明仁天皇~象徴天皇の実質化をめざして


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象徴天皇制の実質化をめざして

~裕仁天皇と明仁天皇(2)~

前編:裕仁天皇~「天皇制」をまもるたたかい

戦前、天皇はどのように権力を行使したのか?

裕仁天皇自身は、戦前・中の「絶対主義的」な天皇制から、戦後の「象徴天皇制」への移行をどのように考えていたのであろうか。
よく語られるのがこのような説である。
戦後はもちろん、戦前においても天皇は政治的発言をしておらず、したがって田中内閣の崩壊と二二六事件、そして終戦の「聖断」という例外を除いて政治的発言はなかった。
したがって、具体的な政治過程には直接的な責任はなく、道義的・形式的なそれは別として、戦争責任がない。
戦後、裕仁天皇とその周辺、さらには政府などが公式見解としたともいえるもので、東京裁判などでも展開された。GHQなども結果的にはこの説を容認する。
しかし、近年の研究は、天皇が積極的に自己の意思を政治に反映させるメカニズムが戦前の天皇制に存在したことを明らかにしている。
吉田裕の文章を引用する。

 戦前の天皇制国家にあっては、国務と統帥の両面にわたるすべての権限は、統治権の「総攬者」としての天皇の大権事項に属し、最終決定には天皇の承認=裁可を必要とした。この裁可の前に行われる、主務責任者からの事前説明や天皇の意向の非公式的な打診が、「内奏」とよばれる。たしかに天皇は、よくいわれるように、政府や軍の決定した最終案を裁可の段階ではそのまま受け入れることを原則としていたが、裁可にいたる内奏の段階では、積極的に自己の意思を表明したり、主務責任者に責任を求めるという形をとって(いわゆる「御下問」)、自己の意思を間接的に表示したりする場合が少なくなかった。(「昭和天皇の終戦史」P17)

「内奏」と「御下問」という形式を利用して、天皇は「主権者」としての意思を政治に反映した。東条英機内閣が、強い権力を維持できたのは、「内奏」をくりかえすことで天皇の信任を得ているという威光があったから、と吉田は指摘する。
天皇が自分の考えを語らず輔弼にあたった人々を尊重し裁可したというのは一面の真実ではある。しかし、重要な事項は、総理大臣や主務大臣、軍関係者など責任者があらかじめその趣旨を天皇に伝え、その意向を打診し、その上で「裁可」をもとめたのであるから、天皇は公的な場で意見をのべることもなく、黙って「裁可」したのである。
他方、実際に「内奏」の場で天皇は積極的に発言している
戦争末期になると、作戦面にも口を出す。「戦果をあげる」絶好の機会と考えた沖縄戦は積極的であった。結果として戦艦大和は無謀な特攻作戦に出撃し、沖縄守備隊は無謀な反撃をおこない大打撃を被る。にもかかわらず沖縄戦で「戦果をあげる」ことの出来なかった天皇は側近に終戦工作を命じることになる。
こうした経過は、木戸幸一日記など公刊史料で容易に見ることができる。

裕仁天皇にとっての象徴天皇制は?

「内奏」と「御下問」によって天皇の意思を政治に反映されるシステムは新憲法の下にも引き継がれる。
1947年成立した片山哲内閣で外務大臣となった芦田均は、新憲法の趣旨に沿って当初「内奏」を行わなかった。それにたいし裕仁天皇は側近を通じて「内奏」を行うように申し入れ、芦田は悩みながら応じた。内奏の席で、天皇は芦田に米ソ関係について「日本としては結局アメリカと同調すべきでソ連との協力は六ヶ敷と考えるが」などといった「御下問」を行った。芦田は釈然としなかったようで、日記に「頭の中に又しても新憲法のことが浮かんできた」と記している。

裕仁天皇(昭和天皇) 日本国憲法に署名しているときの写真

裕仁天皇からすれば、たしかに田中義一内閣の崩壊や二二六事件では「若気の至り」ともいえる「誤り」を犯した。終戦の御前会議ではやむなく「聖断」という「逸脱」を行った。しかし、それ以外の局面では、憲法上の規定はともあれ、イギリス流の立憲君主として輔弼にあたった人々の意見を尊重して行動した。イギリス王室と同様に「内奏」をうけ「御下問」を行ったが、最終的には補弼に当たった人々に従い裁可したとの意識があったと思われる。
新憲法での「象徴天皇制」にかかわる条文にかかわらず、国民とは「相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」、「聖断」によって日本を破滅から救った自分にたいし、政策担当者が「内奏」することに問題があるとは考えなかった。
裕仁天皇はこれまでから主権者としてマッカーサーとの間で会談にのぞみ、その意図をくんで行動してきた。天皇は、新憲法に規定された「象徴天皇制」が、国際関係のなかでマッカーサーと日本政府がやむなくとった妥協の産物であることをよく知っていた。
そうであるのなら、憲法の条文を尊重し、自らの権限を国事行為に限定せねばならないと自ら律する意識があったかどうか、疑問である。
実際、新憲法制定後もマッカーサーとの間で、これまで通り会談し意見交換をおこなう。そうである以上、それまでのスタイルを変える必要はなかったし、会談のためにも情報を仕入れ政府の見解を知る必要もあった。

これにたいし、衆議院で憲法委員会の長をし、元外務官僚でもあった芦田には、こうした裕仁天皇のやり方は疑問であった。東京裁判が続いている時期に、天皇が戦前と同様の振る舞いをつづければ、新憲法が形式的に過ぎないと見なされる危険があり、GHQも天皇を守りきれない場面も想定できた。
天皇の行幸を一時中断するよう申し入れたのも芦田であった。

なお「内奏」の慣習は明仁天皇の代になっても続いている。明仁天皇の内奏は、大臣の認証などにかかわるもの、海外訪問などにともなうものなどが主であるが、災害などにかかわってはかなりつっこんだ質問などもなされるという。「御進講」などとともに、象徴天皇制とのかかわりでの妥当性が問われる部分である。

沖縄メッセージと安保条約

裕仁天皇はこの後も政治的関与をつづける。
それは、ソ連とその影響下にあると考えられていた共産党勢力への警戒感からきていた。天皇はソ連および共産主義の伸長に恐怖感を抱いていた。かれらに「天皇制廃止」「共和制」への意向があると考えていたからである。
食糧メーデーなどの体験もあったのであろう。軍隊がなくなり、警察力も不十分な中、自らを守ってくれるのは米軍しかないとの思いがあったと思われる。
こうして天皇は米軍の引き留め工作、日本や日本周辺から撤退しないように、いろいろなチャンネルを利用して工作をすすめる。
1947年9月、天皇は側近を通しアメリカによる沖縄占領の継続と軍事基地化を要望するメッセージ(日本語訳はここを送る。アメリカの占領が終了し、米軍が「日本」から撤退しても、ソ連の侵攻があったり天皇制廃止を志向する勢力が伸長し混乱が生じた場合には、機動的に「日本」「天皇制」を守りうる米軍が日本周辺にいることを望んだ、そのために沖縄を数十年にわたり提供しようというのである。このメッセージはアメリカ側の政策決定に少なからぬ影響を与えた。このメッセージの背景にアメリカの一部勢力の働きかけがあったと考えることも可能である。

ダレス(1888―1959)反共主義的な立場からアメリカ外交をリードした。国務省顧問として対日講和を推進し、サンフランシスコ対日講和条約締結に大きな役割をはたした。(Wikipedia「ジョン=フォスター=ダレス」より)

1949年講和交渉が本格化しはじめると、天皇は日本本土における米軍基地存続に消極的なマッカーサーよりも、米軍基地の自由使用をもとめるダレスに接近しようとした
憲法学者の豊下楢彦は、訪米した池田勇人が吉田茂の意を受けて「日本側から米軍基地の自由使用を依頼してもよい」とアメリカ側に伝えたいわゆる「池田ミッション」への天皇の関与を疑っている。
さらに講和会議参加・日米安保条約調印に難色を示した吉田茂に渡米を求めたのも天皇であるも考えられている。(この項豊下楢彦『安保条約の成立』『昭和天皇の戦後日本』などを参照)

非凡で冷徹な現実主義者、「裕仁天皇」

裕仁天皇はアメリカに接近し「傀儡天皇」として戦後を生きた。かれの行動の中心にあったのは、狭義の「天皇制」を守ること。「万世一系」の天皇家を絶やしてはいけない意識であり、「三種の神器」を後世にひきつぐという使命感であった。
天皇は、宮中クーデターともいえる手法で戦争を終結させ、速やかに国内外の陸海軍の武装解除を実現、マッカーサーに接近「傀儡天皇制」化もいとわなかった。「象徴天皇制」という「国体」のあり方も受容した。側近をも含む臣下を戦争犯罪人として差し出し、忠実な臣下であった東条英機らの処刑も見送った。沖縄の提供を申し出し、命の恩人・マッカーサーの意に反して「日本国内の米軍基地の自由使用」という日米安保の道を開いた。
それは「狭義の天皇制」を維持するという点にきっちりと焦点をあてた動きであった。私たちは、そこに目的のためには手段を選ばない非凡で冷徹な現実主義的政治家の姿を見ることができる。

象徴天皇としての「裕仁」天皇

裕仁天皇は多くの問題をも残した。とくに重要なのは戦争責任の問題である。天皇は、結局この点に公的に言及することがなかった。
1975年、訪米後の記者会見でこの点を聞かれた裕仁天皇は
そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
との回答を行い、多くの人をあきれさせた。
裕仁天皇のこうした姿勢は、国民主権と基本的人権、平和主義という日本国憲法全体の趣旨と、象徴天皇制の規定とのあいだにみられる矛盾ともあいまって、天皇制への疑問につながった。
裕仁天皇が天皇の座に居続けることは日本が戦争責任を果たしていない「象徴」であるとの声も大きかった。
裕仁天皇の時代、天皇は『主権者たる日本国民の総意』とはいえない実態があった。
さらに戦後急速に進んだ日本社会の変化は天皇と天皇制の存在を希薄化させていた。

日本社会の変化と明仁天皇

戦後、裕仁天皇がいた時代、日本社会は激変を遂げていた。
敗戦・新憲法の発布にともなう新「民法」は明治憲法下の「家」制度を法的に否定した。さらに高度経済成長は農村から都市への人口の大量流出をもたらし、都市における「核家族」化を定着させた。こうして「家」制度は法的にも実態的にも弛緩し、「本家・分家」関係などは前時代の遺物として捨てられたいった。
こうした社会の変化に伴う「家」制度の弛緩は、天照大神を祖先とするとの万世一系神話、天皇家こそが日本民族の「本家」であるという正統化の根拠を掘り崩し、天皇制は「統治」の根拠を失った。そもそも、神話を根拠として「天皇制」を維持することに無理があったのだ。
もし残された根拠をさがせば、一つは「伝統」というあいまいなものであり、今ひとつは「日本国憲法」の「象徴天皇制」の規定となる。
日本国憲法は、天皇が日本「民族」の「本家」ではなく、日本「国民」の「統合の象徴」であることを求めていた。
天皇は「国民」を見つけなければならなかった、
ここに明仁天皇夫妻の模索があった。

伝統の継承者、象徴天皇制の体現者として

渡米に出発する皇太子時代の明仁夫妻

明仁天皇は2017年8月の「ビデオメッセージ」で、天皇は「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し」と、「家業」としての天皇制(「狭義の天皇制」)を維持し、「万世一系」を自分の代で絶やしてはいけないという義務と責任を重視した父と同じ問題意識を共有していることがわかる。
そのためには「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」とのべ、自分の役割を憲法における「象徴天皇制」の規定を実質化するところにみつけたと語った。
このための中心的な手段が全国巡幸である。明仁は皇太子時代から、裕仁天皇よりも、さらに精力的にこれを進め、全国を三巡したといわれる。
裕仁天皇の巡幸が、天皇自身のコミュニケーション能力の低さのせいもあって「上から目線」と受け止められがちであったのに対し、明仁天皇は美智子皇后に導かれなか、障がい者や災害被害者など「周辺化」されたり、放置されがちな人々の元に、ひざまづいて同じ目線で、ときには手も握りながら話を聞いた。
とくに力を入れたのが、沖縄訪問である。沖縄の苦境には裕仁天皇がかかわったものも多く、反天皇感情がとくにつよい地域であった。皇太子時代の1975年には、火焔瓶を投げつけられる事件さえ発生した。それにもかかわらず、あるいはそれゆえに、ライフワークのように沖縄を学び、訪問をくりかえした。
高齢になってからもパラオ諸島など太平洋上の戦地など渡航が困難な場所をも訪問、こうした姿勢は戦争責任にたいして明確な対応をしなかった裕仁天皇と好対照を示すと考えられた。

明仁天皇の課題は「天皇制」の存在意義のうすらぎにどう対処するかであった。天皇は解決策を「国民の統合」、とくに周辺化されがちな「国民」(「民族」ではない!)の包摂に向けた。そうした模索は「国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。」と語られる。
日本国憲法の規定を守り、実質化しようとする明仁天皇の姿勢は憲法を改正しようとする勢力には困った存在であった。天皇の「国民」と直接つながろうとする姿勢は、「天皇の意思」と称して自らの政治を正当化した戦前の政治のあり方へ復帰をめざす勢力には困った行動であった。
ちょうど興味のままに臣民のなかに入り込もうとして山県有朋ら当時の指導者の頭を抱えさせ、「病」とともに存在を抹殺された大正天皇のように。
明仁天皇の行動は問わず語りに「政治の貧困」を指摘していた。

「平成」~「明仁天皇」の時代

バブル経済とバブルの崩壊

裕仁天皇が死亡し、明仁天皇が即位したのは奇しくも冷戦構造が解消され、グローバル化が本格化する1989年のことであった。
その数年前にはじまったバブル経済は、勤勉に働けば会社などでの地位も給料も上がり、自分の家をもつことができ、貯金も貯まり、右肩上がりにどんどんよくなっていくという「昭和ドリーム」を、「金」の洪水で押し流す狂騒の時代であった。
ところがこの1989年の年末をピークにバブル経済を支えた株価上昇が下落局面に入る。翌年の地価安定策は地価の暴落の引き金を引く。こうして1991年にはバブル崩壊とよばれる大不況へと突入する。
好景気のもとで拡大を繰り返したものを中心に多くの企業が倒産したり、整理・統合を繰り返した。安価な労働力をもとめ生産拠点の海外移転などを加速させた。国内の生産拠点の減少は、急速に進んだIT化の進行とあいまって、新規採用の手控えと中高年層の「リストラ」をすすめる。就職氷河期とよばれる時代がはじまる。

日経連の提言と非正規雇用の増大

1995年日経連の「新時代の日本型経営」とのペーパーは、企業の労働力流動化政策を本格化させた。これをきっかけに、正規雇用者をへらし非正規雇用者に置き換える流れが本格化、政府もこれに応える政策をとることで、労働市場は大きな変化を余儀なくされ、人材派遣会社が急成長した。(急成長した会社の多くが法令を遵守していない条件化に働かせていたことが労働者たちからの指摘で明るみなり、撤退を余儀なくされる)
こうして正規雇用者と非正規・不安定雇用者との間の断裂線が生じる。新規学卒者や高学歴層も、中高年の旧中堅管理職らをも含めて多くの人々が不安定雇用(さらには失業者)の中に飲み込まれる。
元来、不安定雇用は、主婦のパート労働や学生アルバイトを想定していたもので、低賃金で雇用条件や労働者保護の体制も未整備である。そこに多くの人々が流入したことで低賃金で不安定な雇用、そして失業者が社会全体に広がる。不景気の高まりの中でホームレス、ネットカフェ難民、ワーキングプアといった低所得層が広がりを見せた。
不安定雇用の広がりの中で若者たちは将来の展望が持つことができず、ローンを組むことも困難で住居や自動車などの耐久消費財を購入するに消極的にならざるをえず、そのことが国内景気をいっそう引き下げた。デフレスパイラルがおこっていた。
かれらが結婚や出産には躊躇しがちであった。高齢者のいう「おれたちの若い頃は・・」というお決まりのセリフはまったく説得力をもたず、逆に年代間のギャップ、さらには反発を感じさせる結果となった。
他方、正社員たちもキャリアからの脱落をおそれ結婚・出産に躊躇することも多くなった。こうして人口減少、社会の高齢化が加速された。
人口減は、経済成長の源泉であった国内市場をさらに収縮・枯渇させた。
不景気と失業者の増大、労働市場の深刻化は日本全体の沈滞ムードを促進した。さらに1995年に連続して発生した阪神大震災・オウム真理教事件などの諸問題が人々を不安に陥れた。
こうした不況はシングルマザーや中高年齢の失業者層、家族の介護が必要な人、さまざまな障害をもつ人々など、「弱者」たちに厳しいものであった。
人生のはじめで財や人間関係で疎外された人、家族や友人などの人間関係をもたない・つくれない人々・学校歴を得られなかった人々など湯浅誠が「溜め」をもたないと読んだ人々は、立ち直りのきっかけとなる条件に欠けており、とくに厳しい状態にあった。(湯浅誠『反貧困』など)
ところが、こうした弱者に対する視線は厳しくなりつつあった。かれらの「貧困」は「自己責任」だと決めつけられた。

新自由主義論~「自己責任」ということば

1980年代以降、世界的な広がりを見せた新自由主義は、「助け合い」「お互い様」といった伝統的な人間関係を、「勝ち組・負け組」「自己責任」という冷淡な関係におきかえた
グローバリズムや情報社会などを利用して巨万の富を築んだものは「成功者」憧れの的であり、失敗したものは「敗者」であった。それは「自己責任」の結果であった。
新自由主義はあらゆるものに敵意を見せた
公務労働者など労働法などが整備された職場は既得権益に守られた「ぬるま湯」「親方日の丸」などと揶揄され、「抵抗勢力」「不採算」などとして「改革」の対象とされた。
バッシングの対象はとくに貧困層や社会的弱者に向けられる。かれらは「生産的でなく」「金のかかる存在」だというのである。「子育て」や「介護」「障がい」などで働けないこと・働くことが困難なことも「自己責任」の一言で片付けられる。
福祉や教育は金がかかる「不採算」な事業であり、福祉に頼らざるを得ない人々が「甘え」だと批判される。生活保護は「不採算の極み」であり。親が生活保護をうけていたタレントは強烈なバッシングをあび、事実上業界から追放された。福祉の対象となるべき人々が「水際作戦」で追い返えされ、餓死という結果を引き起こす。
こうした悲劇が起こったときなどのみ、「福祉事務所は・・」「児童相談所は・・」と思い出したように「責任」を追求する。
新自由主義と「自己責任論」はあらゆるものに残酷である。

引き裂かれ、荒廃していく社会

こうして高度経済成長のもとで「一億総中流」と浮かれていた日本でも大きな所得格差が生まれ、国民の間に断裂線が引かれた。
「勝ち組」とみなされがちな正規雇用者たちも「自己責任」が問われる。
21世紀初頭、各企業さらには教育現場にさえ「成果主義」「評価」が持ち込まれた。「成果」をあげることができないものは「能力に欠ける」と非難され、昇級・賃金・手当などで差をつけるのが当然とされ、ついには職場を追われる。自らの権利の保護や協力・協働を主張するものの多くも排除されていく。職場には、他人の「目」や評価を気にする「神経症」的な症状が生まれる。働くものは孤立化し、協力して働くことが困難な職場も生まれた。しかし、成果主義のゆきすぎによって、職場を去る、去ることを余儀なくされた人々も多く生まれ、職場は活力を失ない、仕事の質の低下を引き起こした。
前世紀末にすすんだグローバル化とIT化は休息のない24時間を単位とした労働をつくりだした。高給を得る「勝ち組」のなかでも、緊張感と孤立感の中で、心身に変調を来し、仕事を続けられなくなる人々も生まれてきた。
社会の中に、対立や競争、無視や否定など様々な形をとった断裂線が生じ、孤立する人も生まれた。こうした事態のなかで、さまざまな場所に、社会のストレスが蓄積した。

グローバル化とIT社会化は、人々の間に新たなバーチャルな結び方を生み出した。
1990年代以降、急速に広がったインターネットはさまざまな人間、企業、グループなどを世界規模で結びつけた。孤立していた人たちの間に新たな関係をつくりだしたり、情報を交換し、ときには苦しみを共有する機能ももっていた。
しかし社会や生活の中で蓄積した自らのストレスや独善的な考えを匿名性も利用しながら差別的で過激な言葉によって発散することも可能となった。自己の利益や他者を陥れるための卑劣な手段も簡単に行われるようになった。無責任で安易な「正義」感が蔓延し、無責任な攻撃が行われた。こうした攻撃と新自由主義、自己責任論は親和的であった。
こうしてネット上の攻撃は新自由主義的風潮と結びつき、「新たな敵」を国内外に求めようという動きが広がりを見せた。
「敵」はあらゆる所に見つけることができた。
「敵」は「空想」と「主観」、ネットの記事やワイドショーなど「他人の評価」、都合で適当な基準で安易にみつけられ、「認定」できる。
その対象は、歴史問題で厳しい要求をつきつける中国や韓国・朝鮮といった近隣諸国・民族、自らの保守的な価値観にあわない考えの持ち主、とくに夫婦別姓を主張するなど主体的な生き方をめざす「生意気な」「かわいくない」女性、性的少数者、福祉政策の受給者(生活保護受給者や老人、シングルマザーやファーザー)、学校や教師、公務員、労働組合、迷惑な隣人などさまざまな場所に求められる。
「ネット」環境は「不寛容」の風潮を拡散し、自己正当化をすすめる。意図的であるなしにかかわらず、断裂線はさらにあらゆる場所に引かれるようになる。
社会はさらに「不寛容」の色彩を強める。

不寛容・分断の政治のひろがり

日本政治もこうした流れと呼応する形で、不寛容と分断をすすめていた。
1994年に導入された衆議院の選挙制度改正は少数意見を切り捨てる傾向を強化し、すべてを多数決で決め少数者に配慮する必要はないという風潮をすすめた。とくに2012年の第二次安倍政権成立後は、こうした傾向が顕著となった。
憲法の最大の守護者であるべき職務にいるはずの首相が、憲法を「みっともない」と語り、自らに批判的な「国民」たちを指さし「あんな人たちを勝たせるわけには行かない」と絶叫した。こうした姿勢は「行政府の長」たる首相がその職責を放棄したにも見える。
こうした政治は、階級対立をはじめとするさまざまな対立を公的な権威によって調停するという国家本来の役割を放棄し、一部にのみ奉仕している姿と見える。
多くの人から政治への信頼が失われ、公的な存在であるという権威が失われていく。権威を失いつつある権力は、自らの政治を正統化するための新たな権威、統合の手段を必要とする。
本来なら、こうした流れに、憲法改正による天皇の元首化が位置づけられるはずであった。
しかし、実際に明仁天皇がめざす「象徴天皇制」はこうした狙いとは異なるものであった。

「主権者たる国民の総意の象徴」として天皇

「平成」の天皇、「明仁天皇」は不寛容と分断の風潮と「逆行」するかのような行動をとることで「新たな国民統合」をめざした。
明仁天皇は、自身がひざまづき苦しんでいる人の手を握りながら話を聞いた。
その対象は、日本国家から見捨てられていた沖縄であり、原爆の被害を受けた広島や長崎であり、大災害をうけ心の置き場をなくした三陸や雲仙、熊本などの人々であり、ハンセン病患者施設や老人福祉施設の人々であった。離島に住む人々であった。
政治に切り捨てられたり、切り捨てられているとされがちな「国民」に焦点化されていた。
周辺化されがちな「国民」によりそうことで「国民」を再統合する役割を果たそうとした。
こうした姿勢は、新自由主義の広がりの中で不寛容の色をつよめつつある政治や社会に違和感を持つ人々に歓迎された。それは「日本の古き良き伝統」につながるものとしても位置づけうる。

「憲法の遵守」ということ

明仁天皇は、日本国憲法に定められた「日本国と日本国民の総意」としての「象徴天皇」であろうとし、そのため「政治の貧困」からはじき出されがちな人々にも目を向け、新自由主義と不寛容の風潮に違和感を感じる人々の前に「親切」「おもいやり」「人間の絆」「一致協力」といった伝統的価値観を対峙させることで国民の再統合をすすめようとした。
現政権がめざす「憲法改正」は「象徴天皇としてのあり方」を否定することであり、国民の一部を「あんな人たち」とよんで排除するような「不寛容」と「分断」の政策は「統合の象徴」としての自分の立場と反することになるから。

こうして明仁天皇夫妻はことあるごとに「憲法の遵守」を語り、不寛容と分断の政策には精一杯の苦言を呈する。

「国家装置」としての象徴天皇

行政権力の強大化、立法権力の弱体化、司法権力の行政権への追従という現在の事態は、かつてマルクス主義政治学者プーランザスが「権威的国家主義」と名づけた状態であり、一見強力にみえつつも、その実態は階級的・社会的諸関係の凝集という国家の本質的な役割から見ればあきらかな機能低下を示している。
実際に、現政権は、左派勢力はいうまでもなく、これまで保守・リベラルとされてきた勢力からの支持も失いつつある。
政治不信と小選挙区制による政治的無力感が政権を支える。
こうした無力感のなか、国家装置の一つとしての「象徴天皇制」が、自らの存在を維持しようとする自己運動によって、保守・リベラル層はもとより、反対派であった護憲・左派勢力の一部にまでウィングを広げ、階級的・社会的諸関係の凝集の一部を担い、国家の統合を支える構造となっている
こうして象徴天皇制は国家の維持装置としての役割をより増し、国家を支える面を強めることになっている。

「”Xday”の悪夢」と新しい「改元」

この文章は2019年4月下旬に書いている。
2019年4月末をもって明仁天皇は生前退位し、5月1日徳仁天皇が即位し「令和」という元号が用いられることになる。
その様子をみるにつけ、「平成」の出発のことを思い起こさざるを得ない。
”Xーday”直後、街中に喪章と半旗になった「日の丸」がかかげられ、街には「君が代」が流れるなど、強制的に「弔意」が押しつけらた。人々は話し声まで声を潜め、家にこもってレンタルビデを見るしかない状態に追い込まれた。
その中心が元号であった。
元号は「天皇による時間支配」そのものであり、「このように天皇制は日本を支配しているのか」と、重苦しさのなかでいやというほど実感させられるできごとであった

それにたいし、今回の改元は天皇の寿命と改元を切り離すことで、元号を普通の時間軸に調和させようとした。これにより平成から令和への「改元」は一方における回想と歓迎ムード、他方における事務的な変更という形で、淡々とすすむ。
これによって天皇制の持つ「恐ろしさ」「負の側面」は隠蔽される。天皇制に対する強い反感は表面化せず、廃止を求める人たちも冷静に事態の推移をみている。
こうしたなかで、明仁天皇がねらっていたような「国民」と「天皇制」の関係が完結していくことを感じる。
「天皇が日本の時間を支配する」というあり方が顕在化することは象徴天皇制にはふさわしくなく、天皇の死による改元という事態が、天皇制への違和感と反発を買い、天皇制の存続に悪影響を与えることを恐れた。
こうしたマイルドな形の改元によって、天皇制の影響が広がっているのがみえる。こうして、裕仁天皇の望んだ天皇制の継続がすすんでいく。

天皇制は維持できるのか。

天皇制は今後とも維持できるのであろうか。いくつかの論点について記したい。

今回の改元によって明らかになったことは「一世一元制」のもつ魔力である。
天皇が退位することで、時代が「平成」から「令和」へ変わる、自分たちの生きている時間が天皇によって区切られる。
たしかに明仁天皇は退位という手段をとることで「天皇による時間支配」という原理をややマイルドにした。「天皇が時間を支配する」ことはあきらかである。違和感をもつ人も少なくない。

実際問題として元号は不便である。同じ年に2つの時代が併存すること、十進法ではなく元(1)年から始まるため、簡単な計算することは難しく、つねに頭の中に換算表を持たねばならない。
不便さのゆえに元号に変わって西暦を用いる流れは止めることができない。
政府はなんらかの手段で「令和」の使用を強制せざるを得ないと考える。
ともあれ、不便さとグローバルスタンダードが「令和」と天皇制を追い詰めていく

「つくられた伝統」としての皇室儀礼

天皇制を正統化する論理はもはや存在しない。天照大神の子孫であり、日本民族の「本家」であるという万世一系の神話はもはや効力を失い、その正統化は、古い家柄、伝統的な存在ということと、理由はともあれ「日本国憲法」に規定されているというにとどまる。

まず天皇家の「伝統」についてみていく。その多くは「つくられた伝統」である。
一世一元の制が明治(睦仁)天皇から始まったということは周知の事実であるが、天皇という称号自体も19世紀初頭の光格天皇の時代に再開されたものである。「院」と呼ばれる時代が長く続いていた。(藤田覚『近世政治史と天皇』など参照)
「天皇陵」の選定・整備は大部分が明治以降に行われたものである。明仁天皇が退位の報告のために訪問した「神武天皇陵」自体、場所を幕末に決め幕府が整備したものであり、もともとはある寺の基壇に過ぎないという説が有力である。
江戸時代までの皇室行事や宮中のルールの多くが仏教に基づくものであったため、その「伝統」は権威の源を神道に求めた政府に破棄され、新たに作られた。
明治初年まで「歴代天皇と皇族の霊を祀る」儀式は宮中の中にある仏間「黒戸」で平安時代以来の歴代天皇の位牌などを拝む形をとっていた。しかし明治初年、黒戸は廃止されて位牌とともに泉涌寺に移された。それにかわってもうけられたのが宮中三殿の一つ皇霊殿であり、そこに歴代天皇と皇族の霊を祀ることにしたのである。建物はもちろん、そこで行われる神道風の儀礼も基本的に明治5年以降にはじまったものである。
宮中儀礼や行事で江戸中期以前に遡るものは非常に少ない。
(この項、安丸良夫『神々の明治維新』など参照)

基本的人権を奪う「天皇制」

天皇制は憲法、さらには近代の基本的人権との関係でも多くの矛盾をもっている。
近代天皇制はその権威を神道で位置づけたことから、信教の自由との関わりで問題視されることも多い。大嘗会を公的な行事としてではなく、天皇家の私的な行事としておこないとの問題提起をした秋篠宮の提起はここにかかわる。

明仁天皇のように「日本国と国民の統合の象徴」であろうとして国民に天皇として接する行為自体が「国事行為」に限定された天皇の職務に反するものであり、「自らの退位を希望するメッセージ」などは明らかな政治的行為であり、憲法に反するとの指摘もある。
しかし、よく考えればこうした様々な問題の背景には、「天皇制」という制度自体が、思想信条の自由や良心の自由、職業選択の自由、幸福追求権、などほぼすべての基本的人権に反する制度である証明ともいえる。
さらに「天皇は男性皇族に限る」という皇室典範の規定が男女平等に反すること、皇族の結婚は皇族会議の許可が必要なことが婚姻の自由に反することは言うまでもない。
このように天皇制は、天皇家の人々の権利を奪うことで維持されている
さらに、「天皇は男性皇族に限る」という明治期に定められた皇室典範の規定の背景には、天皇家の一夫多妻制を当然視する宮中の制度が存在していた。現在においてこうした制度が認められるはずがない。さらに、皇位継承権を持つ男性と結婚した女性に妊娠・出産を求め、しかも男子であることを求めることは、深刻なセクシャルハラスメントである。
実際に天皇家においては後継者問題が深刻となっている。
人権侵害とセクシャルハラスメントを前提としている「天皇制」はいずれ行き詰まりを見せざるざるを得ない。
明仁天皇の退位と、徳仁天皇の即位が数日中にせまってきた。

<前編:裕仁天皇~「天皇制」をまもるたたかい

 

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