「憲法はまだか?」~1時間目の授業、手直ししました。

昨夜、自分の書いた文章をみていて、ミスを発見しました。

1時間目 日本近現代史を大雑把につかもう>のところです。
小生のパソコンのせいか、ソフトのせいか、調子に乗って入力していると、いつのまにかカーソルが前の方に移動していて、後の方の文章が、もとの文章のなかに紛れ込んでいるのです。

ちゃんと見ているはずだったのですが、まだ残っていました。訂正しました。見苦しくてごめんなさい。

ついでに、あとの方もチェックしていくと、やはり語尾のぶれがきになったので直しました。

さて、大学で聴講している憲法の授業で、1996年にNHKが放映したドラマ「憲法はまだか」の一部を鑑賞しました。脚本はジェームズ三木。古関彰一という憲法史の第一人者が監修しており、かなり事実に即した内容でした。憲法学ではそこそこ名の通っている私の通う授業の担当教授もそういったので、信頼できそうです。
授業で見たのは、数分間だけでしたが印象深いもので、学生さんたちもどうすれば全体を見られるのかと質問していました。

<以後、ウィキペディアからの引用>・・・・・・・・・・

憲法はまだか』(けんぽうはまだか)は、NHK日本国憲法公布50周年を記念し、1996年に放映したテレビドラマ日本国憲法制定までのいきさつや、草案をめぐって政治家GHQ民政局憲法学者たちが繰り広げた舞台裏の駆け引きを再現。全身包帯で巻かれた人間を「産まれつつある憲法の象徴」として登場させるなど単なる歴史ドラマ・政治劇の枠を超える斬新な演出が注目を浴び、放送文化基金賞優秀賞(1997年)を受賞。のち角川書店から小説として出版されている。

<引用終わり>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私もさっそくYouTubeにアップされているこの作品をみました。
現在、憲法が「押しつけだ」「押しつけでない」などいろいろな意見があります。いろいろいう前に、まずこのドラマをみてから考えてほしいのです。ある人は「やっぱりおしつけじゃないか」という感想を持つと思いますし、他の人は「憲法研究会」という民間の日本人がつくった草案の存在に注目するでしょう。「国会でしっかり議論をしており、国民の声といってもよい」という人もいるでしょう。あるいは憲法制定過程におけるいろいろな問題点に気づく人もいるでしょう。だからこそ、見てほしいのです。
何れの立場の人も、憲法成立の事実関係を知るには絶好の作品だと思います。これをふまえて議論することで、よりかみあった議論となると思います。憲法を争点とした選挙がなされている今だからこそ、是非見てほしいのです。

ということで、このドラマをみて、どうしても戦後改革の部分を書き直したくなってしまいました。ある意味では、わたしはこのドラマをこのようにみたという結果です。

追記:この文章を書いてから、一年近くがたちました。不十分とは思いますが、本編でも憲法制定の経緯をまとめてみました。また日本国憲法の世界史的意味ついても触れてみました。多くの研究者の成果をなぞっただけですが、昨年前期にうけていた「憲法」の講義が少しなりと反映できたかなと思っています。(’17,6,14記)

家茂と和宮のそれから

 家茂と和宮

日本で最も有名な政略結婚をさせられた徳川家茂と和宮の二人、それからどうなったのかという話をしたいと思います。
授業では、よくする話なんだけど、本論から離れそうなので、こっちで補足しておきます。
Kazunomiya.jpg
和宮(1846~1877)、家茂の死後「静寛院宮」と名乗った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#/media/File:Kazunomiya.jpg
和宮が野蛮人と思っていた家茂君はとってもやさしいいい人だったみたいで、この二人は将軍家でもめずらしいとってもすてきなカップルだった、という話は授業中継でもしたとおり。

でも、なぜこんな風な仲良し夫婦でいられたのかなあ。

徳川家茂(1846~66)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:Tokugawa_Iemochi.jpg
よく考えると、これまでは、たとえ夫である将軍がいい人で、子どもの誕生こそがとか、大奥のしきたりがとか、なんとかかんとかまわりが口を出して、本来の夫婦らしい関係は作りにくかったんじゃないかな。
ところが、和宮の場合は相手が悪い。天皇の妹で、鳴り物入りで嫁いで来たんだから。
これまでの大奥のしきたりでは通用しない。
将軍としても大切にしなければならない存在だったし、相手の立場が高いだけに、まわりにとやかく言われることなく、奥さんを大切にできた。
だから、普通に家茂君の優しさが発揮できたのだろう。
ある意味、奥さんの立場が高かったからこそのいい夫婦になったのかもしれないね。
でも残酷なもので、家茂君は朝廷から「京都まで来い」と何度も呼び出され、天皇のガードマン?!をやらされたり、高杉からやじられたり?!、心労がたまって、長州との戦いのため大坂城にいたときに病気で死んでしまう。21歳。いまの数え方で20歳。
ストレスからか、スイーツが大好きで、虫歯で歯がボロボロだった。 それも病気の原因につながっているらしい。
死因は脚気(かっけ)。
脚気って知ってる。お医者さんが膝のちょっと下をトンカチみ
たいなものでトントンとたたくと、自然に足がぴょこんとはねる。あれが脚気の検査。今でもやってるのかな?
明治までは、これでたくさん死んだんだ。
明治時代の日清戦争や日露戦争の兵隊さんで、病死した人のかなりが脚気だったみたい。
どうしたら直るか。
僕だって、家茂君を直してあげられる。玄米を食べればいい。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんだから。
庶民はみんな玄米だったのに、やんごとなき将軍さんは白米ばかり食べさせられていたのが原因の一つだった。
明治の戦争の時は、かの森林太郎(鴎外)先生が、兵隊には良いものを食べさせてやりたいといって、兵士に玄米ではなく白米を食べさせつづけたのが、原因だといわれている。彼は脚気は伝染病だと信じていたからだけど、善意が裏目に出たんだね。
徳川家茂の石塔(増上寺)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:TokugawaIemochi_grave.JPG
余計な話はおいておいて、昭和33年徳川家の墓地改修のために将軍たちの墓が開けられた。そのときに和宮の墓も開けられた。
すると、人々はそのお墓の中で一枚の肖像写真を発見した。
豊かな頬をした童顔を残した若い男性のものだった。
それは家茂の写真だろうと考えられている。
しっかり見る前に風化してしまったらしいけど。
ちょっといい話だね。
注記:
和宮の墓地改葬に立ち会った鈴木尚氏は著書で次のように書いている。
「棺内には朽ちた布片のほかは服飾品としては何もなく、紙袋入りの石灰が順序よく並んでいるだけであった。唯一の副葬品として遺体の両前腕部の間に、土にまみれた1枚のガラス板が発見されたが、当初、これを重要視するもののいないまま、研究分担者が研究室に持ち帰り、整理のため電灯の光にすかして見たところ、これが湿板写真で、それには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の姿が見えた。ところが翌日、研究室で覗いてみたところ、写真の膜面が消え、ただのガラス板になってしまっていた。思えば誠に残念なことであった。」
(『骨は語る徳川将軍・大名家の人々』鈴木尚(東京大学出版会)p117)
また同書におもしろい記述を見つけた。和宮の顔の骨の形は夫家茂とそっくりだったのだ。以下、引用する。
「以上のように和宮の頭骨形質は、後期将軍である家慶、家茂と性差を除けばまったく同一の典型的な貴族形質を示していることになるが、和宮は両人と血縁関係が全くないだけに、この一致は甚だ興味がある」(同書P121)
さらに「現在日本人(女性)よりも江戸時代人(女性)よりも全体として将軍家慶に近似していることは明らかである」(同P121)
家慶は家茂の伯父さんでもある。ひょっとしたら、和宮は家茂と会ったとき、その顔を見て、兄弟のような、親近感を持ったのかもしれないね。16,8,8追記
注記2:
新たな話を聞いたので付け加えておく。脚気は当時「江戸病」と呼ばれていた。その背景には、白米を好む江戸っ子気質があり、転地療法が進められたそうだ。実際には、玄米やビタミンB1を含む食事をとることによって、病気の好転につながったのであろう。
ちなみに、徳川家の家慶、家定、家茂ともに死因は脚気であり、いずれも6月から7月(現太陽暦では7~8月)に死亡している。脚気は暑い時期に悪化する、むくみが出て心臓ショックがでて死亡することが多いようだ。
ちなみに、遺体は大坂から軍艦に乗せて運んだようだけど、夏の暑い時期だったので・・・・・。考えただけで気分が悪くなってきた。
遺体は芝の増上寺に土葬された。16.12.1追記

なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑!

なぜ将軍の子どもは短命だったのか?

 ちょっと余談をします。
ちなみに将軍たちには多くの子供が生まれますが、多く成人する前になくなっています。
また成人しても家定のように障害を持つ場合が多いのでした。
11代将軍家斉は53人の子供がいたことは有名です。
でも、徳川家では、家慶のあとの後継者に苦労していますね。
たくさん子どもがいるのだから、スペアは数えきれないほどいそうだ、という疑問、湧きませんか?
実は、早死がものすごく多いのです。
たしかに、前近代において、乳幼児期の死亡率は非常に高く、用があって、先祖の戸籍をみると、明治・大正期でも、大叔父・大叔母たちは、ものすごくたくさん死んでいました。
でも、将軍家は多過ぎないかと。
そこで、調べたところ、家斉の子供で成人したのは28人でした。しかし男子で20歳をこえて生存したのは4名、現在まで男系の子孫を引き継いでいるのは1家だけです。
次の家慶にいたってはもっと厳しく、27人の子供のうち20歳以上まで生き残ったのは家定だけで、家定も身体に障害をもち、虚弱体質でした。
なぜこんな状態となったのでしょうか。テレビを見ていて、面白い説を聞きました。当時の日本では肌の白さが好まれ、高貴な人々は顔というか上半身にべったりとおしろいを塗るようになっていたそうです。その厚さも後になるほど濃くなっていました。大奥の女性はなおのことでしょう。将軍の子らに母乳を与える乳母たちもすっぴんではなかったでしょう。当時のおしろいの原料、気になりませんか?
ウィキペディアでは
白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡する場合もあった。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。」
と書かれています。
つまりおしろいに含まれていた鉛が、母乳とともに子供の体内に入り、その結果、20歳にも満たない年齢で死亡した。なんとか生き延びても障害を発症したというのです。
真偽を判断する材料はありませんが、ありそうなことだと思えます。もし、家定の遺骨などを分析してみると調べてみると、この仮説が立証できるかもしれませんね。
以上、余談でした。
とおもって、ウィキペディアのリンクをつけようと確認していたら、
こんな「どストライク」のまとめを発見してしまいました。
http://matome.naver.jp/odai/2139725068194762801
そこにはこんな本の紹介も
徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明/新潮新書)
その一節
将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房をとおして鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知的障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当時の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。(p.181-182)
(「こんな本を読みました。」さんのHPの孫引きです)
 やっぱり、そうだったんですね。
生徒がよく聞いてくれたネタです。
家茂のカッケなんかとつなぐと、つかえますよ。

「治外法権」なしの通商条約なんて無理!~幕末編、UPしました。

「 幕末編をアップしました。」
と景気よく書くつもりが、アップしてから一か月以上たってしまいました。見ていただいたでしょうか。
大学時代に、少し時間を掛けてやったところなので、しゃべりすぎてしまいました。
「時間がない、時間がない」といいながら・・・。
言行不一致は教師の特徴?!(苦笑)。
幕末維新史は、かなり研究がすすんでおり、学生の頃のようにあっさりとしたものではなくなってきたように思えますし、逆にわかりやすくなったようにも思えますが。

「不平等条約」って言うけれど

内容紹介を兼ねて、
「不平等条約」と言うけれど、平等な条約なんてあり得たの?
ということを考えてみます。
かつて、「幕府の役人は無能」というステレオタイプで見られる傾向がありました。当時からもそんな風でした。
役人=公務員バッシングは今も昔も変わりませんね(苦笑)
いい加減な仕事しかしないとか、給料が高すぎるとか、お役所仕事とか、親方日の丸とか、ぼろくそに言われます。
教師もぼろくそに言われますから、公立高校の教員なんかは
まるで、「人間サンドバッグ」
大部分は、一生懸命やっていますよ。つつましい生活してますよ。
大金持ちは「セレブ」とかいって持ち上げるのに、なんで一生懸命やっている公務員や教師をひとまとめにしてバッシングしたがるのでしょうね。
役人にも教師にもいろいろな人がいます。そのヤバい人だけをみて、ひとまとめに叩くのはおかしいですよ。
叩きやすい者をたたくというのは、甘利さんや石原さんには触らずに、セコい舛添さんだけを袋にするというのとよく似てますね。
ついついグチをいってしまいました。

江戸末期の役人は優秀だった?!

ということで、江戸末期、一生懸命頑張ったのに、バッシングされまくった人たちについて見ていきたいと思います。
近年の研究の成果によると、和親条約や通商条約で外交折衝に当たった幕府役人の優秀さが強調されつつあります。
世界情勢をしっかりと冷静に把握したうえで、日本の国益を考え、列強の圧力に対しても、粘り強い交渉を繰り返し、かなりの成果を上げたと。

「治外法権」を認めず済みますか?

しかし「不平等条約を認めたではないか」という反論が聞こえてきそうです。
では、聞き返します。
幕末の時点で「治外法権」の条項をいれずにすみますか
当時の日本の裁判を考えてみてください。
「まず不衛生で、金がないといじめられ、人数が増えると数名が殺されるという牢獄に放り込まれ、
異様に発達したさまざまな拷問器具で自白を強要され、
お白洲という白砂利や土間の地面に座らされ、
未整備で人権などにはまったく配慮されない法律??で
弁護士もなく裁判され、
首を切られたり、自殺を強要されたりして
首をさらされる」
こんな裁判を受けたいですか?
逆に全然言葉も通じず、文化も法律も、そして価値観もちがう、「差別しない事の方が犯罪的」である当時の日本と、
「人間は平等である」西洋、
その間できっちりとした裁判なんてできますか
すぐ国際問題となってしまいます。
こんなリスクを侵してまで、当時の日本で裁判をしたいですか?
何事も、リアルに考える事が大切です。
ぼくなら、外国人の立場でも日本人の立場でも、御免蒙ります。
そう、この段階で「治外法権をいれない」なんて、あり得ないことなのです。

「治外法権」撤廃の条件は、日本の「近代化」

こうして考えれば、「条約改正」を実現する事の大変さが見えてくるでしょう。
明治新政府の連中は最初は甘く考えていたのでしょう。
その認識が大きく変わったのが、岩倉使節団の事です。
「治外法権」を撤廃するためには、
しっかりした国内法が必要ですし、裁判制度の整備も必要です、その法律も欧米人が「ま、いいか」という段階までいかねばだめです。
簡単に言うと「自分たちの仲間(国民)を、日本の法律・裁判の手にゆだねることができること、ゆだねても自国内で批判されないだけの国になっていること
これが治外法権の撤廃の条件だったのです。
だからこそ、条約改正には時間がかかったし、
条約改正をするためには、日本を近代的な、あるいは西洋的な国にしなければならなかったのです

当時の日本で関税率を決められた?

関税自主権がなかったではないか」たしかにそうです。
なら、当時の日本で、関税額をどのような基準で決めるのですか?決められたのですか?
結局は「外国に相談をして、言いくるめられて」というのが関の山です。
ですから、関税額を一定にするという協定関税という枠組みは、この時代では合理的なのです
そのなかで、幕府の役人たちは、できる限り高い関税率を守ろうとしました。
あとから条約を結んだイギリスなどは関税率の高さに強い不満を持ちます。
「ハリスの野郎、よくもこの率で妥協したな!」てな具合です。
ですから、長州が外国船を砲撃した事を理由に、協定関税率の引き下げを認めさせたのです。
関税でも、官僚たちは頑張りました。

役人たちが守ろうとした「国益」

では通商条約締結時、官僚たちが守ろうとしていたのは何か?
それは「外国人の国内旅行の制限」や「国内雑居を認めない
ことでした。
なぜなら、中国やベトナムの植民地化・半植民地化はこの条項を用いて進んだからです。
各地でトラブルが続発し、その処理に走り回る
攘夷派の連中が急速に力を伸ばしている、こうした状況でこれは認められないことでした。
幕府の外交官僚らはこれを守り抜きます。
これは評価に値する事だったと思います。
このように、幕府の外交担当の官僚たちは、
これまでの経過や列強間の力関係、他国の事例なども丹念に調べ上げて、粘り強く交渉し、条約を締結しようとしたのです
彼らが優秀だったからこそ、ハリスがヒステリックになっていた面もあるのでしょう。

「公務員は辛いよ!」

こんだけ頑張ったのに、ぼろくそ言われ、外国の手先みたいに云われ・・・。
「人間サンドバッグ状態!」
辛かったでしょうね。
Iwase Tadanari.jpg
岩瀬忠震https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iwase_Tadanari.jpg
とくにかわいそうなのは、先頭に立ちがんばった岩瀬忠震さん。条約を結んだとたんにお払い箱。
ならいいんですが、井伊直弼さんから謹慎処分にされ、
「使うだけ使ってこの扱いか(怒)」って感じで死にます。
岩瀬さん、攘夷を唱える連中にも言いたかったでしょうね。
そんだけ言うんやったら自分でやってみろ!」
新政府で外交担当となった伊藤博文さんや大隈重信さん、あるいは井上馨さんなんかは、岩瀬さんたちの苦労、身にしみて分かったのでしょうね。
ひょっとしたら、「あの連中、よくやった。俺たちならここまでできなかったかも・・」なんていってほしかったな。
そういえば、彼らの親分、木戸孝允(桂小五郎)さんは、幕府の外交官僚中島三郎助の弟子です、その苦労も少しはわかっていたかもしれませんね。
 ちなみに中島三郎助は箱館戦争で戦死します。

こんな授業、していません?

 不平等な条項は「治外法権」(領事裁判権)と「関税自主権がない事」(協定関税)、そして和親条約に含まれていた「一方的最恵国待遇」、この3つ。
日本は、このような不当な扱いを受け、外国側はなかなか交渉に応じず条約改正が実現したのは明治末年であった。
なんて紋切り調の授業、していませんか?
ごめんなさい、実は、私もやっていました・・・。
(注記)この趣旨にもとづき、「内地雑居」について、「ペリー来航の来航と開国」大幅に書き直しました。(2016/08/06記)