戦時下の社会(3)アジア太平洋戦争の中で

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戦時下の社会(3)アジア太平洋戦争の中で

3,新体制運動と大政翼賛会

(1)新体制運動と大政翼賛会

1939年に入ると、下野していた近衛文麿を中心に、ナチス党に似た全体主義的国民政党を結成し、政治・社会・経済団体などあらゆる部門を糾合して、高度国防国家体制にふさわしい強力な国内体制樹立をめざそうという新体制運動が本格化しました。
近衛の本音としては、軍部の横車によって自分の思うような政治運営ができなかった体験を背景に、軍部にも対抗しうるような一大勢力を築き強力な指導力を獲得しようとしていたといわれます。
しかし、軍部はこの運動を三国同盟への参加に消極的な米内内閣を倒すことに利用、第2次近衛内閣が成立します。政党などは「バスに乗り遅れるな」「勝ち馬に乗り遅れるな」と次々にこれに参加、主導権争いを演じました。
こうした紆余曲折の末、1939年10月成立したのが大政翼賛会です。しかし、観念右翼ともいわれた勢力は、これは「幕府」のようなもので「国体に反する」と攻撃、近衛は動揺し「綱領も宣言も不要」の公事団体であり、政治活動もおこなわないなどと表明、いったい何をめざすのか分からないものとなってしまいました。昭和天皇が近衛を嫌いだった理由が分かりそうな気がします。

結局、当初のねらいは骨抜きとされ、官僚主導の政府の補助機関となったというのが一般的な評価です。
しかし、大政翼賛会成立への経過の中で、すべての政党が解党して合流、日本労働総同盟や日本農民組合などの組織も解散し「大日本産業報国会」「農業報国連盟」として、分裂していた婦人会を統合した大日本婦人会などとともにその傘下に加える巨大組織となりました。それを内閣総理大臣を総裁とし、府県や市町村ごとに支部をおくといった巨大な組織ができたことは、やはりおおきな意味を持っていました。

(2)町内会・部落会・隣組制度の整備

近衛らの当初の思惑とは異なり「羊頭狗肉」となった大政翼賛会ですが、この組織の重要性は「上意下達」の行政補助組織を市町村だけでなく町内会(都市)部落会(農村)さらに隣組という網の目を国民の末端までめぐらせて一戸一戸の世帯までを組織したことです。
国民精神総動員運動のなかで整備されてきた組織は、40年9月内務省の訓令によって完成します。こうして町内会・部落会、隣組は全国くまなく組織され、全世帯が強制的に加入させられました

こうした町内会などでは月一度の常会が開催されます。構成員全員が出席し、「宮城遙拝、皇軍の武運長久祈願および『英霊』への黙祷のあと、諸事項の伝達、協議・懇談にはい」りました。この時間にあわせ、ラジオは「常会の時間」を放送し、政府からの指示を伝えました。このように、メディアが統治の一環となりました。
こうして「国債の消化や貯蓄の目的額の達成、金属の回収、勤労奉仕、防空演習、兵士や遺骨の送迎、生活物資の配給、納税事務の一部など、日常生活にかかわる様々な業務が、隣保組織単位で実行」されます。
「これらの行事は、毎月一回の定例集会である常会の場で伝達され、日常の連絡は回覧板を通じて」おこなわれました。
常会では申し合わせが行われましたが、違反者には制裁が加えられることも少なくなく、申し合わせは強制力として働き、民衆はそれを離れて日常生活を営むことは困難」でした。
このしくみは行政にとっては非常に使い勝手の良いものであったため、上から降りてくる業務が激増、その地位も高まり、補助金などもでました。
こうして部落会長・町内会長・隣組長などのもつ権限が増大、活動に消極的であったり組長の意にそわない家庭は配給などで差別的扱いをするなど、パワハラときにはセクハラをも引き起こしました。北河賢一は「権力は一面ではこうした末端の『小役人』をたくみに利用して、官僚的支配の目を広げていった」とのべています。
 引用は北河賢三「総動員法の時代」(岩波ブックレット)。

(3)思想・文化統制の強化

言論・思想統制はいっそう強化されます。

1940年、これまでの内閣情報部が情報局に格上げされ、情報の収集と報道・宣伝、言論・文化の統制を担当しました。
軍機保護法の改正と国防保安法が制定され、「スパイ防止」との名目で言論の自由などはさらに抑圧され、死刑や無期懲役などの厳罰も導入されます。ゾルゲ事件にかかわったゾルゲと尾崎秀実はこの法律で処刑されました。
治安維持法も全面改「正」され、犯罪の要件を満たしていなくとも拘留できるという予防拘禁制度も導入されました。
実際、41年12月、対米英戦争開始の翌日、「非常措置」と称して社会主義者や在日朝鮮人約340人が検挙され、そのうちの約150人が予防拘禁されました。
開戦当日、情報局は雑誌関係者に「政府や軍部の措置を『誹謗』し国論不統一をもたら」したり「反戦・平和などの機運を助長する」記事は厳しく禁止すると伝え、12月19日には「造言蜚語」や「人心惑乱」などは厳罰に処すとの法律を制定します。政治結社や集会も許可制となります。生活必需品の買い占め売り惜しみなども厳罰化され、経済警察が目を光らせました。
こうして「安寧秩序」「造言蜚語」「人心惑乱」などの名のもとに自由と権利は奪われ、当局の恣意的な法律運用によって威嚇される体制がいっそう強まりました。

4,アジア太平洋戦争のなかで

(1)日本軍とアメリカ軍

「太平洋戦争」という名前とむすびついて理解されがちの統制や困難ですが、実際はそれ以前の段階で始まっていたことがわかります。
しかし41年12月以後はやはり大きな変化がありました。戦争の質がおおきく変わりました

それまでの戦争は、軍事力や工業力で優勢な日本軍にたいし、圧倒的な人口と広い国土、侵略に対して国土と民族を守るナショナリズムを背景にする中国側が、ゲリラ戦という「非対称」の戦闘もまじえながら戦う戦争でした。日本側からすれば、ストレスのたまる戦争でした。「戦争」とさえ言わせてもらえませんでした。
これと比べ、アメリカとの戦争は「戦争らしい戦争」だったかもしれません。開戦の知らせをきいてすかっとしたという感想を述べる人が多かったのは、こうしたところからもきていました。
アメリカとの戦争はまったく違いました。世界最大の工業力と巨大な軍事力をもつアメリカは、最新兵器を大量につぎつぎと投入しました。補給を重視した合理的な戦略・戦術と、民主主義に裏付けられた主体性が兵士の戦闘能力も高めていました。さらにいえば、闇討ちといわれても仕方のない真珠湾攻撃が日本への怒りをかき立てました。
日露戦争以来の旧式の装備を使用し、経験主義と精神主義、攻勢一辺倒の戦術、補給を軽視した現地調達主義、兵士の主体性を認めず一方的な命令と捕虜になることを禁止し軍隊内の暴力・私刑が兵を強くすると考える軍隊とは、比べものになりませんでした。
アメリカ兵は、日本の兵士の戦場での「勇敢さ」と捕虜になったさいの「口の軽さ」のギャップに驚きをみせました。日本は、海軍の航空機の利用法などにみせた戦術面の非凡さを戦略レベルまで高められませんでした。
両軍の差は、軍の問題だけでなく近代化のゆがみも大きくかかわっていました。

(2)物資の獲得が開戦の理由だったのに・・

アメリカとの戦争は、最大の原材料供給国と戦争をすることでした。開戦はその原材料が入手できなくなったからでした
アメリカとたたかうには、新たな資源の供給先と必要です。そこで注目されたのが東南アジア諸国、とくに蘭領インド(現インドネシア)でした。ここは大量の石油が採掘できます。英領マラヤ(現マレーシア)ではスズやゴムなどがとれます。こうした地域に関心を強めること自体、アメリカやイギリスのさらなる警戒心を増すことでした。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結んだことは東南アジアにある欧米の植民地への野望のあらわれと考えました
そうしたなかで実施された、1941年7月、現在のホーチミン市(旧サイゴン)を中心とする南部仏印(現ベトナム)への進駐は警戒心を確信に変えました。この地は米領フィリピン、蘭領インド、英領マラヤとほぼ等距離という東南アジアの核心部にあります。
アメリカは「ある種の覚悟」をきめ、それまでの経済制裁に加え、対外資産の凍結と石油禁輸政策にふみきります。
こうした反応は当然予想できたはずでした。そのことさえ理解できない人々が政治が動かしていたのです。
日本が選んだ道は、米英蘭と戦争をして東南アジアに進出、その地の天然資源を獲得、「自存自衛」体制を確立することでした。
その前提条件を確認しておきましょう。
それは、手に入れた資源を日本に運ぶことです、そのためには大量の船が必要であり、海上輸送ルート(「シーレーン」)を守るだけの軍事的裏付けが必要ということです。
軍人たちはこのことをまったく理解しませんでした。
多くの資源を国外に頼る日本は海上ルートを絶たれることが致命傷となります。にもかかわらず海軍は艦隊決戦主義を唱え、輸送の確保という本来の役割を果たそうとしませんでした。
輸送という地味な問題は軽視されつづけました。
アメリカはこの点を衝きました。

(3)物資の枯渇

輸送船の消耗
戦争が始まると、軍は前線への兵士と武器弾薬の輸送のために、物資輸送に用いるべき民間の輸送船をつぎつぎと接収、護衛も不十分なまま戦場に投入、多くを失いました。
物資輸送にもちいる輸送船は早い時期すでに不足しはじめました。
さらに戦局が悪化し、制海権・制空権を失うと、輸送船は潜水艦や戦闘機の格好の標的とされ、つぎつぎと失われていきました。

輸送ルートの寸断と鉱工業生産力の低下

海上輸送に頼った供給が困難となることもあって、日中戦争開始以後、増加しつつあった鉱工業生産力は下降線をたどりはじめます。
わずかに残された資源は、さらに兵器生産に向けられました。兵器生産がピークとなるのは1944年のことです。
全体の生産力が低下している一方、武器生産に資源を集中する。国民生活はいっそう苦しくなりました。このずれは対米英戦争が国民生活を犠牲にした事実を示しています。

忠犬ハチ公と飼い犬たちの「出征」
資源不足は人々のまわりから、いろいろなものを奪っていきます。
各学校にあった「二宮金次郎」の銅像が、渋谷駅前の「忠犬ハチ公」が、村の梵鐘が、次々と「出征」をしていきます。
飼い犬も兵士の防寒具の毛皮の材料として「出征」させられました。

(4)配給制度と闇物資

配給の劣化
国民生活はさらに窮乏します。1人あたり一日二合三勺の配給されるはずの米には麦や芋、大豆粕などが混じりはじめました。43年からは代用食としてジャガイモ・小麦・大豆などが配給されるようになります。たまに配給される米は玄米にかわりました。映画などで一升瓶に米を入れて棒で突いているのは配給で玄米が配られるようになったからです。玄米の方がみかけの量が増えるからです。
代用食でも配給されればいい方で、戦局が悪化するにつれて遅配欠配が目立つようになります。

「決戦食生活工夫」と臨時農園
雑誌では「決戦食生活工夫」といった特集がなされ、野菜の皮の調理法や食べられる野草や昆虫などの記事が見られるようになります。また少しでも土地があれば臨時農園にするといった工夫もなされます。

「雑炊食堂」配給は外食にも及び、外食券を持たないと食事も出来ず、44年には僅かな米に大根の葉やイモのかけらなどを代用醤油で煮込んだものを提供する雑炊食堂が現れます。

生存線以下のカロリー摂取量!
弁当を持っていけない欠食児童が増え、44年の公式配給栄養量でも1日1400カロリーの生存線以下となり、小学生の体重は37年から45年の間で約一割減少しました。国民全体が深刻な栄養失調状態でした。
衣料はさらに厳しく、購入量は日中戦争以前の7.4%となり44年には靴下は1年に一足、パンツは13人に一枚しか買えない状態になってしまいました。

ヤミの横行
こうして、ひとびとはいっそう闇取引や物々交換に頼らざるを得なくなります。
米の闇値は43年12月は公定価格の6倍程度でしたが、45年7月には70倍に、衣料品では4.5倍から39.5倍に、砂糖は22.7倍から241倍へと高騰、砂糖や石けんは簡単には手に入らない商品になりました。

もはや心がけの問題ではなくなった・・
「日本人ならぜいたくはできないはずだ」だった標語は、「贅沢は敵だ」を経て、「欲しがりません勝つまでは」と変わりました。
もはや心がけの問題でも、贅沢でもありません。食べ物がない、衣料品がない、飢えで苦しんでいても勝つためには我慢せねばならない、こうした状態になってきたことを示していました。
「ぜいたくは敵だ」の立て看板に「素」という文字を書き込んで「ぜいたくは素敵だ」としたというエピソードがあります。ぜいたくをしたくてもできない時代になっていたのです。

「馬鹿者のみが行列に立つ」
世の中は星に碇に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」という怒りの声が流れていました。「星」は陸軍、「碇」は海軍、「顔」とは「顔役」つまり役人や町内会長や隣組長など。「闇」物資も買えない「馬鹿者」だけが、配給を求める長い行列に並ぶという皮肉たっぷりの内容です。戦時下の矛盾にたいする国民の怒りも次第に高まってきたことを示しています。
「馬鹿者」たちは食糧を求めて、闇市を歩き回り、農村に買い出しや物々交換にでかけました。

農民のやる気をとりもどすには・・
農家も公定価格では供出意欲を失ないます。
そこで政府は米価を上昇させ生産農家を疲弊させる高額小作料を制限し、消費者米価よりも生産者米価を引き上げるといった方法をとって生産者(=小作農)保護政策をすすめます。
こうして農村における地主の力は弱まり、食糧増産の中核となる自作農育成政策が進んでいきました。
こうして戦時下に後の農地改革の基礎が作られていきました。

吉田裕はこの時期を「戦時体制の強化と国民生活の窮乏化」が併存して進んだとまとめています。
しだいに厭戦気分も広がっていきました。

(5)戦況の悪化と兵役の拡大

無謀な作戦で消耗される兵士たち
アメリカなどとの戦争と同時に、兵力は太平洋一帯さらには東南アジアにも展開していきます。その一方でで中国での戦いもこれまで通りつづき、約100万人の兵力がそこにいました。
太平洋の戦場では無謀な精神主義と思いつきとしか思えないような生命軽視の戦術がくりかえされ、さらに捕虜になることを禁じるという非人間的なルールや補給の軽視は、多くの兵士たちが無惨に、無駄に、殺しました。
兵力は不足し、男たちは次々と出征させられます。

虚弱者や知的障害者も戦場へ
戦前の1935年、徴兵検査を受けた20歳の若者のうち現役兵として徴募されたのは同世代の5人に1人でした。兵士に最適とされた甲種合格であった若者さえも、抽選で合格したものしか兵役にいくことはありませんでした。
ところが日中戦争がすすんだ1940年には2人に1人となり、終戦の年には4人のうち3人、75%のものが兵役にいくことになります。虚弱体質や病弱者も含まれ、さらに知的な障害をもつものさえも徴兵されました。

徴兵年齢の引き下げ
1943年には徴兵検査の年齢も19歳へと引き下げられ、17歳の少年さえもが志願兵として戦場に送られます。

植民地げの兵役導入
植民地であった朝鮮人や台湾人も兵役が課されるようになりました。
すでに、1938年には朝鮮で特別志願兵制が導入されていましたが、1942年には台湾でも導入されます。
特別志願兵といっても、京都の立命館大学が朝鮮からの留学生全員に志願を求め、応じなかったものを除籍にしたことからもわかるように、強制という性格をもっていました。
他方、忠誠心の問題や言葉の問題、さらにこれを認めた場合植民地での参政権も認めなければならないのではないかといった政治的配慮から徴兵制の導入は検討がつづいていましたが、兵力不足がつづくなか、ついに1944年には朝鮮で、45年には台湾でも徴兵制が導入されることになりました。
その裏返しとして、植民地での選挙の実施も決まりました。(実際には実施されていませんでしたが・・)

国民義勇兵役制
1945年5月沖縄戦が始まり、本土決戦が近づいたと考えた政府・軍部は男子15~60歳女子17~40歳の全員を対象とする国民義勇兵制度を開始、大日本婦人会・産業報国会なども解散し、これに一本化しました。
しかし持たせるべき武器もなく、竹槍や出刃包丁などで「武装」するといったありさまでした。

(6)徴用の拡大

国民徴用令改正
軒並み動員が本格化すると、労働力不足はさらに深刻化します。43年7月の国民徴用令改正の結果、徴用の対象は12歳から60歳までの男子、12歳から40歳までの女子と広げられます。

学徒勤労総員の義務化と授業停止
日中戦争の当初は社会教育、つぎには休み中のボランティアというふうに強化された学徒勤労動員は、ついに義務化されます。
1944年3月からは中等学校や女学校では授業が停止され工場などでの労働が義務化されました
その数は終戦直前の1945年7月で約343万人にも上りました。作業の合間を見て学習に励んだものがいた反面、工員との対立、非行や風紀頽廃などさまざまな問題も発生していました。

女子挺身隊の義務化
男子の多くが徴兵されたため、女子労働力の動員も強化され、1944年には未婚の女性でつくる女子挺身隊が義務化され、仕事先は軍需工場や鉄道などへと拡大されました。一部の職種では男性の就業が禁止され女子にその席を譲りました。

朝鮮半島からの「強制連行」の強化
朝鮮半島からの労働者の数もますます増加し、その集め方はさらに強制の性格を強めます。
こうして1939年以来、政府の政策によって連れてこられた朝鮮人労働者の総数は120万人を超えました。(国史大辞典・姜徳相による)
炭鉱や鉱山で働くほか、陣地構築や地下工場建設などにも動員されました、沖縄戦では戦闘に巻き込まれて命を失った人も多くいました。

中国征服地からも
さらに労働力不足に対処するため、1942年以降、中国占領地から約4万人もの人々が連れてこられ、7000人弱の人々が死亡しました。とくに、45年6月秋田県の花岡鉱山では過酷な労働に反発した中国人労働者約1000人が暴動をおこし多数の中国人が虐殺される事件も発生しています。(国史大辞典・臼井勝美による)

(7)国民生活の破壊

本土も爆撃圏へ
1944年になると日本の敗勢は明らかになり始めました。
輸送船は次々と沈められ、物資不足はさらに深刻になります。
さらにこの年6月サイパン島が陥落すると、日本列島はアメリカの最新鋭爆撃機B29の爆撃圏にはいります。

海軍の壊滅
また6月のマリアナ沖海戦に引き続く10月のレイテ沖海戦で日本海軍はほぼ壊滅、海上輸送のルートは寸断されました。輸送船の乗員の死亡率は、陸海軍の死亡者よりはるかに高いものでした。

精密爆撃から無差別爆撃へ
1945年に入ると、アメリカ空軍はそれまでの精密爆撃という国際法に則った攻撃をやめ、無差別爆撃=非戦闘員に対する攻撃という明らかに戦争犯罪に該当する攻撃を開始しました。その第一回目が3月10日の東京大空襲でした。

ナンセンスな防空演習
政府は早い時期からアメリカ爆撃機による空襲を想定し、防空演習を繰り返していました。
しかしそれは爆撃によって生じた火災を火たたきやバケツリレーで消し止めるという現実から遊離したものでした。
こうした指示が空襲の被害を拡大しました。

建物強制疎開と灯火管制
また住宅が密集した都心部では空襲による延焼を避けるための消火帯をつくるべく、建物を強制的に撤去する建物の強制疎開なども行われ、学徒勤労動員の生徒たちも動員して取り壊しが行われました。そうした建物の持主への保障も僅かなものでしかありませんでした。
家庭の灯りがもれると空襲の目標となるとの考え、電灯のまわりを黒い布で覆うなどの灯火管制もはやくから行われ、町は暗闇に覆われました。

学童疎開の実施
1943年12月には、予想される空襲の消火などの足手まといになるとして、学童疎開がはじまります。
当初は地方の親類知人に子供を預ける縁故疎開が推奨されましたが、そうした相手先を見つけることも難しく、44年夏以降は学校ごとに集団で子供たちを疎開させる集団疎開が始まりました。
受け入れた地域では、子供たちに支給される質素な食事などさえ自分たちへの配給より優遇されていると感じられることもあるなど、トラブルも絶えませんでした。

地上戦がたたかわれた沖縄
45年3月末、沖縄に米軍が上陸、地上戦がたたかわれ、本島の広い地域が焦土と化し、県民の1/4が死亡しました。

空襲の深刻化と原爆、戦争の終了

沖縄戦の間、ややおさまっていた空襲は沖縄陥落後はよりいっそう激しさをまし、空襲は大都市から地方都市へと広がります。
艦砲射撃や艦載機による機銃掃射などもはじまり、国内も戦場の様相を呈しはじめました。
連日の空襲によって人々は睡眠不足が続きます。そうした中を勤労動員に通うという毎日が続きました。
8月には広島・長崎へ原爆が投下されました。
こうした状況の中、8月10日日本政府は降伏の意思を連合国側に伝え、15日天皇がラジオを通じて戦争終結を伝えました。

おわりに~戦後への展望

1937年7月の盧溝橋事件に始まった日中全面戦争とそれにつづくアジア太平洋戦争は「それまでの日本」を根底から破壊しました。
多くの命が失われました。
多くの都市が、生活が破壊され、地上戦が行われた沖縄は文字通り焦土と化しました。戦争は多くのものを破壊しました。
しかし「破壊」は外から行われただけではありませんでした。
「戦争に勝利しなければならない」という国家的要請はおそるべき「破壊力」を持っていました。

解体された軽工業
軽工業は不要不急の産業とみなされ、工場は奪われて軍需工場となり、機械は金物回収の対象となりました。米軍が軍事工場を目標とした精密爆撃から都市無差別爆撃へと方針をかえたことは、重工業よりも軽工業の被害を大きくしました。

国家に従属させられた重工業
重工業の育成は国家的な要請であり、資本家(多くは財閥家族)たちも、その命令に従わざるを得ず、その力は削がれ、かわって国家の意志を体現する官僚たちの力が増しました。

不要な存在となった地主
配給の実施と食糧増産との国家要請は、農民たちに寄生して収益を得ていた地主たちを事実上不要な存在とみなす流れを作りました。

家族制度のあり方の変化
兵士の留守家族・妻子の保護、女子の各界への進出、こうしたものは、戸主中心の家族制度との矛盾をみせました。

生活給と社会保障制度
徴用された労働者の家族の生活保障をどうするかという問題は生活給というあらたな給与体制を必要としました。戦争遂行の必要が社会保障をすすめた側面もありました。

破壊された戦前の日本のありかた
こうして戦前の日本の基礎をなしてきたと考えられる諸制度、地主制・財閥中心の経済・戸主中心の家族制度などは、戦時体制にとって時代遅れで邪魔な存在となりました

日本経済の中心であった繊維業を中心とする軽工業は戦時体制のなかで破壊され、手厚い援助をうけた重工業優位の体制が作られました。

戦時下の諸改革が戦後日本の原点であるという言い方もできそうです。
しかし、戦中の体制がそのまま引き継がれたと単純にいえるものではありません。

いっそう苦しくなった人々の生活
戦後になって、人々の生活はさらに厳しくなりました。その背景には占領政策もかかわっています。
アメリカの占領政策と生活苦
軽工業の多くが戦時経済と空襲によって破壊され立ち直りが困難であった一方で、比較的被害が小さかった重化学工業の多くは軍国主義につながるとして操業が停止されました。貿易も停止されます。いわば手足をもぎ取られた中での復興でした。
さらに政府歳入の約1/3がアメリカなどの占領経費としても散られました。
「戦争遂行」から「復興」への看板の掛け替え
政府と官僚は、これまでの「戦争遂行」の看板を「日本復興」に付け替え、戦時下の統制経済の多くを引き継ぎました
そして総力戦下ですすんだ動きを、占領軍、さらには急速に力を持ち出してきた民衆の運動と、ときには協力し、ときには対立しながら、推進していきます。
農地解放、財閥(家族)解体などが実現し、明治憲法に変わる新憲法が制定されました。
ちゃっかりと官僚の多くはその権限をさらに拡大していたのですが。

「お国のため」よりも、生活や欲望を優先する社会に
「お国のために」というたてまえが消えたなかで、配給制度などの統制経済を維持することは多くの困難がありました。

ヤミ市はいっそう盛んになっていました。普通では手に入らないものがそこにはあふれていました。自分たちの着物と引き換えに食糧も、戦争中は決して手にすることのできかった書物も、手に入れられました。自分の才覚を働かすことで生きて行けることに気づきました。
敗戦は「お国のために」といった考えの虚妄を白日の下にさらしました。
国家よりも自分の生活や考えを優先することの方が正しい、欲望のままに生きることもありだと、考え始めました。
そこにはそれまでにないさまざまな自由がありました。

そして、戦後日本が生まれる!
こうした人々の思い、総力戦体制のなかで進んだ動き、軍国主義を排除すべきとの世界の人々の願い、冷戦へとむかいつつあるアメリカとソ連、こうした様々な要素が絡み合い戦後の日本社会が形作られたのです。

<戦時下の社会・目次とリンク>
はじめに
1,国民精神総動員運動<以上(1)
2,総動員体制の成立以上(2)
3,大政翼賛会
4,対米英戦争の中で
おわりに
参考文献<以上(3)>本稿

<参考文献>

※はおもに図版を利用したもの
◎はおもに表・グラフ作成で利用したもの

吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)
三國一郎「船中用語集」 (岩波新書)
江口圭一「昭和の歴史・二つの大戦」(小学館)
大江志乃夫「昭和の歴史・天皇の軍隊」(小学館)
藤原彰「昭和の歴史・日中全面戦争」(小学館)
木坂順一郎「昭和の歴史・太平洋戦争」(小学館)
森武麿「アジア・太平洋戦争」(集英社)
北河賢三「総動員法の時代」(岩波ブックレット)
吉見義明「草の根のファシズム」(東大出版会)
山之内靖「総力戦体制論」(ちくま文庫)
『岩波講座・日本歴史19・20』(岩波書店‘76)◎
『国史大辞典』(2020年2月10日参照)

立命館大学国際平和ミュージアム「常設展示詳細解説」※◎
「週刊朝日百科・日本歴史」(朝日新聞社)※
内川芳美編『ドキュメント昭和史』 ③④⑤ (平凡社)
武田晴人「日本経済史」(有斐閣)◎
高校日本史(帝国書院・山川出版社・浜島書店)の図録教材※

 

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