<11時間目>
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江戸期の社会~身分制度と農村
<授業用プリント>

(旺文社「教科書よりやさしい日本史ノート」を参考に作成)
<授業ノート(板書)>
今回も、日本史Bの生徒のノートを使用した。
日本史Bということでやや詳しく説明している。
とくに「かわた」身分や「ひにん」身分については、やや時間を掛けて説明した。
あわせて、日本史Aでは取り扱わなかった都市、町人身分の分についてのノートも掲げておく。

江戸時代の社会~身分制度と百姓
江戸時代は「身分社会」~士農工商?

「身分」って何だ?
武士という身分

百姓という身分
様々な身分がある

差別された身分も
さらに、家々をまわって芸能をして歩く人など、実に様々で多様な「身分」があった。
「身分」の中の「身分」の存在
さらにそれぞれの「身分」のなかに、さらに細かい「身分」もある。武士でも、大名、藩士(上士・下士)、郷士、足軽、中間など名前がついている身分もあるし、藩士の中では何石取りか、どのような役職を世襲してきた家柄か、によって、「住む場所」も「役割」も責任も異なった。
「身分違い」は許されない…
当然のことながら「身分」間で上下関係が存在した。
「身分」違いの結婚は原則としてありえなかったし、身分ごとに座る場所が違い、話すことも、いっしょに食事をすることも難しかった。このように江戸時代の人は「身分」という枠の中で住んでいた。

だから、江戸時代は差別が当然というか、「平等」なんてことは、頭の片隅にもなかった時代だ。
身分を超えた友情なんかは生まれにくい社会だった。しかし、武家や上層の百姓・町人などにおいては「学問」や「道場」など、百姓たちは生産や流通の場などで、いろいろな人間同士の交流が増える中でこうした身分だけではない関係も生まれていく。
江戸時代は「裏ルート」がいっぱい。
まったく逆のことをいう。
江戸時代の面白さは、いろんな「裏ルート」があることだ。

幕末の勝海舟の先祖は、「座頭」という目の見えないあんまさん(現在のマッサージ師)だった。その人が金をためて、子供たちに御家人(下級の幕臣)の株を買ってやり、幕臣とした。
有力な百姓に跡継ぎがいないとき、村内の優秀な人を婿養子にしたり、夫婦ごと養子にして「家」を継がせることは、当たり前のことであった。伊藤博文の家もそう。
貧困や差別に苦しんだ親が、豊かな家の前に捨て子をしてその家の「子」にさせようとした、なんて話もよく聞く話だ。
「身分」を考えるとき、表向きの「原則」と実際の「運用」、つねに両面から押さえておかないと、非常にかたよった見方になる。
農村と「百姓」
さて、人口の大部分を占める「百姓」身分だ。
農民=「百姓」ではない
かつては「百姓」という言葉が差別的だとして避けられる傾向があった。しかし、江戸時代の身分でいうと「農民」ではなく「百姓」でなければならない。
「農民」=「百姓」という等式が成り立たないからだ。
農業をやっている人=「百姓」とすれば、さきの「かわた」身分も「百姓」となるし、逆に農業以外がメインの「漁師」や「猟師」などは入らない。さらに、大坂のような町には、農業をやっている町人(「農人」)もいたりする。「検地帳」をみると、これで生活していけるわけがないというような石高しか持たない本百姓が多数存在している。かれらが農業だけで暮らしていたとは思えない。
「百姓」とは、先に見たように「社会のために生産物を提供するという「仕事」を持ち、年貢などを払うという「役割」をもち、武士によって保護されるという「特権」をもち、農村(「郷」)に「居住」する」と位置づけられる。
だから百姓には、農民のほか「漁師」や「猟師」「木こり」も入り、城下町以外で商業をやっている「在郷商人」なども含まれる。
「百姓」のなかのいくつかの「身分」
「百姓」のなかにもさらに細かい身分がある。おもに農民を中心に見ていく。
「本百姓」と「水呑」
農民は、まず二つに分類される。

検地帳に記載されており、年貢を払う義務を負わされている農民(「本百姓」)と、
土地を借りて農業をする(小作農)かたわら、いろいろなバイト(そっちがメインの時もある)をして生活を支えていた人たち(「水呑」みずのみ)にわかれる。
本百姓は「寄合」(村の会議)に参加して村の運営に参加できるが、水呑は参加できない。ある意味、村人と認められていない存在だ。
有力農民=「村役人層」
さらに「本百姓」も大きく二つに分けられる。
一つは、広い屋敷と土地を持ち、村方三役と呼ばれる村役人を回り持ちで担うような有力農民たちである。
自分の家の、たとえば牛小屋などの一部に、名子・被官とよばれる人たちを住まわせておいて自分の土地を耕させたり、水呑に土地を貸してやって小作させたりしている地主でもある。
結婚相手も他の村の村役人の家だったり、少し手続きが必要だが城下町の武士だったりする。村の中の一般農民と結婚することは少ない、こういったグループだ。戦国時代までは武士だったんだけど、兵農分離のときに農村に百姓として残った人も多い。
だから武士のなかにも遠い親戚や知り合いがいるし、元は武士だというプライドも持っている。文字はもちろん知っているし、学問もある。公的であるかは別として、苗字ももっている。蔵の中を探れば、よろいやかぶと、さらに立派な刀もでてくることもあるし、ときには戦国時代や安土桃山時代の活躍を示す書き付けも出てくる。
普通の「百姓」
これに対して、本百姓の多くは自分の土地を家族で耕し、その収益で年貢を払い、残りで生活するという農民たちである。
しかし祭りなどの村の行事には積極的に参加し、ときには村役人様にも意見をしたりもする。ただ生活は不安定で、年貢が払えないときは有力農民に泣きついたり、借金に走り回ることもある。バイトなどもする。
村請制~年貢を確実に手に入れるシステム
武士たちは、こうした村の姿を利用して年貢などを得ていた。

その仕組みの中心が、村請制だ。村全体の年貢などを村役人が責任を持って集め、納入させるという仕組みだ。
実は、この仕組みは室町時代に村の自治の高まりの中で生まれてきた制度がもとになっている。
武士たちは集める年貢の額だけを示しておけば、あとは村役人が責任を負って年貢を集め、納める。足りなければ村役人の責任だ。村役人は必死で年貢を集めるし、貸してくれる人を紹介したり、ダメな場合は自分が立て替える。
他方、村人からすれば、村全体に迷惑をかけるし、村役人に頭が上がらなくなるので無理をしてでも年貢を払う。払わないときの村人の冷たい視線、そんなふうな時の怖さを知ってる人、いてほしくないけど、やっぱりいるかな。いわゆる連帯責任制というやつだ。
五人組と村八分
さらに連帯責任制ということで導入されたのが五人組という制度。
五軒ぐらいの家をグループにして、そのなかから犯罪者、とくにキリシタン、がでたら、グループ全体の責任にされる。だから、「変だ!」と思ったら、奉行所に「おそれながら」とたれ込むように、という仕組みだ。
また村のルールを破った人に対しては、火事と葬式を除いて、仲間はずれにするという「罰」もあった。これを村八分という。
一緒に生活をしているからこそ、江戸時代の村落には、なんともいえない息苦しさを感じる人もいたように思われる。
村システムのもう一つの側面~越訴・一揆
しかし、ふと考えてみる。
年貢を払えないのが一人だけならきつい状態になるけど、村中の大部分の人が年貢を払えなかったらどうなるのか。
村じゅうが「年貢を払えない」とごねだしたら、
村役人は孤立を恐れて、武士の所に「年貢をまけてくれないか」と交渉する。まじめな村役人の場合は、命をかけて、殿様や幕府などに直接訴える。直訴するわけだな。こういうやりかたを越訴(おっそ)という。
百姓は一筋縄ではいかない~一揆の作法
それでも、うまくいかないときは、「年貢をまけろ」という一揆(強訴(ごうそ))を起こし、村人全総出で役所に押しかける。参加しない場合は「村八分」だ。

一揆は、周辺の村にまで波及する。参加する村が増える中「一揆に参加しないと、おまえの村自体が「村八分」だぞ」と。
実は、百姓一揆にはずるいやり方がある。一揆に参加しろと呼びかけて、応じない(ふりをした)ときは、村役人の家を壊す。そうすると、その村の百姓たちは、「脅迫されたのでやむなく参加しました」という口実を得ることができる。こういったしたたかなやり方、これも江戸時代の村の構造の中に隠れている。
五人組もそうだ。五軒のうち一軒だけがキリシタンならこの制度は通用するけど、五人中四軒がキリシタンだったらどうか、「たれ込もう」とする方がリスクが高い。
江戸時代の村は、幕藩体制の支配の末端に位置づけられているが、同時に、村人の連帯の拠点、抵抗の拠点でもあった。
年貢を集めるシステム
「生かさぬよう、殺さぬよう」

しかし、年貢を取り過ぎて多くの百姓が破綻してしまえば年貢は集まらない。昔からよく言われる「生かさぬよう、殺さぬよう」という言葉だ。
どうすれば、農民を「殺さない」?


田畑勝手作の禁令~「カネ」を触らせない
「コメ」の経済をめざそうとしていたが。
近世の「百姓」経営はいかにして維持されたのか。
~「百姓成立」という観点から~
「百姓成立」~その成立と展開、そして崩壊