吉野作造の朝日新聞退社~第二の「白虹事件」

吉野作造
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吉野作造の朝日新聞退社~第二の「白虹事件」~

朝日新聞と吉野作造

朝日新聞が国家権力に屈服した「白虹事件」は、日本のメディア史の画期となった事件です。これ以後、メディアは「不党不偏」の「中立」を掲げつつ、権力との対立を避け、他の新聞・メディアと共同歩調をとりながら、些細な部分で独自性を打ち出すようになります。
とはいえ、時代は大正デモクラシーの成熟期、各地で労働争議や小作争議が発生、女性解放運動や部落解放運動などの社会運動も発展、学生を中心にマルクス主義をはじめとする社会主義への関心も高まります。こうした時代の中心にいたのが吉野作造でした。
一方、朝日新聞では村山龍平が社長に復帰、編輯局長も鳥居素川系列の安藤正純となります。朝日新聞は、他紙をリードする形で普通選挙制実現を論じました。一見、かつての朝日新聞がよみがえったかのように見えました。他方、朝日新聞は強引ともいえる販売拡張政策によって、読者を拡大し1924年正月には大阪毎日新聞グループとともに、一〇〇万部突破を宣言、マスメディア界の巨人という地位を手に入れました。
こうしたなか、1924年2月朝日新聞は吉野作造と民俗学者で元貴族院書記官長の柳田國男の二人の入社を発表しました。

吉野作造の入社の背景

吉野作造(Wikipedia「吉野作造」)

吉野に対しては、第一次大戦中の鳥居素川時代から熱心に入社の勧誘がなされており、白虹事件でいったん途切れましたが、村山社長復帰以降、ふたたび勧誘がつづき、1920年には客員社員となり、1923年末東京帝国大学を去ることを決意、入社することにしたのです。(とはいえ、大学講師という立場はのこし、校内に研究室をもつこともゆるされていましたが)
吉野が入社を決めた理由は朝日が提示した高給と考えられています。吉野は早くから中国・朝鮮人留学生を援助しています。ところが留学生寮管理人が資金を持ち逃げするという事件が発生、さらに資金提供をしてくれていた人物が関東大震災で被害をうけたため、資金難におちいっていたのです。なお田澤晴子は「震災下での朝鮮人虐殺事件が影を落としているのではないか」とも指摘しています。

右翼の攻撃

朝日新聞=村山が二人に求めたのは抜群の知名度でした。入社と同時に二人は記念講演会を開催、全国をかけまわります。そのなかで問題が発生しました。
神戸では「時局の史的背景」と題される講演を行いました。そのなかで「五箇条の誓文」にふれ、「明治政府の当路者は、金に困り、窮余の結果悲鳴を上げるに到った。その際出されたのが五箇条の御誓文である」とのべました。何の問題もない一節です。しかし、吉野を朝日新聞を敵視していた人々は、この「悲鳴」という言葉にかみつきます。天皇を冒瀆すると騒ぎたてたのです。
これにたいし吉野は「御誓文そのものが悲鳴」と読めることは「不用意」と認めますが、「反対派たるの故を以て故意に国家を弄するものと責めらるるに到っては、到底之に服することはできない」と反論しました。

吉野は白虹事件と派生して起こった右翼による村山社長暴行事件を、「言論の自由」の問題として正しくとらえ、毅然とした対応をした数少ない人物です。反対派にとっては気に入らない存在でした。このような言いがかりをつけて吉野と朝日新聞を攻撃したのです。

「枢府と内閣」

そのころ、吉野は特権階級の存在を問題視し、明治憲法体制の改革を主張していました。1922年2月には軍部の帷幄上奏を論じ、1924年1月には貴族院改革を訴えました。そして、入社後の3月末以降「枢府と内閣」という署名論文を書きました。実際の政治において、天皇の大権は内閣の輔弼によって行われており実際には天皇は「親裁」していない。したがって天皇の顧問である枢密院は「無用有害」な存在であると説きその「廃止」を主張したのです。
これに権力側、とくに枢密院が反応しました。天皇制に対する冒瀆であるとして、まず大阪府の検察当局が動き出しました。そして東京地裁は吉野に出頭命令を出します。「吉野博士は体刑を加えることは動かしようがなくなった」との検察からの発言も聞こえてきました。
こうしたなかで村山ら朝日新聞の経営陣が動き出します。講演だけなら吉野一人の責任と言い逃れることが出来ますが、新聞記事が問題となるのなら話は別です。朝日新聞社の責任とされ、発行人や編集人の責任が問われます。さらに不敬と見なされた場合、新聞の出版さしとめという最悪のシナリオも想定されます。白虹事件とまったく同様の図式となりました。

検察の捜査と吉野の退社

検察当局からすれば、以前成功した手法を再度用いたのです。朝日新聞経営陣はやはり同様の決断をします。「大企業としての朝日」を取ったのです。この会議の結論を受け、下村宏と村山長挙のふたりが吉野を呼び出し「懇ろに退社を求め」、6月3日付けで朝日新聞に吉野作造が「近来健康を害して今回社を退き静養することになった」との小さな記事が出ます。吉野が朝日新聞社員であったのは約3ヶ月間だけでした。
こうした攻撃の背景にあったのは、政府とくに枢密院や貴族院に基盤を置き、検察など内務官僚の支持を得ていた清浦奎吾内閣の存在です。清浦らが、検察の力をかりて吉野と朝日新聞を屈服させようとしたというのが実際の理由だと思われます。これも、反動的な寺内内閣のもとで発生した白虹事件と似ています。
吉野の退社によって、検察当局はただちに事態の収束をはかり、7月11日には吉野の不起訴が通知されます。理由としては、清浦内閣に代わって護憲三派内閣が成立したこと、担当検事が吉野の受講生であったことなどが指摘されます。しかし、中心は明治憲法体制の改革、とくに枢密院や貴族院といった特権階級の牙城を民本主義の攻撃から守ることにあり、吉野と朝日新聞が協力してこうした動きをすすめることを阻止しようとした所にあります。このように考えれば目的は十分に達成できたといえるのでしょう。両者ともこれ以上話を荒立てることはないと考えました。検察側の内部に通じているものからすれば、このような罪状で訴訟を維持することは困難だとの声もあり、こうした解決こそがもっとも都合が良かったといえます。
なお1990年代にだされた朝日新聞社史(大正・昭和前期編)は「吉野は『朝日に迷惑がかかるから』として、幹部の慰留にもかかわらず、わずか五ヶ月あまりで退社した」と記し、現在においても、この事件の真相を明らかにしようとしていません。

上野精一の「分析」

さて不起訴と決まると、朝日新聞専務の上野精一が上京、吉野と共に関係方面をまわったのち、語ったことばが7月14日の吉野の日記に残されています。

察するところ大坂朝日のように財力の基礎が鞏固になり独立不羈で行けるようになると此儘益々強大になって始末に了へぬ様になってはと恐れを抱き理非に拘わらず今のうちに抑へ付けておけといふ考になるものらし。丁度徳川幕府が強大な外様を憚るのと同じ心理状態なり。之が事にふれてチヨイチヨイとくるさうな。之がうるさいので他社の社長などは(此外にも俗な理由があるのかも知れぬが)時の宰相をはじめと権門勢家に満遍なく出入りして御機嫌を取るとやら。村山翁は之をせぬので益々煙がられる。そこで何か事があると不当に威力を見せつけられるのだ。

吉野の書き方もありますが、無責任さを感じる言い分であり、この問題の危険性を十分に理解していたかを疑いたくなります。吉野は次のようにまとめています。

今度の事件は僕に対する過当の誤解もあるが朝日に対する右の関係も見逃すことが出来ぬ。要するに僕と朝日の連繋が官僚残党の気に充たぬのである。

ただ問題はこれですむのでしょうか。今回の朝日新聞の対応は、貴族院や枢密院といった機関を問題視し、改革を求めることは、「不敬」の疑いがあり、新聞の存続にかかわることを思い知らせ、タブー視させる効果をもちました。新聞が明治憲法体制のあり方を問題視し、改正を主張することを困難にしたのです。

吉野の憤り

「社史」の記述とは異なり、吉野は朝日新聞の不誠実さを憤っていたようにみえます。「言論の自由」をかかげてたたかうという意志ないのに、なぜ危険人物・吉野を招いたのか。東京帝国大学教授ならまだ自由がきいたのに、朝日新聞社社員という肩書きが動きをとりにくくしました。吉野のみならず納得がいかない結末となりました。
7月14日の日記には、つづけて「上野君との会談は将来のことに及ばず。之は村山社長の一存にあるものならん」との記述があり、金銭面での補償の問題がついていないことを示唆します。
6年後の1930年3月21日、吉野はかつて「頻りに朝日入社をすす」めた米田実の来訪をきっかけにこの事件について語ります。すでにみた退社の経緯が記されたのち「社員たること僅かに四ヶ月、予に何の過失なくして乃ち失業に群に入る」と記します。さらに「朝日を退きしは予にとって財政上の大打撃たり」と金銭面からの不満を述べています。
吉野からすれば新聞社の強い勧誘があり、「何かの都合で社をやめてもあなたの生活を困らせない」との「口約束」と高給の保証があったからこそ、大学を退職し朝日新聞に入社したのでした。ところが朝日新聞は守ってくれず、金銭的な保証も不十分でした。金銭の問題は彼一人の問題ではなく、かれが面倒を見ている中国・朝鮮の留学生にかかわる問題だったからです。

吉野退社事件から見えてくるもの

この一連の経緯の中から見えてくることの一つ目は言論・思想攻撃の姿です。不用意とすらいえない程度の言葉づかいにたいしクレームをつけ、ときには暴力をちらつかせながら屈服させるやりかたです。右翼勢力はこうした手法でメディア側の動揺を導こうとします。これに対し吉野は「反対派たるの故を以て故意に国家を弄するものと責めらるるに到っては、到底之に服することはできない」とたたかおうとしました。
こうした攻撃は「五箇条の誓文」の評価という学問上の問題さえも、「不敬」といえば論じることができないようになります。
二つ目には、天皇制が日本のメディアをむしばむことをしめします。国家権力が、新聞記事に「不敬」という内容に関連付けうる一節をみつけるだけで、検察を動かし、裁判にかけ廃刊できると脅すことで新聞を屈服させることができるのです。このような「白虹事件」のやり方の効果を再確認しました。
規模を巨大化させた新聞社は経営上の観点に重きがおかれ、ジャーナリズムの視点は弱まっていました。ここを攻撃すればひとたまりもないのです。
それにつけても、思想・言論の自由、さらには国家の改革にとっても、天皇制がいかに敵対的な役割を演じたか、この過程で知ることが出来ます。
三つ目は、この権力の武器が、特権階級の牙城である枢密院や貴族院の改革要求を食い止めるために用いられたことです。講演会へのクレームには静観していた朝日新聞が動くのは、「枢密院」にたいする「無用有害」との吉野の批判にたいし、検察がとった動きたからでした。
メディアが天皇大権にかかわる国家機関を批判し改革を求めることに新聞発行停止のリスクがあるとしてタブー化が進みます。

四つ目は権力側によるメディア支配への執念です
いったん白虹事件でたたいたにもかかわらず、権力に刃向かう姿勢を見せ、権力側のきらう吉野を入社させた朝日新聞を許さないとの権力の意図を感じさせます。他方で白虹事件での敗北によって、もはや朝日新聞には権力と対峙して言論の自由を守ろうという姿勢を持つことは出来なくなっていました。

五つ目は朝日新聞社の無責任さです。村山龍平社長は、かつての池辺三山や鳥居素川らを「日本」から引き抜いた時と同様に、人気のある吉野や柳田を入社させることで新聞の評判をいっそう高めようとしたのでしょう。しかし、村山が甘く見ていたのは吉野作造の立場でした。吉野は、権力側に多くの敵をもち、陥れるチャンスをねらっている人物でした。吉野を迎え入れる以上は守り切る覚悟が必要でした。ところが帝国大学教授という名誉と高給を棄てさせ、問題が起これば守ろうともしないで退社させ、約束したはずの支援も不十分でした。
さらにいえば、「吉野は『朝日に迷惑がかかるから』として、幹部の慰留にもかかわらず、わずか五ヶ月あまりで退社した」と現在の社史に記す朝日新聞社の姿勢にも問題を感じざるを得ません。

吉野退社事件がもたらしたもの

吉野作造の退社をめぐる事件は第二の「白虹事件」でした
敗北を重ねる中で、朝日新聞、さらに他の新聞・メディアは、権力と対峙するというジャーナリズムの使命を失っていきます。「不敬」と「出版停止」の脅迫のなか、メディアは軍部や政府(とくに内務省)などへの批判的姿勢を失い、その意向を忖度するようになります
こうしてメディアは「政府の意を受けた」記事や「無害」な記事を量産し、さらに他の新聞・メディアの動きと横並びとそのなかでの些細な違いをアピールしようとします。
こうした流れの中、日本軍の犯行であることが明らかな張作霖爆殺事件や柳条湖事件に対しても中国人犯行説を垂れ流すことで真実を伝える使命を放棄、人々の判断を惑わせ、日本を誤った方向に誘導したのです。
吉野の退社はこうした流れの中におけるできごとでした

<参考文献>
吉野作造選集14・15(岩波書店1996)
『朝日新聞社史(大正・昭和前期編)』(朝日新聞社1991)

松尾孝よし「民本主義鼓吹時代の日常生活」(上記『選集』14解題)
田澤晴子『吉野作造~人世に逆境はない』(ミネルヴァ書房2006)
有山輝雄「『民衆』の時代から『大衆』の時代へ」
                         (有山他編『メディア史を学ぶ人のために』世界思想社2004)

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