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収容所からはじまった「戦後」
<特講:琉球・沖縄の歴史> |
「日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?」
おはようございます。今回から沖縄の戦後史です。
今日は、石原昌家さんの「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」(集英社新書、2000年)という本のなかのエピソードからはじめたいとおもいます。
沖縄戦末期、米軍が包囲した鍾乳洞(ガマ)から命からがら出てきた住民たちがいました。かれらに米兵が問います。
「日本ノ兵隊 生カシマスカ?殺シマスカ?」。
石原さんから、そのときの様子を聞きましょう。
一九四五年六月二五日前後のことである。轟(とどろき)の壕で、米軍が住民の救出をしていた。そして、救い出した住民を現在の壕の出入口階段付近にひとまず集めた。救い出されたとたんに衰弱がひどくなって気を失う人もいたという。壕から救い出されたばかりの住民の前に米軍将校がやってきて、片言の日本語で話しかけてきた。
「下ニ日本ノ兵隊イマスカ?」と尋ねられ、大勢の母親、年寄りが、口々に「たくさんいる、たくさんいる」と答えた。すると、そのアメリカ兵は「日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?」と聞いてきた。すると、「殺せ!殺せ!」※といっせいに答えた。
(P142~3)
※なお、沖縄での「クルチー」という言葉は、直訳すると「殺せ」となるが、一般には「痛めつけろ」という意味もあり、石原さんは「住民がどちらの思いだったのかはわからない」と付け加えています。(P194~5)
それまでの経過です。
日本軍は、住民を壕からの追い出し、飲料水の井戸を破壊、さらに住民をスパイ扱いしました。戦火の中をさまよい歩いた住民たちがやっとたどり着いたのが糸満市伊敷の「轟(とどろき)の壕」でした。
ところが、そこにも日本兵がやってきます。かれらは水がえやすい「快適」な一角を占拠し、住民から食料を強奪し、泣き始めた乳児の殺害を殺しました。たいせつな「黒砂糖」を奪われまいとした抵抗する子どもを殺します。住民たちはつぎつぎと餓死していきました。
ついに壕はアメリカ軍の知るところになります。弾薬やガソリンが投げ込まれます。「馬乗り攻撃」です。爆死や焼死があいつぎました。しかし、逃れられません。存在が知られると恐れた日本兵が威嚇していたからです。
住民たちは県庁職員であった伊芸さんたちの力を借りて、別のルートをみつけて脱出に成功しました。
そうした経過を経て住民が発した声が「クルチー、クルチー(殺せ!殺せ!)」でした。
「日本兵は奪ったが、アメリカ兵は与えた」
沖縄戦では、財産も食料も、生命さえも投げだし「日本人であろう」とした、軍がいう「軍官民共死共生」を受け入れた住民たちでした。ところが「友軍」の度重なるひどい仕打ちが、住民に「クルチー、クルチー(殺せ!殺せ!)」と叫ばせたのです。こうして、日本は拒否され、アメリカが選択されました。
川平成雄さん『沖縄・空白の一年』(吉川弘文館2011)という本に「日本兵は奪ったが、アメリカ兵は与えた」という節があります。これはある女性の次の「聞き書き」の一部をとったものです。
沖縄本島南部西海岸の低地から丘陵部に位置する豊見城村、そこにあった伊良波壕に避難していた時、日本兵から「おまえたちが戦争をしているのか」と言われ、壕から追い出された。壕から壕へと転々とし、六月二一日ごろ米軍の捕虜となった。アメリカ兵をはじめて見たとき、ヒージャーミー(山羊の目)をしていると思った黒人もはじめて見た。トラックに乗せられて沖縄本島南部の糸満名城まで来て、一休みした時、アメリカ兵がタバコ、ガム、チョコレートを与えた。「日本軍は取り上げたのに、アメリカ兵はあげた」
「いままで『友軍』であると信じていた日本軍に裏切られ、今まで『鬼畜米英』と教え込まれていたアメリカ兵に助けられた、という”驚き”と無念さがある」(P50)と川平さんはコメントしました。
食糧などを現地調達するという日本軍の「伝統的なやり方」(このやりかたが「南京大虐殺」の引き金となり、フィリピンなどでのゲリラの活動を活発化させ、インパール作戦の悲劇になりました)と異なり、アメリカ軍はどれだけの住民を収容せねばならないか推計し、分厚いマニュアルを作り、飲料水や食料を準備、収容施設の場所も計画していました。
アメリカ人は「解放者」だった!
のちに沖縄県知事となる大田昌秀はこの時点で「アメリカ人は解放者だった」といいます。大田は住民に対する「皇軍兵士」の残虐な行為にふれた後、次のように語ります。
「鬼」「畜生」と恐れられていた米兵は、負傷者を見ると殺すどころか、自らの命を危険にさらしてまで救出にあたるものも多く、そのおかげで九死に一生を得た住民も少なくなかった。友軍から見捨てられた負傷者にとって、親身になって看護してくれる米兵が、人類愛の権化に見えても、不思議はなかろう。沖縄住民の手になる沖縄戦記には、友軍兵士の非道に対する憤慨と、アメリカ兵にたいする好意的記述が対比的に見られるのも当然である。(「醜い日本人」P189)
沖縄の「アメリカ像」は「国策的な『鬼畜』からいっきょに『神仏』へイメージチェンジした、といってもあながち誇張ではない」と記します。
アメリカ軍も、当初は「解放者」「民主主義の担い手」「軍国主義の打倒者」として振る舞おうとします。
収容所のメイヤー(「市長」の意味)やCP(「民警」)も収容者の中からアメリカが指名、一定の自治権を与えした。
住民の手で新聞を発刊させようとして島清という人物に働きかけ、島は「援助だけで干渉はしない」という条件でガリ版の新聞を発刊します。(「ウルマ新聞」。現在の「琉球新報」の前身)
アメリカは12の収容地区から128人の代表を集め、仮沖縄諮詢委員会を開催させ、住民の意見を米軍政府の統治に反映させようとします。8月15日のことです。その日、集められた代表たちは偶然にも「玉音放送」を聞くことができました。かれらは、自分たちを薩摩支配からの自立をはかった蔡温になぞらえ、新しい沖縄づくりを夢見ます。日本への復帰を望む人はほぼ皆無でした。それほどにも、日本とくに日本軍への反発は強かったのです。
9月20日、アメリカは収容地区を「市」に編成、25歳以上の男女による「市」会議員選挙・「市」長選挙が実施されます。日本で最も早く女性参政権が導入されたのは沖縄でした。
この時点で、「解放者」「民主主義の伝道者」というアメリカの姿を信じ、協力的な住民が多かったのです。「本土」でもそうだったように。
琉球米海軍軍政府本部は46年7月1日付の報告書の「琉球列島の住民」の項で、以下のように記しています。
沖縄の人々は予想に反して、そもそも最初から米政策には協力的で、反対する姿勢はとらなかった。破壊や妨害が疑われた事件は証明できず、ほとんどなかった。軍政府管理下の地域でも日本軍への同情的行動はほとんど見かけられなかった。却って住民の救援、管理、沖縄の復興のためアメリカの政策に完全に進んで強調するとか、むしろ積極的に出るほうが大きかったといえる。沖縄の人たちは自ら、戦争という最悪の状況下でも不尭不屈の精神を以て、占領軍から割り与えられた仕事を忠実に、何らの不平不満も言わずに実行し、破壊された社会の再建に喜んで従事していることを証明した。
(「米国海軍軍政活動報告1945年4月1日~1946年7月1日」『沖縄県史資料編20』P4)
占領当局による自画自賛的な面があることは否めないものの当時の姿の一端を示しています。
しかし、米兵による凶悪な事件、とくに女性に対する昼夜を問わない強姦事件なども増えてきました。こうした横暴さは戦闘が終結したころになって急速に増したといいます。
収容所からはじまった「戦後」
沖縄県民の「戦後」は1945(昭和20)年4月1日にはじまります。(慶良間諸島は3月26日からですが) 戦闘の進行にともなって「戦後」が全島に広がります。
本島中南部で激戦がつづき、中部(と北部・伊江島)では本土攻撃のための基地建設が急がれます。住民対策は後回しになります。さらに作戦に支障となる住民は「邪魔」であり、主戦場から遠く、基地建設も急がれない北部(そこは資源の乏しく、貧しい地域です)に多くの収容地区が設定されました。県南部の激戦地で救出された人も、さらには中部の収容所にいた人たちも、トラックなどで送りこまれました。
戦争による破壊は物資の陸揚げを困難としていました。戦闘や基地建設優先です。また収容所の物資は南から送られますが、中部などの収容施設でも需要に応えねばならないため、北になればなるほど物資は少なくなります。こうして北になればなるほど待遇は厳しくなり、収容者は次々と死んでいきました。
少し後のことになりますが、食料が届かないことにいらだった北部の収容地区で、住民代表が米軍にかけあうと、激高した将校がピストルをテーブルにたたきつけ、住民からたしなめられるという出来事も起こりました。
「もっとも過酷」と恐れられていたのが、現在、新基地建設で搖れている「辺野古」附近の久志村・大崎浜にあった施設でした。
住民の感情の「二重構造」
沖縄戦では当時の本島住民の1/4が死亡、家族の中に死者がいない家はまずありません。収容された人たちは「艦砲ヌ喰(ク)ェーヌクサー」(艦砲射撃の食い残し)と自嘲気味に語ったといいます。家族を亡くした悲哀の中にいました。
しかし激烈な戦闘から解放され、生き延びられたこと、長い間つづいた「抑圧」がなくなり、好きなことをウチナーグチで話せる「解放感」もありました。
川平さんは次のように語ります。
戦場を彷徨い、壕の中から生きながらえて収容された住民は、明日への目標を失い虚脱と放心の中にいるものもおれば、飢餓線上の悲惨な避難生活から解放されて、明るい太陽の下で、自由に手足を伸ばせる喜びを自覚するものもいた。(P72)
収容された住民の精神状態には、二重の構造が生まれていたのである。(P76)
この二重の構造のなかで沖縄の戦後がはじまります。
この二重の構造は本土にも見られましたが、そこに至る過程の凄惨さがあり、今は収容地区におしこめられているという体験は圧倒的でした。
学校が出来た!
もっとも激しい戦闘が続く5月、収容地域内で学校が「再開」されます。
沖縄戦がはじまると、多くのこどもたちが収容されました。その多くは、家族を失なった子どもたちでした。はだしのままでぼろをまとい、ごみをあさり、なすこともなくうろつき、車道にとびだしたりもする。夢遊病者のような姿でタバコを吸っている。こうした子どもたちが収容施設にあふれていました。
「自分たちの子どもは自分たちで守るしかないではないか」
住民たちのそうした思いから学校が設立させられます。元教員はもとより、師範学校や中学校・高等女学校の生徒達も協力します。
もちろん校舎などはありません。青空教室です。黒板も「ノート」も地面の砂でした。
それでも子どもたちを集め、いっしょに遊ぶことが大切でした。数え切れないほどのものを失った子どもたちにとって、学校で友人と過ごせること自体がおおきな喜びでした。大声で歌を歌い、先生から話を聞く。遊戯をし、土に字を書いて学ぶ。こうしたことが子どもたちの心を開かせました。
米軍も協力しました。ガリ版刷りの教科書が作られます。編集にあたった先生たちは、そこに「新しい沖縄をつくる意思をもってほしい」「生命の尊さを自覚し積極的に生きてほしい」という思いを込めました。ただ、アメリカが「英語教育」を重視したことには違和感をもったといいます。実際問題として、教えられる人もいなかったのも事実ですが。
9月までには72の学校ができ、4万人の子どもたちが学びました。先生たちの数も1300人に達しました。しかし全学年がそろった学校は数えるほどしかありませんでしたが。
孤児院も設置されました。栄養失調でシラミだらけの子どもが次々とやってきます。でもわずか数日で死んでいく子どもも多かったのです。
8月15日付けのウルマ新報には「戦争孤児を親身になって育ててくれる家庭を探している」との「お知らせ」が掲載されました。
孤児院の職員の中には「日本語もままならない」朝鮮人元慰安婦の姿もありました。「とてもやさしかった」と語るかつての孤児もいました。
カンカラ三線と踊り
人々に慰めを与えたのが三線(さんしん)と踊りです。
すさんだ心を慰めようと人々がまず思いついたのが、三線をつくることでした。
空き缶を胴に、パラシュートの布地を皮に、落下傘のひもを弦に、折りたたみ式のベッドの材木を棹にしてできたのが「カンカラ三線」です。
これを手に歌われた曲の中に現在も歌い継がれる「屋嘉節」があります。「屋嘉」とは軍人捕虜の収容所があった場所で、沖縄出身者、朝鮮人の軍夫ら、日本兵が分けて収容されていました。
「屋嘉節」はままたくまに全島に拡がります。
屋嘉節(やかぶし) 作詞 金城守賢。作曲 山内盛彬 一、なちかちや沖縄 戦場になやい 世間御万人ぬ 袖ゆ濡らち ※歌詞と訳は川平さんのものを用いました。また「タルーのまじめな島唄研究」https://taru.ti-da.net/e609016.html も参照させていただきました。 |
他方、米軍文教部長のハンナ少佐は、生き残った芸能人を集め芸能団を組織させました。役者たちは手に入らない「お白粉」は胃腸薬を水に解き、刀や「カンザシ」はジュラルミンの板でをつくるなど、いろいろ工夫を重ねます。
第一回の公演を見た文学者の外間守善は次のように記しました。
演目の一つ「森川の子」に戦禍で散り散りになった家族の姿を重ね合わせて会場からは嗚咽が洩れていた。嗚咽は共感であり、郷愁であった。枯れ枯れの大地に浸みとおる水のように、飢えた心の奥深くまで浸み込んでくる豊かなものを私も感じていた。(中略)歴史的にさまざまな苦悩を体験してきた沖縄を甦らせた力を私も身を以て知った出来事であった。(川平前掲書P102)
収容所からはじまった沖縄の戦後
沖縄本島周辺の住民のほぼすべて約32万5千人が16の収容地区(本島12・離島4)21の収容所に集められました。
地域内の集落の焼け残った民家はもちろん、軒先・家畜小屋にも大量の人が詰め込まれました。米軍払い下げのテントをつかった「カバヤー」「テントヤー」などにはそれぞれに三家族15名ほどが押し込まれました。畳一枚に2人住んでいる計算です。
「マルヤー」と呼ばれたかまぼこ形のテント小屋は基地従業員の宿舎、学校や病院・役所。夏はとても暑かったといいます。
人口の75%が故郷を追われ、出身地も職業もバラバラの人たちが雑居をしいられました。
「『住』のことで不平を聞いたことがない」と証言した人もいます。家畜小屋でも補強をすれば雨露も寒さもしのげるし、なんといっても「ここには、硝煙の匂いも砲弾の炸裂音もない。安心して寝られる。この安堵感がすべてに優先した」というのです。(那覇市歴史博物館編『戦後をたどる』P11)
過密状態の集落・地域を金網や有刺鉄線で囲んだ、それが収容所でした。収容地区内にはこうした収容所が数カ所置かれました。収容所間の通行や夜間外出は禁止され、家族を探しにでたり食料を求めて収容所から出た人が、ゲリラと疑われて射殺されることもありました。
ゲリラ活動をすすめていた日本軍(そのなかには沖縄出身の少年たちもいたのですが)に襲われ、スパイとして殺され、食料を奪われる住民もいました。
食料や衣服など生活用品は米軍から配給されることになっていました。衣服としてHBTとよばれる米軍の野戦服が配られます。そのぶかぶかの服の背中には「CIV」(Civilian 民間)という文字がペンキで書かれ、「PW」(Prison of War 軍人捕虜)と区別されました。あまりにもぶかぶななので、色々と改良して着用しました。
主な食料は「レーション」とよばれる野戦用携帯食料です。弁当箱状の紙袋にいれられた「Kレーション」と缶詰の「Cレーション」があり、チーズ・ハムエッグ・ビスケット・コーヒー・粉末ジュース、たばこといったものが入っていました。
配給は滞りがちであった地区では芋など食べ物をさがしまわり、野ねずみ・カエル・カタツムリなど食べられるものをとって食べました。
食べ物の記憶の中で大きいのが、エンジンオイル・油圧オイルなど機械用の油(モービル油)を天ぷら油として鉄かぶとなどを鍋としてつくった天ぷらです。「ほっぺたが落ちそうだった」という人もいれば、においもきつく気持ち悪かったという人もいます。「油」による違いがおおきかったのです。
問題は人間の体ではこの油を消化できないことです。その結果、「油」はそのまま排出され、服も下着も汚れてしまうことでした。
貨幣の使用は停止され、物資は無料で配られました。その代償としてメイヤーらを通して労働奉仕がもとめられました。
CP(民間警察)として収容所から出ようとした人を捕らえる仕事もそうでしたし、収容所に侵入しようとして殺害された日本兵の死体処理をする人。敗残兵が立てこもらないように焼け残った家屋を解体する仕事、さらには死体処理といった仕事もありました。
作業にでれば優先的にレーションなどが手に入りました。とくに人気だったのが倉庫の管理や物資の輸送などです。こうした作業を利用して米軍の物資を盗むことが普通のこととして行われました。獲得した品物は「戦果品」とよばれました。
収容施設から解放された後も生活物資の不足がつづきました。そのため倉庫などに忍びこんで「戦果」を獲得という行為が人々の暮らしを支える実態がありました。これに罪悪感を持つことも少なかったといいます。こうした物資が闇市などに流れていたのです。
1946年の「ウルマ新聞」には「窃盗」事件に頭を痛めた記事があり、翌年には、米軍はCPに容赦なく射殺するように命じた記事もありました。1949年一年間に米兵の銃撃で死傷した人が350人に上るとの記事がありました。
収容所からの帰還~「壺屋の煙」
1945年の10月末、「解放」は突如にはじまりました。
きっかけは10月に沖縄を襲った台風でした。台風は米軍に死者27、不明者約200という大きな被害を与えました。米軍は沖縄からの撤退を検討しはじめます。それが収容所住民の帰郷へとつながりました。
現在の那覇市にかかわる地域で最初に帰還したのは陶器の町・壺屋の人たちです。
44年10月10日の空襲やその後の戦闘にもかかわらず奇跡的に焼け残った壺屋を復興のきっかけとしたいと考えた人々は米軍に掛け合いました。沖縄の産業を復興したいとのアメリカ側の方針もあり話がすすみました。10月半ばには壺屋に先発隊が入り、12月20日ごろ窯の火入れ式がおこなわれました。「壺屋の窯からの煙が那覇復興の合図」でした。翌年1月には家族も移り住むことが許され、男女合わせて約一千人の集落となりました。
しかし周囲は米軍の宿舎が広がり、米兵による事件が多発していたため、その被害を受けないように町内で自警団を組織するなどの緊張の中での帰還でした。
人々の住まいは、「カバヤー」「テントヤー」から、規格の材木を用いた五坪ほどの画一的な「規格家」(キカクヤー)に変わりつつありました。
6月からは貨幣(軍票と新円)の使用が部分的に復活し、無償の配給にかわって販売が開始され、無償であった労働奉仕に対しても賃金が支払われるようになります。
しかし、公定の賃金は公定価格にしたがって定められたため生活できるレベルでなく、働き手が集まりません。人々は「戦果」の獲得とともに、新たな、しかし危険な「仕事」にも従事するようになります。
真和志村の人たち~「魂魄之塔」「ひめゆりの塔」「健児之塔」
他方、現在は那覇市の一部となっている真和志村の人々は「解放」されたものの、故郷には帰れませんでした。かれらが向かったのは本島南部の摩文仁(まぶに)村米須・糸洲です。
元村民が続々と集まってきます。約8000人の村民が約1000のテントにひしめきました。しかし、戦火を逃れ、各地の収容所に分散された村民が集まります。涙を抑えきれなかったと言います。
村長に任命されたのは元小学校長の金城和信でした。金城が、夜半にこの地に着いたとき不思議におもったのは、月もなく明かりもないのになぜか一面がボーッと白く輝いていたことでした。
翌朝になって驚きます。一体に骨が散乱していました。前日の光は遺骨から発する燐光であったのだろうといいます。
この地は沖縄戦で最も多くの人が命を奪われた場所でした。
「摩文仁の野は戦火によって赤黒く焼け焦げ、山ハダはえぐられ一点の緑も残されていなかった。硝煙の匂いがこもる土の上に、幾万の遺体が風雨にさらされていた」(「沖縄の証言(上)」)
「海岸に行くと髪の毛のついた頭蓋骨が波に洗われてコロコロと音がした」。といいます。
収容所の外の生活開始は戦争の惨禍の再確認でもありました。
最初の仕事は遺骨収集でした。金城は米軍の許可を得て約100人の納骨隊を編成します。子どもたちも、昼間の授業はやめ収骨に従事しました。遺骨が数千体になると、米軍からもらった資材で納骨堂をつくります。土を盛り、上をセメントで固めただけの納骨堂、それが魂魄(こんばく)之塔でした。4月4日、全村民が参列して建立式が行われます。
その後も収骨はすすめられ、収容された遺骨は三万五千柱となります。その後遺骨は那覇市識名の戦没者中央納骨堂へ、さらに摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑へと移されます。
しかし魂魄之塔は現在も軍民問わない沖縄戦の犠牲者を弔う中心です。那覇市のホームページは次のように紹介します。
「摩文仁や魂魄之塔がある米須を中心に、全国のすべての都道府県の慰霊碑がある。 しかし唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえてあげるならば、この「魂魄之塔」が 沖縄県の碑といえるかもしれない。
住民、軍人、米軍韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が 軍民、人種を問わず葬られた、沖縄最大の塔である。これが戦後もっとも早く、 住民の手で作られ、平和への想いを込めた塔として、他府県の慰霊碑とは多少異質である。」
金城には娘が二人いました。しかし二人ともひめゆり学徒隊に参加、亡くなりました。夫妻はその最期の地も探し求めていました。そしてついに陸軍病院壕を探しあて、そこに「ひめゆりの塔」を建てました。
さらに、沖縄師範男子部学徒の壕のあとに「健児之塔」を建立しました。
その後、村民たちは真和志村に隣接する豊見城村へ移ります。みんなが真和志村にもどれたのは47年1月のことでした。
広大な「軍用地」が県民の立ち入りを拒む。
45年10月アメリカが発した命令では「収容所にいた人々を翌年の1月1日までに帰村させる」というものでした。
しかし46年3月末になっても約7万8千人もの人が行く当てもなく収容所に残されていました。それは多くの土地が米軍によって「軍用地」に指定されていたからです。
軍用地指定というものの、この時点で基地とされていた場所はそれほど多くありません。基地建設が本格化するのは49~50年以降です。米国内には沖縄からの撤退計画もあったのですが、米軍は45年9月段階で基地建設計画を作り、旧日本軍の基地拡張にとどまらない新基地建設も計画していました。そのための土地を確保しようとしていました。多くの米兵キャンプもありました。那覇も同様でした。真和志村の住民がなかなか帰村出来なかった背景はこうしたところにあります。
住民の帰還をすすめるためには軍政府が、ひとつひとつの土地について、軍当局と折衝し軍用地解除する必要があったのです。
さすがに那覇の中心部分は解除しましたが、日本軍・中飛行場として利用されていた土地を中心とする北谷(ちゃたん)村から越来(ごえく)村にかけての広大な土地や、現在の普天間(ふてんま)基地などが多くの土地が軍用地として指定されていました。那覇軍港など海岸地域も同様です。
土地を奪われた村々~北谷村と越来村
米軍が基地に適した土地として軍用地に指定された土地の多くは平坦で水に恵まれた場所でした。こうした土地は沖縄には数少ない水田耕作などに適した土地です。こうした土地が軍用地に指定されたことは、主要産業であった農業が困難になったことを意味しました。
こうした場合、帰村が許されても、多くの土地が軍用地として立ち入り禁止とされていました。集落ごと、家も、墓も、田畑も、山川も、金網・鉄条網で囲いこまれていたのです。
したがって、人々は解放された部分だけで生きねばなかったのです。止むを得ず、村などは本来の所有者であるかどうかにかかわらず、土地を細分化して与えるという割当制がとられます。
とはいえ、こうした狭小な土地で生きていくことは困難でした。さらに自分の集落を奪われた人の住居は軍用地の外に設けるほかありませんでした。
収容所から出たものの、住まいも、生活の基盤となる土地も失った人が大量に生まれました。
中部の北谷(ちゃたん)村は大部分の土地が軍用地とされました。1947年になっても帰還はみとめられず、新しい市町村制が敷かれたときも、町役場はコザの収容所内でした。
やっと帰れたときに村民に返されたのは村の両端のわずかな場所に限られ、中央部には鉄条網で囲われた巨大な軍用地が居座っていました。その軍用地はのちに嘉手納(かでな)基地として整備されます。村の一体性の維持が困難なため、村は二分され、北側は嘉手納町となります。
北谷村と接する旧越来(ごえく)村(現、沖縄市)でも同様の事態がおこりました。町の西側には嘉手納基地となる軍用地が拡がり、東側には収容地域が設定され、米軍キャンプなどもありました。収容地区に指定されたため、人口は急増しましたが、もともとの住民が元の集落へ立ち入ることはできませんでした。
なかなか帰還できない人々~伊江島の人々の戦後
北部最大の激戦地・伊江(いえ)島は島全体が平らで空軍基地に最適でした。米軍はここに巨大な基地をつくり、本土空襲の拠点としようと考えました。そのため、住民はじゃまものとばかり、全員を島外に追い出します。かれらは、慶良間(けらま)諸島へ、さらには本島北部の今帰仁(なきじん)村と本部(もとぶ)村へ、一部は苛酷な環境としてすでに知られていた久志村(現:キャンプ・シュワブ)にも送られました。
彼らが伊江島にもどれたのは47年3月でした。ところが元住民が見たものは63%が米軍基地となっている島の姿でした。
これから、伊江島の人々は残った土地の開拓を進めるとともに、基地から島を取り返すたたかいを始めます。
ところが米軍はわずかに残った土地すら取り上げようとします。米軍は1955年実弾演習地をつくるとして、やっと開拓した土地を取り上げ、「銃弾とブルドーザー」で基地を拡張します。
住民たちは、たたかいつづけました。このような非道を沖縄中の人々に訴えようと、カンパを貰いながら自分たちの正当さを沖縄各地で訴える「乞食行進」を行います。かれらは非暴力の抵抗を続け、基地撤去と島を取り戻すことを訴え続けます。
収容所からの住民の移動は49年4月まで続きました。夜間移動禁止令が解除されるのは47年3月のことでした。
人口から見た沖縄戦と戦争直後の沖縄
沖縄戦は、当時の県民の1/4の命を奪いました。
その様子は、当時の人口構成図に如実に示されています。上のグラフを見て下さい。このグラフをみると、20歳から44歳までの男子の割合がいずれも1%を切っています。とくに20代は0.5%以下です。戦争が沖縄に与えた傷を如実に示します。
ところが、沖縄戦をはさむ44年、45年、46年の三年間の変化を人口構成図を見るとまったく違った印象をうけます。真ん中の棒グラフのへこみが戦争の被害です。戦争の与えた被害の大きさを改めて実感します。
ところが46年のグラフは、その減少分が回復されているように見えるのです。20歳から44歳までの男子をはじめ、45年はわずかであった10代の子どもなどの人口も回復しています。45年の減少分の多くが戦没死である以上、その増加は自然増ではありません。
これは県外に出ていた人たちが大量に帰還したことを示します。1946年の6月以降、大量の人々が沖縄に戻ってきます。戦時疎開をしていた子どもを中心とする人たち、戦場からの帰還兵、海外移民の帰国、本土で暮らしていた人たちの引き上げがこの内容です。
沖縄への帰還者たち
戦争終結時、九州だけでも疎開者を中心に6万人もの県人がいました。彼らが帰ってきます。日本が敗れたことで、主に「ソテツ地獄」以後、「帝国の膨張」にともなって移住した人たち、とくに台湾や南洋群島、東南アジアなどに移住した県出身者も多くいました。かれらは、その地で蓄えた資産を置いて、帰ってきました。
アメリカは、戦争中の研究にもとづき沖縄は「歴史的にみて日本ではない」と考えていました。その研究にもとづき、沖縄の人もそれを望んでいると考えました。その背景には沖縄を日本から分離しようという考えもありました。ポツダム宣言で沖縄を含む南西諸島の帰属をあいまいにしたのもそうした理由からでした。
沖縄を占領したアメリカは、日本の県名であった「沖縄」を嫌い、「琉球王国」につながる「琉球」を用いました。
こうした認識を背景に、日本本土の占領軍は元沖縄県民の帰還も促進しようとしました。朝鮮半島・台湾出身者の帰国を促したように。
ところが沖縄で軍政を敷いていた海軍は難色を示します。沖縄での食糧不足と生活困難がいっそう進むからです。そのため、海外からの移民や帰還兵は、台湾などから直接帰還した人をのぞいて、いったん本土に送られ、約1年間各地を転々としました。
帰還事業が本格化するのは、沖縄の軍政の担当が陸軍に変更されることが決まってからです。陸軍のマッカーサーは本土の食糧難を緩和する目的もあって住民の沖縄帰還を促進しました。この結果がグラフに現れています。
こうして、混乱と食糧不足がつづく沖縄に多くの県出身者が戻ってきました。かれらは中城(なかぐすく)湾の久場崎港に到着しました。帰還者たちは頭からDDTをかけられ、現・沖縄市にあったインヌミヤードゥイの収容所に送られます。そこで出身地を聞かれ、栄養状態や病気などをチェックされたのち、故郷に帰されます。帰る場所がない人も多かったのはいうまでもありません。こうして引き揚げてきたひとは、復員兵もあわせて17万人に及んだといいます。
引き上げてきた人たちは、戦後改革がすすむ日本本土の空気も持って帰りました。戦後民主主義と自由主義化、日本本土で爆発的に起こりつつある労働運動などの社会運動の息吹。そして日本国憲法。
かれらはアメリカの直接占領下にある沖縄のあり方に疑問をもちます。そして米軍統治にたいする異議をとなえる声がたかまりはじめます。
ともあれ、住宅も仕事もない、荒れ果てた沖縄にさらなる人々がもどり、その混乱はいっそう強まっていきます。
「密貿易」と、あまりに危険な「仕事」
このころ、琉球列島の最西端与那国(よなぐに)島は異様な活況を呈していました。
一千人程度の人口は島は一挙に一万五千人へと膨れ上がり、久部良の港は、沖縄本土や台湾、香港、さらには日本本土からの船で賑わいました。料亭は百七十軒にのぼり、連夜のようにどんちゃん騒ぎが繰り返されました。
この島は台湾の姿が見える場所にあり、学校や仕事も台湾、ちょっとした買い物も台湾の方が便利という場所にありました。こうした関係は戦争が終わっても続きました。沖縄で不足する生活物資を台湾で買い求め、沖縄の各地に運びこむというのです。沖縄からは、米軍の横流し商品や「戦果」が運び込まれました。
米軍は貿易はおろか、県内の主要な地域間の物資の輸送すら禁止し各島間で物の値段の差が大きかったこともあり、大きな利益を上げることができました。この密貿易のルートは県内に止まらず、本土にまでつながっていきます。
さらに48年ごろになると、新たな「輸出品」が注目され始めます。その背景には、中国情勢の変化がありました。中国では、日本との戦争中、下火になっていた国民政府と共産党との対立が再び激化、ついに国共内戦が再開します。そのため軍需関連物資が高値で取引されるようになりました。軍需物資の原料、沖縄本島にはゴロゴロ転がっていますね。銃・砲弾の破片や薬莢などの非鉄金属などです。そうしたものが、台湾のちに香港などから運び込まれた米や砂糖といった食料品、酒類、果物などと交換され、生活物資の欠乏に悩む沖縄本島などへと運び込まれていきます。
こうした密貿易で運び込まれた生活物資が戦後の沖縄の人々の生活を支えました。
最初のころ、警察は黙認し、十分な供給が出来ないアメリカも厳しく取り締まることはできませんでした。彼らが本格的に介入するのは、軍需物資が中国共産党軍の手に入ったことを知ってからです。
密貿易は、あまりにも危険な「仕事」をつくりだします。
爆弾の破片や薬莢が高く引き取られることを知った人々は、元手なしで多くの利益が得られるこの仕事に殺到します。子どもたちも含め多くの人々がかかわりました。破片や薬莢のなかには不発弾も紛れ込んでいます。多くの爆発事件が各地で発生、死亡事故も相次ぎました。
こうした金属回収は1950年の朝鮮戦争の発生と共にさらに加速していきます。地上での金属を取り尽くすと、海中の金属を回収しよういう人も現れます。触雷して多くの人が一瞬で亡くなるといった事件も発生しました。
46年8月の「うるま新報」には「かうして扱え/爆発物事件注意」という記事が見られ、当時爆発物事故が頻発していたことが分かります。「無智のため何か器物に使へさうだと考へていることが原因」と記されています。(『那覇市史』資料編第三巻第三分冊P31)そして47年5月には、一年間の爆発物による死者が116人負傷者が259人に及ぶことが記されています。(『市史』P76)
米軍施設に忍び入って「戦果」を得ようとする窃盗事件も増加します。1946年5月の「うるま新報」が窃盗とそれに対する発砲の増加を記し「米軍ではこの種窃盗のため禁止地区に立ち入るもの並にはうくわうするものに対して遠慮なく発砲する旨民政府に通告してきた」(『市史』P25)と記し、1946年4月には「射殺御免/窃盗に軍警告」という記事は窃盗が「やがて沖縄人の憎むべき悪弊となっている」と指摘、米軍がCP(民警)に「見つけ次第射殺を命じている」と記しています。(『市史』P69)
人々は戦後の苦しい日々をたくましく生きぬきました。
アメリカの沖縄政策の迷走
当初、解放軍と考えられたアメリカ軍はしだいに占領軍、支配者としての性格を強めてきます。46年、当時沖縄を統治していた海軍の将校はアメリカと沖縄の関係を次のように諮詢会の人々に説明しました。
現状はまだ戦争状態であり、沖縄住民に自治はない。講和条約の締結までは米軍はネコで沖縄はネズミである。ネコの許す範囲でしかネズミは遊べない。ネコとネズミは今はよい友達だが、ネコの考えが変わった場合は困る。ネコがネズミに飛びつかないようにする機構は、沖縄住民が運営しやい戦前の機構が最も安全である。」
結局は「ネコ」であるアメリカの許す範囲内でしか、「ネズミ」である沖縄の「自治」は認められないということです。この発言は、ある程度県民の「保護」と「民主化」に配慮した海軍が、夏には統治権を陸軍に引き渡すこと(「ネコ」の考えが変わる!)にかかわる発言であったとの研究もあります。
実際、代わってやってきた米陸軍という「粗暴なネコ」は「ネズミ」を「友達」と考える気はあまりなかったようで、結果として「ネズミ」をいじめる政策をとったため、「ネズミ」の側の抵抗が高まりました。
こうした背景には、沖縄に対する扱いが決まっていないアメリカ側の事情がありました。本国アメリカは戦時体制から平時体制へと移行しつつあり、民政にたけた軍人たちも本来の職業に復帰していきます。軍予算も減額されます。ヨーロッパでは冷戦へとつながる動きも強まりそちらに関心が高まります。アジアにおけるアメリカの「資源」は、まず日本本土へ、つぎに朝鮮半島へ向けられます。朝鮮半島では知識も能力も不十分な軍人の統治が事態を悪化させました。こうした状況のもと、沖縄の統治がどうあつかわれたか、明らかでしょう。
沖縄は使い道が決まらないのにコストばかりがかかる「お荷物」だったのです。
アメリカ政府内部とくに外交を担う国務省では沖縄を日本に返すべきとの議論が出はじめていました。
にもかかわらず、米軍は沖縄の返還どころか、将来的な基地用地と考える広大な軍用地すら開放しません。米軍とくに沖縄戦の中心となった陸軍には「沖縄は多くの犠牲を出して手に入れた土地である」との思いがありました。その陸軍が46年以降、沖縄を占領統治していたのです。
沖縄をめぐる二人の人物
さらに二人の人物が重要な役割を果たします。
一人は、日本国憲法の規定に従って「日本」の非軍事化を進めようとしていたマッカーサーです。かれは、日本の独立と同時に本土の軍事基地をすべて撤去し憲法にもとづいて非軍事化する代わりに、沖縄を日本から分離し軍事拠点とすればいいと考えていたのです。こうした背景には「沖縄人は日本人ではなく、また、日本は戦争を放棄したからである」(『百年』P240)との認識がありました。
もう一人は昭和天皇です。彼はしだいに激化していく東西対立と国内での共産主義の影響力拡大に神経質になっていました。共産主義の拡大は、天皇制廃止と共和制につながると考えたのです。そこで天皇は、沖縄をアメリカに長期租借という形で提供し、アメリカが軍事占領を継続し軍隊を駐留することが日本の共産主義化を防ぐことにつながると考え、その趣旨をマッカーサーに伝えました。この書簡がマッカーサーの考えにも大きな影響を与えたともいわれます。
いわゆる「昭和天皇の沖縄メッセージ」琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から一九四七年九月二十二日付通信第一二九三号への同封文書 マッカーサー元帥のための覚え書 |
その後、1949年の中国での共産党軍の勝利と中華人民共和国の成立、翌1950年の朝鮮戦争の発生は返還論を引き飛ばし、沖縄を「太平洋の要石」へと変えていきます。沖縄は日本から分離され、全島の軍事基地化を一挙にすすめます。
反米意識の高まりと「復帰運動」のはじまり
使い道のないくせにコストばかりかかるというアメリカ側の感情は、兵士の間のゆるみを引き起こしていました。軍規もゆるみ、米兵によるレイプなど凶悪事件が多発しました。密貿易で用いられた大量の米軍横流し商品もこうした背景のもとで得られました。
さらに米兵の間でも、白人兵と黒人兵・フィリピン人らが対立、抗争も起きていました。もはや「解放軍」というメッキははがれ「粗暴な占領軍」という性格が表面化してきます。
こうした様子は、1949年に沖縄を取材したタイム誌の記者フランク=ギブニーの「忘れられた島~沖縄」というルポルタージュに記されています。(※このルポルタージュ全文と解題を「史料室」に載せておきました。ぜひご覧ください。リンクはここ)
過去四ヵ年、貧しい上に台風におそわれた沖縄は、陸ぐんの人たちからは戦線の最後の宿営地点と云われ、司令官たちの中の或る者は怠慢で仕事に非能率的であった。そのぐん紀(軍紀)は、世界中の他の米駐留ぐんのどれよりも悪く、(中略)米陸ぐんの才能のない者や除者の体のよい掃き溜になっていた。去る九月(一九四九年)に終る過去六ヶ月間に、米ぐんへい士は殺人廿九、強姦十八、強盗十六、殺傷三三という驚くべき数の犯罪を犯した。(中略)
米国は沖縄人を被解放民族と言ってはいるが米ぐんは占領中時に日本がしたのよりも厳しく沖縄人を取扱った、沖縄の戦闘は沖縄の農業及び水産業等の小規模な経済を完全に破壊した。米国のブルドーザーは沖縄人が一世紀以上も骨身をおしまずにつくった丘陵の畑をわずか数分間でふみつぶした。終戦後沖縄人は米国の施し物で生活してきた多くの島民は払下げの米ぐんシャツやズボン以外の衣服をもっていない、沖縄人はぐん政府を通じてしか外部と貿易が出来ないがこれは実際には貿易が全くないことを意味している、その結果は台湾との活発・密貿易となってあらわれている、しかし沖縄人は密貿易でも得をしていない、なぜなら沖縄人は米ぐん施設より盗んだ若干の物品より外にバーターすべきものをほとんどもたないからである。(昭和24年(1949)12月3日に『うるま新報』に掲載された記事「タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄」)
こうしたなかで当初はなりを潜めていた日本「復帰」運動も始まります。
ジャーナリストで、戦前から首里市長であった仲吉良光は「血は水よりも濃い」として日本復帰を主張、1946年には上京して日本復帰の要請運動をはじめます。しかし、日本政府に積極的にこれを受け止めようという意識は低く、郷土復興に精一杯だった県民にも響きにくいものでした。さらに、国策に協力したという仲吉の過去、米軍政府の動きもあって、沖縄でも復帰運動は盛り上がりませんでした。
しかし、アメリカ支配への反発が高まり、日本の占領の終了がスケジュールに上るなか、沖縄はどのような将来をめざすべきかとの議論が否応なく高まります。アメリカ併合をめざす動きはもちろん、戦後すぐには一定の影響力があった自立さらには独立をめざす方向(それはアメリカに都合がよいことが明らかになってしまっていました)も力を失い、日本復帰をめざす流れが力を伸ばします。「沖縄自立」という方向性ももっていた政党も、しだいに「日本復帰」という方針へと方針変更をしていきます。
戦前の県政や沖縄戦での「日本」に対する不信感を抑えこむことができたのは国民主権、平和と民主主義、基本的人権の保障を掲げた日本国憲法の存在だったといいます。憲法が出来たことで日本は変わったのだと考えました。
「国民主権」も「平和と民主主義」も、そして基本的人権の尊重も、こうしたものが認められていない沖縄から見ると輝かしい存在でした。「そう信じようとした」がじっさいかもしれません。
ともあれ「日本国憲法」のある日本の一員になることとしての「復帰」をめざす。それが大きな流れとなっていきます。
「寓話」的なエピソード
最初に触れた石原昌家さんの「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」は、非常に「寓話」的な出来事を記します。
住民側の中心として日本兵と対応し、住民の脱出に尽力した沖縄県の元職員伊芸さんは、収容所で元芸妓の女性と顔見知りになります。そこで知ったことが彼を驚かせます。女性の愛人が彼らを苦しめた日本兵のリーダーの軍曹でした。
轟の壕で死んだはずの日本兵は別の出入口をみつけて脱出、米軍の捕虜となったとのことです。しかも「にっくき軍曹」は米軍の宣撫班員になっている。しかも「彼女のタイショウ(主人の意味)」に。「コノヤロウ」と思ったとのことです。
沖縄人に苦難を強いた日本兵は「生きて虜囚の辱めをうけず」どころか、みずからアメリカ軍に取り入ってその手先となっていました。
これ以後の三者の関係を象徴するかのような出来事でした。
<特講:琉球・沖縄の歴史>