前半部分がつながりました。

文体などがブレブレです。すいません。

~途中の「工事中」がなくなりました~

 

このHPの「日本近現代史(日本史A)の授業」ですが、今回UPした「日清戦争と下関条約・立憲政友会」で、最初につくった日露戦争編と戦国時代から始めた部分がドッキングしました。「工事中」看板のうち、前のものをなくすことができました。

日露戦争編を作り始めたのは、まだ教師をしていた昨年末のことです。11月下旬授業が終わってまだ日が経っていなかった日露戦争のあたりを文章化しようとして、実験的につくったものです。

その後、本年2月、授業が終了したので本格的に始めようと思い、最初の部分、戦国時代あたりから作り始めました。幕末あたりになると、某大学の図書館を利用できるという素晴らしい環境のもとで、まとめています。おかげさまで、ちょっと気になるところは研究書などにもあたれるという信じがたいほどの幸運の中、仕事をしています。ただ現場を離れ、日に日に感覚が薄らいでいるので、ついつい難しすぎることを書いてしまいます。

「時間がない時間がないといいながら、どんだけ細かいこと書いてんね!」というおしかりもいただきそうです。

このようなやり方をしたため、困ったことが起こりました。日露戦争部分の文体も、雰囲気も、かなり変わってしまっているのです。日露戦争編は実際の授業の雰囲気が非常に強い一方、司馬遼太郎風の記述が多すぎたりしています。現在は、さっき記したような内容です。

こうして授業中継に断層が生じてしまいました。この断層をどうしようかと考えましたが、授業は毎年変化するのだから、と居直って、次は日露戦争前後の経済から、とりあえずの完成を目標に進めたいと思います。

それから、あと全体を見直したいとおもっています。

文体などがブレブレできっと違和感を感じられると思います。ご容赦ください。

毎回の事ながら、不細工な話で申し訳ありません。

 

 

 

戦争にむきあうこと~両親の知覧訪問

戦争に向き合うということ
~父と母の「知覧」訪問~

はじめて中国旅行をしようとした。

前回、おもわず中国のことを書いてしまいました。
その内容に手を加えようとしたら、訂正では済みそうもないので、別稿を起こすことにしました。
書きかけたのは、中国に最初に行こうとしたときの葛藤でした。
まずそこから書きます。
私は中学生か高校生の時代から日本軍が中国で行っていたことは、それなりに知っていました。かつての日本軍が中国へいくことをためらわせていたのです。
「「東洋鬼子」(残虐行為をした日本人をさすことば)の子孫が、どの面をさげて中国に来ているのだ」という目を恐れ、いやな思いをすることを恐れました。
でも、「実際に行ってみなければ分からない、いやな思いをするのなら、いやな思いをさせたからだ」と下腹に力を入れて、旅行に行きました。
立場は逆ですが、なんか、かつての侵略者である「日本」を訪れる中国人の心境に近いかもしれませんね。
そして、日本を訪れた中国人が感じるように、すくなくとも表面的には、「別にどうってことないやん」という感想でしたが。

戦争にかかわるところは行きたくない!

私の中国行きへの感覚は、戦中派であった父の思いとも重なっていました。それを引き継いでいたのかもしれません。父は、私が中国に行くという話を聞くと、「自分は絶対いかない」といいました。父もそこで何があったのか、よく知っていたのでしょう。そんなところへはいけない。
さらに戦場になった所にも行こうとしませんでした。ひょっとしたらハワイは立ち寄ったかもしれませんが。
父は卑怯だったのかもしれません。
戦争に向き合っていなかったのかもしれません。

両親が「知覧」にいった!

 とても仲がよかった両親ですが、このような父の姿には、母は批判的でした。
父の定年後、両親は日本中を旅行しました。

鹿児島で母は知覧特攻平和会館に父を誘ったそうです。ところが父は、拒否しました。
母は、父がいないとき、不服そうに私に話しました。
兄を二人戦争で亡くした母は、そこに兄たちの姿を見ようと思い、会いに行ったのかもしれないし、戦争の現実を見たかったのでしょう。
本当は行きたくなかった、「でも、いかなくちゃダメだと思ったの」
と、私に語りました。行かなくちゃダメなのは父も同じ、それが母の思いでした。
かなり日がたってからですが、今度は父が言いました。
「母さんは、知覧の特攻隊の記念館に自分を連れて行こうとしたんだ。そんなところ行けると思うか?」と。
よくしゃべる父ですが、歳をとってからは、踏み込んだ話は互いにしなくなっていました。意外といえば意外でした。
二人のそれぞれの話に、私は黙ってうなずくしかありませんでした。

「父のこと」

大正13年生まれの父の世代は敗戦時22歳、理系であったため召集を免れましたが、同級生の多くが戦死しています。特攻に参加した人もいたでしょう。そうした人を記念館に見ることが辛かったのでしょう。
さらに、そこに多くの遺書が展示されていることも知っていたのでしょう。その遺書、自分も書いたかもしれない遺書、それを見ることがたまらなく辛かったのかもしれません。
そして、「例によって逃げた」のかもしれません。

「遺書」にかけられた二つのフィルター

彼らの遺書には、二つの意味のフィルターがかけられています。
一つは、時代のフィルターです。多くの若者は、戦争の実態を知らされないまま、戦場に連れて行かれました。国家の繁栄を信じ、自分の死が自分の家族を、郷土を、日本国家のためになると無邪気に誠実に信じていました。
しかし、現在、あの戦争がいったい何だったのかを知り、特攻がいかに愚劣な作戦であったのか、時代のフィルターの欺瞞を知る今であるからこそ、事実を知らされないまま、死を強要された若者の無惨さが見えてきます。

「遺書」には書けなかった思い

今、多くの若者は時代のフィルターによって、戦争の実態を知らなかったといいました。それは真実でしょうか。戦争の実際をある程度知っていたう若者たちはそれなりにいたでしょう。特攻隊員の多くは、学徒動員された大学生たちだったのですから。では、なぜ、多くの遺書はそのことに触れていないのでしょうか。

 

リベラルな教育を受けてきた父は、この戦争の実際を、当時からある程度分かっていたでしょう。とすれば、父の目に映る遺書は違って見えると思います。
特攻が決まって遺書を書くことになっても、大部分の人は本当に書きたい遺書は書けませんでした。そう、「検閲のフィルター」です。作戦遂行上問題があったり、国家や軍部の方針に反するような内容であるような文章は残すことが許されませんでした。さらに「軍神」となる特攻隊員が特攻や軍隊を批判する文章を書くことは許されるはずがありません。
それにもかかわらず、いろいろな手段で書き残し伝えようとした人たちもいました。それが「きけ、わだつみのこえ」などに集められた手記です。
しかし、多くの特攻隊員、いや兵士たちも、戦争や政府・軍部への批判、特攻作戦への疑問、自分の死の無意味さなど本当にいいたいことがいろいろあっても、このフィルターに触れないことしか書けなかったのです。そこで、かれらはもう一つの真実である両親や親しい人への思いと感謝、郷土や日本の将来への思い、自分の死がなんとかその役に立って欲しいという思いを、このフィルターで許された内容を遺書に記し、作戦に参加し、命を失っていったのです。
特攻作戦の実態について、別の機会があればと思いますが、とりあえず、当時、知覧で特攻隊員を取材していた高木俊朗の作品などを読んでください。

「遺書」~ゆがめられた肖像

同じ時代を、同じように生き、一人一人の人間の生を、笑った顔やともに語り合った姿を知っていたからこそ、このような遺書しか書かせてもらえなかった無惨さを感じたのかもしれません。君の本当の思いはこれでいいの?君の「生」は、この遺書に反映されているの?
すくなくとも、君たちの「未来」、70年後の君たちの一人である自分にとって、そうは思えない。あれは、作られた無知、自分たちの命を無惨に消費し疑問をもつことを許さない国家、そしてそれを「時代の宿命」とあきらめてしまった当時の「自分」たちの、ゆがめられた肖像なのだ。

知覧特攻平和会館 に対する画像結果
三角兵舎 特攻兵たちはこのような兵舎で出撃をまっていた。http://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/05/a1/f0/5e/caption.jpg
そして、ここに展示された遺書たちは、このふたつのフィルターの存在について、あまり注意を向けないまま展示されています。そしてこの遺書たちは、かつてもっていたように、特攻隊員が国家のために命を捧げた「軍神」として美化されることに利用されうるものであり、戦争や戦死者の本来の姿を覆い隠すものとして利用されかねないものなのです。
父たちにとっては、かれらの遺書は、当時の若者であった自分たちの当時の「真実の一部」であって、かれらの約70年後の「未来」である自分から見ると、「あの時代」に国家の強制と作られた無知の産物であったのです。
そんなものは見たくない。

母の思い

母は、いいました。
「実際にあったことは、やっぱり見ておかなければならない。だからいやがってたけど、つれていったの」
両親とも、「やっぱり、いかねばならない」「そんなものいけるか」と、それぞれが同意を求めるように、私に話しました。
両親からの、実際にいったことについての感想の記憶はありません。
母は「やっぱり、いってよかった」といったような気もしますが。
母は、父に同意を求めたとおもいますが、父は無言だったのでしょう。
 母はつねづね、「あなたたちを、ぜったいに戦争に行かせたくない」といいつづけていました。
気丈な祖母が、自分の二人の子どもの死にさいしても涙を見せられなかったつらさを見ていたからでしょう。
戦死した二人の兄のことを楽しそうに語っていた母でした。知覧の遺書や写真に兄たちの姿を見て、自分のかわいい孫たちにこのような遺書を書かせたくないと思ったでしょうし、私たちに自分の父や母の辛い思いをさせたくないと、知覧の記念館で再確認したとおもいます。

「戦争のどのように向き合うのか」

十数年前に母が、昨年父も他界しました。
戦争について、きっと考え続けてきたけれど、ある意味、その問いがつらすぎると避けてきた父。自分のふたりの兄と子どもを失った母(私の祖母)について考えてきた母。甥たちが通っていた小学校の先生から、母が「平和の語り部」をしていると聞いて驚いたことがありました。母は、大好きな父(祖父)が遺族会で活動することにはやや批判的だったようにも感じます。
戦場にも行かず、空襲で逃げ惑ったわけでもない、あの時代にしては「幸福な」二人です。それでも、それぞれの体験を通して、戦争に対して向き合ってきたのでしょう。
「知覧特攻平和会館」へのそれぞれの、ちょっとした、しかし誰かに話したくて仕方なかったセリフから感じることができたような気がしました。

新しい「井戸を掘る」こと~「反日」と「愛国」

新しい「井戸を掘る」こと

~「反日」と「愛国」~

日本の「エロ本」と中国の「反日」本

 

中国にはもう10数年前以来、いっていません。
最後にいったとき、立ち寄った中国のドライブインに、日本のコンビニの週刊誌やエロ本のような感じで、日本帝国主義時代の暴露本(ある人たちの言い方の「反日本」)と「米中戦えば」のような軍事関係の本ばかりが並んでいました。ストレス解消が、日本ではエッチな本で、中国はナショナリズムなのか、と変に納得した思い出があります。

不思議な「日本人論」

別の旅行の時は、空港の本屋で研究書風のペーパーバックを買い、とぼしい中国語の知識でながめました。加藤周一などそうそうたる日本人の本を引用しているのですが、結論は「日本人は歴史的に人を殺すことに躊躇しない(※細かいニュアンスは私の中国語の能力では無理です)性格を持っている」。それは「日本人の道徳である『武士道』からくる」というトンデモ本で、いくら何でもこんな書き方はないやろ、と愕然とした記憶があります。それも戦前ならともかく、戦後についても妥当するかのような書き方だったのです。(正確には「のように思いました」)
そのとき、切に思ったのは「ぜひ、日本国憲法下の現在の日本に来て、生活者としての日本人を見て、自分の説が妥当なのか、その目でたしかめて欲しい」ということでした。

怖いところでなかった「シリア」

それからのち、私の旅行先は中近東や南アジア中心となり、中国へ行くことは少なくなりました。
今は、決して行けないシリアも、当時は「怖いところやろ」といわても、「なんの心配もない」と答え、その通り何の心配もなく帰ってきました。アレッポのバザールで困っていたら、日本語で声をかけてくださった人もいました。あの人たちは、どうなってしまったのでしょうか?

反日デモと「知日」

その間、中国では尖閣をめぐる反日デモがありました。ちょっと行きにくいかな、とも思いました。その後、中国では日本旅行ブームがおこり、爆買いブームとなり、最近は中国旅行者も多様になってきました。テレビ報道では雑誌「知日」に代表される日本への冷静な視点をもつひとたちも増えているようです。
ストレスのはけ口を「反日」にもとめていた中国がどのように変わったのか、変わっていないのか、興味があるところです。

中国のドライブイン化した日本

しかし、ふと考えてみました。今の日本ってどうなの?って。
なんのことない、日本自体がかつての中国のドライブインのようになっているのじゃないかと
ストレス発散の対象を、他国や他民族をおとしめ、必要以上の日本礼賛をするナショナリズムに求める人が増えているんじゃないかと・・。
学校の授業で歴史学の常識をいったことが、全国紙や雑誌に取り上げられ、ネット上には「反日」というようなヤジがあふれだす。聞くに堪えないヘイト発言が路上でまき散らされ、ヨーロッパでは逮捕されるような旗をもった人たちが「愛国」といっている。
中国への侵略はなかった」と公言している人物が防衛大臣となる。

中国の「反日」主義者と日本の「愛国」者

中国でもっとも「困ったちゃんの反日」主義者を鏡に写したような、日本の「困ったちゃんの「愛国者」があふれている。
こうした人たちの特徴は、自分を逆の立場に置いて考えるということができないことです。
古いタイプの中国の「反日」主義者は主張しそうですね。政府に統制されたニュースとプロパガンダを信じ、実際の日本の姿を見ていないような人たち「やっぱり日本人は変わっていない」と。
エロ本代わりの「反日」本が、過去の侵略の話でなく、現在のこととして書かれる・・・。恐ろしい未来予測です。

今、「井戸」を掘っている人たち

日中関係で、周恩来でしたかが「井戸を掘ってくれた人のことは忘れない」といっていました。
現在はいろいろな人、とくに庶民が井戸を掘るようになってきたのではないでしょうか
私は、さっきもいったようにもっと多くの中国の人が日本に来て欲しいと思っています。最初は爆買いでもいい。たしかに、ちょっと「うーん」というところもあるでしょう。でも、長い目で見ましょう。

これって「自虐史観」ですか?

私が幼い頃の日本人がそうだったのですから。
ノウキョウさん」といわれて世界のひんしゅくを買っていたのが日本人だったことを、健忘症の日本人は忘れています。
ついでにいうと、日本の町はとても汚かった。新聞やニュースでは「欧米の町は何でこんなにきれいなのだ。日本の町がゴミだらけなのに。」という特集記事がよくありましたよ。川の水は、悪臭を放ち、京都の鴨川は化学染料のおかげで「色彩豊か」でした。
恥をさらしますが、ちょっとアカン奴だった私は町中でよく尿意を催しました。困った両親はやむなく繁華街の街路樹に立ち小便をさせてくれました。ごめんなさい&お恥ずかしい。でも、そんなことは、それほど珍しいことでもなかったのです。
欧米の人は思ったでしょうね。「だから日本人は・・・
こんな風な日本の恥ずかしい歴史をいう私の言い方は、きっと自虐史観なのでしょう。
でも、実際あったことを忘れるのは健忘症で、「あったことをない」と強弁するのはウソですし、人間として卑怯だと思います。

外国に行くと『愛国者』になる!

だから、中国の人のなかには、欧米の人だってそうですけど、確かにうーんという事をする人はいます。でも、日本に住んでいる人、この場合、やはり日本人というべきでしょうでも、そんな人はいくらでもいます。問題は、その人間であって、その国籍や民族を問うべきではないでしょう。文化の発展段階というかもしれませんが、他者の目にさらされることのない状態におかれていたことの反映でしょうし、ひょっとしたら世界を知らない日本人(「日本で生まれ育った人」の方がいいか)が、何の問題もないことを、おかしく考えているだけかもしれないのですから。逆ももちろんです。(私はくしゃみだけは派手にしないと気が済まないたちです?!ふたたび、お恥ずかしい。)互いに学びあい、長い目で見ることが大切なのでしょう。ノウキョウさんを迎えたパリの人たちもそうしたのですから。
日本の人も、どんどん外国に行くようになったこともあって、変わったでしょ。当時よく言った言葉があります。「外国に行けば『愛国者』になる世界を知って、こんなことはすべきでない、逆に日本にもこんないいところがあることを学んできました。
だから、中国の人はもっと日本に来ればいいと思います。欧米よりもはるかに安く来られるのですから。ぼくが中国の本がある程度理解できるように、ある程度は漢字で分かるのですから。
しかし、できれば「ノウキョウさん」でない形で。

「よい日本の人」が新たな「井戸」を掘る

実際に目で見て日本の良さも、ダメさも知ってほしい。そしてより深い日本理解へつながってほしい。できれば「よい日本の人」と知り合い、「日本のよさやダメさ」にも触れ、「中国のよさ」も気づいて、よい意味の『愛国者』となって欲しい。それが中国のよりよい発展へとつながっていくと期待しています。
私は、多くの人たちが日本で「よい日本の人たち」にふれることが、新たな「井戸」を掘ることになると思っています。そして、あいがたいことに、今のところ、多くの日本に住む人たちもいっしょに「井戸」を掘っているのだと思っています。たいそうなことではありません。ほほえみ合うだけでも、落とし物をしましたよ、どうかしましたか、の一言でも、それが新たな「井戸を掘る」ことだと思っています。

新たな「井戸」を埋めさせてはならない

残念ながら、先に見たように、井戸を埋めたくて仕方がないような人が日本でも増えてきたのも事実ですし、やはり残念ながら、今の中国のリーダーたちの中にも、「井戸」の大切さを理解していない人たちがいます。
しかし、私たちは、彼らが気がつかないうちに、庶民の普通の良識によって、日本と中国の間で多くの「井戸」が掘られるようになっています。新しい「水路」を築きつつあります。
両国政府の言動に惑わされたり、偏見と対立をあおるえせ「愛国者」にまどわされることなく、「井戸」に「水路」に清涼な水をたたえていきたいものです。
※ある依頼をした方が、北京に居られると聞いて、そのメールに添えるつもりで書き出した文章がもとです。
せっかくだから、もう少し書き継ごうと思うと、えらく長いぶんになってしまいました。

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて~

 明治維新編をアップしました。

今の研究環境はすごい!

大学で課されたレポートとかかわって、自分の先祖につながる人を調べていました。すると、つぎつぎと面白い事実が出てきて、先祖の戸籍をあつめ、市史や県史をよみ、ネット上から国会図書館や郷土資料館などのデータにアクセスし、大学図書館からも史料を探し、なんてことをしているうちに、しっかり一ヶ月使ってしまいました。
しかし、いまの研究環境の進歩はすごいですね明治や大正時代の官僚名簿や、昭和初年の業界史や郷土史が国会図書館のネット上で簡単に見られました。著作権の関係で見にくい国会図書館の書籍も、大学図書館の協力で閲覧・複写できました。
台湾総督府で働いていた人物の足取りを検索エンジンでつかまえることもできました。
おかげで、名前しか知らなかった私の曾祖父の写真ゲットすることもできました。
こうしたことで、先祖調べにはまってしまい、一区切りつくまでと調べている内に、六月をまるっぽ使ってしまい、HPの更新ができませんでした。

近代日本のテーマ「追いつけ、追い越せ」

さて、「明治維新」の範囲、こんな無茶苦茶を書いていいのかと思いながら、作ってみました。
昨年の授業でやった内容を元に書いているのですがどうも大胆な仮説ばかりで、生徒にそんないい加減なことを教えていたのかというご批判もいただきそうですが、ご容赦ください。
見ていただければ分かりますように、近代日本のテーマを「列強に追いつけ、追い越せ」とまとめてみました。
その中心は軍隊の近代化から、しだいに条約改正交渉の基礎となる広義のインフラ整備へと移っていきます。
それを実現するための強大な権限をもつために、天皇の権威を利用したこと。
天皇の権威をにぎりつづけた大久保や岩倉をはじめとする少数のリーダーが開発独裁的に強引な欧米化政策を進めたという流れを中心にまとめています。この言い方は、数年前から始めた言い方です。

「開発独裁」ということ

開発独裁」などという大胆ないい方をつかっていいのかとも思いましたが、大学時代に受けた先生の授業で聞いた話を思い出し、ネットでも授業の実践例があったので使ってみました。
ついついソ連や中国の「社会主義」の方が似てそうだと知ってて脱線させました。
こんなふうに、実際の授業では、かなり大胆な話をするのですが、さすがにそれをおこして、ネットに載せるのは躊躇しました。まあ、しがない元高校教師の思いつきということで、大胆ないいかたをしています。
というのは、歴史の授業というのは過去のことのみではなく、現在の世界を分析する手段を生徒たちに与えたいと思っているからです。過去のこの事例と、現在のこの事例、こういう面では共通しているところがある」といった目を養って欲しいからです。
ある意味、高校教師は楽です。研究者の皆さんがいいたくてのど元まででかかっていても、しっかりした論証がなくていえないことをいってしまいます。ただし、「こんな風に考えられないかな?」という形で。
居直った言い方をすると、かなり大胆にいわないと生徒には歴史の意味も含めて、生徒には伝わらないのですよ。きっと、批判があると思いますが・・・。

「開発独裁」、辞書によると

もとにもどして「開発独裁」の件、ネット上の辞書を見てみると、以下のような記述があったので、ある程度安心しました。
<以下、引用>
「開発独裁」
経済発展の途上にある国の政府が、国民の民主的な政治参加を抑制しつつ、急速な発展と近代化を目指す体制。福祉や自由の尊重などの政策は後回しにして、工業・資源開発・土木・軍事部門に経済資源を優先的に配分し、国力の底上げを図ろうとする。第二次世界大戦後の韓国やフィリピン・インドネシアなどに見られたが、政権内の腐敗を招くことが多かった。広義には第二次世界大戦前のドイツや日本の体制、ソ連など共産主義国家の体制をも含む。
「デジタル大辞泉」
<引用終わり>

「国民」(=「日本人」)の創出という視点

 また、近代国家を形成するという点に関しては、「国民(「日本人」)」の形成という視点を重視しました。
昨年度の授業から、おっかなびっくりだったのですが、幕藩制(「ヨコのカベ」)と身分制(「タテのカベ」)という「二つのカベ」を取り除くことが「日本人」を形成する大きな前提になるという風に説明してきました。
今回は、授業中継としてまとめる中で少し深めてみようと思いました。ちょうど、本年度前期にうけた大学の講義の中でネーション(「国民」「民族」)の形成の話があり、ネーションの形成には公教育が大きな意味を持つというゲルナー「民族とナショナリズム」の説が紹介されたこともあり、日本ではどうだったのだろうということで、教育にかかわる内容も触れてみました。

ネーションとしての日本人の成立を追求すると、さまざまな意味での江戸時代のユニークさ・面白さがもっと際立ってくるような気がしました。

とおもって近年の歴史の研究書を見ると、1990年代以降の歴史学の世界の人気のテーマが「国民国家」だったんですね。自分の不勉強さを暴露してしまいました。

また思いつきで使った「二つのカベ」ということも、言い方は別として、研究者も使っていたので、これまたほっとしました。
 よく考えれば、教科書や啓蒙書、あるいはテレビなどを通じて、新しい研究を学べていたのだということを身にしみて感じた次第です。
< 注記>
本来なら7月中に出すべき内容の文章だったのですが、放置していたため、あとから出した自由民権編と順番が逆になってしまいました。ちょっと不細工になったことをお詫びします。