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戦時下の社会(1)国民精神総動員運動
はじめに~洋装・洋食の普及した時代
おはようございます。今回は戦時下の社会というテーマで話をさせていただきます、
歴史を勉強しているものの中では、柳条湖事件=満洲事変以来、日本はずっと戦争を続けていたという視点から「十五年戦争」という捉え方をよくします。
それは、対英米蘭などの戦争、いわゆる「太平洋戦争」を、それ以前の中国との戦争と切り離す傾向があることに対し、アメリカなどとの戦争の原因にはそれまでの中国との継続的な戦争があった、その出発点が満洲事変であり、満洲事変から連続的に見ていかなければ、日本の戦争を知ったことにはならないというという考えからでした。実際、満洲事変での戦闘ののちも関東軍などによる断続的な侵略が行われていました。
しかしこの捉え方には「副作用」があります。敗戦直前の状態を暗い時代をはるか以前にまで投影してしまうことです。
この写真を見てください。日中戦争直前の都会の女性を映した写真です。精一杯おしゃれをしたモダンガール、モガと呼ばれた人たち、こうした人たちが街を闊歩しています。
昔よく用いたエンゲル係数というのがありました。生活費に占める食費の割合で、生活の余裕を示す係数です。この数字は日中戦争直前にはかなり低くなっていたこと、かわって住居費や教養娯楽費などの割合が増加していたことがわかっています。気分的な重苦しさは別として、生活には余裕がみられたことがわかります。
私の実家も1934(昭和9)年に建てています。現在に残るハイカラな家はこの時期のものが多いようです。写真のような「洋装」でパーマの女性も増えましたし、洋食も急増、食材でいえば、肉・卵、牛乳やバター、野菜ではキャベツやタマネギなどの取扱量が急増しました。コーヒー消費量は1927年からの10年間でほぼ10倍になりました。このように、都会の中間層を中心に物質的な繁栄を謳歌していました。戦争は別の世界の出来事、新聞の中だけの出来事にように思っていた人も多かったでしょう。
昔読んだロシア革命を描いたドキュメントに、革命の真っ最中に上流階級の人たちがダンスパーティーに興じていたというシーンがありました。不安を押し殺す面もあったのでしょう。日本でもそうだったのかもしれません。これから進んでいく道を見ないように一時的な享楽に身を任せていた側面もあったのかもしれません。ともあれ、繁栄を謳歌していた人も少なくありませんでした。
そこに、戦争がたちあらわれます。戦争は時代を、社会を、それぞれの人間の生活や生き方を、急速に変えていきます。
1,日中戦争の開始と国民精神総動員運動
(1)盧溝橋事件と戦争のはじまり
1937(昭和12)年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件が発生します。これはあくまでも偶発的な事件であり、数日の戦闘ののち現地では休戦が実現しました。しかし東京側がこれを大ごとに変えます。陸軍内部では「中国をたたけ」という合唱が起こり、政府も大量の軍隊の派兵を認めます。
軍にも政府にも、中国軍は弱兵だからにちょっと痛い目に遭わせればすぐ屈服するという思いこみがありました。しかし中国は日清戦争のころの中国ではありませんでした。辛亥革命や五・四運動、国民革命(北伐)といった経験、日本のたびかさなる侵略行為への怒りは、中国のナショナリズムを高揚させ、徹底的にたたかうべきだという声がたかまっていました。万里の長城の内側に傀儡政権を打ち立てることが漢民族のとってもつ意味についても無理解でした。
退役できない現役兵、投入される予備兵
中国側は、前年の西安事件以来、内戦を続けていた国民党と共産党の間に協力関係ができ、国民的抵抗の体制が出来つつありました。国民政府軍もドイツの援助で近代化されつつありました。
この結果、戦争は楽観的な見通しとは全く異なる激戦となっていきます。とくに上海戦線では日本軍は劣勢であり、多くの死傷者がでました。こうしてつぎつぎと兵力が投入されます。一度の戦闘で予測をはるかに超えた量の武器弾薬が消費され、国内には弾薬が残っていないという状態になりました。もはや事変というレベルではあり得ない、20世紀でも有数の大戦争になっていきました。
なぜ、戦争といえなかったのか、その事情は後ほど話したいと思います。
ともあれ、満洲事変とは全く異なりひとびとの生活自体を大きく変えるものとなっていきました。
盧溝橋事件の7月7日という日に注目しましょう。兵舎のなかの現役兵たちは期待に胸を膨らませていました。多くの現役兵にとって、2年間の厳しいしごきに耐えてきた日が終わろうとしていたのです。田舎から家族も迎えに来ていました。新聞記者も除隊の喜びを記事にしようとまちかまえていました。
ところが、事変の発生の結果、陸軍省から「退営延期または解除」命令が出ます。兵士や家族の落胆は想像に難くありません。新聞も「除隊」の記事を書く事を禁じられました。そして兵士たちは「除隊」どころか、早晩、前線に送られることになるのです。
しかし、当面、中国戦線に送られた兵士は現役兵ではありませんでした。いったん現役を「除隊」して在郷軍人として町や村(軍隊では「地方」とよびます)でくらす人たちが中心でした。
陸軍では、弱兵揃いの中国兵に訓練が十分にいきとどいた「現役兵」ではもったいない、予備役や後備役といった「弱兵」で十分だと考えたのです。常備兵はソ連との戦いにとっておこうというのです。
この方針に沿って、かつて兵舎で訓練を受け、今は農民や職工、店員や会社員として生活している一般人、予備役や後備役の「兵士」=在郷軍人に「召集令状」を出しました。各役場では通常では考えられない数の召集令状をうけとり、一挙に「緊張」が高まります。
(2)ある町の「戦争」~増え続ける戦死者
こうした様子を森武麿さんが紹介した茨城県結城町(現:結城市)でみていきましょう。
以下、結城町の様子については森武麿『アジア・太平洋戦争』(集英社)をもとに記述。
出征と見送り、提灯行列
臨時召集は7月15日一斉にはじまりました。町は一挙に「緊張」しました。神社では出征にさきだち武運長久の祈願祭が催され、小学校では送別会もおこなわれました。街角では女性たちが、弾に当たらないようにとの思いを込めて千人針を集め始めました。結城町から召集で出征した兵士は、年末までに136人に達しました。
実際の戦闘は苦戦の連続でしたが、国内では戦勝報道が中心で結城町でも戦勝気分が蔓延しました。
10月28日には緒戦の勝利を祝して提灯行列が行われます。小学校はサイレンを連続5回ならし、人々は神社参拝、国旗掲揚、万歳三唱といったことをおこないました。提灯行列は12月12日の南京陥落、翌年5月の徐州陥落、10月武漢陥落でも行われました。
町では、町を挙げての戦争協力をすすめようと、年三回慰問袋を送りました。青年同志会の人たちは自分たちがつくったミニコミ誌『故郷便り』を同封、兵士たちによろこばれたといいます。また月一回、留守家族を見舞い一人あたり2円のお金が渡しました。
結城町から出征していく兵士は翌年になってもつづき、38年には71人、39年には133人、ほぼ10戸に一人が出征しました。
兵力の増加と戦死者の増加
こうした様子を確認しておきましょう。
左側のグラフが兵力の増加をしめるものです。戦争がはじまった二番目の棒グラフが1937年の兵力です。一番左の前年のグラフ1936年とくらべると50万人から100万人へ一挙に増えています。全男子人口比でいえば、1%から2%へという増加率です。なお、このグラフが再び急上昇するのが一番右の1941年、太平洋戦争が始まる年です。
右側の表は中国戦線での死傷者です。1941年以降、この数字に太平洋や東南アジアにおける死者の数が上積みされます。
これによると、37・38の2年間(正式には1年半)で6・2万人が戦死、1・3万人が戦病死、合計7・5万人が死亡、16万人が負傷したことがわかります。日露戦争の死者が11・6万人ですから、日中戦争3年目39年段階でこの数字を突破したことが分かります。
なお最初は少なかった戦病死が1940年以降急増し、アジア太平洋戦争へ突入した1942年以降、戦死者の約5倍という高い数字になったことも注目して置いてほしいと思います。戦死したものよりも戦病死したものの方が圧倒的に多くなるのです。
話を戻します。結城町でも、戦死者が出始めます。その数は応召者の一割弱といいます。町では丁重な遺骨の出迎えと町葬がとりおこなわれ、「支那事変忠魂碑」も建立されました。そして残された家族のために年間一人あたり66円(39年)の生活扶助を支給しました。生活費にはとうていたりないものでしたが。
「故郷便り」~戦時色に彩られる「風景」
森さんは、慰問袋の添えられたミニコミ誌『ふるさと便り』の記事に注目します。戦争が始まって「故郷」結城がどのように変わったかという記事です。
それを整理して掲げておきます。 服装が戦時色に替わったことや子供の生活の中に戦争が入り込んでいったことがよくわかります。兎飼育が行われたことの意味、おわかりでしょうか。さらに虚礼が廃止され、生活改善がすすんだこと、貯蓄が増えたことの意味はどうでしょうか。
「木綿よサヨナラ、われにスフあり」
実際の生活の中でまずもっともドラスティックであったのは衣服まわりかもしれません。
当時のスローガンに「木綿よサヨナラ、われにスフあり」というのがあります。人々がもっとも多く利用していた木綿が手に入らなくなったのです。
これに変わって推奨されたのがスフ(ステープルファイバー)です。これはパルプなど原料として製造された人造繊維(人絹)ですが、一度洗濯しただけでヨレヨレとなり使用に耐えないほど品質が悪く、戦後に至るまで安物・まがい物の代表としてしられたものでした。
(3)作り出される「熱狂」
過激な見出しと同一内容の記事
戦争の開始は人々を一方で興奮状態とし、他方で萎縮させました。
政府が、大軍の派遣決定と同時に行ったのはマスコミ対策でした。7月11日、軍隊の派遣を決めた第1次近衛内閣は、その直後、新聞・通信社、政界、財界の代表者を招いて協力を要請、7月13日には戦争記事にかんする取締基準をつくりました。
<時局ニ関スル記事取扱方ニ関スル件」取締基準>
①反戦・反軍的言論や軍民離間を招く事項
②日本国民を好戦的と印象づけ、日本の国策を侵略主義と疑わせるおそれのある事項
③日本を誹謗し日本に不利となる外国新聞の記事を転載すること
この結果、新聞やラジオは、軍・政府の発表をそのまま報道することを余儀なくされ、作戦に疑問を呈したり、日本軍が引き起こした問題行動を報じることは禁止されます。外国の新聞の転載も禁止されます。新聞は国民洗脳の手段となりました。
ほぼすべてが「日本の行動は自衛権の発動で「支那を膺懲」することが目的である」という内容で統一されます。出所が同じですから、内容も各紙とも大差ありません。
そこで各紙がしのぎをけずったのは、いかにセンセーショナルな「見出し」をつけるかでした。「皇軍」の正義と勇敢さ、「支那軍」の「暴戻」ぶりを描くことに力を注ぎました。さらに、戦死者を英雄として扱い、遺骨の無言の帰還と弔問や葬儀、慰霊祭の模様を詳細に報道しました。
「露営の歌」と「愛国美談」~「作られる銃後」
ラジオが大きな役割を果たすようになります。毎日毎夜、軍歌が流されました。新聞は「皇軍の歌」を募集、2万2741編の中から選ばれた作品の一つが「勝ってくるぞと勇ましく」に始まる「露営の歌」でした。作曲は古関裕而です。この詩を見た古関は、依頼を受ける以前に既に作曲を終えていました。
「暴支膺懲」の決起大会や講演会、戦争ニュース上映会などが開かれ、戦争ニュース専門の映画館もできます。街角には千人針をあつめる女性たちが列をなし、神社などへの参拝も相次ぎました。
戦争は一種の「戒厳令的効果」を生み出し、異論をはさむことは困難となり「挙国一致」状態がうまれます。
官憲の「取締」、それをうけて娯楽も自粛され、享楽的気分は封殺されます。「軍国美談」によってあるべき「銃後における人の生き方」が語られ、それに反する態度は非難の的となります。事変以前の生き方は糾弾の対象となってきました。
広がる弾圧~合法左翼や自由主義者も
熱狂の裏側で、国家権力は戦争に反対する勢力への弾圧をいっそう強化していました。
盧溝橋事件直後の1937年8月、『中央公論』に掲載した東京帝大教授の矢内原忠雄の論文が問題視されて辞職を余儀なくされます。
弾圧強化の背景には取締に当たった特別高等警察の「お家の事情」もありました。すでに共産党をほぼ壊滅させていた彼らは、取り締り対象を見失い、予算や人員の削減を避ける組織防衛の観点から新たな取締の対象を探していました。
そして選ばれたのが、戦争に非協力的な合法左翼や文化団体、穏健な自由主義者などでした。
根拠はやはり治安維持法でした。1928年におこなわれた「改正」のなかに共産党の「目的遂行ノ為(ため)ニスル行為」(いわゆる目的遂行罪)を禁止するとの一節がありました。それを利用したのです。
1935年、共産党がファシズムに対抗するためにあらゆる勢力と協力共同しようとする戦術(「反ファシズム統一戦線」戦術)を打ち出しますが、これを利用したのです。
戦争に反対し、ファシズムを批判するものは、共産党の反ファシズム統一戦線実現という「目的」遂行に協力しているというむちゃくちゃな解釈をうみだし、それによって関係者を弾圧したのです
この年の11月には、京都で『世界文化』『学生評論』『土曜日』といった雑誌の関係者が検挙されます。12月には加藤勘十・黒田寿男、山川均・猪俣津南雄ら合法左翼の関係者が検挙され、翌38年になると大内兵衛、美濃部亮吉、宇野弘蔵ら労農派に学者や佐々木更三ら運動家も検挙されました。これを「人民戦線」事件といいます。
こうして共産主義者につづき、戦争やファシズムに反対する人々にも迫害が及びました。これに怯えた合法左翼の社会大衆党の主流派は「支那事変は日本民族の聖戦」として戦争協力をすすめ、党内の人民戦線派を排斥しました。
労働運動でも、全日本労働総同盟は「スト絶滅宣言」を発します。翌39年には政府の指導下に経営側と労働側双方が加入する「産業報国会」が発足、多くの労働組合が組織を解散して参加します。労働組合の存続をめざしていたグループも40年までに解散、11月には「全産業一体、事業一家、もって職分に奉公し、皇運を扶翼し奉る」との目的を掲げた大日本産業報国会に吸収され、6万団体、481万人を組織する強大な労使協調の組織となります。こうした組織のあり方が戦後の企業別組合につながったとの指摘もあります。
各地で小作争議を展開した日本農民組合も、小作農の組合ではなく「勤労農民全体の運動」として再出発することを宣言します。
リベラルな言論の舞台であった『中央公論』や『改造』などの総合雑誌の誌面も一変しました。
戦争反対の声はますます出しにくくされていきます。
「日本人ならぜいたくは出来ないはずだ!」
モボやモガが闊歩していた街角は一挙に変化しました。
「日本人ならぜいたくは出来ないはずだ」といった立て看板が立られます。
右の写真には「町常会の取り決めによりパーマネントのお方は町内の通行をご遠慮ください」という文字が見えます。もう一つの写真は、女性の袖の長さをはかっている様子です。
「華美な服装」「指輪などの装飾品」「パーマネント」をするような女性は「愛国心に欠ける」と考えられ、街角で警告書が手渡されます。もし口答えするものなら、居丈高に住所・氏名を聞くという具合でした。
街角の雰囲気は一変していきました。
警視庁による「学生狩り」
こうした「空気」は官憲によっても醸成されます。ターゲットとされたのは学生です。
同年代の若者が戦場に駆り出されているという事実が、彼らに対する「目」を厳しくしていました。警視庁は数日にわたって、町の盛り場で「学生狩り」を実施しました。曰く「現下の非常時局を認識せず学問を放擲して不良の行為にふけ」っているというのです。盛り場・麻雀倶楽部・映画館・撞球(ビリヤード)場・公園などにいた学生3486人を含む青少年7373人が検挙します。つかまった若者たちは、警察でこってりと脅されたのち、「改悛」の情をしめす誓約書を書かされ、翌朝になって一斉に「宮城遙拝」をしたのち、釈放されました。なかには翌日再び検挙された者もいたそうです。さすがに3日連続はなかったようですが。
このようにして、戦争による熱狂と取締、さらにメディアが報じる「愛国美談」「銃後美談」が、人々に「銃後の生き方」を強要しました。それに反する者は「非国民」としてさまざまな「圧力」がかけられました。「空気」はさらなる忖度と自粛を生み、相互監視は強化されました。人々はさらに萎縮します。
日中戦争は、洋装・洋食に代表されるモダニズムを、一挙に軍国色に変えました。
(4)巻き込まれた女性たち
女性の「社会進出」?
こうした動きの中心として動員されたのが女性でした。
女性たちは婦人会の一員として「兵隊さんは命がけ、私たちはたすき掛け」といった下手なスローガンを記したたすきを掛け、町に出て出征兵士を励まし、留守家族や戦没家族を慰労し、「非国民」に猛省を促し、「国民の士気」を鼓舞しました。
食糧を供給する中心となったのは出征している兵士の父母や嫁でした。未婚の女性は工場などの労働にも働きにでました。町内会・部落会などは主婦たちが中心に運営されました。
このことを、家の中に閉じ込もりがちであった女性たちが社会に出てきたととらえることもできます。女性参政権運動をすすめたきた市川房枝は、こうした動きが女性の政治的権利拡張につながると考え、戦争に協力の姿勢をみせました。
しかし、婦人の社会進出といっても、実際には「あらゆる決議・取り組みは男性が行い、命令を遂行するだけ」といった場合も多かったともいわれます。また街角での「警告」にみられるように、女性自身が、自由な女性の生き方を否定し、特定の「道徳」を強要するものでもありました。
「産めよ殖やせよ」~命を軽視する社会
日本が他の諸国と違うのが、女性兵士がほぼいなかったことです。
勤労動員も未婚の女性に限定されることがおおく、主婦はさけられました。背景には、女性は「家庭を守るもの」という軍隊や政府の意図があったといいます。
そのかわりに多くの子供を産み育てることが「軍国の母」の役割と考えていました。こうした姿勢は戦争末期まで続きました。
逆に無理してでも結婚を決め、勤労動員などを避けようとした人もいたといいます。
その裏返しとして女性に求められたのが「産めよ殖やせよ」という出産の奨励でした。
さきにみたように、日中戦争の初頭、中国戦線に送られたのは20代前半の現役兵ではなくて、20歳台後半から30歳代の予備役や後備役の兵士でした。この年齢は軍隊から帰ってきて、やっと結婚をし、子供を産み育てるもっとも中心になる年齢です。こうした人たちが、召集令状で呼び集められ、日頃訓練を組んでいる現役兵より先に中国戦線に投入されたのです。
この結果は、あまりにもはっきりしていました。日中戦争が始まった1937年の出生率は1000人に対し30.9人という出生率だったのが、翌38年には27.2人とおおきく減少したのです。このことは軍隊でも問題になり、計画的に新婚世代の兵士の復員をすすめました。
さらに戦争がすすむと、兵員の不足が問題となります。
すこし脱線しますが、戦争に記録を読んでいると、日本の軍隊が兵士の命をあまりにも粗末に扱っている事実を知って愕然とします。とくに太平洋戦争になって玉砕が相次ぐようになると、本当に人間を無駄死にさせています。合理性に欠ける白兵戦重視の作戦や負傷兵に対する扱いなどは典型的です。戦場のあり方の中に、当時の日本軍・日本社会の「生命への軽視」、とくに兵士、身分が低いと考えた人間の生命への差別意識を感じます。生命を奪い合う戦争で「人間の尊厳」というのも変ですが、当時の日本とアメリカでは明らかにその違いは大きかったと思われます。(とはいえ、兵士をモルモット扱いしたアトミックソルジャーの存在や、現在のイラク帰還兵などの扱いを見ると、当時の日本軍と同様のものも感じることもおおいのですが)せめて兵士の生死を「モノ扱い」するだけでも、合理的な損得勘定でいいからしてくれれば、はるかにマシだったのに・・とさえ思ってしまいます。
このように戦場では人間の命を虫けら同然に浪費しているにもかかわらず、出産を奨励し、将来の命すら奪おうとしたのです。
1941年、人口政策確立要項がつくられ、こうした政策が強力にすすめられます。そこでは結婚年齢を三歳早めること、一夫婦で五人のことどもを産み育てることを奨励し、多くの子どもを産み育てる家族を優秀家族として表彰しました。そうして生み育てた子を将来の兵隊としようというのでした。
早婚が奨励され、出征間近の若者とまだ幼い少女たちがバタバタと結婚をしました。戦場で傷ついた傷痍(しょうい)軍人との結婚が「愛国美談」として取り上げられました。
(5)銃後の憂い~社会制度の整備
応召兵たちの不安
戦場に連れ出されたのは、新婚早々の、あるいはこどもが生まれて間もない世代のひとたちでした。かれらは20代前半の現役兵とは意識の面で違いがありました。
妻子の事が、残してきた恋人のことが心配でたまらない、そうした世代でした。自分たちが軍隊にいる間の妻や子の生活はうまくいっているのだろうか、悪い男が現れたりしないだろうか、舅や姑との関係はどうだろうか、などなど。正式な婚姻関係にない内縁関係の場合はとくに心配です。また一家や村の大黒柱のものも多く出征していました。「心残り」だらけの兵士も多かったのです。
兵士たちは、銃後へのさまざまな不安を戦場に持ち込んでいたのです。
開戦直後、上海では比較的軍紀が守られていたのに、直後の南京攻略戦では一気に軍紀が乱れました。それは上海陥落で帰れるという期待が失望におわったことへの怒りを中国人に向けたからだともいわれます。
兵士たちの関心は「先ず第一に子どもの養育並びに妻子の生活確保であり、第二に両親の老後の生活安定」であったといいます。その背景には戦前の家族制度の問題、家長としての父親(祖父)の権限が圧倒的に強いことにありました。もし自分が戦死したなら、親たちが妻を離縁し、本来妻子が受け取るべき一時金・保険金・扶助料などを横領しないかといった心配も強かったといいます。当時の民法では、内縁の妻に法的な受給資格がないのも心配でした。また残された妻の「貞操」も心配でした。当時の『思想月報』には、出征中の妻の「不倫」や「駈落」、「痴漢」「不埒漢」が跡を絶たなかったことが記されています。
様々なトラブルが地域や家庭で発生したようです。そのいくつかは軍隊にも持ち込まれましたる。国内の憲兵隊は「家庭裁判所」の役割を果たしたといっています。
銃後の安心
こうした銃後のトラブルは士気にかかわる問題として国家の側も重視していました。軍は、こうしたトラブルが前線の兵士にとどかないように細心の注意を図る一方、さまざまな対策に追われました。
扶助をめぐるトラブルに対応するため新たな法律をつくります。内縁の妻や私生児にも扶助料の受給が認められます。戸主が戦死者の妻を一方的に離籍することも制限されました。女子にしか適用されない姦通罪を補うため、私通を試みる男性に「住居侵入罪」を適用し検挙しました。保険会社には戦死者への保険金を無条件で支払うよう圧力をかけました。
戦争は否応なく社会保障の充実を促し、戸主中心の家族制度に基本をおく民法体系を揺るがせる性格をもっていました。福祉制度にかかわる制度の多くが、この時期に始まったと指摘されています。
しかし、それは国民の生活向上や基本的人権という立場からでなく、優秀な兵士を、銃後の憂いもなく戦場に送り出す、こうした目的のためでもあったことを忘れてはいけないと思います。
(6)国民精神総動員運動
開戦直後の、1937(昭和12)年8月から国民精神総動員運動(「精動」)がはじまりました。政府はその目的を次のように発表しました。
挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時難ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼シ奉ル為官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス
「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の3つのスローガンのもとに心を一つにし、困難な時局にたちむおうというのです。ラジオ、音楽・演芸・映画など広範なメディアが動員され、地域・職場・家庭を巻き込んだ一大キャンペーンがおこなわれました。
興亜奉公日
毎月の1日は「興亜奉公日」として、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われました。前線の兵隊のことを思い、食事は一汁一菜とし、児童生徒の弁当も日の丸弁当とし、飲食・接客業も休業としました。
私の祖母は、それではかわいそうだと思って弁当におかずを入れたところ、学校で厳しくしかられたとのことです。
なお、米英戦争が始まると興亜奉公日にかわって、毎月8日が大詔奉戴日となり、内容はより軍国色が強くなりました。
「精動」の一環として、国民精神総動員強調週間なども不定期的に実施されました。また戦勝祝賀行事や出征兵士の歓送会、戦死・傷者の出迎えなども「精動」の一環でした。
こうした行事をつうじて、ひとびとは上からの指令を条件反射的に受け入れて行動するようになったといいます。そして同調しないものを許さない「空気」が広がりました。
国民動員と収奪の仕組み
「精動」は主に、
内務省・警察→町内会(都市)部落会(農村)→隣組→各家庭
というネットワークをもとにすすめられました。また「職場」、婦人会・青年会・少年団体といった団体も運動の一部に組み込まれ、網の目状に組織されました。そしてこの運動の中心的な担い手となったのが女性でした。
翌1938(昭和13)年になると、この運動は国民から戦費をむしり取る手段という面が強まります。家庭や職場では「冗費節約」と愛国公債の購入や戦時貯蓄が推奨されました。
さきの結城町でみた「町の変化」にはこうした影響もあったのです。
(つづく)
<戦時下の社会・目次とリンク>
はじめに
1,国民精神総動員運動<以上(1)>本稿
2,総動員体制の成立 <以上(2)>
3,大政翼賛会
4,対米英戦争の中で
おわりに <以上(3)>