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「太平洋の要石」とされた沖縄
~恒久基地化の進展
<特講:琉球・沖縄の歴史> |
「沖縄~忘れられた島」はなぜ転載されたか。
前回、引用したフランク=ギブニーの「沖縄~忘れられた島」から、今回の授業を始めたいと思います。
すでに読んでいただいた方はおわかりになると思いますが、そこでは
「沖縄は米陸軍の才能のない者や除者の態のよい掃き溜」「司令官たちの中の或(る)者は怠慢で仕事に非能率的」とこき下ろしています。そして無能な司令官の下で、沖縄人は「絶望的貧困」の中におかれていると。
この記事はもともとはタイム誌に発表されたもので、沖縄の人の目には触れにくいはずなのですが、それが「うるま新報」に転載され、人々の目に触れたのですから驚きです。
もし、このような内容の記事を、占領下の「本土」の新聞が発表すればただちにMPが飛んでくるでしょう。しかし、なぜこのような記事が掲載されたのか、記事の中に秘密がありそうです。
シーツ『善政』?
注意深く見るとこの記事は、それまでの軍政=「悪」、新たなシーツ(+キンカイド)軍政=「善」という図式となっています。
これまでの軍政をネガティブに描くことで、新たにはじまるシーツ軍政に期待させる意図が透けて見えそうです。
シーツ少将は、就任と同時に米人記者らに沖縄の取材を認めました。その一環がこの記事でした。
そうした視点からこの記事を見ると、ギブニーはシーツを
「朝鮮の軍政で立派な仕事をした明朗で精力家」「司令官が変ってから沖縄の駐屯米軍の士気は大に是正された」
と持ち上げます。そして
シーツ少将は米国は沖縄に対して作戦上の関心よりもなお一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といつた。シーツ及びキンカイド両少将及び幕僚はその責任に直面している、彼らは沖なわ(縄)を復興すべく決意を固めている。
と手放しの賞賛をおくっています。
このように、この記事はシーツ少将らとその改革のPRが目的という側面を持っています。
「シーツ『善政』」とはなにか
シーツ少将は「住民」の生活向上、「自治」の拡大、「復興」工事という「三大政策」を示し、食料の値下げと配給増加、衣料の値下げ、さらに「知事」議会議員の公選制や政党活動の「自由」を認めます。それにたいし議会は感謝決議を出し、新聞は「善政」と称えました。
この政策をきっかけに、沖縄は「絶望的貧困」から脱出、人々は仕事にありつき、そこで得たお金が循環し始めます。ある意味、本土における「特需景気」のような性格を持っていたといえます。
シーツのもとですすめられた軍政は「シーツ善政」とよばれます。しかし、それは「善政」だったのでしょうか。
沖縄が「忘れられた島」になっていたのは、アメリカの世界戦略の中での位置づけがはっきりしていなかったからでした。
「忘れられた島」から「太平洋の要石」に
ところが、冷戦の進行が、沖縄のもつ地政治学的存在感を一挙にたかめました。
東アジアでアメリカの最大の代理人となるはずでの中国国民政府は共産党軍により敗勢が濃厚となり、朝鮮半島においても対立が激化しつつありました。シーツ少将が沖縄に着任した1949年10月1日は中華人民共和国が成立したのと同じ日でした。
東西冷戦の前線は、朝鮮半島、東シナ海、台湾海峡と変りつつありました。この前線の中央に沖縄がありました。冷戦は沖縄を「忘れられた島」から「太平洋の要石」に変えつつありました。
アメリカは、1949年5月、沖縄の日本からの分離と長期間保有、恒常基地化の方針を決定(NSC13/3)、恒久基地建設に5,000万ドルの大幅予算をくみ、以後、1952年にかけて総計27,000万ドルをこえる資金を投じることにしました。
こうして台風のたびごとに破壊され米軍の犠牲者を出し続けた沖縄の基地は「太平洋の要石」にふさわしい「暴風に耐えうる恒久的兵舎、住宅および一切の攻撃に耐える恒久的な作戦施設」をもつ「難攻不落の要塞」(ジョンソン国防長官)とされることとなります。
こうして沖縄では”軍工事”ブームがはじまります。アメリカはこれを日本と沖縄の復興に利用しようと考え、軍工事に日本と沖縄の業者を参加させ、日本の建築資材を用い、沖縄の労働者を採用しました。
経済改革の実施と労働力の移動
この時期の施策について『沖縄戦後経済史』(琉球銀行調査部’84)をもとにまとめておきます。
シーツのもとで、「B型軍票」による通貨統一と「1ドル=120B円」の単一為替相場制の確立、「自由企業制度」による企業創設意欲の喚起、「金融復興基金」による民間への長期資金の供与、1950年11月の民間貿易の再開、などなど沖縄復興を後押しする様々な経済改革をすすめました。
とはいえ、制度だけでは経済は発展しません。住民自身が生活を維持しうるだけの資金が必要だったのです。こうした資金の供給を可能にしたものこそ巨大な基地建設・維持のための住民を雇用することでした。アメリカは1950年以降、「膨大な資金を投入して『港湾施設、道路、兵舎及び家族宿舎、諸公共施設、倉庫、その他陸・空軍及び軍政府施策のための諸施設』の建設を急ピッチで進め」ます。
1949年時点で沖縄住民の全雇用者の15%、約4万人が軍作業に従事していましたが、民間よりもはるかに低く、一家を維持できるような賃金でなかったため、1年で7%もの人間が離職するなど不安定な職場でした。さらに農村では、農地の多くが米軍基地によって奪われたため、半失業状態の人口が滞留、それが「戦果あさり」などに人々を向かわせていました。
これにたいし、米軍基地の恒久化はピーク時55000人に上る労働者を必要とします。米軍は、基地労働者の賃金を3倍、民間賃金の10%増へと引き上げます。(これは1ドル=120B円という為替相場の導入が背景にあります)。
これによって民間よりもはるかに低賃金で人気のなかった「軍作業」に求人数の7~8倍もの求職者が殺到しました。多くの労働力が軍作業によって吸収されていきます。
こうして1950年だけで約14000もの人が離農し、土建業や基地労働へと転職、労働力の「農村から基地へ」の移動がすすみました。
こうして住民が手に入れた資金が、先に見た経済政策と相まって、経済復興を可能にしたのです。
『沖縄戦後経済史』は
「統治者である米軍に意図はどうあれ、第2次大戦の戦禍によってすべてを失った沖縄経済の戦後復興に大きな影響を与えるものであった。これによって、沖縄経済は戦後の荒廃から離脱することが出来た」
と評価します。しかし、それは
「あくまでも沖縄を日本から分離保有し、そこに巨大恒久軍事基地を建設し、それを長期に保持していくこと」が基本であり
「米軍による沖縄統治を摩擦の少ないものにする環境」をつくっていくためのものであったことを指摘します。
「米軍政府にとってみれば、沖縄を政治的かつ経済的に安定させる」ためであったとも。
基地依存型輸入経済へ
こうしてつくりだされた枠組みは
①ドルを獲得するには、労働力など沖縄経済のもてる一切の生産手段を基地へ総動員すれば良い(基地依存経済)
②経済復興に要する諸物資は域内で生産する必要はなく、基地で稼いだドルで安価に輸入すれば良い(輸入経済)
という「基地依存型輸入経済」の枠組みでした。
基地建設とそれにともなう社会資本の整備がすすみ、沖縄側の受け入れ体制も整備されました。
軍用地に関わる所有関係が整備され、不要になった軍用地は開放されます。基地建設などに伴って雇用が拡大し、失業状態におかれていた沖縄の人々に仕事が提供され、その賃金が経済循環を促します。人材育成のため琉球大学が設置され、アメリカへの留学制度も始まりました。住民の自治を公認、群島政府がつくられ、米軍政府も米国民政府へと整備されました。
方針が定まらず、予算もないまま進められてきたこれまでの施策と異なり、基地建設と復興を両立させるという明確な政策に立ち、大量の資金が投入されました。しかしそれは冷戦に対応した恒久的な米軍基地の建設・維持が中心であり、それにかかわるあ住民懐柔策でした。そして協力を得られない場合は配給を減らすといった「ムチ」も隠し持っていました。
しかし、疲弊した経済、困窮した住民にとっては経済復興を軌道に乗せる「善政」でもありました。
あらたに着任したシーツ少将によって「忘れられた島・沖縄」を「復興」するのだ、こう印象づけるところにギブニーの記事が転載された理由があったのです。
「シーツ善政」とは何であったのか、まとめとして「沖縄県の100年」(山川出版社2005)の一節を引用しておきます。
軍工事ブームと並行して、民心の安定をはかるために、昭和24年10月に就任したシーツ軍政長官のもとで戦災復興計画が実施に移された。不要な軍用地が開放され、土地所有権が認定され、知事公選を約束し、ガリオア資金を増額して民生向上にふりむけた。沖縄住民がようやく飢餓地獄から脱したのはこのころである。これらの社会政策を沖縄住民はこぞって”シーツ善政”とたたえたが、全島要塞化の軍工事が進むにつれてやがて深刻な軍用地問題に気がつくのである。(p245 大城将保執筆)
朝鮮戦争~冷戦の前線基地となった沖縄
1950年6月、朝鮮戦争が開始されます。沖縄基地から米軍機の戦闘機・爆撃機が数秒おきに発進するという状態となります。
朝鮮特需は、基地建設の本格化などとあいまって、沖縄にさらに莫大な資金をもたらしました。
金属価格の高騰は沖縄にスクラップブームを引き起こしました。沖縄戦の結果残された大量のスクラップの価格が高騰、基地用の建築資材を運んだ船舶は、大量のスクラップを積み出すことで大きな利益を上げ、1951年には沖縄からの主要な「輸出品目」となります。
しかし、スクラップブームは危険な「フルガニ(古い金目のもの)」収集を流行させ、スクラップのなかには不発弾も紛れ込んでいたため事故も多発しました。
サンフランシスコ「平和」条約~「見捨てられる」沖縄
このころ、アメリカ政府と日本政府の間で講和条約の「話し合い」(押しつけと妥協!)が大詰めを迎えていました。その焦点に一つとなったのが、本土と分離されて米軍の軍政下に置かれていた沖縄の扱いでした。
当初、国務省の一部にあった沖縄の日本返還論は軍部(特に陸軍)の恒久占領論に押され、日本の独立と引き換えに沖縄・小笠原を分離し恒久的な軍事基地化しようという動きへとかわっていきました。日本政府や「国民」からの要求もないことがその理由に挙げられました。
こうしたアメリカの判断を後押ししたのが、1947年の昭和天皇の「沖縄メッセージ」でした。日本および周辺からの米軍撤退が天皇制に批判的な左派勢力の台頭につながると考えた昭和天皇は、政府とは別のルートを用いて、沖縄の軍事占領の長期化、米軍の恒久基地化を望む文章を送ったのです。
そうしたなかで、1949年5月、日本からの分離と長期間保有、恒常基地化の方針が定められ、翌50年2月から恒久基地の政策が着手されたのです。「シーツ善政」はこの流れの中ですすめられた政策でした。
こうした方針をどのように日本との間の講和条約と矛盾なく実現するのか。それがアメリカにとっては難問でした。
沖縄を占領し続けることは「領土其ノ他ノ増大ヲ求メズ」「関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セス」と宣言した大西洋憲章、そしてそれを継承した「連合国共同宣言」の趣旨と明らかに反するからです。
当初、アメリカは「沖縄人は日本人ではない」という論理で考えていました。しかしそれも難しいと考えるようになってきました。それは当初のアメリカへの好感情を占領下の「悪政」がもたらした悪感情が「上書き」した面もありました。
アメリカが沖縄を「○○年間の租借」する案も検討されますが、それでは帝国主義時代の復活とみられます。
そこで考えられたのが沖縄を国連の信託統治領としアメリカがそれを統治するというやり方です。
でも安保理事会の常任理事国であるソ連が拒否権を行使するのは明らかですね。実はそれがアメリカの狙いでした。
講和条約で決められたのは、国際法の専門家が「法の怪物」といわれるほどの不可解な条文です。整理して記します。
(1)日本政府は北緯29度以南の南西諸島と小笠原諸島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおくとする国際連合へのいかなる提案にも同意する。 (2)この提案が行われ、可決されるまで、合衆国はこれらの諸島の領域および住民に対して行政、立法、および司法の権力を行使する権利を有する。(「沖縄県の百年」の記述による) |
(1)は先に見たように沖縄などを信託統治方式でアメリカに貸し出すことを日本政府は認めるという意味です。
(2)しかし信託統治という提案が可決されるまでは、アメリカが沖縄などで三権を行使することを日本が認める。という内容です。
すでにみたように、ソ連が拒否権を発動することは明らかです。したがっていつになっても(1)の提案はできません。そこで(2)の状態が半永久的に続く、というわかりにくい構図です。
「ソ連がうるさいからアメリカはしかたなく今まで通り沖縄を統治するのだ」という(「屁」)理屈です。
こうしてアメリカは一度も信託統治の提案をしないまま、(2)の条項による暫定的な統治が続けられました。
この規定によって、沖縄に対する潜在的「主権」は承認されたので、昭和天皇の沖縄メッセージは潜在主権を認めさせることが目的であったという論者もいますが、まったく説得性にかけます。
天皇の本音は、象徴天皇制維持のため沖縄(あわせて奄美群島・小笠原諸島)を犠牲にしたという事実は明らかだと思われます。
こうしてアメリカはカイロ宣言・ポツダム宣言において信託統治領域に指定していなかった沖縄・小笠原を支配下におき続けました。この政策は大西洋憲章・連合軍宣言で示した理念・理想に反するもので、領土不拡張の原則を蹂躙したものであったことは明らかです。
祖国復帰運動の高まり
沖縄の人々の前にこうしたアメリカの意図が明らかになったのは1950年11月のことです。トルーマン米大統領が発表した対日講和7原則の第三項に「(日本は)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し」という項目があったからです。
これにたいし、沖縄では祖国復帰運動が一気に高まりを見せます。復帰署名は全有権者の72.1%を獲得、住民の声の大多数が日本への復帰をのぞんでいることが明らかになりました。
約5年にわたるアメリカ軍の沖縄統治は、「解放軍」であり「民主主義」を実現してくれるといった幻想を打ち砕くのに十分でした。「沖縄独立」を求める声もありましたが、結局はアメリカに都合がよいと考えられ支持を得られませんでした。多くの人々が選んだのは、「日本復帰」という「まだましな選択肢」でした。戦争の中で感じた本土への反発を「軍国主義でない日本、民主的で戦争放棄をうたいあげた『日本国憲法』をもつ日本に復帰する」ことに夢を託すことで抑え込もうとしました。
復帰運動のリーダーたちは膨大な数の署名簿を携えて、日本政府に復帰要請を行いました。しかし、「本土第一」に考える人々は、この「沖縄の人たちの思い」を見殺しにしました。
講和条約後の沖縄
1946年9月にはサンフランシスコ平和条約と日米安保条約が締結され、沖縄や奄美、小笠原などを切り捨てる形で日本の独立が承認され、翌年4月28日日本は「独立」します。
しかし、沖縄は米軍支配のまま放置されました。さらにいえば、アメリカの統治が日本政府から「公認」された側面もありました。その支配は一層露骨になっていきます。
しかし、サンフランシスコ平和条約の締結は、アメリカ側にも新たな課題を突きつけました。
これよりさき、1950年12月米国政府は当面の沖縄統治の基本方針として「琉球列島米国民政府に関する指令」をだします。その眼目は「軍事的必要の許す範囲において、住民の経済的並びに社会的福祉の増進を図る」というものでした。基本的自由ーー言論、集会、請願、宗教、出版、適法手続を踏まない不法操作・逮捕・声明・および自由並びに財産の剥奪に対する補償を含むーーーも「軍事占領に支障を来さない限り」保障されるとしました。別の言い方をすれば「軍事占領に支障」があるといえば、列挙されたような基本的自由は保障しなくていいということでした。
これ以後の、占領下の沖縄の歴史は「軍事的支障」を名目に自由を基本的人権を奪い続けられる歴史でした。
島ぐるみ闘争へ
さて「平和」条約にもどります。
これまでアメリカが沖縄で軍用地(「基地など」)を維持してきた法的根拠はハーグ陸戦協定の「戦争の必要上万止むを得ない場合を除く外、敵の財産を破壊し又は押収することはできない」という規定の「万止むを得ない場合」であり、講和条約を結んでいない以上、第二次大戦は続いているという(屁)理屈でした。日本本土の基地も同様でした。
他方、同協定は、軍用地の使用などにたいし地料の支払いや損害補償を定めているにもかかわらず、無視を続けていたのですが。
ところが平和条約によって日米間での第二次大戦は正式に終結しました。したがって陸戦協定は通用しなくなります。
日本本土における軍用地の扱いは、日米安全保障条約と日米行政協定が「米軍基地の自由使用」を認めたことで法的には「解決」しますが、沖縄においては根拠薄弱です。
そこでアメリカは軍用地になっている土地を借用しようとします。しかしその価格は坪あたり1円8銭という「コカコーラ一本分」「タバコ一箱分」にもならない地代であり、しかも20年間という長期間借り上げる。交渉がうまくいかないならば土地収用の手続きをとるという”物理的強制力”をちらつかせるやり方で。
こうした強引なやり方は温厚で平和的な沖縄の人たちを激怒させることになります。50年代後半の沖縄史をいろどる「島ぐるみ闘争」が始まろうとしていました。(つづく)
<特講:琉球・沖縄の歴史>