幕藩体制(2)~宗教政策と鎖国


<8時間目>

Contents

幕藩体制(2)~宗教政策と鎖国

<授業プリント>

前回と同様のプリントを使用

<生徒のノート(板書内容)から>

この分野を、非常に丁寧にまとめていた日本史B選択者のノートを掲げた。5ページにわたって記している。
それぞれのテーマに近いところに掲載したので参照してほしい。
このクラスでは、次の時間として掲げた「江戸期の社会~身分制度と農民」に引き続いて行っているので、順番的には逆転している。さらに、宗教統制と朝廷への統制の順も授業中継とは異なっている。
なお、1枚目のノートの前半部分は「都市と都市における身分」にかかわる内容である。(この部分は日本史Aでは省略した)
 都市朝廷寺院鎖国_1
都市朝廷寺院鎖国_2

幕府の宗教政策

「徳川の平和」を脅かす?宗教勢力

家康が気にしていたもう一つの勢力がお寺などの宗教勢力
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浜島書店「詳説日本史図説」P154

信長がいちばん苦しんだのが石山本願寺などの一向一揆、一向宗(浄土真宗本願寺派)に組織された武士や農民だった。
家康も、かつて家臣の多くが一向一揆に参加して抵抗されたという苦い経験もある。
幕府は、それぞれの仏教の宗派に対して、寺院法度を出し、各宗派にたいし、本山を中心とするピラミッド状の組織を作らせ、末寺の責任を本山に責任を持たせた

寺院を役所として利用~仏教の変質

さらに、寺院にキリシタン(キリスト教)取り締まりの責任を負わせる
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山川出版社「詳説日本史図説」P148

キリシタンでないという証明を出させるという形で寺院に「宗門改帳」という戸籍を扱わせたのだ。今でいう戸籍謄本の発行のような仕事を与えたのだ。
誕生・結婚・死亡・旅行など人生の重要なイベントは、お寺に届ける必要が出てくるし、「パスポート」?!もお寺が発行する。
こうして、お寺には宗教的とはいいにくい顔が生まる。
書類発行の手数料、葬儀や法事といったイベントでのお布施という収入が保障され、檀家は寺を維持するための責任を負わされる。

寺は役所としての機能をもち、経済的には安定する。
かわりに、江戸時代の寺院・宗教の多くは牙を抜かれ、いわゆる「葬式仏教」といわれるようになったという指摘もある。

逆に江戸時代こそが、村々に寺が作られ、本当の意味で仏教(と民間の信仰が融合したもの)が人々の中に深く浸透していった時代という指摘もある。
幕末には儒学や国学など学問の影響をうけ知識人のなかから仏教不要論が公然と語られるようにもなる。

キリスト教弾圧へ

宗教への警戒心は主にキリスト教へ向けられる。
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豊臣秀吉「バテレン追放令」(1587)

キリスト教への取り締まりを最初に始めたのは豊臣秀吉のとき。秀吉は1587年、バテレン追放令など一連の命令をだした。長崎の街がキリスト教のイエズス会に寄進されたことがきっかけであったとされる。キリスト教徒の肉食なども口実としている。
しかし秀吉はキリスト教布教と貿易を天秤に掛けていたみたいで、大名による信仰の強要や寺院の破壊を禁止し、宣教師の国外退などを求め、大名のキリスト教信仰を届出制にしたが、個人のキリスト教信仰自体は禁止していない。

江戸幕府の禁教政策

江戸幕府は、1612年禁教令をだし、一挙にキリスト教禁止に向かった。この命令は翌年には全国に広げられ、各地で過酷なキリシタン弾圧と拷問、火あぶりなどによる殉教がすすんでいる。
とくにキリシタン大名有馬氏の領地であった島原半島などでは熱湯を浴びせかけたり、蓑(みの)というわらでできたレインコートに火をつけて殺すといった残酷なやり方がされた。
すべて人をいずれかの寺の檀家にしてキリスト教でないことを証明させたのは、先に見たとおり。

「島原の乱」の発生

 1637年、島原半島(長崎県)と天草諸島(熊本県)で、領主の過酷な年貢の取り立てなどに反対して、かつての地侍を中心に百姓とともに起こした百姓一揆が発生した。これを島原の乱という。
この地は、かつては多くのキリスト教徒がいた。しかし、禁教令以降、多くの人がキリスト教を捨てていた。ところが、一揆は百姓たちのキリシタン信仰を呼び起こし、心のよりどころさせた。幕府はこの一揆の鎮圧に幕府は長い時間と多くの犠牲を出す。
この反乱は、幕府にキリシタンに対する恐怖を植え付けるに十分であった。

江戸幕府の外交政策=「鎖国」政策

「鎖国」政策へ

こうして幕府の有名な外交政策が完成に向かう。知ってるよな?
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山川出版社「詳説日本史」P180

え、わからない。特定の外国と以外は国交を持たない政策、小学校でもやったね?わからん?誰か分かる・・、

そう「鎖国」いうのやったな。思い出した?
しかし、江戸時代を通じて、細々ながら貿易が許されたヨーロッパの国があったんだけど?
え、ポルトガル? ほかには、中国?中国ってヨーロッパだった?
1639年ポルトガル船は、いくら禁止しても宣教師を乗せてくるとして日本への渡航が禁止された。一般にはこの1639年(語呂合わせは「広(ヒロ)く柵(サク)をつくる」)が鎖国開始の歳とされる。すでにスペインとイギリスは日本から手を引いていた。、ヨーロッパ諸国で日本貿易を続けたのは
そう、オランダのみとなる。

「鎖国」という言葉

「鎖国」というけど、この言葉は江戸後期のオランダ語の通訳が書いた本ではじめて「鎖国」という言葉を使うことになる。
「鎖国」とはいうが、内容的には「日本人は外国に行ったらあかん。ポルトガル船はもう来んといて」といっただけ。イギリスなんかは来なくなっただけで、断ったのではない。
東アジアからみた「鎖国」 
この時代、東アジアではヨーロッパ諸国との関係を制限するのはフツウやった。中国(もうすぐ清という国に代わる)も朝鮮も、「海禁政策」いう名前の「鎖国」をしてた。
ポルトガル撤退後、ヨーロッパ諸国で唯一残ったオランダとなる。この寄港地を長崎の出島に移す。これが実態としての「鎖国」。1639年、オランダ以外のヨーロッパ船がこなくなり、日本から国外へ渡航することも禁止した。これを「鎖国」といってきた。
しかし、外国との交流の中心は昔から東アジア中心だったし、これは江戸期も続いている。江戸中期までは「鎖国」という意識は無かったというのが、通説みたい。他の国が来たら、その時考えるというスタンス。だから、鎖国ということばは使わない傾向がすすんでいるみたい。
ではなんと言うか。東アジアのローカルスタンダードである「海禁体制」を使って、地域全体で把握しようというのが、研究者の合意になりつつある。

鎖国政策の背景

<生徒のノートから>
都市朝廷寺院鎖国_3
 都市朝廷寺院鎖国_4
 

幕府による貿易統制~糸割符制度

鎖国には、キリスト教禁止以外にも、いくつか背景がある。
家康は当初、海外交易に熱心で、朱印船制度を導入し、東南アジアなどとの交易を積極的に進めていたし、
主にポルトガル船が日本の港に来港するなど
活発な南蛮貿易が行われていた。
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浜島書店「新詳日本史」P155

1604年、幕府は糸割符制度という制度を導入する。
ターゲットはポルトガル船だ。
ポルトガルが主に扱ったのは、実は中国産の生糸(絹糸)だった。ヨーロッパの商品が中心に見えるけど、ヨーロッパから大量の荷物を持ってくるなんてリスクが大きすぎる。
中国産の生糸を高く売りつけて大もうけする。
これがポルトガル船のやり方であった。
幕府にとって、この貿易には多くの問題があった。
1、ポルトガル人に大もうけさせて、他方、日本の財(銀など)が流出する。
2、大商人や大名の収益源となる。とくに大名統制の面からは問題。この時期は豊臣氏も生き残っている…。またキリシタン大名が優遇される。
3、石高の低い大名であっても貿易によって大きな利益を得られる。米の取れ高(石高)による秩序を重視する幕府とはちがう原理がうまれる
4、貨幣経済の中に日本を巻き込む恐れがある。幕府が進めようとするコメ中心の経済秩序に反する
 5、ポルトガルのみが大きな利益を持つことへの他の国々(特にプロテスタント国であるオランダ)の反発
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山川出版社「詳説日本史図説」P151

簡単にいえば、幕府が貿易をコントロールできない。
それは「徳川の平和」を脅かすきっかけを多く含んでいる
こうして導入されたのが、糸割符制度
幕府は、ポルトガル船が持ち込む生糸を扱う商人を限定する。
そして、その商人たちに、安い価格しかポルトガル人に提示させない
こうして、ポルトガルは泣く泣く安い値段で生糸を売り渡し、ぼろ儲けは不可能となる。
こうして貿易は幕府のコントロール下におかれ、西国大名たちは貿易に関与しにくくなるし、銀などの流出も抑えられる。幕府が目指す、コメ中心の経済秩序への影響を最小限でき、違う原理がもちこまれることはなくなる。

西洋文化というリスクの遮断=「ガラパゴス化」の進行

「違う原理」という言い方をした。それは経済だけではない。
日本の人々が、世界の文化に接れること自体が問題であり、「徳川の平和」へのリスクなのだ
自分たちと違う世界があり、違うものの考え方をする人がいること、大切な農耕の手段である牛を殺して食べる人がいること、それが旨い?!のだということを知ることなどなど。
「唯一絶対の神」がいて「他の神仏を崇拝することは誤り」と説き、「人間が神の下に平等だ」と考えるキリスト教はリスクの最たるものである。
人々が新しい知識を得ること自体が、「平和モードの維持」「徳川の平和」ということから考えればリスクなのである。

外からの世界からの刺激を遮断する

民は、由らしむべし、知らしむべからず」との言葉がある。論語の言葉だ。
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日本人の海外進出(17世紀初頭) 日本人は東南アジア各地に進出、各地に日本人町を形成していた。(浜島書店「新詳日本史」P155)

日本では「民には都合の悪いことを教えたり考えさせたりしないで、支配者に頼らせれば良い」という誤った理解をされてきた。
幕府の中には、この誤った理解のような考えがあった。

日本に住む人々にとっての世界の広がりを「日本・中国および天竺(リアルなインドでなくイメージとしての天竺)」の枠の中に押し込め、世界を知らせることは「徳川の平和」を乱すとして極力抑えようとしていた。
百姓には「しっかり働き、年貢を納めさえすればこんなに楽なことはない」などという「期待される日本人像」を上から示し、これとは違う原理が入りにくくしたのだ。思考の枠を広げにくくし、日本人を「井の中の蛙」状態にしたのだ。

日本のガラパゴス化がすすむ。

鎖国」が、日本人を「島国根性」にしたなどといわれ、内向的な日本人を作り上げたともいわれる。今風にいうと、「ガラパゴス化」したといえる。
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ガラパゴス諸島では生物が独自の進化を遂げ、陸上生物のイグアナの一部は水中での食糧確保が可能になった。(ウミイグアナ)Wikipedia「ガラパゴス諸島」

ちなみに「ガラパゴス」ってわかる?よく日本で独自のi-Modeなどの携帯を「ガラケー」っていうけど、あの「ガラ」は「ガラパゴス」の意味。
ガラパゴスというのは南米の沖合にある孤島ガラパゴス諸島のことで、大陸から離れていたため、島に住む生物が他の地域の影響を受けずに独自の発展を遂げたという事実から来ている。
日本の携帯電話も、性能では世界最高水準でありながらも、国内だけで独自の発展を遂げたため、世界からは見向きもされずiPhoneなどのスマホに完敗してしまったという意味でいっている。
江戸の日本はまさにガラパゴスそのもの。世界の大勢とはまったく異なったところで、独特の発展を遂げる。
だから日本はダメなんだ。世界から立ち後れている。小さいところに自分たちだけで集まり、縮こまって世界に目を向けられないし、世界に挑戦しない。近代の原理である民主主義や基本的人権という考えがいまだに定着していない…。

「ガラパゴス化」って、「悪」?

たしかに、鎖国の悪影響が現在の日本にも残っている。
しかし、心のもう一方で
ガラパゴス化、大いに結構!」「グローバルスタンダードなんて、なんぼのもんや!実際は欧米化=アメリカ化やないか!
という気持ちもある。
「徳川の平和」のなかで、古来の文化やそれまでに入ってきたもの一つ一つが洗練に洗練を重ねられた。さまざまな文化、芸術、料理、経営などにおいても独自の発展を遂げてきた。面白いことに、その発展は、江戸時代においてすら、長崎などの小さな窓から入ってくる東アジアの文化や西洋文化などと結合して、より洗練される。
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オランダ使節が江戸にくると、定宿長崎屋には多くの蘭学者がつめかけた。帝国書院「図録日本史総覧」P155

現在、日本が誇るべき多くのものも、この時期に洗練されたものが多い
さらに、幕末以降、日本が恐るべき勢いで世界の知識を吸収できた背景にも、江戸期のガラパゴスで純粋培養されたものが大きな役割を果たしたように思える。
我々は、鎖国によってもたらされた負の遺産とともに、江戸時代というガラパゴスの中で育った「遺産」も評価し、継承していくべきである。

西洋から文化を運んだ渡り鳥(=「オランダ」)の存在とともに。

「宗教改革」の波及

長い間、世界史を教えていたので中、気づいたこともある。
戦国時代から江戸時代の初めごろ、ヨーロッパはどんな状態だったのか
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宗教改革 カトリックとプロテスタントの間で凄惨な争いが繰り広げられた。図は1571年フランスで発生したサンバルテルミの虐殺。

世界史では「16世紀、3つの事態がヨーロッパで平行して進んでいた」と教える。
一つ目は時期的にはやや早いが「ルネサンス」。イギリスやオランダはこの時期が中心で、シェークスピアなんかは家康らと同時代人だ。
二つ目は今やっている「大航海時代」。
そして三つめは「宗教改革
ドイツ人のルターたちが、西ヨーロッパのキリスト教会の総元締めであったローマカトリック教会に疑問を投げかけた事をきっかけに、西ヨーロッパのキリスト教が分裂、新しくプロテスタントというグループが生まれた改革が宗教改革だ。
このことは、日本に微妙に影響する。
キリスト教を伝えたフランシスコザビエルは、ヨーロッパで押され気味のカトリックをアジアに広げることで失地回復を果たそうとして作られたグループ、イエズス会の最高幹部。かれがきた背景は、宗教改革である。
これに対し、プロテスタント国の中心がイギリスとオランダだ。
オランダは、カトリックの中心のスペインからの独立戦争をすすめていた。そしてオランダも海に乗り出し、世界中でスペインなどと戦いを繰り返し、ポルトガルの拠点なんかを奪い取った。現在のインドネシアではポルトガルだけでなくイギリスさえも追い出している。
ヨーロッパ各国が、貿易の覇権を争っていた時代だ。
ちなみに、イギリス人やオランダ人を、スペイン人ポルトガル人の南蛮人と区別して、紅毛人と呼んでいた。

二人の「紅毛人」の登場

こうした中、オランダの船の一艘が日本に漂着した。名をリーフデ号と呼ぶ。
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ウィリアム=アダムス(イギリス人)彼をモデルにしたドラマ「SHOGUN」は世界的ヒットとなった。

4隻で出航したんやけど、途中でスペイン船に襲われたこともあって、残ったのは1隻。それもボロボロ状態で、1600年、ちょうど関ヶ原の合戦の年、日本に流れ着いた。ポルトガルの宣教師たちは「彼らは海賊だから死刑にしろ」と幕府に働きかけたらしい。
それが逆効果になったのか、興味をもった家康はオランダ人ヤン=ヨーステンと、航海士として乗り組んでいたイギリス人のウィリアム=アダムスの二人を江戸に呼んで話を聞いた。気に入った家康はこの二人を徳川幕府の外交顧問とした。

当然、二人は宗教改革でゆれるヨーロッパの話をし、カトリック側への恨み辛みをいっただろうし、確証はないが、自国に都合の良いように幕府の外国政策を誘導したのではないかと思えるのだが…。
すくなくとも二人の存在によってオランダ、イギリスとの貿易が始まったことははっきりしている。
そして、40年近くたって、結論的には、オランダが日本貿易を独占する
世界史の授業では、オランダによる日本貿易独占(「鎖国」)と板書する ことにしていた。
余談:ヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムス
外交顧問となった二人は、江戸に屋敷地をもらい、アダムスは日本風の三浦按針という名を得て旗本となり日本女性と結婚をした、ヨーステンは耶揚子という中国風の名前を名乗った。
しかし、家康の死後、二人は冷遇されたらしい。アダムスは帰国を望んだが果たせず、イギリスの拠点があった平戸で死亡。ヤンヨーステンは、いったん日本を離れ、船の事故で亡くなっている。
ちなみにヤンヨーステンが住んで場所が…この人の名前「やようす」という音…からくる八重洲(やえす)、そう東京駅の銀座側の出口、この地名はこの人の名前から出た。
ヤンヨーステン像 東京駅八重洲口地下にあるとのこと
世界的大ヒットとなった「SHOGUN」というテレビドラマがあった。そのモデルがウィリアム=アダムスだ。放映の数年後、旅行でポーランドに行ったのだが、旅行仲間の一人が「ショーグン、ショーグン」と声を掛けられ、家に誘われていたことを思い出す。その人は将軍役の三船敏郎ばりの(え、しらない?世界的
俳優。三船美佳のお父さん?!)立派な顔をしていた。

「日本の四つの窓口」

<生徒のノート(板書事項)より>

都市朝廷寺院鎖国_5
日本と世界について少し整理しておく。
当時、日本は4つの窓口で四カ国および一つの地域と接触していたとされる。
江戸期の外交秩序図

山川出版社「詳説日本史」p183

まず、4つの国ってわかる?
まずは、オランダ。そのほかには、もう出ない?ポルトガル?イギリス?
ヨーロッパの他の国はでていった…。だから、アジアの国。
そう、中国(当時は明、17世紀中期以降は清)

さらに、そう韓国。この場合は、当時の国名で朝鮮といった方が良い。
そして、あと一カ国。これは難問かな。いまは日本の中に組こまれてしまって
いるけど。え、蝦夷地。これがさっきあげた一地域。
北海道といえば…?そう、沖縄。
当時沖縄には琉球王国という国があった。これで四カ国。

長崎口~オランダと中国

そしたら、この四カ国との窓口はどうなるか。
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長崎港 中央にオランダ人の居留地(出島)、その左手に唐人屋敷が見られる。帝国書院「図録日本史総覧」P155

オランダとの窓口は、そう長崎、出島という埋め立て地にオランダ人は隔離して住まされた。いってみたら分かるけど、かなり狭いところだ。ここから出してもらえなかったんだから、オランダ人はかなり強いストレスを抱えただろうね。

じゃ、中国は…。現在、日本で中国文化をもっとも感じられるのは、え、横浜。たしかに、横浜や神戸にも南京街という中国人街があるね。でもこれは江戸末期から明治の初めに日本が開国してからできたので、ちょっと違う。もう一つ、南京町が有名な都市があるんだけど。ちゃんぽんとか、皿うどんとかが有名で、蛇踊りなんていう中国風のお祭りがある…、そう、やはり長崎
中国との交易も、長崎でやっていた。最初は、中国人は長崎のどこで住んでも良かったんだけど、やっぱりさっきに「知らしむべからず」で、日本人との接触を抑えるようになり、中国人は唐人屋敷とよばれる地域に集められ、隔離されてた。
ときどき、ストレスが爆発することもあったみたい。
こうして、オランダと中国(明・清)の窓口が長崎口

朝鮮との国交回復~朝鮮通信使の派遣

次が朝鮮。この時期、朝鮮は日本との間で簡単には解決できない問題があった。
江戸幕府が生まれる直前の指導者は…秀吉。秀吉は朝鮮に対し、侵略を行っていたんだ。いわゆる朝鮮出兵だ。
つい最近まで自国を侵略した国とそんなに簡単に仲直りできるか!というところだけど。この点は、家康は有利な立場にいた
自分は朝鮮出兵には反対だったし、朝鮮にも渡っていない
と、責任を秀吉に押しつけ、新たな政権ができたことを大いにアピールしたんだ。
また、朝鮮と日本の間にある…そう、対馬。この藩も、ある意味では日本の問題点を認めるような形で、外交関係改善のために努力した。
朝鮮側にも、事情があった。
朝鮮出兵で日本側はかなりひどいことをしている。
たとえば、大蔵経と呼ばれる大量のお経の版木を持ち帰ったりしたり、朝鮮人の首の代わりに耳や鼻をそいで日本に持ち帰ったり。
それ以上に「持ち帰った」のは、朝鮮人技術者だ。
当時、日本は茶道ブームであり、朝鮮の陶器をみんなほしがっていた。だから、日本の大名たちは朝鮮の陶工(陶器を作る人)を大量に連れ帰った
それ以外にも朝鮮人を日本に「拉致」「連行」している。
朝鮮の側からすれば、彼らを朝鮮に連れ帰りたい。そこで、日本側の話に乗ることにしたのだ。
朝鮮側は、日本と善隣友好の印として「朝鮮通信使」という使節を派遣した。しかし、本当の目的は、徳川家とのあいさつではなく、拉致された朝鮮人たちをみつけ、連れ帰ることにあったのだ。さらに、日本という「敵国」の偵察・スパイ行為も必要だ。使節は実に細かい報告書を完成し、提出していたということだ。
狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg

こうして、朝鮮国王と徳川将軍という対等な立場での外交関係が結ばれる。
そして、この朝鮮との窓口の役割をしたのが対馬藩である。
日本と朝鮮は対馬を窓口(対馬口)に貿易関係を結ぶことになる。

松前口~アイヌと松前藩

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帝国書院「図録日本史総覧」P157

三つ目の窓口が松前口。蝦夷地(北海道)の南西に松前という町があり、ここにいた松前藩が、この地のアイヌに人々との交易をおこなっていた。しかし、松前藩のやり方のひどさのため、シャクシャインの戦いというものも発生したりした。

琉球王国の成立~「世界の架け橋」

四つめの窓口が琉球王国との窓口、薩摩口である。
琉球王国は、室町時代の足利義満の頃、沖縄本島にあった三つの国を尚巴志という人物が統合する形で建国した国だ。
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万国津梁の鐘(沖縄県立博物・美術館蔵)琉球王国がアジアの中継貿易の中心として反映したことを記している。

この国は、統合する前から中国の明との間で主人と家来という関係(これを朝貢関係というのだが)を結び、家来である琉球の国が主人である明に贈り物を贈り、それに対して明が数倍から数十倍の返礼としての贈り物を返すという形式で、事実上の貿易を行っていた。(これを朝貢貿易という)
当然、一つに統合された琉球王国でもこの関係は引き継がれることになる。しかも、重要なことは明は「海禁政策」(さっきもいったよね)という「鎖国」政策をとっていて朝貢以外の貿易の形を認めていなかったんだ。さらに朝貢の回数も決まっていた。ところが、琉球はその例外となり、他の国とは異なる多くの回数の朝貢が可能になったんだ。
とするとどういうことが起こる?明にものを売りたい人、明から物を買いたい人は琉球に殺到することになる。こうして琉球の那覇などの港には、東アジアや東南アジアの国から船と物資が集まり、すごい盛況となっていたんだ
その様子が、現在、沖縄県立博物館に保存している鐘の銘に記されている。
沖縄は万国の架け橋である」と。

薩摩藩の侵略

明の海禁政策が緩んでくる、さらにポルトガルなどが貿易にかかわるようになってくると、繁栄に陰りが見え始める。
そうしたなか、現在の鹿児島県にあった薩摩藩(島津藩)が琉球にいちゃもんをつけた。
「『日本』で琉球の漂流民を保護し送り届けたのにあいさつがないとはけしからん」と。これを口実に、1609年薩摩藩が幕府の許可も得て、琉球に攻め込んできたのだ
なんといっても、朝鮮出兵で朝鮮の人たちを恐れさせ、関ヶ原でも西軍にいながら負けなかった薩摩藩が攻め込んできたのだから、たまったものではない。
琉球王国はあっという間に敗れ、降伏を余儀なくされた。
琉球王国は、北側の奄美諸島を薩摩に奪われ、それ以南は薩摩藩の属国として薩摩に朝貢をするという形で残ることとなった。

琉球王国は中国と薩摩に両属することに!

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浜島書店「新詳日本史」P157

普通なら、薩摩藩は考えるところだ。「琉球王国は自藩の属国になったのだから、当然明との関係は断絶すべきだ。」と
ところが、よく考えると、琉球王国の収入の源泉は明との貿易だ。そこで、薩摩藩は考えた。「琉球王国はこれまで通り明(滅亡後は清)の属国として朝貢関係を維持させる。そして、その収益を薩摩藩がごっそりといただくのがよい
そのため琉球王国が薩摩の属国になったことがばれて、明に朝貢関係を拒絶されるとまずい。そこで、薩摩は明の船が来たときは、身を隠しておくことにする。
明、さらには清は、きっと知っていたのだろうが知らないふりをし た。
こうして、琉球王国は中国(明→清)の属国であるとともに、日本の一部である薩摩藩の属国でもあるという、両属の関係におかれる。琉球王国からすれば、たいそうな儀礼を重視するがとくに何か口出しするわけでもない鷹揚な中国側と、いちいち口を出し財産を奪っていく薩摩藩と、どちらと仲良くしたかったのかは言うまでもない。
こうして、薩摩藩を窓口にして琉球王国、そしてこれを経由しての中国という窓口が成立することになる

薩摩口~昆布のルート

なお、このルートを通って、中国に大量に流れていった海産物がある。多くは蝦夷地で生産されたのだが、中国でも重宝されているもの。うろ覚えだが県民一人あたりのこれの消費量は北海道産であるにもかかわらず沖縄がトップの海産物。・・・それは昆布、昆布は北海道から西回り航路を通り、 さらに南西諸島を南下して沖縄に到達、ここで多く消費されつつ、中国との貿易で高く売ることができたのだ。

日本人は高いかべに囲まれてしまう

こうして、江戸時代には長崎口(→中国・オランダ)、対馬口(→朝鮮)、薩摩口(→琉球王国から中国)、そして松前口(→蝦夷地)という四つの口が開いていた
他方、日本側から外に出ることは禁止されていた
Z155こうして、江戸期の日本人は高いかべの中に封じ込まれた。こうして日本は「ガラパゴス的進化」を遂げていく。
しかし、この狭い窓口から必死になって外を見よう、さらに窓を広げようとした人々もいたのも事実だ。
なお、かべの監視人たる幕府は、外のことも知らねばということで、オランダ船がくるごとに「阿蘭陀風説書」を提出させていた。

<業務連絡・公開問題>

業務連絡だけど、毎年、考査で、鎖国について公開問題を出すことにしている。
今年は、「「鎖国」が日本にもたらした良い影響と悪い影響を記、あなたはどう思うか?」という問題にする。答えはない問題だけど、問題に対して的確に答えているかと、自分の頭で論理的に考えているかを採点基準にするからそのつもりで。ボーナス点五点くらいで考えているから、そのつもりで。
では、授業を終わりましょう。ありがとうございました。
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