明治初年の変革 明治維新と文明開化(2)


Contents

明治初年の変革~明治維新と文明開化(2)

明治維新と文明開化
1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出

Ⅳ、廃藩置県=中央集権国家への道

1,日本史上最大の変革

明治維新で最も重要な変革が廃藩置県であることに異をはさむ人は少ないと思います。日本史上、これに匹敵するだけの出来事としては敗戦と戦後改革くらいしかおもいつきません。
たしかに大政奉還王政復古も重大な事件ではありました。しかし、実際には京都のほんの一部、御所や二条城の中でおこった政変にしか過ぎませんでした。これに対して、廃藩置県は日本に住んでいるほぼすべての人の生活に影響を与える「革命的」なできごとでした。
300弱の藩と幕領・旗本領・寺社領・禁裏領などに細かく区分され、かなりの自主性を認められていた小「独立国」を廃止、新政府の命令一下、統一して動く国家に変えたのです。日本を、地方分権体制から中央集権体制に変えた、これが廃藩置県です。
フランスやドイツで100年以上かかって実現した変革を、わずか一日で実施したのです。
ちなみにドイツが長く続いた分裂状態を脱却し、ドイツ帝国を樹立したのも日本と同じ1871年、イタリアの国家統一もこの時期です。
第二次大戦の主要枢軸国が同時期に国家統一を実現したのです。

2,版籍奉還

鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争は悪化の一途をたどっていた各藩の財政を直撃し、破綻状態としました。さらに戦争に参加した下級武士などが政府の後押しもあって藩政に参加、家老の廃止など新政府のガイドラインにもとづく改革をすすめます。
こうした中、1869年実施されたのが版籍奉還です。諸大名が持つ「版(図)」=土地、「(戸)籍」=人民は「天皇のもの」とされ、大名はそれを預かる知藩事という地方役人となります
藩主は「知藩事」という役人として、政府の命に応じる義務が生じ、「藩」も、幕領をもとにしておかれた直轄地「府」「県」とならぶ地方行政単位となりました。知藩事(=旧藩主)が更迭される事態も生じます。
ちなみに「藩」という言葉が正式に用いられるようになったのは明治に入ってからです。
家臣との主従関係も解消されます
木戸孝允が、長州藩主毛利敬親に版籍奉還を上申するよう説得に行ったとき、敬親が木戸に「これでおまえは私の家臣ではなくなるのだな」と述べ、木戸は無言で涙を流し続けたというエピソードが残っています。こうして、各藩士は「○○藩貫属士族」という位置づけとなります。
とはいえ、藩の区域はこれまで同様、名前が変わったもののお城には藩主が住んでおり、住んでいる人間もかわらない。したがって版籍奉還の影響力も限定的にならざるを得ませんでした。

3,廃藩置県の強行

戊辰戦争が終結し、版籍奉還が実施されても政治・社会の混乱は収まらず、いっそうに深刻化、士族の反乱や農民暴動が激化が頻発、両者が結合するという最悪の可能性も生じており、各藩に対応する力はありませんでした。
戊辰戦争に敗れ転封や減封を強いられた藩を中心に財政破綻する藩が続出、「廃藩」を申し出てきます。
他方、高知・和歌山といった有力藩は、士族の廃止さえ展望に入れた急進的な改革を開始、政府が後追いにならざるを得ない事態が生じました。
これに対し成立以来とってきた新政府による公議政体論(雄藩連合)の枠組みは機能しているとはいえず、保守的な勢力のよりどころとして急進的な改革の進行を妨げる面がありました。
新政府は崩壊の危機に立っていました。
こうしたなか、薩摩と長州両藩出身のリーダーが、土佐や肥前出身者にすら相談することなく、強行したのが廃藩置県のクーデタでした。
当初は消極的であった大久保利通も「手をこまねいて瓦解するくらいなら」と決行を決意します。強く反対しそうに思われた西郷は積極的に協力することを表明、反対するものがいれば新たに編成された御親兵を率いて鎮圧するとさえいいました。

4,廃藩置県

廃藩置県の命を受けて、知藩事(=元「藩主」)はすべて解任され、東京転居が命じられます。
「藩」という組織は廃止され「県」となります。当初は「藩」が「県」に名前を変えただけにみえました。しかし、半年後、302もあった「県」は72に統合、さらに統合がすすみ、現在の形へとなっていきます。

ちなみに県名と県庁所在地の関係をみるとおもしろい関係があります。城下町に県庁所在地がおかれた県で、県名とその町の名が一致している場合、その大部分が新政府に協力的であった藩です。(例:鹿児島・山口・佐賀など)逆に両者が一致しない場合、そこは政府が協力的でなかったと見なされた藩であったことが多いのです。(例:愛知・宮城・石川など)

各県には中央から県令が派遣されてきました。県令は基本的に地元出身者を避けます。県令は、かつての藩主以上の権限を持ち、多くは強圧的に改革を進めていきます。
唯一、自藩出身者が県令となったのが鹿児島です。この結果、鹿児島県は薩摩以来の半独立国的性格を持ち続けます。長州出身の木戸はこうしたやり方に強く抗議し続けました。
こうして中央の命令や意向が地方にとどきやすくなりました。中央集権化がすすんだのです。

5,廃藩置県の定着

指導者の緊張にもかかわらず、実際の廃藩置県は拍子抜けするほど平穏にすすみました。
抵抗の中心になると考えられたかつての藩主は「華族」という身分と多額の収入(かつての藩収入の1/10ないし1/20)を手に東京に移り住みました。カネと名誉を手に入れ、改革に伴ういざこざから自由になる、こんな幸せなことはないのでしょう。
なお、旧藩主とはいえませんが、憤懣やるかたない思いを抱いた人物がいます。薩摩の国父・島津久光です。廃藩置県を知った夜、かれは、錦江湾に船を出させ、一晩中花火を上げ、鬱憤をはらしたといいます。その怒りは、大久保や西郷が自分をだましたと考えました。
廃藩置県は、今風にいえば「会社」が整理されたことに似ています。「従業員」は「年金」(=秩禄)をもらい解雇されました。能力がある人は新しい会社に「再就職」できましたが、多くはあらたな働き口を探さざるを得ませんでした。しかし、数も多く、これといった技能のないひと、多くの「条件」をつけるひとも多く、なかなかうまくいきませんでした。ただ仕事が見つからないといっても、退職金だけで悠々自適の生活を行える一握りの武士と、没落の一途をたどる多くの士族がいました。
また政府からすれば、士族に給付する「年金」の財政負担解消が課題となり、1876年一時金がわりに公債を渡す形でこれを廃止しました(秩禄処分)
武士たちが、明治になってどのような状態となり、どのように新しい社会に参加していったか、別稿で詳細に論じました。

住民にとってみれば、藩の領域がそのまま県となったので、名前が変わっただけともみえましたが、しかし県の統合がすすむと、事態がそんなに容易でないことを思い知ります。
県令という「よそ者」が乗り込んできて、中央(「薩長」政府と考えた人も多かったのですが)の威をかり、伝統やルールを無視した政策を強行します。藩政時代をなつかしみ、藩主の復帰を求める声も起こりました。

一方、中央からすれば、その命令が全国に伝わりやすくなったため、改革は一挙に加速しました。
中央政府も、有力諸藩の顔色をうかがうことや、諸藩のバランスなどを考慮する必要もなくなり、能力主義がすすみます。藩の存在を前提とした幕末以来の有力な政治理論・公議政体論は成り立たなくなり、薩長土肥の藩閥政治がすすみました。

廃藩置県は、藩という小さな国や地域に分断され、その枠の中で、生き、働き、考え、死んでいくという江戸時代の枠組み、「ヨコ(地域)のカベ」を解体しました。こうして日本という国民国家を作り出す基盤を作ることになります。

Ⅴ、「四民平等」~「国民」の形成へ

1,身分制の世界

日本列島に生きている人間が、自分たちを同じ「日本」の一員であると考える前提の一つが廃藩置県によって実現しました。
しかし、すでにみたように身分制というもう一つのカベがありました。
江戸時代、人々は身分によって一定の社会的役割が与えられ、それにともなう義務を負います。百姓は年貢を納め、町人は流通を維持し町人役を負担し、被差別身分の「かわた(えた)」身分は皮革を生産・加工し、下級役人として奉仕する義務を負います。他方、それに対応するように、それぞれの身分は特権を受け取りました。百姓は「平和」に生き「仁政」の恩恵をうけ、かわた身分の人は斃牛馬を無償でうけとり、それを処理する権利を受け取るというように。
他方、政治や軍事は「(武)士」の役割なので、百姓や町人が口を出すのは分をわきまえない行為として叱責の対象となり、こうした問題には「客分」であることが求められました。

このように江戸時代は身分・地位・家柄・家格・立場・役割そして、性別といった様々な違い、広義の「身分」をよくわきまえ、それぞれの定められた「分をわきまえて」行動することが求められた社会でした。
こうした生き方が人間らしい生き方に反するのはいうまでもないでしょう。「自由」に人間らしく生きたいという思いはつねに存在しました。近松門左衛門の心中物などは、身分制度のカベに引き裂かれようとする人間らしい生き方=恋愛を「心中」によって乗り越えようとしたものともいえます。
このような時代を生きてきた人が、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と記した福沢諭吉の『学問のすゝめ』を読んだ衝撃はおおきかったといえるでしょう。

2,身分制を乗り越えようとする動き

身分制からの解放をめざす動きは江戸末期に近づくにつれて強まります。
国学や水戸学といった学問は身分の枠組みを超え、有力な百姓・町人の間にも広がり、百姓や町人も私塾や道場などに通いはじめます。一部の藩校などは有力農民などにも一部開放されはじめます。武士の「株」がなかば公然とやりとりされます。(幕末活躍した武士の多くがこうしたルートで武士となった人々の子孫であったことは興味深いことです。)こうして身分制のカベは低くなっていきます。身分を超えた能力主義も当然視され始めます。
そして幕末には、かれらの上昇志向と日本が直面しつつある危機意識と屈辱感がないまぜになって、「分をわきまえない」下級武士・豪農・町人たちが次々と草莽の志士として登場、天下国家を論じ、行動します。
武士になることに憧れた豪農の子弟らの中から新撰組が生まれ、奇兵隊や農兵隊に農民をはじめさまざまな身分の者が参加し、参加させられました。
幕末の動乱の背景には、身分制のカベを打ち破ろうとした熱情が潜んでいました。

3,四民平等と部落問題の発生

「天地の秤にかけて人民に上下の別なきを示す図」

明治時代になると、「四民平等」ということばが語られます。
居住・職業選択・婚姻といった身分制的な制限が廃止され、大多数の人々は「平民」と位置づけられました
しかし身分制が完全に廃止されたわけではありません。天皇一族は皇族として、公家とかつての大名は華族という新たな身分に、そして武士の大部分は士族という身分に位置づけられました。
しかし士族の特権は次々と剥奪され、残ったのは族称のみとなっていきます。

<「解放令」と部落問題の発生>

「解放令」明治4年8月、太政官は、えたひにんなどの呼び方を廃止し、以後は身分職業とも平民同様とすることを命じた。

四民平等という政策の中、かわた(えた)身分、ひにん身分などとしてきびしい差別のなかにいた人たちも、平民として職業や居住の自由を手に入れました。(いわゆる「解放令」)。
散在して生きることが多かったひにん身分の人たちの多くは、これをきっかけに平民のなかに姿を消しますが、集まって暮らしていたかわた身分の人たちはそうはいきません。
地域の中に存在していた差別をそのままにしたまま農工商とともに平民となったのです。
他の身分の中からは、自分たちが「かわた」身分におとされたと考えた人もいました。解放令反対一揆がおこり、かわた村を襲撃したり、解放令は繰り延べになったとの命令を出させようとした事件も起こりました。

身分から「自由」になったということは、身分的な特権を失う事でもありました。
かわた身分の人々は斃牛馬を無償で受け取る権利や皮革生産の独占権も失います。差別につながるからといって自らの意志で皮革業を拒否した村もありました。
しかし所有していた田畑は狭く、原料の獲得も困難となる一方、独占的な生産・販売権も失ったことで、その生活は江戸時代にまして厳しいものとなりました。村には貧困と半失業者があふれ、そのことが新たな差別の原因にもなりました。
このように江戸時代の身分制における差別が近代に持ち越された、それに近代・資本主義の競争原理や「没落の自由」などが持ち込まれ、貧困などが集中したことでさらなる差別を引き起こした社会問題、これが部落問題です。

4,近代的軍隊と「四民平等」

四民平等は人々の人権意識の高まりのなかで実現したとはいいがたいものでした。
ではなぜ、こうした政策がでてきたのでしょうか。その理由のひとつは、富国強兵を実現するための国民軍創設の必要からでした。
近代的な軍隊は指揮官の命令一下、集団として組織的に動くことが求められます。

幕府陸軍

しかし、江戸時代の「軍隊」組織、つまり武士団は、戦国時代の戦闘のありかたを固定化した身分秩序によって運営され、能力や実力より、家柄や藩内の上下関係などで決まりました。

ここに近代的軍隊のあり方を導入する事はきわめて困難でした。幕府が陸軍を創設しようとしても、旗本や御家人から激しい反発がおこり、結局かれらからお金を出させ、そのお金で人を雇うことにしましたのです。その結果、陸軍は、火消し・博徒などから兵士を確保、編成されました。宇都宮の戦闘で戦死した兵士の体には見事な入れ墨があるものがいたといいます。

奇兵隊の隊士たち

長州の軍隊が強かったのは、奇兵隊など雑多な身分からなる近代的な軍隊が編成され、さらに危機感をテコに旧来の武士にも「奇兵隊モデル」を適用したからでした。指揮も能力を重視、指揮官の中心は村医者出身の洋学者大村益次郎でした。
このようにして編成・訓練され最新鋭の銃をもった軍隊が、主に身分秩序をもとに編成された幕府軍にたいし優勢な戦いを進めたのです。これが第二次長州戦争でした。

さらに戊辰戦争では、官軍への服従を誓った諸藩に新型の銃を持参することおよび旧来の兵器や装備・従者をつれての従軍を禁じました。武士による軍隊は役に立たないどころか邪魔でしかありませんでした。

こうした教訓をもとに、富国強兵をめざす新政府は「国民」から兵士を集める国民皆兵の方針を取ることにしました。

若者たちを引率して徴兵検査に向かう戸長

1872年徴兵告諭はすべての国民は兵士になる義務を持つという国民皆兵の原理を打ち出し、これに基づき翌73年徴兵令を公布しました。
江戸時代には戦争や政治にかかわってはならないとされてきた百姓たちに「国家のために戦争で死ぬ」という義務を負わせたのです
国民皆兵を実現するうえで身分制度は邪魔な存在でした。
反発が起こるのは当然でした。徴兵令反対一揆、いわゆる「血税」一揆が各地で発生します。

5,四民平等の限界は明治維新の限界

このほか、実力主義・能力主義の導入という点からも、経済活動の自由という点からも、合理的な統治を行う点でも、財政面でも身分制は障害となりました。
「四民平等」は、このような国民皆兵など「富国強兵」をはじめとする国家目標達成のために求められた面が中心で、人々の要求から生まれてきたとはいいがたいものでした。
この結果、「富国強兵」の目的からは遠くその制約になるような近代社会の原理、自由権や、市民権にもとずく民主主義、基本的人権などはサボタージュされました。
逆に、身分制的な「『家』の観念」や「忠孝といった儒教道徳」「男尊女卑」など身分制的な倫理観などが国家目標実現のために都合がいいとして用いられ、最終的には明治憲法体制のなかにも組み入れられます。
なお、新政府が軽視ないし拒否した民主主義や自由、基本的人権と行った原理の実現をめざす運動自由民権運動です。

なお不要なものとして解体され、没落していったように思われがちな士族出身者ですが、実態としてエリートとして社会の中枢を担い続けています。
その武器となったのは知識あるいは武芸あるいは武家社会の教養・文化です。こうしたものが、当時「庶業」と呼ばれた官吏や教員、警察官に進出する有力な武器となりました。
仕事がなくとも子弟を学校に通わせ学問を身につけさせることが武家のたしなみという生活規範が、教養や知識、管理的能力を持つ人材を必要とする時代の要求に合致したため、多くの士族出身者が社会の中枢に進出していったのです。
能力主義・実力主義という近代的な原理がこれまでの身分制と結びつきました。
これによって「武士の文化」が近代日本社会とくに中上流社会の中に残ります。(この点については、別稿ご覧ください。)

「四民平等」は「富国強兵」という国家目標に従属する形で実現したのです。このことは明治維新の性格を考える上で重要なことだと思います。

Ⅵ、地租改正~「百姓」が農民に変わっていく

1,地租改正とは

明治維新の諸政策で、廃藩置県と並ぶもっとも重要な政策が地租改正でした。

地租改正の様子

教科書的にいえば「明治政府が、財政的基礎確立のため、地租改正条例に基づいて施行した土地制度、租税制度の改革。徳川封建体制から明治以後の資本主義体制への転換期における最も重要な改革の一つ」となります。その重要性は次のようにまとめられるでしょう。
<主な内容>
①近代的土地所有制度の確立
②近代的租税制度の基礎の整備
③財政制度の基礎をつくる
④農民=地方のあり方を激変させる⇒「寄生地主制」へ
ここでは、4番目、これまでの「百姓」にとって地租改正がどのような意味を持っていたのか、というあまり注目されてこなかった側面を中心に見ていきます。

2,村請制の消滅と近代地主制の形成

江戸時代の農村は、年貢は村でまとめ、村役人が責任を持って領主に納める村請制を基礎に組み立てられていました。

地券。土地所有権を認めた証書。地価と地租の額が記されている

これにたいし、新政府は、土地は個々の農民の私有地であることをみとめ、売買可能なものとしました。そして地券を交付、その土地の価格から税金(地租)を貨幣で支払わせました。
こうして、年貢は税金へと姿を変え、個々人が負担する者として、年貢納入の機関としての「村」は消滅します。村請制は廃止されました
その結果、何が起こったでしょう。
地租を支払わないものの土地は容赦なく没収され、競売に付されます。「自己責任」が強く追求される社会になったのです。
村とくに村役人が支えてくれるという社会保険の機能が村から消滅し「没落の自由」が導入されました
他方、村役人など有力農民の立場からすれば、年貢を集めきること、そのために背負わされてきた配慮は基本的には不要となりました。つまり収益拡大のためのドライな対応が可能となったのです。村内の関係は「世知辛い」ものとなっていきます。

3,松方デフレと寄生地主制の成立

「村請制」がなくなったことから発生する問題性が集中的に表れたのが、1880年代の松方デフレ期です。

松方デフレ期における自作農の没落

松方大蔵卿がすすめたデフレ政策によって農作物価格が一挙に暴落すると、農村では税金や好景気の時代に積みあげた借金の返済ができない農民が大量に発生、返済や支払いに窮したあげく土地を失っていきます。
地価が暴落した土地を買い漁ったのが有力農民や商人たちでした。とくに農業生産ではあまり儲からないと考えた有力農民は、土地を失った農民たちから地代を集めることで収益を得る地主=寄生地主という性格を強めるとともに、資産家の道を歩み始めます。
ただ、都会などに住み、まったく農業を行わないという不在地主は、かつて思われたほどには存在しないと現在は考えられています。

没落農民の一部は村を後にしますが、多くは地主から土地を借り高額の小作料を支払う小作人となります。(実際は自作と小作をを併用する自小作ないし小自作農民が中心ですが)
こうした関係は、地主=小作という経済的関係を背景にした従属関係を前提とする新たな「前近代的」ムラ社会、地域・社会秩序を新たに生み出していきました。

明治時代になると、農村から都市への二つの流れが急速に太くなっていきました。
一つは没落し、土地を失った人たちの流れ
都市で人力車夫などに従事する都市雑業層となったり、炭鉱・鉱山・土木工事などの労働者として、社会の底辺層を形成します。
今ひとつは、地代などによって豊かな収入を得ることになった人々、とくにその次・三男などがエリート予備軍として上京し、学歴を手に入れ、士族出身者とともにあらたな中・上流階級をめざすという夏目漱石の「三四郎」に見られるような流れです。

4,地租改正から見えてくる「近代」社会

地租改正から松方デフレという流れ、このなかで私たちは「近代」というものの典型的な姿を見ることができます。
相互依存・相互監視という息苦しいが、「平和」で一定のセーフティネットが存在した江戸時代のムラ社会がありました。
それは日本に近代化を図るべく実施された地租改正などの諸政策によって解体され、かわって自己責任と競争、実力と運によって成功と失敗がシビアにわかれる近代社会が始まります。
人々は「自由」を手に入れますが、多くの場合は「没落する自由」であり、「故郷をでていく自由」でした。それを避けるには、小作農・貧農としてのムラでの生き方でした。

どちらが生きやすい世界であったのかと、問いたい人もいると思いますが、歴史を学ぶ立場からすれば、あまり生産的な議論ではない気とおもいます。

<つづく>

<メニューとリンク>
明治維新と文明開化
1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出
※参考資料:レジュメとパワーポイント資料
レジュメ「明治維新と文明開化21
パワーポイント資料「明治維新と文明開化21ppt

<参考文献>
井上勝生『幕末・維新』『開国と幕末変革』
中村 哲『明治維新』
石井寬治『開国と明治維新』
青山忠正『明治維新』
安丸良夫『安丸良夫集』『日本の近代化と民衆思想』
『近代天皇像の形成』
牧原憲夫『牧原憲夫著作集』『客分と国民のあいだ』
『民権と憲法』『文明国をめざして』
奈良勝治『明治維新をとらえ直す』
三谷 博『維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ』
『図説日本史通覧』『詳説日本史図録』『新詳日本史』

 

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