総力戦体制の構築~国家総動員体制と国民生活


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総力戦体制の構築~国家総動員体制と国民生活

「死んだ兵士に顔向けができるのか!」    ~誰も責任を取らない指導者たち~

中国は一撃をくわせたらすぐ屈服する」。何の根拠もない思い込みから始まった日中戦争でした。しかし、中国側の激しい抵抗の前に、日本軍の死傷者は急増、ついには日露戦争を上回ります。中国戦線から,連日、無言の帰還兵が帰ってきます。手や足を切断するなど身体や、さらに精神に傷を負った兵士も。

東京書籍日本史AP132

こうした大きな犠牲は、政府や軍部に無言の圧力をかけ始めます。
思い出しましょう。日露戦争のとき、日比谷焼き討ち事件のことを。大きな犠牲に対して、得られたものが少ないといって怒り狂った民衆を。「死んだものに顔向けができるのか!」という非難を浴びたことを。
軍部や政府は、犠牲者が多ければ多いほど、いい加減な条件で辞めれば、大変なことになる。何も得られないで戦争をやめれば何を言われるか、自分たちの地位自体が危うくなると感じ始めていました。
考えてみれば、明治の指導者たちは勇敢でした。日本の国力を知り、辞めるリスクを負う勇気をもっていたのですから。まあ、優勢だったから、余裕があったともいえますね。
日中戦争で有利な条件での停戦は不可能です。ある意味、負けを認ることです。このことが、指導者たちを縛り続けます。敗軍の将になりたくないと。
現在に至っても、いまだに中国に負けたことを認めない人が多いのですから。
昭和の指導者は無責任でした。無責任に戦争を始めておきながら、自分を犠牲にしてでも「辞める!」という勇気はありませんでした。
戦争を始めるのは簡単です。「相手なんかたいしたことはない」「ここで戦わないものは卑怯だ」とか、そして「前の戦争で死んだものの犠牲が無駄になる」とかいって、あおり立てればいいのですから。戦争は、無責任な人間の言いたい放題で始めることができます。その無責任な人間が「勇気がある」とか「決断力がある」とかいって英雄視されるのです。

「卑怯者」となる勇気

戦争は辞める時の方がはるかに難しく、勇気がいるのです
卑怯者」といわれ、「死んだ兵士の命を返せ、腕を返せ、足を返せ」と罵倒を浴び、命も危険にさらされ、後世の歴史家からは「不名誉な人物」とレッテルを貼られるかもしれない。それでも「辞める」といわねばならないのですから。

東京書籍「日本史A」p130

陸軍幹部にも、総理大臣の近衛にもそのような勇気はありませんでした。多くの人は「早く戦争を辞めたい」と思っていましたしかし自分がリスクを取りたくはなかった
それなら黙っていればいいのに「今辞めれば死んだものに顔向けできない」とかいって足を引っ張りあう。・・。

南京陥落前後、陸軍の参謀本部が、珍しく戦争終結の動きを見せた時、近衛や外務大臣の広田が「もっとよい条件、とくに賠償金が必要だ」とかいってつぶしてしまいました。実際には、交渉にはいっても現場の軍人たちが黙っていなかったでしょうが・・。
こうして戦争は終わるめどが付かないまま、だらだらとつづき、犠牲者は増加しました。辞める為のハードルはどんどん引き上げられます。より大きな戦果が必要となります。中国は屈服しません。踏ん切りがつかないまま、日中戦争は人類史上三番目の死者を出す戦争となっていたのです。
日中戦争の段階で、日本のブレーキは壊れていました。泥沼化した日中戦争をつづけながら、世界最強のアメリカ、そしてイギリスとの戦争を始め・・、破滅します。

総力戦体制とは

近代戦争の戦略思想に「総力戦」という考え方があります。
第一次世界大戦中にドイツのルーデンドルフという軍人が定式化した考え方です。簡単に言うと、近代戦争は国家が国力のすべてをかけて戦う体制を作らなければ勝利できないといった考え方です。「前線も、銃後もなくなった状態」とまとめることもできます。19世紀までは、戦場の戦いが基本で、指揮官の作戦能力や兵士の勇敢さ、動員した兵力などで決着がつきました。しかし総力戦はそうはいきません。
総力戦について、考えてみましょう。

戦争に勝つためには何が必要?

戦争に勝つために必要は何か、まず考えてみましょう、
兵士」「武器や弾薬」、「食料や水」、「精神力」
「大和魂」ですか。それから
物資を運ぶための手段」。つまり・・「輸送船やトラック」。日中戦争の頃の日本は馬や人力で運ぶことが多かったのですが。では武器や弾薬、船やトラックはどうして手に入れますか?
工場で作る」。

飛行機製作に動員された女性たち 帝国書院「図説日本史通覧」P277

武器や弾薬、船やトラックも工場で作ります。
こうして兵器工場や造船所はフル稼働になります。近代戦争は長い時間かかって蓄えてきた弾薬を一瞬で使いきるほど大規模です。すぐ足りなくなる。前線からは「なんとかしてくれ」という矢の催促がくる。こうして軍需工場が足りなくなります。どうしたらいいですか?
機械を増やす」「工場を建てる
でもそんな簡単に工場は建てられません。物資も不足勝ちです。
外国から輸入する
日露戦争の時はそうでした。アメリカやイギリスがどんどん売ってくれました。「毎度おおきに!」といわんばかりに。
そして日中戦争もはじめのころは機械や天然物資は輸入できました。どこから・・・
「ドイツ?」、答えは「アメリカから!」です。
しかし、アメリカは「毎度おおきに!」といってくれますか?
自分たちが支援している国を攻撃する事に使われる物資を輸出するのですよ。さらには輸出したものが、自分たちに向かって使われるかもしれないのですから。でも、日中戦争が始まると、アメリカとの貿易額は大きく増えました。
しかし、アメリカとの対立が高まる中、物資も不足してきました。

浜島書店「新詳日本史」p279

こうして、しだいに、お菓子を作る店やファッション性の高い衣料品を作っている工場などは戦争の役に立たない不要不急とみなされ、働いている人も軍需工場にいかされます
戦争に「ケーキ屋やファッション産業はいらない!」のです
スイーツや格好のいいファッションは平和の象徴でもあります。

不足する人間~召集令状と勤労動員・強制連行

でも足りないものは工場だけですか?
原料」「燃料
さっきもいったように、まだ輸入が可能ですが、それでも厳しくなってきますね。さらに足りなくなるのは・・・
人間」「兵士」「労働者
戦争が激しくなると、若い男たちのもとには次々と赤紙(「召集令状」)がとどきます

帝国書院「図説日本史通覧」P282

召集令状ってわかりますか?何月何日に軍隊に入隊せよという命令です。赤い紙に印刷されていたので「赤紙」といいます。工場の労働者にも届くようになります。当然、人間が足りなくなりますね?でもあきらめるわけにはいきませんね。そこで目をつけたのが・・・。
若い未婚の女性」「学生や生徒」「朝鮮の人
のちに勤労動員といういわれるものですね。それでも足りなくなると朝鮮半島の人を連れてくる強制連行」という事態も発生する。さらには中国の日本軍占領地域の人まで「強制連行」して鉱山などで働かせました。

荒廃する農業、不足する食料品

こうした勤労動員などは工場や軍事施設が中心となりがちですね。ですから、まず召集されたのは・・そんなに高い技術を持っていないと考えられ人口も多かった・・・「農民」です。
そうすると、田畑で働くのは残された女性や老人が中心となります。この時代、トラクターや田植え機なんかはありませんよ。代わりは牛や馬でした。ぼくが幼かった昭和30年代の終わりごろでも牛が畑仕事に使われており、通学路の上にはよく糞が落ちていました。西日本は牛が中心でしたが、東日本は馬が中心でした。ところが日中戦争が始まると、その馬が軍隊に「召集」されました。だから、女性や老人が、クワをふるって耕すしかないのです。十分に耕すこともできませんでした。こうして1939年以降、農業生産高が減っていきます。せっかくつくっても、1940年以降、供出が義務づけられるようになります。アメリカなどとの戦争が始まると、外国からの輸入も止まってしまいます。国内では食糧不足が深刻になりました。
馬が「召集」されたといいましたが、じつは犬もあつめられました。朝ドラ「アンと花子」にもそんなシーンがありました。どうするのかって?「軍用犬として使う」。たしかに優秀な犬はそうでしたが、そうでない犬は?・・・殺して兵士のための毛皮にしたのです。

戦争が生活の中にはいってくる!

食料生産がおち、多くが戦地に送られるため、国内では食糧が不足します。軍需優先のため生活関連の物資の生産も後回し。

山川出版社「詳説日本史」P356

こうして食料や生活物資が不足します。放っておけば物価が高くなるので1939(昭和14)年には物価等統制令公定価格制が導入され、1940(昭和15)年には生活物資を効果的に分配するために切符制が、翌年には米の配給制が導入されます。砂糖やマッチといった生活物資は切符がなければ買えないし、米は配給でしかもらえません。その配給も、遅れたり、少なかったり、代用品も多くなります。
人びとは、食べられる野草を混ぜたり、裏ルートで手に入れたりしながら、なんとか生活しようとします。
バスは木炭で動き、靴は鮭やサメの皮でつくられ、帽子は紙製となる。金属供出が叫ばれ、家庭や地域の金属が集められます。鍋やミシンなども供出され、銅像やお寺の鐘なども集められます。

山川出版社「詳説日本史図録」P280

いまでもよくみると台座だけが残された銅像のあとがあります。渋谷の忠犬ハチ公も1944年に「召集」されて線路に姿を変えました。現在の「ハチ公」は2代目です。
お金も自由に使えません。「貯金をしなさい」「戦時国債を買いなさい」と割り当てが回ってきます。
戦争は人びとの生活の中に入り込んできました。「この世界の片隅で」という2016年に公開されたアニメ映画があります。こうの史代さん漫画が原作です。

映画「この世界の片隅に」HP(http://konosekai.jp/)より

時期的にはもう少しあとですが、この映画の主人公のすずさんの生活の中にこの時代のひとびとの姿をみることができます。苦しい中いっしょうけんめい工夫して生きる人たち。助け合ったり、笑ったり、笑えなくなっていくフツウの人たち。悲劇と希望。ぜひ、見て欲しい映画です。漫画も読んでください。

「革新官僚」~総力戦を推し進める人たち

ここで考えてみてください。
戦場で必要なものをどのように、どれだけの量を準備するか、どこの工場で、だれに作らせるか。原料や資材はどこからもってくるか。また限られた資源やエネルギー、食料などさまざまなものをどのように配分するかなどなど戦争を遂行し、国民生活を維持するために、細かな計画が必要になります

東京書籍「日本史A」P130

国家全体の経済状態を的確に把握し、計画的に人員や物資、食料などを配分するのです。例によって無理ばかりをいってくる軍部、実際に工場や鉱山をもっている財閥など財界との連絡・調整も必要になります。
こうして戦時統制経済と呼ばれる計画経済がすすめられました。総力戦体制下においては、軍人だけでなく、経済活動を統制する官僚、いまの経産省の役人みたいな人の力が大きくなりました。こうした経済官僚の代表が戦後総理大臣となった岸信介、安倍総理大臣のお祖父さんです。こうした仕事を中心になって行う企画院という機関が、日中戦争開戦の直後の1937年に作られました。
電力管理法によって民間の電力会社の合併が強制され、中小企業の統廃合などの整理もすすめられます。
しかし、「よこせ、よこせ」という軍部、自分たちの利害を守ろうとする財界の中で、困難な作業がすすみました。

「国家総動員法」と強制連行

総力戦体制をおしすすめる中心となった法律が、1938(昭和13)年に制定された国家総動員法です。この法律は、政府が自由に国民を戦争に動員してもよいと認めています

1939(昭和14)年には、此の法律に従って、国民徴用令が出され、政府は職業・年齢・性別を問わずに国民を必要な工場などに派遣できるようになりました。これを徴用といいます。最初は特定の技術を持つ人などに限定されていましたが、太平洋戦争の時期になると、未婚女性による女子挺身隊、生徒・学生を動員する学徒勤労動員などのように拡大されていきました。
ぼくの父親は中学時代は干拓事業などにかりだされ、大学時代は軍艦の建造などに動員させられました。母親は軍需工場で飛行機のエンジンの軸受けのやすりかけをやっていました。

朝鮮半島における「強制連行」    ~ある在日コリアンの体験から

朝鮮半島や台湾は、日本統治下、外地とされて明治憲法や他の国内法は適用されていませんでした。ですから徴兵などは行われていませんでした。
かれらが、どちらに銃口を向けるかが心配だったのです。しかし日中戦争が厳しくなって、兵士不足が深刻になると、1938(昭和13)年には志願兵制が導入されます。志願兵というものの、京都にある立命館大学では志願しない朝鮮人学生を除籍処分にするなど、強制の要素が強いものであり、1943(昭和18)年には朝鮮で、翌1944年には台湾でも徴兵が実施されました。
このように、国内法が適用されない朝鮮半島でも、国民徴用令は適用されました。

奈良県・野迫川村の金屋淵鉱山立里鉱業所に残された朝鮮半島出身の労務者名簿(「戦争責任ドットコム」http://www3.kcn.ne.jp/~eatyhiro/new_page_12.htmより

ぼくは、一度高校生たちと、強制連行された方の体験談を聞いたことがあります。
その人は、畑で働いていたところ、無理やりトラックに乗せられて日本に移送されたと言う話をしておられました。同じ命令であるとはいえ、日本国内とはやり方がかなり違っています。連れて行かれた夕張炭鉱でも、強制連行された朝鮮の人は一番危険な場所で働かされたそうです。この方は、あまりのひどさから脱走し、その後、別の炭鉱や工事現場で働いたとのことです。同じ炭鉱労働でも、募集という形で採用されると待遇は大きく違ったといっておられました。
実は強制連行で日本に来た人の話を聞くのは難しいのです。強制連行でやってきた人は戦争が終わると大部分がそのまま帰国したからです。この方の場合は、脱走し、日本で生活の基盤を作っていたので帰る機会を失われたということでした。

従軍慰安婦~「すてられた女たち」

少し話がはずれるかもしれませんが、さっきでてきた「女子挺身隊」という言葉は、現在韓国で別の意味で用いられています。よくニュースで取り上げられる「従軍慰安婦」という意味でです。なぜそうなったのかという話をしてみたいと思います。
日本軍は戦場に兵士たちの性の処理をするための女性たちをつれて行きました。ニュースなどで聞くこともあるでしょう。従軍慰安婦といいます。
前の時間みたように南京攻略戦の中で兵士による強姦事件が多発した話をしました。またそれに伴って性感染症も広がりました。軍部はこれを大きな問題と考え、兵士たちの性の処理をさせる女性を送ることを決めました。そして軍の管理下において、避妊具の装着や軍医による検査などで性感染症の蔓延を防ごうとしたのです。しかし、これによって強姦事件が減少したということはありませんでした・・。

送られた女性たち、最初は日本から渡った人が多かったのですが、戦争が拡大すると女性が不足します。国内では、乱暴なやり方で集めるわけにはいきません。「聖戦」なのですから。そこで目がつけられたのが朝鮮半島の女性たちでした。さまざまな手段が用いられたといいます。そうした口実のひとつが「日本国内での『女子挺身隊』として軍需工場で働く事に応募しないか。給料も高いから」といういい方でした。そのつもりで応募したところが慰安婦だったという例が非常に多かったので、韓国では「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」が同一視されることが多いのです。日本から行った人の多くは仕事の内容をある程度分かっていたと思われますが、朝鮮半島出身者は仕事の内容も知らされず、だまされてつれて行かれた人が多く、年齢が若い人が多かったのです

しかも、日本出身者と朝鮮半島出身者では、相手させられる軍人の身分も人数も、そしてその施設も、置かれた場所も大きくちがっていました。しかしどちらの人びとも自由を与えられない「戦時性奴隷」としての立場に置かれていたのです。中国などでは誘拐同様の手段で連れてこられた現地出身の慰安婦たちもいました。
こうした人たちは、出身のいかんをとわず一切補償がなされませんでした。また、こうした経歴は、どこの国でも恥ずかしいこと、隠すべき事と考えられていたため、兵士たちの口から語られることはあったものの、当事者の口から語られることはめったにありませんでした。

タレントの美輪明宏さんは、ふるさとの長崎で引き揚げてきた元慰安婦の人たちからよく話を聞いたそうです。そしてその話をもとに「戦争と女たち~従軍慰安婦の歌」という曲をつくりました。聞いてみましょう。
利用されるだけ利用されてすてられた女性たち、それが従軍慰安婦たちでした
1990年ごろ、韓国のある元従軍慰安婦の方が声をあげ、それをきっかけに韓国や台湾、中国など各地でもと慰安婦の方が声をあげはじめました。
他方、それまでわずかではあっても聞こえてきた日本人の元慰安婦たちの声は聞かれなくなってしまいました。

戦争に疑問を持つものは「非国民!」 ~国民精神総動員運動

話を戻します。
総力戦体制、あるいは国家総動員体制、こんな体制、みんなよろこんで協力すると思いますか。
やっぱりスイーツは食べたいし、おしゃれもしたい。配給なんかはいやだし、楽しく生活したい。それが本音でしょう。
しかし、そんなことでは総力戦体制はつくれない。
さて、こういうなかで、総力戦体制をつくるには、どういったされそうですか。もう一度、聞いてみましょう。
なにが必要?
「・・・」
ちょっと難しいか。君がケーキ屋さんでケーキを作り続けたいと思った。こういった状態の中つづけられますか。
「無理!」「買ってくれる人がいない」「まわりの目が怖い。」「捕まるかもしれない」。
そうですね。自分も、まわりの人も、国の方針に逆らうことができなくなってきました。逆らったら、何が起こるか分からない。子どもがいじめられたりもしかねない。こうした「空気」が作られました。「空気を読んで」政府の方針を先取りするような人も現れます。

配給に並ぶ人びと 東京書籍「日本史A」P143

戦場で戦っている人に申し訳ないと思わないのか!」「戦死した英霊に顔向けできるのか!
軍部や政府だけではない。そう、まわりにいるフツウの人たちが、戦争に協力しない人への「いじめ」を始める。「いじめ」は伝染する。「いじめ」なければ自分もいじめらうれるひどい時には配給の量を減らさすいういじめも受けます。
戦争にわかりやすい協力をしない人は非国民!戦争に反対する人は非国民!そうした人間は配給を減らされても当然。こうした「空気」が蔓延します

「パーマネント嬢、敵蒋さんに好かれます」
帝国書院「図説日本史通覧」P277

パーマをかけている人、きれいなファッションに身を包んでいる人は「国防婦人会」のおばさんたちに取り囲まれて、「兵隊さんが戦っている時にそんなカッコをしているなんて非国民!」といわれ、警告カードが渡されるようになります。
政府は、こうした動きを積極的にすすめていきます。日中戦争がはじまると近衛政府は、「国民精神総動員運動」を開始しています。町中に「進め一億火の玉だ」「ほしがりません勝つまでは」といった標語が掲げられ、出征に際しては国防婦人会などを中心とした盛大な行事などをおこない、戦死者がでれば市町村が主催する合同葬儀が行われる。こうして戦争ムードを高めていきました。学校では神社参拝皇宮遙拝といった行事がふえました。
月に一度の「興亜奉公日」には「日の丸弁当」しかもってきてはいけないといわれました。日の丸弁当、米と梅干しだけの弁当ですよ。ぼくの祖母が子どもたちがかわいそうだからといって、おかずを入れたら、先生からこってりと怒られたという話も聞きました。

ゼロ戦と原爆~戦争に奉仕する科学技術

科学や技術、さらには学問の内容も、戦争の勝敗を決めます。

このころになると、飛行機が戦争の中心となってきました。しかし日本の飛行機は仮想敵国であったアメリカより性能が劣っっていました。戦争になれば負けてしまう、それが軍部の悩みの種でした。そのため、優秀な科学者や技術者が集められ、開発されたのが世界最先端の戦闘機ゼロ戦でした。アメリカとの戦争が始まると、ゼロ戦はアメリカ機を圧倒しました。科学・技術を戦争目的で結集し新兵器を作ることも総力戦の一環です。アメリカはゼロ戦の性能の良さに困ったみたいです。そこでどうしたか?弱点をみつけることと、ゼロ戦の技術をパクろうとしました。不時着したゼロ戦を手に入れると、徹底的に分析・研究をおこない、ゼロ戦の技術を取り入れた新しい飛行機を開発しました。ゼロ戦の弱点である防護能力のなさも改善して。それを巨大な工業力をフル稼働させ大量生産したのです。こうしてゼロ戦の優位は奪われました。
パイロットの技術もさることながら、相手を徹底的に研究し、新しいものを素早く開発し、大量に生産する、こういった国家の総合力が勝敗を決するのです。
アメリカの原爆開発に、アメリカのみならず世界の頭脳が結集されたことは、学問や科学・技術を戦争目的に利用したと言えるでしょう。

「青い目の人形」~敵視する日本、研究するアメリカ

日本はアメリカとの戦争が始まる前から、アメリカへの敵意を強め、戦争が始まると「鬼畜米英」などといって、アメリカのことを学ぶことも、英語を使うことも禁止するようになります。

帝国書院「図説日本史通覧」P277

 野球などでも英語が使えず、ストライク・ボールは「よし」「だめ」という風になります。ジャズやクラシック音楽の多くも敵性音楽とよばれ、聞くことは「非国民」とされ、レコードは次々と処分されていきました。
 みなさんは聞いたことがないかもしれませんが、「青い眼の人形」という童謡があります。ちょっと聞いてみましょう。
1921(大正10)年に野口雨情が作詞した歌です。1927(昭和2)年、日米関係の悪化に心を痛めたアメリカの団体が、日本人の子どもにあげてくださいと12,739体のアメリカ製の人形を贈ってきました。返礼に、日本からも市松人形などがアメリカに送られました。贈られた人形はこの童謡にちなんで「青い目の人形」とよばれ、全国の学校などに贈られ、子どもたちに愛されました。しかし、戦争が始まると、この人形も・・・捨てられ、最後には竹槍訓練に使われたとこさえありました。
でも、それはひどいと考えた人も多く、天皇の写真を祭る奉安殿の中に隠したり、先生たちが自分の家に持ち帰ったりして大切に保管したことありました。ちなみに「青い眼の人形」の歌も、敵性音楽に指定されてしまいました。
「汝の敵、日本を知れ 感想」の画像検索結果

戦時アメリカのプロパガンダ映画「汝の敵、日本を知れ」(フランク・キュプラ監督 1945)

このように、日本ではヒステリックにアメリカやイギリスの文化を排除していました
ところがアメリカではどうだったでしょうか。実は、日本との戦争が始まると、逆に日本研究が盛んになったのです。日本語を勉強する人ができ、大学には日本研究の講座が開設され、「日本人はなぜこのような戦争を始めたのか」だけではなく、日本文化研究まで盛んになります。日本敗戦後、アメリカの対日政策がある意味、的確に軍国主義日本の問題点を把握していたのはこのような結果だったのです。日本は、このような点で、すでにアメリカに敗れていました。アメリカが日本をどのように見ていたのか、面白い映像があるので、興味のある人は見てください。
ちなみに、アメリカは日本研究は十分に行ないましたが、朝鮮の研究はなされませんでした。このことが、朝鮮半島におけるアメリカの不適切な占領政策につながり、朝鮮半島での分裂国家の成立や朝鮮半島南部に成立した韓国での軍事独裁政権などにつながったという指摘もあります 。

日中戦争と国家総動員体制~プリントに即して

こんな話ばかりをしているうちに時間がなくなってきました。プリントに即して話を整理していきましょう。①から④まではいいですね。
復習をかねて最初から見ていきましょう。日中戦争の時の内閣は・・・「第一次近衛内閣」。ですから①は近衛文麿。日中戦争のきっかけとなったのは・・・「盧溝橋事件②は盧溝橋。③のところは、その時期の中国側の様子です。国民政府と共産党が手を結ぶきっかけとなったのは・・・「西安事件」。③は西安、です。1937年12月に日本軍が占領した中国の首都は④南京、でしたね。注の所に南京大虐殺のことが書いてあります。そのあとの「点と線」については次の時間にまわします。

東京書籍「日本史A」P131

次からが今日やったところです。①の近衛内閣が人びとの気持ちを戦争に向けるためはじめたのが⑤「国民精神総動員運動」そして、総力戦体制をつくる中心となった法律が⑥の国家総動員法です。「政府が自由に国民を戦争に動員できる体制をつくりました」と書いておきました。政府が必要と思ったら、人びとを工場に送り込むことも、財産を取り上げることも自由になったのです。そしてそれを具体化したものの一つ⑦の国民徴用令、です。なお、これが「国民徴用法」ではなく「令」であることに注目してください。もはや議会の承認は不必要となり、このような人権にかかわる命令を政府の一存で出すことが可能になったのです。その根拠は、さっきの国家総動員法です。これは、議会で承認されたものです。これにより議会はこのように重要な命令すらスルーさせてしまうことになりました。国家総動員法の可決は、「議会の自殺」という性格を持っていたものです。

帝国書院「図説日本史通覧」P282

そして戦争規模が拡大するにつれ、統制経済が進んだのははなしたとおりです。プリントにあるように「砂糖やマッチなどの切符制」、家族の数にしたがって一定の数しか買えないようになります。そして米は・・・⑧「配給制」でしたね。こういったものが実施されます。

現代の戦争と「総力戦体制」

今日はおもに総力戦体制の話をしました。近代戦争はつねに総力戦体制が必要になります。現在においても、戦争の準備が必要と考える人たちは、早い時期、総力戦体制をつくっていこうという思いに駆られます。たとえば、戦争がはじめれば、財産とか人権も制限しなければならない。これまでの法律、とくに憲法の原則と対立する場合がある、それにむけて、国家総動員令のような法律を準備しておく必要があるというのです。

1943(昭和18)年、東京・有楽町日劇に掲げられた巨大ポスター
帝国書院「図説日本史通覧」P276

こうした動きに反対する人たちもいるので、戦争に反対する事が難しくなるような「空気」をつくりだそうとしているのでないか、という言動が行われることもあります。
日中戦争の頃のことを考えてみましょう。この時期になると、戦争反対とか、自由を守れということが言いづらくなっていました。こうした状態は、かなり早い時期から始まりました。
「戦争反対」が、非現実的だとか、卑怯だとかいわれ、そういう主張をすると「怖い目にあうのではないか」という「自粛」の雰囲気が広がり、ついには「非国民」と仲間はずれにされたり、いじめをうけたり、家族が辛い目にあわされたりするようになり、自分の思いは小さな声で人に聞かれないように話さなければならなくなったのです。そして、ついには自分の子どもが戦死しても悲しむさえ許されない社会になっていくのです。
戦争をはじめるためには、戦争に反対したり、疑問視する人を黙らせようとする所から始まるのです。
人びとが自由に自分の意見を話せない社会、それが総力戦体制の出発点です

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