日本の産業革命

生糸の輸出用ラベル 「図説日本史通覧」p235

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日本の産業革命

こんにちは、よろしくお願いします。
今日は、明治期の日本経済について見て行きます。
そう聞いただけで、いやそうな顔をしてる人がいますが、このあたりで勉強をしておくことが、戦前の日本の性格や戦後との違い、今日本で行われている経済政策を考えるときに役立つと思いますからがんばってやりましょう。

幕末~大正初期の貿易品目の推移から

それでは、今日は追加プリント(下記:グラフ)を配布します。
見ての通り。グラフが中心です。
入試で日本史や世界史を使うという人は、こういうグラフの読み取りがよく出題されますから、しっかり勉強してくださいね。
ついでにぼくも毎年、このグラフをつかって出題していますから、今年もでそう?!ですね。
ではグラフを見てください。
貿易割合推移

貿易額・割合の推移 山川出版社「詳説日本史」P253、P302

幕末から大正の初めまで、どのような商品が輸出され、輸入したか、その割合と貿易額を示したものです。日本史Bの教科書のグラフから抜き出しています。
一番上の二つが1865(慶応元)年ですから、幕末、開港から6年後となります。プリントに「幕末」と書きこんでください。
二段目が1885(明治18)年です。明治初年の混乱と明治10年代前半のインフレにうってかわって、松方デフレで日本中が疲弊していた時期です。「明治中期(M18)」と書き込んでください。
三段目が1899(明治32)年です。日清戦争が終わり、ロシアとの戦いに人々の目が向けられていた時代です。「明治後期(M32)」と書き込んでください。
一番下の段が1913(大正2)年です。前年が明治45年、明治が終わった年です。「大正初期(T2)」あるいは「明治末期(T2)」のどちらかを書いてください。
2段目からは14年間隔となっています。

急激に伸びる貿易額~約30年で20数倍に

まず、輸出入の総額の変化を見ていきましょう。幕末は書いてありませんので、2段目からになります。
ここでは増加の規模が倍なんて甘いものではないことが分かりますね。
1885年から1899年の14年間で
 輸出が5.8倍、輸入が7.5倍に増加
1899年から1913年の14年間では
 輸出が2.9倍、輸入が3.3倍に増加
1885年から1913年の28年間で見ると
 輸出が17倍、輸入が24.8倍というとんでもない伸び
になっています。
まず、このように貿易額が急速に伸びていることを確認しておいてください。
当然のこととして、日本の経済が急速に成長していることは、
わかりますね。
そして、1885年は輸出が輸入より多かったのに対し、
あとになればなるほど輸入の方が多くなっていることも確認しておきましょう。

輸出品~不動の一位「生糸」

では、貿易品について見ていきましょう。まず輸出を見ましょう。
輸出品を見て、まず分かることは・・・・。まわりの人とも相談して考えてください。・・・。
ちょっと聞いてみます・・・
つねに、一位なのは・・・。そう生糸ですね。
生糸、いいですか、絹糸ですよ。蚕がつくる糸をより合わせたもの。生糸が、すべての時期、輸出では不動の一位
生糸の輸出用ラベル 「図説日本史通覧」p235

生糸の輸出用ラベル
「図説日本史通覧」p235

ついでに生糸・絹関連をみておくと、幕末では「蚕卵紙」が3位。これは蚕の卵が産み付けられた紙で、これを一定の温度にすると幼虫が孵(かえ)ります。まあ、蚕の「種」にあたります。ちょうど幕末の頃、ヨーロッパでは伝染病による蚕の大量死があったので、非常に需要があったのです。

いまなら、外来種の導入ということで問題になりそうですね。
つぎは三段目(1899年)四段目(1913年)の第三位が「絹織物です。生糸と合わせると、どちらの年も36~37%が絹関連となります。戦前の日本の輸出は、生糸(絹関連)産業で支えられたことがわかりますね。
ついでに、特徴的な輸出品を見ていくと、上二つのグラフでは2位が「」「緑茶」です。実はアメリカなどではお茶(紅茶ではありません)の人気が高かったのです。
最近になって、欧米で緑茶人気が高まっていますが、明治にはお茶が主要な輸出産業だったのですね
それから銅・石炭といった鉱物資源にも注目しておきましょう。

「綿」の変化に注目しよう。

この8つのグラフ全体で、とくに注目してほしいのが、「綿」の字がはいっている商品です。では、ちょっと作業してください。
全部のグラフの商品の中で「綿」の字がはいっている品目を○で囲んでください・・・。
できましたか。できたという人は、そこからどのような事がわかるか、考えてください。
 
だいたいみんなできたみたいなので、見ていきましょう。
一段目、幕末では、輸入2位に綿織物、5位に綿糸
二段目の明治中期では、輸入の1位に綿糸、3位に綿織物
だけですね。
ところが、三段目、明治後期になると様子が変わってきます。
二段目では輸入のグラフにあった綿糸が輸出の2位に入り、代わって綿花が輸入の1位になっています
綿織物は輸入の5位にはいっています。
四段目、大正初期になると綿糸(2位)だけでなく、綿織物(4位)も輸出に入りました。
それにたいし、綿花の輸入は28%から32%と増加しています。
輸出入とも全体の規模が3倍前後ですので、実際に伸びはすごいものです。
このことから、どのようなことが分かりますか?まわりの人とも相談して考えてください。

「綿花」「綿糸」「綿織物」

綿織物、綿糸、綿花の関係ってわかりますか?
綿、布団の中に入っているふわふわの綿、これが綿花です。
といっても、最近の布団にはあまり入っていないか。
ワタという植物のふわふわの花が綿花です

綿花 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%B6%BF#/media/File:CottonPlant.JPG

江戸時代、日本でも大量に作っていた話は前にしました。でも手間と費用がかかる割に質は悪い、コストパフォーマンスが低いのです。なんといってもワタは熱帯の作物ですので。
綿花を糸に紡いだものが綿糸
綿花から綿糸をつくることを(綿)紡績といいます。

糸車を用いた手作業による紡績作業 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e5/Nepali_charka_in_action.jpg

昔は一本一本、手で紡いでいました。信じられない手間ですね。紀元前から行われていたのですが、あの綿から糸ができるなんて、いまだに信じられない気持ちがします。こうしたらできますよといわれても、一般人にはとても難しい。
ほんまかいなと思う人は、木綿の糸をほぐしてください。綿に戻りますから。

この過程が、熟練がいりそうにみえますが、
作業自体は単純で機械的なので、機械に置き換えやすく、大規模化もしやすかったのです。

ジェニー紡績機https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A1%E7%B8%BE#/media/File:Spinning_jenny.jpg

このため、イギリスの産業革命もこの分野の機械から始まりました。ハーグリーブス「ジェニー紡績機」とか、アークライト「水力紡績機」とか、クロンプトン「ミュール紡績機」とか・・・、このような人名を覚える必要はないと思うんですが、問題集なんかでは頻出問題になっているので・・・。こんなんだから、歴史嫌いがふえるんですね。ちなみに、1年のとき、覚えさせられた?
そして、こうして紡いだ糸を織り上げたものが綿織物です。さっきの関連でいうと、カートライトの「力織機」がこのための機械です。模様を織り込むとかいろいろな要素もあるため、紡績ほどの急速な機械化はすすまず、機械自体も小型のものが開発されたので、小規模な会社でも、生き残りやすかったといわれます。

「綿」から見える日本の工業化

話を元に戻してまとめると、
原料が綿花、それからつくったのが綿糸(この過程が紡績)、
綿糸を織って布にしたのが綿織物あるいは綿布(この過程が綿織物あるいは織布)となります。
もっと単純にいうと、
綿花が原料、綿糸が半製品、綿織物が製品
となります。
これをさっきのグラフの読み込みと合わせるとどうなりますか。
幕末は工業製品である綿織物を輸入していました
輸入品一位の毛織物を筆頭に名前があがっているすべての輸入品が工業製品です。
この点では多くのアジア諸国と似た貿易構造でした。
ただ、多くの国の輸出品が綿花などの原料や食料だったのに対し、生糸という半工業製品が主力であった点が異なります。
ところが
明治中期になると完成品である綿織物に変わって、半製品である綿糸が輸入の中心となり、
明治後期には工業製品である綿糸が、大正初期には綿織物も輸出できるようになり、代わってその原料の綿花が輸入の中心となります。
このことの意味、わかりますか?・・・、
そう、明治の中期以降、木綿産業において急速に工業化が進んだことを示しています。
最初は完成した工業製品を買っていた
しかし、明治になると外国製の綿糸を使って布を織ることでコストダウンをはかろうという織物業者たちがあらわれた。それが綿糸の輸入の増加です。
そして明治の中期以降になると原料の綿花を輸入して、国内で大量の綿糸を作るようになった。さらに国内の織物業者もがんばって明治の末期には綿織物も輸出できるようになった。
ひとことでいえば、木綿産業の工業化がすすんだ、といえますといえます。
木綿をめぐる貿易の中に明治の工業化の歴史が隠れているのです。

大型化・最新機械の綿紡績業

具体的な歴史の過程で見ていきます。明治政府はできるだけ輸入を減らしたいこともあって、綿工業をなんとか育成しようと考えていました。ところが、なかなかうまくいかず赤字つづきでした。
ところが渋沢栄一という実業家、まえの朝ドラ「あさがきた」では三宅裕司がやっていた役ですが、かれが大阪の商人たちととも、1882(明治15)年、イギリスから最新の機械を導入してこれまで5倍もの規模の紡績会社、大阪紡績会社を設立したのです。
大阪紡績Z238

大阪紡績会社 「図説日本史通覧」P328

これが成功すると、大阪を中心にして大規模な綿紡績工場が次々と設立されます。玉木宏が社長をしていた紡績会社のモデルもその一つで、現在のユニチカの前身です。
こうした紡績をめぐる新しい動きが明治後期以降の綿糸輸出に反映しています。

中小の業者も多い製糸業や織物業

生糸でも機械化がすすみました
それまでは座繰製糸とよばれる手回しで糸を紡ぐやり方が中心だったのですが、フランス制の機械に学んだ器械製糸が中心となります。
p15

明治初年まで使われた奥州座操機 岡谷蚕糸博物館HPよりhttp://silkfact.jp/collection/folkcultural/%e5%a5%a5%e5%b7%9e%e5%ba%a7%e7%b9%b0%e5%99%a8/

綿や絹の織物業でも機械化が進みます。日露戦争後の豊田佐吉という人が発明した豊田自動織機が有名です。
現在も、「豊田自動織機」という会社があります。

豊田自動織機https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%87%AA%E5%8B%95%E7%B9%94%E6%A9%9F#/media/File:1924_Non-Stop_Shuttle_Change_Toyoda_Automatic_Loom,_Type_G_1.jpg

そんな会社、いまどき仕事があるのと不思議な気がしますが、・・・「豊田」という名前を聞いてなんか気がつかない?そう、自動車の「トヨタ」の親会社で、トヨタグループのトップがこの会社です。
豊田佐吉さんこそが、世界のトヨタの産みの親なのです。現在、この会社での繊維関連の仕事は4%以下だけど、原点を忘れないようにこの名前を使い続けています。以上、余談でした。
この機械、小型で安かったこともあって歓迎され、織物業界は中小でもやっていけました。

戦前日本産業の弱点~機械工業

このように、1880年代後半、明治20年代にはいるころからいろいろな分野で工業化が急速に進んでいきます。工業化が急速に進むことを産業革命といいます
しかし、さっき「イギリス製の機械」を導入したとか「フランス製の機械」に学んだといいました。そこでまた先ほどのグラフを見てください。明治以降、輸入品目の中に6~7%の割合で機械類が入っています。日本は工業化したとはいいながら、欧米製の機械の力を借りることが多かったのです。
戦争中工場で働いた人が、その機械が敵国イギリス製なのを見て日本の産業の底の浅さを知ったと書いていました。
一般的な機械製造などは不得意、というのが戦前の日本の工業の姿でした。

「米」の輸入開始から見えてくるもの

グラフを見てもらっているので、もう少し見ておきましょうか。輸入で上位に入っている砂糖、日本人は甘いものが好きだったのですね。
そして大正になると輸入に意外なものが入っているのに気がつきますか?・・・第4位を見てください。がはいっています。
米を食べるのはどんな人でしょうか。それは都会に住む人が中心です。
ですから、米を輸入するということは、しだいに日本が都市化してきたことを示しています。
明治から大正にかわるなか、日本が農村中心の社会から都市中心の社会に代わってきたことを示しています
このへんで、このグラフは終わります。ちょっと試験対策。グラフの中に空欄ができたとしてできますか?「綿」の字がついている品目、どのように変わったか、大丈夫ですか。工業化がすすめば、どのように変わるか、しっかり理解してくださいね。丸覚えでなく、工業化が進めばどうなるか、理解してから覚えてくださいね。

「日本産業の三本柱」

 ここまでの内容をまとめつつ、補足をします。
①日本の輸出は一貫して生糸であり、生糸を作る製糸業が日本経済を支えていました
なお、おもな輸出先は欧米、とくにアメリカです。
明治時代、木綿工業が発展し、綿糸や綿織物の国内生産がすすみ、綿糸は生糸と並ぶ 輸出産業の中心となりました。
なお、おもな輸出先はアジア諸国、とくに中国です。
また、輸入される綿花は中国とインドで生産されたものです。
機械工業など重工業の発達は遅れており、輸入に頼る面もありました。
このようになります。
実は、一般に、戦前の日本の産業は三本柱に支えられたといわれています。今見た生糸と綿紡績の二本ですね。もう一本は何でしょうか?
これは貿易のグラフからは見えにくいものです。わかりますかね?・・・
④軍需産業とその関連産業が三本柱の三本目です。
大砲や弾薬などをつくるとともに、艦船をつくったり、その原料となる鉄鋼を作ったり、とりあえず軍隊や戦争にかかわる産業が発達しました
官営工場と呼ばれた国営の工場が中心となります。
日本の産業の三本柱は、アメリカ向けの製糸業、アジア向けの綿(紡績)業、そして軍国主義化にともなう軍需産業でした。
こういった産業とその関連産業は発達しましたが、その他は不振気味でした。

「松方デフレ」と産業革命の開始

 日本における産業革命は、先にも見たように1880年代後半、明治20年前後から本格化します
多くの国民、とくに農民たちを苦しめた
松方デフレ政策が産業革命を基礎を作ったといわれます。
西南戦争以来のインフレを終わらせました
日本銀行の設立と銀本位制の導入は通貨を安定させ、貿易を促進しました。
小作農として農村で苦しい生活をしたり、農村から流出して都会の貧民街などに流れこむ貧民層を生み出し、
安い値段で、過酷な条件でも働かざるを得ない大量の労働力をつくりました。
日本の産業革命はこうした労働力に支えられて発達します。
広い土地を手に入れ、自分ではあまり耕作をせず、小作人が払う高額の小作料で生活をする寄生地主たちをつくりだしました。かれらは、手に入れたお金を銀行に預けるとともに、新たな投資先を探します。銀行やかつての藩主たちとともに寄生地主たちが投資したのが鉄道であり、さらには紡績工場や製糸業などでした。こうした資金も、産業革命を発展させました
こうして1886(1886)年ごろから産業革命がはじまったといわれます。

産業革命の本格化と日清戦争・日露戦争

産業革命が本格化したのが日清戦争以後でした。
この背景にあったのは、日本が多額の金を手に入れたことでしたが、分かりますか?・・そう、日清戦争の賠償金
日清戦争の賠償金の使途 東京書籍「日本史A」p77

日清戦争の賠償金の使途
東京書籍「日本史A」p77

金で2億3千両が日本政府の手に渡りました。
政府はこれを原資に1897(明治30)年貨幣法を制定し、金本位制を導入します。
これまでの銀本位制はアジアで主に用いられていたのに対し、
これは欧米先進国が採用しているものであり、欧米諸国との貿易を促進するものでした。
さらに、ロシアとの戦争をにらんで、やはり賠償金を使って、鉄鋼を国産すべく・・・・、官営八幡製鉄所を設立しました。
八幡製作所 東京書籍「日本史A」p76

八幡製作所
東京書籍「日本史A」p76

最初は外国人の技術者に頼っていたのですがうまくいきませんでした。外国のやり方をそのまま持ってきてもうまくいかないのです。そこで岩手県釜石で経験を積んだ技術者が腕利きの職人とともにやってきて、成功させました。
造船業や綿紡績業も発達、それにともない石炭産出高も増え、製糸業などで働く人も急増しました。
日露戦争後には1906年鉄道国有化法が成立、多くの私鉄が買収されました。そこで支払われた多額の資金を手にした寄生地主ら資産家は、新たな投資先を求め、資金が重工業などにも流れ込みます。
他方、官営工場での経験を積んだ技術者が町工場などをはじめ、重工業においても裾野の広がりがみられるようになりました。こうして産業革命はいっそう広がりを見せました。

政商から財閥に

産業革命といってもつねに順調に進んだのではありません。何度か恐慌といわれる不景気を経験します。その中で多くの会社が経営危機におちいりました。こうした企業を次々と買収し、さまざまな分野の仕事へ進出していったのが三井・三菱・住友といった政商です。かれらはこうして多角的な経営をすすめる財閥へと成長していきました。

産業革命の背景にあったもの

こうして日本はこの時期、急速な経済発展を遂げていきました。その背景にあったのは、松方デフレなどによって没落していった農民や都市の貧困層の安い労働力です。また、日清日露という二つの戦争も経済発展の大きな要因となっていました。
このようにして成長してきた戦前日本の経済、どのような問題をもっていたのでしょうか、それについては、次の時間に見ていきたいと思います。
それでは今日は、これで終わりとします。礼、ありがとうございました。
<次の時間:資本主義と農村
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