明治憲法体制の成立

憲法発布の様子を描いた当時の錦絵

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明治憲法体制の成立

明治憲法体制の成立

前回までは自由民権運動、政府に対し「国会を開設し、国民の声を聞け」と求める国民の運動を見てきました。
今日は、これに対して、政府側がどのように体制を整備し、最終的に明治憲法(「大日本帝国憲法」)を制定していったか、その内容はどうであったのかを見ていきたいと思います。
今回も、補助プリントを作りましたので、配布します。
憲法発布の式典 宮中で明治天皇が黒田清隆総理大臣に憲法が授けられている。 東京書籍「日本史A」p72

憲法発布の式典
宮中で明治天皇が黒田清隆総理大臣に憲法を授けている。 東京書籍「日本史A」p72

 伊藤博文の憂鬱

 開拓使官有物払下げ事件をめぐる自由民権運動の高まりの中、1881(明治14)年、政府は「それなら国会を開設することにします。だけど10年後だよ。憲法や国会のあり方についてはこっちでやるのでごちゃごちゃ言わないでね」という内容の「国会開設の勅諭」をだしたこと、前々回の授業でやりました。
これで、国会開設、それに先行する憲法制定というスケジュールが決まり、政府もこれまでのようにだらだらとすすめることが許されなくなりました。
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伊藤博文 長州藩出身。イギリス留学をきっかけに、木戸、大久保らとむすび、その後継者として憲法制定などに携わった。

責任者の伊藤にとってかなりのストレスだったみたいで、大量のお酒を飲んで寝るようになったとの記録に残っています。アル中になるパターンですので、大人になってもこんな飲み方はしないでくださいね。
伊藤にしたら、民権運動の連中はうるさいし、岩倉は勝手なことをいってくるし、話ができるひとりと思っていた大隈に裏切られるし、大隈のようなブレーンもいないし、欧米人に笑われないだけの憲法を作らなければならないし、これじゃ酒も増えるわな・・・。

憲法制定における課題

ちょっと、伊藤の悩みにつきあってみましょう。まず、国内的な点。国会の開設は約束したのだから仕方がない。民権派などに思いのままにされる国にしてはいけない。薩長が中心となって進める政治は維持したい。「天皇の中心の日本という線はくれぐれも守れ」と岩倉さんに言われている。
こんな感じでしょうか。
憲法制定にはもうひとつの意味があります。日本が憲法を持つ先進国だというアピール効果です。文明国は、憲法をもっていて当然、憲法もない非文明国は条約改正を認てくれないだろうという思いです。これは伊藤の師匠であった大久保も、木戸も、さらに岩倉さえも共有する認識でした。でも粗末なものなら通用しない、やはり、世界が近代憲法として認めるような憲法でなければならないのです
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伊藤の憲法調査(生徒のノートより)

最大の問題は天皇をどのように位置づけるかということでした。大久保も木戸も一番悩んでいたのはそこでした。
この問題が解けず、伊藤の酒量が増えていたのです。

 伊藤博文が学んできたもの

 1882(明治15)年、伊藤はヨーロッパへ出発します。実は、大久保や木戸の時代から、ドイツの憲法を基本にすることは暗黙の了解でした。ということで、最初の留学先①はドイツです。
伊藤はドイツのビスマルクを崇拝していたとされる。(ビゴーの風刺画) 「図説日本史通覧」P218

伊藤はドイツのビスマルクを崇拝していたとされる。(ビゴーの風刺画)
「図説日本史通覧」P218

グナイスト教授の話を聞きましたがピンときません。悩みは解決しません。
しかしオーストリアのシュタイン教授の話で、その悩みは解消します。オーストリアの失敗を繰り返して欲しくないとシュタイン教授は伊藤に情熱的に話しかけます。「問題は、憲法の条文でない。どのように運用するかだ。国会や君主と対抗できるだけの行政機関の自立性と力が重要だ」と。
次のイギリスで議院内閣制を学びます。伊藤は、ドイツ憲法は皇帝の力が強すぎると考えていたのです。

 行政機関の整備と内閣制

こうした成果と自信をもって、伊藤は帰国します。
憲法草案の起草のプログラムとともに、行政機関の整備に着手します
第一に考えたのは、天皇の力を維持しながらも、天皇が追求されたり責任を問われたりしない天皇をめぐる環境づくりです
ある意味では、天皇が必要以上に政治に口出ししないシステムといっていいかもしれません。天皇(宮内庁)を政府から分離します。国会などからカネの面から口出しされないよう皇室財産制度も作りました。
第一次伊藤内閣 薩摩・長州出身者が主要閣僚を独占している。 「図説日本史通覧」p220

第一次伊藤内閣
薩摩・長州出身者が主要閣僚を独占している。
「図説日本史通覧」p220

つづいて、1885(明治18)年には内閣制度を導入、実際の政治は内閣が責任を負って行い、天皇は個別の政策にはかかわらないようにします。これまでの太政官制では公家が政府の中心にいましたがそれもやめます。ほぼ完全な藩閥政治が実現したとも言われます。
そして、初代内閣総理大臣には伊藤博文自身が就任します。自分の行うことが先例として生きることをよく分かっていたのでしょう。ということで③は伊藤博文です。(②は後回しにさせてください)

地方行政制度の整備

内務大臣の山県有朋(やまがた・ありとも)を中心に、地方行政制度も整備されます。
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山県有朋 長州の下級武士出身。奇兵隊の指揮官として台頭。長州閥・陸軍閥の中心として大きな影響力を持った。

1888(明治21)年には市制・町村制が、1890(明治23)年には府県制・郡制が制定されます。
徴兵や教育などで政府の下請けをさせるのが目的が中心ですが、地域社会の課題を自分たちで解決させるねらいもありました。一定の財産を持つものに選挙権を与え、町村長は地方の有力者を当てることで、寄生地主など地方名望家たちを取り込もうという狙いもありました。ということで④は「寄生地主(地方有力者)」となります。

 華族制度と貴族院

イギリスの二院制を学んできた伊藤は、貴族らによって構成されるイギリス上院を作ろうと考え、その構成員に当たる人を作り出します。こうして出されたのが1884(明治17)年の華族令です。
華族は、明治初年、公家と旧藩主がついた身分でしたが、力不足と考えた伊藤は自分たちも華族の一員に加わりました。
華族とされた人々 「図説日本史通覧」p221 薩長土肥4藩出身者が大半を占めている。

華族とされた人々 薩長土肥4藩出身者が大半を占めている。
「図説日本史通覧」p221

華族の中に「維新勲功者(一族)」という枠をつくり、そこに自分たちを当てはめたのです。
ということでプリント⑤は維新の功労者です
さらに華族は公・侯・伯・子・男という五段階の爵位が与えられます。
そして貴族院(上院)がおかれると、皇族(天皇一族)と公爵・侯爵は全員が議員となり、伯爵以下は互選で議員を出すことにしました。
貴族院には天皇が選んだ人や多額の税金を払った人も選ばれます。
こういう人たちで構成された貴族院に、選挙で選ばれた議員からなる衆議院(下院)と同じ権利を与え、衆議院の力を薄めようとしたのです。
このように
国会が開催されてからも、天皇の地位を安定させ、藩閥勢力、とくに権力の座にいる伊藤たち(元老と呼ばれるようになります)の力を保てるようなシステム作りがすすみました。

 大日本帝国憲法の発布

この間もひそかに憲法制定の準備が進んでいました
最初の草案は官僚の井上毅(いのうえ・こわし)とロエスレルというドイツ人の法学者が作ります。これをもとに伊藤が新たな草案を作り、官僚の金子堅太郎・伊東巳代治らもはいって激しい議論の上、原案をつくりました。
枢密院のようす 「図説日本史通覧」p218

枢密院のようす 「図説日本史通覧」p218

原案を検討のため、1888(明治21)年設置されたのが枢密院(すうみついん)、天皇が意見を聞くための最高諮問機関です。やはり伊藤が議長役を引き受けました。さっき飛ばしたプリントの②は枢密院です。
この枢密院で審議し、天皇のOKももらって、
1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)
が発布されました。

 明治憲法は近代憲法といえるのか?

憲法制定の過程で何か気づきませんか?何か抜けていませんか?そう、国民です。
国民は憲法の内容を知らされないまま、与えるという形で発布されたのです
一部の人たちのいい方をまねるなら、憲法が天皇から「押しつけ」られたのです
天皇などの主権者が上から与える憲法欽定憲法といいます。
⑥がこれです。
近代憲法は本来支配者の専制的な支配を制限する目的で生まれてきたものという点からみて、明治憲法は近代憲法に値しないという議論もあります。

 明治憲法の「天皇主権」と現行憲法の「国民主権」

では憲法についていくつかの論点について見ていきましょう。
大日本帝国憲法では、天皇は三つの顔を持っています。
忘れないにうちいっておきますけど、毎年この条文の穴埋め問題を出していますからね。
まず第一条。「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」です。⑦は万世一系
万世一系とは、神話上の神様から延々と血脈がつながっているという意味で、「天皇は神さんの子孫」というニュアンスを持っています。「そのように偉い天皇が日本(「大日本帝国」)を統治する」。日本の主人(「主権者」)は天皇という意味です
天皇が主人ですから、国民は「天皇に仕える家来」として「臣民」と呼ばれます。
 
家来は「ご主人様のいうことを聞かないといけない」ので、国民の「権利(人権)」も当然制限されます。こうして、明治憲法における人権は「法律の範囲内において」という文章が挿入されます。集会条例や保安条例といった弾圧法も、そのまま維持されます。
ちなみに、現在の憲法(「日本国憲法」)では、国の主人(「主権者」)は国民です。「国民主権」とか「主権在民」とか言われます。
現在の憲法は「主人である国民の権利を守るために日本という国が存在する」というえですから、基本的人権は最大限尊重されます。公共の福祉といったときのみ制約されるとしています。

 絶対君主としての天皇

つぎは第三条です。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
⑧は「神聖ニシテ侵スヘカラス」、ちょっと長いですね。
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大日本帝国憲法(生徒のノートより)

天皇は、神につながる神聖な存在なので、その地位や発言などについて、人々がとやかく言うことは許されない」という意味、「天皇の不可侵性」を定めたといわれます。
ですから「天皇は責任を問われることはない、何をしてもよい」とよめる条文です。天皇は絶対君主と理解できる条文です。
なぜこの条文が入ったかというと、政治上の諸課題が天皇に波及することを防ぐ目的だったと考えられています。こういったものは内閣など行政機関で対応するので、天皇は後ろに控えていて欲しいという考えでした。

 立憲君主としての天皇

ところが第四条は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規ニ依リ之(これ)ヲ行フ」となっています。⑨は「憲法ノ条規」です。
これまでの二つの条文が神話的であったのにたいし、この条文では「元首」「統治権」という世界でも通用することばで天皇の地位を位置づけています。
そして「憲法の条規によりこれ(統治)を行う」というように、天皇は憲法にしたがって政治を行う。自分勝手な政治は行えない、と読めます。この条文によると、天皇が憲法に従って政治を行うという立憲君主制としてとらえる事ができます。
大正時代になると、この条文を利用して天皇の権限を限定的にとらえていこうという「天皇機関説」が生まれてきます。
第三条のように「何をしても許される」という絶対君主としての天皇の姿とはかなり違うことが分かります。
実は、このあたりが伊藤たちの苦心のたまものでした。
伊藤は「憲法は君主の権限を制約するものである」という「立憲主義」の原則を分かっており、それがなければグローバルスタンダードとしての憲法の体をなさないことが分かっていたのです。
 はい、明治憲法における天皇の三つの規定、よろしいですね。試験で出そうですね。

 天皇大権

明治憲法で、天皇はさまざまな権限(「天皇大権」)を持っていると定められました。
大日本憲法(抄)

大日本憲法(抄)

軍隊を率いる指揮官としての権限(「統帥権」)、戦争を開始し、終わらせる権限(「宣戦・講和権」)、国会の閉会中など急に対応しなければならない事態が起こったとき天皇が命令(「緊急勅令」)をだす権限などがあげられます。
⑩は緊急勅令です
 国民が臣民と呼ばれ、人権が法律によって制限されるという話はさっきしましたので、
⑪は臣民、⑫は人権 です。

天皇への奉仕で、国民への奉仕ではない!

内閣や各省庁、裁判所といった機関があり、そのもとで働く官僚(公務員)もいました。
現在、内閣は国民のために政治を行い、裁判所は国民の名において裁判し、公務員は国民の福祉のために(という建前?!のもと)働いています。公立学校の教員も公務員であり、主人(主権者)である人々の子女を育てるために働いています。(働かなければならないというべきか・・)
ところが、明治憲法は主人が天皇だからそうはいきません。
内閣(正式にいうと一人一人の大臣は)天皇に直接責任を持って働き、裁判所は天皇の名によって「臣民」を裁き、官僚(公務員)は天皇のために働きました。軍隊は「天皇の軍隊」で、天皇中心の国家を守るためにいるのであって、国民を守る軍隊ではありませんでした
⑬は天皇です。

統制の利かないシステム

右側に、憲法をきっかけに成立した国家機構の図を掲げました。
東京書籍「日本史A」p73

東京書籍「日本史A」p73

図の中の紫色で示されたものが憲法に記された機関で、
青い色で示されたものが憲法に記されていない機関(憲法外機関)です。
⑭には元老という言葉が入ります。
注意して欲しいのは、いずれの機関もすべて天皇に直結していることです。とくに軍隊はあえて別の線で天皇につないでいます。本来ならすべての機関、さらに一人一人の大臣も、一本一本天皇に直結させるべきかもしれませんが、ややこしいのでまとめています。
実は内閣でも一人一人の大臣が天皇に直結していて、内閣総理大臣の命令を聞く義務はなく、総理大臣には言うことを聞かない大臣を辞めさせる権限もありませんでした。大臣の下で働く一定の役職以上の役人もそうです。「オレは天皇様に選ばれているので、おまえのいうことを聞く義務はない」と居直ることが可能でした。
実際に、勝手に走り出したのが軍隊でした。軍隊は、自分たちは「自分たちは天皇直属の特別の存在だ。憲法にもそう書いてある。だから俺たちは天皇以外のいうことは聞かないし、聞いてはいけない」と言いだして、日本を戦争に引きずり込んでいったのです。
だから、この図であえて、軍隊だけ別の線にしているのでしょう。⑮は天皇が軍隊を率いる権利、統帥権です。

憲法外機関の存在

 さらに、見て欲しいのは、青い色の憲法外機関の存在です。伊藤博文のところで話したように、内大臣・宮内大臣(その下に宮内省があります)といった天皇のまわりにいる機関は憲法には規定されず、国会や内閣の手の届かない場所に置かれています。

 「元老」~実際の「黒幕」

明治憲法体制の諸機関はすべて天皇の命令で動くという原則に立っていました。国会の力が強くなりすぎて、いろいろな機関を動かし始めることを恐れていたのです。
しかし、このことが裏目に出ました。軍隊はすでに勝手に動く傾向をもっており、内閣総理大臣の権限は弱く、軍隊に対する影響力はドンドン下がっていきました。
天皇が仕切らない以上、どうしようもなくなるようなシステムを作りながら、天皇はできるだけ影響力を行使しない、こんなシステムはどのように運営されたのでしょうか。
その秘密が、憲法外機関の一番上にある元老・重臣です。
主な元老たち 「図説日本史通覧」p219

主な元老たち 「図説日本史通覧」p219

元老とは、伊藤博文や山県有朋、黒田清隆というような藩閥の政治家たちです。
つまり、それぞれの機関がばらばらになっている間隙をぬって、憲法以前から権力を持っていた彼らが、これまでと同様に天皇の名の下で政治を動かそうとしていたのです
内閣総理大臣は元老たちの相談で決められ、戦争なども軍人のトップ山県らがはいっている元老たちによって検討されました。明治天皇も必要な場面では発言していたことが史料にもでてきます。
このように、
元老とよばれるこれまでの藩閥のリーダーが、天皇の名で、これまで通り行政機関と軍隊など諸機関を動かそうとした、これが成立期の明治憲法体制でした。

元老がいなくなると・・・

しかし、この体制、とてもヤバいこと、分かりますか?元老と言ったって、生きてる人間ですよね。
明治初年に20代なかばの青年だった伊藤でもすでに歳をとって来ています。いずれあの世に旅立っていきます
元老たちがいなくなるとどういうことがおこりますか。
うちの親分もいるし仕方ない。言うこと聞くか」と思っていた軍隊なんかは「天皇の言うことしか聞かない」と好き勝手をし始めます。昭和になり、あとから補充された最後の元老・西園寺公望という人しかいなくなるころには、軍隊への歯止めはまったく利かなくなります。
昭和の天皇さんは「君臨すれど統治せず」のイギリスにあこがれていたこともあって、積極的な発言は押さえます。
軍部の暴走はだれも止められなくなり、無謀な戦争に突入していくことになるのです

 国会(「衆議院」)の権威~「国民代表」ということ

もう一つ、一番肝心なことを落としていました。この図の中で、「国民」が参加できるのはどこかわかりますか。
議会。正式には議会の半分「衆議院」だけ、
「国民」といっての実際の人口の1.1%だけ
⑱は衆議院(議員)という言葉が入ります。
国民による選挙とはいうものの、投票権は直接国税15円以上を支払っている25歳以上の男子という超「狭き門」です。
全人口の1.1%という金持ちだけだから国民代表とはいえない」といういい方もできます。たしかにそうです。
「だから、たいしたことはない」と言う人がいますが、私はそうではないと思います。
曲がりなりにも「国民の代表」の性格を持っているのは彼らだけです。彼らには「国民の意見を聞け」と迫る資格があります。
元老も大臣も貴族院議員も「自分は天皇に選ばれた」とはいうものの実際は身内同士で選んだだけで、国民が選挙で選んだという権威を持っていないのですから。
国会当初、議員たちは、予算承認権という権限を活用して政府を厳しく攻撃していきます。⑯は予算承認権です。
衆議院と貴族院はたしかに同じ権限を持っています。しかし⑰の華族 みたいな人は国民代表とはいえず、国民から選ばれたという権威の前には勝てなかったのです。
こうして、伊藤たちがなんとかその存在感、影響力を押さえ込もうとした国会(衆議院)でしたが「国民代表」という権威は大きく、しだいに日本の政治を動かしていきます。
<追記>
本稿と関連のある内容を、以下の形で詳細に論じています。
ご覧いただければ光栄です。(2022,8,6記)
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