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上海での戦闘と南京攻略戦
~兵士たちの中国戦線
日中戦争の激化
前回は1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、中国との間の全面戦争へと発展していく様子を見ていきました。
日本の軍も政府も、国民も、中国を見くびっていました。
40年前の日清戦争の経験、非正規軍との間の戦いだった満州事変、こうした印象で中国をとらえていました。根強い差別と偏見にとらわれていました。
こうした考え方は、軍部だけでなく政府関係者や多くの国民にも広がっていたと思われます。だからこそ、軍人たちは功名を上げるチャンスだと勝手に戦線を拡大し、国際関係を重視していた政治家や外交官も、陸軍・参謀本部などより強硬な姿勢を主張したのです。
日中戦争が泥沼化した責任は、陸軍中央よりも政治家の方にあったともいえるかもしれません。このことはのちほど、見ていきましょう
戦場における兵士たち~上海での戦い
こうして、日本軍の旗色はどんどん悪くなり、やむなく、大軍の投入を余儀なくされます。劣勢の日本軍は、優位に立つ海軍力と飛行機で対抗、さらに杭州湾上陸作戦などを敢行、しだいに優勢となっていきます。
戦場の様相~臭いと死体、排泄物
上海戦線では狭い地域での激戦がつづいたせいか、両軍とも死体を収容することが困難で、それが腐敗して膨張してガスを発していました。ウジとハエがそれを覆っています。強烈な腐臭がただよっています。
排泄物が散乱しています。死傷率が高いのは排泄中のことが多いため、身を隠せる塹壕内やわずかに残った建物で用を足します。銃撃を逃れて飛び込んだ建物の中が排泄物だらけで閉口したという手記を読んだことがあります。
「水」の問題
さて、さっきの話です。兵士たちが飲む水、水筒の水がなくなったりするとは、濁った水路や水たまりの水、死体が浮かんでいるような水さえ飲み、料理に使いました。
銃弾・砲弾、爆裂音、そして「戦死」
ついさっきまで冗談を言っていたり、話しあって仲間がガクンと力を失って倒れる。 迫撃砲の直撃を受けたものの身体は、百合の花のような形になってしまうということを従軍ジャーナリストから聞いたことがあります。
「戦場に慣れる」ということ
最初は恐ろしかった飛び交う銃弾の音も、死体のにおいにも平気になってきました。のどが渇くと、浮かんでいる死体を横によけて、水たまりの水を飲むことも普通になりました。
その一方で、こんな苦しい目にあわす敵、自分の友人や親戚を殺した敵に仕返しをするという感情が高まってきました。
「肝試し」~ある体験から
断ち切られた兵士たちの「願い」
なぜ「おじさん」兵士が多かったのか?
訓練の行き届いた現役兵は、ソ連との戦いのために温存され、中国戦線には、いったん軍隊を離れてふつうの生活をしていた元兵士(予備兵=20代後半中心や補充兵=30代)を召集した特別編成の部隊を、中国戦線に送り込んだのです。
こうした人たち、家には妻や子どもがおり、家の大黒柱でもある人たちです。自分が軍隊に引っ張られたことで、家族や仕事がどうなっているか心配で仕方がありません。だから大部分が独身である20~22歳という現役兵以上に「帰りたい」「死にたくない」という気持ちが強かったのです。また世の中の裏、当然軍隊の裏事情もよくわかっています。したがって、20代前半の若者のようにあまり深く考えず、命を惜しまず戦闘に参加するわけにはいきません。すぐ戦場につれだされたため、訓練も不十分でした。
中国が降参すれば、故郷に帰り、妻子とあえる、仕事に戻れる、つらい軍隊とおさらばできる、それが彼らの「夢」でした。
南京攻略戦の開始
しかし、上海が陥落しても、中国政府は降伏しませんでした。
そのころ、現地のトップである松井石根ら、現地指導部は考えました。「おれが首都南京を陥落させて、中国を降伏させてやる」「政府や軍中央の命令なんてどうってことはない。いままでからそうやってきたのだから」自重を求めた外交官が生命の危機を感じるありさまでした。
独断で南京攻略が命令されます。それをうけ、各部隊はわれさきに南京をめざしました。陸軍中央や政府の対応、もうわかってますね。「やってしまった以上、仕方がない」。11月末には軍中央が、政府が、追認します。すでに兵士たちは南京に向かって全速力で進んでいます。
「夢」を絶たれた兵士たち
「なぜだ?」兵士たちは思います。軍や政府への怒りがわいてきます。でもそれは、なかなか口には出せません。
そこで考えました。
「中国が降参しないからだ」「素直に言うことを聞けばよいのに抵抗するからだ。だから自分たちは帰れないのだ」と。
彼らの意識も、明治以来の教育や社会風潮、そして中国での戦闘によってゆがめられていました。
同じ部隊の戦友が、同じ村のなかまが、兄弟が、戦死したり傷ついた。自分も辛い思いをしている、それなら、こっちも考えがある・・・。
無理な南京進撃と兵站の困難
兵士だって人間、それ以上に動物です。だから・・・
「食料」が必要なのです。
最初に話が出た武器、弾薬。実は、これ自体が不足しています。上海では、思いも掛けない激戦となり、弾薬が大量に消費され、国内の部隊のために取っておいた爆薬すら使い込む羽目に陥っていました。他の兵器もそんな状態です。南京まで攻め込むのには、かなりの無理がありました。
さらに食料です。上海は海から近いので食料の供給は比較的簡単です。輸送にかかわる部隊もたいして必要ありませんし、上海自体、中国最大の都市、ものはあふれています。
ところが、上海から南京までは直線距離で300キロ強の距離があり、武器弾薬を届け、食料も届けるとなると大変です。
「徴発」という名の略奪、そして強姦・放火
上海から南京に向かって、次から次へと日本兵は進んでいきます。食料はもうないと言ったら腹立ち紛れに暴行し、場合によっては殺します。家を焼きます。食料以外も奪い始めます。女性の強姦・輪姦事件も発生します。略奪も強姦は軍規で禁じられているので、ばれると都合が悪い行動です。実際に、強姦で捕らえられ、処罰された兵士もいます。とすると、口封じに・・・殺害する。さらに家々に放火する。こういった行為がエスカレートしていきました。
強姦事件が頻発したことが、兵士のための性的なサービスを行う従軍慰安所が設けられる理由ともなりました。このことは次の時間に話しましょう。
精神の荒廃と軍司令部
兵士の価値観もおかしくなってきます。どんな手段を使ってでも食料を手に入れてくる兵士は頼もしい兵士で、中国人に配慮したり略奪をしない兵士は役に立たない兵士という風になっていきました。徴発という名の略奪を否定する兵士の方が、居場所を失ってしまいました。こうした日本軍の軍紀の乱れは司令部でも大きな問題となっており、つい最近なくなった皇族の三笠宮崇仁親王は事態の深刻さを当時から厳しく指摘していました。
さらにこのような命令を出した軍への腹立ちから上官の命令等は聞かなくてもよいという気持ちの背景にありました。上官に対する反抗も急増しています。
さらに厳しい戦闘のなかで命に対して無神経にもなっていました。兵士たちが置かれた厳しい環境がこのような蛮行を生んだのです。
「行軍」~30キロの荷物で30キロ歩く
大部分の兵士が「辛かった」と口にするのは、「行軍」つまり長距離の移動でした。「戦闘よりも辛かった」という声も多いのです。25~30キロという正規の装備に加え食料などをあわせて50キロにもなる荷物を持って、長い距離を歩くのです。1日30キロを歩くなどはざらです。
しかも、普通のところを歩くのではありません。自分たちをどこかから見ていて、隙があれば襲ってくるかもしれない場所を歩くのです。遅れることは捕まって殺されかもしれないのです。「ちょっとトイレ」なんていえません。だから、歯を食いしばって、おしりのあたりが生暖かくなって、異臭がしても歩き続けなければならないのです。だから・・・兵士たちのズボンはテカテカしていたのです。
南国土佐をあとにして
「苦力」としての使役
兵士たちは、彼らを中国人労働者を意味する中国語で「苦力(クーリー)」とよんでいました。仕事が終われば、食事をさせて、カネを渡して、「ご苦労さん、気をつけた帰れよ」という兵士もいましたが、用が済めば敵に情報を流すかもしれないといって「肝試し」に使われるということもありました。
見て見ぬ振りをする上官たち
「徴発をやめろ」といえば、「それなら食料を持ってこい」「食料が来るまでストップ」といわれるのですから。
かれらは、こうした非行をとめるよりも、南京到達と占領を優先しました。各部隊は、現地司令部の命令さえ無視して南京一番乗りをめざします。このような、軍司令部の姿勢や体質の中に、日本軍の問題がありました。
南京でおこったこと
南京占領
この間、蒋介石らの政府指導者は南京を脱出して重慶に向かい、徹底抗戦を命じたはずの中国側司令官は日本軍の攻撃を受けると、自分たちだけが撤退し、多くの中国軍兵士が取り残されました。多くは急遽集められた農民兵です。
あるものはさまざまな形での撤退をはかり、あるものは日本軍に降伏し、あるものは軍服を脱ぎ捨てて外国人地域などに隠れました。逃げだそうとしたものの多くは捕らえられます。
兵士も一般住民も家などに隠れて息をころしています。「南京の町は恐ろしく静かだった」。多くの証言者がかたっています。そりゃそうでしょうね。敵が攻め込んできたのに町を歩いているわけないですよね。
大量の「捕虜」の出現
集められた捕虜はどうなったのでしょうか。さて思い出してください。兵士たちが苦しんでいた理由は何ですか。そう食糧不足です。大量の捕虜に与える食料はありません。収容する場所は、ありません。監視するだけのスタッフはいないし、そのような気もありません。
「適当な処理」~「捕虜」殺害
南京大虐殺というとそこら中にいる人をめったやたらと殺したようにおもわれがちですが、中心は「捕虜」の殺害です。機銃掃射によって、あるいは何十人もの捕虜をロープなどで結びつけ、長江の真ん中で沈めたなどさまざまな方法で殺害されたと言われます。試し切りだといって軍刀で捕虜を殺害した将校もいました。一刀両断にしたというメモを残した将校もいました。その将校は、日誌の別の部分では、非常にやさしい一面を示しているのですが。
強姦や略奪、殺人
殺された人間の数、中国側は三〇万人、日本の研究者は十数万人以上それの二〇万人近く、あるいはそれ以上と考えています。
南京事件から何を学ぶか~なぜ、兵士が?
兵士たちの加害と被害
やっていながら「やっていない」と言い続けた人もいたでしょうし、「やってしまった。誰かに知ってもらいたいし、お詫びもしたい」という人もいたでしょう。「やったことをやったといわせてもらえなかった」被害者でもあるのです。
ぼく自身も聞いたように、彼らの多くが生涯の終盤になって、重い口を開くようになったことの意味を考える必要があるでしょう。
かれらが、どういう状況にあり、何を行ったのか、リアルにみつめ、なぜこのようなことになったのか、同じ事を二度と起こさないためにはどうするのかが問われているのです。
「虐殺はなかった」「やったのは人間的に問題のある人だった」と強弁することは、決してかれらを救うことにはならず、いっそう苦しめることになるのです。
第一次近衛声明~和平工作の拒否
南京はこうして、日本軍の手に落ちました。少し話したように、南京に合った蒋介石の中華民国政府はより奥地の重慶に逃れ、徹底抗戦の体制を崩しません。南京を占領しても、戦争は終わらなかったのです。正確に言うと終わらせなかったのです。日本政府が!不思議なことに陸軍ではないのです。悪役の代表のような陸軍・参謀本部は停戦を望んでいたのです。
トラウトマン工作
陸軍・参謀本部は本命のソ連との戦いの準備のため、予定外の中国との戦いには決着をつけたかったのです。強大な中国、これまでとはまったく異なる中国、これまでの戦法が通用しない中国に勝てるという展望をもてなくなっていたのかもしれません。
これまでは、陸軍が事態をどんどん悪くし、それに政府がつきあわされるというパターンでしたが、今回は「なんとか日中戦争を終わらせたい」という参謀本部を「これでは不十分だ」とばかり政府がおしきりました。絶好の機会を無駄にした近衛や広田といった人物の政治家としての素養の問題を感じさせる出来事でもありました。
戦争はつづく
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