朝鮮近代史を学ぶ(3)
Contents
「開化派」の苦悩と壬午・甲申事変
第二次修信使の訪日~金弘集・黄遵憲・李東仁
朝鮮が、開国・開化の方向に一気に動き始めたのは、1880年10月、第二回修信使として日本を訪れた金弘集の帰国報告と、もちかえった黄遵憲の著作『朝鮮策略』とされる。
東京を訪れた金は、清の駐日公使何如璋や公使館のスタッフであった黄遵憲らと頻繁に出会い議論を重ねる。その回数は40日間で6回、宴会の同席をも含めればさらに増える。(崔北原18)
清公使館のメンバーは、琉球処分をめぐって日本側と厳しい折衝を繰り返しており、何は本国に琉球派兵を依頼していた。そこに属国・朝鮮から修信使として金弘集らがやってきた。かれらは日本について、自分たちの国やアジアについて語り合った。それが黄の『朝鮮策略』に、さらに国王・高宗への報告へと生かされた。
また記録には残っていないが、帰国報告に影響を与えた朝鮮人僧侶がいた。李東仁である。李は、前年11月急進開化派である金玉均と朴泳孝の依頼と資金提供を受け密航、東本願寺の協力を得て、福沢の知遇を得、さらにイギリスのアーネスト=サトウとも交友関係をもつなど、活発な動きをすすめていた。
第一次修信使が「日本が誇示する近代的文物に驚きを示しつつも理解不能という感想が目たち、時として拒絶反応を示し、文物の導入に対する否定的な姿勢を取っている」(落合)のにたいし、第二次修信使は「日本との交流には多少消極的であったが(中略)近代文物を開放的に理解しようとした」と評価される(李14)。李孝庭はその理由を「黄遵憲のような開放的な清国人たちとの交感」に求めるが、呉慶錫や劉大致の同志で初期開化派の代表ともいえる李東仁の情報も大きかったと思われる。
姜在彦はいう。「修信使として訪日した金弘集にその識見が高く評価され、帰国後政界に進出するにいたったが、彼が将来したその新書と報告は開化派に大きな覚醒をよびおこした。」(姜96)
さらに趙景達も「このような日本事情に通じた人物に出会って、金弘集の驚きはどれほどであったであろうか。彼は李東仁に帰国を促し、近代的改革への尽力を求めた。」(趙12)とのべ、その出会いを重視する。
国家の公的使節である金らと、密航者・李の関係は記録は残らず、丁寧な史料分析を行う近年の諸研究(落合04李14崔北原18)にその名は残っていない。しかし、帰国後に李東仁が高宗の信任を得て活躍しており、その仲介を金弘集がしたと考えること、両者の関係が訪日時に結ばれたと考えることができる。
「修信使」たちが見た日本
修信使一行にとって、日本とくに東京が刺激的な存在であったことは間違いない。
「なによりも彼らは刻々と新しく生まれ変わりつつある日本の現実を実際に目にしたのである。いわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であり、軍事化であって、当時の修信使たちはその社会と制度の変化一つ一つに対して目を見張ったに違いない」(李14)
守旧派の代表ともいえる第一次修信使金綺秀の報告にもこの一端を見ることはできる。しかし、実際はそれほど単純ではない。韓国の研究者・宋敏は、1999年日文研でおこなったフォーラムで、修信使などの記録を詳細に調査した成果を報告している。その結論は以下のようなものである。
確かに彼ら[*修信使一行]が見た日本の機械化や軍事化、進んではあらゆる部門における新文明の現実を一種の新しい情報として記録に残した。ただそれだけでことである。(中略)その一つ一つに対しては、むしろ肯定的な態度より否定的な態度を見せる場合が多かった。大体は守旧的であった当時の高級官吏が取るべき態度はそれしかなかったのである。(中略)
なぜなら、朝鮮時代の官吏といえば、大体は保守的な文官であり、学者的気質の持ち主である。彼らは大体伝統的に実利を恥とみなし、名分のためには死も辞さない。(中略)彼らに機械化や軍事化のような新文明の実利を見せつけたのは、日本外務当局の見当違いだったのである(中略)朝鮮宮廷の大多数の官吏はそれを容易く認めようとしなかった。そこから日本に対する疑いと反発が一層深まった事実を見逃してはならない。(宋99)
朝鮮使節団のメンバーの多くは「小中華」としてのプライドと「実利を恥と見なす」という立場ですべてを判断・評価する。西洋医学を見学し「解剖のような下賤の行いを行うのは「士」たるものの所業ではない、禽獣におちた」と非難する「悲しい人々」たちがいた。同様に、技術導入のため上海に派遣された留学生たちは「実務は両班の仕事ではない」として実習を拒み、文献だけをもちかえる。
とはいえ、こうした反応は朝鮮使節に特有のものともいえない。開港延期交渉などで欧米を訪れた幕府の使節のなかにもみられる。一定の役割をもって外国を訪問する人々は、職務、伝統的価値観、自国へのプライドといったフィルターごしに対象を見て、ときには恥ずかしいような非難をする。それで心の平衡を保つかのように。
しかし主体的に学ぼうという姿勢のものにとっては別の結果となる。幕府の使節団には福沢諭吉や寺島宗則といった洋学(蘭学)に素養のあるものなどが多く含まれていた。かれらは、課題意識を持って科学技術・制度・社会など多様なものを観察、それをもとに自国のあり方について自主的・集団的な検討を行う。「西洋事情」など福沢の著作や、寺島宗則の廃藩置県につながる中央集権化(「郡県制の実施」)の提案もこうした成果である。寺島の意見書についてはこのリンクをみられたい。参加者の中でアジェンダ(議題)が共有化され、大きな影響を与えた。明治初年の岩倉使節団ではこの輪に大久保や木戸、伊藤といった政府中枢も加わる。
この点では、修信使らも同様である。日本視察は金弘集や金玉均・朴泳孝ら開化派に大きな影響力を与えた。金弘集の報告は、『朝鮮策略』とともに、高宗を動かし、朝鮮で開国方針が実現する。その結果、金弘集は生命の危機を感じるようなバッシングを受ける事になる。
国外視察において、視察地の実情やそこで生じていることを理解するには、結局は派遣され観察し分析するもの課題意識や虚心に学ぼうという謙虚さなどに依存せざるをえない。
私たちは、様々な場面で「金綺秀」の姿をみる。逆に必要以上に相手をもちあげ理想視するものも多い。客観的・批判的に理解することは今も昔も非常に難しい。
和田春樹『日露戦争』では、日本を訪問・滞在したロシア外交官や在外武官のなかも同様の人々をみることができる。的確に捉えたものとともに、あえて変化に目をむけようとしない人々。権力をもちつづけたい人々にとって受け入れられやすいのは「金綺秀」の意見の方であり、厳しい指摘は耳にいたい。ロシア皇帝・ニコライ二世らも耳障りのよい言葉を選ぶことで、判断を誤ることになる。
隣国・日本にどのような対応するか
岩倉たちが太平洋の向こう側で見た「文明」と、金弘集が玄界灘の対岸でみた「文明(のようなもの)」は大きな違いがあったであろう。
そこは、かつての侵略者の国、数百年にわたり警戒を怠らなかった相手である。その国がいま、言いがかりとしかいえない理屈で台湾に出兵し、琉球王国を一方的に編入するなど従来のルールを壊しはじめる。わずか10年強で、急速な変貌を遂げ、さらに軍備拡張をつづける。その意味を考えざるを得なかった。
他方、その国は同じ東アジア文化圏のなかにあり、漢文を共通言語とし、中国の儒教や仏教といった宗教・思想、中国の歴史や書・絵画などさまざまなものを共通教養としてもつ同種同文の地である。金綺秀も「日本の自然美や人々の勤勉さと誠実さに讃えの言葉を惜しまなかった」(宋99)。金弘集ら使節一行は日朝清三国の連帯を主とする興亜会の主催する宴会に参加し、清の何や黄とともに東アジアの連帯を語り合う。黄遵憲はのちに『日本雑事詩』を著すなど日本への親しみも感じていた。(崔北原18)
警戒心と親しみ、アンビバレントな感覚のなかにかれらはいた。
第一次修信使の金綺秀にとって「日本という認識対象に対して『西洋の手先』そして『交隣の対象』という二つの側面を持って」やってきた。(李14)他の使節にとっても同様であった。
この国は、憧れめざすべきモデルなのか、東洋的思想を棄て西洋思想に魂を売った裏切り者なのか。学ぶべき対象か、唾棄する対象か。自らの苦境を援助してくれる存在なのか、自らを脅かし危機をもたらす存在なのか。早めの対応が必要なのか、傍観しても大丈夫か。
日本の動きは「気になる」存在であった。金弘集がその本音を清の駐日公使・何如璋に語った肉声が残っている。
わが国では旧規を固守して、外国を視ること洪水か猛獣のようにしています。最近異教徒を排斥したのもそのためです。大教がこのようであることを、 朝廷に報告するつもりです。(姜01)
何(きっと黄も)を自分の気持ちを素直に語れる「同志」のように感じていた様子がうかがえる。
「長崎」があった日本、ない朝鮮
姜在彦は著書『朝鮮の攘夷と開化』を「長崎」への思いから叙述を始める。「長崎」があるかないかで両国の運命が分れたと考えるからだ。
「鎖国」していた日本であるが、西洋の事情はしっかりとつかんでいた。長崎での出島交易、オランダ商人が定期的にもたらす風説書、長崎や琉球に来港する清商人からの情報、こういったものが伝えられ、蓄積されていた。
また、西洋医学への興味をきっかけに蘭学も生まれ、それが朱子学をはじめとする他の学問をも活性化させた。狂信的とされる平田篤胤であるが、その実、キリスト教の教義を組み入れて議論を進めている。
世界のようすは、とくに19世紀、急速な経済発展=情報・交流の活発化と教育普及のなかで、かなり広く共有されるようになっていた。
「長崎」はつねに世界に開かれていた。ここをきっかけに外圧に対応しうる土台が準備され始め、ペリー来航以降の変動を受けとめうる基盤をつくった。
ところが朝鮮には「長崎」がなかった。世界の頂点にあると自己規定した朝鮮は「長崎」を拒否した。とくに19世紀、再び「鎖国」する。世界にアンテナを張り巡らすことがもっとも必要であった時期、朝鮮の「蘭学者」ともいうべき実学派を弾圧、「小中華」的な独善性が「近代」化へのリテラシーを奪っていった。朝鮮は「世界=経済」への免疫力を弱めた。開化派は大きすぎるハンデを負いながら、自国を導こうとすることになった。
朝鮮における「近代化」をめざす諸潮流
国際環境の深刻さと文化的「鎖国」が、朝鮮の未来を憂う人たちを引き裂いていく。
知識人を中心とする開化派は彼我の力量や力関係を客観的、冷静に分析し対応しようとした。しかし彼らの多くは名門両班の出身者であり、その理論は儒教などの学問や外国の見聞によってえられたもので、朝鮮の社会や民衆の姿を踏まえたものにはなりにくかった。エリート集団のサークルといった性格も強く、独善的になることも多かった。
伝統的な世界観の影響力のなかで育った知識人たちが世界を意識するなかで生まれたのが朱子学原理主義ともいえる衛正斥邪派である。外国勢力は「小中華」の破壊者であり、排除すべき異物とみなす「攘夷」論に立つ。日本では「日本」(その中心としての「天皇」)というナショナルなものを意識しつつ「攘夷」を説き必要に応じ自制したのに対し、朝鮮の攘夷論者は思想的な「正統性」自らの信じる「正義」を第一に考えた。「忠」を重視した日本と「孝」を重視した朝鮮という言い方もされる。衛正斥邪派は両班の守旧的・保守的側面をもちつつも、儒教道徳の民衆への浸透や開国による経済混乱という状態の中、朝鮮のナショナリズムの担い手という性格をつよめる。20世紀初頭の義兵闘争は彼らによっておこされ、しだいに民衆も参加しはじめる。かれらにとって、開化派も排除すべき危険な異物そのものである。
これにたいし、没落両班・崔済愚が創始した民衆宗教東学は、「人乃天(人すなわち天)」として、すべての人間の中に「天」の存在を認め、呪法と通俗道徳の実践のなかに現世的な解放の実現をとく。第二代教主崔時享は通俗道徳の徹底を唱えることで権力との正面的な対立を避けつつ経済的余力のある者が貧しい者を助けるというコミュニティづくりによって勢力を拡大していった。
東学は開国以後の経済混乱とさらなる苛斂誅求にあえぐ農民たちの要求をも組み入れていく。そして1894年の東学農民戦争では急進派の全琫準らの指導の下に「封建的身分の否定、封建的収奪の制限、土地の平均分作」といった要求を掲げ、社会の民主的変革をもとめ、日本の侵略への民族的抵抗運動を展開した。
このように、東学は反封建的民主主義的・民族主義的性格をもっていたが同時に時代的・文化的制約をうけ、神秘主義的性格や儒教道徳の影響も強く受けていた。
「世界=経済」と「周辺」「半周辺」
こうした朝鮮の諸潮流は、「世界=経済」の圧倒的な力に立ち向かった日本や中国をも含む「周辺」「半周辺」の人々の反応と共通したものを持っているように感じる。
まず自らの社会を破壊しようとする動きに対する拒否反応ともいえる自然発生的な反発がおこる。日本や朝鮮では前近代的な価値観に立脚した「攘夷」運動の形態をとったし、義和団のように神秘主義的な宗教の姿を取ることも多い。「世界=経済」を全面的に拒絶する傾向が多く、多くは「世界=経済」の圧倒的な暴力の前に沈黙させられる。多くの地域では、そうした過程をへて植民地や半植民地・従属国化させられていく。こうした反発は、原初的なナショナリズムの性格を持つともいわれ、西洋的価値観と対峙しつつ近代的ナショナリズムへ発展していく性格を持つこともある。
こうした運動の敗北のあと、「世界=経済」のさまざまな「力」(暴力・生産力・技術力・国家や社会の経営能力・・・)の多くの優位を認めざるを得ないという知識人主導の、理性的な判断にもとづく運動が現れる。西洋的価値観を受け入れつつそれを自分たち流に読み替えたり、伝統的な価値観を革新するなど、多様な方法で対抗していこうとする。科学技術や資本主義、立憲主義や民主主義・人権思想といった「近代文明」が選択的に受容され、言論や出版などの近代的な手段も駆使しながら合法的な運動をはじめる。その過程で西洋文明の矛盾や暴力性なども暴露される。エリート・知識人からはじまり、民族資本家など中間層に基盤をおくことがおおく、民衆運動とは乖離し、ときには敵対することもある。価値観を共有する面がから、宗主国などによって懐柔されることもあり、「売国」といった非難を浴びるものも現れる。
さらに1917年以降になると、ロシア革命の影響を受け、こうした知識人の中からマルクス主義やアナーキズムなどを導入し農民や労働者など社会の矛盾に苦しむ民衆と結びつこうという動きも現れる。各国の民衆の置かれた矛盾を注視し、さらに伝統的価値観なども組み込む毛沢東のような思想も生み出す。
こうしたさまざまな動きは段階的に発生することが多いが、東アジア文明圏では、「世界=経済」への包括が19世紀中期以降となったこともあって、自然発生的な排外主義と、理性的な運動が錯綜しながら出現する。
前者のエネルギーを背景に、「長崎」の情報を武器に後者がヘゲモニーを握った日本の場合はやはり例外であり、中国では二回のアヘン戦争と太平天国の乱、日清戦争と義和団戦争、さらには日本の侵略とのたたかいという苦悩を要した。こうしたなかで、洋務運動から変法自強運動、三民主義さらにはマルクス主義、毛沢東主義と多様な姿を見せるようになる。
では朝鮮はどうか。前者は、東学に代表される民衆運動と衛正斥邪論に代表されるが、いずれも先の東アジア的性格をうけ、18世紀的な運動とは異なる発展した性格を持つ。
他の地域では20世紀初期に活発化する後者の流れであるが、朝鮮では開国と並行した時期、日清両国で急速に進む「文明開化」「洋務運動」の影響下に、実学派の流れから自生的に形成された開化派として現れる。しかしかれらは孤立した「エリートのサークル」であり、東学など民衆の動きとは結びつくことはなく、改革要求も制度などが中心で、民衆解放などの視点は弱かった。
「傷ついた」日本人にとっての「朝鮮」
朝鮮の隣には日本がいた。
日本は、朝鮮よりも早く1853年アメリカから開国を強要された。しかし彼我の軍事力の差を実感した日本は、徹底抗戦をはかった朝鮮とは異なり、開国開港を選択するという屈辱的だが「理性的な判断」をおこなう。しかしその屈辱感は、通商条約の締結に天皇の許可を得られなかったことや開港によって発生した経済混乱への反発のなかから、「破約攘夷」をめざす運動として広がっていく。しかしそれも列強の圧力の下、撤回を余儀なくされる。「破約攘夷」は不平等「条約改正」をめざす戦略へとシフトチェンジして、新政府のテーマとして位置づけられる。「条約改正」を実現する戦略が「文明開化」=「西洋化」であった。
この戦略は、これまでの屈辱感にくわえ「西洋化」にともなうストレスとなり、欧米文明への劣等感などネガティブな感情として蓄積される。
こうした感情のはけ口が、近隣諸国に向けられた。朝鮮は格好の存在であった。江戸時代の日本型の儒教や、儒教や仏教を「からごころ」と批判して生まれた国学などが、「神功皇后の『三韓征伐』」といった「神話」などを根拠とする日本型華夷秩序、朝鮮を「朝貢国」とみる態度などの差別意識を拡大させていた。やむなくすすめられたはずの「文明開化」も、自らを「文明」、朝鮮(のちには中国も)を「未開」とみなす優越感につなげられた。こうした朝鮮に対する差別感と優越感が朝鮮政策を支えていた。
朝鮮から来た修信使たちもそうした日本人の感情を敏感に感じていた。修信使たちの日本記録のなかには、こうしたものへの反発も読み取るべきかも知れない。
日本は、欧米流の主権国家体制こそがグローバルスタンダードであり、朝鮮は自主・独立の国家であり、日朝修好条規の第一条で「朝鮮は自主の国」と定義した以上は、朝鮮は独立国であり、清と朝鮮との間の宗属関係は否定されたものと考えていた。
しかし、この段階で朝鮮側にそうした意識はなかった。江華島条約はあくまで、朝鮮国王の意識の中では、江戸時代の交隣関係の再開であったからである。
清の危機感
こうした朝鮮の姿にたいし、清とくに実力者・李鴻章は強い危機感を感じていた。
この時期、清は東・西両面に脅威を感じていた。東側で日本、西側では中央アジアにおいてロシアとの緊張関係が高まっていた。(両者は1881年イリ条約を締結することになる。そのロシアは朝鮮とも国境を接している。)東方においては日本・ロシア双方の脅威から、清国の藩屏でもある属国・朝鮮を守ることであった。
李鴻章は朝鮮が列強に国を開くことで、日本およびロシアが牽制できると考えていた。
この段階において、清国は旧来の枠組みを基本に政策をくみたてていた。伝統的な宗属関係では、属国であっても、内政・外交は自主である。日朝修好条規(江華島条約)自体、清が締結を勧めた面もあり、干渉していない。さらに朝鮮が、アメリカ、ついでイギリス・フランス・ドイツにも開国することを期待していた。
しかし、この段階では朝鮮国内ではこうした危機感は共有されていなかった。
清はこうした危機感を朝鮮側に伝えようとしていた。そうしたなか、日本にやってきたのが金弘集であった。清の駐日公使何如璋と外交官黄遵憲はこの有能な外交官を全力で説得した。こうした流れの中で手渡されたのが黄遵憲が著した『朝鮮策略』である。これは清が朝鮮国王に与えた戦略といえなくもない。
「開化政策」への転換
『朝鮮策略』について糟谷憲一の説明を聞く。
その内容は、ロシアの侵略を防ぐために清との宗属関係を強化すると共に日米両国と連携すべきこと、アメリカと速やかに条約を結ぶこと、通商を拡大して西洋の科学技術を学び、産業開発と近代的軍備の導入に努めて自強の実をあげることを、朝鮮に勧めたものであった。(糟谷)
なお岡本や木村は、日本に最大の脅威を感じていた李鴻章ら清の政府関係者と、ロシアの脅威を重視する日本公使館の何如璋や黄遵憲らと間にはこの段階ではズレがあったと指摘している。
金弘集の日本観察と『朝鮮策略』によって、高宗は1880年末から明確な開化方針へと舵を切る。金だけでなく李東仁も高宗の知遇を得る。両者の関係を推測させるできごとである。
外交と開化政策を担当する統理機務衙門という役所が新設され、金さらには李もかかわることになる。
翌年からは新式軍隊が新設され、日本人武官堀本礼造に訓練が依頼された。李東仁の提案で「紳士遊覧団(朝士視察団)」が派遣され、留学するものもあらわれる。(李東仁も派遣されるはずであったが、出発直前に何者かによって暗殺される)清やアメリカにも使節が派遣され、金玉均や朴泳孝ら開化派が日本の姿を自身で観察する。
金弘集や魚允中、金允植(かれも朴珪寿門下であった)ら開化派の官僚たちは、実学派の流れをくむ知識人であり政府高官でもあった朴珪寿のもとに集まっていた金玉均や朴泳孝ら名門両班らのグループと共に、政権上層部に席を得て、開化政策の導入をすすめていく。なお、金玉均や朴泳孝ら急進開化派への影響は朴珪寿よりも、呉慶錫や劉大致の流れの方が重要であるとの指摘も韓国で出されている。
「開化派」の戦略~国王の確保と日・清両国
日本では視察を通じて、欧米化の導入をすべきと考えた人々が政権の中枢にいた。そのため強いリーダーシップを発揮しての欧米化が可能であった。その背景にあったのは、幕末の混乱と戊辰戦争での暴力を背景に、天皇の名を利用する少数の維新官僚のもとに権力を集中した国家を実現させたからであり、「条約改正」(それは幕末の「破約攘夷」が姿を変えたものなのだが)を実現するためには「欧米化」の方向を取らざるを得ないとの「意思統一」を領主的反対派も含め定着させつつあった。なおこの方向に反対する農民反乱にたいしては江戸時代からは考えられないほどの過酷な弾圧をおこなう。ストレスは大きかったにせよ、「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」は国家目標となりつつあった。その基本路線は幕末・倒幕の過程で実現していた。
これにたいし、朝鮮の開化派と権力中枢との間には距離があった。高宗らは自分たちの権力維持に有益な近代化・文明化は認めるが、そうでない場合は消極的であった。さらに政権内には、「開化」自体を拒否する多くの人々がいた。そのまわりにはさらに多くの反対派・守旧派がいた。こうした状態のなかで、国王や勢道政治をすすめる閔氏政権のメンバーを説得し取り込む必要があり、さらに流動する国際情勢も気にしながら進めねばならなかった。
朝鮮(あるいは中国も)では、日本における倒幕の課題と維新・文明開化の課題を同時にすすめねばならなかった。幕末の志士よりもはるかに少ないエリートらによって。日本が幕末から明治初年にかけて破壊したものは、朝鮮でも、清でも健在であった。
朝鮮において開化派は小規模なサークル的存在でしかない。かれらが影響力を持つためには国王の支持をえることである。王の命令による上からの変革が期待される。しかし、王の支持を奪われると宮廷クーデタに訴えるという選択肢も生まれる。国王という「玉ぎょく」(幕末の志士が用いた天皇を指す隠語)の確保が重要であったことがわかる。
しかし、高宗は「玉ぎょく」であることをよしとせず、政治に介入権限を手放そうとせず秘密外交などに走った。このことが混乱の一因となった。
この点、制度的には天皇中心の絶対主義でありながら、肉体を持つ天皇個人の意志は表に出させず「玉ぎょく」として囲い込み、自分たちの政策を「天皇の命令」として国民に押しつけた明治国家とかつての志士たち(後に元老となっていく)のあり方とは好対照である。
(後年、泥酔した伊藤が、天皇とはこんなものだといって「操り人形」のまねをしたとひそかに伝えられる。)
なお、成人した明治天皇は、一度その地位にふさわしい発言力を求めたが、伊藤に説得されて自重したことがある。
日清戦争・甲午改革期、公使として赴任した井上馨は伊藤に代わって明治天皇流の国王像を受け入れるよう高宗・閔妃を説得していたとおもわれる。
明治天皇個人の立場は見えにくいが、日清戦争の開戦に強く怒っていたことや、教育勅語発布に説教的であったことなどがわかってきている。
「開化派」の戦略~大国の「協力」について
木村幹は、開化派の祖朴珪寿と佐久間象山を比較、強国になるために欧米に学ぶと考えた佐久間と、朝鮮は小国であるから外国の力を借りることを当然視した朴を対比的に描く。(木村)
「朝鮮小国」論を弟子の金允植らも受容する。名目とはいえ、宗属関係がある以上、属国が宗主国に援助を求めるのは当然という考えがあった。金允植らも清への依存をそれほど問題視せず、他の列強と対抗しうるべき軍事力の不十分な小国が、大国・清の援助のもとに近代化をすすめることは当然と考えていたとされる。かれらは「大」国(宗主国)である清に「事つかえる」という意味から事大党とよぶ。「事大」とは。「長いものに巻かれる」といったいい方をする人がいるがそれは誤りである。
しかし清の近代化(「洋務運動」)は科学技術や軍事中心で制度には極力手を触れない微温的なものであり、朝鮮がめざすモデルたり得ないという考えもある。なによりも清への依存を続ける以上、朝鮮は宗属関係から脱却できないことになる。そこで本格的な近代化を進める日本と結び、主権国家=独立国としての体裁の整った近代化をすすめたいとの考えもでてくる。その中心がやはり朴珪寿の弟子金玉均や朴泳孝であった。こうした立場の人々を独立党とよぶ。
しかし、木村は、こうした金玉均らの日本への無警戒さの中に、外国の力を借りることも是とする朴珪寿を代表とする朝鮮における思想の問題を見いだすことができるとの趣旨の指摘を行う。(木村)
衛正斥邪派の反発と大院君の策動
高宗が『朝鮮策略』をいれて、開化へハンドルを切ったことは、衛正斥邪派からの強烈な反発を招いた。国王に対する上疏が殺到し、はげしい反対運動がくりひろげられた。あまりに過激な内容にいかった高宗は、その一人を八つ裂きの刑に処す。
これをみた大院君は、高宗を廃し自らが最もかわいがっていた庶長子李載先を新たな国王につけようとの策謀をめぐらすが発覚、高宗は実兄に死を命じ、父の側近二人を八つ裂きの刑に処す。
この前年、やはり大院君がかわいがっていた孫・高宗の庶長子がなぞの死を遂げたこともあり、高宗夫妻と、父・大院君の関係は悪化の一途をたどった。
高宗はさらに独裁傾向をつよめる。こうした中で、高宗にとって頼りとなったのは王妃の一族驪興閔氏(れいこう・びんし)であった。王世子の結婚相手にも閔氏の娘が選ばれ、閔氏による勢道政治の傾向はいっそう強まる。
こうした政権のもとで開化政策がすすめられていく。
東アジア流「属国」から欧米流の「属国」へ
日本による琉球王国の併合は、清・李鴻章に旧来型宗属関係の限界を感じさせた。そこで自らのヘゲモニー下に朝鮮の開国をすすめようとする。朝鮮が結ぶ条約に朝鮮が清の属国であることを明記させ、世界に承認させようとする。これまでの属国(外交的自主権を持つ)ではなく主権国家体制における保護国(外交権をもたない)へと変えようとしはじめた。このことは、あらたな摩擦を引き起こす。なぜならそれは、属国・朝鮮の「自主」、つまり内政・外交権の自由を奪い取る方向であったから。
清の方針変更はアメリカとの開国交渉にあらわれる。朝鮮の開国であるにもかかわらず、アメリカとの交渉の場に臨んだのは李鴻章ら清人であり、魚允中、金允植ら朝鮮代表は直接交渉の席には現れない。1882年5月の米朝修好条約締結で金弘集ら朝鮮代表に出席がしたのは調印でしかなかった。
交渉のなかで清の李鴻章は条文に「朝鮮は中国の属邦であるが、内治・外交は均しく自主を得ている」という「宗属関係」を明記させようとはかる。しかしこうしたローカルルールは国際法になじまないとして拒否されると、清は「朝鮮はもともと中国の属邦ではあるが、内治、外交は従来すべて大朝鮮国王の権限にもとづいて行われてきた…大朝鮮国が中国の属国であり、その従属関係の結果として、朝鮮が中国に対して当然果たすべきいかなる事項も、いま盟約を結ぼうとする某国には、すべて関わりのないことである」という公文を朝鮮国王から出させることで妥協した。
朝鮮はこの条約をひながたにしたイギリス・ドイツとの条約をも調印する。交渉の場に清の代表の姿があったのは言うまでもない。しかし英独とも調印はしたものの批准を拒否した。そして壬午軍乱後、両国ははるかに低い関税率を強要し朝鮮全土の開放も認めさせた。「アジア不平等条約の決定版」(海野)ともいえる条約が締結される。日本やアメリカも最恵国待遇をとおして特権を拡大、朝鮮の経済混乱はさらに深刻化する。フランスとの条約には、キリスト教の布教を事実上容認する語が組み込まれた。
イギリスもドイツも朝鮮が清の属国であることを承認、清の狙いは貫徹した。
当時のイギリスの最大の関心事はロシアの影響力が朝鮮におよぶことをいかに防ぐかということであった。
あらたな「摩擦」の発生
こうした清の動きは、朝鮮を主権国家体制にもとずく「独立国」と位置づけることで清との宗属関係を排除して進出を図るという日本との関係を激化させた。さらに「自主・独立」という旧来の属国のあり方を維持しようとする朝鮮側との摩擦も生じさせ、朝鮮政府内部の摩擦をも引き起こす。
開化派内でも、清との宗属関係を利用して列強や日本の進出を抑え清の洋務運動をモデルとした穏健な開化政策を進めようとする金弘集や魚允中・金允植ら穏健派と、清の介入を拒否して「自主・独立」をより現実化し主権国家としての朝鮮をめざす金玉均や朴泳孝ら急進派の路線の違いが見え始める。
朝鮮をめぐる国際関係
ここで朝鮮をめぐる国際情勢をみておくことにする。
当時の東アジアをめぐる国際関係において朝鮮はどのような位置を占めていたのであろうか。
ロシアの朝鮮進出計画はあったのか?
一般に、日本が朝鮮問題の強い危機感を持ったのはロシアとのかかわりであるとされることが多い。
ロシアは1860年の北京条約によってウスリー川東岸のいわゆる沿海州を獲得、そこに「東方を支配せよ」という物騒な名前のウラジオストクという都市を建設し、太平洋への進出をはかる。しかしこの港は冬に凍結するため、冬の寄港地(「不凍港」)が必要であり、日露戦争までのロシア軍艦の冬の寄港地は長崎であった。
ロシアの最大の関心事は、ロシア船が沿海州から太平洋に進出するためには宗谷、津軽、朝鮮(対馬海峡)の三海峡のいずれかを通過する必要がある。幕末の1861年にはロシア船ポサドニック号が対馬・芋崎を占拠しようとし、イギリスの抗議などで撤退するといった事件も発生した。朝鮮海峡周辺に不凍港を獲得することはロシア海軍の悲願でもあった。そのため、ロシア海軍は朝鮮半島とくに南部に寄港地を求めつづける。
そのことがイギリスとの激しい衝突を招くことは対馬事件でも明らかであった。さらにこの地が日本から朝鮮・中国への航路にある以上、日本と対立する。長崎に寄港地をもつロシアにとってはリスクが大きかった。
たとえ獲得したとしても、港を維持するだけの陸からの補給路が得られず、孤立する。こうしたことから、ロシア政府の大勢はつねにこうした海軍の要望に対して否定的であった。(和田・上)
実際に朝鮮へのロシアの脅威はあったのか。和田は1876年ロシアのゴンチャロフ外相が皇帝にあてた意見書を紹介する。
朝鮮を対外通商関係のために開国させることは、隣接する沿海州が貧しく、人口が少ないが故に、わが国とこの国との隣国交渉の発展に直接的な損害をもたらすと判断し…同国政府とはいかなる公式関係をも結ばないのがロシアの利害に最もふさわしいと本省は見なしている。(中略)本省の見解では、朝鮮臣民のわが領内への大量の移住によってわが沿海州の民政発展に多大な恩恵が得られている。…この大量移住は朝鮮政府との条約と公式国交がないからこそ可能になっている。(和田・上P51)
ロシアは朝鮮に対しては「待機政策」をとっていた。
イギリスとロシア~イギリスの情報力
このようなロシアであるが、朝鮮が米英独三国との条約を締結にすると政策転換せざるを得なく、控えめな態度で国交交渉を開始、84年7月に通商条約を締結した。
このとき、交渉に当たったのは、ロシア側がヴェーベル・朝鮮側がドイツ人メレンドルフである。この2人が高宗の信頼を勝ち取ることで朝鮮をめぐる対立にロシアを引きずり込む。(和田)
岡本も、ロシア政府は、国力や補給から考えて「朝鮮半島に深入りすることは一貫して慎重」であり「現状維持」をめざし控えめな態度をとったと言及する。(岡本08)
日本は大国ロシアの虚像に怯えていた。なぜなら日本はイギリスの目でロシアを見ていたからと山田朗はいう。
ロシア脅威論は、当時情報の世界で巨大な力を持っていたイギリスの影響によるところが大きい。世界各地でロシアとの対立を繰り返していたイギリスは、東アジアにおいてもロシアの動きを中心に戦略をたてていた。
イギリスが最も恐れたのが、ロシアの膨張であり、太平洋への進出であった。当時世界の通信社で圧倒的なシェアを誇っていたロイターの情報を通じて、日本は(清も)東アジア世界を見ていたのである。(山田)
イギリスの朝鮮政策の基本はロシアとの対決であり、具体的にはロシアの進出=寄港地の確保を許さない体制づくりであった。そのもとで、1861年には対馬を占拠したロシア軍艦を退去させたのである。
そのイギリスが1885年、前触れもなく朝鮮南部の巨文島を占領する。中央アジアでのロシアとの対立の深刻化、さらに朝鮮政府とロシアの接近、朝鮮政府による港湾施設の租借の動きを牽制したためともいわれる。イギリスにとって「ロシアの南下を防ぐためには、朝鮮の独立はもとより、自主ですらなくても、一向にかまわない立場だった。その目的にかなうならば、多国間の保護であろうが、日清の共同保護であろうが、清朝の単独の支配であろうが。選ぶところはなかった。」
そして「清朝の『宗主権』を公然と支持」朝鮮を清の版図にくわえることも支持していたと岡本はいう。(岡本08)
壬午軍乱
1882年7月19日、13ヶ月間もの間給与を支払われていなかった漢城の旧式軍隊の兵士達が久々の俸給米をうけとった。しかし、そこには実際の米は半分も入っておらず、残りは大量の砂や石であった。配給に当たった役人たちがピンハネしたという。激怒した兵士たちがつめよる。兵士の代表が逮捕される。以前から、兵士たちは、日本軍に指導され優遇される新型軍隊(別技軍)との差別待遇に怒っていた。兵士たちは放棄に打って出る、
兵士たちは漢城周辺の貧民街に住み、様々な雑業も兼業していた。逮捕された兵士の家族を中心に、都市下層民も暴動に参加した。かれらは日本商人の米の買い占めによる米価の暴騰に怒っていた。
大院君は暴動を起こした兵士たちの接近、自らの復権に利用した。大院君の指示をうけ兵士たちは日本公使館や日本人を襲撃、別技軍の指導にあたっていた堀本少尉らは殺害される。
暴動はさらに拡大、別技軍の一部も参加する。兵士らは王宮・昌徳宮に侵入、閔氏一族らをつぎつぎと殺害、閔妃は命からがら脱出した。高宗は大院君に政権に就くように要望、政権に復帰した大院君はこれまでの開化政策を破棄する。(壬午事変・壬午軍乱)
一方、漢城を脱出した花房公使らは仁川でイギリス船に救われ帰国、ただちに軍隊を率いて朝鮮へと引き返す。
他方、事件と日本軍の出兵を知った清も動く。
当時、条約交渉で清にいた金允植・魚允中らは日本軍の介入と開化政策の中断をおそれ、清に出兵を要請、清は6000人規模の大軍を派遣した。8月10日ごろには両軍が仁川沖に集まり、衝突が危惧される事態となった。衝突を警戒したイギリス・アメリカの軍艦も仁川に現れる。
もどってきた花房は護衛兵を連れて漢城に向かう。そして責任者の逮捕、被害者・政府への補償、交易の拡大や軍隊駐屯許容などの要求を突きつけたが、大院君政府はこれを無視、花房は最終通牒をつきつけて引き上げる。
かわって清の馬建忠が漢城に進出する。そしてかれらを援軍であると誤解し油断した大院君を逮捕して本国に拉致、反乱軍を鎮圧、閔妃を救出する。さらに日本とのあっせんに乗り出し、日本の要求をほぼ丸呑みした済物浦(さいもっぽ)協約と仁川開港条約の二条約を締結させた。
清の軍隊が、軍事力を背景に壬午軍乱を鮮やかに解決したことで、朝鮮での清の影響力はいっきに強まる。これを背景に朝鮮への外交・内政干渉はいっきにすすむ。清は、日本はもちろん、朝鮮国王・政府との摩擦も強める。
変法的開化派と改良的開化派
清および大院君への評価・対応によって開化派は分裂する。
大院君を開化政策の否定者とみて清による排除を肯定した金允植・魚允中らと、大院君は「頑固なれどもその政治は正大なり」と考えた金玉均ら急進開化派に分裂する。金玉均は清による大院君の連行は重大な内政干渉と考えたのである。
姜在彦は開化派の狙いは朝鮮を改革して独立自存の道を切り開くことにあったが、その方法として日本の明治維新に範をとる金玉均・洪英植ら急進派を変法的改革派、清国の洋務運動に範をとる金弘集・金允植・魚允中ら穏健派を改良的開化派とみなし、その違いを三点に整理する。
①前者は清国との封建的な事大関係に対決して完全な自主権を確立し、日本の明治維新を改革のモデルにしたのにたいし、後者は清国との伝統的関係を尊重しながら、清国の洋務運動を改革のモデルとした。
②前者は、執権層としての守旧派に対決して、君権を完全に手中に掌握することによって急進的な変法を考えた。後者は守旧派との対立を避けて妥協しながら、漸進的な改良を考えた。
③伝統儒教に対する姿勢において、後者はおおむね「東教西法」または「東道西器」的であり、かなり「東教」または「東道」につよい執着を持っていたのにたいし、前者は「道」と「器」の問題よりも、朝鮮儒学における「虚」と「実」の問題を重視した。そしてその「実」の強調はとどのつまり儒学そのものの内在的否定に発展しうる性格のものであった。そして「東教」または「東道」にたいする執着が比較的弱く、仏教やキリスト教の受容に対しても寛大であった。
姜はこうして、二つの潮流を清における洋務派と変法派と対比しつつ位置づける。ただしそれは輸入したものではなく、朝鮮儒教の内在的発展の中から生じたものであった。(姜80)
清の影響力拡大
壬午軍乱は本格的展開を迎えようとしていた朝鮮の自主的開化を大きくゆがめた。
これ以後も清は三千人の軍隊を駐留させ、これを背景に伝統的な宗属関係=「自主独立の属国」というあり方を、万国公法=主権国家体制下の宗主国=保護国関係におきかえようとしはじめる。
こうして清の影響力は急速に増していく。
それを典型的に示すのが「中朝商民水陸貿易章程」である。前文には「朝鮮は久しく中国の朝貢国」と明記され、両者の貿易に当たっては「中国が属邦である朝鮮を優遇するためのものであり、各国のそれと例を同じくしない」として、清と朝鮮の関係は他の諸国とはまったく異なる宗属関係であり、主権国家体制の論理ではなく、従来の宗属関係を根拠とした。
この結果、朝鮮国王は中国の北洋大臣と同格におとしめられる。具体的な条項においても、一方的な領事裁判権や、朝鮮における清の商人の優越的な権利を認めた。最恵国条項は無関係であると明記されたことに列強が反発したことはいうまでもない。
清の影響力の急速な拡大は、朝鮮政府内部に大きな波紋を投げかけた。岡本はいう。
「内乱を鎮定してくれたことに感謝を惜しむものではない、けれども、大院君を拉致したのをはじめ、かつてない内部干渉は望むところでない、という相反した感慨が、多くの人士の有したところだった。けだし国王の高宗も、例外ではない。」(岡本15)
ともあれ、これ以後の朝鮮の「近代化」は、清の介入を受けつつすすめられる。新式軍隊は袁世凱ら清軍に訓練され、外交は李鴻章が推薦した馬建常(馬建忠の兄)とドイツ人メレンドルフを顧問としてすすめられる。メレンドルフは高宗の信頼を得て権限を拡大、財政政策で金玉均らと対立する。
甲申事変
二派にわかれた「開化派」は、このなかでちがった対応をする。
清との関係を維持しつつ、閔氏政権に協力して漸進的な近代化を進めようとした金弘集ら穏健開化派にたいし、金玉均・朴泳孝・洪英植ら急進改革派は、改革が進まないのは閔氏政権の消極的守旧的姿勢のためであり、背後にある清のためと考えた。より徹底的な改革をすすめるには閔氏ら守旧派を排除して清からの完全独立を実現し、近代化のモデルと考えた日本政権とむすぶことが重要だと考えた。
1884年、ベトナムをめぐり清仏戦争が始まり、清の兵士が半減すると、クーデタ計画を本格化させた。
かれらは、日本公使・竹添進一郎に接近、クーデター時に日本軍を派遣することを約束させた。しかし、こうした動きに日本政府は否定的であった。
こうした動きを見た金玉均らは計画を早めた。
1884年12月4日、金玉均らは郵便局開局の式典をきっかけに、クーデターを決行、清国軍の反乱と偽って高宗に日本公使への援助を要請させ、さらに国王の命令で閔氏一族など政府要人を殺害、日本軍と政府軍の一部が王宮を制圧するなか新政府の樹立を宣言、高宗の名で急進的な改革方針を発表した。
これにたいし袁世凱率いる清軍は王宮を包囲し、王宮から脱出してきた政府関係者から依頼を受けたとして王宮に突入、人数的に劣勢であった日本軍を圧倒して撤退させた。高宗は同行を求める金玉均の要請を拒否、クーデタはあっけなく失敗におわった。首謀者の洪英植らは殺され、金玉均や朴泳孝らは竹添らと共に日本に亡命した。これを甲申事変という。(海野)
朝鮮側は事件への日本側の関与を厳しく非難、朝鮮王朝における日本の影響力はさらに低下し、清の影響力はさらに高まる。
これにたいし、日本政府は竹添らの関与を伏せたまま、軍隊を派遣して日本側の被害への補償を要求、承諾させる(漢城条約)。
さらに、伊藤は中国の天津で李鴻章と会談、清仏戦争で動きのとれない弱みを突いて天津条約を締結する。この結果、朝鮮からは日本軍のみならず清国軍も朝鮮から撤退、今後の派兵に際しては相互に事前通知の義務をさだめた。
これ以後、約10年間、朝鮮には外国軍が駐屯しない比較的平穏な時期となる。
<つづく>
《朝鮮近代史を学ぶ 目次とリンク》
1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:壬午・甲申事変と開化派
4:東学農民戦争と日清戦争の開戦
5:甲午・乙未改革と開化派の敗北
《参考文献》
糟谷憲一『朝鮮の近代』岩波ブックレット1996
海野福寿『韓国併合』岩波新書1995
岡本隆司『世界の中の日清韓関係史』講談社2008
趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書2012
趙景達編『近代日朝関係史』有志舎2012
山田朗『世界史の中の日露戦争』吉川弘文館2009
木村幹『高宗・閔妃』(ミネルヴァ書房07)
姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社77)『朝鮮の開化思想』(岩波書店80)『近代朝鮮の思想』(明石書店1996原著は未来社1884)
和田春樹『日露戦争~起源と開戦(上)』(岩波書店2009)
宋敏「明治初期における朝鮮修信使の日本見聞」(第121回日文研フォーラム報告記録)
崔蘭英・北原スマ子「『近代』移行期の東アジア知識人ネットワークについての基礎研究(三)~第二次修信使金弘集一行の日本滞在を中心に」(『常盤大学人間科学部紀要人間科学』2018,9)
落合弘樹「朝鮮修信使と明治政府」(『駿台史学』121号2004.3)
李孝庭『朝鮮修信使の来日記録研究』(国際基督教大学提出博士論文2014)