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日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!

山川出版社「詳説日本史」P259所収の表より抄録

歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。

1868年1月3日~王政復古のクーデタ

さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。

「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生

こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。

しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。

逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。

和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。

1年は13ヶ月?~閏月の話

もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。

映画「天地明察」と日本の暦について

ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。

季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。

 

2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」

映画「天地明察」と日本の暦についてhttps://www.offinet.com/news/entry_73578.html

和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。

大隈重信

わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
 改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました

時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ

青山忠正氏は次のように記します。

時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
 

 金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。

新たな元号を「平成」と発表する当時の小渕官房長官

こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します

もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?

最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。

<参考文献>

青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017

広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978

ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について  https://www.offinet.com/news/entry_73578.html

注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。

「5つの名前」と、壬申戸籍

「5つの名前」と、壬申戸籍
~幕末維新期の「名前」(2)

江戸期の名前の複雑な構造

新潟県村上市の町並み

新潟県村上の内藤家中に鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
この人物に興味のある方は、ここを参照してください。
源平藤橘の姓はよくわからないが、先祖は三河の鳥居氏であることは確かである。Wikipediaでは、三河の鳥居家は熊野権現の神職の末裔であり、平清盛から平姓をもらったというから、源平藤橘の「姓」は「」であったとおもわれる。したがって、前回のブログ風に、記すと下のようになる。

鳥居・与一左衛門・平・和達

前回のいい方をすると、鳥居がで、与一左衛門が通称、平が、和達が名(ということになる。

村上・鳥居三家

村上には鳥居家は、代々家老を引き継いできた鳥居本家(内蔵助家)のほかに、早い時期に分出した中鳥居、そして後年になって分出した末鳥居の三家が存在していた。
戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に参加し、「官軍」に敵対した責任を取って切腹(政府の命令は「斬首」)した鳥居三十郎は、本家内蔵助家の出身である。
鳥居三十郎については別稿参照

さて、この二つの分家には別の呼び方がある。末鳥居は杢左衛門家であり、中鳥居の別名が与一左衛門家である。つまり和達の通称のように見える「与一左衛門」は通称ではなく、鳥居家を分類する際に用いられる「家名」でもあり、家長が代々襲名する名であった。
遠山金四郎が、役職に就いてからは「金四郎」でなく「左衛門尉」という官名を名乗ったように、家督を襲名した当主が「氏」とは別に「家名」ともいえる「与一左衛門」を名乗ったのだ。老舗や芸道によくあるものである。
ならば、こうした人々は実際にはどう呼ばれたのであろうか。「家名」でよぶことも多かったであろうが、家族や友人などもっとくだけた場合には使いにくかったと考えられる。また「和達」というような諱は一般には使わない。となれば和達という人間を識別するべき名は公的にはなくなってしまう。
そこで、公的でない場合は、ふだんは通称にあたる別の名を用いていたようである。

鳥居与一左衛門和達と鳥居存九郎

旧鳥居与一左衛門家現況
https://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelseaより

現在わかっている「和達」の名を挙げておこう。かれの生まれはよくわからないが、子どもたちの年齢などから逆算すると、天保5(1833)年ころの生まれと想像できる。
安政2(1855)年、藩主信親の近習として江戸住まいをしていた頃の名は「喜代之助」、安政4(1857)藩主の名を受け水谷栄之丞(孫平治)、窪田潜龍とともに樺太探検をおこなった時は「存九郎」、家督を継ぎ、町奉行となってからは「与一左衛門」となる。
郷土史家の大場喜代司氏が当時の史料をもとに記されたと思われる、慶応2年の正月のようすを記したエッセイで、「和達」は「与一左衛門」ではなく「存九郎」と呼ばれている。このことから、平時は「家の当主代々の名」である「与一左衛門」ではなく、それまでの「存九郎」という名で呼ばれることが多かったと思われる。

戊辰戦争の中で

慶應4年正月に開始された戊辰戦争は、和達は、2月新潟で行われた越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加、さらに奥羽列藩同盟の中心であり、村上藩に強い影響力を持つ庄内藩にも行くなど、主戦派の中心の一人として活躍していたと思われる。さらに、北越戦争が始まると、実際に戦闘にも参加している。
出撃して以後の動きはわからなかったものの、村上落城後、羽越国境での新政府との戦闘に参加しており。いったん村上に戻っていたのか、会津・米沢を経由して庄内へいったのかについては、わからない。庄内藩の降伏によって、戦争が終わると、村上帰還、市内の寺で謹慎生活に入ったようである。当初は外出し、会議への参加するなど、かなりも緩やかなものであったと考えられるが、新政府から取り調べの命令がでて、監視は強化された。反新政府派の有力者として、帰順派の江坂與兵衞暗殺事件にかかわった可能性もある。

「鳥居三十郎追悼碑」(村上市)

義兄(年下であるが)鳥居三十郎切腹後、8月に三十郎を含む戊辰戦争死没者の大施餓鬼供養を行った際の中心人物であったとの記事も見られる。
その後、こうした事態を重大視した新政府は、和達らを東京召喚、それにもかかわらず東京で謹慎中に外出し狩りを行ったため、に謹慎を続ける羽目に陥った。
その後の経過はわからないが、同一行動を取っていたと考えられる水谷孫平治が隠居し家督を譲ったのが明治4年7月であるので、おそらく同じ時期に村上に帰還、隠居して家督を長子・和邦に譲ったと考えられる。

壬申戸籍の編成の中で

当時、和邦は12歳であったが、家督を相続し、おそらく元服、与一左衛門家の当主となったとおもわれる。与一左衛門を名乗った可能性もある。
鳥居和邦についても別稿参照

このように仮定すると、和邦の名前は以下のようになっていた可能性がある。

鳥居・与一左衛門・平・和邦
(とりい・よいちざえもん・たいら(の)・まさくに)

ちょうど、この年、新たに戸籍法が制定され、翌年から、いわゆる壬申戸籍が編制されはじめる。前回も書いたように、これによって、いくつかあった名前が一つに固定されていく。いくつかある名前から、一つを選ぶのであるから、どこの家でも、かなり混乱したと思われる。
入手することができた鳥居録三郎の戸籍から、こうした混乱を読み取ることができる。一枚の戸籍の中に、3タイプの名前が併存しているからだ。
録三郎の父、つまり和達の欄にはこれまで見たことのない名前が出てくる。「淇松」である。なんと呼ぶのかはわからない。なお入手した戸籍には「淇松」の名の上に「亡」の文字が付されており、和達は、入手した戸籍が編成された時には、すでに死亡していたことがわかる。
戸籍の筆頭者は兄の「和邦」、そして弟が「録三郎」、末弟が「鍗次郎」となる。
この三つの名を見ると、和邦は諱を、録三郎鍗次郎は通称、あるいは幼名を、そして和達は隠居名をそれぞれ用いたことがわかる。そして和邦の通称は、法律上=戸籍上は消去され、録三郎と鍗次郎は諱もまたないまま、そのとき用いていた名前が登録されたことになる。
この時代、人々は、どれだけこの選択の意味を理解していただろうか。これまでと同様に、いくつかの名前が公的にも使えると考えていたのかもしれないし、年長になれば録三郎らも「諱」のような名を付けられると思っていたのかもしれない。しかし、名前の変更は、これ以降、簡単には認められなくなる。それを知って、愕然とした人間もいたと思われる。そのためかどうかはわからないが、録三郎の子どもたちには、再び一族の「諱」に用いられた「和」の文字が用いられ、「諱」系の名前が戸籍を占めるようになっていく。
鳥居鍗次郎についても別稿参照

引き継がれた江戸時代の「名前」たち

こうした江戸期の名前のつけ方のルールが、明治期以降の伝統的な日本人の男性の名前のつけ方に反映している。
①一つ目は、「」系を引き継ぐ氏名である。江戸期までは特別な場でしか用いられなかった「諱」であるが、やはり「最も大切で、系図に記される名前」ということで登録されたのであろう。「和達」「和邦」などのように、2字のからなる名前がおおい。なお「徹」「彰」など1字のみの名も、公家や大名家などに散見できることから諱系と分類することができる。
②二つ目は、「通称」(幼名)系の名前で、それまでから一般的に使っていたので親しみ深かったともいえる。「金四郎」「録三郎」「鍗次郎」のように三字となることがおおく、「喜代之助」のような四字の場合もありうる。しかし、「通称」は公的なものとは見なされにくかったため、鳥居家では長子ではない子どもたちに付けたようにも思われる。
③三つ目として考えられるのは、「官名」「一族代々の名」である。
遠山金四郎のような「左衛門尉」のようなたいそうな名前はないとしても、現在におおい「大輔」のように、律令制的な官位を引き継ぐは「○○すけ」(「すけ」には「助」・「介」・「佐」などさまざまな漢字が用いられる)」を中心に、多く存在する。明治当初は「○○衞門」「△△兵衛」などがそうしてものともいえる。
実際には「与一左衛門」のように、これまでの「名字」にかわる「家名」という性格を持っていたものもあれば、すでに官名の性格を失って通称としても用いられることも多かったと考えられる。
百姓の代名詞である「権兵衛(ごんべえ)」さんや猫型ロボットの「ドラえもん」が律令制的な役職から来ているなどといっても、どん引きされるか、笑われるだけであろう。
④四つめは、その他の名前である。鳥居家の場合は隠居名である「淇松」がこれに当たる。さらに「松陰」「子義」といった「」や「」が登録されたこともあったと思われる。僧侶は「法名」が用いられた。多くは二字名であり、難しい漢字が並ぶことがおおい。

日本人の名前にはいくつかのタイプが確かに存在する。それは、このような江戸時代の名前のつけ方から来ているものがあることは明らかであろう。

新たな疑惑~不幸は明治天皇一家にも

以前、「なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑」という記事を書きました。その内容は、将軍家、とくに江戸末期の将軍の子どもたちの短命は、大奥の女性たちの化粧品白粉(おしろい)にふくまれる鉛ないし水銀中毒ではないかというものでした。また、同一のことを主張するブログも紹介しました

ところが、話はこれで終わらないことに気がついたのです。発端は、牧原憲夫氏が著した「民権と憲法」(岩波新書)の記述です。その部分をよんでください。
明治天皇には「皇后には子供がなく、側室五人の間に15人の子(男5女10)が生まれたが、10人は夭折(ようせつ)し、成人した男子は典侍柳原愛子の子・明宮だけだった。」

幼いころ、巡幸にきた現皇后(当時は皇太子妃)の化粧をみた小学生連中が、あまりの分厚い白粉のため、とても「不敬な」ことをいっていました。昭和四〇年代の初めでもそんな状態でした。明治時代の宮中では、もっと大量の白粉を使っていたことは明らかでしょう。現皇后の白粉にはもちろん鉛や水銀は入っていません。しかし鉛入りの白粉が製造中止になったのは昭和初年(Wikipedia「鉛中毒」)のことです。それまでは、鉛入りの白粉を使っていたのです。そしていずれかの時期までは、宮中で使っていた白粉も、鉛や水銀を原料とするものでした。

Emperor_Taishō
大正天皇(Wikipedia「大正天皇」より)

ですから、明治天皇の子どもたちも、大奥と同様に、乳首までしっかりと鉛を塗った女性の母乳を飲んでいた可能性が高いのです。

明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった」とし、さらに「大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ」と記されています。
 さらに、当時の公家・武家の華族の三歳以下の子どもの死亡原因の大部分が脳膜炎様症状であることが問題になっていて、1923年に京都帝国大学教授が「原因は慢性鉛中毒ではないか」との研究成果を発表した、実は明治末年からすでに疑いが持たれていたとも書いてありました。
明治天皇の子どもたちの死産や夭折は、鉛ないし水銀の中毒であった可能性が濃厚といわざるを得ません。

さらに大正天皇は分娩時、すでに湿疹があったという記事ものっていました

こうしたことを総合すると、大正天皇は鉛ないし水銀中毒の胎内中毒をおり、さらに母乳からさらに金属毒を摂取した。このため出産時より湿疹がでており、虚弱であり、生まれてすぐ脳膜炎様症状を発症した。なんとかこういった「病」を乗り切ったものの、後遺症や体内に蓄積した金属毒を原因とする障害で苦しみ、その特異な行動などで人びとの密かな「嘲り」(差別!)をうけ、最終的には公職をまっとうすることができず、のちの昭和天皇を摂政とし、印象の薄い人生を終えた。
このような人生であったとかんがえられないでしょうか。
気がつきませんか?
家定将軍と大正天皇の共通点
兄弟の大部分が夭折し、生き残った唯一の成人男子。虚弱で、障害をもち、短命。

しかし、他の子どもたちが金属毒に耐えきれずなくなったのに、大正天皇(もしかしたら家定も)が生き残ったのは、DNA的には長寿遺伝子をもっており、元来は強健な身体の持ち主であったのかもしれません。
大正天皇の4人の男の子たちは全員が成人し、もっとも短命であった秩父宮でも50代まで生き、最も長命の三笠宮は昨年(2016年)101歳で大往生を遂げました。
大正天皇の子どもたちは、明治天皇の子どもたちとは好対照を示しています。
宮中では、密かに不幸の原因を探っており、鉛や水銀の入った白粉を使わないようにしたのではないかとも想像されます。
彼の子どもたちの長寿はこうしたところから来ているのかもしれません。(もちろん、栄養状態もよかったのでしょうが・・)
金属中毒は、足尾鉱毒事件によってひきおこされた利根川流域の人々にたいしてだけでなく、宮中の女性のぶ厚い化粧を通して天皇家にも取り憑き、不幸をもたらしていました。
大正天皇はこうした犠牲者であったとおもわれます。
 

徳川時代の物価はどのくらいだったのか?

徳川時代のいろいろな値段は?

江戸時代の物価って一体どのくらいなのでしょうか。
私がでている授業でおもしろいデータがありましたので、そのレジュメ(パワーポイント)のデータをもとに紹介します。

三種類の貨幣(金・銀・銭)が併存

江戸時代には金貨、銀貨、銭(銅貨)の三種類があったことはご存じの通りだと思います。
帝国書院「図説日本史通覧」P167
帝国書院「図説日本史通覧」P167
日本国内で、地域的な偏りをもって、三種類の貨幣が流通し、取引されていました。なにか、現在の世界のようですね。

金貨・銀貨・銭の交換レートを確認しよう。

まず交換レートです。1625年現在のものです。
金1両=金・銀4分=金・銀16朱=銀16匁=銭4000文
これが  1764~71年の 明和年間には
金1両=5000文
と交換されるようになります。
先生の感覚で、1文は10円と換算されました。
あくまでも根拠は・・感覚とのことです。
だから、ここでは
1両=4000文=40000円
という換算式ですすめていきます。

注記:他のHPでの換算率について

 
※京都故実研究会「江戸時代の貨幣価値と物価表」というHP
(http://www.teiocollection.com/kakaku.htm)では次のような換算式を用いています。
江戸前期 25.0円/文
    江戸中期 20.0円/文
    江戸後期  5  円/文
江戸期の平均 16.5円/文
このHPには、詳細な物価表がきっちりと紹介されており、引用したりするときはこちらの方を使った方がよいと思います。
※江戸時代のちょっとびっくりな文化と生活「江戸時代の文化と生活」というHP
http://www.edojidai.info/bukka.html)では、いろいろなベースを元に換算しています。
 
     1両=  4 万円 (米ベースの換算・日銀による)
    1両=12~13万円 (そば代で換算)
            1両=30~40万円 (大工の手間賃で換算)
 
 こうしたなかから、このHPでは
    1両= 8万円 1文=20円 が妥当としています。

日銭稼ぎの都市住民収入は月収10万円以下

 まずは収入から、ここでは日銭稼ぎの都市住民の例です。
大工・左官・土方など 1日324~540文(3240~5400円)
1か月 6万~10万円    年収 72万~120万円
野菜棒手振(野菜の行商)1日100~200文(1000~2000円)
1か月 2万~4万円  年収69万~48万円
1日の数字と月収の間のずれがあるようです。
計算したものでなく、それぞれ別々の史料から出されたのか、月20日働いたぐらいの金額となっています。
古典落語の主人公や時代劇の名脇役の収入です。
かなり厳しい生活だったことが分かります。
1文=20円で計算しても、月収4万円~20万円
     やはり厳しい数字となっています。

中級武士でも年収160万円

では、武士はどうでしょうか。
先生が示したのは100石取りの中級武士の例です。
しかし、中小の藩では上級武士に準じる場合もあります。
100石取りというのは、100石の収穫が見込める土地分の年貢がもらえるということで、実際に手に入るのはその40%程度の40石ということになります。
武士100石取り 実質40石=40両
        年収160万円位(月給13.3万円
  という悲惨な数字となってしまいます。
中級でこの数字ですので、下級武士の場合はいっそう厳しかったことがわかります。
武士たちが、各種のバイトに励んだり、次男や三男を養子に出したことの意味が少しは見えてきそうです。

住まいは狭いが、家賃は安い

生活費の内の住居費です。町屋の家賃が示されています。
イメージ 1
江戸の長屋(写真・深川江戸資料館) http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/46836013.html
ちなみに「一般的な裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさで、部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半ほどしかありませんでした。」(「江戸時代の文化と生活HP」http://www.edojidai.info/kurashi/uranagaya.html)
ということで4畳半、1Kの住まいの家賃です
     文政年間(1818~29)の例です
    長 屋・・・ 1か月 800~1000文(8000~10000円

        棟割長屋・・ 1か月      500文       (5000円

この両者の違いはわかりません。先生が調べた史料の関係かもしれません。

一人一日5合の米を食べているが・・

    つぎは食料費です。
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江戸時代の庶民の食事(再現)http://edo-g.com/blog/2016/02/meal.html/edo_meal_l
江戸時代の人(とくに都市の住民)はわれわれの想像を超える量の米を食べており、一人一年間1石以上消費しています。
1日一人あたり5合前後の米を食べていたのです
ちなみに、昭和の初め、宮沢賢治が
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」(雨ニモマケズ)
と書いています。1合の米を炊いても数日間残るという現在とは大きな違いですね。
夫婦と子ども1人の3人家族で1年3石5斗4升と計算されています。
米以外の食品の価格について、現在とは雰囲気が違いますね。
牛乳2合2万円とか、ゆで卵1個200円とか、
びっくりしますね。食べ物というより薬だったのでしょうね。
魚も結構高価なものが多かったこともわかります。
      米代 1年3人分 3石5斗4升で約6両(24万円)
                  1か月2万円
 塩・味噌・油・薪炭代 1年約11両(44万円)
                  1か月3万円
その他の食料品と外食費
 豆腐1丁(現在の4倍の大きさ)56~60文(500~600円)
 納豆4文(40円)                    しじみ1升6文(60円)
 まぐろ1尾200文(2000円)

 初鰹1本(棒手振り売り)1000文(10000円)

 酒 1升 40文 (400円)慶安年間(17世紀中期)
      文化年間(19世紀初期)には 200文 (2000円)
 砂糖水 8~12文(80~120円) 水一荷4文(40円)
 牛乳2合2分(2万円)  ゆで卵20文(200円)

外食はどうかというと、これもそんなに安くはない。
いきおい、屋台で腹を満たす。鮨も天麩羅も屋台で食べられていました。
 鰻丼100文(1000円)のち400文(4000円)
 屋台で食べると
そば16文(160円)  握り鮨1個8文(80円)
  天麩羅1個4~6文(40~60円)
縄のれんで一杯
  酒1合30文(300円)
茶店では 4~10文(40~100円)
串団子1串5文(50円)  大福餅や桜餅一個4文(40円)
羊羹一棹66文(660円)

 さまざまな生活費

さまざまな生活費ともいうべきものの値段を示します。
   刻み煙草 10匁(38g) 8文(80円)
   灯油          1升(1か月分)    410文(4100円)
                      →幕末には    2000文(20000円)に急騰
           下駄         50~100文(500~1000円)  
           草鞋        12~16文(2000~3000円)
           蛇の目傘   1000文(1万円) 
           番傘   200~300文(2000~3000円)
           銭湯                  6文(     60円)   瓦版     4~30文(40~300円)
           宿場駕籠    250文(2500円)
           髪結                 28文(    280円)
             →19世紀以降32文(320円)→幕末は48~56文(480~560円)
           出会い茶屋利用料 1/4両=1000文(10000円)

人々の「楽しみ」の値段

人々の楽しみにかかる費用です。
歌舞伎の値段の上下の差、びっくりしますね。
また浮世草子などの本を買うのは非常に高かったことが江戸の貸本文化を支えたことも見えてきます。
歌舞伎小屋(HP「歌舞伎への誘い」より)http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/1/index.html
           歌舞伎 桟敷席 銀35~40匁(2~3万円) 
                 一般席    100文       (1000円)
                立ち見席              10文          (100円)
           相撲  桟敷席   銀43匁    (27000円) 
                                木戸銭   銀  3匁      (2000円)
          浮世草子                    銀25匁  (17000円)
今も昔も、一攫千金を夢見た人たち、当時の宝くじがこれ。

  富籤 12文 (120円)

1730年では賞金25両(100万円)が5人に当たるということでしたが、賞金はどんどんエスカレート。100両(400万円)から、ついには1000両(4000万円)にまで達します。

男性の「天国」?!吉原にいくと

   吉原の太夫の揚げ代 1回  1両2分(60000円)
 しかし、その裏返しで、こういった悲劇もあります。
  吉原への娘を身売り得るのが 50両(200万円)
      妻を身売りしたら  80両(320万円)
  娘は親の薬代のために、妻は夫の窮地を助けるためだった
  とのことです。

  病気や健康維持のためにかかる費用

     医者の診察代 1~2分  (1万から2万円)
     薬代 3日分               1分           (1万円)安政年間
                         按摩上下 1回        50文           (500円)
                同じ薬でも
                        避妊薬       1回       124文        (1240円)
               こんなものも、でも効果あったのかな?

  結婚持参金や教育費

       一般町人 5~10両 (20万から40万円)
豪商           500両      (2000万円)

上下の差が大きいですね。こんなのもあります。
不倫の示談金 1回 7両2分 (30万円)

  江戸後期に急速に増えた寺子屋にかかる教育費
       机・硯箱 250~270文 (2500~2700円)
   筆      一本    4文(40円)  墨    1つ12文(120円)
     半紙  20枚8~12文(80~120円)
入門料200~300文(2000~3000円)
他に炭代(暖房費?)や五節句のお礼なども必要です。

旅行にかかる費用は

  一度はいきたいお伊勢さん。もさかんになります。
 庶民の宿は安かったみたいで
    旅籠代200文(2000円)、木賃宿16~32文(160~320円)
    渡し船が、12~15文(120~150円)
東海道 大井川の図(広重)島田市博物館所蔵 HP「東海道川を渡る道」よりhttp://tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/5book/2bu/12_fr.html
     面白いところでは、東海道・大井川の渡し
 人々は人足に担がれて川を渡ります。
      人足料
         腰まで48文(480円)
         乳下70文(700円)、
         脇下90~100文(900~1000円)
水の深さで値段が違ったのですね。
 普通は人足の肩車で渡ります。
 でもお金持ちは四人で担ぐ輿にのって渡りました。
 当然、費用は4人分、水の深さで費用が違うのは肩車同様です。

参勤交代の費用は

庶民の旅でなく、大名方の旅行(参勤交代)にかかる費用です。
帝国書院「図説日本史通覧」P150
帝国書院「図説日本史通覧」P150

 

関東地方・群馬県にあった高崎藩 82000石でかかった費用
   片道 900両(3600万円)

九州の大藩佐賀藩357000石で参勤交代にかかる費用
    片道 2600両(1億400万円)
参勤交代の負担は大名に重くのしかかっていました。

借金の利息は

最後は借金の利息。享保年間(1716~35)の例です。
       1両(4万円)を借りた場合の利息が
   1か月1匁6分=74文(740円)、
      月利1.85%、単純に12倍した年利が22.2%
 複利ならもっと多くなります。現在なら許されない利息率ですね
少額金融はもっと厳しく、
 銭100文(1000円)について
   1か月4文(40円) 月利4%、年利48%
 というとんでもない利率になります。複利ならもっと増えることは先に見たとおりです。

江戸時代の値段から見えるもの

提示された例を挙げただけでも、いろいろなテーマが見えてきそうなですね。
本来なら、自分で調べたものならよかったのですが、全くのパクリです。
個々で出された数字は、担当の先生が、いろいろな史料をみて出てきた値段を記されたものだと思います。
江戸期は物価の変動が小さかったとはいえ、約270年の長い時間であり変化があったことは確かです。
先に見たように、「1文10円は自分の感覚でしかない」と何度も話しておられましたのでとくにご注意ください。
最後に、このデータは先生が授業のなかで時代のイメージをつくるために出されたものであることにご留意ください。