特講:琉球・沖縄の歴史 第三回
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「方言」論争と沖縄戦
<特講:琉球・沖縄の歴史> |
おはようございます。今日は「琉球・沖縄の歴史」の三回目、主に沖縄戦を見ていきます。そのまえに一つのエピソードをもとに戦前の沖縄の人々の思いやおかれていた状況などをみていきます。
方言論争
戦時色が濃厚となっていた1940年、民芸運動を進めていた柳宗悦(やなぎ・むねよし)が沖縄を訪れます。白樺派の流れをくむ柳は朝鮮民族固有の造形美に注目、それをつくりだした朝鮮の人々を尊敬し、朝鮮文化を破壊していく日本政府の施策を批判した「日本の良心」ともいえる人物です。
その柳が沖縄で見たものは、沖縄語(沖縄方言・「沖縄口・ウチナーグチ」)を質の低いものとみなし、全県が一体となって半強制的に「標準語励行大運動」をすすめる姿でした。「一家そろって標準語」とのポスターが張り出され、学校では方言を使ったこどもに「方言札」をかけさせる懲罰まがいのやりかたが用いられ、「方言撲滅運動」ともいわれました。
こうした手法について、柳は
①こうした手法は沖縄方言を見下し県民に屈辱感を与えるのではないか、
②沖縄方言は日本の古語を多く含んでおり学術的にも貴重である、
③他県にはこのような運動はない
と批判します。東京では柳を支持する人も多かったのですが、現地沖縄では反発する人々が圧倒的でした。
なぜ柳の意見は強い反発を受けたのか?
「沖縄語(方言)をもっと大切に」という柳の主張がなぜ受け入れられず、反発されたのでしょうか。この理由を考えて見てください。理由はいくつもありそうです。まわりの人と相談してください。・・
いくつかヒントを出しましょうか。ヒント毎にいろんな理由が見えてきます。
一つ目、前回「ソテツ地獄」のなかで沖縄で生きていくことが難しくなったひとたちがいたことを話しました。こういう状態を打破しようとした人々はどのような行動をとりますか?その際、どういう不都合が生まれそうですか?
二つ目、沖縄県の広さ知っていますか。沖縄県は363の島(49の有人島と多数の無人島)からなり、東の端から西の端までは約1,000km(東京から鹿児島位の距離)、北の端から南の端までは約400km(東京から神戸や盛岡までの距離)、さらに沖縄本島周辺と宮古島の間には270㎞もある海峡があります。(そのうちの180㎞は領海外です。近年、中国の軍艦が横切ったというニュースが話題になります。)グスク時代以前は宮古・八重山の両先島諸島は別の文明圏でした。
これだけの広範囲に島々が点在する沖縄県です。どんな問題が起こりますか。今、名前がでた鹿児島や東北の盛岡にもヒントがかくれていそうですが!それぞれの特徴的を思い出すと‥。
三つ目です。この論争が起こった昭和15(1940)年は中国での戦争が泥沼化しており、翌年末には対米英戦争がはじまるタイミングです。「戦争と標準語」、何か関係ないでしょうか?
沖縄語(ウチナーグチ)と標準語(ヤマトゥグチ)
沖縄「方言」といますが、方言の範疇を超えているようにも見えます。国連の専門機関ユネスコは「消滅が危惧される言語」として「琉球語」(沖縄方言)系の諸言語(方言)をあげ、ユネスコの担当者が「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と述べています。同じ流れをくむが別言語とされるイタリア語とスペイン語以上の違いがあるという人もいます。
大正の末期以来の「ソテツ地獄」のなか多くの沖縄人が故郷を離れました。他府県に移ったり、海外に移住したり。こうした人の多くは学校教育も不十分で、地元文化以外と接したことが少ない「沖縄語(ウチナーグチ)の世界で生きている人たち」、標準語(ヤマトゥグチ)がとっさには出ない人たちでした。
「ことばや習慣などで誤解や不利益を受け、消極的で引っ込み思案にみられるではないか」という県庁などの反論があたっている面もありました。ことばや名前、他府県人の認識不足から奇異な目で見られたり差別や偏見にさらされることも数多くあり、他の民族と同様に、他府県出身者の半分しか賃金が払われない事態もありました。
こうしたこともあり、大阪など大都市では沖縄出身者がよりそって生きる地域も生まれます。それは、アメリカなどの日本人社会でも同様でした。
「標準語励行運動」とならんで、内地風に名字を改める運動もすすめられていました。沖縄独特の「仲村渠(なかんだり)」という名字は「中村」「仲村」と改められ、「カナグスク」とよんでいた「金城」さんは読み方を「きんじょう」と改めます。
標準語の使用に代表される「ヤマト化」は沖縄の人が日本で生きる必須条件になっていきました。
こうした抑圧された生き方を琉球の人たちに強いたのが「琉球処分」でした。
こうした生き方は、沖縄の伝統や文化から距離を置くことでした。同時に他府県の人々との言葉の壁をやぶり「日本人」としての共通基盤を作ることでもありました。
これも「琉球処分」のもたらしたものでした。
誤解を招かないようにいえば、柳も標準語を学ぶことを否定したわけではありません。「方言を遅れたもの、標準語をすすんだもの」とみるやり方を批判したのです。しかしその意図は批判の仕方とも相まって沖縄の人たちには伝わりませんでした。
沖縄の「標準語」としての「ヤマトゥグチ」
ユネスコは琉球語を別の言葉として分類しているといいました。ユネスコはさらに琉球語の中の「奄美語」「国頭語」(本島北部の「言語」)「宮古語」「八重山語」なども個別の言語としてとりあげ、こうした「言語」(方言)も消滅の危機にあると指摘しています。前近代には、「士(サムレー)」と「田舎百姓」という身分の間でもことばの違いがありました。
一般的な「琉球語(ウチナーグチ)」はそもそも存在したことがないのです。
考えて見れば事情は他府県も同様でした。明治初年、鹿児島県人と東北人の間での言葉のやりとりは困難でした。違う身分では話す言葉も別でした。
それが、明治20年代ごろにつくられ学校教育で教え込まれた標準語によって「国内」のどの地域出身者とでもコミュニケーションがとれるようになるのです。
「日本人」という「国民」意識はこうしてつくられてきました。
沖縄県のなかでも同様の事態がありました。沖縄住民の共通のベースを「標準語(ヤマトゥグチ)」が代用した面もあるのです。
戦争と「方言撲滅運動」
ヒント3を考えましょう。戦争をする中心は・・兵士ですね。日中戦争の激化に従って、沖縄の若者もどんどん徴兵されます。軍隊に標準語(ヤマトゥグチ)が苦手な沖縄県民が入隊するとどうなりますか。軍隊での兵士への指示・命令は標準語(実際の「陸軍語」には「長州」方言の影響が「強いであります?!」)でおこなわれます。とくに戦闘中は刻々と変化する事態に対応しなければなりません。「ちょっと考えて理解する・話す」レベルでは危険です。こうした兵士はひどい「いじめ」をうけがちです。言葉が通じないことで意思疎通が困難であり、仲間意識も生まれにくかったでしょう。だからこそ、戦争が近づくにつれ、標準語を日常化することが求められたのです。
軍隊が学校とともに標準語を定着させる役割を持っていたといわれるのはこうした理由からです。
近代戦では総力戦体制(日本では国家総動員体制という言い方です)建設がすすめられ、「国民」が一丸となって戦争をたたかうことがもとめられます。独特な伝統と文化を持つ琉球沖縄という位置づけは危険であり、万世一系の日本民族との意識が求められます。沖縄の独自性を尊重する柳のような考えは「危険思想」であったのです。
沖縄の近代史と標準語
すこし琉球処分以降の沖縄のようすを見ておきましょう。1879(明治12)年の「琉球処分」(「琉球併合」)で強引に「日本」に編入された沖縄の県政は他府県出身者中心に運営されます。
他方、政府と県は、根強い旧支配層の動向や国際問題化している「清」を配慮してできるだけこれまでのやり方を変えない政策(「旧慣温存」策)をとったことで王国末期の社会矛盾はそのまま残りました。
地租改正や秩禄処分にあたる政策がはじまるのは清の影響力が消滅した日清戦争以後です。
他方、日本式の教育を受けたものを中心に、まず旧国王一族を県知事に推そうという公同会運動がおこり、選挙権獲得運動もおこります。宮古・八重山からは人頭税といった過酷な統治に反対する民衆運動も起こります。「沖縄学の父」とよばれる伊波普猷(いはふゆう)らによって琉球の独自な文化を深く掘り起こそうという運動なども起こります。すこしずつではありますが他府県との形式的な権利の差は埋まっていきました。
しかし人々の生活は好転しませんでした。作付面積が急拡大したサトウキビ栽培ですが、台湾での栽培の拡大と第一次大戦後の不況によって市場価格が大暴落、毒を含むソテツを食べて命を失う「ソテツ地獄」が発生、多くのひとびとが働き場所を求めて島を離れました。過酷な労働によって人手不足が紡績工場の労働力は朝鮮半島出身者と沖縄出身者が埋めました。海外移民を最も多く送り出したのも沖縄県です。しかし移り住んだ先で体験したのは、人々の無理解と言葉の壁などによる差別的な扱いでした。こうした人々の送金が沖縄の経済を支えました。
こうした体験は、「標準語」を話し、天皇に忠誠を誓って勇敢に戦って死ぬことで他府県民以上に完全な日本人になろう(「同化」)という考えが広がっていきます。これによって差別をはね返そうとしたのです。こうした思いを利用する形で県当局がすすめたものが「方言撲滅運動」でした。それは「琉球処分」によって「日本国民」として生きることを強いられた「県民」たちの苦渋の選択でした。
このように複雑で苦渋に満ちた「琉球人」の「生き方」を「ヤマトンチュ」の「学者」が「学術的に貴重である」といった理由から批判した面があるのです。
かつて「琉球人」が博覧会の「標本」として展示された不愉快な思い出がありました。(「人類館事件」)柳の言い方は、こうした思い出とあいまって、研究のために更に負担を強いるのかとも聞こえたのです。「自分たちは研究の標本ではない」と。
朝鮮の民芸を愛し、ときには朝鮮総督府とも対立しながらその文化を尊重しようとしてきた柳です。沖縄の伝統と文化を尊重し、住む人たちの誇りを守るべきという思いであったことは明らかです。現在につながる重要な論点もあります。しかし、差別の中で苦しむ人々にとっては「内地人(ヤマトンチュ)」のきれいごとと捉えられても仕方なかったのかもしれません。
アジア太平洋戦争の開始と沖縄
この論争の翌年1941(昭和16)年12月、中国との戦争はアジア太平洋戦争へと進展していきます。しかし開戦直後、沖縄を含む南西諸島において「戦争」は遠い存在でした。しかし、ミッドウェー海戦やガダルカナル攻防戦など日本軍の敗退が目立ちはじめるなかで、沖縄の位置づけは変わっていきます。日本軍の反転攻勢と本土防衛のための南方に展開する航空基地として台湾と沖縄が注目されはじめたのです。県内の各地では、1943年夏ごろから民家や土地がタダ同然の値段で買い取られ、飛行場に姿を変えていきました。
なお、これらの飛行場の多くが沖縄戦で米軍の手にわたり、戦争中は本土空襲に利用され、戦後にはアメリカ軍基地と変わっていきます。
太平洋の戦場は次第に北上、戦場は委任統治領として支配していた南洋群島へと移っていきます。日本政府は、この地の支配を確固たるものにするため、多くの移民を送り込んでおり、その数は1940年末には13万5000人に上っていました。その6割を占めたのが沖縄出身者でした。植民地支配・防衛の尖兵として沖縄県人が利用されました。
そしてこの地が戦場となったのです。多くの沖縄出身の移民も戦闘に巻き込まれました。とくに犠牲が多かったのがサイパン島です。絶対国防圏と位置づけていたサイパンに米軍がやってきたのが1944年7月、日本軍はさしたる抵抗すらも出来ないままバンザイ突撃を敢行して全滅していきました。残された住民たちは逃げ場を失い断崖(「バンザイクリフ」)から次々と身を投げ、命を失っていきました。
南洋群島での沖縄出身の戦没者は約12000人にのぼりました。
沖縄の軍事基地化と10・10空襲
日本軍が敗色が濃厚になると、本土防衛の拠点としての沖縄の戦略的意義が高まります。
1944(昭和19)年3月、沖縄守備隊として第32軍が創設され、中国大陸などから実戦部隊がつぎつぎと送り込まれ、戦争準備が本格化します。食糧も物資も労働力も不足していた軍は、「現地物資を活用し、一木一草をも活用すべし」との方針をうちだし、県民は軍とともに共に生き共に死ぬ(「軍民官共生共死」)ことを求められ、宿舎・食糧・労働力の提供などを強いられます。
さらに足手まといとなると考えられた子どもや老人たちの疎開も行われます。ただ県外疎開を行うためには米軍の潜水艦が出没する海を渡らねばなりませんでした。8月、学童825人を含む1700人を乗せた学童疎開船・対馬丸が潜水艦攻撃で沈没させられ、約1500人が犠牲となりました。その後も疎開は続けられ、多くの船が沈められ、犠牲者が増えていきました。
沖縄を一挙に戦争の中に引きずり込んだのが、10月10日の大空襲です。のべ1400機のアメリカ艦載機が五波にわたり襲来、基地へ、つづいて那覇の町へと猛烈な空襲をしかけました。空襲警報すら間に合いませんでした。那覇の町も約90%の家屋が焼失、約600人の命が失われました。基地では戦闘機など大量の兵器が食糧とともに失われます。軍は失われた食糧を県側に求め、沖縄は深刻な食糧難にみまわれます。
この空襲は10・10空襲と呼ばれ、日本にたいする最初の本格的な無差別爆撃でした。緊張感は一挙に高まり戦争準備が本格化、県外への疎開もすすみました。
県民の動員
10・10空襲の直後、アメリカはフィリピン・レイテ島に上陸、はげしい攻防戦が開始されます。支援に出動した連合艦隊は大敗し海軍は事実上壊滅します。戦場は北のルソン島へと広がります。
こうしたなか、東京の大本営はアメリカの次の目標を台湾と判断し沖縄にいた最強部隊・第八師団を台湾に移しました。これにより沖縄守備隊は兵力不足となり、軍はその不足分を沖縄県民から得ることにします。十七歳から四十五歳までの男子が防衛隊に組織され、中学校以上の男子は学徒隊として編入されました。男子は鉄血勤皇隊として三等兵として最下級の兵士として組み込まれ、女子は軍属・従軍看護婦とされました。児童の一部がゲリラとして養成されたことも分かってきました。さらに上陸してくる米軍を水際で食い止めるという作戦をあきらめ、上陸を許す代わりに、中部丘陵地帯に堅固な要塞を構築し持久戦の体制をとることにします。大本営から本土防衛のための時間稼ぎという作戦目的が示されていたからです。
沖縄は騒然とした空気に包まれてました。
「近衛上奏文」と天皇
1945(昭和20)年となり、戦局がさらに悪化する中、昭和天皇は首相経験者や高官から意見を聞くことにしました。そのなかでも注目すべき意見を述べたのが元首相・近衛文麿です。近衛はいいます。「もはや敗戦は必至である。敗戦以上に恐ろしいのが共産主義者による革命である。戦争遂行派を排除し、できるだけ早く戦争を終わらせるべきである。」近衛上奏文といいます。
前年のサイパン陥落以来、戦争の勝利を信じる指導者はもはやいなかったと考えられています。しかしだれも公的に戦争終結を語ることは出来ませんでした。軍部などを恐れたからです。それは天皇にとっても同様でした。そうしたなかで「敗戦は必至」と公的に発言したのが近衛でした。のちの首相吉田茂らも協力しており、吉田は一時憲兵隊に拘束されました。
もし近衛の忠告に従っていれば沖縄戦の悲劇とその後の苦難も、広島・長崎の原爆も、満州移民の悲惨も、シベリア抑留も、大部分の本土空襲も、味わうことなく終わったのです。アジア太平洋戦争の戦没者の大半は最後の半年に集中しています。ちょうどこの時期が転換点でした。ところが昭和天皇は近衛に対し、「今一度、戦果を上げてからでないと難しいと思う」と応え、陸軍のいう「一撃のチャンス」を待つことにしました。沖縄戦はチャンス到来と感じたのかもしれません。昭和天皇は沖縄戦の作戦遂行に強い関心を示します。
「沖縄戦」の開始と二つの「ガマ」
1945年3月末、遂にアメリカは沖縄上陸作戦(「アイスバーグ作戦」)を発動しました。慶良間(けらま)諸島を制圧した米軍は、4月1日西海岸への上陸を開始します。上陸兵力は約182,000名、史上最大の作戦といわれたノルマンディ上陸作戦をはるかにしのぐ規模であり、作戦参加人数はアメリカ軍がヨーロッパ戦線に投入した全兵力・戦闘力をも上回る圧倒的なものでした。
激戦を予想していたアメリカ軍は驚きます。ほぼ無抵抗で上陸できたからです。「エイプリルフールじゃないか」と笑い合ったといいます。米軍はすぐに北飛行場(のち読谷補助飛行場となる)、中飛行場(現:嘉手納基地の原型)のふたつの飛行場を占領、島を横断して太平洋側に到達、沖縄を南北に分断しました。
米軍が上陸してくる中、洞窟のなかに取り残された住民もいました。読谷村のチビチリガマという洞窟では、住民たちは捉えられれば虐殺されるという誤った情報を信じこんでいました。パニック状態のなか集団自決(集団死)がはじまり約60%の人たちが死んでいきました。多くは子どもたちでした。他方、すぐそばのシムクガマでは集団自決しようとする人々をハワイ移民であった男性が説得、米軍と交渉して全員が捕虜となり、命をながらえました。
その後、アメリカ軍の占領地域が広がるにつれ、住民や兵士の捕虜が増えていき、かれらは収容所に入れられます。戦後沖縄は沖縄戦が始まった4月1日からはじまりました。
「ありったけの地獄をぶちまけた」戦場
快進撃を続けたアメリカ軍は島中部、現在の普天間基地南側の丘陵地帯にさしかかると同時に猛烈な抵抗を受けました。ここから司令部が置かれた首里まで何重にもわたって複雑に入り組んだ要塞が構築されていました。米軍が戦車を先頭に強引にすすもうとすると爆弾を抱えた兵士がキャタピラの下に飛び込んでいく肉弾攻撃が相次ぎ、そのたびに戦車は破壊され、前進は阻止されました。この攻撃には鉄血勤皇隊の学徒兵なども動員されました。地元の住民たちも砲弾の輸送などに協力、多くの人が犠牲になりました。
米軍にも多くの犠牲が出て足踏み状態がつづきます。抵抗は司令部のあった首里に近づくにつれていっそう激しくなり、現在の那覇副都心「おもろまち」附近、シュガーローフヒルの戦いでは米軍にも2600余人もの戦死者が出ました。「ありったけの地獄をぶちまけた」という表現されるこうした凄絶な戦場は米兵の精神にもひどいダメージをあたえ、この地の戦闘だけで1200人もの精神障害者をだしました。こうした凄惨な戦闘が沖縄中部から首里城への間で続きました。
このように、沖縄戦はアメリカ軍史の中でもとりわけ厳しい戦闘でした。このため、戦後になっても「こうして手に入れた沖縄を手離すわけにはいかない」という思いが米軍とくに陸軍内には強かったといいます。
沖縄戦と天皇
こうした激烈な戦闘も東京では別ものと映っていました。沖縄守備隊は簡単に上陸を許し、本土空襲の拠点となる飛行場を奪われ、守勢のみで攻勢にも出ない消極的な戦争指導であると見たのです。
沖縄戦こそが「アメリカに一撃を与えるチャンス」と考えていた昭和天皇は、作戦についても積極的に発言します。いわく「現地で陸軍はなぜ攻勢に出ぬのか」「海軍はなにもできぬのか、もう艦船は残っておらぬのか」、こうした発言が記録に残っています。それを聞いた陸軍本は現地司令部に攻勢に出るよう指示、無謀な攻勢に出て大損害を出します。海軍も戦艦大和などわずかに残った艦船を特攻攻撃隊として出撃させ、何等の戦果もなく撃沈させてしまいます。
延べ7500機にも及ぶ航空機が体当たり攻撃隊として九州南部から出撃しました。当初は米軍に大きな衝撃を与えた体当たり攻撃でしたが、アメリカ軍の防空体制の強化と訓練不足のパイロットと性能の劣る飛行機での攻撃は、これといった戦果をあげることができず、多くの若者の命が失われました。
沖縄戦は、本土上陸までの時間稼ぎという目的と、何としても戦果を上げたいという、ふたつのねらいが交錯、作戦を混乱させました。
6月になると天皇は御前会議を開催、「国体護持」(天皇制の存続)のみを条件とした戦争終結への道をさぐらせます。沖縄戦で期待した「戦果」が挙がらなかったことが原因でした。
犠牲となった沖縄県民たち
五月下旬、アメリカ軍は日本軍の激しい抵抗を排除して司令部のある首里に迫りました。現地司令部は選択をせまられます。
組織的な戦闘継続が不可能になった以上名誉の降伏する。これが世界の常識です。次の選択肢は日本的な終わらせ方。自決代わりのバンザイ突撃、あるいは最後まで踏みとどまり全滅・「玉砕」。沖縄でも海軍部隊はこの道を選びます。軍が全滅しても住民たちを巻き込むことが少ないみちです。しかし司令部はどちらの道もとりませんでした。かれらは「本土防衛までの時間稼ぎ」という作戦目標に忠実でした。その結果、南部に転戦して徹底抗戦をつづけようとしました。
大量の住民の犠牲、日本軍の残虐な振る舞い、負傷兵士の殺害、大量の自決者など「沖縄戦の悲惨」の大部分が、この後の1ヶ月に集中します。それが以後の沖縄のあり方にも大きくかかわったように思われます。この時の現地司令部の判断のもつ意味は非常に重大でした。
もし本土作戦が行われたと仮定して、日本軍はやはりこのような作戦をとっただろうか?沖縄だからこういう作戦をとったのではないか、みなさんどうおもわれます?ここでは疑問だけ出しておきます。
さて、司令部は豪雨を利用してひそかに首里の本部を脱出、多くの住民が逃れていた南部・島尻地域への移動を開始、この地で陣地構築をすすめます。そのため住民が潜んでいるガマ(鍾乳洞)や亀甲墓から住民を追い立てたり、同じ壕内に兵士と住民が混在する事態が発生しました。兵士たちが住民壕に逃げ込み、泣きだした乳児の命を奪うといった事件も起こります。沖縄方言(ウチナーグチ)で話すことはスパイ行為と見なされました。降伏しようという人が銃殺されました。集団自決をはかる兵や住民。こうした悲劇を繰り返しながら、南へ南へと追い詰められていきます。追い詰められて岬から身を投げる人たちもでてきました。そして6月23日司令官牛島満と参謀長長勇は自決、日本軍の組織的抵抗はおわります。
しかしかれらは自決に際して徹底抗戦を命じる命令をだしていました。このため、日本兵によるゲリラ戦がつづきます。県北部では、ゲリラ化した日本兵が収容所に入れられた住民を裏切り者と称して襲撃する事件が頻発しました。食糧を奪う目的であったともいわれます。ゲリラの中には沖縄の少年たちも混ざっていました。
戦闘が終わるのは、南西諸島9月7日、ミズーリ号上での降伏文書調印よりも5日も遅れました。
「日本国民」であろうとしつづけた県民たち
池宮城秀意という戦前からのジャーナリストは「沖縄戦の中で沖縄の人ははじめて日本国民としての一体感をもつことができた」と書いています。
ほとんどの人々が『鬼畜米英』『撃てよアメリカ』などと戦争を支持し、『一億一心』の名のもとに、沖縄県民も勇ましく戦争に乗り出していたのです。1879年の『琉球処分』以来、はじめて沖縄の人は日本国民としての一体感をもつことができたのです。 戦争反対を叫べば憲兵に捕まるからというのではありません。ほとんどの人がいつの間にか自然に戦争を受け入れ、支持していました。明治・大正の頃のような徴兵忌避など起こらないほど、沖縄県民は教育されていたのです。 池宮城秀意「戦争と沖縄」(岩波ジュニア新書) |
沖縄戦はある意味、琉球人・沖縄県民が日本人であるという自己認識を強くもち、自己犠牲の精神を発揮したできごとでした。日本のため、軍のため、兵器を運び、食料品を供出し、住宅を提供しました。飛行場や陣地の構築のための勤労動員に応じ、防衛隊に組織され、若者は鉄血勤皇隊として戦車の前に身を投げだし、女学生は従軍看護婦に従事し、多くは戦場で命を失います。
沖縄戦全体での戦没者は約20万人といわれますが、そのうちの約12万2千人を沖縄出身者が占めています。さらに戦争マラリアの死者や餓死者もふくめると、県民の戦没者は15万人、当時の沖縄在住の県民の4人に1人がなくなった計算になります。
沖縄の日本軍
しかし軍はこうした県民の献身に応えたとは到底いえないものでした。軍事目的からすれば、陣地構築のために戦火の中に住民を追い出し、大声で泣く乳児を「默らせる」ことも合理的な行動だったのかもしれません。しかし反問したいのです。いったい軍隊は何を守ろうとしたのですか。「国民」である沖縄住民を守ろうとしたとはとうてい思えません。
「日本人」として出来る限り軍に協力しようとした県民に対し、軍は「沖縄県民は愛国心に乏しく、その去就は疑わしい」という疑いの目を向け続けました。こうした偏見を通して見れば、自分たちの理解できない「ウチナーグチ」で話す住民同士の会話は危険な会話と感じました。第32軍は沖縄戦開始直後の四月九日、「琉球語(方言)を使用したものは間諜(スパイ)とみなして処分してもよい」との命令を発します。
沖縄戦に動員された部隊のひとつは、華北(中国北部)で苛烈なゲリラ掃討戦を繰り返してきた部隊です。華北の戦場では、昼間は友好的にみえる民衆が夜になるとゲリラを引き入れて襲撃してくるといった事態がくりかえされ、住民虐殺などもあいついだところでした。こうした戦場から沖縄にやってきた兵士たちが沖縄住民を中国民衆と同一視してしまった可能性も考えてしまいます。
中国の戦場などでの日本軍が行ってきた行為は何らかの形で住民にも伝わり、米軍によってそうした行為がなされるのではないかとの恐怖がパニックを引き起こし、「集団自決」(集団死)の背景になったとの指摘もあります。
日本軍の構造的な問題もあります。日本軍にとって一般住民の住む世界は「地方」であり、一般住民は「地方人」であり、地方人は軍隊に対して服従すべきという意識が植え付けられていました。なぜなら日本軍は「皇軍」(天皇直轄の軍隊)であり、国民はすべからく天皇に忠節を尽くすものであり天皇の軍隊は特権的な存在だったからです。
日本軍が守るべきものは国家とくに天皇であり、国民を守るためのものではありませんでした。
こうした意識と沖縄県民への差別がないまぜになっていたように思います。
戦争マラリア
補足的にいくつかのエピソードを記しておきます。
宮古・八重山諸島は空襲や艦砲射撃をうけ大きな被害を出したものの地上戦による被害は免れました。しかしこの地域の人を苦しめたのが戦争マラリアでした。日本軍はこの地の島にも飛行場を建設、住民を山岳地帯に強制退去させました。しかし退去させられ地帯はマラリアのはびこる地域で、食糧不足による栄養失調にもなっていた住民たちは、つぎつぎとマラリアに罹患していきました。こうして感染したマラリアを戦争マラリアと呼びます。八重山諸島の石垣島では退去させられた人の半数が罹患、1割が死亡、波照間(はてるま)島にいたっては住民の1/3が亡くなります。
また、島の人口をはるかにこえる日本軍が進駐してきた島々は極度の食糧不足が発生、それによる栄養不良が発生、戦争マラリアの拡大の背景ともなっていきました。
朝鮮人と沖縄戦
先に見たように沖縄戦では大規模な陣地の構築が行われ、要塞化が進められました。その労働力として動員された県民とともに用いられたのが朝鮮人軍夫でした。かれらは軍の移動にともなって送り込まれ、戦争が始まると戦場での爆薬運搬など危険な業務にも従事させられました。逃れようとすると見せしめとして容赦なく殺されました。動員された朝鮮人軍夫は約一万人に上るとされています。
さらに軍とともに移ってきたのが従軍慰安婦たちです。沖縄各地に慰安所が開設されました。日本人だけでなく朝鮮出身の女性も多数含まれていました。かれらのなかには、戦争ののちも国に帰れず、この地に残った女性もいました。
沖縄近代史の帰結としての「沖縄戦」
沖縄戦の特徴を「高等学校琉球・沖縄史」はつぎのようにまとめています。
1,勝ち目のない”捨石作戦”であり、本土防衛・国体(天皇制)護持のための時間稼ぎであった。
2,米英軍による無差別攻撃で多くの住民(非戦闘員)が犠牲となった。
3,住民をまきこんだ激しい地上戦が展開された
4,疎開などの住民保護対策が不十分なうえ、現地総動員作戦のもとに住民が根こそぎ動員された。
5,軍人より住民の犠牲者が多かった
6,日本人による住民殺害事件が多発した
・直接手を下した例・・スパイ容疑による虐殺
・死に追いやった例・・日本軍の命令・指導による「集団死」の強要、食糧略奪、壕追いだしなどが原因になった死亡
「方言論争」にみられたように、沖縄県民はだれよりも日本人らしくなろうとしました。その結末が人口の1/4にもあたる膨大な犠牲者でした。それに対する軍の答えが「方言を用いたものをスパイと見なす」という対応でした。利用するだけ利用しながら、同じ日本人とは見なさない、それが琉球処分以来の結論だったのかもしれません。
「高等学校琉球・沖縄史」は「沖縄県史」から以下の文章を引用しています。
沖縄の近代史は、おおざっぱにいえば、沖縄が日本帝国主義に吸収・一体化されていく過程であり、沖縄の民衆が思想文化面で『皇民化』されていく過程であった。そして沖縄戦の中で一体化が頂点に達したということも出来るし、同時に一体化の裏返しに他ならない差別と偏見がもっとも露骨にあらわれた局面でもあった。
「戦後沖縄」のはじまり
海軍部隊の司令官大田実は自決に際し「沖縄県民カク戦へり。県民ニ対し後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」との電文を送りました。
ところが後世の歴史は沖縄県民を踏みつけにし続ける歴史でした。戦後になっても沖縄は「生け贄(いけにえ)」としてアメリカに供されつづけます。アメリカ軍は過酷な戦闘で得た沖縄を手放そうとはしませんでした。西太平洋の要(かなめ)ともいうべき位置にあり、冷戦のなかの重要な戦略基地でもあったからです。早くから沖縄を調査していたアメリカの研究者は、沖縄(琉球)は日本の一部とはみなせないと考え、日本からの分離をめざしたこともありました。
生き残って収容所に入れられた人たちは自分たちを「艦砲射撃の食い残し」と自嘲的に語りました。家族全員が生き延びたという家はまれで、家族が全滅したという例は数え切れませんでした。激しい戦闘とそれに続く収容所を終えた人々がそこで見たものは、「鉄の暴風」とも表現された激しい戦闘の中で荒廃した大地でした。数限りない砲弾の跡と不発弾、散乱した人骨。さらに、自分たちの土地を取り上げて作られた米軍基地、主人面をして我が物顔に居座る米軍。日本各地や旧植民地、戦地から続々と沖縄出身者が引き揚げてきます。たりない食糧、失われた住まい、奪われた土地、そこから沖縄の戦後史がはじまります。
<特講:琉球・沖縄の歴史> |