2年に一度に減らされたことも大きな要因となりました。朝貢貿易の衰退は琉球王国から活気を奪っていきました。

豊臣秀吉の「朝鮮出兵」と琉球王国

さて日本と琉球との間の活発な交易を本土側で注視している勢力がありました。本土と琉球の行き来を考えるとき、ある県の近海を経由しますね。地図を思い出すと…そう、鹿児島県。鹿児島・薩摩の戦国大名は?・・島津氏です。島津氏は、繁栄している琉球への影響力拡大をねらっていました。琉球を領有するため渡航の準備していた武士を皆殺しにしたこともありました。島津氏の許可のない船を通行させないというルールものませました。
この島津氏の九州統一の野望を挫いたのが・・豊臣秀吉でした。商業や貿易の利に関心をもっていた秀吉は、海賊禁止令をだして倭寇の活動を抑え、マニラやマカオ、ゴアなどに朝貢を求めます。日本を中心とした東アジアの新たな国際秩序形成をめざすとともに、東南アジアに抜ける海上ルート掌握をめざしたのです。その一環として琉球に使者の派遣を命じてきました。琉球は二年間粘りますが、ついに使者を派遣、秀吉はこれをもって琉球が服属したと判断します。ならば、天下人である自分の命令に従わねばならないという言い方が可能になりますね。そこで秀吉は島津氏を通して「朝鮮出兵」(それは明攻撃の第一歩でもあるのですが)へのための軍役提供を命じます。当初は人間も出すようにいってきたのですが、のちには兵糧だけでよいこととします。
琉球王国からすれば宗主国・明とその属国・朝鮮攻撃への協力は避けたい事態でした。しかし島津氏の厳しい催促をうけ、しぶしぶながら兵糧の約半分のみを納めました。他方では、事態を明に通報するという二枚舌を用いました。

「朝鮮出兵」は秀吉の死によって中止されましたが、話はそれでは終わりません。薩摩は、命じられた兵糧の残り半分を自分が立て替えたので返済をしろといいだし、紛争の種となっていきます。島津氏は琉球への影響力拡大をめざしていたのです。

島津氏の「琉球侵攻」と琉球支配

薩摩の琉球侵攻(出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」)

1603年、江戸幕府が成立しました。貿易による利益を重視した家康は、「朝鮮出兵」で中断された明との貿易を再開するために明と朝貢関係にある琉球王国を利用しようと考えました。
そこに東北・伊達領などに琉球船が漂着したという事件が発生します。家康は漂着民を丁重に琉球に送り返し、そのお礼の使者の派遣を求めました。しかし日本が王国を体制に組み込むつもりであると考えた王国側はこれを無視します。明との冊封関係を第一に考えたのです。
しかしこれは島津氏の思うつぼでした。島津氏はこの態度は「無礼である」として琉球派兵を家康にもとめ、その許可のもと琉球侵略に踏み切りました
1609年、薩摩兵約3000が約80隻の船に分乗し、奄美諸島を経て沖縄本島に上陸、琉球王国はたいした抵抗もできず降伏しました。島津氏は国王の尚寧らを捕らえて鹿児島へ凱旋しました。
島津氏は国王を家康らに引見させ、琉球領有承認を得ました。島津氏は奄美諸島を琉球王国から切り離し直轄領に組み入れる一方、残りの琉球王国を支配下にある付庸(ふよう)と位置づけました。そして他の地域と同様に検地を実施、総石高を約9万石の石高とした上で「家臣」としての琉球国王らに知行させました。「薩摩藩の御法度に従う」という内容の起請文を提出させ、十五条にわたる「掟」も与え、署名を拒否した主戦派の謝名親方を処刑しました。キリスト教禁止や島津氏独自の浄土真宗禁止などのルールも適用させました。
島津氏は、当初、年貢として芭蕉布などの布や牛皮などの産品を納入させていましたが、その後銀納に、最終的には米納をもとめ、18世紀初頭には1万1~2千石の米が上納されるようになりました。薩摩仮屋という出先機関がおかれ、在番奉行をトップとする約20人の役人が王国の政治や中国との貿易を監督しました。王の即位や王国の重要な役職任命も島津氏の許可が必要でした。
このように島津氏は自藩の一部として琉球王国を扱いました。しかし明との間の冊封関係はつづけさせます。島津氏にとっては進貢貿易による利益も重要でした。もし自分たちの支配が中国側に知れれば進貢貿易を断絶されると恐れ、明からの使者(冊封使)が来訪したときは姿を隠しました。また風俗のヤマト化も禁止しました。ヤマト風の名前は改姓を命じられたといわれますが実際は行われていないと思われています。

「幕藩体制内の『異国』」としての琉球

他方、幕府の琉球王国への扱いは島津氏とは異なっていました。幕府は琉球を「異国」として位置づけ、「異国」から「朝貢」使節が来ることで自らの権威を示そうとしたのです。そこで国王の代替わりが認められたことを感謝する「謝恩使」と、新たな将軍を祝う「慶賀使」の派遣が義務づけられます。異国である琉球も将軍の威光のもとにあると思わせたかったのです。そのためには使節は日本風であってはいけません。「異国風」(中国風)の装いを凝らした琉球から使節が江戸におもむきました。約300日の大旅行は「江戸上り」とよばれました。
なお善隣友好を示すと言われる朝鮮通信使ですが、幕府にとっての位置づけは同様でした。オランダ商館長の江戸参府にも似たような役割が与えられていました。
琉球王国にとって使節の派遣は中国との関係維持のうえでも、王国としてのアイデンティティーを主張するうえでも重要でした。また島津氏も「異国」を勢力下においている特別な大名であるとして自身の地位向上に利用しました。
しかし参勤交代の莫大な出費が諸大名家の財政危機を招いたように王国の「江戸上り」も大きな負担でした。財政的危機を招き薩摩への依存を強めるきっかけにもなりました。
「琉球王国」は「幕藩体制の中の『異国』」でありつつ明の冊封下に自治を認められた服属国でもありました。しかし琉球王国はこれを利用して不利な薩摩の命令などをサボタージュする口実とするなどしたたかな対応をとり、王国の自治的性格をまもろうとしました

「日・清両属」下の琉球王国

薩摩(日本)の支配下におかれているが、形式的には明(のち清)の属国であり、その間でなんとか王国としての自主性を保とうとする、それが「両属関係」の現実でした。そうしたなかで、王国のあるべき姿を考えたのが17世紀後期の羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)と18世紀前半の蔡温(さい・おん)でした。

出典:「琉球・沖縄の歴史と文化」

かれらは王国が島津氏の支配下にあるという現実を肯定したなかで、王国のあり方を考えました。羽地は役人の不正を取り締まり農村の復興をはかるとともに、「ユタ」など伝統宗教をはじめとする琉球の風習を規制、琉球人と日本人は元々同じ祖先から分かれたという日琉同祖論の立場にたつ歴史編纂を命じました。日本文化への教養も身につけさせようしました。
蔡温は農村の活性化と財政の立て直しをはかるとともに、薩摩の指導に従うことが琉球の発展の道であるという方向性を定着させました。

王国支配下における矛盾の高まり

薩摩への上納、「江戸上がり」等の経費、さらに進貢貿易が赤字へと転落し、明に代わって清からくる冊封使の応接などにも膨大な経費がかかり、王国の財政難は深刻化していきます。農業などに不向きな土地も多く、自然災害を受けやすい琉球の風土は、王国の統治のあり方、上級の「士(サムレ-)」や地方役人の収奪とあいまって凶作や飢饉を頻発させました。財政赤字は農民たちに転嫁され、農村は荒廃し人身売買が日常化しました。宮古・八重山といった離島は植民地的な支配下におかれ、より厳しい収奪を受けました。
江戸時代末期になると日本国内での混乱、雄藩・薩摩の政策の影響もあって、王国の政治も混乱します。そして、アジアへの資本主義諸国の本格的な進出、開国、江戸幕府の滅亡、日本の近代化・中央集権国家への移行という流れは、琉球王国の存在を許しませんでした。次回は、その中で、琉球・沖縄がどのような歴史をたどったのかも見ていきたいと思います。

それでは今日はこの辺で終わります。ありがとうございました。

<目次とリンク>

  1.  古琉球と琉球王国
  2. 「琉球処分」と琉球・沖縄の近代
  3. 「方言」論争と沖縄戦
  4. 収容所から始まった沖縄の「戦後」
     (※史料紹介「沖縄~忘れられた島」)
  5. 「太平洋の要石」とされた沖縄
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