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幕末の政局(1)~「オールジャパン」か「幕府独裁」か
<生徒のノート(板書事項)>
うまく内容をまとめているノート。ちょっと勘違いもあるが…。
![幕末の政局2](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2016/04/2f2970416bb88e1cacc16fb8f439b536-e1462592875575-300x257.jpg?resize=479%2C410)
開国と貿易開始をめぐる幕府の動き
前々回では、ペリーの来航と日本の開国。二つの条約の内容について見ました。つづいて前回は、貿易の開始が日本の経済、さらには社会に与えた影響を見てきました。現在、審議中のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)は関税を撤廃し自由貿易を促進するといった中身も持っており、幕末に貿易をはじめたときと似たような現象をおこす可能性をもっています。
ペリーの来航と阿部正弘
ペリーが来航したときの、幕府のリーダーは筆頭老中阿部正弘です。
![](https://i0.wp.com/www2.plala.or.jp/shyall/retuden/abe.gif?resize=153%2C197)
阿部正弘 福山藩主。筆頭老中でペリー来航時の難局にあたった。
阿部は、ペリー来航の意味をしっかりと理解しました。つまり「これまでの 幕府のやり方では解決できず、日本全体で対応しなければならない問題である」ということを。
そのため、すべての大名に意見書をださせ、一般からも身分をこえて意見を求めました。さらに開国反対論の中心である水戸藩の徳川斉昭を幕府参与に任命、外国事情に詳しい島津斉彬や松平慶永といった雄藩の大名とも連携をとり、有能な役人も多数登用しました。貧乏旗本であった勝海舟も、そのすぐれた意見書により登用されました。
お台場(大砲を設置する埋立地)を設けて江戸湾防衛体制をつくり、大きな船の建造も認めました。
![YZ195](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/YZ195-1.jpeg?resize=272%2C218)
嘉永の改革 阿部正弘はオールジャパン体制を目指そうとした。 山川出版社「詳説日本史図説」P195
そして慣例をやぶって天皇=朝廷にも事情を報告、幕府のやり方への合意を得るということさえ行いました。阿部によるこうした一連の改革を嘉永の改革とよびます。
阿部は、こうした丁寧な根回しの上に、日米和親条約を結んだのです。
阿部の考えは、日本が一つにならねばこうした危機に対応できない、オールジャパンで幕政を運営しようとしたのです。当然反対も多く、1857年過労死のような形で死亡します。
通商条約締結をめぐる混乱
こうした困難は通商条約をめぐるやりとりのなかで表面化します。
これをうけ、阿部の政治を引き継いだ筆頭老中堀田正睦も天皇の許可(勅許)を得て、オールジャパンでいこうと考えました。
ところがすでにみたように孝明天皇は頑として勅許を拒否したのです。水戸藩のように反対している藩があるのに、先に勅許をもとめるのは幕府の責任逃れではないか、再度、意見を統一して持ってこい。これが天皇の言い分です。こうして天皇の権威を借りてオールジャパンを実現しようとした堀田の作戦は裏目に出ます。
なぜ孝明天皇は勅許を拒んだのか
![375px-The_Emperor_Komei](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/375px-The_Emperor_Komei-3754458174-1491979253752.jpg?resize=165%2C191)
孝明天皇 この人物の天皇としての責任感の強さが混乱を招いたともいえる。
孝明天皇自身の思いもありました。「日本に外国人(「夷狄」)を入れることは先祖の道や日本の伝統に反するのではないか」という。鎖国から200年以上たっています。かつて、日本人が海外に出たり、外国人が日本各地を歩き回っていたことなど、とっくに忘れ去られています…。
こうしたさまざまな思いや事情から、天皇に通商条約への許可(勅許)を与えさせなかったのです。
彼らは、重要な特命をおびて京都に来ていたのです。
将軍継嗣問題の表面化~国家像の対立
家定はいつどうなってもおかしくないといわれ、幕府内外で公然と 将軍の跡継ぎ問題が語られていました。
![Z198](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/Z198.jpeg?resize=312%2C497)
帝国書院「図録日本史総覧」P198
跡継ぎ候補は2名。
ひとりは家斉の孫に当たる紀州藩主徳川慶福(よしとみ)、家柄からみても血統からみても文句はありません。ペリー以前なら文句なしに決まっていたでしょう。
ペリー以前の感覚の人はいいます。「将軍を血統で選ぶことは当然だ。家臣が補佐すればなんということはない。これまでもっと若い将軍もいたのだから」
「今は血統とかなんとかいっている場合か!」という立場の人が推していたの が、一橋(徳川)慶喜です。
母方を通して天皇との血縁があるものの、現将軍との血縁はきわめて薄く、強硬な尊王攘夷派でしられる父水戸藩徳川斉昭は多くの敵をもっていました。とくに大奥の女性たちの人気は最悪でした。
慶喜は幕政改革という難事業を行うための知性と決断力をもち、朝廷との良好な関係がのぞめため、危機における将軍には最適だと思われたのです。
![Matudaira_Syungaku](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/Matudaira_Syungaku-3031123304-1491980381566.jpg?resize=207%2C337)
松平慶永(春嶽)幕末以来、改革派のリーダーとしてつねに政局の中心にいた。
彼のグループ(一橋派と言われます)は、大規模な幕政改革によってオールジャパンにふさわしい幕府=日本の統治体制を作ることを望むメンバーが集まっていました。
なお、外国との交渉の矢面に立っていた開国派の岩瀬忠震(いわせただなり)ら有能な官僚たちもこのグループでした。
一橋派の朝廷工作と南紀派の反発
![200px-Nariakira_Shimazu](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/200px-Nariakira_Shimazu.png?resize=200%2C282)
島津斉彬 開明派として名高い。日本で最初に写真を撮った人物としても有名。彼の死によって、明治維新が遅れたという人さえいる。
しかし、こうしたやり方は、南紀派のいっそうの反発を招きます。
薩摩は幕府の仮想敵のトップともいえる外様大名、朝廷は家康がとくに恐れていた存在、かれらへの危機感は抜きがたいものでした。父斉昭の 過激な言動も、大奥の女性たちの慶喜への反発の原因になっていました。
大老井伊直弼による独裁と挫折
井伊直弼の大老就任
1858年、通商条約における老中堀田正睦の朝廷工作の失敗をきっかけに事態が 大きく動きます。
勅許なしで修好通商条約を調印
![iwase_tadanari](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/iwase_tadanari.jpg?resize=179%2C231)
岩瀬忠震 すぐれた国際感覚を持った外交官で、通商条約締結に尽力した。のち失脚、失意のうちに死亡する
このことが、ボタンの掛け違いのように、幕府と反対勢力の間の混乱の原因となります。
幕末の対立軸は、本当に開国をめぐる是非なのか
![ii_naosuke](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/ii_naosuke.jpg?resize=255%2C224)
井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。
家定の跡継ぎをめぐる対立は、「幕府が粛々と自分の職権に基づいて条約を調印した。何が悪い」という立場と、「日本が一丸とならなければ外国に思いのままにされる。オールジャパンの体制を作り、日本が主体性を持って条約を結び直す。オールジャパンの要は天皇しかない」という二つの立場の争いだったのです。のちに倒幕の中心となる薩摩も 長州も、幕府が改革を進めればオールジャパンが実現できると考えていました。
しかし、井伊のようなやり方をみるにつけ、「幕府に任しておけない」と考える勢力が力を伸ばしていきました。
それぞれの「正義」
岩瀬ら出先の担当者の責任ともいえないでしょう。
それぞれが、それぞれの立場で、命を賭けて「正義」を選び取ろうとしました。歴史はそうした行動の上に、複雑な動きをとりながらすすんでいくような気がします。
将軍継嗣の決定と一橋派、朝廷
![Tokugawa_Iemochi](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/Tokugawa_Iemochi-3302400840-1491981556598.jpg?resize=204%2C194)
徳川家茂像(徳川記念財団蔵)
井伊の強硬なやり方に一橋派は激怒しました。水戸の斉昭や越前の慶永たちは決められた日でないのに、江戸城に登城して井伊を詰問しました。
他方、勅許のない条約を締結したことに激怒した孝明天皇は「天皇の地位を降りる」といいだし、幕府のやり方を批判し、「幕政改革を要求する、その気持ちを諸藩に伝えてほしい」との内容の手紙(戊午(ぼご)の密勅)を水戸藩!に与えました。
安政の大獄の発生
![YZ197](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/YZ197.jpeg?resize=286%2C208)
越前の橋本左内や長州藩の吉田松陰らはさしたる罪もないにかかわらず斬首となります。
島津斉彬と西郷隆盛
大老井伊の「正義」~幕府独裁をつらぬく
井伊直弼も、彦根藩も、天皇を尊重する(「尊王」)の思いは強かったと言われます。国際情勢もよく理解している開国派でした。ただ、「外交においても内政においても幕府(譜代大名と旗本)が全責任を持って政治を進める、それが天皇から与えられた征夷大将軍の権限」だと考えていたのでしょう。
![YZ197](https://i0.wp.com/jugyo-jh.com/nihonsi/wp-content/uploads/2017/04/YZ197-1.jpeg?resize=412%2C254)
山川出版社「詳説日本史図説」P197
そしてこうした勢力と朝廷が結びつくことは、幕府の危機だと考えていました。戊午の密勅は彼の疑いを証明するものと感じさせました。このような考えは南紀派に結集した多くの譜代大名の思いとある程度、一致していたのでしょう。でも井伊は誠実すぎました。「自分が防波堤となって幕府を守るのだ」と考えていたように感じます。ただ、守るべきものの第一は「幕府」であって「日本」ではなかったのです。
そしてペリー来航以前のように幕府が他にまどわされずに政治と外交を担い、ペリー以前の幕府と朝廷の「正常な」関係を取り戻そうしたのだと思います。
桜田門外の変~幕府独裁論の崩壊
安政の大獄は、多くの人々の心の中に怒りと復讐の気持ちを生み出しました。たとえば、子どものような美しい魂をもつ吉田松陰を奪われた長州藩、とくに私塾・松下村塾の関係者の心に。主君らを辱められ、自分たちの仲間の多くを殺された水戸藩士たちの心に。
![桜田門外の変](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Sakuradamon_incident_1860.jpg/2560px-Sakuradamon_incident_1860.jpg)
桜田門外の変 (Wikipedia「桜田門外の変」より)
主君を殺された彦根藩からは藩士が続々と集まり、水戸藩も迎え撃つ体制をとります。江戸は市街戦の前夜のような雰囲気となりました。幕府内部では、彦根藩、水戸藩両藩の取りつぶしも検討されます。元気が良い時代の幕府ならそうしたでしょうし、そうしなければいけないところでした。